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そして天使が・ふ・え・て・い・く 作者:高沢テルユキ

第二章 (一)

 ゆっくりと色づき始めた木の葉たちは、地面に落ちても土の上で温かく発酵しながら枯れることも許されない。都会の冷たい風に、いつか吹き飛ばされる運命が待っているだけである。
 そのことを知っているかのように、直線で区切られた空間から背伸びするように、その高い梢を見せているイチョウの黄色もどこかよそよそし気である。

 この団地に入って、六年が過ぎた。また秋がやってきたけれど、結婚記念日のことを夫は、ちゃんと覚えてくれているのかしら。
「ほんとうに信じられない事件ですわね。被害者のかたのご冥福をお祈りします。では六十秒のコマーシャルをどうぞ」
 女性キャスターの甲高い声がテレビの画面から響く。
 そろそろ布団を干さなければ……。

 ゆっくり立ち上がった美紗子の視線の先の中央広場のクヌギも、六年前と同じように色づき始めていた。ただし、その足元は、いつのまにか残酷なまでに、コンクリートと石畳で、しっかりと固められてしまっている。
 そして、ベランダのスライド・ドアを開けようとしたときである。
「あっ! 」
 いつからだろう? こんな奇妙な目まいが始まったのは?

 軽い吐き気も感じながら、美紗子はやっとのことで羊毛布団を干し終えていた。政晴と結婚して、この団地に入ったばかりのころは、布団を干すことなんてことは、なんでもなかった。少々、風の強い日でも、怖いと思ったことなどなかったはずなのに。
 部屋は十三階建ての高層団地の八階。でも見晴らしのよいその高さがとても気に入っていた美紗子だった。

 晴れた日には、そのベランダに布団を出す。まだ温かさの残る布団に顔を埋める。わずかに残った夫の体臭が鼻をくすぐる。それだけで幸せな気分になれた日もあったのに。すべては、すっかり遠い過去のことになってしまったのだろうか?

 あのころは、なにもかもが、生き生きと輝いていた。一緒に暮らし始めたばかりのころの政晴は、激しいほどの視線で、自分を見つめていてくれていた。そして毎日のように……。
 でも、それを過去形にしてしまうほど、夫との関係は冷えてはいない。愛情は、まだ十分に感じていられる日々だった。

 料理の後片付けをしても、こんな気分にはならない。掃除でも洗濯でも、こんな奇妙な気分にはならないのに、なぜ布団を干すということだけで、こんなに不快な気分になるのだろう?
 美紗子には、どうしてもわからなかった。
「ねえ、あなた布団乾燥機を買ってくれない」

 その日、珍しく早く帰宅して、平日に、自宅で夕食をとる夫の政晴に、美紗子は何気ない調子できりだした。
「急にどうしたんだ? 」
「団地の規則では布団を干してはいけないことになってるでしょ」
「あれ? そんな規則あったんだ。でもそんなことを守っている家なんかないぞ。湿度の高い日本じゃ、布団を干すのは文化の一端じゃないか」
 思ったとおり、ちょっと理屈っぽい夫の一面が出た。
「あなた、ここを出たいわ。どこか郊外の一戸建てに住みたくなったの」
「バカなことを言うなよ。おれは医者といっても一介の勤務医だぞ。どうしてそんなものを買える、と思うんだ」
「でも社会的信用があるから、ローンをたくさん借りられるんでしょう? 」
「だれからそんなことを聞いたのか知らないけれど、ローンを借りられるのは、開業医か、大学病院でも、教授が助教授クラスの人間だけだ。おれみたいな救急センターの外科医なんか、信用度ゼロだよ。それに借りられたとしてもローンの重さで後悔してる人間もたくさんいるよ」
「わたし、また働きに出てもいいのよ」
「なにを言っているんだい。この不景気に美紗子みたいなお嬢さんの働き口なんかないよ」
 わたしはお嬢さんなんかじゃないのに。でも確かに、家を建てるのに役立てるようなお金は稼げそうにもないわ。

「そう、じゃ当分ここにいないといけないのね」
「あと五年は、ここにいるつもりだよ。ここは通勤に便利だしな。いまの勤務は、交代制だから、三週間に一度は必ず夜勤が入る。大事故が起ったりしたら、真夜中でも遠慮なく緊急招集の電話が入るんだぞ。郊外なんかに引越ししたら、こっちの方が過労でダウンしてICUに入ることになっちゃうよ」
 美紗子はICUが『集中治療室』の意味であることを思い出す。
「五年も……そんなに長く? 」

