くくるの乙女総集編

2010年10月~2013年11月頃までのカフエくくるのブログを家族 ろう者のくくるの乙女バンド  心の病とくくるの乙女にまとめました。 日常の会話はこちらです。http://kukurucafe.ti-da.net/

家族

息子と家族

息子を中心に家族のことをまとめてみました。


息子が八ヶ月ぐらいでの出来事です。

 今までいくら泣き叫んでも、振り向かない母親にお母さんは、耳が聞こえないのかな?と感じはじめてきました。どうして????お父さんは、ちゃんと聞こえるのに????自分も聞こえるのに???息子は、頭を抱えます。
耳が聞こえないて何だろう・・・・どうしてだろう・・・・
 ある朝の朝食です。
オーブンがチーンと音が鳴りました。気づかないお母さん。息子は、じーと母親を無言でみています。いつもと違う息子に私は興味津々でした。
母親と息子の目があった瞬間、息子は黙って、右手でオーブンを指して、チーンしたこと教えてくれました。
息子は、お母さんの耳になることを覚えていきました。

息子が一歳ぐらいのときの話です。

息子は保育園で歌を覚え楽しそうに歌います。家内は、自分にできない事ができる息子をたくましく思えたのか、ただ微笑んで息子を見つめていました。
家内は学校の音楽の時間でのいじめの後遺症で音楽は嫌いです。
今の歌は何?聞いてきます。「赤とんぼだよ」と答えました。私は、耳が聞こえないから仕方がないと思いました。 息子が楽しそうに歌っていることを喜んでいる家内をみているだけで幸せを感じていました。
こんなやりとりがしばらく続いたある日、家内は息子が歌う、こいのぼりの歌に合わせて歌いだしました。リズムは滅茶苦茶でした。
でも一生懸命歌っていました。息子の唇の動き、身体の振動で音楽を感じていました。息子は今まで黙って聞いていた母親が突然、一緒に歌いだしたのが嬉しかったのでしょう。
大喜びで段々声が大きくなりました。 何度も歌っていました。
耳が聞こえないから音楽は嫌いと言っていましたが子供の素直な心に何かがはじけたように思いました。


2歳の頃です。

妻が耳が聞こえなくて困ったことは、家に鍵がかかり、中に入れないことです。
窓の外から妻が本を読んでいる姿がみえるのですが、いくら大きな声で呼んでも、気づいてくれません。光で知らせる装置があるのですが自分は困らないので必要ないとの返事です。そんな日は朝まで車で寝ています。
ある晩の日のことです。
その日も鍵がかかり、妻は寝ているようでした。今日は車で寝るのかと思った瞬間、靴の音で、お父さんが帰ってきたことを知った息子が「お父さんだ」と私のことを気づいてくれ、ドアが開きました。靴の音で誰なのかがわかるんですね。

息子が三歳ごろの話です。

息子はお母さんの補聴器に興味を抱き始めます。補聴器はお母さんの必需品であることがわかったようです。
息子は悪さをしてひどく母親から怒られました。息子は反省している様子でした。これで一件落着と思っていました。
ところが次の日の朝、補聴器がないのです。
仕方なく、そのまま職場へ。息子を問い詰めると、してやったりの顔をして補聴器を隠した場所に案内しました。やったという満足した顔をしていた。

ろう者の友人が小学生の長男の家庭訪問の話をしてくれた。
息子は先生に両親がろう者であることを教えていなかった。
親が障害者であることに後ろめたさみたいなものがあったのだろうか、息子は両親がろう者であることをいえなかった。
先生は、障害がありながら子供を育てるにはどれだけの苦労があったか、それを乗り越えてきた親を誇りに持ちなさいと担任の先生が激怒した。
子供が、小さい頃はよく熱をだす。手話のできる看護婦、医者は少ないくコミニケーションには苦労した。
寝ていて子供が泣いてもわからないので、タオルでまいて腕枕にして泣き叫んだときの振動でわかるようにしたりと工夫して育ててきた。
それ以来、息子は両親がろう者であることを隠すことはなくなった。
医者との対話、夜泣きは私が担当でした。



息子が幼稚園生の頃です。

耳が聞こえないくくるの乙女のバンドを結成し家内はピアノを担当することになり音を息子と確認しながら練習しています。
音楽は親子の絆を深めてくれています。




息子が小学1年生の頃です。

入学式での写真です。



息子は小学一年生ですが小学3年生ぐらいの漢字力があります。
どうしてなのか不思議に思っていました。息子との何気ない会話でわかりました。
妻は耳が聞こえないのでテレビは字幕でみれるテレビをよく見ます。息子はその字幕をみて漢字をおぼえたそうです。

家内が風邪で病院にいます。家内は耳が聞こえないのでアナウンスが聞こえません。息子は家内の名前がアナウンスされると家内に伝えてくれました。相変わらず動き回り落ち着きがないけど、ちゃんとお母さんの耳になってくれる息子です。



明けましておめでとう!親戚の家でくわっちーしています。



チラシが出来上がりポステイングしました。「太翔もやる」と一緒にポステイングしてくれました。汗びっしょりの息子でした。



今日は私の誕生日です。義母も一緒にお食事しました。




家族
  10月17日
太田さんと謝花さんのライブ家族で見に行きました。

11月1日
今日は息子の誕生日です。8歳になりました。義母の介護で4月から妻息子が義母宅へ引越し。それ以来久しぶりの我が家での食事です。健康であることが何よりの幸せ。

 

 11月10日
息子の運動会はじまりました。暑いです。いい天気です。

運動会です。昼飯は妻の妹の家で食べました。暑い。日焼けしました



 11月17日

今日は息子と妻がトリムマラソンに参加します。天気は最高!

12月
最近、私へのネットでのバッシングがひどくなった。
理由はこちらhttp://kukurucafe.ti-da.net/e5720763.html

かわいそうな人だなと思う。人の粗探しをするだけ、ネットだけを相手の生活だ。
匿名であることを利用していかにも正義であるかのように心の病ある人、女性を虐め抜く卑劣さ


もし、息子がそのような人間になったら容赦しない。
息子が幼稚園の頃、気の弱いおとなしい園児を面白半分でからかったことがあった。
私は殴り倒した。


父親なのだから注意しなさい、教育しっかりしなさいとよく言われる。勉強しろと言ったこともない。
妻が教育ママなので私は黙っている。
両方からガミガミいわれたら息子も嫌だろう。


息子に最近、聞いてみた。「お父さん、こわいだろう」
息子は「全然こわくない。お父さん一番優しい」と抱きついてきた。

私が殴ったことは忘れているのだろうか?

でも、息子を殴ったのはそれが最初で最後だ。これからもないだろう。
卑怯者になるなとの父の思いは伝わっていると思った。

12月29日

今年は息子にとっては転校、引越、家族離れての生活とストレスがあったと思う。
心配してはいたが、楽しそうにしている息子をみてホッとした。
家族が元喜であることが一番だと思います。
来年もよろしく。

2014年

家族
1月11日
昨日から妻の実家に泊まっている。息子がお父さんと一緒に寝たいとのことだ。義母の介護で疲れている母親に代わり息子と皿洗いをした。ゲームして遊んで久しぶりに三人で寝ました。


2月2日
今日は息子の学芸会。みんな元喜いっぱい.


3月16日
妻と息子が義母の介護のため那覇に引越して一年になった。
妻は早くから起きて義母の朝食を栄養のバランスを考え抜いて作った。
その努力が実り、痴呆の進行が鈍化した。今は透析は週2回だが、これ以上透析を受けないよう頑張っている。
妻は母親の介護をすることは娘の私がやるのは当然との考えで介護保険を頑なに拒否していた。
しかし、最近になり、疲れが出てきたようだ。
息子も家族で過ごせない寂しさが日に日に増してきた。
介護保険のことを少し、考えてくれるようになった。
来週、専門家に相談に行こうと思う。
介護疲れすると思っていたが、本人の意思を尊重した。
こちらの意見が正論でも押し付けては効果がない。
妻の気持ちの変化を待つことも必要だ。
まだまだ時間はかかるだろう。
介護はそれぞれの家族で対応は千差万別だ。
私達家族にとって最適な介護、義母が喜んでもらえる介護、できるだけ自宅で介護ができる環境を長く続けられたらと思います。

4月29日
シーミーでした。妹家族と一緒です。




家族

夫婦のこと

   
婦人の主張大会で県知事賞を頂きました。


[原文]

私は、今言葉を話しています。
それは、私を支えてきてくれた方々のお陰です。私が母のお腹にいた頃、風疹が流行し聾唖の赤ちゃんが約400名生まれました。
その中の一人です。私の耳はまったく聞こえず補聴器をつければ音は聞こえますが、高低音が聞こえません。

3歳から聾学校に通い唇の動きから話を読みとる訓練、舌が丸くならないように皿を舐める練習、顎に風船をくっつけた時の喉の振動で[音とは何か]教えてくれました。
健康な赤ちゃんは自然に言葉を増やしていきますが、私にはできません。
母は[ミルク]の単語を教えるために、私がミルクと言えるまで与えてくれませんでした。周りから虐待しているように見えたのか[かわいそうにそれでも親か]と言われました。

私が6歳の頃母がいつの日か待っていた言葉[お母さん]が言えるようになったのです。
普通の小学校へ入学しましたが、耳の障害のためにいじめられました。
父の仕事が失敗し生活が苦しくなりました。
心配した母の友人は桜が冬の間耐えて春になるときれいな花を咲かせる、人生も負けなければ[冬は必ず春となる]と激励してくれました。
その言葉は母を奮い立たせ一生懸命働きました。
私がいじめに耐える事ができたのは、貧乏に負けず働く母の姿があったからです。
ある日、先生は[なぜ、私の耳が聞こえないのか]授業で話してくれました。すると信じられない事が起きました。
同級生が次々と謝ってくれたのです。
嬉しかったです。

中学校では、友達の会話の中に入る事ができず孤独でした。
そんな私に近所のお姉さんが[夢を持つこと]の素晴らしさを教えてくれました。私の夢は学校の先生になること。
幼い頃口に入れて舌の使い方を教えてくれた先生の音に報いたかったからです。お姉さんは難聴の私が先生になれるわけがないとの思いに打ち勝つ勇気を与えてくれました。教科書を毎日何回も読み返しました。
成績は学年で一番ビリから少しずつ上がり希望の高校へ合格できました。

高校ではNHK杯青年の主張大会に出場する事になりました。
私は自分の声が聞こえないので、正しいアクセントが分かりません。
不安な私に先生はヘレンケラーの話をして激励してくれました。
大会では力の限り話しました。先生は泣いていました。
私がどれだけの勇気を振り絞って舞台に立っているのか、わかってくれていました。
「これからの人生悔しいことが一杯あるだろう。目の前の厳しさから逃げないで乗越えてほしいよく頑張った」と喜んでくれました。
最優秀賞の発表に驚きました。
私の名前が呼ばれたのです。言葉はどんなに努力して健常者に追いつくことは無いと思っていました。
先生の恩かみ締めました。

大学に合格しましたが「前例がない。耳の不自由な生徒では、先生は無理諦めなさい」と言われました。
それでもやってみなければわからない」と何度もお願いし大学は一切援助はしないとの条件で認めてくれました。
大学では黒板に字を書きながら講義が進められます。
先生の唇が読めず授業についていけません。
耳が聞こえる人を羨んでも仕方ありません。耳が聞こえない現実を受け入れるしかないと分かっていても「耳さえ聞こえれば」と愚痴が出て悔し涙がでました。そんな時、先輩の激励で自分はベストを尽くしていない事に気づきました。教授は分かるまで筆談で教えてくれました。
教授の誠意のお陰で卒業論文が学科最優秀賞の評価を頂き、難聴者として初めて教員免許を取得し卒業できたのです。

その後、臨時教員をしながら本採用を目指したのですが、集団面接で落ちました。私には他の受験者の意見を聞き取ることは困難で頑張り抜いた教員には悔いはありません。
新たな気持ちで仕事を探しましたが電話の応対が出来ないので断られました。そんな時、定時制高校の生徒達の姿が心の支えになりました。
昼間の仕事の疲れに負けず勉強に打ち込む生徒、戦後の貧しさから勉強できなかった年配の生徒さんが繰り返し教科書を読む姿を思い浮かべ、私も負けないと勉強し平成10年県職員の採用試験に合格しました。

人生の素晴らしさは人と人の出会い支えあう事です。
その中で人生のパートナーにめぐり合いやがて長男が生まれました。
息子にミルクを上げている時思うのは母の事です。
泣き叫ぶわが子にミルクと言えるまでミルクを与えなかった母、胸が張り裂けるような毎日だったと思います。
母のお陰で皆さんの前で話をしている自分がいます。

最近母を東北旅行に招待しました。日本一の露天風呂で孫を抱きながら「
かわいい、かわいい、こんな幸せがくると思っても見なかった」と喜んでくれました。
娘の耳が聞こえないと分かった時の驚き、これからどうやって育てていけばいいのか迷いながら、わが子だけの幸せを願い無我夢中で人生を駆け抜けてきた母に一児の母になった今、感謝の思いが湧いてきます。
母の喜ぶ姿に幼い頃教えてもらった「冬は必ず春となる」との言葉が重なり幸せをかみ締めました。

主人の亡き父母は村の老人会長、民生委員として地域に貢献してきました。今度は私たちの出番です。
現在主人は体協理事、私は婦人会活動を通して父母の村を愛する心を受け継ぎ、婦人会の先輩から村を誇りとする心を教えてもらいました。
これからもめぐる季節のように【感謝」の気持ちを結いまーるにして人生を楽しみたいと思います。





NHKテレビ番組ろうを生きる難聴を生きるに妻の事が紹介されました。
2012年9月2日(日)夜
あきらめない -沖縄“風疹児”比嘉真弓さん- 前編

<シリーズ趣旨>
沖縄では、アメリカの統治下にあった1960年代半ば、風疹が大流行した。アメリカ本土の風疹の流行が沖縄に伝わったとも言われている。妊娠中の母親が風疹に感染したことにより、およそ400人の障害児が生まれた。そのほとんどは聴覚障害がある子どもたちだった。
いま、風疹児たちは40代半ば。その一人、「あきらめない」ことを信条に生きてきた比嘉真弓さん(46歳)に、2回にわたって話を聞く。

<この回の内容>
風疹児の数が多かったことから、聴覚障害児を教えた経験がない、手話も知らない教員が、ことばの指導にあたることになった。比嘉真弓さんも、きびしい発声指導を経験した。地域の学校に通った真弓さんは、聞こえないことでいじめにあったが、「自分がくよくよしていては前に進めない」と頑張った。高校生のとき、担任から勧めめられたのは、「NHK青年の主張」に出場すること。母親から「挑戦しなさい」を言われた真弓さんは、自分の生き方を熱く語り、県大会で優勝した。

