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そして天使が・ふ・え・て・い・く 作者:高沢テルユキ

第三章 (一)

 明るい春の光が真新しい机の上にもふりそそぐ。引き出しをひらくと新品のスチールの薫りが政晴の鼻腔をつく。
「先生はマッキントッシュにしはります? それともウィンドウズどすか? 」
 いきなり京都弁で尋ねられて、椅子に座ったばかりの政晴はどきまぎする。

「ああ、挨拶もしませんで、失礼しました。わたくし、佐沼教授の秘書の田所洋子ともうします。よろしゅうお願いします」
「あの、わたくし、今度こちらに配属になりました水上政晴といいます」
「ええ、よう存じてます。とっても優秀な脳外科医さんどすやろ。で、パソコンはどうなさいます? 」
「こちらの研究室で買っていただけるんですか? 」
「ええ、もちろんどす」
「じゃ、ウィンドウズ8ができるのがいいな」
「はい、わかりました。じゃ、こちらで適当なメーカーのノート・パソコンをみつくろうておきますから」

 政晴が脳外科の研修医で一年間いたころと、大学病院の研究室のようすは、すっかりか変わってしまっていた。そのころ、ここにいた由香里のところには、よく遊びにきていたけれど、特に、この産婦人科は建物全体が斬新なアルミ外装のインテリジェント・ビルに建て替えられてしまっていたのだ。
 研究員一人ずつに割り当てられた席を区切るパーティショナーは淡いパープルで、靴音を吸い込む床の絨毯は、落ち着いたブルー・グレーである。その床下を何千本もの信号線と光ファィバーが駆けめぐっていたのである。そして、なんの目的で設置されているのか、おびただしい数のパソコンとモニターが、ぎっしりと並んでいるのだった。
 美しいといってもいい、その無機質な造形のなかを、洋子の形のいいヒップが遠ざかっていく。
「彼女、美人だな」
「そうかな? ぼくの好みじゃないな」
 パーティショナーの陰から突然、若い声が響いてきた。
「あっ失礼。つい独り言が聞こえたものですから。ぼく、角倉といいます。ここの講師の端っくれに、かろうじてひっかかっています」
「わたくし、あの、こんど救命センターから、こちらに来た」
 立ち上がって軽く会釈する政晴に向かって角倉は、とっても魅力的な笑顔をつくる。
「知ってますよ。水上先生でしょ。先生は笹川助教授とは同期なんですってねえ」
 この男は薄く化粧をしているのではないだろうか?
 そう思えるほど唇が紅い。
「はあ」
 少年は、ある日、どんな少女よりも輝くときがある。しかし、それは一瞬のうちにくすみだすものであるはずなのに、この男は不思議なほど瑞々しさを残していた。
「笹川助教授こそ、美人中の美人だと、ぼくは思いますよ」 
「そうでしょうか? 」
 政晴はちょっと複雑な表情になる。昔つきあっていて、一時は結婚も考えたことのある女性が上司である職場で働くというのは、あまり居心地のいいものではないはずだった。

「まあ、今日の所は先生のご意見を入れて、あの秘書を超美人としておきましょう。彼女は、ちょっと前までは陣痛促進剤を売りまくっていたプロパーだったんだよ」
 現在はMR(Medicalメディカル Representativeリプリゼンタティブ 医薬情報担当者)と呼ばれることが多いが、プロパーとは、製薬会社から派遣されてくるセールスマンのことである。
「京都の人なんですね」
「まあ、京都生まれらしいんだけれど、あそこまで京都弁をどきつくやらなくてもいいと思うんだ。本人は、どうもそこを自分の売りにしたがっているみたいなんだ。プロパーのときは、ガゼット社のMrミスター.SAエスエーって呼ばれていたんだよ、彼女」
「SAってサービス・アシスタントのことだろ。でも、Mrミスター.じゃなくてMissミスの間違いじゃないのかい? 」
「綴りをそのまま読んでみればわかるよ」
「あっ、『MRSA』のことかい」
 MRSAとは、Methcillin(メシチリン) - Resistant(レジスタント) Staphylococcus(スタフィロコーカス) Aureus(オーレウス)の略で、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌のことである。どのような抗生物質にも耐性を持つ菌で、この菌で敗血症が起これば、どのような治療法もなく、患者は死を迎えることになる。現在は院内感染は下火になっているが、一時は、かなり深刻な社会問題になっていたのだ。

「そうだよ。製薬会社は第三世代のセフェム系の抗生物質を売って売って売りまくって、そして、その抗生物質の耐性菌を作ってしまったんだ。そして、またそのための薬を作って、製薬会社は儲ける。これがマッチポンプさ。
 この場合、マッチもポンプも抗生物質。火を消しているはずのポンプがいつのまにか、さらに強力な耐性菌をつくりだして、マッチになってしまうところがミソなんだよ。つまり永遠に、その商売を続けられるってことだよ」
「ひどいことだ」
「彼女の前では、決してそんなことを言っちゃ、いけないよ。きみは彼女に感謝しなくちゃいけないんだからね」
「えっ? 」
「きみをここの講師に推薦したのは、あの田所女史だからだよ」
「そんな権限があるってことかい? 」
「彼女のことは、おいおいとわかると思うけれど、佐沼教授の単なる秘書なんかじゃないからね。若いけれどガゼット社の東京西部地区の拡販のチーフをしていたんだ。
 今年からは総合企画担当のオーガナイザーとして、副部長待遇になったらしいよ。あー、それから彼女に手を出そうとしても、無理ですよ。男なんてハナから相手にしてないんだ。女性には珍しいほど仕事がすべてっていうタイプだからね」
「つまりこの研究室は、丸ごとガゼット社に取り込まれているっていうのかい? 」
「それどころじゃないよ。今じゃ、この医学部全体がガゼット社、丸がかえなんだよ。医学部長の車も運転手も、みなガゼット社持ちだよ。そのうちわかると思うけれど、佐沼先生と奥さんは離婚を前提に別居しているんだ。先生は、この半年ほどホテル住まいでその宿泊代も、離婚訴訟の費用もガゼット社が出しているんだよ。各教授のプライバシーに関する経費もかなり支払っていて、どの教授も、国立大学ならとっくに収賄罪で逮捕されてもおかしくない状況だよ」
「ふーん、それは知らなかった」
「もっと重要なことは、ガゼットのグループ企業から支払われる億単位の受託研究費なんだよ。私学の場合には、文部省への自主的な届け出だけで、民間企業からお金を受けとることができるんだけど、それがいかに巨額であるかわかるかい?」
「文部省からも私学の研究室には研究予算が配分されるんじゃないのかい?」
「その額は、一研究につき、年間たったの二百万円ぽっきり。水上先生、産学協同なんて世間では言われているけれど、実際には企業からの補助がなければ大学の研究など続けられるわけがないんだよ」

