展示内容

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東京展出品作品の変更について

奈良、斑鳩の地に飛鳥時代から続く法隆寺は、聖徳太子の教えを今に伝える祈りの場として、人々に親しまれています。 太子の教えとともに守られてきた多数の美術工芸品は、日本屈指の質と規模を誇り、文化財の一大宝庫ともいえます。このたび、東日本大震災からの復興を祈念するとともに、新潟県中越地震復興10年という節目の年に、法隆寺の寺宝の数々を公開する展覧会を開催いたします。除災や国家安穏を祈って造られた金堂(国宝)の毘沙門天、吉祥天(いずれも国宝)をはじめ、奈良、飛鳥時代以降の優れた彫刻や絵画、色鮮やかな染織品を含む工芸など仏教美術の粋が出陳されます。また、フェノロサや岡倉天心による明治期の調査を発端として、法隆寺所蔵の文化財保護と継承に携わってきた 東京美術学校(現・東京藝術大学)の活動や、法隆寺を主題に制作された近代の絵画・彫刻なども紹介します。約70件の名品を通じて、法隆寺信仰への理解を深めていただく機会となります。

見どころ

〈その1〉 法隆寺の至宝を総合的に紹介する、 東京では約20年ぶりの大規模な展覧会です。/〈その2〉 法隆寺金堂(国宝)から、国宝・毘沙門天、国宝・吉祥天が出陳されます。除災、国家安穏、五穀豊穣を祈念して造られた貴重な国宝彫刻2像が、 出陳されます。平安時代の色彩が見事に残り、当時の美を今に伝えます。/〈その3〉 飛鳥後期の至宝・金堂壁画を、貴重な模写で再現します。戦後の火災で焼損した金堂内部を、日本画家たちの模写で再現します。/〈その4〉岡倉天心にはじまる東京藝術大学との関わりをひもときます。フェノロサとともに夢殿を開扉し、文化財保護に先鞭をつけた岡倉天心。東京藝術大学に引き継がれる古美術研究と、法隆寺との深い関わりを紹介します。 /〈その5〉近代美術の大家による法隆寺を主題とする絵画・彫刻を紹介します。 和田英作、安田靫彦、杉山寧をはじめ、法隆寺に魅了され、表現してきた芸術家たちの逸品を紹介します。

法隆寺とは

法隆寺

法隆寺は、推古天皇15年(607)、聖徳太子によって創建された日本を代表する古刹です。その歴史は、仏教の振興に力を尽くした太子への篤い信仰とともに発展し、約1400年の間受け継がれてきました。建物は、金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍からなり、平成5年(1993)には、現存する世界最古の木造建築物群として、日本で初めてユネスコの世界文化遺産に登録されています。また、法隆寺に伝わる文化財は数万点にも及び、美術工芸品においては、国宝20件、重要文化財125件を有しています。

展示構成

第1章 法隆寺 その美と信仰 法隆寺の仏教美術/推古天皇15年(607)、聖徳太子によって建立された法隆寺は、天智天皇9年(670)の火災により、伽藍はすべて灰塵に帰したと伝えられます。その後、復興された金堂や塔を中心とする西院伽藍は世界で最も古い木造建築であり、法隆寺地域の仏教建築として世界遺産に登録されていることはよく知られます。しかし、建築以外にも彫刻、絵画、工芸にも、飛鳥時代以来の優れた作が多く残されていることも注目されます。第1章では、止利派の様式を強く示す金銅菩薩立像、伝法堂東の間の木心乾漆阿弥陀三尊像といった彫刻、絵画では、信仰の中心であった太子を描いた聖徳太子像や、息災を祈る孔雀明王像、工芸では今も色鮮やかな綾や平絹の染織品、また胡面水瓶や天蓋を飾った天人や鳳凰など、飛鳥、奈良時代を中心に法隆寺に伝わる名宝を紹介します。とくに金堂内陣の釈 三尊像(国宝)の左右に安置された国宝の吉祥天立像、毘沙門天立像は、除災、国家安穏、五穀豊穣を祈る吉祥悔過会本尊として承暦2年(1078)に造像されたもので、彩色の美しさでは平安彫刻のなかでも屈指の作です。
第2章 法隆寺と東京美術学校/明治政府の欧化政策と神仏判然令によって廃仏毀釈が進み、南都(奈良)の多くの寺院が苦境に立つ中で、明治17年(1884)に法隆寺夢殿を開扉して秘仏の救世観音像を拝し、その美を発見して日本伝統美術の価値を認識したのはフェノロサと岡倉天心たちでした。同年に文部省内に図画教育調査会、翌年に東京美術学校設立準備室である図画取調掛が設置されて、岡倉はその中心として近代美術教育の整備に努めます。明治20年(1887)、勅令により東京美術学校が設置され、2年後の明治22年(1889)に、日本画、木彫、工芸など日本伝統美術を範とする教育機関として開校しました。それ以来、南都の寺院とりわけ法隆寺と東京美術学校の関係は深く、彫刻の先生が聖徳太子像を造り、工芸の先生が法具を納め、日本画の先生が金堂壁画の模写などを行ってきました。その金堂壁画が昭和24年(1949)に焼損すると、翌年に文化財保護法が制定されました。以来、東京藝術大学は日本美術のみならず、その源流であるアジアの美術の保護にも尽力しています。
第3章 法隆寺と近代日本美術/フェノロサとともに法隆寺の夢殿を開扉して、日本伝統美術研究の嚆矢となった岡倉天心は、やがて東京美術学校の校長を務め、退任後は日本美術院を創設しました。その天心に奈良での修学を勧められたのが若き安田靫彦でした。明治の末に人影のない境内を通り金堂に入った靫彦は、堂内に立ち並ぶ仏たちに圧倒されたといいます。明治41年(1908)に24歳にして六号壁画を模写した靫彦は、その後も歴史画を得意として、法隆寺の金堂壁画の模写事業でも指導的な役割を果たします。明治以降の近代日本画は江戸絵画の伝統を脱して多様に展開する中で歴史画というジャンルを確立させますが、それには西洋絵画の影響もある一方で、多くの画家たちが南都・奈良の社寺仏閣に魅了されたことも大きな要因です。その中でも、広い境内に飛鳥以来の雰囲気を漂わせる法隆寺は別格で、吉岡堅二、杉山寧、吉田善彦といった画家たちが、その景観や法隆寺に縁の深い仏像、仏画、そして聖徳太子を描いてきました。