多様化と均質化が同時に進行してしまうネット社会
メチャクチャマイナーな存在まで入手可能にするネットインターネットの普及は膨大な量と種類の情報を一般大衆のレベルにまで入手可能なインフラを作り上げた。かなりマニアックなことでもGoogleでチョコっと文字列を入力すれば、一気にその情報を誰でもがカンタンに引き出すことが出来る。一例を挙げてみよう。僕の趣味のひとつはワインだが、現在ハマっているのがまだあまり知られていないポルトガルのヴィーニョ・ヴェルデという弱発泡系の早摘みワイン。最近はかなりあちこちで見られるようになったが、そのほとんどは白かロゼ。赤を市場で見ることはない。というのも現地ポルトガルでも赤はマイナーな部類で、主にヴィーニョ・ヴェルデ産地のポルトガル北部で楽しまれているといった具合だからだ。でも、手に入れることが出来る。それは赤を輸入している業者がたったの一つだが存在しているからだ。輸入しているのは「崖の上」というネット販売業者だが、こんなマニアックで「マイナーの中のマイナー」なワインをこの業者が輸入販売している理由は簡単。販売業者のオーナーがこのワインの熱狂的なマニアなのだ。つまり本来は繋がることがないマニアックなワイン業者とマニアックな僕というきわめてどマイナーなマニア=オタク同士がネットを介して繋がってしまっているのだ。これはおそらくネットというインフラがなければ絶対に不可能だろう。
ネット社会は多様化を生む?こういったエピソードが象徴するのは、要するにネット社会が個々のトリビアでマニアックな嗜好に対応しているということ。そして多くのネットユーザーたちがこの恩恵にあずかっているということ。だがネットユーザーとは、もはや日本人のほとんど。ということは、それぞれがそれぞれの細分化された好みに応じてネット上で情報を検索し、その結果それぞれの嗜好が満たされ、どんどん嗜好が細分化されていくということになる。つまりネットは嗜好や価値観を徹底的に細分化・多様化していくのだ。
ということは、われわれはこれからどんどん多様化して、いつかは接点を失ってしまうのではないのか?と考えたくもなる。確かにそうだ。ネットで自らのトリビアな嗜好を満足させ続けていれば、近隣で、つまり対面的な場で同好の士を見つけることなど限りなく難しくなるのだから。その内みんなバラバラになるに違いない?(で、同好の士は専らネットを使ってのみ探し出すなんてことになるんだろう)。
いや、実はそうではない。多様化というのは、実は均質化と必ず同時進行するのだ。このことを社会学者の故中野収は「超管理社会化」という言葉を用いて、なんと二十年以上も前に予測していた。じゃ、多様化と均質化の同時進行とはいったいどういうことなのか。
多様化に伴う均質化1:ポータルによるネタの入手情報化、ネット化がもたらす均質化の側面については二側面が考えられる。
一つはポータル・サイトへの依存だ。あなたはパソコンでブラウザを開くとき、どのサイトを最初のページにしているだろうか?つまり、ポータルサイトにしているだろうか?あるいはスマホでブラウザを開くときメインにしているブックマークはどれだろうか?おそらくその多くがYahoo!JapanのホームページかGoogleの初期画面あたりではなかろうか。またスマホだったらブラウザ以外に、やはりこのYahoo!のアプリやGunosyあたりをブックマークしチェックするのではなかろうか。これらポータルや情報をチェックするアプリの頻用、実はインターネットが押し進める多様化・細分化と一対になっていると考えられる。
それぞれが、それぞれの嗜好に応じて情報にアクセスすれば、個人の情報に対する欲望を十分に満たせるようになる反面、前述したように相互の関心はバラバラになる。だが、こういったシチュエーションはわれわれを困った状況に陥れる。一般社会に暮らす限り、われわれは多くの人間と関わり合う。その際、当然コミュニケーションを成立させるためのメディア=ネタが必要だ。仕事であれば仕事のやりとりで交わす内容がコミュニケーション・メディアとなるが、通常、そういった利害関係のない人間との関わりの中では仕事の話はもちろんしない。また、細分化した嗜好を持ちだすこともしない。関心が全く異なるので、ネット仕込みによって細分化された情報は「ネタ」にならないのだ(やれば「空気が読めていない」と、気持ち悪がられるか呆れられるのがオチだ)。だから、当たり障りのない話をコミュニケーションのネタ=潤滑剤として持ち込まなければならない。で、共有するネタの源がこういったポータルやとりまとめアプリが担うのだ。
そして、こういった「当たり障りのないネタ」は、細分化が進めば進むほどナマのコミュニケーションの場において、かえって重要になってくる。時事ネタ、政治ネタ、芸能ネタなんてのは、まさしくこういった「実質的にはネタ的にコミュニケーションの接点のない人間同士」をつなぎ合わせる重要なツール=メディアとして機能しているわけだ。だから僕らはヤフーのポータルをひっきりなしにチェックする。
