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特集:都市的なものの変容──場所・街区・ジェントリフィケーション
東京で一番住みたい街、吉祥寺──街の魅力とジェントリフィケーションをめぐって
「住みたい街」としての吉祥寺
新──吉祥寺は久しぶりに歩きました。さすが「住みたい街」ナンバー1になるだけのことがあるな、と感じ入りました。今日は、笠置さんと5,6時間ほど吉祥寺を歩きましたが、多くの人は、特定のお店に行くという目的だけで歩いているわけではないようです。ゆっくりと風景を楽しむように歩いている姿を見て、来街者が吉祥寺を楽しみたい気持ちを見てとることができました。
では、吉祥寺と他の街は何が異なるのでしょうか。まずは緑が多いことがあげられます。吉祥寺のように人が多いといくぶん気疲れしがちなのですが、一休みすることができるスペースがあって、そのスペースが緑に囲まれている。井の頭公園の存在が大きいとは思いますが、それだけでなく、路面店が散らばっている吉祥寺北口の西側の奥には吉祥寺西公園と中道公園があります。吉祥寺西公園は、まだしっかり育っていませんが芝生がひろがっていて、多くの人がそこで地べたに座って休んでいました。吉祥寺はショッピングを楽しむことができるし、靴をぬいで幼心に戻ることができる空間がある。そうした場所があるのは下北沢や高円寺とは違うところで、魅力的で優位な点だと思います。とはいえ、吉祥寺に緑が多いのは今に始まったわけではありません。以前から、吉祥寺といえば、井の頭公園だったわけですから。以前に比べると、緑を楽しむことができるような、敷居の低い「まちあるき」ができるようになったことが以前との違いなのでしょう。
- 新雅史氏、笠置秀紀氏
fわたしは今年で40歳になりますが、上京した20年前の吉祥寺は、もっと敷居が高いというか、来街者を選ぶ雰囲気がありました。20年前は、インターネットがなかったこともあって、街の情報を仕入れるルートは、雑誌メディアか、文化資本が高い人に頼るしかありませんでした。
当時、文化資本が高い人たちは、代官山・吉祥寺・下北沢・自由が丘といった場所に出入りしていましたが、彼らから情報を摂取するためには、ある程度、音楽やファッションの情報に通じている必要がありました。たとえば代官山にはいくつか有名なセレクトショップがありましたが、ファッション情報に詳しければ楽しい街でしょうけれど、疎ければ普通の商店街にしか見えず楽しくないわけです。吉祥寺は古くからのジャズ喫茶や喫茶店、下北沢には古着屋がありましたが、やはり「一見さんお断り」という一種のサブカル臭が漂っていて、正直言うと苦手でした(笑)。
とはいえ、それでも吉祥寺は、大型店も公園もあったので、代官山・下北沢と比べると間口が広かったとは思います。1980年代から90年代は、雑誌メディアが初期の郊外地域----吉祥寺・下北沢・高円寺・自由が丘----を商品化しはじめた時期です。住宅地しかない場所を郊外というならば、郊外の風景を「商業化」することがはじまったのです。当時の雑誌メディアは、住宅地のなかにある隠れ家的なお店を発見するとか、街歩きをするような特集をおこなっていました。
わたしも東京の女性とデートをするためにそうした雑誌メディアから情報を摂取していました。つまり雑誌メディアの戦略にまんまと乗せられた口でした(笑)。今では「まちあるき」ブームもあって、とりたてて特殊なことではありませんが、当時は、ヨソモノが住宅地を歩くことは特殊なふるまいでした。わたしは、たとえば吉祥寺を歩く場合は、吉祥寺特集の雑誌の情報を頭にたたき込んで、街に出掛けていました。デートにガイドブックを持っていくことが恥ずかしいこともありましたが、それだけでなく住宅街をキョロキョロして歩くのは不審者に近いからです。それが渋谷スペイン坂を歩くときの違いです。渋谷スペイン坂は、そもそもヨソモノのためにつくられたスペースであり、そこでガイドブックを持つことは決してコードに違反する行為ではありません。住宅地をベースにした商業地区だからこそ、中央線の商業地区を歩くことは敷居が高かったわけです。それは商業地区と住宅地区が明確に区分されていた地方出身者の感覚かもしれないですが。
また、敷居が低くなったという点では、中央線文化といわれるジャズやロックの意味が変容したことがあるでしょう。たとえば、1990年代前半まではタワーレコード・WAVE・HMV・ヴァージンといえば一部の音楽好きが行く「ヒップな」場所でした。そして、そうした場所で、積極的に音楽文化を摂取していた層が、中央線の居住者だったわけです。つまり、ロックやジャズは、若者にとってディスタンクシオン(差異化)のツールであり、それが中央線の「匂い」をつくりだしていた。ですが、ロックが横並びのサブカルチャーのひとつに過ぎなくなり、また、レコード文化や喫茶店文化の弱まりによって、ユースカルチャーと中央線のつながりも薄れました。中央線のなかでは、高円寺が比較的ロックとつながりを持っていますが、じつは高円寺では来街者の数の減少に苦しんでいます。吉祥寺が来街者を減らせずに済んでいるのは、「中央線文化」から距離をとり「無色化」することに成功したからといえるかもしれません。
