5月27日、六本木教会でウォーリー(あえて親しみを込めてそう呼ぼう)の「お別れの会」が催された。当初は3月下旬に予定されていたが、大震災のために延期されていた会だ。
彼は2月下旬にハワイ州ホノルルで前立腺癌のために逝去、85歳だった。ウォーリーを偲ぶ参列者は400人余り、いかに日本人関係者から愛されていたかわかる。
1974年、巨人の10連覇を阻止して、ドラゴンズに20年ぶりのリーグ優勝を齎(もた)した監督であり、そのチームの一員だった私の脳裏にも当時の歓喜がありありと蘇ってくる。
ウォーリーの想い出は1970年に始まる。その年、彼と私はドラゴンズに入団した。といっても、ウォーリーはその10年前に巨人から中日に移籍し、引退後、すぐに打撃コーチになった。その後、他球団でコーチを勤めたが、70年に一軍ヘッドコーチとして復帰したのだった。
私はといえば、ドラフト1位とはいえ、22才の若造である。いろいろ学ぶところが多かった。
その年の1月、合同自主トレが愛知県知多半島で始まった。私はいきなり無知な面を曝け出すことになった。砂浜で、スライディング教室とでも言おうか、走塁の練習が行なわれた。「ヤザワ!ソレ何、すらいでぃんぐデナイヨ。コウスルノヨ」と、たどたどしい日本語で叱られ、自ら滑り方の模範を見事な示してくれた。
3年後、中日の監督のバトンは、名将水原茂から闘将与那嶺要に渡った。その年は3位に終わり、オフに渡米した。アリゾナ州フェニックスの教育リーグに森下コーチ・島谷さん・大島君・私の4人を参加させるためであり、外国人選手を獲得するのも狙いだった。
この渡米が私の一塁手への転向と繋がり、さらに74年の4番打者ジーン・マーチン加入のきっかけにもなった。つまり、巨人に打ち勝って10連覇を阻む伏線の一つになったのである。
ウォーリーは、日本のプロ野球に、スライディングだけでなく、いろいろな新たな技と心を持ち込んだ。当時は、まだまだ古めかしい根性主義の時代で、鉄拳制裁をはじめ、暴力的な言動が心の「熱さ」として高く評価されていた。ウォーリーもじつは熱い男だったが、熱い心の表し方がスマートだった。私も激しやすいほうだったから、ウォーリー・スタイルはじつに新鮮だった。
ウォーリーは常に闘争心を求めた。両チームの乱闘シーンも今ではあまり見られなくなったが、当時は、日常茶飯事とは言わないまでも、頻繁に起きた。ただ、率先して乱闘に加わる者もいれば、そうでなくベンチで傍観する者もいた。ウォーリーのドラゴンズは、トラブルがあればベンチから全員が飛び出した。ベンチに残っていると「罰金だ!」と脅された。
降板してベンチ裏でマッサージを受けていた投手の星野さんが乱闘に加わらずに、ウォーリーの怒りをかったこともある。それ以来、彼はウォーリーの後について飛び出していくようになった。投手として指や腕を大事にしていた星野さんが、「闘」将に変わった契機になったと思う。
想い出すのは75年のことだ。シーズン終盤、ドラゴンズはカープ、タイガースと熾烈な首位争い演じていた。1位の広島カープは初優勝がかかっていたのである。9月10日、カープの本拠地・広島市民球場で直接対決となり、5対2で我々がリードしていたが、9回裏に1死1、2塁で、三村君が2塁打を放ち、一気に5対4と1点差に追い上げられた。
ここで、星野さんが降板。リリーフの竹田君が次打者を三振に切ってとって2死。さらにストッパーの鈴木孝政君が、山本浩二さんに対した。
浩二さんはセンター前にヒットを放ち、2塁から三村君が本塁に突っ込んだ。この時、新宅捕手のタッチが走者の顔面に激しく当たり、吹っ飛んだ三村君はアウトで、ゲームセット。
三村君は激怒し、新宅捕手に摑みかかった。私は選手会長だったから、すぐに1塁から駆けつけた。だが、「熱い」広島ファン約500人がグラウンドになだれ込んで、収拾がつかなってしまった。星野さんがカープ主力の衣笠・大下両選手に死球を与えていたせいもあったかもしれない。なにしろ、スタンドから「星野を殺せ!」などという物騒な怒号と、ビールどころか瓶そのものが飛んで来た試合だった。
日頃のウォーリーの叱咤のせいか、すぐに逃げ出さなかった中日の選手6人とコーチ4人負傷させられ、私もその1人だった。利き腕の左腕打撲で1週間の治療が必要になった。負傷した6人はすべてこの試合で活躍した選手だった。あるいは狙い撃ちにされたのかもしれない。
翌日の試合は、広島球団が「安全な警備をする自信がない」と述べて、前代未聞の中止になった。けっきょく、レギュラーの野手4人とエースの負傷も響いて、中日は2連覇を逃し、この年は広島が初優勝した。
権藤博氏(当時コーチ)が弔辞でふれたが、或る日、ウォーリーが包帯の巻かれた足に引きずって球場にやってきた。眠っていて、足の親指を壁にぶつけたという。おそらく夢の中でも闘っていたのだ。そういう闘将だった。
私はウォーリーに一番叱られた選手だったかも知れない。不調の時には途中で交代させらることが何度もあり、ベンチで黙然(もくねん)としていると、試合後のミーテングで全選手の前で叱責された。「ヤザワ!アナタヲ見テイタヨ。気持チ変エルノ遅イネ。ソンナ選手イラナイノヨ」
ところが、私が帰宅した頃合いに電話が掛かってくる。「皆ノ前デ叱ルノ、ちーむノ為ネ。分カッテクレルネ」。
私が故障した頃、ウォーリーは他球団のコーチになっていたが、「Yazawa!Never give up !」とくりかえし激励してくれた。自身の生き方が「NEVER GIVE UP」だったのだと思う、なにしろ日本プロ野球で38年間もユニフォームを着続けたのだから。Praying hands(合掌)
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感動しました!
私は”中日の監督”と言われたら、真っ先に浮かぶのがウォーリーさんです。ウォーリーさんがいなくなって本当に寂しいです。
素晴らしい記事、ありがとうございました!
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プロフィール
名前 谷沢健一 KenichiYazawa
生年月日 1947.9.22
出身地 千葉県
出身校 習志野高〜早稲田大学
在籍球団 中日 背番号 41
投打 左投左打
通算成績
安2062/本273/点969/率.302
1987年引退
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