ちなみに、こういった機能はもはやオールド・メディアと化しつつあるテレビも同様で、テレビも報道や情報についてのプログラムを増やしているのは、おそらくこういった事情によるのではなかろうか。もはやドラマをやってもさしたる視聴率はとれない(「半沢直樹」や「あまちゃん」のように、これらがいわば「時事ネタ」としてネット上にまで賑わいを見せるということになれば話は別だが)。ただし、それでもやっぱり、われわれはテレビを見る。その理由は、言うまでもなく、こういった当たり障りのないネタを狩猟するためだ。それが佐村河内であり、小保方であり、橋元であり、石原であり、中国問題であり、韓国問題であるというわけだ。これらはコミュニケーションにとっては格好の潤滑剤、いやガソリンなのだ。
ちなみにこれは概念的に説明するとプル・メディアとプッシュ・メディアと言うことで説明が付く。嗜好が細分化された情報はいわば「プル・メディア」、つまりこちらが情報を積極的にアクセス(探しに)に行く情報。当該情報に対する強いモチベーションが必要で、いいかえると好みが分かれるわけで、その情報に強いモチベーションを抱く同好の士はきわめて少ない。だからコミュニケーションの地平をほんの一部しか開かない。一方、ポータルやテレビの報道は「プッシュ・メディア」。サイネージのように、いわば多くの人間に向けて垂れ流し的に情報を流し続ける。だから、プル=とりに行く、ということをしなくてもスイッチ一つで勝手に入ってくる。だから、みんなが見ていて、だから、ネタになる。
だが、それは翻って、「当たり障りのないネタ」については、どんどんと認識の均質化が進むと言うことでもある。心理的な側面から考えれば、あまりに細分化されたい領域に入り込んでしまったため、他者とコミュニケーションがとれない。そこで、強迫神経症的にポータルとしているサイトにアクセスし、この情報を他者とやはり強迫神経症的にやりとりすることで、自分が対面的なコミュニケーションの場面においても他者と繋がっていることを確認するのである。つまり細分化が均質化を同時進行させる。
多様化に伴う均質化2:システム化=超管理社会化が、あなたの身体的動きを均質化するもう一つの均質化は、この細分化・多様化を徹底的に推進するネット=情報化社会のフォーマット=インターフェイスの一元化に伴う行動一般の均質化といった現象だ。メディアは原則的には情報を伝達するための手段=媒体だが、メディア自体も情報を備えている(これを「メディアのメッセージ性」と呼ぶ)。それはメディアの持っている特性=クセで、そのメディアを利用することで、利用者であるわれわれはそのメディア特性=クセを身につける。そして、それが結果としてわれわれの情報行動、思考スタイルを知らず知らずのうちに規定してしまうという側面を備えている。
おそらくその中で、近年、最もドラスティックにわれわれの様々なライフスタイルを変容させてしまっているのがスマホだろう。スマホはそれまでパソコンの中に閉じ込められていたインターネット環境を持ち歩く、つまり身につけてウェアラブルなものにすることを可能にした。そして、われわれは朝から晩までスマホの小さな液晶画面と睨めっこすることになったのだ。スマホのアラームに起こされ、朝食をとりながら電車の発車・乗り換え時刻を確認し、音楽を聴きながらニュースをブラウズして通勤し、その間にスケジューラーで今日の仕事を確認する。で、メールをチェックし、SNSを眺めて一言つぶやきなんてことをやっていると、今度は電話がかかってくる。ちょっと疲れたらヒマつぶしにゲームに興じ、楽天やAmazonに入って気に入った商品をポチる。家に帰ってきても同様だ。最後は寝床でスマホをいじりながら眠りにつき……そして翌朝スマホに起こされる。おそらくスマホ所有者の多くがこういったスマホ利用をやっているだろう。もはや日常生活には欠かせないわけで、紛失したり、壊れたりした場合には2日としないうちに修理するか、新しいものを購入する。
で、気がつけば不思議なことが起きている。電車の中にいる人間の半数近くが、あの小さな画面と睨めっこしているのだ。かつてだったら本や雑誌やマンガをよんでいたり、誰かと話をしていたりといった状況に遭遇するのが普通だったが、今やそんなものは駆逐されつつある(そういえば電車の網棚にマンガや新聞が捨てられているというのをとんと見なくなった)。つまり、みんながみんな「スマホライフ」をはじめたのだ。そして、前述したような1日を誰も過ごしている。そう、僕らのライフスタイルはスマホというメディアでフォーマット=均質化されてしまったのだ。
情報化が織りなす均質化した空間と均質化した行動もちろん、こういった均質化の側面はインターネットとスマホだけが押し進めているのではない。情報化は流通の側面でもかつてから進んでおり、システム化が進展して、今や日本はチェーン店ばかりで構成された街並みが出来上がっている。AEON、TSUTAYA、セブンイレブン、ヤマダ電機、ニトリ、マクドナルド、ユニクロ、松屋・すき家・吉野家、ケンタッキーフライドチキン、ミスタードーナツ……ひたすらのっぺりとした均質化空間が出来上がっている(三浦展はこれを「ファスト風土化」と読んだ)。
こういった空間の均質化を情報化に伴う流通の合理化が推進したのだとすれば、スマホによるインターネット環境の遍在は、われわれの頭の中の、そして行動の均質化を推進するはずだ。もちろん、同時にものすごい多様化を加速度的に推進しながら。
内容=コンテンツの多様化、形式=フォルムの均質化。これこそがインターネットとスマホが押し進める情報化の正体なのだ。 |
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