くわえて、吉祥寺を歩いていて気付いたのは、「地元」の人たちが不動産資産をうまく活用して、街の活気をつくりだそうと工夫していることでした。たとえば、吉祥寺北口の西側にある「中道通り商店会」では路面店が面的にひろがっていて、歩いてとても楽しいエリアですが、その地域の不動産所有者や事業者は、よくあるような雑居ビルをつくってテナント化するのではなく、みずから事業をおこない、街の活性化につなげていました。たとえば、元魚屋さんの二代目店主が魚をメインにした創作料理屋をやるとか、マンションのオーナーが一階部分をみずからのアイデアでリノベーションし、テナントもその「ノリ」にあわせてストリートレベルに開放していました。そして来街者はそこで購入したドーナツを公園で食べたりしているわけです。吉祥寺の事例をモデル化することは慎んだ方がよいとは思いますが、親から受け継いだ資産を吉祥寺の特徴を活かしつつ展開している点がたいへんに興味深かったです。
笠置──僕は生まれが吉祥寺で、両親は「中道通り商店街」でブティックをやっています。西武デパートにコサージュを卸すメーカーでもありました。華やかな店ですが内実は零細企業です。新さんの『商店街はなぜ滅びるのか』のあとがきを読んで痛く共感しました。新書で泣いたのは初めてです。生まれ育った商店街の風景として、小学生の80年代あたりから、コンビニが3軒立て続けにオープンしていたことが印象的です。高校から大学時代は、よくある話ですが地元がなんとなく嫌になり、ファミレスや都心が居場所となっていました。
吉祥寺のフィールドワークを始めたのは、2005年頃からです。『Hanako』を持って街を歩く人が増え、「街のイメージ」に対する違和感からフィールドワークやリサーチを始めました。雑誌メディアにおける吉祥寺の取り上げられ方や、生まれ育ちながら目を向けていなかった歴史の文献をあたったり、街のキーマンへのインタビューをしています。
吉祥寺の文化も変遷してきています。かつてのジャズ、ロックから、1980年代に漫画やアニメの街に変わりました。漫画家が多く住む街でもあり、アニメの舞台になったり、スタジオ・ジブリもありました。また、そういったアニメカルチャーを扱うお店もかなりありました。プラモデル屋さんや、フィギュアを販売するお店、未だに「アニメイト」は一店だけ残っています。市民は、アニメ文化にシビックプライドのようなものを感じていたかもしれません。ところが、2006年頃にそれらが軒並みなくなってしまいました。リーマン・ショック前で、地価が上がっていた頃です。また、北側の中心を走る「吉祥寺サンロード商店街」がチェーン店ばかりになっていきました。これも地価が上がったことと関係しています。
僕の予想ですが、資料を調べていくと1998年から始まった東京ウォーカーの「住みたい街ランキング」で吉祥寺が2005年から連続1位になる時期と関係していると思います。それまでは三軒茶屋や自由が丘の下で2位から5位の間でした。2000年代中盤からから不動産や住宅メーカーもインターネット上で「住んでみたい街ランキング」を実施し始めた時期でもあります。そのアンケートは多くて母数3,000人前後なので、統計というよりは、メディア的な影響が大きいと思います。つまり、回答者は実感的に住みたいというよりは、ある種のイメージが広がっていて、それを見る人がまた住みたくなるというような、欲望のシミュラークル的増殖があります。ちょうどその頃から、アニメ、オタク系カルチャーから、ナチュラル系、つまり、自然食品や、女性に受ける衣料・雑貨店が増えてきました。自由が丘に本店があるお店が支店を出したり、北欧系のブランドが出店するというケースです。現代都市の理想的なイメージとして、ナチュラル、エコロジーを押し出した街になっていると思います。『Hanako』の吉祥寺特集から「おいしさ」の見出しが消えて食からライフスタイルに焦点を当てるようになったのもこの頃です。確かに、新さんがおっしゃるように、おしゃれをして行くような街ではなく、リビング感覚で歩ける敷居の低い街というイメージはありますが、実際の住人の日常生活の場としての魅力は下がっていきました。
