(英エコノミスト誌 2014年6月7日号)
サッカーは偉大なスポーツだ。だが、誠実に運営されていれば、今よりもずっと素晴らしいものになるはずだ。
リオネル・メッシの魅惑的な妙技やクリスティアーノ・ロナウドの筋肉美は、見ていて楽しいものだ。だが、本誌(英エコノミスト)のような根っからの国際主義者にとって、サッカーの真の美しさは、東から西、北から南まで行き渡るその広がりにある。サッカーはほかのどのスポーツにもまして、グローバリゼーションを糧に繁栄している。6月12日にブラジルで開幕するワールドカップ(W杯)は、全人類のほぼ半数が少なくとも一部を観戦することになる。
したがって、その大会が、決勝戦の会場となる巨大なマラカナン競技場並みの大きな雲に覆われた中で始まるのは悲しいことだ。英サンデー・タイムズ紙が入手した文書には、2022年W杯の開催地に決まったカタールの関係者が、招致レースで勝利するために秘密資金を配っていた証拠が記されているという。
招致レース以外にも、同じような不正がある。国際サッカー連盟(FIFA)の報告書によると、2010年のW杯前に実施された複数の親善試合について不正が認められたという。だが、例のごとく、誰も処罰されていない。
こうなると、ほかの疑問も感じざるを得ない。一体なぜ、真夏の中東でのW杯開催を良いアイデアだと思ったのか? なぜサッカーは、ハイテク技術を活用してレフェリーの判断を再確認するという点で、ラグビーやクリケット、テニスなどのほかのスポーツに比べてはるかに後れを取っているのか?
そしてなぜ、世界最大の競技が、あれほど凡庸な集団の主導で行われているのか? 特に目につくのが、1998年からFIFA会長を務めるゼップ・ブラッター氏だ。ほかの組織だったなら、果てしなく続く金銭スキャンダルにより、ブラッター氏はとっくに追放されているだろう。
だが、それだけではなく、ブラッター氏は救いようがないほど時代遅れに見える。女性に対する性差別主義的な発言から、ネルソン・マンデラ氏を追悼する1分間の黙祷をわずか11秒で中断したことまで、例を挙げればきりがない。78歳のブラッター氏は、まるで1970年代の重役会議室から出てきた恐竜のようだ。
だが、ブラッター氏の5選阻止を目指す動きの中心にいるのがミシェル・プラティニ氏だという点も、必ずしも心強いものではない。プラティニ氏は欧州を代表するサッカーエリートで、かつては素晴らしいミッドフィルダーだったが、カタール招致を巡って嘆かわしい役割を果たしたとされる。
腐りきった卑劣な悪党たち
サッカーファンの多くは、そうしたことには無関心だ。彼らにとって重要なのはビューティフルゲームそのものであって、それを開催するくたびれた高齢の幹部たちではない。それに、不道徳行為は、FIFAに固有のものとは言い難い。なにしろ、国際オリンピック委員会(IOC)でさえ、2002年冬季五輪の招致を巡って、今回のカタールのようなスキャンダルに直面した経験がある(ただし、不正を一掃する取り組みはFIFAよりもずっと大規模だった)。
フォーミュラワン(F1)を率いるバーニー・エクレストン氏は、ドイツで贈賄の罪に問われている。米国のバスケットボール界では、人種差別的発言をしたチームオーナーが永久追放処分を受けたばかりだ。世界で2番目に盛んなスポーツであるクリケットも、八百長スキャンダルに直面している。アメリカンフットボールは、負傷に対する賠償請求に押しつぶされてしまうかもしれない。