2012年9月9日(日)夜

あきらめない -沖縄“風疹児”比嘉真弓さん- 後編

<シリーズ趣旨>
沖縄では、アメリカの統治下にあった1960年代半ば、風疹が大流行した。アメリカ本土の風疹の流行が沖縄に伝わったとも言われている。妊娠中の母親が風疹に感染したことにより、およそ400人の障害児が生まれた。そのほとんどは聴覚障害がある子どもたちだった。
いま、風疹児たちは40代半ば。その一人、「あきらめない」ことを信条に生きてきた比嘉真弓さん(46歳)に、2回にわたって話を聞く。

<この回の内容>
比嘉真弓さんは、現在、県立病院で事務の仕事をしている。周囲に自分の障害のことを説明し、「口元を見せてはっきり話して」と伝えることで、スムースに仕事を進めるている。
最近は、「音楽」に挑戦。夫が始めた手話カフェで、車いすの歌手・我如古盛健(がねこせいけん)さんに出会ってから、苦手だった音楽が「こころに響く」と感じ始めた。我如古さんの詩を手話で歌うほか、自分の書いた詩を、自分のリズムとメロディーで、自分の声と手話で歌うことに挑戦し始めた。



家内と結婚して良かったこと困った事。
 
良かった事 は安眠妨害と言われずにすんだ事です。 私のいびきはメチャクチャうるさいらしい。彼女は文句もいわずにスヤスヤ僕のそばで寝ています。  困った事は夫婦喧嘩はいつもぼくが負ける事。喧嘩して不利になると彼女は補聴器をとり「聞こえないもん」で押しとうします。
手話をすると顔を横に向いてしまいます。結局は私が疲れ果てて喧嘩は終わります。

体内時計
     
家内は朝6時なら6時に必ず起きる(目覚まし時計は使えない)仕事に遅れないようにしてたら自然にそうなったらしい。
          
     
読唇術

相手の唇読んで、話の内容を理解することですが 家内は読唇術と話の内容を予測して耳の不自由をカバーしている。
その読唇術と予測を間違えると誤解が生じる。例えば沖縄のアメリカの基地問題とかの話をしていたとします。そこへ、突然、アフリカの話が持ち込まれると混乱することがあります。アメリカとアフリカの区別の仕方は、アメリカのメとアフリカのフです。
メは唇を閉じフは唇が開いています。速い口調で話しをされると、唇が閉じているのか、閉じていないのか見落とし 話の流れからアメリカの話をしていると思ってしまいます。
友人との食事などでは、そのことを説明します。初めは、みなさん、家内と顔をあわせて、ゆっくり話してくれますが、話が盛り上がると、家内が耳が聞こえないことを忘れてしまいます。

 ある集会での出来事です。
中心者が下を向きながら話をしていたので口の動きを読み取れるように顔を上げて話をしてほしいとお願いしました。 わかりましたと返事をしましたが、また、下を向いて話をしていました。 話の内容は、相手の立場になって考えようでした。
 別の集会での話しです。中心者が本を抱え、唇が読み取れません。上と同じく願いしました。返事は、ハイでしたが、やはり、本が邪魔で家内は話の内容がわかりませんでした。 集会が終わり、次回から、耳の不自由な人にも配慮してほしいとお願いしました。
返事は、あんたが、通訳すればいいでしょでした。話の内容は弱い立場の人を応援でした。  
多くのろう者は、こんなことに慣れています。
不便であること、辛いことに慣れ、ある意味では、そう、割り切っていかなければ、生きていけないとのことです。

   
今日は9回目の結婚記念日です(2013年)。
いい奥さんもらえてよかったなと思うこの頃です。

結婚は親は反対していました。妻が障害者であるからでした。

義母も耳が聞こえないけど本当にいいの?と疑っていました。
本人も耳の障害で辛いことがあったようです。


私は逆に手話が覚えられていいと思いました。
親は耳が聞こえない子供を心配していましたがメチャクチャ元喜な息子が生まれました。
息子のことはここをクリックhttp://kukuruno.ti-da.net/e5495991.html

耳が聞こえなければ一緒に手話を勉強しようと思いました。

結婚して彼女で良かったと思ったときは7年前の出来事でした。
ある平和団体の盲ろうの友人から、そこの団体の会合での手話通訳を頼まれましたが迷惑と断られました。
そのことを妻に話しました。
妻はいいました。「テレビの音を消して。口がパクパクしているだけで楽しい?これが私の世界。盲ろうの人は、映像も見れないのよ」
大粒の涙を浮かべ怒りで震えていました。
耳が聞こえない人が身近にいながら、耳が聞こえない人の気持ちを知ら無さ過ぎる自分が情けなくなりました。
そのことが手話通訳設置をお願いし続ける力となり、7年目で実現しました。
妻の大粒の涙を見なければ健常者中心の社会に慣れていた私は罵倒されてまでお願いし続けることはアホらしいと思ったと思います。



12月30日
県知事賞受賞  NHKろうを生きる難聴を生きるテレビ出演 ケントミファミリーのメンバーとして海を渡ってのライブ活動と充実した歳月が流れ今年も終わろうとしています。
来年はじっくりと充電の年とし再来年は飛躍の年にしたいと思います。
来年もよろしくお願いします。
 

家族

     


慰霊の日 学童疎開

太平洋戦争末期、学童疎開船対馬丸が魚雷攻撃で沈没し1400人余りの命が犠牲となりました。父はその一週間後に那覇の港を出港しました。留まるも地獄、出るも地獄とはこの事です。
疎開先は熊本県の山鹿町でした。沖縄を発ときの荷物制限で冬物がなく寒さと飢えに苦しみました。帽子を落とし、拾うふりをしてみかんの皮を食べていました。満足に風呂も入れずシラミが発生して空腹を忘れようと早く寝床に就いても、かゆくて眠れない日々もありました。
親元はなれた寂しさ、空腹、寒さに耐え忍んでいることを知った鹿本郡の婦人会が、食料、古着、布団などを届けてくれ父は生前涙ぐみながら感謝していました。

 初めて見る雪に感動し見とれてしまい掃除をしなかった罰として沖縄の生徒全員、冷たい土の上に正座を命じられました。それを2階から見ていた高等科の女生徒が「これを足の下に敷きなさい」とつぎつぎと頭を守る大切な防空頭巾を投げ落としてくれました。霜焼けで素足で汚れた足の下に敷きなさいと防空頭巾を渡してくれた女生徒のやさしさを父は生涯忘れる事はありませんでした。

 遠足のときの事です。弁当がなく木陰で休んでいる沖縄の生徒に気づいた同級生の渕上淳一さんが 皆に呼びかけ弁当を分けてもらいました。父はよっぽどうれしかったのでしょう。慰霊の日には涙を浮かべながら、このことを何度も話してくれました。渕上さんに会いたがっていました。きっと、お礼をしたかったと思います。

 お金を払わず入浴しても見て見ぬふりしてくれたさくら湯の番頭さん、いつも援助してくれた森本商店の森本勝馬さん,紀さん、三玉校長高本義彦さん、引率していただいた照喜納先生、熊本の皆様、父が大変お世話になりました。心より感謝申し上げます。 有難うございました。

父は熊本の人に感謝していました。高校野球は熊本の代表がでると一生懸命応援していました。

慰霊の日には必ず、学童疎開のことを話していました。私は父の遺言との思いで語り続けたいと思います。




父の闘病生活

76歳で父が亡くなった。
トラック運転手を50年間続けた。80歳まで続けることが父の目標であった。村のサトウキビを50年、製糖工場に運んだ。
村の農家で父を知らない人はいない。
幼い頃からトラックに乗り父の働く姿を見て育った。子供の頃はクーラーもなく夏はトラックは暑かった。父は日焼けで真っ黒であった。

そんな父がガンに侵された。最初は大腸ガンで手術した。2回目な肺がんであった。手術はしたものの完全にガンを取り除くことはできなかった。
父は死なないと思った。死なせてたまるかと思った。しかし、ガンは父の体を蝕んでいった。
抗がん治療は効果はなかった。
病院に呼ばれた。厳しい現実を聞かされた。それでも私は父は死なないと思った。奇跡をおこしてやると思った。しかし、酸素ボンベが必要な状態になった。今しかないと思い、父の願いであった弟のいる福島に家族全員で旅行にいった。
弟も良く頑張ってくれた。仕事を休んで観光案内し、おいしい手料理で精一杯の親孝行してくれた。弟には心から感謝している。

旅行から帰り、家で父と過ごす時間を作った。5月頃、父が高熱で病院に入院した。
「延命治療しますか」医者にいわれた。
「家族と相談します」というと医者は、「今決めてくれ、今日か明日かもしれない」と言われた。
私は父の生前の約束、延命治療はしないことを告げた。苦渋の選択だった。
父は肺炎を乗り越えて危篤状態を脱した。

6月頃、病院に呼ばれた。ガンは全身に移転している。痛みが激しくなる。ここでは、これ以上の痛み止めの治療はできない。自宅では無理だ。ターミナルケアーの病院をと勧められた。
痛みが激しくなり、どうしょうもなくなれば先生の指示に従います。それまでは自宅に帰してくださいとお願いした。無理だ。痛みが激しくなる。自宅では無理だと医者は最初は私の願いを拒んだが自宅に帰ることの許可をもらった。

父は車椅子となり、病気が治っていないのに自宅に帰ることの意味をわかっているようだった。
病院からの帰り、大西ゴルフ場から見える自分の生まれ育った村をみて「村はいいな」の一言を私は忘れることはできない。
妹が父の看病に来てくれた。妹が父に聞いたそうだ。「思い残すこと何?」父は何もないと答えたそうだ。
我が人生、悔いはないと言い切れる人生を送った父を私は誇りに思う。
近くの病院で父を毎日見てもらった。痛み止めの薬は準備されていた。しかし、父は体はだるいものの、痛みは訴えなかった。
亡くなる三日前、父の長年の老人会長としての感謝状が届けられた。父はそれを固く胸に抱きしめていた。
そして、7月13日の朝5時ごろ、父の体が急変した。「だいじょうぶ」との問いに{うん」とうなずく父。
これが私と父との最後の会話となった。

医者を呼んだ。医者は病院に搬送したら2日3日生きながらえます。どうしますかといわれた。
私は、畳の上でお願いしたいと告げた。
ちょうど、そのときは台風で妹家族、私の家族、親戚も家にいた。みんなきてもらった。1時頃、父はなんの痛みもなくフーと息をはいて寝るようにして亡くなった。

医者が用意したモルヒネは一度も使うことはなかった。
医者は「こんな安らぎある死相は初めてです。生前の行いが良かったんでしょうね」
親戚から「よく頑張った。親孝行したね」といってくれた。
しかし、心のどこかに、ひっかかるものが在った。もっと、他にやることがあったのではないか。もっと親孝行したかった。生きていてほしかった。
医者は「どんなにやっても心残りはありと思います」といってくれた。

私はその一言に救われる思いがした。

、父が愛した生まれ育った北中城村字和仁屋に貢献することが父が喜んでくれることだと思った。

人にだまされ信用財産を失い、信頼していた人たちから罵倒されていた私を村の区長は公民館建設員に推薦してくれた。
村の人の温かさ、そして、父への村人々の信頼のおかげだとおもった。
私は喜喜として公民館建設に汗を流した。
やがて公民館が完成して公民館の玄関に飾られた村に貢献してきた方々の写真をみて思わず涙が流れた。
そこには、私のおじいゃん、そして、青年会で活躍したいた父、私の写真が飾られていた。
馬鹿な私ではあるが、子供、孫に自慢できると思った。
おじいちゃん、親父、地域貢献する幸せ教えてくれてありがとう。


ハワイの親戚

兄は米兵、弟は学徒兵として沖縄戦で戦う事実に基づいての映画を見た。
その映画をみておじいちゃんのことを思い出した。
私のおじいちゃんは若い頃、ハワイに移民しパイナップルで成功し、第二次世界大戦前に沖縄に帰ってきた。
おじいちゃんには二人の娘がいたがハワイに渡った。
二人の娘、私のおばさんはハワイでお会いしたことがあった。
真珠湾攻撃のとき、ワイキキから、花火と思って楽しんでみていたという。
日系一世は収容所に連行され 2世、3世が呼ばれ日本と闘うか、闘わないかの2者選択を迫られた。
従わないものは収容所、従うものは、徴兵された。
日本語、英語のできる彼らは壕に逃げて出てこない住民に出てくるよう呼びかけるのが彼らの仕事でもあった。

ウチナンチュを一人でも助けたいと激戦地沖縄にきた2世、3世。
ハワイでお会いしたおばさん、多くは語らなかった。いや、語りきれなかった。
両親、兄弟いる沖繩に戦争に向かった日系人のことを、どんな思いだったのだろうか。





2013年7月

今日は両親のお墓参りいきました。ひさしぶりの、従兄弟との再会に喜んでいた息子でした。福島から弟家族がきてくれました。

ろう者のくくるの乙女バンド

くくるの乙女のバンドを結成したきっかけ



一つ
  過去のブログから転載します。息子は保育園で歌を覚え楽しそうに歌います。家内は、自分にできない事ができる息子をたくましく思えたのか、ただ   微笑んで息子を見つめていました。
  家内は学校の音楽の時間でのいじめの後遺症で音楽は嫌いです。
  今の歌は何?聞いてきます。
  「赤とんぼだよ」と答えました。耳が聞こえないから仕方がないと思いました。息子が楽しそうに歌っていることを喜んでいる家内をみているだけで幸せを  感じていました。
  こんなやりとりがしばらく続いたある日、家内は息子が歌う、こいのぼりの歌に合わせて歌いだしました。リズムは滅茶苦茶でした。
  でも一生懸命歌っていました。息子の唇の動き、身体の振動で音楽を感じていました。息子は今まで黙って聞いていた母親が突然、一緒に歌いだし    たのが嬉しかったのでしょう。大喜びで段々声が大きくなりました。 何度も歌っていました。
  命の底では音楽を求めているとおもいました。

二つ
  お客さん、ピアノの演奏にうっとりしていました。純子さんが言いました。「健聴者は音楽を聞いて泣いたり笑ったりするけど、どうして?」
  好奇心旺盛な純子さんは、それが知りたくて、感じたいようでした。  
  

  耳が聞こえないからできるわけがない、無理だ、だけど、やれるものならやってみたいとのくくるの乙女達の心の葛藤が3ヶ月ほど続き悩みぬいた末    2011年2月2日くくるバンドが結成。テレビで紹介されていました。

  http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=wYXUrdZdRRI   

    
  くくるの乙女結成の頃の様子がいくちゃんのブログで紹介されています。
2011年2月6日

 
  聴覚に障害をもった人 四人がダンスの主人公です  いいね~ どういうダンスを見せてくれるか楽しみ  ワクワク
  初めてのダンスをするにあたって 手にしたテキストは…
  なんと ヒップホップのマニュアル本でした~

