クルマ社会がもたらす地方都市の荒廃 – 新しい交通システムLRTに未来はあるか

クルマ社会がもたらす地方都市の荒廃

モータリゼーションによって消えつつある駅前の商店街

 近年、路面電車の再評価が行われ、世界の各都市で路線の復活や新設が進んでいます。LRT(Light Rail Transit)という、機能や意匠の優れた交通システムとして再生しているのです。特にヨーロッパの都市で、電停との段差のない瀟洒な車両が、街の風景を生き生きと演出している様子は有名です。
 この背景には、自動車の自由放任がもたらす都市の荒廃への危機意識がありました。というのも、騒音や排ガスが都市の環境を汚染し、「足」の高速機械化が都市のスプロール化を促進し、そして、「走る凶器」となった車体が人命を損傷してきたからです。
 わが国も高度成長期以降、自動車での移動を前提とする都市政策を推進してきました。そのため、特に地方において、都市は見るも無惨に破壊されました。狭い旧市街にはコインパーキングが増殖し、街並みは虫食い状態になり、さらに、青空駐車場が路地の奥にまで自動車を呼び込み、生活環境を悪化させています。
 横丁の商店街には、買い物ついでに会話を楽しむ人々の影は消え、朽ちたシャッターがずらりと並んでいます。昔日の活気は、もはや夢の跡です。景観を損ねてまで駐車場を設けても、大型駐車場を備える郊外の大型店舗の集客力には敵いません。結局、静まり返った路地と空き地と、そして孤独な高齢者が虚しく取り残されたというわけです。
 一方、広い道路、大きな駐車場を貪欲に求める自動車のために、新市街の開発は急速に進みました。その結果、先祖代々の田園地帯は、ショッピングセンター、家電量販店、大型衣料品店、レンタルビデオ店、ファストフード店、パチンコ店、ホームセンター、コンビニエンスストア等の全国画一の店舗が幹線道路沿いに乱立する、殺風景としかいいようのない空間に変貌してしまったのです。
 そして、自動車通行にとって邪魔な路面電車も、次々と廃止の憂き目に遭いました。モータリゼーションの進展と、その結果としての「クルマ社会」の到来が軌道を駆逐し、道路を自動車の専有物に変えてしまったのです。

クルマ社会によって失うもの

 ヨーロッパの諸都市では、またアメリカの一部の都市でも、このクルマ社会を堪え忍ぶのは御免という市民の気風が強まったのでしょう、自動車の保有や使用に対する規制が様々に試みられました。その象徴的な例が路面の電車への(再)提供なのです。
 しかし、わが国では、クルマ社会の弊害と真摯に向き合う努力は実に乏しいものでした。したがって、先進国では日本のみが、路面電車の復活という都市交通政策の世界的な潮流に乗り遅れているのです。そして、相変わらず自動車にとって都合の良い都市空間を守り続けています。
 自動車にとって好都合の都市とは、自動車を使う人に優先的に利便を享受させ、その我が儘を許す都市ということです。そこでは、マイカーをもつ個々の住民の欲望は可能な限り尊重されます。ドア・トゥ・ドアの自在な移動が保障されるとともに、暇つぶしに当て所なくドライブを楽しむ自由も満喫できるのです。しかし、裏を返せば、マイカーというプライベートな空間が、都市という公共の空間を占拠し、分断し、攪乱することが推奨されているともいえるのです。
 さらにいえば、自動車は犯罪の欲望を満たすためにも便利です。郊外のロードサイドが栄える地方都市で猟奇的な犯罪が起きやすいのも、マイカーの自由放任と無関係ではありません。
 クルマ社会は、自動車の一般民衆への普及とともに訪れました。大量の人間が自動車を使い始めたのです。と同時に人々は、まるで自動車に使われるかのように、自らの財力や権力、威信や名声を誇示する特別の存在として自動車を崇め出します。流行という名の世論の支持のもと、技術の僕であることに他動的な喜びを見出すようになるわけです。要するに、クルマ社会の到来は人々の精神の不自由化、すなわち人間の劣化を伴っていたのです。
 劣化した人間は、自動車という「自分の世界」に閉塞し、そこで自己を慰撫し、そして、マイカーを思うままに動かすことによって、ちっぽけな支配衝動を満足させています。自動車の保有と使用によって安易な自己満悦に耽っているわけです。このような幼稚な精神の持ち主を大衆と呼ぶなら、クルマ社会は、大衆の温床になっているという意味で、その別名を大衆社会といってもいいのです。
 さすがに最近は、自動車に対する呪術めいた関心は薄れています。自己顕示欲を満たす特殊な消費財としてよりも、生活必需品としての性格が強くなってもいます。それでも、ドライバー大衆は、運転する権利は主張しても、運転に対する制約、運転に伴う責任は渋々としか受容しません。クルマ社会への根底的な懐疑などは抱こうともしません。その意味で、ドライバー大衆はいまなお、日本社会の圧倒的多数派を成しているのです。
 身近な実例を挙げましょう。徒歩で数分の移動にもマイカーを使うものぐさな人が、運動不足が祟って「メタボ」になります。このクルマ依存症患者は、慌ててウォーキングを始めます。交通事故の危険も顧みず、排ガスの健康への影響も気にせず、自動車のびゅんびゅん通り過ぎる車道の隅の、狭くて貧相な歩道をせかせかと早歩きするのです。その自分の姿に矛盾を感じようとしない人たちを大衆と呼ばずして何と呼びましょうか。
 そのような大衆は、まっとうな感受性を失っています。地方都市のバイパス道路はたいてい、田畑の中を貫通しています。そのため、分断された田圃で農作業に勤しむ腰の曲がった老婆が、時折、歩道に上がってきてとぼとぼ歩いています。こうした光景を見かけても、ドライバー大衆はそこはかとない哀愁も、ささやかな良心の呵責も感じません。他者に対する無関心を決め込んでいるのです。自分たちが犠牲にしてきたものは何か、ロードサイドでショッピングに励む自分は何者か。このような反省は大衆には無縁なのです。
 あの大衆国家にして自動車大国であるアメリカでも、マイカー優先の都市の病態がつとに指摘されています。モータリゼーション以前の健全な活気を取り戻すべく、LRTをはじめとする公共交通機関を飛躍的に拡充させた都市も一つや二つではありません。一方、わが国では、いったん廃止した路面電車を一路線さえ復活させた都市は一つもないのです。このことは、日本の諸都市が大衆に占拠されていることの有力な証といってもいいでしょう。
 日本で路面電車が復活しない根本の理由、それは日本が大衆国家であるという一事に尽きるのではないでしょうか。

→ 次ページ「保守すべきものと改善していくもの」を読む

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西部邁

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コメント

    • たける
    • 2014年 6月 05日

    私は、日本最大の路面電車都市で生活しています。原子爆弾、そしてモータリゼーションから立ち直った、街の魂のような存在です。LRTが広まらないのは、既存の路面電車のある都市でもチンチン電車レベルであることも挙げられると思います。私の街でも、自転車以下の速度で都市交通を担うレベルではないと厳しく非難されています。まずは車両を全部バリアフリー対応に替える必要があります。
    また、僅かな赤字でも切り捨てられる民間事業者に対しての手厚い支援が必要でしょう。
    今年、世界各地で過去最多の路面電車が開業します。世界から笑い者にされないような、まちづくりをしなければなりません。

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