新──昨今、吉祥寺はハーモニカ横丁が有名ですが、同じ闇市あがりの空間といっても、上野「アメ横」と比べると、生鮮三品のお店(魚屋・肉屋・八百屋)が極端に少ない。生鮮三品のお店は大型スーパーマーケットなどの展開によって、全国的にも少なくなってきています。たとえば、東京東部ではそれが業態展開するとコロッケ屋になるのですが、吉祥寺ではそうした展開をほとんど見ることができません。不動産価格が高く、そういった商品では単価が安過ぎるからです。たいてい、リストランテや寿司屋などに変化します。本当は、生鮮三品のお店がハーモニカ横丁にあってもよさそうですが、それらのお店は駆逐され、「路地らしさ」を活かした立ち飲み居酒屋ばかりが残っている状況です。
惣菜屋さんは活気のある商店街の必須の業態といってよいと思います。男性サラリーマン+専業主婦というブレッドウィーナーの家族モデルは徐々に姿を消しているわけで、当然ながら、生の食材を購入して家庭で調理をするというのは、今の家族にとってはあまりに非効率です。そこで増加しているのが「中食」とも言われる惣菜屋さんですが、こうしたお店は中央線沿いでは西荻窪には多くあります。じつは吉祥寺にまったくないかというとそんなことはありません。ただそれは商店街ではなく「東急」の食品売り場にあります。吉祥寺の消費者が「東急」で惣菜を購入する効果が2つあるように思っています。まず、東急の袋に惣菜を入れていれば、ヨソモノに対して惣菜を購入したことがわからないという効果。第2に、惣菜を東急で購入するという他の街に対する優越感という効果です(そして二番目の効果は主に吉祥寺在住者に向けられています)。商店街での購入は他者に何を消費したのかを明らかにせしめるという可視化の効果がありますが、吉祥寺の場合は、非可視化の効果があるというわけです。
- ハーモニカ横丁
笠置──日常的な食料品について言えば、高架下にある駅ビルの「ロンロン」が比較的安かったのですが、縮小してしまいました。商店街にあった生鮮三品を扱ったお店もどんどんなくなってきていて、コンビニで買うことも多かったです。惣菜屋としては、吉祥寺の真ん中にメンチカツの有名店「さとう」があり、いつも行列していますが、それはおそらく日常の食欲を満たすためのものではなく、おみやげの延長であったり、ある種「日常生活の幻想」として買いに来ているのではないかと思います。やはり、2005年のランキングで一位になったことはそれらのイメージのキッカケになっていると思います。ちなみに、森川嘉一郎さんの『趣都の誕生──萌える都市アキハバラ』(幻冬舎)が出たのも2003年ですが、秋葉原も電気街から「オタクの街」と定義されました。三浦展さんの『吉祥寺スタイル--楽しい街の50の秘密』(文藝春秋)は2007年です。街がある定義付けをされると、そのイメージだけが先走っていくということがあると思います。
吉祥寺の変遷
新──笠置さんは、吉祥寺の転換点を2005年に見ていますが、そのあたりをもう少し議論するために、笠置さんの吉祥寺の記憶を少しお話しいただければと思います。笠置さんは1975年生まれですが、1970〜80年代にかけて、どのように吉祥寺に資本が入っていき、どう街が変わっていったのでしょうか。また、笠置さんが小さかった頃の吉祥寺の風景はいまどのように残存しているのでしょうか。
笠置──ひとつ挙げるとすれば、1980年代の「平和通り商店会」の再開発があるかもしれません。一連の再開発計画の最後の大きなインフラ整備として、あの駅前の道路拡幅が位置づけられていたと思います。それまでの駅前は傷痍軍人がいたり、卵だけを売っている卵屋さんなどがあったりもしました。再開発によって「サンロード」を通っていたバスが廃止になり、北側の駅前の東西を走る道が通ったわけです。そこで、卵屋のようななりわいがなくなっていったと思います。その頃は、1980年に「パルコ」ができて、みんなが浮かれていたような気がしますし、今のような危機的な感じはずっとありませんでした。百貨店は、今は「東急」しか残っていません。「近鉄」も「伊勢丹」もありませんし、「マルイ」にも「ユザワヤ」が入って、いわゆる華やかな百貨店はここ数年でなくなっていきましたね。
新──かつて1970年代までは、駅前にも住民が日常的に消費する場が残っていて、人びとの生活とつながったなりわいが駅近辺にあったけれど、1983年代の駅前再開発で根本的に変わったということですね。たしかにわたしが知っている吉祥寺は、下北沢などとは違って、生活が垣間見える場所ではありませんね。以前の吉祥寺は、JRの駅改札の間近にいきなり「ロンロン」のようなモロに「生活世界」の風景がひろがっていました。ですが、駅ビルの外へ出てしまうと、日用品を買う場所ではありませんでした。下北沢の方が、住む街であり、日常的な街のイメージがあります。いまは「ロンロン」もなくなり、吉祥寺から生活の側面が見えなくなったように思います。