  私はテキストをめくる前にこんな早いテンポで大丈夫かいな…

  なんてことない DVDを手本にすばらしい踊りを見せてくれました
  聴こえてないはずなのに なんて リズムののりがいいんだろう
  ここで持ち上がったのが ダンスは なんとか 踊れそうだ
  では 演奏する曲の リズムをどうつたえるか
  ウルトラマンさん簡単に太鼓たたけば 振動や音でなんとかつたわるんじゃないかって思ってました 私も 太鼓の 「どんどん」という音や 振動なら     分かる気がしたんだけど

  太鼓の皮を普通にたたくと 音がにぶく広がり
  つながってしまうようで区切りがわからないとか
  きっと「 ぼぉ~んぼぉ~んぼぉ~ん 」って感じなのかな

  それならと
  太鼓の角をバチでたたくと
  カツン カツンという少し高い音がするが
  その音が聞こえないという
  これなら聞こえるだろうと取り出した
  シンバルをバチでたたく甲高い音は 意外にもきこえない人の方がおおかった
  結局三人揃ってきちんと聞こえる音を見つけることが出来ないままスタート
  ダンスのDVDでだいたいの動きはつかめた

  一緒にダンスに参加するよう誘われて とりあえず後ろのほうで真似てみるiku…あらら 難しすぎて私には無理だわ
  しょうがないんで太鼓をたたくマイケルの隣で手拍子をたたいて「見る」リズムをとってみた
  ありゃりゃ
  みんなから遅いって…突っ込まれてしまいました 
                 お恥ずかしい・・(///ω///)

  聞こえる私のリズム感が 聞こえない皆のリズムを狂わせるかもしれない…なんて怖いことでしょう
  みんなの邪魔になることのないように 
  キッチンに入って山積みの 食器洗いをこなしたんで 少しは お役にたてたと満足してますが・・・笑
  


2011年3月10日     

  4月25日のケントミコンサートに出演させてもらえることになりましたが耳が聞こえないから無理だと言い出しました。
  吉澤直美さんに相談しました。
  彼女は、凄まじいパワーで一度決めた目標はあきらめるなとものすごい気迫で一喝!!
  あの細い体のどこにこんなパワーがあるんだと圧倒されました。
  それがトミさんに似ているんです。
  お二人とも体は小さいのですが、ここが勝負との時の集中力、爆発力は圧巻です。
  そして、厳しいことをいいますが相手を思う真心も似ています。
  吉澤さんの叱咤激励に、もう一度彼女達と話し合いくくるの乙女は猛練習をしました。

  <



  2011年1月18日琉球新報の流流(希望あふれる人々 青い鳥を探して)にほぼ1ページカラーでくくるのことくくるの乙女がバンド活動に挑戦している  ことが紹介されました。

   
  チケットを買ってきてくれるお客さんに
  に知名度〇のくくるバンドが出演するのはお客さんに失礼だとのっことで
   出演中止を言われました。
  大会3週間前、すべてのスケージュールが決定される最終日がきました。     
  関係者にくくるの乙女の演技を見てもらうようお願いし了承されました。
  関係者は、手話歌を見たことある人はいません。演技が披露される前は、退屈そうな顔をしていましたが 演技が始まった瞬間、手の動き、顔の表情に  歌の思いがビンビン伝わってきたことに関係者全員が驚嘆しGOサインでした。
          
 
 
 
2011年4月頃のことです。
  
  うちの家内が、時をみつめての曲は、補聴器を頼りに音を拾えることができるようになった。
  補聴器をつけると音は聞こえるが、音を認識するには訓練が必要だ。周波数の合わないラジオを聴いているようなも
  ので聞こえる音(家内は低音と高音は聞こえない)をつなぎ合わせて それを音楽にしていかなければならない。忍耐の要る作業である。
 
  CDを聞いて音を拾い出すことができた家内だが沖縄市民会館でのリハーサルでは音を拾えることは、まったくできなかった。
  4人とも顔が真っ青になってしまった。
  音響担当のかたと相談した。彼ら音響のプロといえども困惑していた。、  
  くくるの乙女はすごい、それでも諦めなかった。できる方法、練習を最後の最後まで模索した。

  いよいよ本番!先日、友人からコメントを届けてくれた。紹介したい。

  直美さんのブログからの転載です。
 
  沖縄市民会館大ホールを満員にし、立ち見まででていました。

  さらには 耳の聞こえないくくるの乙女4人(ろうあの方)が
  ハンディを感じさせずに リズムをとりダンスを披露しました
  素晴らしかった!
  その熱心な練習の繰り返しは出番直前まで
  1秒でもおしいかのように
   繰り返し繰り返し、もう休んだらということもせずに
  それは頭が下がるほどに練習していました

  そして見事に成功させました
  これは大奇跡なのです(^^)
  4人の女性たちは耳が聞こえないことを
  感じさせずに
  舞台に立ちダンスでコラボレーションしました

 
歌い終わるまで
私は舞台のすぐそばで
涙ぐるぐるしてました

あまりの感動にのどもひっくひっくと泣きそうでした。

これはカフェくくるのみなさんが
ケントミコンサートで歴史を創ったメモリアル

これから
さまざまな形で
多くの人に新しい希望をつなぎました

彼女たちが楽屋でも
出番直前までも
繰り返し繰り返し休むのを惜しむように
練習していた姿を忘れません

そして大きな喜びの世界を
多くの人と心から結びました

ありがとう!感謝感激感動をにふぇーでーびる♪

ろう者のくくるの乙女バンド

くくるの乙女はろう者に喜んでもらえる音楽を追求してきました。
それを試す機会がありました。2012年度2013年度に東京都立ろう学校、奈良県立ろう学校が修学旅行で来てくれたこと、2012年度に九州ろうあ者大会に出演したことでした。

その様子をブログから拾ってみました。

聾学校の先生とメール電話で何度も話し合いしました。

話し合いしていくなかで盲ろうの生徒さんは沖縄の盲ろう者との交流を望んでいるのではないだろうかと思いました。
くくるにご来店していただいた他府県のろう者のお客様のくくるの魅力は沖縄のろう者に会えることでした。

そんな他府県のろう者と地元のろう者との交流は手話が飛び交い楽しそうです。
それが沖縄と奈良県の盲ろう者で交流できればとおもうと胸がはずみました。
盲ろう者の通訳介助に理解のない方々にどれだけ、盲ろう者にとって通訳が必要であり生きる喜びにつながっているかを知ってもらえるいい機会だと思いました。

ろう者ならダンスなど見て楽しみことはできますが盲ろう者にはそうはいきません。
ならば振動で音楽を楽しんでもらおうかと思いました。
その実験のため4人のくくるの乙女を和太鼓のライブに誘いました。
ものすごい迫力と振動でした。
これなら喜んでくれていると思っていましたが純子はつまらないと言いました。
シッヨックでした。確かに振動は感じますが音楽を楽しむほどまでには至りませんでした。

ダンスもダメ、振動もダメです。くくるの乙女とサポーターで話しあいました。
Yさんが言いました。打楽器は人類が誕生して最初のコミニケーションの手段であり、楽器の始まりです。
打楽器を実際に体験してもらうのはどうだろうか!

純子
「見るよりやるほうが楽しい。一緒にやるともっと楽しい」

音楽は受身ではなく実際に演奏するほうがもっと楽しいようだ。

確かにくくるの乙女は音楽は大嫌いと言っていたが今は音楽を楽しんでいる。

押し付けにならないだろうかとの意見もあった。私も自信はなかった。

恐る恐るろう学校の先生に電話してみた。

驚きの返事だった。
生徒は皆、好奇心旺盛でなんでもやりたがるとのことで大賛成とのことでした。
手話歌、打楽器も得意とのこと。

先生はくくるでは食事だけと考えていたようです。

くくるも好奇心旺盛だ。
やっと方向性がみえてきた。
生徒にライブ体験してもらうことにした。
くくるバンドの演奏で生徒が手話歌をやる
サポーターと生徒で演奏してくくるの乙女がダンス、手話歌をやることにした。
打楽器は沖縄特有のパーランクーを使ってもらい沖縄の文化芸能に触れ合う機会にしたいと思う。

耳の不自由な生徒、盲ろうの生徒を喜んでもらえるにはどうしたらいいか真剣な討議しました。

町田さんから以前、盲と知的の2重障害ある他府県の生徒さんに太鼓を叩いてもらったところ、とても喜んでもらえたと太鼓のすばらしさと一緒に何かを体験することの素晴らしさを語ってくれました。

わくがみさんから、まず、テンポとリズムを理解してもらい、振動で体に感じる体感、盲ろうの生徒の場合は肩を叩くなどしてテンポを感じてもらうなど意見がありました。
実際に肩を叩きながらリズムよく打楽器を叩くことができるかなと疑似体験しながらの練習でした。
 
いよいよ来週の水曜日25日、奈良県立聾学校の生徒さんが修学旅行でくくるにきます
奈良県立ろう学校の生徒さんと、一緒にコラボでミニライブを想定して練習しました。
わからないことは、ろう学校の先生に確認して、一つ一つ問題点を克服してきました。



交流の様子は新聞テレビで紹介されました。






http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-05-04_33308/沖縄タイムに掲載されました。

紹介します。
【北中城】聴覚障がい者と健常者が共に働き、心通わす場づくりを提供している村和仁屋区の手話カフェくくる(真心)で4月25日、奈良県立ろう学校3年生の森松奏(かな)さん、榎本知奈美さん、森口友香子さん、尾崎雅君、水野達斗君らが、同店と同サポーターや地域住民、利用者が開いた触れ合いパーティーに参加。手話ダンスや民踊、エイサーなどを体験、修学旅行の楽しい思い出をつくった。

 オーナーの比嘉隆夫さん(52)の妻真弓さん(46)は風疹児で聴覚障がい者。ブログを通して全国の障がい者と交流や情報交換を行っている隆夫さんに同校から修学旅行の昼食の依頼があり、思い出に残る昼食会を開きたいと隆夫さんはサポーターたちと企画を練ったという。

 村渡口区のマジシャン喜納一巳さん(61)も賛助出演を快諾した。同店の「くくるバンド」と「ケントミファミリー」とのセッション、三線と太鼓の振動を感じながら「上を向いて歩こう」「朝まで踊ろう」などを手話で、盲ろう者には触手話で歌い、踊り、エイサーのパーランクーをたたいた。

 フィナーレは全員がカチャーシーを踊り、躍動のリズムが一つになった。生徒らは「沖縄の方々のフレンドリーな雰囲気で楽しい時間を過ごせた。この思い出は生涯忘れない」と感想を語り、4人いる引率の一人、柳田智子教諭は「2月に下見に来て食事だけでも十分と思ったが比嘉さんやサポーター、そして地域の方々のぬくもりに感動でいっぱいです」と謝辞を述べた。(翁長良勝通信員)




先日、奈良県立ろう学校の生徒さん、先生から真心の手紙が届きました。


担任の先生の手紙を代表して紹介します。
奈良もずいぶん暑く感じるこの頃です。最高気温が那覇を上回る日があります。天気予報を見ても、沖縄を気になるようになりました。
さて、修学旅行では大変お世話になりました。あんなに大歓迎してくださって、十分なお礼を申し上げるより、ただただびっくりしてしまいました。

沖縄の皆様の温かさと、お店に集っていただいた方々の思いに触れ、本当に心に残る思い出になりました。障害のあるなしに関係なく、同じ空間に共有させていただいたこと、一緒に楽しく過ごせたことに感謝しています。
あの時間のために多くの方々が時間や労力を使ってくださったことも、生徒にしっかり伝えていきます。

生徒も先生も長く心に残るひとときでした。重ねて御礼申し上げます。

お礼が遅くなって申し訳ありません。生徒さんが作った色紙をご笑納ください。修学旅行から帰って、二名の生徒が職場実習にいきました。
幼稚部の前の早期教育部から、その人生のほとんどを一緒に過ごしてきた生徒たちですが、いよいよ卒業後の居場所を探し始めました。
就職に大学にとチャレンジしていきます。これからが正念場です。どうぞ進路が確保ができますように祈ってください。
これからも時々ブログを拝見させてください。
皆様のご活躍を糧に私たちもがんばっていきます。どうぞお身体にご自愛ください。

 
         奈良県立ろう学校 高3担任Y先生
                
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-201603-storytopic-5.html

東京のろう学校生 和仁屋公民館で住民と交流2013年1月20日


ケントミファミリーの演奏に合わせリズムを取る東京都立中央ろう学校の生徒ら=16日、北中城村の和仁屋公民館

 【北中城】修学旅行で来県した東京都立中央ろう学校(久保井礼校長)高等部2年の生徒14人が16日、北中城村の和仁屋公民館で地域住民や手話カフェ「くくる」のメンバーと交流した。同校が昨年、和仁屋にある「くくる」を訪れたことがきっかけとなり、交流が続いている。
 頸椎(けいつい)損傷や聴覚障がいなどを抱えながらも音楽活動に取り組んでいる「ケントミファミリー」の演奏が始まると、生徒たちは積極的に舞台に上がり、手話をまねたり、リズムを取ったりして演奏を楽しんだ。地域の老人会のメンバーも交じり、最後はオリジナル曲「だいじょうぶよ~」で全員がカチャーシーを踊って盛り上がった。
 生徒らは15日に沖縄入りし、初日はひめゆりの塔などの南部戦跡を巡った。同行した久保井校長は「悲しく、つらいことがあったことは、子どもたちや職員にしっかり伝えたい」と話し、交流について「心のこもったおもてなしだった。素晴らしい思い出になった」と感謝した。
 最後に生徒を代表し、奥村泰人君と土岐航太郎君が「大勢の人が集まり、踊って楽しかった。東京に帰っても忘れない」とあいさつした。
 「くくる」のオーナー比嘉隆夫さんは「障がいがある人もない人も、問題なくやっていけるモデルケースを地域からつくっていきたい」と語った。









沖縄テレビで紹介された動画です(未公開映像あります)2012年度東京都立ろう学校の生徒さんとの交流の様子です。


http://www.youtube.com/watch?v=9ZEhvNVeWak

8月




いよいよ来週の千九州ろうあ者大会で披露します。数百人のろうあ者の前での演奏です。

純子さんが言いました。

ろうあ者は音楽には興味ないからおしゃべり(手話でのおしゃべり)ばかりしているだろうな。

Yさんがいいました。
みんなが音楽を楽しんでもらっている姿でみんなに喜んでもらおうよ。
Yさんの一言でふっきれた純子さんでした。




今日は九州ろうあ者大会前夜祭でライブしました。
前夜祭では沖縄県ろうあ協会の女子部が華麗なダンスを披露しました。この日のために数ヶ月間、練習してきていました。
みなさん、とても輝いていました。

次にケントミファミリーの出演です。

サポーターのみなさん、数百人のろうあ者の前で演奏するのは初めてであり、手話の世界に面食らった様子でした。
今回はサポーターがろうあ者の世界に入りました。何か感じるものがあったようです。

ろう者のくくるの乙女バンド

サポーター 

くくるの乙女がここまで成長できたのは献身的サポーターのおかげです。サポーターを紹介します・

 西口賢治


くくるの乙女の草創期は、彼女たちのできない、やってみたいの狭間で大きく揺らぎました。
一度はストライキをおこして練習しなくなりました。そんな中
くくるの乙女が吉澤さんのおかげで発奮し練習を頑張るようになりました。
肝心の私は音楽音痴、福祉の専門家でもありません。もちろん、くくるの乙女は音楽は大嫌いなメンバーです。

友人に教えてもらったりしながら試行錯誤で練習しました。
耳が聞こえない乙女が耳が聞こえる人に音楽の楽しさを伝える夢に向かっていました。

私もくくるの乙女も未知なる世界でした。
失敗したらどうしょうかとの不安との戦いでした。

そんな私を勇気を与えてくれたのは西口先生でした。
ブログでのメールのやり取りをさせてもらいました。

言葉にすると行動がついいてくる
  行動が伴うと力がついてくる
       夢はお金では決して買えない   夢に値段はつけられない 
                            夢を売ってくれるところもない
                             夢は自力で創造生産するもの

今になると言葉の力を実感しています。西口先生ありがとう。



<strong>湧上さん、参上>です。くくるの乙女に楽器の指導をしてくれました。


2011年
6月 くくるにブログ仲間のわくがみさんランチにきてくれました。





素敵なコメですので紹介します。ブログ仲間のわくがみさんです。

無謀と夢望』素敵な言葉です!!

