夢と目標の違いって何だろう、みたいな話はよく聞く。
大体の場合、目標は達成されるべきもの、夢は達成されないものというような話で片がつくけど、にも関わらず目標と夢の切り分けについての誤謬は放置され続けているのではないか。なんてことを今、ふと思いついたのでメモ。
達成されるされないというのは、その難易度によって分けられるべきものではないのだ。ここついての認識に誤りがある。
難易度で分けられるのではないのだとしたら、どういう分けられ方をするべきなのか。抽象度の問題だ。
例えば云千万円稼ぐとか、◯◯の職業に就くとか、そういうのは全部目標だ。夢じゃない。この主張には根拠なんかなくて、そうしておいたほうが好都合だからというのに過ぎない。
夢が達成されることは一見喜ばしいことのように思えるけど、こういう話を読むに、夢は達成されないほうが、それを抱く人にとっては好都合なんじゃないかと思えてならない。夢による効用はそれが達成されたその瞬間に霧散してしまう。達成される瞬間以前においてのみ、その瞬間を目指すための原動力たりうる。
薬物依存の話でよく言われる「マイナスをゼロに戻しているだけで決してプラスにはならない」みたいな話。これは夢にも言える。走り続けるために必要というだけで、それが達成されてしまうと人は動くための原動力を失ってしまう。どこを目指せばいいのかわからなくなって、動くことが困難になってしまう。
だから、夢は夢で在り続けるのが望ましいと言える。
そのためにはどうすれば良いのか。夢として設定するものの抽象度を上げることだ。
例えば金についてなら、具体的に数値を設定するのではなくて、金持ちになる程度にしておくのが良い。具体性がなければ動く気にならないというのなら、その過程として具体的な数値を伴う「目標」を設定すれば良い。更にその先に大きな目指すところがあれば、その過程にある目標が達成されることは着実な前進として認識され、燃え尽きどころかさらなる燃焼のきっかけとなる。
具体性・抽象性の切り分けよりも、欲求と欲望の枠組みで捉えたほうがよりわかりやすいかも知れない。
「欲求」とは、特定の対象をもち、それとの関係で満たされる単純な欲望を意味する。たとえば空腹を覚えた動物は、食物を食べることで完全に満足する。欠乏ー満足のこの回路が欲求の特徴であり、人間の生活も多くはこの欲求で駆動されている。しかし人間はまた別種の渇望をもっている。それが「欲望」である。欲望は欲求と異なり、望む対象が与えられ、欠乏が満たされても消えることがない。…動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。
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動物的な欲求の充足は、「生き物」としての満足をもたらし、生の本能の喪失へ繋がる。それでは困る、というのなら、より人間的な欲望を起点にしてしまえば良い。そもそもが決して満たされることのないものなのだから、燃え尽きることもない。終着は欲望の喪失のみであり、言い換えればそれは人としての死なのだから、それで何か困るようなこともない。
トートロジーじみてはいるけど、こういう捉え方をしていたほうが都合は好いように感じる。
飽くまでも良いではなく好いであって、これで幸せになれるというような話ではないってことだけは注意したほうが良いかもしれない。