笠置──高山英華の都市計画の影響は大きいと思います。グリッドで街区を計画し、百貨店を周縁に配置しながら、ビル同士をペデストリアンデッキで結ぶ計画です。吉祥寺にはそういった「計画」が1970年代に押し寄せてきました。下北沢ではあまり計画が見えません。地形を見ても、かつては普通の農園だったことがわかりますよね。一方、吉祥寺は平地を生かした新田として開発されたグリッド状の街で、都市計画とフィットしていました。そして、都市計画とそれへの反対運動がぶつかり合うことで、おもしろさも現れていたと思います。さらに、その上に商業的な要素も入り込んでいます。高山英華の都市計画然としたグリッドと、商業の論理が混ざっているわけです。
- 高山英華による計画案
引用出典=『吉祥寺と周辺寸描!!鈴木育男写真作品集(第2集)』
新──たしかに、吉祥寺は、極小の敷地の集合である高円寺的エリアと、都市計画によって整序された街区で巨大な商業施設が立地する立川的エリアが混在していると言えます。つまり、大規模な商業ビルでニーズを満たしたい人と、小規模の個人的な商店で特殊なニーズを満たしたい人が両方いる街といえるでしょう。かつ、誰もが求める緑があるわけですから、中央線沿線のみならず、大抵の人が街に求めるものが揃っていると言えます。しかし、全方位的といいますか、多くの人の需要を満たす場所というのは、かえって「吉祥寺らしさとは何か」という問いを浮かび上がらせます。
ジェントリフィケーションと街の清潔さや安全性
新──開発や商業の論理などによる歴史的な変遷があり、徐々に吉祥寺でなくてもいい街になってきた──、かつての吉祥寺を知っている人は、どこかに寂しさを感じているのだと思いますが、それが何であるかを言い当てるのが難しく、ある種のノスタルジーを帯びてしまうのが厳しいところです。整備や再開発は、ジェントリフィケーションと評されることが多いわけですが、細かく見るとなかなか反論できない点もある。たとえば、再開発されて歩道がベビーカー2台通せるような設計になっていたり、井の頭公園が舗装されて雨の日でも車いすに乗っている障がい者や高齢者が楽しめるつくりになっている。危険性がない、誰もが楽しめる街である──。それが吉祥寺のランキングを上げている要因なのかもしれません。
笠置──確かにそのようにポジティブに捉えられるとも思いますが、「危なくない」という要素は都市の中で厄介だと思いますね。都市を作る論理がリスクに対して比重が高すぎるように思えます。例えば建築や店舗の建材にまで及んでいて、デベロッパーのテナントに入ると安全性や経済性から画一化されて行きます。不燃性や施工の失敗を極限まで減らせる建材です。まさに郊外の風景を作りだしているのもそのような建材です。それに対して西荻窪では個人事業主のDIYが独特の個性を醸し出しています。安い素材ですが、試行錯誤のプロセスが見えてくる。「はらドーナッツ」などの店舗も巧妙にそのようなDIY感を取り入れています。
「はらドーナッツ」は関西を本拠地にする店で、全国に店舗展開をしていますが、吉祥寺には力を入れていて最大4店舗ありました。2010年に最大7店舗あったスターバックスを連想してしまいます。吉祥寺に来た人は、公園でくつろいで「はらドーナッツ」へ行くことでオーセンティシティを享受しているわけですが、それは作られた「オーセンティシティ」のように見えてしまうのです。
- はらドーナツ
新──シャロン・ズーキンが『都市はなぜ魂を失ったか』(講談社)でのキー概念として「オーセンティシティ」ですが、多様な解釈ができる概念ですね。よく言えば間口が広いのですが、共通了解が取りづらい概念なので、その概念を用いて有意義な議論をすることが難しいように感じています。だからといって、「オーセンティシティ」という概念に可能性がないとは思いません。そのためにも、議論できるだけの概念にまで定義を含めてたたき上げることが必要だと思っています。それはさておき、よくある議論として、大手資本の進出によって商業面積が急増することで零細小売店が苦境に立たされる、あるいはフランチャイズ化・チェーン化によって零細小売店が大手小売資本の息がかかった状態になることがありますが、吉祥寺では、そうした問題はあまり聞きません。零細の個人商店にもそれなりにお客さんが入っていてうまくいっている。ここからは想像ですが、吉祥寺をかつてから知っている人には、そうした「問題のなさ」が余計にフラストレーションを募らせている要因であるように思います。生活に必要なものは売っている、来街者も多い、お金も回っている。だが「何かが失われている」という感覚があり、それをうまく言葉で説明できない。そのフラストレーションと「オーセンティシティ」がどう関係しているのかは今後の課題ですね。
笠置──人は多くなっているのに、売上は伸びてないようですよ。