 ガゼット社は、もともとは大正時代に京都で創業された寿々(すずいち) 商会という名前の薬の卸問屋であった。三代目社長が店を広げ、製薬会社を傘下に納めた。運のいいことに、その会社がすぐに画期的な制癌剤を開発し、株式公開で得た巨額の資金で、今度は医療機器の電子メーカーも傘下に納めた。
その会社も次々とヒット商品を出し、またたくまに、巨大な医療コングロマリットと成長したのである。さらにオーナーが会長に納まり、厚生省の高級官僚を次々と社長に起用したことも、その成長におおいに寄与したのだった。

 東和大学医学部は、K大学医学部とならんで私学の雄であり、東日本の学閥の双璧であった。あまり伝統があるともいえないガゼット社はK大学には、どうしてもうまく食い込めなかったため、東和大学に総力を注いでいるといってもよかったのだ。ここが関東での橋頭堡であり、そしてT芝電気など他の医療機器メーカーの動向を探る情報基地でもあった。
 この大学には医学部、歯学部、看護学部、体育学部が戦後すぐに創設されていた。その後、理学部、文学部、法学部が設置されたが、伝統的に医学部長が学長になるしきたりであった。そして佐沼を医学部長に推しているのも、ガゼット社の方針であった。
「うちの研究室に入ったということは、とりもなおさずきみ自身もガゼット社のラインに入ったということだからね。これからは、使用する医療機器だけでなく、使う薬もそのラインから、はみ出さないように気をつけるんだよ」
「処方のたびに、薬のメーカーを、いちいち確認するなんて無理だよ」
「そこは大丈夫、うちはカルテをパソコンに入力することになっているけれど、同じ効能がある場合には自動的に他社の系列の薬は排除されるようになっている。どうしても使用するときは手書きの申請書を佐沼教授に出して、サインをもらわなくてはいけないんだ」
「すごいシステムだね」
「田所女史がここにやってきて三ヶ月で作ってしまったんだよ」
「あの女性がやり手だということはわかったよ」
 ただ、それにまったく従わなくてはいけない、というのは納得できない政晴である。

 角倉は端正な眉を、やや上げるようにして、声をひそめる。
「とにかく彼女の動向には常に気をつけることだよ。そうでないと、きみをここに引っ張ったのと同じ権力で、きみはここから放りだされることになるんだよ」
 政晴の前で、その眉が小しさがった。美しい顔が人なつっこい表情になる。
「おっと、おでましだ」
 洋子がぴっちりとしまったワンピース姿を強調するような歩き方で近づいてくる。
 手には、もうノート・パソコンを持っている。
「新品が来るまで、これを使うていてください。あっ、それから水上先生、インターネット上のガゼット社のホーム・ページに一日一度は必ずアクセスしはるといいどすわ。そこでは特殊なキーを使うて、ガゼット会員の方だけの特別な医療情報も得られるようになってますから、よろしゅうお願いします。
 それに週末でも、できれば一度ぐらいは、ご自宅からでもアクセスなさってください。先生がたが安う遊べるお店なんかも紹介してますから」
「はい」
「では失礼します」
 洋子は、そのまま結い上げれば舞妓になるのではないか、と思えるくらいに長い髪をかるく揺するように会釈して、教授の部屋に戻っていった。

「ガゼット社は胎児や新生児の臓器の販売に乗りだそうしているんだ。あそこの研究所には、うちの標本室の百倍も胎児のサンプルが集められているんだ」
 角倉はすこし声をひそめる。
「標本室って? 」
「おや、きみはまだ見せてもらっていないのかい。きっと感動するよ」
「わたしは専攻が脳外科なんで知らないことが多くて大変なんです。産婦人科でわからないことがたくさんあると思うので、これからもいろいろと教えてください」
「ええ、どんどん聞いてください。ぼくのわかる範囲のことなら、なんでもお教えしますよ。でも、脳外科医だったなんてうらやましい。教授がこれからやろうとしていることにはぴったりじゃないですか。教授は胎児の脳をいじろうとされてますから」
「胎児の脳ですか? 」
「マイクロ・サージャリーというか、顕微鏡下での胎児治療の分野を開拓しようとしていらっしゃるんですよ」
「ほう、難しそうだけど、やりがいがありそうですね。角倉先生は産婦人科の分野で主に、なにを専攻なされてきたのですか? 」
 角倉はそこでは急にかむような表情になる。
「実は、ぼくもあなたと同じで産婦人科が専攻じゃないんですよ」
 美しさが一瞬凄惨さを帯びたような気がした。
「ぼく、去年まで精神科にいたんです」
「えっ! 」

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