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第捌章 火器

2)洋式銃
 西洋で製造された銃器の総称。文化四(1807)年に起こったフェートン号事件以来、鎖国体制の中にあって西洋砲術の強大さを察知した西国雄藩は、早くも洋式銃の研究に取り掛かり、薩摩・佐賀の両藩は、幕末には既に初歩的な洋式銃の生産を可能にしていた。一方、幕府も嘉永六(1853)年の黒船来航以来洋式砲術の採用を決定、湯島に江川太郎左衛門の指導に基づき鉄砲製作所を設置、高島秋帆を登用して洋式砲術の教授を計る等積極的な軍備改革を行った。ここに至ってようやくその他の諸藩も洋式銃の採用に踏み切った。
 海外では丁度この頃アメリカで南北戦争が終結、大量の銃器が余っていた。そこで西洋の商人達は、日本の幕府・大名にこれら新旧取り混ぜた様々な銃器を売りつけた。これらの取引は主に長崎・横浜で行われ、一年で実に6〜10万挺もの銃器が輸入された年もあり、幕末日本の主要輸入品目の一つとなった。その総数は莫大なもので、戊辰戦争終結後日本国内には50万挺の洋式銃が有ったと言う。
 なお、口径とは銃口の直径の大きさを示し、例えば44口径とは即ち44/100×1インチ(2.54p)=1.12oの銃口の大きさの銃を示す。
 この銃器の使用には銃器技能を用いる。

ゲベール銃
ゲベール銃 1670年代にフランスで開発され、1777年にオランダが制式採用し、十八世紀のヨーロッパ各国の主力銃となった。ゲベール(Geweer)とはオランダ語で小銃を示す。
 日本に於いては天保二(1832)砲術家高島秋帆がオランダから輸入したのが始まりとされる燧石式洋式銃。燧石式の為、火縄式よりは装槙時間が短縮され、更に雨に強い。洋式銃ではあるが照尺すらなく、造りがいい加減な物が多く国産の火縄銃よりも命中率が低くかった。これはこの銃が元来「ナポレオン式」と言われ、かのナポレオンがその独自の戦術の中で、敵の密集兵団の中に撃ち込んで混乱させる為に作った銃である為、精度よりも射程の長さと大量生産の為の構造簡略化に重点を置いて作られた為である。しかし火縄銃と同じく滑腔式前装銃で構造が簡単であったため国内各地で模造され、薩摩・長州と幕府軍双方に広く使用された。滑腔式銃とは、銃身に溝が刻まれていない銃器の事である。溝が刻まれている銃をライフル銃と呼ぶ。威力に於いては格段にライフル銃の方が上であるが、滑腔銃も黒色火薬銃よりは「まし」とされて幕末には多用された。特に戊辰戦争直前に洋式火器に疎い東北諸藩が洋式銃としてこの装備を購入したが、旧式化したこの銃では幾ら洋式装備とはいえ西軍には敵し得なかった。
 後に管打式が流行すると、ゲベール銃も
管打式に改められ、使用する弾薬もブリチェットに改められた
 構造が単純で大量生産に適し、更に旧式化して世界的に余っていた為に幕末の後半から大幅に値崩れを起こし、第二次長州征伐時は1挺5両、戊辰戦争時は1丁1〜2両に下がった。もっともこの価格は藩等の組織単位による一括購入の価格であり、個人で購入する際には下記の一覧表の価格に準ずる。

口径:18o
全長:150p
重量:4s
ライフリング:なし
前装管打式 3つバンド 固定式照門 着剣可能

カラバイン銃
 ゲベール銃を騎兵用に改良した物。馬上で用いるために銃身を短くし、銃床の左側に移動式の担銃リングが付けられている。また銃床が短いため槊杖は銃床尾深くに収められている。銃弾は26.3g球形鉛弾、火薬は小粒の黒色火薬8.05gであり、パトロンに纏められている。
口径:18o
全長:100p
重量:3.3s
ライフリング:なし
前装管打式 2つバンド 固定式照門 着剣不可

ヤーゲル・ライフル銃
ヤーゲル銃 ヤーゲル(jager。ドイツ語読みの「イェーガー」の方が馴染みが深いかも知れない)と呼ばれる兵士が使用するライフル銃。イエーガーは狩猟兵若しくは軽歩兵と翻訳される。狩猟兵は重装歩兵が戦列を構築し交戦を開始する前に密かに敵戦列に接近し、敵指揮官を狙撃し戦列を攪乱するのが役割である。
 ヤーゲル銃は狙撃用の為、照門はそれなりに命中率の高い二段切り替え式で、銃身には7条ものライフリングが刻まれ、命中精度を高めている。しかし、銃弾は火縄銃やゲベール銃と同じ丸弾を使用しているため、装槙に時間がかかるという難点を持つ。引き金は2段式のセット・トリガーで、2個の引き金が並んで見える。発射時には前方の引き金を前に押してから、手前の引き金を引く。
 銃身はオクタゴンバレル(8角銃身)で、バンドではなく目釘で銃床に固定されている。
口径:17o
全長:114p
重量:3.8s
ライフリング:7条
前装管打式 バンド無し 二段切り替え式照門 着剣不可

 