新──けれど、落ちてないとも言えますよね。
────栗本慎一郎の『光の都市 闇の都市』(青土社、1981年)に喩えると、かつての吉祥寺の「近鉄裏」は悪所でした。しかし現在は非常に猥雑さのない健康的な街だという印象があります。「アメ横」周辺のようにホームレスも見かけない。それはジェントリフィケーションの結果として排除されたからなんですか? それが魅力がある街ということなのでしょうか。
新──いまの吉祥寺が魅力のある街なのか、それはあまりに大きなテーマですのでいったん回避したうえで、まずは都市の猥雑さについて論じましょう。かつての都市──たとえば吉祥寺──が猥雑なものを抱えていた、それはおっしゃるとおりだと思います。「近鉄裏」という言葉がいみじくも表しているように、旧近鉄百貨店が物理的な壁となって、「あちら側」が遮られていた。建造物という物理的な壁が、「性の商品化」の壁と連動していた。吉祥寺の男たちにとって、近鉄百貨店という「壁」を越えることが、大人の男になるための通過儀礼だったのかもしれません。いま、吉祥寺には、そうした壁がない。今日「近鉄裏」を歩きましたが、以前ヘルスと覚しき店に「休業のお知らせ」とデリヘルの貼り紙が貼っていました。そしてそのエリアを日曜日の昼間に若い男女があっけらかんと手をつないで歩いている。その姿を見て、以前であればこの界隈を歩くことへのわずかばかりの罪悪感がなくなったように感じました。
とはいえ吉祥寺から性がなくなったわけではありません。「吉祥寺 デリヘル」あるいは「吉祥寺 回春」とインターネットで検索すれば、多くのサイトがヒットします。吉祥寺で性にアクセスすることは依然として可能ですし、より容易になったといえます。「近鉄裏」の雑居ビルの1階にリアル風俗店がなくなったものの、おそらく、そのエリアの雑居ビルの2階・3階にはデリヘルの事務所や女性たちの待合所が置かれているはずです。男たちはインターネットで電話番号を調べ、男性と女性はラブホテルで落ち合っているのです。かつては、都市と性のつながりは「壁」で仕切られていた。そして、その「壁」の存在こそが、あちら側に何があるかという欲望を駆り立てさせた。しかし、その「壁」が崩れてしまい、性への欲望は街の構造と結びつかなくなっている。以上の変化は、80年代に山口昌男が論じた枠組みを用いるならば、次のように指摘することができるかもしれません。「中心」のすぐそばには「周縁」があった。だが「周縁」が隠蔽化されることは、「中心」の意味を失わせるではないか、と。ただ、その「周縁」を性や暴力だけに閉じる必要はないかもしれません。たとえば、吉祥寺にはスケートボードの文化があり、吉祥寺サンロード商店街にある段差を用いてボーディングしていたりします。もちろん彼らが商店街の人々と交わることはありませんが、独特の人間関係と経済圏をつくりあげ、「中道通り商店会」でボードのショップを出していたりします。ただ、ニューヨークなどと比べると、猥雑さが生む文化が街を活性化させるという回路が決定的に弱い。たとえば、ブルックリン発のインディーズ音楽が世界的なムーブメントになったり、デトロイトのストリートからエミネムやジャック・ホワイトというアイコンが登場したり、あるいはボーダーであれば一度はサンフランシスコで乗ってみたいというような、都市の「底辺文化」がメディア資本とむすびつき、それがブーメランのように都市の真正性を創出するという回路が見えない。おそらく日本では中央線がそうした回路をひらく可能性がもっとも高いエリアであると思いますが、なにか「閉じた」状態にある。ただ、そこには、わたしたち自身の都市に対する見方が問われているように思います。わたしたちはいまの「周縁」が見えていないだけかもしれません。
笠置──確かに分かりやすい「周縁」は姿を消しました。近鉄裏だけではなく、駅前で20年以上ゴーストビルだったターミナルエコーは都市伝説の宝庫でした。ハモニカ横丁でさえかつては古臭くて近寄りがたいバラックの街区というイメージがありました。現在の吉祥寺は透明で健康的です。かつてあったアニメ文化に関して、それが不健康というわけではないのですが、なぜ制作会社が吉祥寺にできていったかと言うと、一つは大泉学園の撮影所などからフィルムやカメラの機材を取り寄せるのに近くて都合が良かったのだそうです(「吉祥寺人岡田斗司夫インタビュー」吉祥寺Webマガジン[http://www.kichijoji.ne.jp/person/okada/fram3.html])。もう一つは制作をしていると外食ばかりになるので、毎日飽きないことが重要でした。色んな飲食店がある吉祥寺が最適だったのです。また、徹夜で仕事をして、朝ぶらぶらして家に帰るというようなライフスタイルが許容されるような場所でした。朝、出勤して夕方に帰ってくるという生活とは違う時間が流れていました。