正に、それを目指して活動中なので(笑)
楽譜やコードを知らない自分…(^_^;)
感覚のみで『ボンベ君のうた』等の音楽・『もののけ姫』の米良さん等の音響・全国放送のナレーション・映画音楽や編集をさせて頂いておりますf^_^;

『渇望』があり、継続する事により『無謀』が『夢望』として具現化して叶って来ました。
諦めなければ・信じ続ければ、よっぽど『無謀』な事と『怠惰』で無い限り、努力に見当たった報いはあると信じています(≧∇≦)
金曜日、僕の『夢望』にお付き合い頂きますが…
ボーカルを31年間目指してコンピューターミュージックを始め、声楽の先生に『貴方には無理』と言われ、諦めず続けたからこそ今があります。
共に『夢望』を未来へと繋いで参りましょう!!
 わくがみ 


7月

純子(ろう者)さん
  うるとらまん、健聴者は音楽をきいいて感動したりするよね。
  それて、どんな感じなの?
うるとらまん
  健聴者は、みんな音楽を楽しんでいるよ。
純子さん
  音楽で楽しいの?
英子(ろう者)さん 
  私にはわからない。音を知らない。
わくがみさん
 音楽はリズムです。心臓の鼓動、走る時のリズム、野菜を包丁で切るときのリズム、リズムのあるところ、それは音楽です。
 逆にリズムがなければ音楽ではない。音を聞くことが音楽ではない。体で感じるものです。

純子さん、英子さん
 私も健聴者のように音楽を楽しんでみたい。
わくがみさん
 できますよ。やりましよう。

こんな会話から ろう者の音楽への挑戦が始りました。

わくがみさん
 では実際にドラムをたたいてみましょう。  
純子さん
 振動が伝わる。みるより、やるほうがおもしろい。
英子さん
 小学校のころ、運動会の練習でたたいたことある。
うるとらまん
 そうなんだ。耳がきこえないけど、どうしてやったの?
英子さん
 健聴者の真似をしているだけだよ。何も楽しくなかった。
わくがみさん
 音楽はリズムですよ。リズムは聞くものではなく体で感じるものです。
 1,2,3,4の4拍子でいきましよう。
純子さん
 これでいいの?
わくがみさん
 そう、それでいいんです。この4拍子でいいんです。
英子さん
 これなら私にもできる。
わくがみさん
 では、私もドラムをたたきます。私は、みなさんのリズムに合わせて、ドラムをたたきます。
純子さん
 え! 健聴者がろう者にあわすの?そんなことできるの?
わくがみさん
 やってみましよう。そう、それでいいんです。
英子さん
  おもしろい!おもしろい!」
うるとらまん  
  英子さん、小学校でもドラムしていたんでしょ。
  小学校のころは、ドラムはつまらない、でも今は、何で楽しいの!

英子さん
  でもおもしろい。

うるとらまん
  ドラムを叩く行為は小学校のときと今は同じ。
   だけど、今は楽しいという。
  それは、なぜ?私なりの解釈です。
  ボートこぎでいつも船酔いしていた人が自分がボートを漕がなくてはならなくなったとき船酔いはしなくなったそうです。
  音楽も同じで、だれがに合わせればいい(健聴者にあわす)から自分にあわすと主体者になったとき、音楽の楽しさを体感したのではと思い

8月

わくがみさんhttp://waku7777.ti-da.net/がフエイスで募った
ドラムをくくるに届けてくれました。
感謝感激です。

わくがみさん、ろう者が楽器を演奏し、健聴者がろう者にリズムをあわす音楽をしたいとの思いに多くの人々が賛同し協力していただき、くくるへのドラムの贈呈となりました。心より感謝申し上げます。
贈呈されたドラム、太鼓、メトロノーム、うどんちゃん、わくがみさんです。




先日わくがみさんから贈呈してもらったメトロノームでテンポの練習頑張る純子さんです。
彼女はまったく音は聞こえない(1級)です。音の代わりに振動でテンポの練習です。

振動でテンポを感じ、体でテンポを感じられるようになるためにメトノロームで練習です。










過去のブログから屋富祖さんのことを拾いました。

2012年2月
ドラマー屋富祖さんがきました

Yさん、手話での会話に戸惑っていましたが、手話は慣れると楽しいですよ。



英子さん、アフリカの民族楽器ジャンベに挑戦です。
屋富祖さん、アマチュアバンドで3年連続横浜代表です。

耳が聞こえないから音楽は無理との発想は彼女達にはありません(ときどき弱音をはきますけどね)

屋富祖さん、聾者へ音楽を教えることは初めてです。メトロノームを使ってテンポの確認したり試行錯誤しながらも音楽を教えることを楽しんでいます。





練習風景7月
  

8月

耳の聞こえない乙女が新たな挑戦です。

いよいよ来週の千九州ろうあ者大会で披露します。およそ500人のろうあ者の前での演奏です。



ろうあ者は音楽には興味ないからおしゃべり(手話でのおしゃべり)ばかりしているだろうな。

屋富祖さんがいいました。
みんなが音楽を楽しんでもらっている姿でみんなに喜んでもらおうよ。
屋富祖さんの一言でふっきれた純子さんでした。

11月11日は屋富祖さんの誕生日でした。屋富祖さん、いつもくくるの乙女に音楽を教えてくれてありがとう。




今日はくくるバンドの練習日です。ドラムの屋富祖さんは足でジヤンベ、スティックでドラム、首の振りでビアノにリズムを伝えています。耳が聞こえない三人の乙女は見事に音が合いました。屋富祖さん、格好いい。




真弓に合いの手でリズムを伝えている屋富祖さんです。真弓は鏡を使い屋富祖さんの合図を確認しながらピアノをひく練習しています。それにしてもドラムを叩きながら耳が聞こえない真弓、英子の音を合わすとは凄い。




ドラムの屋富祖さんが首のふりと目で曲の始まり、リズムをドラムの純子さん、ジヤンベの英子さんに伝えています。ピアノの真弓に鏡を使って屋富祖さんの首のふりと目で曲の始まり、リズムを感じとる練習をしました。鏡を使って曲の始まりは伝えることはできました。しかし、途中でつまずくと、どこなのかわからなくなりました。




手話ダンスを屋富祖さんが指導しています。手でどう歌い手の思いを伝えるには?リズム良い手話ダンスとは?。




先日沖縄ろう学校の音楽のT先生がくくるの乙女と交流しました。
純子さん、英子さんのドラムジャンベに驚き、指導している屋富祖さんに感嘆していました。
先生の話によると現在のろう学校の生徒さんは打楽器などを好んで演奏するそうです。
授業は手話も交えて行われています。
純子さんたちの時代は学校では手話は禁止されていました。ほとんどの時間を発声練習などに使われていました。
授業も口話で生徒のほとんどは先生の話を理解することはできませんでした。

大人のろう者が音楽が嫌いな人が多いのは手話禁止により生徒が十分に
音楽の楽しさを理解していなかったのではないかと思います。
実際に純子さんたちは音楽の時間はつまらなかったと話しています。


(写真右)


先日、ろう学校中学生の平田さんの三日間の職場体験が終了しました。音楽教師の棚原さんは家内が大学生で教員過程実習の時の先生です。実習先もろう学校でした。不思議な巡り合わせです。屋富祖さんと棚原先生は耳が聞こえない生徒への音楽のアプローチに意見を交わしていました。





かんちゃんがくくるでライブしだしたのは2011年の秋でした。
その頃からのかんちゃんとの軌跡をブログから拾ってみました。(2011年秋~2013年夏)









毎週火曜日はかんちゃんのフオークライブの日だ。マイケルはかんちゃんとセッションしてギターを演奏しているときはひときわ輝いている。
とにかく楽しそうなのだ。かんちゃんのなにげないやさしさは彼の心を穏やかにしてくれている。
病院関係者、公的機関の職員とは、どうしても、世話している、指導している、世話されている、指導されている関係になりがちだ。
かんちゃんにはそれがない。同じ音楽を愛する仲間と同一に接してくれている。

昨日はバンドの練習日でした。
そこに高校時代の同級生Sさん、かんちゃんが応援にきてくれました。先週からYさんが加わりました。

実は私、マイケル、3人の応援者は普天間高校の先輩同級生後輩の間柄です。
好きな音楽、同じ高校の共通項だけで意気投合です。







昨日,かんちゃんのスナックなごり雪でライブありました。
マイケルのとって始めての有料ライブです。
それは彼の夢でした。

先週は心の病ある人たちの音楽祭がありました。マイケルはデイケア仲間と参加し最優秀賞をいただきました。マイケルは楽しそうにドラムを叩いていました。数年前まで引きこもりだったとは誰も信じられない彼でした。
今日はオトラクでかんちゃんライブありました。








先日のミニライブの後反省会があlった。

真弓
  「私たち、本当は音楽は大嫌い。主人から無理やりいわれて仕方なくやった」

かんちゃん
  「音楽きらいなの?」

真弓
  「そう。聾者はほとんど音楽嫌い!だけど、やっていくうちに音楽が好きになった。おしえてくれてありがとう」

かんちゃん
  「それを聞いて安心した。嫌いならどうしょうかなとおもった」

マイケル
   「指揮の4拍子があわない。どうしてかなと思っていたら最初の振りを1と数えているからとわかった。健聴者では当たり前のことがそうでないことが最近わかった」


音楽を通じて互いの価値観を超えて、感動を与える音楽がんばります。 

ミニライブ反省会の続きです。

 かんちゃん
    今日は私が出だしで失敗しました。あがりました。すみません。

 うるとらまん
    かんちゃんでもあがるんだ。やっぱり、練習と本番は違うね。
    こんなミニライブに機会あれば挑戦して慣れていくことが必要だね。
 純子さん
     どきどきした。緊張した。終わったらほっとした。楽しかった。

 とったん
     とっても楽しかった。
 屋富祖さん
     楽しかったです。練習の成果は出し切ったと思います。レベルアップしていきたいです。
    
 うるとらまん
    4月25日に奈良県立聾学校の生徒さんがくくるに修学旅行でくる。生徒さんに盲ろうの生徒が一 人いる。その生徒に沖縄きてよか た。くくるにきてよかったと喜んでもらいたい。どうしたらい いかな。
   純子さん
    音楽はろう者はきいてもおもいしろくない。ダンスとかみてたのしむのがいい。
うるとらまん
   ろう者はそれでいいけど盲ろうの人は見えないよ。
Yさん
   実際に音楽を体験してもらうのはどうだろうか!打楽器のリズムを肩 を叩いて感じてもらうとか!
マイケル
   それでよろこんでくれるならいいけど?押し付けにならないかな?

かんちゃん
   どうだろうね。喜んでくれるかな?
うるとらまん
  一月の東京都立聾学校の時にもくくるの演奏喜んでくれるか不安だったよね。4人のくくるの乙女は音楽はきらいだった。でもやっていくうちに音楽に魅力を感じてきた。くくるのライブに実際に打楽器で演奏してもらおうよ。

屋富祖さん
    曲は上を向いて歩こうよがいいと思うよ。どうしたら盲ろうの生徒さん、奈良県立聾学校の生徒さ んが音楽を楽しめるか研究しようよ。

とったん
   おもしろい。くくるはいろんなことに挑戦するね!

うるとらまん
  次は4月25日の奈良県立聾学校の生徒さんが沖縄きてよかったとおもえるよう練習がんばろう。

みなさん
  イエー!




