インターネットマガジン「近未来」
エッセイその12(2004年6月30日)

右翼と左翼 
〜なぜ「フェミファシズム」なのか〜

掛谷英紀



 昔からよく、「右翼って何ですか」「左翼って何ですか」と聞かれることがある。「右翼」も「左翼」も政治的な話題ではしばしば使われる言葉である。それでも、右翼と左翼が何であるかをクリアに答えるのはなかなか難しい。比較的よく使われる区分は、右翼が保守で左翼が革新であるというものである。しかし、もしこの基準をそのまま用いるならば、時の政権によって右翼と左翼のラベルを張り替える必要がある。たとえば、旧共産主義国では、共産主義体制が実際に敷かれていたのであるから、その体制を維持する側は保守勢力である。ところが、それらの国々の共産党は右翼であるか、左翼であるかと聞かれれば、ほとんどの人は左翼であると答えたであろう。このように、右翼=保守、左翼=革新という図式は必ずしも成り立たないのである。

 では、右翼と左翼とは何であろうか。私は、前著『日本の「リベラル」』で、図1のような区分を紹介した。この図式で、経済的自由とは、税金が軽いこと(その代わり国や自治体からの補助も少なくなる)を意味し、政治的(個人的)自由とは、犯罪に対する刑罰、国や自治体からの規制、兵役等が軽いあるいは無いことを意味する。この2つの座標軸を導入すると、右翼とは経済的自由を認め政治的自由を制限する考え方、左翼とは政治的自由を認め経済的自由を制限する考え方と見ることができる。こう考えると、どちらの自由も認めないというイデオロギーもありうることが分かる。そのイデオロギーは権威主義と呼ばれ、ファシズムは右寄りの権威主義、共産主義は左寄りの権威主義と見ることができる。ファシズムと共産主義の類似性は、共に思想警察を保持していたことなどに見出せる。

 ところが、この2軸を使っても説明が不十分となるケースがある。たとえば、フェミニズムを例にとってみよう。最近、男女共同参画社会を推し進めるフェミニズムに対して、フェミナチやフェミファシズムという言葉がしばしば使われる。フェミニズムは左翼、ナチズムとファシズムは右翼というイメージが一般的な中で、どうしてこのような合成語が生まれうるのだろうか。

 国会でも、水島広子氏がこの呼称に触れている。そこで、水島氏は、フェミニズムの推し進めるジェンダー・フリーとは「画一的なジェンダーの枠にとらわれずに、それぞれがそれぞれの人らしく暮らしていくという考え」であるのに、「画一的に何かを押しつけようとしている人というふうにどうも曲解されている」と主張している。水島氏の言うことが事実であれば、フェミニズムはリベラリズムに属すると言えるだろうが、もし「曲解」が曲解でないとすれば、フェミニズムは権威主義に属することになる。では、本当のところはどうであろうか。

 この疑問を解決するには、今論じられている「自由」が誰にとっての自由かをよく吟味する必要がある。図1では、政治的自由と経済的自由が全ての人に等しく与えられる、または等しく制限されることを暗黙の前提としていた。しかし、実際の政治の舞台では、必ずしもそう公平に事は進まない。

 たとえば、ナチズムという名のファシズムも、ドイツ国民にとっては第一次世界大戦後の苦しみから国民を救い出してくれる政治として登場した。ナチズムはドイツ人にとっては彼らに自由を与えてくれる政治であったのだ。その一方で、ナチズムはユダヤ人の自由を徹底的に破壊した。つまり、図1のマップがドイツ人とユダヤ人で180度異なる様相を呈したのである。図1の2つの軸を1つに縮退させ、代わりに「自分との距離」(属する集団、考え方などの差)という軸を導入すると、ナチズムは図2のように描くことができる。図2において、線の傾きが大きければ大きいほど、それは不公平、不公正な政治ということができる。旧共産主義国の共産主義体制は図3のように表現できることから、これも不公平な政治の一つということができる。上で、権威主義とは、政治的自由と経済的自由を共に制限するものと述べたが、より厳密には、一部の人(ドイツ人、共産党幹部)の自由を拡大するために、別の人の自由を厳しく制限するものと言った方が適切であろう。

 では、フェミニズムについてはどうであろうか。彼らの推し進める男女共同参画社会では、「性的役割分担や家族内の相互扶助を一切廃すべきだ」という考え方の持ち主にとっては国家予算の後ろ盾で大きな自由が与えられる。その一方で、自己責任において性的役割分担や家族内の相互扶助を続けようとする人々に対しては、自由を大幅に制限する政策が進められている。前著でも述べたが、介護保険制度はその典型である。介護保険は強制加入の制度であるが、そこでは基本的に現金による支援はなく、サービス提供のみが行われる。ここで、たとえば親の介護は自分で行いたいと考える人がいるとしよう。その人も保険料は強制的に徴収される。ところが、介護を自分で行っても、保険から援助を得られないわけである。これでは、親の介護を自分で行うという選択を国が妨害していることになる。ちなみに、介護保険で先行したドイツもスウェーデンも自分で介護する人に一定の給付が行われている。育児に関する政策でも同様のことが言える。前々回に触れたが、厚生労働省の少子化対策は公的保育施設の充実などに終始した。これは、同じ子供を持つことについて、自分で育児をしようとする生き方は支援せず、保育所に預けて働く生き方のみ支援することになる。これらのことから、フェミニズムの推し進める政治は図4のようにマップすることができる。

 それでも、フェミニズムは「それぞれがそれぞれの人らしく暮らしていく」ことを推進していると主張する。となると、フェミニズムは性的役割分担や家族内の相互扶助を続けようとする人々を人間と認めていないことになる。これはナチズムがユダヤ人を人間と認めなかったのと同じである。これが、フェミニズムがフェミファシズムやフェミナチと呼ばれる理由である。最近、各自治体で男女共同参画条例が次々に成立しているが、そこで表現の自由を制限する検閲思想が盛り込まれているケースも少なくない。また、前々回のエッセイでも述べたが、マスコミや学者を使って情報操作をしているケースもしばしば見られる。これらの点でもフェミニズムが有するファシズムや共産主義との共通性を見出せる。

 以上、現状のフェミニズムを厳しく批判したが、私はフェミニズム=悪というレッテルを貼ってそのまま立ち去るようなことはしたくない。ナチズムも同じであるが、図2や図4のような極端な思想は、その前に受けた抑圧に対する反動として生じているケースが多い。ナチズムの生まれた背景には、第一次世界大戦でドイツが法外な賠償金を請求されたことがあると言われている。つまり、ナチズムが生まれる前には図5のような不公平が存在していたわけである。また、フェミニズムについても、二十年ほど前までは、才能があっても女性であるというだけで十分なチャンスが与えられない不公平が多くあった(図6)。その事情は十分汲む必要はある。ただし、それを以ってファシズムを正当化することはできない。今必要なことは、フェミニストと対話して、図4の線の傾きをできるだけ垂直に近づけるよう説得し続けることであろう。相手がファシズムの確信犯でないならば、その対話で何らかの合意は見出せるはずである。