ブランド型捕鯨銃捕鯨銃
 ジョン万次郎が持ち込んだアメリカ製捕鯨銃。雷管を使用する管打式ライフル。1846年頃にアメリカで発明され、捕鯨ブームに拍車を掛けた名銃である。
 弾丸には、画像の銛型弾の他にも、鯨に刺さると衝撃で内部の火薬が爆発し銛を突き出すパイルバンカーさながらの「破裂矢(鯨火矢とも。原名はボンブランス[bomb-Lance])型弾」と云う物が有る。
 幕末に海外を漂流し、アメリカの捕鯨船長にまでなったジョン万次郎は、日本でも捕鯨を行う事を計画。この銃を用いて小笠原諸島近海で捕鯨を行い、幕府に捕鯨の利益がある事を知らしめようとしたが、思うように利益が上がらず失敗した。その後、明治時代に至って漸く平戸でこの銃が量産され、明治初期からノルウェー式捕鯨砲が導入される明治三十年代までの間、日本の捕鯨の黎明期を支える事となった。
口径:28o
前装管打式

 

ミニエー・ライフル銃
ミニエー銃 フランス陸軍大尉クロード・エティエンミニエー(Claude Etienne Minie)によって開発された特殊椎実型弾を使用する前装管打式銃。
 1846年にミニエーは鉛弾後部に空間をつくり鉄や木やセラミックを充填し発射時にこの栓が弾体を拡張させライフリングにフィットさせる機構を考案した。この方法は弾薬の装槙を容易にし、その上射程を伸ばし命中率を高める画期的な発明であった。弾薬は39.23g、火薬は5.03gであり、紙製のパトロンに纏められている。
 フランスでは1851年からアルジェリアに駐屯するアフリカ連隊に支給し、威力を示した。日本では特に長州藩やその他の諸藩で最も一般的な「洋式銃」として流布した。第二次長州征伐時には1挺18両。明治元(1868)年には1挺9両。
口径:14.7o
全長:140p
重量:3.8s
射程距離:700m
ライフリング:5条
前装管打式 3つまたは2つバンド 可動式照門 着剣可能

 
 某軍装品店で購入した模造ミニエー弾。
 右の画像は弾丸底部を映したもの。擂鉢状になっているのが見て取れる。

 

エンフィールド・ライフル銃
エンフィールド銃 通称「三つバンド」。画期的な性能のミニエーライフルは欧米各国が採用し、イギリス・アメリカ・ベルギー・オランダ等が生産した。特にイギリスのエンフィールド兵器工廠で生産されたエンフィールド銃は優秀で、1853年に英国で「P1853」の名前で制式採用された他、南北戦争中の南部連合に輸出された。地主上がりの多かった南軍では命中精度の高いエンフィールド銃は重宝されたが、北軍の海上封鎖を受けた為弾薬不足に陥ってしまった。しかし、エンフィールド銃は北軍のスプリングフィールド銃より口径が大きかったので、鹵獲した銃弾を使用して補完したと言われている。
 こうして南北戦争において活躍したエンフィールド銃だが、終戦と共に余ってしまったので、横浜のオランダ人武器商スネル、長崎のイギリス人武器商グラバーら外国商人の手によって幕末の日本に輸入された。その数は実に総計53,023挺と、当時最も多く輸入された。幕末の日本でもエンフィールド銃は前装式銃の中では最後の傑作として評価された。戊辰戦争時には1挺12〜15両程度で販売され、薩摩・長州両軍、また秋田藩の標準装備として採用された。明治元(1868)年の段階では1挺17両。
 エンフィールド銃の実戦投入は戊辰戦争の各戦場から始まり、特に上野戦争では官軍・彰義隊の双方でエンフィールド銃を使用して激戦を繰り広げた。結局、上野戦争では前装式エンフィールド銃の雨に弱いと言う欠点が物を云い、江戸市中の家屋から射撃を行う官軍に対し、豪雨の中で戦った彰義隊は不発が続出して敗退した。

 エンフィールド銃は火門を保護する為の火門蓋が用心鉄の鋲から鎖で結ばれている。また弾丸はブリチェット弾と呼ばれる新式弾薬を採用。弾丸は33.6g、火薬は4.43g。ウットオース銃やミニエー銃に外観が酷似しているが、エンフィールド銃はサイドハンマーの下にヴィクトリア女王の王冠を模したマークとTowerの刻印が有る。その為、日本では此の銃を「タワーミニエー(鳥羽ミニエー)」と呼んでミニエー銃と区別した。
口径:557口径(14.66o)
全長:125p
銃身長:84p
重量:3.89s

射程距離:1200ヤード(約1320m)/有効射程:500ヤード(約550m)
ライフリング:5条
前装管打式 3つバンド 可動式照門 着剣可能

ウットオース銃
 英国マンチェスター地方のウットオース製作所で作られた前装式ライフル銃。外見は銃口が六角形のエンフィールド銃。此は、六角形の滑腔銃身を捻ってライフリングを作る為であり、此により銃の製造費用が安くなる上に、銃弾とライフリングの密着度が上がり、命中率が高い。しかし其の分銃身の摩耗も早く、寿命が短い。また口径もエンフィールドより小さく11.5oとなっており、特殊な形状の弾丸を使う為に弾丸の費用が高く、他の銃と銃弾を共有出来ないのも難点。
 この銃は南北戦争において南軍に使用され、特にゲティスバーグの戦いの緒戦において北軍のレイノルド将軍を遠距離から狙撃して射殺し、一時北軍を圧倒すると言う殊勲を立てて居る。
 幕末には英国と関係の深い薩摩藩に多く輸入されたが、質実剛健の薩摩藩士は小口径のウットオースを嫌って執銃訓練に使うのみであった。

