ベルリンの壁に初めて亀裂が入ったのは25年前の6月4日のことだった。ポーランドで1988年にストライキが相次いだことから、同国の共産党指導部は非合法化していた自主管理労組「連帯」と話し合いを始めた。両者は限定的な自由選挙を1989年6月4日に行うことで合意した。この選挙で「連帯」側は、自由選挙枠の議席を、1議席を除いてすべて獲得した。
この大勝利は、その後の数カ月間で東欧の共産主義体制をドミノのごとく倒していった。同年11月9日には、ベルリンの壁そのものが破られた。その2年後にはソビエト連邦も崩壊していた。
■欧州最大級のサクセスストーリー
ポーランドはその後、冷戦後の欧州では最大級のサクセスストーリーを紡ぎ出し、中所得国としては世界最速クラスの経済成長を遂げるに至っている。世界銀行のワルシャワ在勤エコノミスト、マルシン・ピアトコウスキ氏に言わせれば、ポーランドは経済の面で西欧に500年も後れを取ってきたが、それをここ20年間で帳消しにしたという。大胆ではあるが、荒唐無稽とは言い切れない主張である。
ただ、ポーランドの事例は、共産主義体制からの移行の成功だけでなく、隣国ウクライナとの近さや著しい違いを通じて、体制の移行には挫折や失敗もあったことを思い出させてくれる。
東欧が民主主義に目覚めた記念日を迎えるにあたり、バラク・オバマ米大統領がワルシャワを訪れている。この訪問は記念日を祝う機会であると同時に、再び台頭してきたロシアが欧州の価値観にますます揺さぶりをかけていることに大統領が触れ、米国は引き続き東欧の同盟国の側に立つと述べてこれらの国々を安心させる機会にもなっている。
ポーランドとウクライナの違いは歴然としている。両国は人口にそれほど差がなく、1990年までは政治経済のシステムも似ており繁栄のレベルも似通っていた。ポーランドの改革派は「ショック」療法を受け入れ、価格統制の廃止や貿易の自由化に踏み切り、通貨の交換性を回復させ、国営企業への補助金を削減した。
ポーランドでは政権が頻繁に交代した。1991年に首相を務めたヤン・クシシュトフ・ビェレツキ氏は、1990年代のポーランドの首相は、サッカーのポーランド代表チームの選手より多いという冗談を飛ばしている。逆説的だが、この頻繁な政権交代は改革の成功に寄与した。首相がころころ代わったために、既得権益集団は政治システムを支配できなかったのだ。
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