ミーテング中です。

 純子
   「 つぎの祭りのイベントでは屋富祖さんがいないんでしょ。耳が聞こえないから
    ダンスできない」
     (純子はドラマー(屋富祖)さんのステイックの動きとドラムの振動でダンスを踊っていました。)
かんちゃん
  「心配ない。バックがくくるの乙女に合わす。好きに踊っていいよ」

純子 真弓
 「そんなことができるの・すごい、かんちゃん、プロ!」

うるとらまん
 「かんちゃん、大丈夫?」


かんちゃん
 「乙女のダンスに合わす曲をまず選定して、最初と最後を合わすことができればどうてことないよ」



でも実際には簡単ではないのです。
工夫が必要です。
かなり悩んでいます。それを楽しそうに悩むかんちゃんです。
かんちゃん、舞台の設定
など、誰が見ていないところで汗を流してくれています。

そんなかんちゃんはくくるの乙女は大好きです。
かんちゃんの頑張りに答えようとくくるの乙女は燃えます。

そんなくくるの乙女にかんちゃんも燃えます。





こうちゃん、野に咲く花を練習しています。
くくるの乙女、なんど床に伝わるリズムトラックの振動でリズムを感じて踊っています。
足に伝わる振動を感じて踊るてどんな感覚なんでしょうね。
私は聞こえるので耳に頼ってしまいます。

かんちゃん、今日も汗だくになって楽しそうに教えています。
かんちゃんのこの笑顔は素敵です。





かんちゃんとのリズムが一秒ほどずれています。
今までは耳が聞こえいから仕方がないと思っていました。
今回は違います。合うまで練習です。
明日、あさって、北中城村中央公民館で商工会主催のイベント参加します。


北中城中学校のストリートダンスのメンバーと記念撮影。イベントでは見事なダンス披露してくれました。具志堅さんも出演しました。ケントミファミリーはメンバーがふえ楽しそう。くくるの乙女は本番に強い。
練習では三回に一回しかリズムにあいませんでしたが、本番では100%の力を出し切りました。


くくるの乙女は3年間で100回ちかくのライブを学校地域で行ってきました。音楽仲間が増えセッションでライブをすることが多くなりました。
その様子の一部をブログから拾ってみました。

2011年5月


沖縄タイムスにくくるでのチャリテイライブの様子が掲載されています。
うどんちゃんの熱唱かっこいいです。





2011年7月にyou & Iのチャリテイコンサート
手話ダンスチャリテイコンサートは超満員の大成功でした(東北大震災被災地応援)。



友情出演していただしたゲンちゃんと砂川さんです。
ゲンちゃんの手話歌、砂川さんの一粒の種には感動でした。


ゲンちゃんとくくるの乙女のメンバーです。




まじゅん音楽祭、憧れの古謝美佐子さん、嘉手苅さんです。
2013年2月





神響ライブしました。2013年5月
ケントミファミリーです。2013年5月













心の病とくくるの乙女

心の病と音楽

心の病あるメンバーとの触れ合いを綴ってきました。気軽に読んでください。

はじめましてマイケルです。うるとらまんとは高校時代からの友人です。
俺はギターと酒をこよなく愛する男です。自分史ができて悪くはないと思って書いている。

14日
心の病ある人は誤解される。うるとらまんは手話通訳を断られたことがきっかけでくくるをオープンした。耳の不自由な人は見た目ではわからない、心の病は、もっとわからない。そこで俺の登場となった。俺の独り言で少しでも、心の病ある人が住みやすい社会になれば幸いである。


15日
若いときから、よく眠れなかった。学校は遅刻が多かった。眠れないのでボートしていることが多い。薬を定期的に飲めたら、いいのだが、それがむずかしい。Mさんは酒を飲んだら、寝てしまって薬を飲むこと忘れてしまう 忘れるから眠れない眠れないから酒をのむ。飲むから薬のむこと忘れる、これの繰り返しで入院だよ。


18日
役所から障害手帳が届いているとの報告があった。病気の自覚がない。医者の誤診では、と思うこともある。
3級と1級の真ん中で普通の障害と思ったがうるとらまんが障害区分2級の表示に驚いていた。

23日
マイケルの独り言を毎回楽しみにしている人がいると聞いた。ただあまり考えないでポツリといっただけだが・・・。
うるとらまんいわくそのポツリがいい。ありのままでいい。そういわれたら悪い気はしない。ポツリポツリでいくか。

25日
うるとらまんと話をした。夢の話になった。俺の夢は何?質問されても即答はむずかしい。夢ね!俺の夢はなんだろう!

11月4日
今まで週一回がやっとだったくくるでの仕事が、先週は5回できた。うるとらまんは驚いていた。なにせ、雨がふったらいかない、行く気がしないからいかないのオレだったから。


11月7日
うるとらまん
 今週よくがんばったね!どうしたの? 
マイケル 
 どうしたのといわれても・・・いつまで続くかわからないけどね!
班長
 マイケルがいないと仕事大変だよ。宜しく頼む!


11月10日
これからは、うるとらまんがメンバーのつぶやきを歴史に残していくことになった。よろしく!
石さん(石さんは手話が堪能なので忙しいときはバイトしてもらっています)。
 マイケルてKさんのことですか?
うるとらまん
 そうだよ、マイケルの独り言を読んでくれてるの?
石さん
  はい、なにげなく語っているのがいいですね!
マイケル
 たまには厨房も手伝ってね!

12月27日

 
 石さん、長年、うつ病で仕事ができない状況でしたが、12月より福祉関係の仕事が決まりました。
 くくるのスタッフ全員で就職祝いの乾杯して祝福しました。

3月10日
くくるでバイトしていた石さんが友人とランチにきてくれました。以前の仕事は2ヶ月でうつが悪化してやめました。
今回、大学時代の勉強生かして介護の仕事をはじめ3ヶ月後に正社員になりました。顔には働ける喜びがあふれていました。
 
石さんからのメセ
新しい仕事は楽しいです。 利用者さんにも職員の皆さんにも、よくしてもらっています。 相談員の業務に入るには、まだまだ沢山、勉強したり勉強し直したりしなきゃいけないけど。これからも、誰かの何かの為になってるような自分で居たいと思います。
 

 
11月13日
 マイケル 
   うちのTM精神病院のスタッフ、久しぶりに病院いったら、看護士からフルネームで呼ばれたな!よく名前覚えていたな!
うるとらまん
   前もマイケルさん、今日は、きれいにヒゲをそってきましたね!と言われて驚いていたね!
マイケル
  だからよ。ほとんど顔をあわさないけど、ここの病院のスタッフは、患者さんに気軽に声をかけるよ。
  2週間、病院いかないと電話がくる。薬がきれるころだからね!

  
11月22日
 マイケル 
     うるとらまん、手話の本ないか?
うるとらまん 
     あるよ。どうしたの? 
マイケル 
    手話を覚えんとな。手話できないと斉藤さんと会話ができないよ。仕事がはかどらないよ。

うるとらまん
    うれしいね!手話を勉強するなんて!ところで、以前は、手話は必要 ない、心と心で通じるんじゃなかったの?
マイケル
     手話覚えたほうがいいんだろう。 とにかく借りていくよ。
 
   



12月4日
マイケル
   うるとらまん、俺の友達ユンケル(精神障害)くくるで働きたいといっているけどいいかな?
うるとらまん
   くくるはユンケルを採用するほど忙しくないよ。
マイケル
   給料の問題じゃないよ。働きたいんだよ。
うるとらまん
   そうだな。ユンケル、マイケルが一生懸命働いている姿をみて、とてもうらやましがっていたもんな。
 マイケル
   迷惑かけないからさ。当分はおれが仕事を教えるから頼むよ。
うるとらまん
   わかった。ユンケルの気持ちと、できることはなにか、とにかく会って話してみよう。


12月13日
うるとらまん
 ユンケル、くくるで働きたいか!
ユンケル
 働きたい。
マイケル
 俺が応援するから働かせてくれ!
班長
 本人がやる気があるみたいだから、できるかどうかやらせてみては!
うるとらまん
 わかった。条件がある。
  1)病院には必ずいくこと。
  2)薬は必ず飲むこと。
  3)無理はしないこと。
  4)睡眠はしっかりとること。
  この4っつを守ってほしい。私は精神障害の専門家ではないから医者、保健師に相談するよ。自分で通勤できるかな!
ユンケル
  大丈夫。車があるので運転してこれる。

うるとらまん
  明日から始めていいかな。営業が始まる前に皆で食べるから11時までにこれるかな。
ユンケル
  大丈夫。11時までにこれる。
うるとらまん   
  仕事のことは、マイケルが教えるから心配ないよ。 不安はないか?
ユンケル
  不安だけど、マイケルがいるから、できると思う。
うるとらまん
   よし、明日から仕事だ。


12月15日

うるとらまん
  班長、昨日は、11時までに自分できてねといったけど、自分でこれるかな!
班長 
  いままで13年間も仕事したことがないからね。仕事をしたいとの気持ちを信じてみよう。

玄関のドアが開く音がして

ユンケル
  おはよう!
うるとらまん
  時間どおりきたね!着替えて仕事やろうか?
ユンケル
  はい!(弱弱しい声)

うるとらまん 
  元気ないけど、自分で来て、遅刻もなかったね!
  
12月16日

うるとらまん 
  お疲れさん!どうだ、仕事は。大丈夫か!
ユンケル
  大丈夫!

うるとらまん
  そうか。 二人とも薬はのんでいるか?  
マイケル
  たまに飲んでいる。
ユンケル 
  毎日のんでいる。
うるとらまん
 ユンケル、仕事はきつくないか?
ユンケル
 きつくない。楽しい!
うるとらまん
  うれしいこと言ってくれるね。でも仕事は疲れるだろう。病院は娯楽施設もあるから、デイケアのほうが楽しいじゃないの!
ユンケル
 デイケアはいつもトランプして遊ぶだけでつまらない。 ここで働いたら、自分のお金で食事ができる。いろんな人との出会いがある。  
うるとらまん
 そうか。仕事が楽しいか。仕事がつらくなったら、休んでかまわないよ。

12月18日

うるとらまん
   ユンケル、くくるで働きたいと思ったのはどうして?
ゆんける
  同じ病気のマイケルが働いている姿をみて、自分にもできると思った。
うるとらまん
  マイケルが頑張っている姿をみて、自分もやってみたいとおもったのか? マイケルはすごいことしたね!
 マイケル
  俺は何もしていないよ。ユンケルが働きたいと言うから、紹介しただけだよ。
うるとらまん
  人をやる気にさせることはたいへんなことだよ。すごいよ。うるとらまんにはできないよ。
 
班長
  これが、命令だけして、自分は何もしない人が、いたら、押さえつけられているようで嫌だと思う。
  指導員とかだったら、上の立場から、判断すると、やる気なくすよ。ぼくも障害者だから、同じ障害者の仲間だとの気持ちで接している。
   
12月22日 
うるとらまん
 ユンケル、おはよう。気分はどう?
ユンケル
 いいです。
班長
 今日は元気いいね!仕事に自信がでてきたんだろうね。笑顔がふえていきたな!
うるとらまん
 薬はのんでいるか?
ユンケル
 飲んでいる。夜9時には必ず飲んでから寝る。
 
 
12月25日
  金曜日にユンケルの病院から電話があった。
 月曜日と木曜日の二回はくくるで週3回は病院でのデイケアでお願いしますとの内容である。
  ユンケルとに電話した。
ユンケル
  月曜と木曜日はくくるで、予約が多い日は、くくるにいってもいいと病院から言われた。
うるとらまん
  そうか。よかったね。初めは週2かいからはじめて、なれてきたら、増やしていけると思うよ。
ユンケル
  もっとくくるにいきたい。
うるとらまん
  うれしいね!ありがとう。でも、医者のアドヴィスは大事だ。まずは週2回。医者が週2回は大丈夫と思ってくれただけでもいいじゃないか。それだけユン  ケルがきちんと、薬を飲み、デイケアいってい るからだよ。 

ユンケル
  わかった。

うるとらまん
  じゃ、月曜日だね。

12月27日
ケントミさんがくくるにランチにきていただきました
ケンさん
 うるとらまん、マイケル、ユンケルて誰ね!
うるとらまん
  誰ですかね!ここのメンバーの誰かです。
ケンさん
  マイケルはエレキギターがうまいそうだね。マイケルは、ギターができるんだよね。くくるでバンドつくってみたら。 
班長
  いいですね!仕事ばかしだと、面白くないから、バンドはいいと思います。楽しみながら仕事したいもんね。    
マイケル
  まあね!悪くはないけど!班長の歌を聞いたことがないから、判断むずかしいな!
うるとらまん
  じや、山里フォーク村(フォークバー)で班長の歌を聞いてみよう。
班長
  審査があるの!いいよ。

うるとらまん
  今度の水曜日の夜は班長の歌がきけるね!
トミさん
  うちは、すべてをさらけだしてやっている。人に喜んでもらえれば、自分が元気になれるよ。
  (ケントミさんは、沖縄各地でイベント、講演をおこなっている)
うるとらまん
  人を元気にしたら自分が元気になれる。いいですね。だからケントミさんは病気に負けないんですね!
マイケル
  おいいおい、うるとらまん、まだ、班長の歌をきいていないよ。聞いて後、考えよ!
ケン
  ケントミもくくるを一生懸命応援するよ。まずは、やってごらん。

12月28日
マイケル、班長、うるとらまん三人で、友人のお店、山里フォーク村で飲んでいます。
  うるとらまん
    今日はぼくがおごるから、ドンドン飲んで。
  マイケル
    うれしいね。では、遠慮なく、ビールおかわり。班長、カラオケ歌ってよ。 
  班長
    いよいよ審査か。長淵剛の歌お願いします。 班長がカラオケを歌っています。
 うるとらまん
   班長、歌うまいですね!
 マイケル
   まだまだだな!再審査が必要だな!
 班長
   再審査なの。厳しいね!


1月3日
うるとらまん
  マイケル、最近は、ユンケルだけ、はずしてのみにいくことが多いな!
マイケル
  ユンケルは薬を9時に飲むからな。薬を飲むと、車の運転ができなくなるんだよ。
うるとらまん
  今日はユンケルの家に酒もっていこうか! 
マイケル
  電話したよ。家で待っているて。彼の友人もきているみたいだよ。幼馴染だ。
  ユンケルのことは、よく知っているし心の病気が発症する以前のユンケルのこともわかるからね!
マイケルと一緒にユンケルの家につく。
友人
  ユンケルが、くくるで働くようになってだいぶかわりました。明るくなりました。友人として、うると らまんにお礼を言いたかったです。
うるとらまん
  明るくなりましたか。うれしいね!

友人
  病院より、くくるが楽しいて、生きがいを感じている。明るくなってきている。
マイケル
  一通りのデイケアを経験すると病院は飽きるよ。
友人
  くくるはインターネットで見ているけど、温かみを感じる。ユンケルが働くには最高だと思う。
うるとらまん
  そうでもないよ。これも、マイケルのおかげだよ。マイケルがユンケルのことを弟のように、かわいがってくれるからね!
  それにしても、思ったより、部屋はきれいだね!男独身の部屋は汚いものだけど!
マイケル  
  ユンケル、飲もう!人生楽しくいこう!

 
1月8日
  
神響ライブ予定通り、8時にスタート。
演奏の途中、神響さんと、マイケルがギターを弾きながら歌いだす。これが、なかなかいい!

マイケル
 やっぱり。プロはちがいますね!こんなに気持ちよくギターをひいたのは初めてです。刺激にもなるし勉強になりました。
神響さん
 いえいえ、こちらこそ、また、お願いします。

ライブが終わり、打ち上げのとき、ちゅらさん、ケントミさんからマイケルへの激励のメールを伝える。何も言わないが、本心はうれしいと思います。

1月22日

うるとらまん
  マイケル、神響さんからメールあるよ。
マイケル
  どれどれ、なんて書いてあるの?