ホール騎兵銃
ホール騎兵銃 アメリカ陸軍のホール(John H.Hall)大尉が1811年に考案して、後にアメリカで初めて互換式システムによる軍用銃として採用された物。世界で初めて軍用に採用された後装銃である。1819年には市販もされた。始めは燧石式で後に管打式となるが、この頃ペリー大佐の艦隊が持って居たものは燧石式であった。ホール式という独特の後装機構を持っている。ホール式とは銃身の薬室部が可動式になっており、これを前方斜め昂起し、その昂起した薬室部に弾薬を前装するもので、雷管付き薬莢を使用した現在の様な後装銃ではない。強いて言うなら、15世紀に中国で造られた母子砲に似ていると言えよう。
 この銃を見た信州松代藩士で有名な学者である佐久間象山はこの銃を一見するやすぐ構造を理解し、同藩の先輩片山京助の造った傍装を組み合わせて「迅発撃銃」を設計した。この銃は引金が二つ有り、一つは薬室を跳ね上げる為の物であり、傍装と併せてかなり速く装槙が可能なはずであった。象山はその設計図を大老井伊直弼に提出したが、保守的な井伊はこれを握り潰してしまい、象山をきつく叱責したと言う。一説によると、献上されたのは設計図ではなく試作品だったとも言われている。
口径:13.5o
全長:1020o
重量:3.3キロ
後装式 ライフリング8条 着剣不可能
 ホール銃銃尾部 ←ホール騎兵銃・銃尾

 

スナイドル・ライフル銃
シュナイダーとも 前装ミニエー式発射機構の旧式化を見越したイギリス陸軍は、1864年には早くもエンフィールド銃の改造プランを公募した。此に米国ニューヨークのヤコブ・スナイドル(Jacob Snider)の開発した銃尾装置が入選した。ヤコブの案は、銃身後端の上半分を削り取り、此の部分に右側に飛び出す可動式のブリーチを付ける物であった。此のブリーチの中には撃針が組み込まれており、これをエンフィールド銃の頃のままのハンマーが叩いて発火させた。
 イギリス軍は此の機構を使用して当時大量に余っていたミニエー式エンフィールド銃を後装式に改造し、1866年に制式化した。この機構は遊底が煙草入れの蓋のように右側に開閉できるもので、
莨嚢式元込銃と呼ばれる。またボクサー式金属薬莢を使用し、暴発率を低下と高い火力を両立している優れた発射機構である。但し幾ら優れていると云ってもあくまで旧式銃を改造した一時凌ぎの銃なので、英国陸軍は早くからこの銃を売りたがっており、その意味では大量の銃器を欲していた薩摩・長州の出現はとても好都合であったと言えよう。この銃は英国商人グラバーによって積極的に売り込まれたが、明治元(1864)年当時には1挺26両と高価であったので普及せず、戊辰戦争後期に至ってようやく薩摩・長州軍が主力装備とした。だが、一度装備が進めばその信頼性から兵士達の評価は高く、またエンフィールド銃の後部を改造すれば簡単にスナイドル銃に改造できるので、明治五(1869)年十一月には12,000挺のエンフィールド銃がスナイドル銃に改造され、各鎮台に装備が進められた。その後も、明治政府は横浜32番商会、同80番商会、先収会社から約3,000挺を購入した。此の時期には、スナイドル銃の価格も一挺9$30¢と低下しており、価格的にも性能的にも明治陸軍の要求を満たす銃となっていた。その為、西南の変に際して巡査隊を派遣する事になった警視庁も陸軍に倣って8,148挺を購入している。
 戦後、スナイドル銃は村田銃採用までの
制式銃として装備された。また、英国では1890年まで制式銃として使用されている。
口径:14.5o
全長:137.5p
重量:4s
射程距離:820m

後装中央打式 2つバンド スライド式照門 着剣可能

 

スタール・カービン銃
スタール・カービン銃 1858年にアメリカで開発された。レバーを引くと排莢するいわゆるレバーアクション式を初めて採用したが、初期の銃なのでダブル・レバーアクションである。カービン銃の最初の物。カービン銃とは銃身が短く軽い滑腔銃またはライフル銃の事である。語源は不明。外観はスペンサー銃に類似しているが、撃発機は独立しており、火門を有する雷管外火式と底碪内に撃鏨を持つ縁打式の2種類がある。
 軽量である為、本来騎兵用であるが、乗馬しない将校、砲兵等も使用した。
 幕末の日本にも輸入され、特にスネル兄弟の仲介により新潟港に多く輸入された。これらの銃器は佐幕派諸藩の為に用意されたのだが、新潟は官軍によって占領され、これらの銃器は官軍に押収された。特に官軍先鋒であった村田勇右衛門は「スタール銃・シャープス銃エンフィールド銃に比べると射程は短いが、射撃速度が速い。これから赴く奥羽の戦場は山がちなので、速く撃てる銃が良い」として指揮下の外城一番隊にこれを装備させた。
口径:14o
全長:96p
重量:3.4s
ライフリング:5条
後装管打縁打式 1つバンド スライド式照門 着剣不可

 

