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【プロ野球】

原貢さん死去

2014年6月1日 紙面から

今年の沖縄キャンプを訪れた父の原貢さん(右)とネット裏で話す巨人の原監督=2月20日、沖縄セルラースタジアム那覇で

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 巨人の原辰徳監督(55)の父、菅野智之投手(24)の祖父で、夏の全国高校野球選手権大会で2回優勝した名監督の原貢さんが29日午後10時40分、心不全のため、神奈川県相模原市内の病院で死去した。佐賀県出身。79歳だった。巨人が31日の試合後に発表した。原さんは5月4日に大動脈解離と心筋梗塞を併発し、入院していた。通夜・葬儀は近く近親者のみで営み、7月14日午前11時から東京都文京区の東京ドームホテルで「お別れの会」を開く。

 原監督との「父子鷹」で知られた名将が、野球一筋の生涯を閉じた。今年も原監督や孫の菅野に対してアドバイスを送るなどしていた貢さんだが、4日に自宅で倒れて病院に搬送。心筋梗塞に大動脈解離を併発して、懸命の治療を続けてきたが、帰らぬ人となった。

 原さんを一躍有名にしたのが、1965年に三池工高の監督で成し遂げた甲子園大会初優勝だった。選手を徹底したスパルタ指導で鍛え上げて甲子園に初出場すると、高松商(香川)や報徳学園(兵庫)など強豪を次々と下して決勝へ進出。優勝戦でも銚子商(千葉)を完封して優勝。不況と労働争議に苦しむ町に希望をともす「三池工フィーバー」の歓喜をもたらした。

 当時の東海大・松前重義総長の招きで、東海大相模高の監督に転じた後は、熱血指導や送りバントをしない攻撃的なチーム作りを展開。その名を不動としたのが長男の辰徳(巨人監督)が入学してからだった。「東海大相模で野球をしたい」と告げた息子に対しても、鉄拳を振るうスパルタ指導。それに耐えた辰徳はチームの中心打者として、春夏の甲子園大会に5度出場。スラッガーとしての素地を二人三脚で作り上げた。

 77年には東海大に進学した辰徳にあわせて東海大監督に就任。引き続き「父子鷹」として息子を鍛え上げ、首都大学リーグで優勝。その後も東海大を全国的な強豪に育て上げ、アマ球界の名伯楽としての地位を確固たるものにした。

 その貢さんが手塩にかけて育てたのが孫の菅野だった。

 小学1年の時にグラブとボールを買い与えて野球の手ほどきを始めると、東海大相模高、東海大時代と折に触れて指導。2011年秋のドラフトで日本ハムから1位指名を受けたときには「だまし討ち」などと激怒し、世論のバッシングを受けたこともあった。しかし、巨人入団後には東京ドームでの登板時にはスタンドで必ず観戦。今年2月も那覇キャンプを訪れて「昨年より努力しないと」とアドバイスを送っていた。

 右腕は祖父の言葉通りに精進して、この日のオリックス戦で7イニングを7安打無失点に抑えるなど巨人の右のエースに成長。原監督も日本一に3度輝く名将となった。その様子を見届けた貢さんは静かに天国へと旅立った。

 

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