  マイケルさん!
初セッション凄く良かったですね♪また来月のliveでもセッション楽しみにしてます!
くくるでのマイケル、ワンマンliveを行う日も近いのでは?神響も影ながら応援させてくださいね!
音楽は心に豊さを与えます!お互い楽しみましょう(^O^)/
マイケル
  近いうちに、神響さんのお店にいきます。よろしくとメールしてくれ。
力強い神響さんのエールに涙ぐむマイケルであった。

1月26日

うるとらまん
  マイケル、先週の木曜日は病院いったか?
マイケル
  いっていない。一ヶ月ぐらいいっていない。朝が起ききれなくて。
うるとらまん
  電話で起こしたよ。
マイケル
  二度寝をした。
うるとらまん
  明日は必ずいけよ。仕事は休みだからね。
マイケル
  やばい、薬がきれた。明日は必ずいく。



2月?日 
うるとらまん
  ケントミのトミさん、ガンが進行し移転しているらしい。
マイケル
  ・・・・・・・(絶句)
班長
  でもトミさん、パワーあるから大丈夫だよ。
純子
 ・・・・・・・(絶句)
うるとらまん
 班長の言うとおりだね。トミさん、パワーあるもんね!
 そうだ。くくるバンド練習がんばろう。くくるの音楽でトミさんに喜んでもらおうよ。ガンなんか笑い飛ばしてしまおうぜ。





2月2日 くくるバンドの結成式が行われた。

決意発表してもらいました。
心を分かち合えるくくるのメンバーとの出会い、そして夢、希望は最高の力です

テレビで紹介されました。最後にくくるの練習風景あるよ。




心の病とくくるの乙女

統合失調症の浮き沈み

2月10日
 Aさん
   うるとらまんさん、ユンケルは仕事ができる状況ではありません。
   病院としては当分の間、仕事を控えさせてほしい。
うるとらまん
  そんなに悪いのですか?
Aさん
  うるとらまんさん、 このことはよく覚えてほしいのですが、精神の障害の場合には個人差がありマイケルには大丈夫でもユンケルも大丈夫とはかぎりま せん。 薬も強いのに変えました。元にもどるのにかなり時間かかります。    
うるとらまん
  わかりました。病院の指示にしたがいます。

 うるとらまん
   ごめんな。ユンケル、病院が今は仕事はダメといわれた。    
 ユンケル
   くくるで働きたい。くくるで仕事したい。
 うるとらまん
   でも病院からの許可がないと・・・・・。
 ユンケル
   くくるは楽しい。くくるに行きたい。
うるとらまん
   よし、わかった。ユンケルのお医者さんにあって願いしてみよう。
ユンケル
  ほんとですか。ありがとう。

病院で話し合いましたが病院はNOでした。ユンケル寂しそうでした。今はダメだけど、もう少ししたら大丈夫かもしれない。
希望だけはありました。ユンケル、人生は楽しく行こうぜ!



ユンケル復活
8月11日
ユンケルが久しぶりに友人と一緒にくくるにきてくれたよ。
彼が去年の暮れにくくるで働きたいと言い出した。
だけど、仕事はやる気満々だったが、一ヶ月ぐらいで薬が合わなくてドクターストップがかかってしまった。
でも彼の心は折れなかった。入院もした。通院しながら、くくるで働く思いは捨てなかった。
最近、やっと、彼に合う薬が処方された。
また、くくるで働きたいと言ってくれた。
なんで働きたいのと聞いたら、お姉さんに美味しい料理を作ってあげたいとのことだ。
姉も心の病(1級)を持っている。身の回りの世話は、ユンケルがしている。
両親は早くなくなり、兄弟二人で暮らしている。
昼は病院で食事、夜は冷凍食品で簡単に済ましているとのことだ。
くくるの食事はうまい。こんな料理を姉に作ってあげたいて。
医者の許可が必要だと話したら、医者に相談してみると、すぐに病院に相談しにいきました。 。
ただ、薬の副作用なのか、アル中のように手が震えている。
薬の微調整が必要とユンケル話していた。
彼の思いを実現させたいな。

 
8月20日 
  わくがみさんのテンポの説明にわかりやすい、勉強になったと謙虚なユンケルだ。
 ユンケル、わくがみさんから、何かを得ようと、しきりに、わくがみさんに話しかけていた。
 こんなに積極的なユンケルはみたことがない。
わくがみさんからコメがきました。紹介します。
こんにちは♪
僕は過去『鬱病』で3年余り苦しんで来ました。
それをバネにカウンセラーの勉強もさせて頂きました
だから、ユンケルさんの『見えない敵との戦い』が少しだけ共感出来ます。
うるとらまんさんの言う通り、一歩ずつです。

僕も今に至る迄『一歩ずつ』でしたから(笑)
純粋で素敵な『ユンケルさん』と、これからも友達として仲良く、そして互いに成長出来れば嬉しい限り
今後も二人の『夢』の応援を、皆様で宜しくお願い致します!!
との心温まるコメでした。
わくがみさんの穏やかな、ゆっくりとした話し方、わくがみさんの慈愛のこもった振る舞い、
それはご自身が心の病で苦しんだ経験、それを分かち合い、共に、夢に向かって歩んでほしいと思いからきていることを。
ユンケルは、わくがみさんの思いを命で感じたと思います。


8月27日

ユンケルからメールがきた。 薬調整して体調がとてもよいです!これで、くくるの手伝いできそうです。
薬の調整必要だ。手のふるえがとまらない。先週は薬調整して振るえがとまったが、落ち着かない。微調整必要だ。
ユンケル、くくるで働くために、頑張っているんだな。医者に、伝えること、うまくできないとぼやいていた。
その彼が、一生懸命に医者に話している姿を思うと涙でてくるよ。


8月31日 

今日はユンケルが純子さんにドラムでテンポの取り方を教えてくれました。
純子さん、ユンケルがドラム演奏する姿にかっこいいの連発でした。
ユンケルも教えることが好きと楽しそうでした。
人は人に喜んでもらえることが一番の生きがいだとおもいました。



琉球新報にくくるバンドが掲載されています。


9月

日曜日

 うるとらまん
  おーい、元喜か?

 ユンケル
  元喜じゃない。薬がきれた。薬がない。

 うるとらまん
  今日は日曜日か。明日、病院いけよ。

 ユンケル
  
  明日、病院いく。

月曜日

  うるとらまん
   病院いったか。

  ユンケル
   いった。薬もらった。もう元喜。

  うるとらまん
   ほんと、元喜な声しているね。薬が切れる前に病院いけよ。

 薬の管理は大事だなと一つ勉強したうるとらまんでした。




ユンケル
  くくるの曲を作った。聞いてくれますか?

わくがみ
  いいよ。

ユンケル、エレキを弾きだしました。真剣に聞き入るわくがみさんでした。


9月24日七転びチャークルビー

3ヶ月前、病院に3人とも入院していたときは90歳の元気のないおじいちゃんのようだった。
この調子でいけば最高なんだが・・・。急に調子が狂うことを心配した。

 Aさん
   急に調子が悪くなること多いです。前兆なんかわからない。
   パニックなったとき、親からキチガイといわれたのをおぼえている。 医者も私の病気はよくわからないみたいみたいだ。   
 うるとらまん
   医者がわからないんじゃ大変じゃん。
 Aさん
  医者も試しに薬をあげてダメなら薬にかえるの繰り返しだよ。   
 Kさん
  それはありますね。どうしてだかわからないけど落ち込んでしまうんです。  
わくがみさん
   落ち込んでもいいんじゃないの。人生は七転びチャークルビー
  (転んでばかりいることの意味の沖縄方言)だから。落ち込んだら休んで、また、歩きだせばいいとおもうよ。   

七転びチャークルビーをきいて
 
 ある書道家の言葉 
      失敗してもいいじやない 
           人間なんだから      
 をおもいだした。
 健常者でも落ち込むことはある。
 障害ある人ない人関係ない。 人間だから、失敗すること、落ち込むことはあたりまえなんだ。
 落ち込んだら、ゆっくり休んでもいいから、また、歩き出すことだと思いました。


9月 ユンケルンネーネー
ユンケルネーネーとは去年、初めて顔を会わした。 元喜ねと声をかけるが無表情で返事はなかった。
いつも眠そうな顔していた。

8月頃、西口先生の遊書ライブの話をした。
彼女が初めて「字は好き」と答えてくれた。{元気?」と挨拶して30回目ぐらいで始めての会話だった。
西口先生は丹精こめて彼女に字を書いてくれた。
彼女は字の意味はよくわからないと言った。ユンケルがお姉さんには難しい書といった。
でもユンケルネーネーの顔には、何かがはじけたような晴れ晴れとした顔をしていた。
それから、しばらくして会った。
ケントミさんのCDを毎日聞いているとのことだ。詩がすばらしいと喜んでいた。
ケントミさんのCDで一番すきなのが「時をみつめて」の曲だそうだ。

ユンケルがわくがみさんと、まるで昔からの友達であるかのように楽しそうに話していた。
ユンケルがこんなに初対面の人と話をするのは見たことがない。
その二人の楽しそうな会話を、ユンケルネーネー黙って聞いていた。
うどんちゃんが彼女に声をかけた。初めはポツリポツリ断片的だった。
うどんちゃん、何度でも彼女に話しかけた。
そして先々週の土曜日うどんちゃんが彼女に話しかけた。 驚いた。「なーに」と顔を振り向きながら答えたのだ。
私は涙をこらえるのが精一杯だった。 彼女の劇的変化に同じ病院の友人が号泣していた。
彼女は明るくなった理由はくくるが楽しいからと友人に答えているとのこと。


来週の日曜日に福祉祭りにく出演するけど、楽器なんかしてみないと彼女に相談した。
タンバリンをやってみたいとの返事だった。
鳥肌がたつような感動が私の全身を駆け巡った。 彼女が、やりたいことを意思表示したのは、ものすごい勇気が必要だったと思う。

10月1日


今日はくくるバンドの練習日でした。
いよいよ、明日は宜野湾市の福祉祭りのステージに立ちます。
メチャクチャうれしいことがありました。
ユンケルネーネーが今日は皆と一緒にタンバリンをたたいてくれたことです。
最初は無表情で座っていた彼女が、先日は座敷からタンバリンを叩き、今日は皆と一緒に叩いていました。
「くくるは楽しい。くくるの仲間は楽しい」 と話していた。
ユンケル緊張で寝ていないようだ。 ボーとして全く元喜がなかった。
明日は参加は無理だと思った。

当日の朝、恐る恐るユンケルに電話しました。
ユンケルは元喜な声で「もうすこしで、会場につきますよ}との返事でした。
集合時間に一時間以上も早いです。 やる気満々でした。 昨日のユンケルとは別人でした。
大会当日は全員黒のTシャツをきることになっていました。

ユンケルネーネーをみて驚いた。黒のTシャツを着ているのだ。
舞台にあがるの???
まさか、そんなことはない。
あんなに心を閉ざしていた彼女が舞台にあがることはない。
まさかが実現した。
彼女は舞台に立ち、楽しそうにタンバリンを叩いている。
涙が止まらなかった。皆んな泣いていた。
彼女はこれ以上ない満面の笑顔だった。


10月16日 沖繩市福祉祭り




10月16日、日曜日、沖縄市福祉祭りにMsくくるバンド参加しました。
聾者のドラム担当の純子さん、テンポを頭に描き体で覚えて耳が聞こえないハンデイを乗り越えてきましたが宜野湾市福祉祭りでは緊張ではじめからテンポが狂い、それが最後まで続きました。

そこで今回は間違えたらやり直しをすることを考えていました。

実際、出だしでつまづき、やり直しました。ユンケルネーネーは今回もタンバリンを演奏してくれました。
ユンケルは今回もよく眠れなかったと本番前、厳しい状況でしたが舞台にあがるとかっこよく演奏していました。

10月24日 
ユンケルは宜野湾市、沖縄市の福祉祭りの前日はよく眠れなかった。

眠れないことは彼には一番の敵です。病院の職員に事情を説明しました。
健常者でもイベントの前は緊張するものです。私も明日から韓国いくので昨日は眠れなかったです。
イベント終わっても眠れたら問題ありません。緊張したら眠れなくなるのは健常者も病気持っている方も同じです。
私は安堵した。彼は、祭りの後はぐっすり眠れた。

10月29日

ユンケルから電話があった。
ネーネーが朝、味噌汁作ってくれたとのことです。

ネーネーが作る味噌汁はおいしかったと喜びの電話でした。

11月11日

最近、頻繁にユンケルから電話がくる。
内容は「・・・・でありがとう」とありがとうの言葉が多くなってきた。

先日はミラクル(旧姓ユンケルネーネー)がアーサー汁を作ってくれたと喜びと周りの方々への感謝の電話でした。
20年ぶりに味噌汁をミラクルが作り、今度はアーサー汁を作ってくれた。



10月15日
ユンケルの通院が週一回から月一回になり ユンケルがくくるで働くことを病院、保健所が正式に許可がおりました。
ユンケル、本当によくがんばりました。
職員は語りました。
 完全に完治は難しいと思いますが、今後、薬の量が減り、発病前の健康な状態に近づくことは可能と思います。
 彼は健康管理は自分でできています。
 薬を自己判断で減らすとどうなるか、彼はわかっています。 薬の管理、睡眠が大事です。
 日中嫌なことがあり、それで眠れなくなることありますので要注意です。


11月13日 
保健所職員とユンケルのことで話し合いした。
ユンケルは仕事(厨房での洗い物など)より、音楽をくくるでやらせてほしいと職員の皆さんにお願いした。
ユンケルに大切なのは、まず、家に引きこもることからの脱却だと思ったからだ。
エレキを演奏しているときの彼は生き生きとしていが皿洗いは5分がやっとだったが一ヶ月で1時間の皿洗いができるようになっていた。
音楽の力はすごいな!