新──都市の猥雑さと文化が結びつくのは極めて偶然の要素が強い。だから、当事者ではない者は、それらをやたらに排除しないという態度をとる以外にはないと思います。猥雑さとつながるかどうかはわかりませんが、都市の特徴は、個人事業主の多さとそれを支える起業家精神があるかどうかであると考えています。郊外には両者とも欠けていることが普通です。吉祥寺には、個人事業主が地域に根づいていて、アントレプレナーたろうとする文化もある。個人事業主も起業家精神も計画で創り出すことは無理です。フランチャイズとしてお店を出すのと、個人事業主としてお店を出すのは全く違います。什器や建材の価格も自分で考えなくてはいけないし、すべて自分の責任です。吉祥寺が魅力ある街であるかどうか、それを考えるうえで1つのリトマス紙となるのは、今の吉祥寺は個人事業主が活躍できたり、起業家精神が活かせる街かどうか、というのがあるでしょう。ジェントリフィケーションは、いくつかの解釈が可能でしょうが、商業分野に関していうならば「フランチャイズ化」と言ってよいかと思います。1970~80年代には、フランチャイズに乗る個人事業主を募集して、その展開で収益を出せるようなフォーマットが考えられました。一番の典型はコンビニエンスストアです。20~30坪でいいし、リスクも計算し尽くされ、納入する商品も考えなくていい。起業家精神は不要で、形式上の個人事業主です。今、日本全国でも、個人事業主がチャレンジとしてお店を出せるような場所が少なくなってきていると思います。そのような現状の中で、吉祥寺がギリギリうまくいっているのは、先ほども言いましたが、二代目・三代目の人たちが、吉祥寺全体の魅力を更新する努力をしているからだと思います。大手資本も同時にあり、ある程度の収益を出すことができる零細小売店も、既得権益層としてであれ、残っている。そういった両方がサバイブできているという状況があるからこそ消費者にとって居心地のいい街なのでしょう。ただ、こうした幸福な状態で続くことは今後期待できないと思っています。既存商店の二代目・三代目の人たちが、商店街の古びた店舗をリノベーションして、吉祥寺の新陳代謝を高めている。しかし、それは吉祥寺の外の人間は街に関わることができない、ということでもあります。吉祥寺の最大の問題であるのが不動産価格の高さです。だから、ある程度資金があり、ネットワーク的にも力のある人でないと新規出店は不可能です。いま、西荻窪には面白いお店が非常に増えていますが、それは西荻窪が適正な不動産価格を提示できているからです。いま、起業家精神のある若者が出店しようと考えると吉祥寺ではなく西荻窪あたりを選ぶ可能性が高いです。こうした状況が続くならば吉祥寺の魅力は落ちていくでしょう。
笠置──個人事業主でも、成功して大きくなる良い例はあります。「ハモニカキッチン」や「VIC」を経営する手塚一郎さんは、地域で10店舗以上も雑貨店や飲食店を展開して吉祥寺のシーンを作っています。かつてジャズの街を印象づけた野口伊織も吉祥寺で20店舗近い店を経営していました。小さくて個性的な系列店が点在しながら街の印象を生み出しています。鉄道会社や百貨店が量塊でもって街を作る渋谷と対照的です。またチェーン店の点在とも違った印象です。
吉祥寺は店の入れ替わりが早く、新しいお店はできては潰れていて、定着しない。だからこそ、質が高いお店だけが残っているわけですが、その残り方が最大公約数的なものか、和やかな吉祥寺イメージの後追い的なお店が多くなってきました。地元の人は「デニーズ」などのフランチャイズのチェーン店も好きだし、コンビニもよく使っていますし、吉祥寺の外から来る人が行くような店はそれほど享受していないと思います。
新──確かに地元の人たちがフランチャイズで消費して、高級な個人のお店に外部の人が来るという構図はありますね。
笠置──吉祥寺は行政側もしっかりした公共投資をしていますし、大手企業の良い物も揃っていて、小さな商店もそこそこ食べられるというバランスが絶妙に揃っています。ただ、「住んでよかった街ランキング」では吉祥寺は1位ではないことが多いのです。三鷹や練馬といった意外な街が上位に来ています。そもそもそんなに住める人がいないし、住宅の量も多くありません。
「猥雑さ」が計画ができないなかで
新──吉祥寺は、家賃の高さや不動産取得の難しさを除けば、安全安心、騒音、交通、環境、教育面、どれもそれなりに良いというのは間違いありません。「住みたい街」をイメージではなく指標化したとしても、どれも得点が高くなりそうです。実際に吉祥寺に住んでいる人自身も住みにくいとは思っていないでしょう。それを批判することが果たして可能なのか、という問題があります。
