音楽を仕事にしたいって14歳の頃から思い始め、ああいうアーティストになりたい!という最初の希望は、吉田拓郎でした。
僕がまだ7、8歳のころ時代は大きく変わろうとしていたらしく、学生運動に燃え、金よりポリシーが大切だから、四畳半の貧乏暮しも何のその、
アタシが編んだのこのマフラー、
ありがとう、
でもちょっと長くな〜い?
いいさ、ほら、二人で、まけるだろ、
ウフッ、マークンたらっ、
アハハ、
っていうやり取りが、堂々と認知されていた時代は終わったそうです。
安田講堂陥落の後、しらけ、ってよばれてたその時代の中で僕は秋吉久美子の大ファンで、GORO等でもよくお世話になりましたし、バージンブルースや妹やその他秋吉さんの映画はよく見に行きました。
音楽はフォークより、やっぱユーミンとかいいなぁ、でも、矢野顕子のジャパニーズガールってなんかすごい!それと南佳孝!カッコいいなぁ、なんて思っていました。よくヘッドフォンで爆音ではっぴいえんど、を聴いてましたが、当時のぼくにはまだあまり理解できず、はっぴいえんどの日比谷野音のライブ版はもっぱら落ち込んだ時にヘッドフォンでフルボリュームで聴くレコードでした。
(話はそれますが、矢野さんのおじいさまの鈴木のおじいさんは、私の母によくしてくださって、僕は当時、百合ヶ丘かあの辺の高台に暮してらしたおじいさまによくお家に招待していただきました。
「ウチにも孫娘がいるんだけど、ビアノばっかり弾いてるんだよ」もちろんそれが矢野さんの事とは全然知りませんでした。
鈴木のおじいさんは手の指が一本なくて、怪我して取れちゃったっていってらっしゃいました。
つづく。