 そこで美紗子は決心したように口を開く。
「わたし、このごろどうしてもベランダに出られないの。足がすくんでしまって」
「冗談だろう。サマーランドのジェットコースターだって、ぜんぜん平気だったのに」
 婚約時代に夫のクルマに乗って、秋川にある遊園地に行ったことを思い出す美紗子である。
 そう、あの帰り道にクルマが急にモーテルに入って、あたしたちは……。
「きっと、急に高所恐怖症になったんだわ」
「冗談を言っちゃいけないよ。後天的な高所恐怖症なんて聞いたことないよ。うちの大学は、みんな心理学も必須科目だったんだから、だまそうったってだめだよ」
「あなたをだますだなんて。わたし、本当にこのごろ干し物ができないの」
「わかった。おれのシャツを洗濯したくないんだな。さあさあ明日は、早番早番。セックスも早番にするか」
「いやだわ、そんな言い方」
 医者なんだから、わたしの体のことを、もう少し心配してくれてもいいのに。
 楽天的なだけの夫を一瞬、恨みそうになる美紗子だった。

 翌日、美紗子は、もう一人の別の知り合いの医者に、目まいの相談をすることにした。
「あの由香里、じゃなくて笹川助教授はいらっしゃるでしょうか?」
 また親友の声を聞けると思うと、美紗子は少しわくわくするような気分になる。

 夫と違って、医学部を卒業後も東和大学の研究室にずっと残り、由香里は地味な研究を続けていた。やがて産婦人科の佐沼教授の右腕として、多くの論文を発表するようになっていた。そして去年、三十そこそこという異例の若さで、助教授になっていたのだ。
「あのどなたはんどす?」
 しかし、受話器から、いきなり響いてきたのは、京都弁の女性の声であった。
「あの、高校時代からの友人です。水上ともうします」
「はあ、そうどすか。お待ちになってください」
 大学医学部の研究室には不釣合いな言葉使いに、美紗子は少しどきまぎする。やがて聞きなれた由香里の明るい声が聞こえてくる。
「どこか具合でも悪いの?」
「ええ、でもどうしてわかったの?」
「あなたのことはなんでお見通しなのよ」
 嘘だとは、わかっていても美紗子は、うれしい気分になれる。
「実は、ちょっとこのごろ体調がよくないの。朝、ベランダに布団を干すときに、目まいをするようになったの」
「目まいってどの程度、部屋全体がぐるぐる回るような感じ?」
「ううん、そんなひどくないわ」
「じゃメニエール病じゃないわね」
「えっ、メニエールって?」
「耳の奥にある三半規管の異常が原因になるのだけど、女性に多いのよ。いずれにしても、耳鼻科でくわしく調べてみればすぐに原因がわかるはずよ。風邪のあと単純に内耳にウイルスが感染しただけかもしれないから。それだったらすぐに治るはずよ。あと婦人科系のホルモンが関係することもあるから、うちの科でも診察してあげるわ」

 政晴とちがって、やっぱり由香里は本気になってわたしのことを心配してくれている。
「じゃ、明日にでも、そちらの病院に行こうかしら」
 美紗子の声は自然にはずんでいた。
「そうね。でも今週はちょっと忙しいの。こちらからまた電話するから来週の後半にでも病院に来て」
「学会の研究発表とか、なにかあるの?」
「違うの。テレビよ」
「えっ?」
「『医療トゥディ』って番組知ってる?」
 それは厚生省が後援する公開の生番組であった。専門の医師や患者だけでなく、一般市民にも、難しい医学用語をわかりやす解説してくれる番組である。
「ええ、毎週、見ているけれど……」
 結婚するまでは、医学の分野には、あまり興味がなかった。でも、政晴と話をあわせるために、よく見るようになっていたのだ。
「来週、月曜日に佐沼先生がその番組に出られることになったので、その資料を集めているのよ。企画書も見せてもらったのだけれど、最初先生の紹介があって、そのあと大病院とクリニックとの連携で、地域の妊婦の健康が守られていることを話し合うことになっているの。でも、なにかちょっといやなことが起こりそうな予感がするの」
「『いやなこと』って?」
「その対談の相手がかなり変わった人なの。都内で中規模のクリニックを開いていて先進的な不妊治療をしてるので有名な先生なんだけど、昔つとめていた大学をスキャンダルで追放されてから、どうも大学病院というものに敵意をもっているらしいの。
 父親が現職の国会議員で、トヤマ製薬の会長をしているという有力者というのも気になるの。医者としては、あまり敵には回したくないタイプでしょ。ちょっとした本も出版しているし、論客としても有名なのよ」
「じゃ、佐沼先生が言い負かされてしまうの」
「いいえ、その逆よ。相手方の弱点もなにもかも十分すぎるほど調査して準備してあるから、きっとどんな激しい論戦になっても、佐沼先生は勝つわ。でもそのあとできっと……」
 由香里は珍しく語尾をにごす。
「あっ、会議の時間になったから。じゃ、またあとで」
「由香里はその番組に出るの?」
「いいえ。でも田所さんは放送局には行くみたいよ」
「田所さんって?」
「いま最初に電話に出た人よ。今年から教授の秘書になったのよ」
 医師たちのあいだを、優雅に歩き回る姿が見えるような、きれいな京言葉。毎日、由香里と同じ研究室で働らいているのはどんな女性なんだろう。
 それから、しばらくは、その姿を想像していた美紗子だった。
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