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「巴御前は、木曽義仲の「妻」じゃなくて、「便女」なんですよ」というお話。 田中貴子『検定絶対不合格教科書古文』を読む
田中貴子『検定絶対不合格教科書古文』を読む。
中身は実にまっとうな本。
信じられないかもしれないが、実に、まともだw
清少納言は、高慢ちきな女として一般に思われているけど、実際の所、彼女が『枕草子』に書きたかったことって、中宮を中心とするサロン文化であって、自分の自慢話でも何でもなかったんだよ、と著者は言う(65頁)。
詳細は本書を当たられたいが、確かにその通りだろう。
また、著者は、『枕草子』には随筆以外に短い物語も入ってるんだから、内容的には、「清少納言全一冊!」見たいな感じじゃないの、といっている。
『笑い飯全一冊』の隣に、『清少納言全一冊』がある光景を想像したw
何で古典なんぞ研究すんのか。
めんどくさいのに。
研究とはテクストに疑問を持つことから始まる、と著者は言う。
一見アタリマエに思えることに一瞬立ち止まってみる(104頁)。
それが、懐疑し、思考する力を培う(著者は、「脳力」といってる)。
先人の知恵とか人生の手本とか、そういう風に古典を奉りすぎると、事の本質を見誤っちゃう。
むしろ物分りのよさから距離をとることが、古典研究の本質なわけだ。
分かり難い、正解が究極的には不確定なもの、そういったものに対して、立ち止まって考えること。
古典を研究することには、そういう効果もある。
巴御前についても記述がある。
これについては、Wikipediaの方にも記述がある(本書もWikipediaの項目も細川涼一の著作を参照している)ため、それをみると、「軍記物語である『平家物語』の『覚一本』で「木曾最期」の章段だけに登場」する。
登場少なっw
で、当該箇所によると、「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはり あって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と記されているという。
「便女」という表記があるけれども、これは、[禁則事項です]ではなくて、「びんじょ」と読み、文字通り「便利な女」の意味。
つまり「武将の側で身の回りの世話をする召使いの女」をいう。
これが実際の所。
もっといっておくと、「当時の一次史料や鎌倉幕府編纂書の『吾妻鏡』には、その存在は確認されない」し、「『平家物語』における巴御前の記述は至って簡略で義仲との関係性も書かれていない」。
そして、「よく妻と誤記されるが、源義仲の妻は巴御前ではない」。
『平家物語』や後代のものを見ても、確かに木曽義仲には、ちゃんと他に妻がいる。
なのに、ある教科書の指導書(教師が使うアンチョコ)は、義仲を巴御前の「夫」と誤って認識して書いている(132頁)。
『平家物語』を含め、古典の学校教科書は、こうした問題が結構あるようだ。
詳細は本書を当たられたいが、生徒たちに登場人物の心情を答えさせるやり口にも、「ロマンチック・ラブ・イデオロギー」臭がする(近代的な「愛」とかを前提にして、生徒に答えさせてんのよ)。
こういうの、マジ勘弁w
成長著しい若紫を眼にした光源氏は、その夜、「中将の君」という女性に足を揉ませている。
これはマッサージのことではなくて、寝所に召して、性関係を持ったことを意味する(232頁)。
性関係アリの女房たちを「召人」という。
彼女らは、妻でも妾ですらなかった。
著者曰く、「若紫の姿に春情を覚えた光源氏が「いや、お楽しみは後で」と思い、心を慰めるため召人を呼んだとも読めます」(233頁)。
当時の感覚からすれば正当化は可能なのかも分かりませんが、近代の観点からすれば、すげーサイテーな行為ですなw
本書では、『とはずがたり』と『源氏物語』を比較し、「女の書く物語はレイプからはじまる」(BY 今井源衛先生)の様態を見ている。
いわれるとおり、『とはずがたり』の方が、その描写は露骨。
丸谷、鹿島、三浦による『文学全集を立ち上げる』の件。
この本に対する著者の突っ込み。
この本は、丸谷の『日本文学史早わかり』をベースにしている。
この有名な丸谷の著作の要諦は、「勅撰和歌集の終焉を以て宮廷文化が終わる」というテーゼにある(264頁)。
著者は、こうした韻文主体の史観に批判的(ただし一方で、画期的とも評価している)。
しかもこの『早わかり』だが、巻末の文学史年表には説話集の名前が出てこず、批評家の欄に慈円も一条兼良も出てこない。
著者は、そうした丸谷の説話無視、中世の俗文化無視の姿勢を、逆に褒めてさえいる。
ここまで徹底されたらもう褒めるしかないよ、って訳だ(皮肉だよw)。
で、『文学全集を立ち上げる』の問題点は、作者中心主義であること(270頁)。
確かに、無名な本とかあるから、古典にはなじみにくいよね。
んで、結局、作者中心主義でまとめた結果、従来の古典シリーズ(「日本古典文学体系」や「日本古典文学全集」)と被りまくり、独創が失われていったのだった。
