ハワイの土を踏み帰国した最初の日本人は広島県人【漂流記あり】
ハワイというと、多くの人が憧れる旅行先であり、
海を満喫できる南国で、リフレッシュするには最高の場所です。
そんなハワイへ初めて行き、帰国した日本人は誰か。ということに、
不思議と興味が湧くのは私だけではないはずです。
私は故郷である広島県東広島市にある「安芸津町」について調べ、
安芸津のことをまとめたサイト「安芸津よし」を作っていきたいと行動しているのだが、
調べていると、「善松漂流記」というのが目に止まった。
そこでなんと、初めてハワイに行って帰国した日本人は
安芸津町の木谷に居たことが分かった。
これは安芸津に住んでいる多くの人が知らない事実である。
安芸津で育ったことが今まで以上に誇らしくなり、
・安芸津人
・東広島市民
・広島県人
・ハワイが好きな人
など、ひとりでも多くの人に知ってもらいたく、こうして文字を打っている。
そのことが書いてある本を読んでいると、
遭難をして、助けられ、ハワイに辿り着いた経緯が伝わってくるのだが、
これが本当に過酷な状況だったということが分かる。
この時代の30代と
今の時代の30代とでは
色んな意味で格が違うと痛感させられた。
以下、2冊の本から得た内容を抜粋させていただいたので、
長文ではあるが、その時代を思い描き、この事実を知ってほしい。
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善松漂流記
1 船出まで
江戸時代も18世紀後半以降になると沿岸海運が発展したことにより、
漂流の件数が増加したが、半面では漂流・漂着民の送還体制が、
外交通商関係を結ぶ国との間で整備され、海外からの帰還の機会も増えた時期でもあった。
今回紹介する木谷の善松も、そのような体験をした一人である。
善松は文化3(1806)年正月に遠州灘(静岡県沖)で遭難している。
同じように遠州灘で遭難した人に、有名な大黒屋光太夫(天明2(1782)年12月遭難、
8か月後にアリューシャン列島漂着)や浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ(嘉永3(1850)年冬遭難、
アメリカ船に救助される。)がいる。
流された方向は違っても同じ場所であり、
冬の遠州灘は大変危険な海域であった。
彼の乗った船は木谷の元屋(光保)万助所有の稲若丸(500石積)で
乗組員は木谷浦住人の
沖船頭 新名屋 吟蔵 33歳
親父役 (市後)貞五郎 53歳
水 主 (平原)善松 33歳
同 (赤崎)松次郎 34歳
同 (湯盛)嘉三郎 31歳
大崎東村住人の
同 和三蔵 37歳
の6名である。
稲若丸は文化2(1805)年11月7日に木谷から岩国へ向かい、
そこで岩国藩御用の積荷(畳表、畳床、馬の飼葉)と
岩国御船手方(注)の二ノ宮惣次郎と文右衛門の二人を乗せて
11月20日に木谷へ帰着し、
6日間の休みの後11月27日に木谷を出帆した。
この善松の漂流記は「夷蛮漂流帰国録」として
木谷の大成景幹氏(当時、木谷村の重松八幡神社宮司)が
昭和11(1936)年に筆写したものを参考にした。
このほかに、三原図書館や尾道市の天野家など二、三の異本があると聞いている。
また、芸藩通志(1825)にも関連の記事がある。
(注)「岩国吉川士卒階級表」によれば
「船手組」という階級があって、
それには「57人あり、40石より1人扶持3石まで」の記述があるので、
その中の積荷監視の下級役人と思われる。
2 船出から帰国まで
文化2(1805)年11月27日に木谷を出帆した
稲若丸が途中で遭難して帰国するまでを月日を追って説明する。
なお、要点のみの記述なので、生死の間をさまよった過酷さや苦悩が
文言に表れないが、読む人の想像力で補ってほしい。
文化2(1805)年
11/27 木谷浦を出帆。
12/21 江戸品川へ着き、24日と25日に荷揚げする。
12/27 品川を出帆し、金川(神奈川)へ着く。
文化3(1806)年
1/ 1 金川を出帆し、浦川(浦賀)へ着く。
1/ 5 浦川を出帆し、伊豆の国下田浦へ着く。
1/ 6 下田浦を出帆。遠州灘を渡る途中に
大雪、みぞれとなり、東風激しく大雨になる。
後、大西(強く激しく吹く西風)となり東に吹きさらわれ、
8人が数多の神々に献上品を誓い祈る。
1/ 7 西風強く、海神へ命乞いの願を立て、帆柱を切り、髪のもとどりを切る。
1/11 風少し和らぐ。山二つ見る。日本の果ての「鳥かす島」か。
1/20 水をきらす。
1/23 夜に雨が降る。橋船(伝馬船)で雨を受け、7〜8荷の水を得る。
2/28 最後の糧米、米5合を粥に炊き、この世のいとまごいをし、