スペンサー騎兵銃
スペンセルとも 1860年アメリカで発明された世界最初の後装式連発銃。銃身は鋼鉄製で、銃床は前床と尾床の二つに分かれ、鋼鉄製の尾槽を中心に結合している。弾倉は床尾端の装填孔より管に依って尾槽に連結され、弾薬筒の装填後、管底にコイル・スプリングを持つ鋼鉄製の弾倉管を挿入する。弾薬はこの弾倉管スプリングによって順次薬室内に送られる。弾薬等が一度に複数出る事を防ぐ為に、尾槽内に駐填子が有り、これを操作して連発・単発を切り替える事が出来る。チューブ式弾倉を銃床尾より挿入し、レバーアクションによって一発ずつ装槙される。レバーアクションとは引金近くにあるレバーを下に引いて空薬莢を排除、次弾を装填する方式。
 南北戦争では北軍に77,181挺が納入され、騎兵隊が使用して大いに活躍したが、南北戦争の終結と同時にヘンリー・ライフルやウィンチェスター・ライフルが発明され、スペンサー銃は急速に旧式化した。余剰したスペンサー銃は民間に売却されたが、特に日本に持ち込まれ、横浜での卸価格は37ドル80セントと高かったものの、兎に角すぐに入手可能な連発銃として重宝された。

 この無敵のライフルにも欠点は幾つか存在し、馬上での取り扱いが容易なように、銃身を短くしているが、その為命中率も低い。また採用された56口径金属製リム・ファイヤー金属製薬莢は軍用銃としては威力不足の感が否めない上に、他の銃との共通性がない。後にはレバーアクションは馬上や要塞などでは使い易いが、伏せ撃ちが基本の歩兵には使いにくいというのも、時代の進歩と共に出てきている。他にも連発式故に無駄弾を撃ちすぎてしまう事も多いとか、送弾機構に故障が多いとか、チューブ式弾倉は衝撃に弱くすぐに曲がってしまい、弾詰まりするとか細かい欠点は上げれば切りがない。開発元のアメリカ陸軍さえ、この銃の制式採用に関してはこれらの理由を並べ立て、「従来型の単発後装銃の方が良い」として見送ったほどである。
 幕末においては早くから鍋島藩がこれを装備していたが、他の諸藩では指揮官に少数所持されるに留まった。歩兵用のスペンサー銃も希少ながら(北軍への納入数が12471,挺であるから、確率的には1/7くらい)存在する。こちらは、命中値が+4となっている。
口径:56口径(14.56o)
全長:94p
重量:4s
射程距離:820m
ライフリング;6条
後装縁打式 1つバンド 固定式照門 装弾数7発 着剣不可

 

ヘンリー・ライフル銃ヘンリー
 1860年アメリカのヘンリーによって開発された連発銃。ヴォルカニック・ライフルを改造して作られた、スペンサー・ライフルと並んで世界最初の後装式連発銃。相違点としては、歩兵用として口径を縮小し、その分装弾数を増やした。チューブ式弾倉16連発、ヘリ打式薬莢使用。弾倉は銃身下部。後年のウィンチェスター・ライフルの前身とされるレバーアクション式の草分けで、レバーを押し下げると。空薬莢が上部から飛び出し、レバーを戻すと次の弾薬が装填された。
 此の銃は当初南北戦争中の北軍に持ち込まれたが、誰も其の有効性に気付かず、また軍隊では既に公私併せて十万挺ものスペンサー銃が浸透していたこともあって、僅かに1,731が私設の歩兵連隊や士官に飽くまで「私的」に購入されるに過ぎなかった。しかし、一度戦場に出るやその装弾数は脅威となり、南軍の兵士達は「くそったれヤンキーのライフルは、日曜日に装填すれば丸々一週間は撃っていられる」と毒づいた。
 一見無敵に見える此の銃の欠点は、先ず単発で銃弾を供給する口が開いておらず、装填してある弾を撃ち尽くすと再度弾を込めるのが難しいこと、44-40口径は威力が低く、近距離の人間が相手ならともかく、熊やバッファローを倒すには力不足である事等であった。これらの問題点の改造は、此の銃を手本にして作られるウィンチェスター・ライフルの完成を待つ他無かったのである。
口径:44-40口径(11.4o

全長:110p (銃身長60.90p
重量:4.4s
ライフリング:5条
後装縁打式 バンド無し(銃床先台無し) 可動式照門 装弾数16発 着剣不可
 
 ←ヘンリーライフル機関部

 写真は白黒で分かり難いが、機関部は真鍮製で、金色に輝く非常に特徴的な物となっており、「イエローボーイ」の愛称で呼ばれた。

 

シャープスM1859カービン
シャープス・カービン 1859年、米国シャープス・ライフル社で開発されたレバーアクション式後装ライフル銃。シャープスの名の由来となったクリスティアン・シャープスはホール騎兵銃の設計者ホール大尉の弟子であり、技術者として勤務後退職して会社を興した。しかし、事業に失敗して引退してしまい、会社はリチャード・S・ローレンスに引き継がれ、其の指揮下で此の銃が作られた。
 薬莢は可燃リンネル製だが、無理をすれば金属薬莢の使用も可能。