笠置──僕も色々と調べていった結果、結構いい街じゃないかと思ったりして。今日のように一日街の中を歩くと、批判しようとしていたことが惑わされます。だとしても街のはずれの社宅が高級マンションに建て変わっている姿を見ると、多様な人びとにとっての住みやすい街ではなくなってきていると思います。
新──それは誰にとっての街なのかという話につながりますね。「住みやすい街ランキング」というのは、マジョリティにとっての住みやすい街であって、中より上の人たち向けでもあります。吉祥寺はそういった人たちを相手にしていて、それ以下の人にとっては段々と関わりを持ちにくくなっていると思います。かつて、闇市や猥雑な空間が吉祥寺の魅力をつくってきました。だからといって、ふたたび、貧しい人たちが商売できる空間をつくるのかというと、それは無理です。あるいは猥雑な空間といっても多くの人が安全安心を求めたいのは仕方がありません。
笠置──今の街を形づくってきた「敷居の低さ」はなぜ出てきたかというと、中島飛行機や横河電機など、工場労働者の人たちを許容してきたこと、また国鉄、新日鉄の社宅などもあり、高給な役人や大きな邸宅に住んでいる人たちも同時にいて、それらをすべて許容していた場所でした。いろんな人が入っていたから多様な文化が入ってきたわけです。
新──おっしゃっていることはわかりますが、その多様性を計画的につくり出すことはなかなか難しいです。都市を考える人たち、アーキテクトにとって難しいところは、最初から猥雑さを組み込むことが不可能だということです。猥雑さが生まれやすい空間をつくることはできても、それが生まれるとは限らないですし、大手資本の息がかかった計画のもとでは、短期的な収益性を求めざるを得ないところも厳しいところです。では、何が重要なのか。その街が単に愛されているというだけでなく、その街でリスクをとろうとするだけの愛情をもつ人がいるかどうか、つまり苦しいことがあったとしても事業を起こして、それを継続しようとする人がどれだけいるかということだと思います。そうした主体の生成は、収益性だけで生成されるわけではありません。それは必要条件ではあるが、十分条件ではない。それでは他に何が必要なのか。それは、自分がそこで事業をおこなう「物語」がその街にあるかどうか、ということだと思います。自分が事業をおこなう「物語」を他の事業者と共有し、かつそれをその街に集う人々と共有できているか。わたしは、シャロン・ズーキンのいう「オーセンティシティ」とはそういったものだと考えています。
笠置──実は吉祥寺のあり方は計画的なものを柔軟に受け入れながらコロコロ変わっています。最初は新田開発でできた村でした。その後、渋沢栄一が公園をつくって田園都市として計画され、成蹊大学、藤村女子中学校・高等学校、東京女子大学などによる学園都市構想もありました。戦前は、中島飛行機と横河電機による軍需産業の街であり、本土で一番最初に爆撃されたのは中島飛行機です。その後は高山英華の都市計画のモデル都市になります。高山英華は成蹊大学出身ですね。また、中央線文化としての、ジャズ文化があり、アニメカルチャーがあり、今はナチュラル系の街になっています。実は激しく変遷していて、何でもありです。更にこの先はどうなっていくのかは気になります。
新──将来の需要はわかりません。POSシステムの問題を思い起こしました。つまり、消費者が何に注目したかをデータ分析し、一番売れそうな商品をできるだけ仕入れて、注文の少ないものはメニューから外すというものです。そうすれば確かに利益率は上げることができます。在庫が劣化することなく効率的に回りますし、置くスペースも要りません。また、1990年代に、マーケット側が消費者を位置づける時に「F1層、M1層」などとセグメント化されましたが、それが広がっていくと、消費者自身もそれを認識して、自らその消費スタイルをなぞるようになりました。雑誌の記事やテレビドラマのつくられ方がその例です。吉祥寺も1990年代以降、そういった変化の波に晒され、収益性が求められたのだと思います。ただ、消費者に需要を聞き続ける限り、新しいイノベーションを生むことは不可能です。消費者自身が五年後、何を欲しがるかをわかっていません。これは生産者が提示しないとダメです。資本主義にとってのキーは、やはり起業家精神で、自らのリスクを投げ打ち、損失を覚悟しながらも、これが新しい需要なのだと提案する人間がいることです。吉祥寺がもしそういう将来を提言できないのであれば、大手資本のPOSシステム的な考え方で、今の消費者や販売履歴を分析し、それを提供する街になります。新しいものが生み出される街は、普通の人が信じられないような提案がされたり、多くの人が失敗できるような街であることが必要です。かつてのジャズ喫茶は、生産者が消費者に指示しているような店ですよね。お客さんが話をする場所ではなく、「この曲を聞け」と。今はそういう時代ではありません。
