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小熊座 

1831-05-02

長谷部先生のすごいところ

(実際にアップした日付は2014年6月5日です)

 

前記事で長谷部恭男「モンテスキューとトクヴィル」(有斐閣『続・Interactive憲法』所収)を丸々写経した。

全体的になんだか釈然としない文章であるが、特にえーっと思うところがある。

 

 

以下のような部分がある。

モンテスキューのいわゆる権力分立論のキモは権力分立という枝葉の技術にはない。

「むしろ、名誉を行動原理とする貴族という強い中間的権力が存在せず、しかも人民に公徳心の欠けた現代社会で、どうやって権力への防波堤を築いて人民の権利や自由を守る政治体制を維持するか」という点にある、と。

そういうふうに、長谷部は書く(B准教授の問いへの答えとして学生Dに言わせる形で)。

で、その権力分立論をそのまま現代の民主主義国家へ適用することは不可能である、と。

続く部分がこれ↓

B:(略)確かに、現代の民主政国家で、立法府をモンテスキューの描くイギリス議会のように構成するわけにはいかないでしょうけど、人々の自由を守ったり、社会全体の利益に貢献するような特権を一部の人々にのみ認めるという考え方は、現代の憲法の中にも見出だせるんじゃないかしら。

D:ひょっとして、カール・シュミットの言う、憲法による制度保障のことですか(注23)?

B:そう。たとえば、党派に偏らずに中立的な立場で公務を遂行する官僚組織や、社会一般の関心動向とは距離を置いた環境で科学や学術を追求する高等研究教育機関に憲法上、特殊な地位を認めるという考え方は、現代の憲法学でも十分に可能な立場よね(注24)。

D:考え方としては確かにありえますが、現代社会を飲み込んでいるかに見えるポピュリズムの潮流に抗して、こうしたエリートの特権を守るのは、なかなか勇気がいりますね。人民の利害の一体性というのがポピュリズムの本質で、自分たちと違う他者(others)は、外国人だろうとエリートだろうと、排除するか、叩き潰すかだということですから。日本でも、このポピュリズムの勢いに乗らないと選挙に勝てないからということで、どの政党も公務員叩きで大忙しです。厄介なのは、権力の一元化というスローガンの下、こうしたポピュリズムに基づく他者排除の論理を、社会全体の公益と取り違える議論がこれまた多いことです。

もっとも、霞が関の公務員の場合、特権というほどの特権を持っているかどうかも怪しいものですが。頭のいい人たちですから、お金が欲しいんだったら、官僚になって安月給で夜遅くまで働くより、実入りのいい仕事はいくらでもあるはずです。

B:それでも社会公共のために頑張るというのがエリートのエリートたる所以じゃないかしら。そうした高い職業倫理を備えているからこそ、名誉を尊重した貴族の代わりになるわけでしょう。難しい途であることは確かだけど。

D:それに科学や学術の信用も、いわゆる「リスク社会」論の登場が示すように、相当にガタが来ています。科学技術の発展は、人々の生活を安心・安全なものにするどころか、ますます人工のリスクを増やして、将来の見通しを不安定にしていると言われます(注25)。自然の脅威から暮らしの安全を守ってくれるはずだったのに、実際には、一般庶民にとっては内容も理解できないし結果も予測不能な科学技術の専制を招いたと反感を買っています。

B:それはそうだけど、科学技術の成果なしで暮らしは成り立たないわよね。研究や勉強が何より好きという、ちょっと変わった人たちの努力のおかげで、今の暮らしがあるんだと思うけど。

 

注23:シュミットの制度保障の観念については、長谷部・前掲注20)第13章参照。

注24:樋口陽一「“コオル(Corps)としての司法”と立憲主義」同『憲法 近代知の復権へ』(東京大学出版会、2002)136頁は、近代立憲主義の伝統の中で大学と法曹とが特権集団として特異な地位を占めることを指摘する。

注25:リスク社会論と法律学とのかかわりについては、さしあたり長谷部恭男編『法律から見たリスク〔リスク学入門(3)〕(岩波書店、2007)所収の諸論稿を参照。2011年3月に発生した福島第一原子力発電所の事故は、予測不能な人工のリスクが現実化した典型例である。

 

憲法上の制度保障云々という話の妥当性は措くとしても、何なんでしょうか、このふんぷんたるエリート主義臭。

「頭のいい人たちですから…官僚になって安月給で夜遅くまで働くより、実入りのいい仕事はいくらでもあるはず」あたり、いけすかないよねえ(いや、気にならない人は全然気にならないんだろうし「だって事実じゃん」とかしらっというんだろう)。

さすがは東大(当時)の先生!

官僚が「高い職業倫理を備えている」というのも、その事実認識に対し多大な疑念を覚える。

たぶん東大の先生(当時)というポジション的にそう言わざるをえないのだろう。

同情する。うそ。

ポジショントークでもあるのだろうが、ガチでそういう認識という可能性も大いにありそう。

 

あと「ポピュリズムに基づく他者排除」の例としてエリート(霞が関の公務員)を挙げるってのもどうなの、この被害者意識。

しかも外国人と同列に並べてってのがひどい。両者の置かれた立場は制度的にも事実としても天と地どころではない格差があるだろう。

外国人のみなさん、怒るよ。

どうなってるんだ、長谷部先生の脳内日本社会は。

 

極め付けが、この科学技術論。

じつは、この文章の初出は雑誌「法学教室」2010年6月号。

東日本大震災、そして福島原発事故の半年前なんですね。

そして、この文章が収録された単行本『続・Interactive憲法』(有斐閣)は2012年になって出ている。

普通なら、この能天気な科学技術論は、福島原発事故以降、もはや維持しえないものであると思うだろう*1

大幅な改訂が加えられているんじゃないかと思ってワクワクしながら私は両者を見比べてみた。

ところが、文章全体で、加筆がたった一か所、注25の赤字部分が加えられただけ。

それ以外全くおんなじ。

長谷部先生の現実感覚の頑強性に驚異の念を覚えずにいられない。

*1:その普通の感覚が普通の感覚として通用しないことが明らかになった日本社会のこの3年間は恐怖時代であると言いたい

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