 外観はスペンサー銃に類似しているが、装弾の方法は独自の単発・後装式である「トラップドア」方式を採用している。
 すなわち、独立した露出撃発点火装置を銃尾に刻まれた垂直な臍に従って跳ね上げ、普段は引き金の用心金の役目をする梃子を動かして、機関を下げて薬莢を入れ、元の位置に戻す。その時に遊底に付いたナイフ状の鉄片が紙製薬莢の後端を切り開き、発射時には直接に点火を行う。
 引き金は二つ有り、発射時には先ず一つ目の引き金を引いて撃針を引き、二つ目の引き金を引いて撃発・発射する。この二つの引き金のお陰で発射時の引き金は非常に軽く、正確な射撃が可能で有る。
 またアメリカ製らしく構造が頑丈で信頼性が高く、
(あくまで、非金属薬莢としては比較的)薬室の密封力が強くガス漏れが少なく、銃身の短い騎兵銃としては比較的高い威力を持つ。
 シャープス・カービン銃は、南北戦争で北軍が正式採用し、80,512挺が納入されて活躍。此を見た南軍も購入、イギリスにも輸出された。南北戦争中の1863年に改良が行われ、M1863として真鍮製の銃身バンド、用心鉄、台じり等が鉄製に改められた。戦後はシャープス銃の特徴である二重引き金が素早い射撃を阻害するとして兵士に嫌われてしまい、軍の正式採用からは外された。しかし、正確な射撃と強力な弾薬は狩猟に最適だったので、ハンディング用ライフルとして西部に広まった。特にバッファロー狩りに多用され、「バッファロー・ライフル」として有名になった。
 日本にも多く輸入され、戊辰戦争時には1挺30〜45両であった。特にスネル兄弟の仲介で新潟港に大量に集められ、庄内藩が600挺を装備した。幕末庄内藩
(作中では海坂藩)を舞台とした映画『隠し剣 鬼の爪』にも登場。腕利き剣士の右腕を吹き飛ばす等、ハンティング用ライフルらしい高威力を見せつけた。
 戊辰戦争後期、新潟が官軍に占領されるとこれらの武器もスタール銃同様官軍に押収され、官軍兵士に使用された。

口径:52口径(13.52o)
全長:95.25p
銃身長:54.61p
重量
:4s

ライフリング:6条
後装管打式 1つバンド 着剣不可

シャープスM1859マスケットライフル
 1859年に上記のカービン・モデルと同時に制作された、マスケットライフル・モデル。アメリカの南北戦争で北軍歩兵に採用され、9,141挺が納入された。戦後、連発式銃が急速に発展してシャープス銃は陸軍正式採用から外されてしまうが、単発でも強力なカートリッジを使用できるシャープス銃は狩猟用として多用された。
口径:52口径(13.52o)

全長:137.16p
銃身長:91.44p
後装ライフリング6条管打式 3つバンド 着剣不可

スプリングフィールドM1863マスケットライフル
スプリングフィールドM1863 南北戦争後期の北部連邦軍の標準装備として生産され、其れに劣らず大量の捕獲品を南部連合軍が装備した、南北戦争中最も標準的だったライフル銃。米国陸軍の制式銃M1861の後継銃として、コネティカット州スプリングフィールド兵器工廠によって開発された。頑丈で信頼性の高い兵器だが、製造費節減の為にライフリングが3条に減少しており、正確さでは南軍の制式装備であるエンフィールド銃に劣る。照門は91.4m、274.2m、457mの三段階切り換え型である。
 南北戦争で、ライフル銃は広く普及したが、アンティータムやゲティスバーグでそのライフルの威力を理解しない両軍の首脳の無謀な用兵によって多くの兵が死亡した。どれくらい無謀かに付いては映画「グローリー」を見て貰えばよく分かる。ライフル銃を持った兵士がまるでナポレオン戦争さながらに100mの距離で一列に並んで撃ち合う……無謀としか言い様が無い。

口径:58口径(14.73o)
弾薬:ミニエー式500グレイン円筒-円錐、鉛弾頭60グレイン黒色火薬
全長:148.6p/銃身長:100.6p

重量:4.420g
有効射程:274.2m
初速:289.6m/s
ライフリング:3条

後装管打式 3つバンド フリップ・アップ・リーフ式照門 着剣可能

ドライゼ・ライフル銃
ツンナールとも 1841年、プロシアの錠前職人ドライゼ(Johann Nikolaus Von-Dreyse)によって開発された世界最初のボルトアクション式後装銃。正式名称はチュントナーデ・ゲベーア(Zundnadel-Gewehr)で、日本ではツンナール銃とも呼ばれていた。
 ドライゼ式ボルトアクションは、発射すると燃え尽きてしまう紙製の薬莢を使い、弾薬の挿入と銃尾の閉鎖は手で行い、引金を引くと銃身内で銃尾より長い撃針が薬莢と装薬を貫いて弾丸に付いた雷管を打ち、装薬に点火する方式である。撃針式の銃は従来の元填銃と異なり弾と火薬に更に雷管まで一体化した薬莢を用い、弾丸装填の速度を速めている。1848年にプロシア陸軍によって制式採用され、1871年にモーゼル小銃に代替されるまで、プロシア陸軍の栄誉を担った名銃。