ああ無惨w
中身は実にまっとうな本。
信じられないかもしれないが、実に、まともだw
清少納言は、高慢ちきな女として一般に思われているけど、実際の所、彼女が『枕草子』に書きたかったことって、中宮を中心とするサロン文化であって、自分の自慢話でも何でもなかったんだよ、と著者は言う(65頁)。
詳細は本書を当たられたいが、確かにその通りだろう。
また、著者は、『枕草子』には随筆以外に短い物語も入ってるんだから、内容的には、「清少納言全一冊!」見たいな感じじゃないの、といっている。
『笑い飯全一冊』の隣に、『清少納言全一冊』がある光景を想像したw
何で古典なんぞ研究すんのか。
めんどくさいのに。
研究とはテクストに疑問を持つことから始まる、と著者は言う。
一見アタリマエに思えることに一瞬立ち止まってみる(104頁)。
それが、懐疑し、思考する力を培う(著者は、「脳力」といってる)。
先人の知恵とか人生の手本とか、そういう風に古典を奉りすぎると、事の本質を見誤っちゃう。
むしろ物分りのよさから距離をとることが、古典研究の本質なわけだ。
分かり難い、正解が究極的には不確定なもの、そういったものに対して、立ち止まって考えること。
古典を研究することには、そういう効果もある。
巴御前についても記述がある。
これについては、Wikipediaの方にも記述がある(本書もWikipediaの項目も細川涼一の著作を参照している)ため、それをみると、「軍記物語である『平家物語』の『覚一本』で「木曾最期」の章段だけに登場」する。
登場少なっw
で、当該箇所によると、「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはり あって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と記されているという。
「便女」という表記があるけれども、これは、[禁則事項です]ではなくて、「びんじょ」と読み、文字通り「便利な女」の意味。
つまり「武将の側で身の回りの世話をする召使いの女」をいう。
これが実際の所。
もっといっておくと、「当時の一次史料や鎌倉幕府編纂書の『吾妻鏡』には、その存在は確認されない」し、「『平家物語』における巴御前の記述は至って簡略で義仲との関係性も書かれていない」。
そして、「よく妻と誤記されるが、源義仲の妻は巴御前ではない」。
『平家物語』や後代のものを見ても、確かに木曽義仲には、ちゃんと他に妻がいる。
なのに、ある教科書の指導書(教師が使うアンチョコ)は、義仲を巴御前の「夫」と誤って認識して書いている(132頁)。
『平家物語』を含め、古典の学校教科書は、こうした問題が結構あるようだ。
詳細は本書を当たられたいが、生徒たちに登場人物の心情を答えさせるやり口にも、「ロマンチック・ラブ・イデオロギー」臭がする(近代的な「愛」とかを前提にして、生徒に答えさせてんのよ)。
こういうの、マジ勘弁w
成長著しい若紫を眼にした光源氏は、その夜、「中将の君」という女性に足を揉ませている。
これはマッサージのことではなくて、寝所に召して、性関係を持ったことを意味する(232頁)。
性関係アリの女房たちを「召人」という。
彼女らは、妻でも妾ですらなかった。
著者曰く、「若紫の姿に春情を覚えた光源氏が「いや、お楽しみは後で」と思い、心を慰めるため召人を呼んだとも読めます」(233頁)。
当時の感覚からすれば正当化は可能なのかも分かりませんが、近代の観点からすれば、すげーサイテーな行為ですなw
本書では、『とはずがたり』と『源氏物語』を比較し、「女の書く物語はレイプからはじまる」(BY 今井源衛先生)の様態を見ている。
いわれるとおり、『とはずがたり』の方が、その描写は露骨。
丸谷、鹿島、三浦による『文学全集を立ち上げる』の件。
この本に対する著者の突っ込み。
この本は、丸谷の『日本文学史早わかり』をベースにしている。
この有名な丸谷の著作の要諦は、「勅撰和歌集の終焉を以て宮廷文化が終わる」というテーゼにある(264頁)。
著者は、こうした韻文主体の史観に批判的(ただし一方で、画期的とも評価している)。
しかもこの『早わかり』だが、巻末の文学史年表には説話集の名前が出てこず、批評家の欄に慈円も一条兼良も出てこない。
著者は、そうした丸谷の説話無視、中世の俗文化無視の姿勢を、逆に褒めてさえいる。
ここまで徹底されたらもう褒めるしかないよ、って訳だ(皮肉だよw)。
で、『文学全集を立ち上げる』の問題点は、作者中心主義であること(270頁)。
確かに、無名な本とかあるから、古典にはなじみにくいよね。
んで、結局、作者中心主義でまとめた結果、従来の古典シリーズ(「日本古典文学体系」や「日本古典文学全集」)と被りまくり、独創が失われていったのだった。
ああ無惨w
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