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【カナロコ限定】横浜DeNA:ユリエスキ・グリエルにインタビュー「ファンに満足いく勝利を」 

 横浜DeNAのユリエスキ・グリエル内野手が野球との出合いや母国キューバへの思いを語った。

 ―来日した成田空港にはファンが詰め掛けた。

 「とても満足している。(ファンが)追い掛けてくれることをとても誇りに思う」

 ―自身初の海外挑戦。

 「簡単ではない。特に最初はね。早く慣れるようにできる限りの準備をする」

 ―走攻守、三拍子そろっている。日本で特にこだわるのは。

 「バッティングは好きだけど、目指すのはどれか一つだけ、というわけではない。野球選手として、全てにおいて完璧でありたい」

 ―父のルルデス・グリエルさんは1992年のバルセロナ五輪の金メダリストで、社会人野球のいすゞ自動車(休部)でもプレーした。野球を始めたきっかけは父の影響が大きいか。

 「始めたのは5歳の時。兄と一緒に遊び始めた。兄になかなか勝てなくて、競争心が芽生えた。父から強制されるというのは、一度もなかったね」

 ―父から指導を受けたこともあったか。

 「始めてから今まで、全てを父から教わった。自宅の庭で手本を見せてくれたり、普段の会話の中でアドバイスをくれたり。18歳の時は、父が監督を務めるチームでプレーした」

 ―兄も弟もキューバの国内リーグで主力選手。野球をプレーすることはやはり当たり前の環境だったか。

 「家の中では『野球の呼吸』が聞こえていた。『野球の息』をしていた。特に母は家族で唯一プレーしないけど、誰よりも野球を知っていたしね。ほぼ毎日試合を見に来てくれた。18歳の時、父が代表の試合で海外に出ていた時は、母がトス上げを手伝ってくれた」

 ―まさに野球一家。

 「その通りだね。冷蔵庫の上がグローブ置き場だったね。ずっと野球と一緒に住んでいる感じだよ」

 ―計13シーズン、キューバでプレーした。海外に出たいという思いは以前からあったか。

 「長い間、海外でプレーしたいと思っていた。できる限りレベルの高いリーグでプレーしたかった」

 ―日本のレベルが高いと感じるのは。

 「アメリカの次にレベルの高い国。特に投手がしっかり投げる。キューバと比べてコントロールが優れていて、変化球も各投手が3、4種類を持っていて、それを使いこなせる」

 ―国際大会で日本と戦ったことが、やはり今につながっている。

 「WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で日本のレベルを知って、日本の野球への好奇心が生まれた。中に入って、どのようにレベルが上がっていったのか知りたくなった」

 ―2006年のWBC第1回大会、決勝では最後の打者だった。

 「ドミニカとの準決勝に勝って、正直優勝したと思っていた。でも、日本と戦って驚いたよ。緻密で統制がとれていて、全てにおいてレベルが高かった。最後の打者になった時は、もう希望がなかったね。悲しかったし、悔しかった」

 ―印象に残っている選手は。

 「松坂(米大リーグ・メッツ)やダルビッシュ(同レンジャーズ)、岩隈(同マリナーズ)。田中将大(同ヤンキース)もすばらしいね」

 ―初めに松坂の名前が挙がったが。

 「キューバにとって偉大なる投手だよ。2度のWBCと、アテネ五輪。3度もキューバに勝った世界で唯一の投手だからね。次は勝てる、そう毎回思って打席に立つけど、その度に松坂もレベルアップしていた」

 ―29歳はまだまだ伸びる年齢。さらに向上したいという思いの強さを感じるが。

 「新たなステージに挑戦することは、自分のレベルを上げる。国内の投手とはほとんど全員と対戦して、対策も全て知っている。新たな投手と戦って新たな対策を練ることで、自分をレベルアップさせたい」

 ―日本の文化への不安はあるか。WBCでは来日して2週間で5キロもやせたという話しも。

 「日本の米と生魚が苦手。豆がないと駄目。少しずつ生活に慣れたい」

 ―国籍は違えど、チームにはブランコ、バルディリスやソーサら、同じスペイン語を話す選手がいる。

 「精神的な支えになってくれるはず。まだ会話もしていないけど、彼らの存在は心強いね」

 ―巨人のセペダとともにキューバ政府の海外移籍容認によって来日してきた。活躍次第で、キューバ選手のさらなる可能性も広がるはず。

 「セペダと私はキューバを代表してやってきた。キューバには質の高い選手がまだまだたくさんいる。亡命したメジャーリーガーもアメリカで結果を残している。2人がこれからの選手の扉を開くことになる」

 ―亡命した選手はキューバ代表として戦えず、8年間は母国にも帰れない。それでも仲間が亡命を選んだ時の心境は。

 「人にはいろいろな考え方がある。亡命した選手も強い気持ちを持って挑戦した。残る側として寂しさはある。私には国や家族を捨てることはできなかった。それを考えることさえもできなかった」

 ―いつかはメジャーリーグに、という思いは。

 「野球選手は常に一番高いレベルでプレーしたいもの。当然アメリカでプレーしたいが、今はそういう運がない。近い将来、問題が解決すればプレーしたい」

 ―こうしてキューバが開かれていくことは、望ましいことか。

 「とても望んでいるし、これがその第一歩。来年以降もこうして開かれていくことで、キューバの野球はレベルアップするはず」

 ―ベイスターズは神奈川のチーム。父のルルデスさんもいすゞ自動車でプレーした。

 「グリエルという名前と神奈川は、何か縁があるのかもしれないね」

 ―最後に意気込みを。

 「まずはチームのために戦う。CS(クライマックス・シリーズ)進出に貢献する。そして日本の野球に関わる人に、ユリエスキ・グリエルという名前をもっと知ってもらいたい。キューバの人も、巨人戦をテレビで観てくれる。セペダとグリエル、2人の活躍を見てほしい」

 ◆ユリエスキ・グリエル キューバ国内リーグで2001年にデビューし、走攻守そろったスター選手として活躍。通算13シーズンで打率3割3分3厘、235本塁打、934打点を記録。アテネ五輪で金メダルと獲得するなど国際大会でも活躍した。父のルルデス氏は1998年に社会人野球のいすゞ自動車(休部)でプレーしている。キューバ出身。背番号10。183センチ、89キロ。右投げ右打ち。29歳。

 ◆キューバの野球事情 1959年のキューバ革命以降、カストロ政権はプロスポーツを廃止。国内リーグの野球選手の身分は国家公務員にあたる。ことし1月にキューバ政府が自国のスポーツ選手の国外プロ活動を解禁するまでは、特例を除き、キューバの選手が国外でプレーするためには亡命しか方法がなかった。

 亡命した場合は代表として国際大会に出場できず、原則として8年間は帰国できない「ペナルティー」があるが、給料が国外の選手とかけ離れていることなどから、米大リーグに挑戦する選手は多い。近年ではセスペデス外野手が亡命した翌12年に4年増額3600万ドル(約28億円)でアスレチックスに入団した。

 キューバ政府が海外移籍の容認に踏み切った理由には、有望選手の亡命による代表チームの弱体化を防ぎたいとの思惑もあるとみられている。

【神奈川新聞】