 銃身は黒く着色されている。機関部に初めて遊底作動を組み入れた銃で、発射方法は

1)ボルトハンドルを起こして引く→2)開いた薬室に弾を入れる→3)ボルトハンドルを押し、薬室を閉じる→4)撃鉄を起こす→5)引き金を引く

 と、撃鉄を起こす以外は現代のボルトアクション小銃と殆ど変わらない。此に関しては、撃針を強く打ち出して薬莢の中に刺さねばならない以上、仕方がないことではあるのだが。それでも歩兵による射撃の命中率と速度は大幅に増強され、後年開発される多くのボルト・アクション銃の元祖として大きな影響を与えた。
 しかし、発射方法が特殊で、弾薬筒内の装薬を細長い撃針で貫き、弾履にある雷汞を打撃して発火させる為、撃針折れやガス洩れ等が多く、よしんば折れずとも撃針が摩耗し、五、六十発も撃てば撃針の交換が必要であった。その為、此の銃を主力とするドイツ陸軍は、予備の撃針を携行し、戦場に於いて一分間で撃針を交換する訓練を行ったという。こうした努力を払っても、此の発射方法は威力が低く実戦向きではないとされた。弾丸は特殊なドライゼ式紙薬莢で弾丸の直径は口径よりも小さく、弾丸後端を包んでいる紙製の弾履とライフリングとの吻合によって弾丸に回転を与える。
 幕末に於けるこの銃の価格は30両。慶応三(1867)年五月、会津藩は4,300挺のドライゼ銃を発注した。その内1,300挺を会津藩が、2,700挺を紀州藩が、300挺を桑名藩が受け取る予定であったが、鳥羽・伏見の戦いには間に合わず、これらの銃器は官軍により没収されてしまった。また、明治四(1867)年には津田出指揮下でプロシア式軍備を整え始めた和歌山藩が、プロシアのキニフラル社から手付け金6万ドルを払って7,600挺を購入したが、間もなく廃藩置県にあって契約は明治政府に肩代わりされた。結局、明治政府では此の購入分を含めて計13,343挺を所蔵したので、ドライゼ銃を予備軍の制式銃に採用した。この時の価格は、一挺13$15¢であった。明治七(1870)年九月、明治政府は8,492挺を大阪鎮台の第8、第9、第10連隊に照尺目盛のみを改刻して支給した。西南戦争では、第1、第4旅団、別動第1、第2旅団の兵士達によって使用されたが、実戦に於いては先に挙げた撃針破損、薬莢に開けた撃針の穴からのガス漏れ等が続出し、現地からは早く信頼性の高いスナイドル銃を送ってくれと要求された。
 戦後は、一部が陸軍の訓練用に使用されたり、村田式に改造されたりしたが、大部分は売却された。

 この銃は、精密な構造の為事故が多い(安全性に問題があり、時々射手の目の前で暴発したとか…)ので、発射後1D6を振り、1が出たら故障してしまう。
口径:15.4o
全長:135p
重量:5,07s
有効射程
:350ヤード(約400m)

後装(中心折)ボルト・アクション式 2つバンド 着剣可能

 

シャスポー・ライフル銃
シャスポー銃 1864年、フランスのサンチェンヌ製銃所で、ドライゼ・ライフル銃を見本として改良開発した物。ボルトアクション後装中心打式で、ドライゼ・ライフル銃の欠点である長すぎる撃針を短くして、更に薬莢を改良した。薬莢は可燃紙製で、底部には糊で固められた布で包まれ、此処に雷爆粉を張り付けた物。
 銃身は湿気の多い日本では手入れが大変な白磨きの鋼鉄製。尾筒に納まる遊底の構造は円筒鎖体の中央にレバーを備え、これを右に倒して銃尾を閉鎖する仕組みである。遊底には遊頭、撃鉄、撃針、抽弾子及びコイル・スプリングが組み込まれている。弾丸は24g、装薬は5.5gであり、紙製パトロンに入れ、布を糊で固めた底に爆粉を付けた物で、小口径だが高い初速を誇っている。
 明治元(1864)年二月、ナポレオンV世治世下のフランス陸軍制式銃に制定された。後の晋仏戦争ではプロシア軍の制式採用銃ドライゼ・ライフル銃を、ドライゼ銃よりも小口径でありながら、射程距離の長さ、弾丸装填速度の速さ、軽量さ等全ての面で圧倒し、普仏戦争では密集隊形で突撃してくるプロシア軍に2,000mの距離から損害を与えた。特に、騎兵部隊の突撃に対する防御戦に有効であったという。なお、正式装備に先立って、慶応二(1866)年十二月にはナポレオンV世により二個連隊分二千挺のシャスポー銃が幕府に贈与され、幕府伝習隊が装備した。また一部は江戸城内の竹蔵に秘蔵されたが、江戸城明け渡しに際して内通者により密告され、官軍に接収された。しかし、弾薬が1500発しか無かった為、官軍は此の銃を死蔵した。
 この銃は当初は大いに効果を発揮したが、新式銃だけに弾薬の補充が難しく、特に戊辰戦争後半には舞台が山中に移ってますます補給が困難になった為、余り威力を発揮しなくなってしまった。しかし、補給さえ続けば其の威力は充分評価に足る物であり、西南戦争でエンフィールド銃、ドライゼ銃等と共に此のシャスポー銃を使った明治陸軍は、小口径銃器を以て国産制式銃にせんと決心するに到った。シャスポー銃自体は、大阪鎮台所属の教導団歩兵第一大隊に3000挺が支給されたが、大半は幕府軍からの捕獲品であった。弾薬は日本製の物が採用されたが、不発が多く、実に3割にも達した。その為、明治六(1870)年八月には教導団からシャスポー銃を信頼性の高いエンフィールド銃へ変更して欲しいと言う提案が出されたが、陸軍省は「スナイドル銃が全軍に支給されるまで改良して使用すべし」と回答された。
 最新式の銃だけになかなか値下がりせず、明治元(1868)年の段階でも1挺30両であった。
口径:11o
全長:130p
重量:4s
射程距離:1450m/有効射程:650ヤード(約700m)
ライフリング:4条
後装(中心折)ボルト・アクション中心打式

遊標板式照尺 2つバンド 着剣可能

 シャスポー銃・遊底部→ シャスポー銃遊底部

 

