デザイナーをやめてAV会社に転職した(前編)

 

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23歳1990年生まれの生粋のゆとり世代

専攻は千葉にある工学系のデザイン大学でUIだのUXだの結構胡散臭い分野をやっていたと思う。サブカルだデザインだって明け暮れてたのもこの頃で、リーマンショックだなんだので13卒の就職活動は最悪だったと覚えている。リクナビで80社ほどエントリーして一日2,3件の説明会と面接をこなし、交通費を捻出するためのバイトに明け暮れ、現実にボコボコに打ちのめされた後、不動産という業種についてしまった。まさかデザインの勉強してたのに不動産と周囲の目線が痛かった。同期はCAとかGREEとか個人のデザイン事務所でアシスタントやったりとかだった。とても卑屈になった感じだった。

 

マセラティだとかマンションだとか

はじめの会社は、俗にいう投資マンション販売というもので一日5〜600本近くの打電をして無差別にアポイントをもらい営業を掛けるというもので、世間一般の迷惑電話のような仕事。きれいなイメージ的には洋画「幸せのちから」でウィル・スミスが株取引仲介会社のインターンでメタクソになりながらバリバリ仕事してる感じ。丁度この頃「マセラティを買う」だとか「株だFXだ」とか意味不明なことを飲む度によく口走ってたのを覚えている。最悪である。良かったことは世田谷の赤堤通りのマンションにタダ同然で住めたことだろうか。必要経費といえばゴルフとか、それにまつわる交遊費とかだったし、酒が飲みたいと言えば、会社がいくらでも飲みに連れて行ってくれたので殆ど自前で金を捻出することはなかった。今時そんな会社は無いと思う。あそこだけがバブルだったのだ…しかし気づいたら会社辞めてた。覚えてない。あっという間だった、引き止められることもなく非常にスマートだった。最後の日に営業部長と世田谷のカラオケスナックに行ったのは覚えてる。謎。良くなかったのだ。ありとあらゆるものがマイナス方向に動いてたのを覚えている。おかげで人生初の帯状疱疹になった。


転職うまくいった

意識が戻ったのは会社を辞めてから1週間後くらいだった。辞めた会社から日割りの給料が届いた。千葉の実家に身を寄せることにしていたので脱出資金として手は付けなかったが、一週間後経堂のパチスロで全部すった。最悪。無職のまま実家に戻っても、親の目とか世間体とか有象無象のソレがあったので真夏の世田谷のマンションでエアコンも付けずにリクナビを見ていた。当然社会人歴半年の新卒なんて取る会社はまず無かった。「最初の会社は死にそうでも3年は頑張れ」という所以はここだろうか。最悪土方でもトラックドライバーでもなんでもいいと思ってた。大型持ってないけど。ところが世田谷のマンションから退去する数日前にある広告代理店から内定を貰った。「PhotoshopIllustrator使える方 未経験者歓迎」の募集を見て、とりあえずmacbookの中にあった学生時代の作品をかき集めてキンコーズで即席のポートフォリオを作ってどうにかした。どうにかなったけど不安だった。正直DTPソフトなんて卒業論文のパネルつくったときに使ったくらいだったからだ。 


広告代理店デザイナー時代

会社は同じく都内だったが、お金もなかったのでマンションを引き払い千葉の実家からしばらく通うことになった。念願のデザイナー。クリエイティブにあふれた生活。デザイナーイズクリエイティブ。輝かしい広告代理店時代、が代理店というよりは社内にお抱えデザイナーがいる営業会社みたいな感じで僕は制作部門に配置された。業種的にはパチンコ・パチスロのチラシとかDMつくったりSPツールとか(さすがに社名バレる)だった。ぶっちゃけイラレの操作方法なんて知りもなかったので知ったかぶりながら、分からないところはSafari開きながら隠れて見ながら作業してた。意外とどうにかなったもので作業スピードは5,6倍くらいにはなった。なにせレイヤーロックやらカーニングすら知らなかったのでえらいこっちゃだった。泣きながら校正出してたことがあるし大の男が泣いてるとかキモすぎて滅茶苦茶だった。トリムずれてたらぶん殴られたりとかしたけど、組織で働くってことを初めて覚え、チームワークだとかミスをいかに減らすかということに注力したりとか。勉強になった。

 

また無職

また、やめました。G5を蹴っ飛ばして出てきたので小指を捻挫した。
仕事が辛いとか寝る時間が無いとかそういうのではなく、僕は黙って仕事をしたかった。いつの日か人格矯正だとか自己啓発だとか、毎朝作文を上司に提出しなきゃならないとか気持ち悪い状況になった。あれがいじめだったのか、上司(彼)の愛情だったのかは解らず仕舞い。ジョージ・オーウェルの小説にある「愛情省で尋問と拷問を受けることになる。彼は「愛情省」の101号室で自分の信念を徹底的に打ち砕かれ、党の思想を受け入れ、処刑(銃殺)される日を想いながら"心から"党を愛すようになるのであった」みたいなエピローグで僕のデザイナーは半年で幕を閉じた。青森でリンゴ農家でもやろうと思った。そう言って2月の寒空の中上野発の夜行列車に飛び乗った。