11月13日
ユンケルが純子さん英子さんににドラムの叩き方を教えていました。
コミニケーションの問題がありました。
ユンケルは純子さんの手話を注意深く観察し自然に手話を覚えていきました。
私がくくるをオープンした理由はそこにありました。
健常者中心の社会で聾者が健常者にあわそうとして疲れている。お互いに歩み寄ってほしいとの思いがありました。
薬の影響による怠慢な行動するユンケルを聾者のスタッフは遠まわしに見ていました。
ところがユンケルが手話を覚えてくれたことで心を開きました。
音楽を教えてくれることに尊敬さえ抱くようになりました。
彼は、手話を覚え、耳の聞こえない聾者にテンポをどうやって教えたらいいのか悩みながらも汗だくになって教えていました。
教えるたびにユンケルは元喜になりました。


11月20日~24日
 ユンケルは姉のことを一番に考えて行動している。 ユンケルは昨日までできたことができなくなっていく姉をどこまでもやさしく介護していた。
くくるでは、ユンケルが仕事している間、ただ、黙って座っていた。
私は、座りぱなしは疲れると思い、倉庫を整理してベットをおいてミラクルの休む場所を作った。
でも、それでは彼女は眠ってばかしいることに気づいた。掃除してくれるようお願いした。
5分掃除したらグタッとなり座り込んでいた。ゼロと5分の違いは大きいと思う。
ミラクルの一言が忘れられない。「これならできる。掃除できる」
すこしづつ、掃除ができるようになった美良来流(ミラクル)に皿洗いをお願いした。 。
美良来流とユンケルの会話です。
  ユンケル
    「皿洗いできたの?」
  美良来流
     「できた。一枚も割らずにできた」
一枚も割らずにできたと喜んでいる彼女みてうれしくなった。
バンドの練習後、ミーテイングをした。
美良来流に楽器ができないかの話し合いになった。
彼女は小学校の頃、2年間ほどピアノを習っていた。
ピアノやってみる? と尋ねると黙ってピアノを弾き始めた。
練習は5分で終わった。
次の日、ユンケルがんニコニコしていた。
昨日、練習30分したとのことだ。

上を向いて歩こうよを演奏してくれた。
薬の影響であろうか、指に力がなかった。
でも一生懸命にピアノを弾いていた。
スタッフの皆、彼女の一生懸命さに涙がでてきた。
上を向いて歩いていこうね!
いつの日か、みなさんに聞いてもらえる日を夢みて!

  うどんちゃんと美良来流がくくるで何か話しをしていました。
 突然、美良来流の大きな笑い声が聞こえました。    
無表情無感動であった彼女が大笑いするまでになりました

うどんちゃんが驚いた声で話した。
  「あれー美良来流、上を向いている。いつも下ばかし向いていたのに」
 うるとらまん
  「ほんとだ。どうしたの」
 美良来流
  「楽しいのに」
 美良来流はうどんちゃんが大好きだ。うどんちゃんに会うたびに元喜になってきた。
 声をかけると挨拶を返すようになり、大笑いするようになり、今度は胸を張って上をむいて歩くようになったよ。
 来週の月曜日(毎週月曜日はうどんちゃんとユンケルのライブの日です)美良来流も参加することになりました。
  




11月28日 ミラクルデビュー

今日は美良来流の初デビューの日です。
さーやるぞとの意気込みが体中から湧き出ていました。
上を向いて歩こうよを演奏しました。
美良来流は一生懸命でした。客様から暖かな拍手が鳴り響きました。医者からも極度の自閉症で家からでることもきわめて困難と言われていた彼女が
上を向いてく歩きだしました!


12月1日~7日 美容室
うるとらまん
  「来月、美良来流が大変お世話になった先生がわざわざ内地からくるよ。何かプレゼントしたいね」

Aさん
  「・・・・ができるといいね」
うるとらまん
   「よし、・・・・でいこうよ。内面の美しさはこれでいいね。外面も変えたいな」

お客様(美容室経営)
   「じゃ、私が髪をセットしてメイクするさ。お金はいらない」
鏡をみたことがなく化粧をしたことのない彼女です。美容室は30年前に一度いっただけです。
自慢だけどくくるのお客様は最高!
どんな気持ちなんだろう?
彼女が変化を求めてきた。彼女がきれいになった姿を想像するだけで心が躍ります。
朝のことです。
 美容室で髪をセットしてもらいきれいになった美良来流です。
 ズボンをみてびっくり、ジーパンをはいています。初月給で姉にジーパンを ユンケルがプレゼントです。
「きれいになったね」と言われ「ありがとう」と返事した美良来流です。
 母が亡くなり美良来流は「ありがとう」の言葉はいったことはありませんでした。

美良来流
お化粧するようになりました。
鏡をみることがなかった彼女が化粧までするようになった姉をみてユンケルはこみ上げるうれしさで涙をこらえていました。
先日は私の友人が美良来流に洋服のプレゼントしてくれました。
髪をセットしてくれる人、メイクしてくれる人、洋服をプレゼントしてくれる人、ピアノを教えてくれる人と美良来流応援団が増えてきました。
美良来流の頑張りに応援したくなるんだね。
5分間の皿洗いを一枚も割らずにできたとの自信から、できることが広がっていきました。



12月19日くくるとくくる

21日の西口賢治遊書ライブでの練習頑張りました。
聾者の純子さんのドラムと心の病ある美良来流のピアノが見事に調和しました。
言葉が通じないハンデイを心の病あるメンバーが手話を覚えてくれました。
心の病ある人の微妙な心理の変化を耳の聞こえない人が理解しょうと努めてくれました。
お互いに心を分かちあい、心を一つにしたときに耳が聞こえないハンデイと不安定なこころのハンデイを乗り越えることができました。
最後は心でした。

12月25日の琉球新報にくくるバンドが掲載されています。
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内容を要約して紹介します。

 支え合い奏でる”奇跡”
 
ろうあ者と統合失調症患者でつくるくくるバンド

心に刻むリズム 体で表現


 聴覚障がい者と統合失調症患者が北中城村和仁屋の手話カフエくくるを拠点に、お互いに支えあいながら音楽演奏に取り組んでいる。
音楽とは無縁だと思っていた耳の聞こえない女性がリズムを刻んで踊り、心の病で外出できなかった姉弟が人前で演奏することで回復に向こうという奇跡の音楽を奏でている。



 くくるバンドは今年2月に結成されの聴覚障がい者Mさん(聴覚障がい者)Aさん(聴覚障がい者)統合失調症のU(統合失調症)きょうだいとMsの平安さん、伊波さんが演奏を支援する。
 ボランテイアで音楽指導しているのはサウンドデザイナーの湧上さんで毎週水曜日に練習を重ねている。
湧上さんは純子さんから「音楽はきらいだ」と聞かされ「だったら好きにさせてみたい」と思い、純子さんにドラム演奏などを指導している。
 Uきょうだいは昨年夏に同カフエを訪れた。それを機に15年間外出できなかったUさんは今年8月から店で働くようになった。
最初は5分しか続けられなかった皿洗いも今では一時間以上こなしている。
姉のUさんも26年間自宅に引きこもっていたが、現在は毎週月曜日の昼に同店でピアノを弾いている。

 練習ではUきょうだいが独学で学んだ手話で聴覚がい害者の女性3人に演奏を助言するなどして互いに支えあって技術を高めている。
女性たちは耳が聞こえないものの、刻まれるリズムの鼓動を体で感じて踊りも披露できるようになった。


琉球新報のコラム金口木舌にくくるバンドが紹介されていますよ。




~金口木舌~(琉球新報 2011年12月28日)
あるロックバンドの演奏を聴いた時のこと。演奏技術も歌唱力も申し分ない。でも心に何も響いてこない。なぜだろう。歌手は終了後、客席に目もくれず無愛想のまま会場を後にした。
▼商売だけで舞台に立っているようだった。感動しない理由が後日理解できた。正反対の出来事に遭遇したからだ。ぎこちない楽器の扱いと歌なのに人々が涙を流しながら聴いている。
▼耳の不自由な女性たちが振動だけを頼りにドラムをたたき、踊る。統合失調症の姉弟がピアノとギターを弾いていた。北中城村和仁屋の手話カフェくくるに集まる人々で結成した「くくるバンド」の演奏だ。
▼週に一度の練習では、病で長年自宅に引きこもっていたきょうだいが、手話を学んで聴覚障がいの女性の演奏を手助けする。女性たちは自宅を出て店に顔を見せることができた2人を励ましてきた。
▼足りないところを互いに支え合う思いやり。その気持ちが音色に溶け込んで聴衆の心に届いていたのだろう。音楽は嫌いと思っていた女性が今では笑顔で「心地よい響きが安らぐ」とスティックを握る。
▼「感情のない世界で生きてきたが、初めて楽しい気持ちが芽生えてきた」と語る姉。幻聴が聞こえなくなった弟は「私には音楽があり、仲間がいる」と言い切った。奏でる姿にレンズを向けていたら、音楽の持つ力と奇跡を感じ、熱いものが込み上げてきた。







2012年1月5日
近くの高校生が応援にきてくれました。
18日、東京から高校生が修学旅行でくくるにきます。
昭和の高校生の私達です。現代の高校生のフイーリングがわかりません。
そこでバンド経験ある高校生にアドバイスしてもらいました。
高校生からみてもおもしろいとのこと。
がんばるぞ。

1月18日 東京都立中央ろう学校修学旅行生の前で ユンケルとミラクルが堂々とスピーチしました。

こんにちは。ユンケルです。
私は中学高校はサッカーで体を鍛え卒業後は水道工事などの仕事をしていましたが23歳の頃、神経質になりすぎて心のバランスが崩れ統合失調症となり家から出ることができなくなりました。
病院の職員が何度も家庭訪問してくれました。
私が病院のデイケアーにいけるようになるまで10年かかりました。
 去年の夏ごろ、くくるに来ました。
くくるの自然環境と穏やかな雰囲気に、ここで働きたいと思いました。
でも、病院は働くことを許可してくれませんでした。
病気になり、働いたことがなく、5月には入院していました。

それでも私は、自立したい、働きたいと思いました。
手のしびれが止まりませんでした。
すぐに病院にいき、薬を調整してもらい手のしびれは止まりました。しかし、その薬の副作用で落ち着きがなくなりました。
病院にいき調整してもらいました。
自分に合う薬に出会うまで何度も病院に通いました。
医者は、薬の管理ができるようになった私を働くことの許可をしてくれました。

9月に宜野湾市福祉祭りにくくるバンドで出演することになりました。
それに向けてみんなと一生懸命練習しました。わくがみさんから音楽を教えてもらえることは、一番の楽しみでした。わくがみさんの音楽理論、技術に新鮮な驚きがありました。
15年間、家からでることができなかった私が、わくがみさんに会えることが楽しくなり、家から出ることが楽しくなりました。
耳が聞こえなくても、ドラムの響きで音を体で感じ、あきらめない純子さん、英子さんに、心に響くものがありました。
最初は5分の皿洗いも辛かった私ですが、今では一時間皿洗いできるようになりました。
くくるにきて、あれほど辛かった幻聴、幻想は一度もありません。眠れない日々が続くこともありません。
しかし、薬なしでは、眠ることができません。病気との闘いは続きます。
私には音楽があります。仲間がいます。応援していただける皆様がいます。夢があります。みなさんの激励のおかげで家からでることが一番の目標だった私が、毎日、くくるにきています。
これからも、ゆっくり、ゆっくりですが、一ミリでも前に進んでいきたいと思いますので応援宜しくお願いします。


 こんんちは美良来流です。
私は17歳の時、不眠症から心の病となりました。
高校は中退し母親と買い物行く以外は家に引きこもるようになりました。

 平成15年に母が亡くなり弟と二人だけになりました。
一緒に買い物にいく母が亡くなり精神障害1級になりました。
無気力で喜ぶこと泣くこと感情のない世界に生きてきました。

 去年の夏頃、くくるにきてうどんちゃんとの出愛いがありました。
うどんちゃんは私がどんなに無視をしても「ネーネー元喜ねー」といつもやさしく声をかけてくれました。うどんちゃんの明るさと思いやりに凍りついていた私の心がすこしづつ溶け出してきました。
うどんちゃんと会えることが楽しくなりました。
病気になって初めて楽しいとの気持ちが芽生えました。

9月に宜野湾市福祉祭りにくくるバンドとM‘sで参加することになりました。
私も仲間に入れてほしい、音楽をしたいとおもいましたが誰も声をかけてくれませんでした。
私には無理、無理をさせてはいけないと思っていたと思います。
そんなある日、うどんちゃんが「やってみる、無理しなくていいよ」とタンバリンを差し出してくれました。
最初はみんなの輪にはいることはできませんでした。みんなと離れたところでタンバリンを練習していました。
でも音楽が楽しくなり、気が付いたらみんなと一緒に練習していました。

 病気になってお化粧したことも鏡もみたことありません。いつも青いジャージにトレパンでした。そんな私をくくるのお客様が私にパーマ、メイクしてくれました。
30年ぶりの美容室でした。私の部屋に化粧水、ムースなどが増えてきて外出するときは鏡を見るようになりマネキュアするようになりました。


くくるのスタッフが「きれいになったね」と言ってくれました。
「ありがとう」とお礼を言いました。
この10数年、ありがとうの言葉をいったことはありませんでした。


 最近、ピアノを練習始めました。一分の練習でも頭がボーとしました。でも楽しいんです。

仲間と練習すると音楽が楽しいんです。いつの間にか頭がボーとすることもなく1時間練習できるようになりました。

最近、よく眠れるようになりました。30年間の眠れない辛さ、どうすることもできなかった心の病の苦しみが遠い過去になろうとしています。

薬も以前の半分になりました。

 激励してくださった皆様のおかげで幸せになりたいと思うようになりました。幸せなど考えたことありませんでした。

私の夢は病気に負けないことです。その思いを(上を向いて歩こうよ)をピアノでひきます。
聞いてください。


テレビで紹介されました。


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沖縄タイムス、琉球新報に掲載されています。



1月19日~2月15日


放映直後にユンケルから電話があった。
 うるとらまん
    「テレビみたよ 」

ユンケル
    「ありがとう。緊張したけど話せました」

 うるとらまん
    「あれだけ堂々と話せたらすごいよ」

ユンケル
    「自分も話せるとは思わなかった」

 うるとらまん
     「美良来流にかわって」

美良来流
     「はーい}

うるとらまん
    「元喜いいね。テレビかっこよかったよ。みんなびっくりしているだろう」

美良来流

    「はーい」
 美良来流、元喜な声で答えていた。
 

   美良来流、ユンケルは良く頑張ってくれた。夜は外出を控え睡眠をしっかりとり、薬の管理も徹底していた。
 しかし
 美良来流、ユンケルは風邪をこじらせてしまった。
自分は姉、自分ががんばらなくてはとの気持ちが彼女の微妙な心のバランスを崩してしまった。
姉思いのユンケルも姉のことを心配して調子を崩してしまった。
本当に二人の心はきれいだ。きれい過ぎて調子が狂ってしまった。
 寒い2月、外出することは彼らには負担が大きい。そこで2月は休んでもらうことにした。

心の病とくくるの乙女

2012年12月~2013年 12月
2012年 12月  
12月に初めてバルさんにあった。
躁うつ病で元気がなくすべてのことに自信がないように見えた。   
純粋な男だ。病気が憎くなった。こんないい男を苦しめる病気を体から出て行けと叫びたい気持ちだった。
彼は病気が発症する以前は普通に働き結婚をし子供もできた。