ヘンリー・マルチニー・ライフル銃
 1866年に開発された英国製底碪式後装レバーアクション小銃。正確には、1862年にレバー式を好むアメリカ人でH.O.ピーボディが基本形を考案。後にスイスのフリードリッヒ・フォン・マルティーニが実用的で頑丈な構造に改良。更にイギリスはエディンバラのアレクサンダー・ヘンリーが銃身の七条右廻りライフリングを特殊な形に切り、弾丸の旋回力を向上させた。
 良く云えば、欧米小銃技術の粋を集めた最新式の小銃である。
 銃尾のレバー操作で排莢から撃鉄惹起までをやってしまうので素早い次弾装填が可能。引き金の後ろに附属したレバーを押し上げると機関部が開いて薬室が露出。同時に撃針が後退して発射状態となる。引き金を引いてもう一度レバーを押し上げれば、発射後の空薬莢が飛び出す。撃鉄が内蔵されているので、引き金右上の指針が弾薬装填の有無を示す。こうした簡易な操作方法は構造の複雑化を生み出した。しかし、複雑ながらも構造は頑丈で、採用に際してはイギリスの植民地と同じ様な環境で実験を重ねたという。弾薬は今とほぼ同じ金属薬莢を使用する。
 英国軍は1871年から試用開始、1874年に制式採用。以後、1891年に箱形弾倉式のリー・メトフォード・ライフルを制式採用するまで試用され続けた。此の銃の採用によって英国陸軍の射撃速度は大いに増し、特に植民地での近接戦能力が格段に向上した。しかしスナイドル銃と同じく口径が大きい為に反動が酷く、射手の右手親指を傷付ける等の不具合が報告された。また1879年に南アフリカで勃発したズールー戦争では熱帯での連射に銃身が過熱してしまい、ハンドガードが熱くなって持てなくなってしまうと云う事態まで発生してしまったり、1884年に北アフリカで勃発したマフディーの乱では砂と熱さでカートリッジが変形してしまい、排莢が多発してしまった。近代イギリス軍最大の敗北の一つとされるズールー戦争の天王山・イサンドルワナの敗戦はこの不具合によるものとされている。
 幕末の日本にも数多く輸入され、特に庄内藩に於いて制式採用された。その当時の価格は11$程度。後に一時的に明治海軍陸戦隊の制式小銃となったが、小柄な日本人には大きすぎかつ重すぎ、取り扱いが難しく、更に反動も大きいので、水兵の評判は惨憺たる物であった。
 余談だが、カクテルのマティーニの語源であるとも言われている。その由来は、カクテルのキック(反動)がヘンリ・マルチニー銃の強い反動を思わせたかららしい。
口径:450(11.4o)

全長:124.5p
重量:4.2s
後装ボルト・アクション底碪式施条銃

ヘンリー銃遊底部
 ヘンリー・マルチニー銃遊底部→
レバーアクションであることが見て取れる。

ウェストリー・リチャード・ライフル銃
 京都二本松薩摩藩邸に僅か数挺しか無い高級品の新式後装銃。1861年にアメリカで開発され、イギリス陸軍でエンフィールド銃からスナイドル銃への過渡的処置として砲兵・騎兵用に採用された。構造が複雑で単価が高く、「当時の銃としては正宗に匹敵する」とか。
 モンキーテイルと呼ばれる機関部の指掛けを持ち上げて遊底を開放、装弾する。雷管分離式の弾が一発づつ油紙に刳るんであり、鳥羽伏見の戦いの際に此の銃を使用した中村半次郎(桐野利秋)は弾薬を油紙に刳るんだまま薬室に込めようとし、往生したという。
 慶応二(1866)年七月に英国ウィンブルドンで行われた銃器試験では、3分間で22発を発射、内4発の命中弾を得た。

気砲オランダ製気砲
 圧縮した空気を予圧空気槽に詰め、実弾を発射する銃器。予圧空気槽は銃尾に付いている物もあれば、球形の空気槽を銃身に取り付ける型の物もあった。空気槽の中には30気圧までの空気を蓄える事が出来たという。
 機構が複雑で高価な割には威力が低いが、銃声がしない事や小型軽量である事、空気さえまめに充填していれば何時でも引金を引くだけですぐに射撃が出来る事等から、西洋ではステッキに偽装して護身用に使用された。撃ち方は、銃口から索杖でピストン運動を行って空気を送り込み、その後布に刳るんだ弾丸を索杖で押し込み、撃つ。

 また実際に戦場で使用された例もあった。1793年から1901年まで、オーストリアの狙撃兵の一部が、ジランドーニ空気銃を使用していた。その際に使用された気砲は13o口径20連発の球形鉛弾銃で、空気槽は台尻に収納されていた。射程距離は約120mに達したと云う。
 その他のユニークな使用例には、コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズの帰還』所収の「空き家の怪」において、セバスチャン・モラン大佐がドイツ製の空気銃でホームズの命を狙うと云うエピソードが有る。

 日本では江戸時代後期に松代藩士片井京助が外部タンクを使用しない優秀な空気銃を製作、藩から表彰されたと言う。また佐賀のカラクリ儀右衛門こと田中儀右衛門は、レオナルド・ダ・ヴィンチの設計図から蒸気の力で圧縮した、空気を用いて銃弾の装填も自動的に行う連発式空気銃の模型を、安政4(1857)年に開発した。その威力は15間(45m)で25oの板を貫通する物であった。その他にも国友籐兵衛や久米通賢らの聞こえた技術者も気砲の製作を行った。
 この銃は、銃声がしない為に戦闘の最初の命中判定に+3の修正を受けます。
口径:10o
全長:120p
銃身長:75p