笠置──「アップル」などはマーケティングによってものをつくる企業ではないですね。
新──一部の企業はそうですね。「BOSE」も商品開発の時に他者の類似商品の値段を参考に値付けすることを禁止しているようです。
吉祥寺の公共空間のあり方
新──今やディベロッパーでも、パブリック・スペース(公共空間)や、パブリック・スフィア(公共圏)、コミュニティ・スペースを提示しますし、「モノからコトへ」は社会学や都市計画の分野でよく重要な論点になります。計画段階で住民の人たちとワークショップが開かれ、行政の人たちも入り込んで議論し、学びの空間などが設置されたりしています。吉祥寺におけるパブリックスペースについてはどうでしょうか。わたしの印象だと、吉祥寺ではそういった空間が既に埋め込まれているような気がします。パブリック・スペースにおいて酷い使われ方があまりない。犬の散歩のマナーは良さそうだし、グラフィティもあまりありません。外から来た人でも、自分たちが半分吉祥寺に住んでいるかのように歩いています。住むことを擬似的に演じることができる場所、それが「住みたい街」にさせている理由だと思います。ただ、それは行政や住民によって、パブリック・スペースの許容値が狭められているような気もして、少し気持ち悪いところかもしれません。
笠置──『都市のドラマトゥルギー』(吉見俊哉、弘文堂、1987年)で言えば、住民を演じる、日常を演じるということがありますね。確かに吉祥寺に来る人も、吉祥寺にいること=美しい暮らしというような想定をしていて、その「空気」によって振舞っているのだと思います。変なことはしないし、余裕を持っていいて、歩行速度もゆっくりです。リア充的な絵が浮かびますね。物理的には、パブリックスペースはそれほど多くなく、歩行のための道ばかりです。休むとしたら飲食店の中になります。行政も民間もお金があるので、グラフィティは比較的はやく消されていきます。
一方でストリート系のダンスは駅の構内でやられていますね。あと井の頭公園の駐車場や中央線の高架下がそういったスペースとして使われています。スケボーはハモニカ横丁の目の前のバス通りでやられているのがおもしろいですね。バス通りがある種劇場のようになっていて、バスを待つ人に見せているようです。ここは行政もあえて放置しているような気がします。
新──吉祥寺は外から見ると、結構休めるスペースは多くて、商品化されたパブリック・スペースらしき場所は沢山あると思います。本当のパブリックスペースはないとも言えますが。「渋谷センター街」でレジャーシートを敷いた女子高生にアイデアを得て、間取りのシートをゲリラでやったみたいなことって吉祥寺でできますか?
笠置──私たちミリメーターのプロジェクト「MADRIX(http://mi-ri.com/project/madrix/)」ですね。吉祥寺ではできないでしょうね。私自身も地元のことになると途端に保守的になってしまうところがあります。
新──多分吉祥寺でやったら苦情が来ますよね。それが予感できます。渋谷センター街にも新宿歌舞伎町にも大阪の新世界にも定住者があまりいないので苦情が来ないと思います。吉祥寺は定住者が増えたけれど、盛り場でもあり、複雑な空間です。
笠置──日本には本当の意味でのパブリック・スペースはそもそもほとんどないと思っています。「渋谷センター街」は数少ないパブリック・スペースです。最近話題になりましたが、若者がワールドカップ日本出場決定で騒ぐ場所は渋谷くらいにしかありません。そこも今完璧に封鎖されるようになってきています。街で自由な日常を享受しているように思い込んでいますが、私たちのパブリックスペースはあらゆる場面で狭くなっているように感じています。そのなかで吉祥寺に救いがあるとすれば、都市計画で拡張された道端でスケボーをしている少年たちなのかもしれません。
[2013年6月9日、吉祥寺にて]
あらた・まさふみ
1973年福岡生まれ。社会学(産業社会学・スポーツ社会学)。学習院大学非常勤講師。著書=『商店街はなぜ滅びるのか──社会・政治・経済史から探る再生の道』。
かさぎ・ひでのり
1975年東京生まれ。建築家。ミリメーター共同主宰。日本大学芸術学部美術学科住空間デザインコース修了。2000年、宮口明子とミリメーター設立。公共空間に関わるプロダクトやフィールドワークを多数発表。プロジェクト=「アーバンピクニックシリーズ」「リスボン建築トリエンナーレ 日本セクション アートディレクション」「小国町桐沢集落デザイン策定」「東京にしがわ大学キャンパス計画」ほか。
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2014-06-07