しかし、その頃から自分の異変には気づいていたが病気とは思っていなかった。
仕事に失敗し、新築したばかりの家も手放してしまった。
眠れなくなった。病院で躁うつ病と診断された。
妻は彼の病気を理解してくれなかった。仕事ができなくなり離婚。借金のことで親戚に迷惑をかけたことが彼を苦しめた。
自殺未遂を図り2年間入院した。

退院して仕事をした。
病気のことを隠して働いた。そうしなければ働けないと思った。
しかし、それが彼を追い詰めてしまった。仕事をはじめて2ヶ月後に体が動かなくなった。
仕事をしたい、頑張りたいと思っても体は動かず時間だけが過ぎていった。

仕事を失い自信喪失した。

12月
  
 バルさんは音楽が好きでくくるの乙女に興味を抱いていた。
 そこでくくるの乙女が演奏している様子を見てもらった。
 耳が聞こえなくてもドラムを叩きキーボードを演奏するくくるの乙女に彼の心は動いた。
 
 その頃から今の自分を変えたい、前向きなことを話してくるようになった。
 それ以前は過去の失敗の話だけで未来の事を語ることはなかった。
 

 以前、病気を隠して仕事が続けられなかった。そこで病気への配慮がある就労A型の職場を希望した。
 しばらくして就労A型の職場が決まった。 しかし、自信がなかった。
 突然襲ってくる脱力感、無力感、過去の失敗が邪魔した。
 
 くくるで働かせてくれと言ってきた。仕事に自信がないので仕事に慣れておきたいとの事でした。
 嬉しかった。もちろん。OKでした。



2013年1月
 バルさん、チラシ配り、調理補助など一生懸命やってくれた。
 チラシ配りでは突然雨が降りだしたこともありましたが黙々とチラシを配ってくれました。
 仕事は遅いですが丁寧な仕事でした。

 一月の終わり頃から就労A型で働き始めました。

 今の目標は2年間仕事を続けることです。
 それができたら一般就労してお金を稼ぎたいそうです。


 
10月5日
 バルさんと
  夢について語った。

 彼の夢は体験発表をすることだ。体験発表したい理由は二つあった。
 一つは娘の事だ。
 娘とは10年ぐらい会っていない。結婚しているかもしれない。
 今の自分では会いたい気持ちはなれない。
 仕事を頑張りオヤジは元気だよと伝えたい。

 二つ目は同じ病気で悩んでいる人の事です。
 周りの人の理解が得られず辛い体験をしてきた。
 躁うつ病で悩んでいる人に俺も辛かったけど今は元気だよと言いたい。
 

  三つ目は音楽を楽しみたいです。
 今は仕事を続けることで精一杯。先ずは仕事を継続すること。それができたらくくるの乙女と
 一緒にライブがしたい。マイケルと心の病ある仲間とライブがしたい。
 
 バルさんはこの三つの目標に向かっています。時には落ち込み、焦り、踏ん張り、自己嫌悪
 との葛藤・・・・そう簡単に良くなる病気ではないです。

 でも希望と夢はそんなバルさんを支えていると思います。
 

 
 私も夢みています。 3年後 5年後、バルさんが体験発表しライブのステージに上がっている姿を!


 12月12日

先日、バルさんと話をした。
彼は本を読むとボーとして何を書いているのかわからなくなる。
ウツ病を発症してからは新聞を読むこともあまりなくなった。
彼はS新聞を愛読しているが積ん読の状態だ。
一ヶ月ほど前、人○革○ の小説だけでも読んだらと話した。
読んでみると言った。
それから彼は読んでいるようだ。

内容を理解しているとかは疑問だが、読み続けていることは凄いと思う。

私にはよくわからないが、どうしょうもない無力感が襲ってくるとのことだ。
そんな中での読書だ。
今までできなかったことに挑戦しているバルさんだ。
声が弾んでいた。ほんの少し、顔をあげるだけでも違った世界が見えると思う。
バルさんと話をしていると元喜になってくる。

  
12月20日
バルさんと初めて会ってから一年となった。一年前のバルさんと今とでは雲泥の差だ。
自信も希望もなく、どうやって生きていけばいいのか、ただ生きている感じだった。
仕事をし、自分で稼いだお金を自由に使えることは幸せなことなんだと思った。



焦らず、ゆっくり、一つ一つの目標を達成してほしい。
来年の1月27日(?)で仕事が一年となる。一年仕事をやりきったら自信がつくだろうな。
楽しみだ。バルさん、今年はいい年だったね。来年もよろしく。

心に残った事

くくるの乙女で心に残った場面を集めてみました。
    

耳が聞こえないくくるの乙女と車椅子の宮城さんです。
  宮城さんは首から下は動かすことはできません。健常者であれば身振り手振り、手話を覚えて会話ができますが宮城さんにはできません。

  くくるの乙女も宮城さんのような重い障害ある人と会ったことはありません。宮城さんもろうあ者と会ったことはありません。
  お互い会話をしたがっていましたがギクシャクしていました。
  
  宮城さんはハーモニカを演奏します。首から下は動かない宮城さん、自分ができるのもは何かと考えハーモニカを思いつきました。
  ハーモニカを固定して演奏すれば手が動かなくても演奏できます。 

  最初はハーモニカは口で吹いているだけで精一杯でした。やがて力強さがでてきました。
  首から下は動かない宮城さんですがお腹から力を出せるようになっていたのです。
  医学で考えればありえないことです。でも現実におきたのです。

  あるライブのことです。
  宮城さんが一生懸命ていんさぐの花をハーモニカで演奏しています。それをじっとみているくくるの乙女です。
  彼女達には宮城さんのハーモニカの音は聞こえません。
  それでも宮城さんのハーモニカを聞こうと一生懸命です。やがてお客様の拍手している様子をみてハーモニカの演奏が
  うまくいったことがわかったくくるの乙女は「やったね」と満面の笑顔でした。
  宮城さんも笑顔で返してくれました。一生懸命て素晴らしいと思いました。
  



マイケルと宮城幸春です
 マイケルに宮城さんは激励のメールを送っていました。
  宮城さんの心暖まるメールは頑なに閉ざしていたマイケルの心にヤル気を与えてくれました。
 首から下が全く動かない宮城さんは口にストローのようなものをくわえパソコンを操作します。自分ができることを精一杯、誠実にする宮城さんにマイケル は確かなものを感じたと思います。
 マイケルは車椅子マラソン大会でのライブ終了後に宮城さんに話しかけました。
 「いつも連絡のメールありがとう」とお礼を言いました。
 長年、心の病を患っているマイケルにとって「ありがとう」の一言を言うことは簡単ではありません。
 障害の違いはあるけど人と人を結びつけるのは「くくる=心」だと思いました。



2012年02月25日
くくるでリコちゃん(ダウン症)ピアノを演奏してもらいました。
いつも母が一緒でしお母さんと一緒でないと不安なリコちゃんでした。

ところが、その日は母はそばいません。テーブル席からの見守りでした。

お母さんが側にいないと、やはり不安と緊張な様子です。
演奏中何度もお母さんの顔をみるために振り向いていました。

母親は強いと思いました。

娘が障害を乗り越え幸せに生き抜いてほしい、駆け寄りたい気持ちを堪えて心の中で一生懸命応援していました。


お母さんが側にいなくても演奏ができたことは小さな一歩だったかもしれませんが、そんな一歩一歩の積み重ねを親子は積んできました。

そんな親子に出会えて私は幸せな気持ちになりました。



2012年03月04日


くくるの乙女との練習の様子です。





2012年05月21日 


先日は美里中学校でミニライブしました。

集団ではパニックなることもあるリコちゃんでしたが当日は見事に翼をくださいを演奏して一番大きな拍手を頂きました。



母さんの手紙が紹介されました。

 
 娘は生後一ヶ月でダウン症と診断され、私たちはあまり知識ないまま知的障害、心臓に疾患がありますと言われ、どんな風に育ててといいのかとまどったのを今でも鮮明に覚えています。
それでも元気で生まれてきて命があるだけでも良かったと感謝し子育て一生懸命がんばりました。3歳で心臓は完治しピアを習い始めました。

12歳ごろから歌を習い成長とともに素敵な出会いがたくさんあり最近ではくくるバンド、ケントミバンドと出会い今日このステージ
で演奏できる事にとても感謝しています。
私たちは娘の成長とともにいろいろな人と出会い命の大切さを学びました。一日一日を無事に過ごせたことをあたりまえではなく感謝の気持ちで生活しています。
皆さんも両親からもらった命を大切にしてくださいね!

2012年05月29日
りこちゃんの夢は保母さんの助手になることだ。
お母さんと一緒に買い物に行き、お釣りの計算ができるよう頑張っている。
家の掃除、特にトイレ掃除が大好きなりこちゃんだ。
もう一つの夢は大学進学です。
今では一芸にすぐれていれば入学できる大学がある。得意のピアノで勝負です。
保育園の先生の助手への夢、大学進学への夢に向かいリコちゃん頑張れ!



2012年1月
涙涙の結婚式でした。トミさんの娘さんの結婚式行ってきました。
カンナアーテイストさんからの転載です。
花嫁のまどかさんの母親であるトミ~さん(比嘉富子さん)は多発性の癌の中「ケントミ」と言う沖縄民謡バンドを結成し県内外で活躍されている。しかし、この3週間ほど前から体調が急変して沖縄病院へ入院中だったが、母親の執念と言うか素晴らしい生命力で無事退院されて晴れて愛娘の晴れ姿を見ることができた。

昨年4月からこの車いすの花嫁挙式を夢見てきただけに感激はひとしおで・・涙がとまらない結婚式となった。沖縄の人々がカチャーシーを踊る姿も人際感動的で、つい自分も混じって踊りたくなった。


誰もが同じように幸せのベールに身を包み美しく輝く瞬間を・・と願っている。誰もが同じ想いだと思う。花嫁、花婿だけでなく、母親、父親とさらに多くの友人達に祝福されている姿を見ていると本当に実現できたことを心から喜びたい!













トミさん、2012年3月にガンで亡くなりました。
病院に1月頃お見舞いに行きました。私が少し弱音を吐くと「うるとらまん、笑顔でATM(明るく楽しく前向き)でいくんだよ」と怒られました。
さきほどまで危篤状態でした。それでも私のことを思って叱ってくれました。
苦しいことがあるとその時のトミさんの笑顔でATMでいくんだよの声が聞こえてきます。
精一杯生きていこうと思いました。

全盲の読谷山こずえさんくくるでのライブです。





あやなちゃん、うちの純子から手話を教えてもらいました。
聾唖者に喜んでほしいと手話ダンスに挑戦してくれました。これは2010年12月にくくるで披露した手話ダンスです。あやなちゃんには、聾唖者と健聴者の橋になっていただきたいと思います。

‎2010年12月22日北中城村の手話カフェくくるでの
車イス三線シンガー:筋ジストと闘うケンさんと
乳がんと闘うトミさんの
ケントミライブで
初公開した田島あやな5歳手話ダンス
生きる想い♡を伝えたい


仕合わせのウムイ唄

 私の足は動きません でも私の夢はまだ動きます

 愛車に乗って 太鼓をのせて
 
 あなたに唄を届けます

 三線の音と 太鼓の響き 島のリズムを体に受けて

 みんなのお思いを受け止めて 熱い心の唄を届けます

 あなたに勇気を少しだけ 仕あわせのウムイ唄
          

 ハイサイおじーおばーチャーガンジュですか
 いつもても皆さん 元気ですね~

 おじーとおばーの笑顔で私も幸せもらえます

 座ってしか 三味線弾けない私ですけど グブリーサビン
 あなたーがいたから 私達もこの世にうまれてこれました
 暖かな心を繫ぎとめる仕あわせのウムイ唄



 私達も頑張りますから あきらめることだけはしないでください
 私の唄で少しだけでも 元気になれたら幸せです


 短い人生 こんなところで 立ち止まるなんて つまらない

 あなたが生きているだけで 意味のあることだと思います

 あなたの幸せを願って仕あわせのウムイ唄



  
オードリー・ヘプバーン


ローマの休日で有名なオードリー・ヘプバーンは第二次世界大戦中、こんな経験をしました。
オードリーの叔父と母親の従兄弟はドイツに対する抵抗者だったため、
オードリーの目の前で銃殺されました。
彼女の異父兄弟もドイツの強制収容所に入れられました。
オードリー「 脳裏から離れることはありません。
当時、ナチスが町中をうろうろしていました。
ある時、ある瞬間に記憶がよみがえるんです。
大きな建物の横を通り過ぎた時のおぞましい声。
後になって、拷問されている人の声だと知りました。 」
オードリーは栄養失調のため急性貧血症、呼吸困難、浮腫を患いました。
戦争中、食料がないときはチューリップの球根を食べ、飢えをしのいだといいます。
ようやく戦争が終わり、彼女は努力を重ね女優になりました。

1989年に最後の映画を撮ってから
彼女は国際連合児童基金のユニセフ親善大使に就任し
内戦の続くソマリアやスーダンなど9カ国の子どもたちを抱きしめ、笑顔を届けました。
就任の際に、オードリーは
「わたしは、ユニセフが子どもにとってどんな存在なのか
はっきり証言できます。
なぜって、私自身が第二次世界大戦の直後に、
食べ物や医療の援助を受けた子どもの一人だったのですから。
幸せな子供時代を過ごすチャンスをみな与えられるべきです」
と語っています。
晩年50代になり慈善事業をする彼女がスクリーンに映る姿を見て
多くの人は老けた顔、シワの多さにガッカリしました。

オードリーは答えました。
「顔のシワは多くの出会いを重ねた愛の証です。
私は昔の顔より、今の顔が好きです(^^)」

1993年、63歳でオードリーは世を去りました。
オードリーは村の小さな共同墓地に葬られました。
愛するトロシュナを見渡せる小さな丘の小さな共同墓地に眠りました。

 


 











">美しい口と瞳がそうあり続ける為には
美しい唇である為には、美しい言葉を使いなさい。

美しい瞳である為には、他人の美点を探しなさい。

オードリー・ヘップバーン

美しい唇は美しい言葉で

美しい瞳は他人の美点で

唇も瞳も

どの様に使うかでその物の美しさが発揮される

見た目は美しい唇でも

愚痴や文句や罵倒する言葉を使うと

誰にも美しく見えない

美しいキラキラしている瞳でも

他人の欠点や

他人の間違い等

探していると

くすんだ目に見える

どんな美しいものでもです


その物の使い方が他人からどの様に見えるかを決める

どんな人の口でも

どんな見た目の口でも

発する言葉が他人からの評価になる

見た目じゃなく発した言葉

瞳も他人の何処を見るかで

美しさが変わる

その口

その目

どの様な情報を発信していますか?

発信した情報は周りを幸せにしていますか・

周りを幸せにする情報を発信するものは

全て美しく見えるのでしょうね

どの様に口を瞳を使っていますか?
毎日コツコツより

 


 

















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