早撃気砲早撃気砲機関部
 「風炮」とも。日本のカラクリ技術の粋が生み出した精巧無比の空気銃。江戸末期の近江国友の鉄砲鍛冶、一貫斎国友藤兵衛能当が作成した。此の空気銃には別に空気圧搾用のポンプが付属しており、エアータンクと機関部及び銃身はネジによって取り外し可能となっている。空気の注入はエアータンクを外してポンプで行い、600回くらいの蓄気によって満タンとなる。次弾は銃身上に20発の弾丸を入れる弾倉が設けられており、1発撃つ毎にボルトを引いて次弾装填を行う。
 幕府の旗本の中にはこうした銃の使用を教授する「風炮師範」と言う役職が有り、旗本や諸藩士に指導を行っていたらしい。
 この銃は軍用として期待されたが、兵器と云うよりは工芸品と言うだけ有って、製作費に60両という大金を使ってしまう。恐らく、末端価格は更に高額になっているだろう。
 この銃は、銃声がしない為に戦闘の最初の命中判定に+3の修正を受けます。
口径:11o
全長:71.5p
銃身長:110p

ダヴィッドソン狙撃銃ダヴィッドソン狙撃銃
 エンフィールド小銃に英国陸軍のダヴィッドソン大佐が開発した「ダヴィッドソンズ・テレスコープ」を装着した最新式の狙撃銃。元来、このスコープは民間の狩猟用に開発されたのだが、1854年に英国陸軍のライフル歩兵部隊が採用。1857〜1859年のセポイの反乱に際して使用されたらしい。尤も取り立てて活躍したという記述はなく、採用と言ってもテスト採用の域を出ず、ごく少数の配備に留まったようだ。この不振の原因は、当時のイギリス軍の戦術が「滑腔銃を装備した横隊による一斉射撃」であった為に、狙撃戦術が確立していなかったからと云われている。
 とは云え、世界に先駆けて狙撃銃を開発したのは流石イギリス、ナポレオン戦争でライフル銃兵を活用した伝統の国と言えよう。

 この銃を使用すると、特殊な行動オプションとして「狙撃」を行う事が出来る。此の行動は、相手をスコープに捉えて1ターン掛けて照準する毎に命中値に+1の修正を得る事が出来る。狙撃の効果は、途中で中断した場合には消失し、最大+3まで累積する。

口径:557口径(14.66o)

全長:125p
銃身長:84p
重量:3.89s

射程距離:1200ヤード(約1320m)/有効射程:500ヤード(約550m)
ライフリング:5条
前装管打式 3つバンド 狙撃用テレスコープ装備 着剣不可


〜洋式銃一覧表〜

名称 命中修正 ダメージ修正 装弾数 装填 着剣 価格 国産 備考
ゲベール歩兵銃 −2 +2D6 25両  
カラバイン騎兵銃 ±0
+2D6


×
27両

 
ヤーゲル・ライフル銃 +2
+3D6


×
30両

装甲値1/2

ブランド式捕鯨銃 −4
+6D6


×
30両

装甲値1/2、1発10両

-6 +2D6*6D 1 6 × 「破裂矢」使用時。1発20両。
ミニエー・ライフル銃 +4
+3D6



35両

装甲値1/2

エンフィールド・ライフル銃 +4
+4D6



40両
×

装甲値1/2

ウットオース・ライフル銃 +6
+3D6



30両
×

装甲値1/2

ホール騎兵銃 ±0
+2D6


×
22両2分
×
 
スナイドル・ライフル銃 +5
+5D6



45両
×

装甲値1/2

スタール・カービン銃 +3
+4D6


×
50両
×

装甲値1/2

スペンサー騎兵銃 +2
+2D6


×
45両
×

装甲値1/2
戦闘中再装填不可能

ヘンリー・ライフル銃 ±0
+2D6
16

×
60両
×

装甲値1/2
戦闘中再装填不可能

シャープス・カービン銃 +1
+3D6

×
40両
×

装甲値1/2

シャープス・マスケットライフル銃 +4
+3D6

×
50両
×

装甲値1/2

スプリングフィールドM1863 +2
+3D6

1 ×
45両
×


ドライゼ・ライフル銃 +5
+3D6


70両
×

装甲値1/2
発射後1/6確率で故障。

シャスポー・ライフル銃
+7
+3D6


120両
×

装甲値1/2

ヘンリー・マルチニー銃 +9 +4D6

150両
×

装甲値1/2

ウェストリー・リチャードー銃 +10 +3D6 200両 ×

装甲値1/2

気砲 +2 +1D6 × 20両

杖等に偽装可能、戦闘中再装填不可能。
最初の攻撃に+3

早撃気砲 +2 +1D6 20 × 100両

戦闘中再装填不可能
最初の攻撃に+3

ダヴィッドソン狙撃銃 +4 +4D6 × 60両 ×

装甲値1/2
「狙撃」可能

上記表の見方
有効射程: 銃が本来の性能を発揮できる上限距離。此の範囲外の目標に対しては、命中修正が−4される。
最大射程: 弾丸が届く距離。此の範囲外の目標に対しては射撃できない。
装弾数: 1回の装填で装備出来る弾丸数。この弾数だけ、連続して射撃出来る。
装填: 装弾数だけの銃弾を撃ち尽くした後、再び弾丸を装填するのに必要なターン数。「−」は戦闘中は装填不可能。
着剣: 銃剣を付ける事が可能な銃。銃剣を装着すると、接近戦に於て銃剣を使用出来る。
国産: 銃器の国内生産の状況を示す。この欄が○である銃器は相当数が出回っていることになるが、△である場合は幕府の江戸銃器製造所、薩摩藩軍需工場「集成館」、佐賀藩鉄砲製造所等の限られた所でしか製造されていない。さらに×であったなら、その銃は国内では全く製造されていない事になる。PCの銃器の購入・入手の可否に関してはGMの任意である。

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