嘆き悲しみながら食べる。以後は、わらを噛み、裃ひとそろいを潮で洗い食べる。
また、網に付着したあおさなどを食べる。
3/15 つばさ魚1匹飛び込み、これを味噌汁にする。
この魚のわたで釣りをする。ぶりが2匹釣れ、
1匹はさしみと味噌汁にし、もう1匹は干物にする。
3/20 未明にオランダ船に助けられる。この船は本朝国(中国)へ通う商船で
ワヘイ国籍とのことであり、遠眼鏡で見つけ、三日がかりで走りつけたという。
5/ 5 ワフ国へ着く
(暖国で四季の区別がないとあるのでオアフ島のことか。
なお、ここで逗留中に見聞したワフ国の人、家、言語、着物、動植物、
食べ物、人情など詳しく述べているが省略する。)
8/15 今日は我々の国ではお祭りなのに何千里の果てに来て、
このようなあさましい住まいをするものだと嘆いているところへ、
メレケン船(米国又は外国)が来て、しきりに乗れというので
人々と別れるのはつらかったが乗船した。
8/17 出帆。
10/17 マカホ(中国、広東省)に着く。
10/20 本朝国の城下に着く。逗留中に大王の招きを受け、御所車に乗って登城し、
ごちそうになる。滞在中、町中を見学する。
12/17 広東川を下る。
12/24 マカホに着く。
12/25 親切にしてくれたメレケン船と別れ、マカホ船に乗り換え出帆する。
文化4(1807)年
1/21 ジャガタラ国(インドネシア)の城下町キャラッハアへ着く。
(ここでも城に招かれている。ここの川水が町中の飲水で、
これ以外に無く、他国の者にとっては毒水なりとある。
この水のため全員が体調を崩していくこととなる。
なお、ワフ国と同様、人家等もろもろ詳しく述べられているが省略する。)
4/29 朝、岩国文右衛門死亡。晩、吟蔵死亡。
5/15 長崎行きのオランダの商船に乗る。
5/16 貞五郎死亡。
5/17 出帆。
6/ 3 二ノ宮惣次郎と喜三郎死亡。
6/17 長崎に帰着する。
6/18 長崎お屋敷へ上がる。和三蔵死亡。
6/22 松次郎縊死。善松1人になる。
11/29 善松、村方(村役人)へ引き渡し。
(その後、御前(殿様か)に召し出されたが
「下々にて話す十分の一も申し述べられず」とある。
また、「お褒めを蒙り、鳥目五貫文いただく」ともある。)
文化5(1808)年
春 善松死亡。時に37歳。
漂流・生還航路図
安芸津の歴史散策 安芸津のあゆみ研究会 乃美完次
P37-P39より抜粋。
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ハワイの土を踏み帰国した最初の日本人
時代は下って三津の東隣、木谷村(現・広島県東広島市安芸津町)の船頭善松は、
ハワイの土を踏み帰国した最初の日本人である。
文化二年(一八〇五)十一月、
善松ら八人が乗る木谷の廻船問屋の持ち船稲若丸(五百石積)が、
岩国藩御用船として岩国の港を出帆した。
翌年一月、下田沖で難破し、
七十日余り漂流したあげくアメリカ船に救助された。
五月、ハワイのオアフ島に上陸し、
ハワイ国王カメハメハ大王の保護のもと、
四ヵ月近く滞在した。
八月末、中国行きアメリカ商船で帰国の途に着くが、
鎖国中の母国に帰るのは容易ではない。
何度も船を乗り換え、その度に港町で船を待たねばならず、
仲間は次々マラリアにかかった。
文化四年(一八〇七)六月、オランダ船で長崎に着くが、
結局、故郷に帰ることができたのは善松ひとりだった。
広島城下で藩主浅野斉賢に呼ばれ、
体験談を語り、銀三寛文を賜ったという。
ジョン万次郎が遭難後、アメリカ生活を経て帰国するのは、
これより四十四年後となる。
吟醸酒を創った男 「百試千改」の記録 池田明子[著] 秋山裕一[監修]
P26より抜粋。
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いかがだっただろうか。
その時代を想像し、その壮絶な日々を感じていただけただろうか。
この事実を知ったとき、私は安芸津にこんな凄い人物がいたんだと本当に嬉しくなり、
一人でも多くの人に知ってもらいたいと強く思った。
教科書の1ページに記載されてもおかしくないくらいの出来事ではないかと思う。
本に記載されていた内容以上に壮絶な日々だったことは間違いない。
食べ物も飲み物も何もない状態で、海の上を漂う。
これほど恐ろしいことはないだろうし、感じることもそうそうないだろう。
安芸津。
ここにはまだまだ知らないことが埋もれていそうなので、
継続して調べ、発信していこうと思う。
一人でも多くの人に知ってもらいたいので、
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