雨宮処凛がゆく!

 独裁政権を逃れて日本にやってきたジャマルさんは、今まで3度、「難民申請」をしている。しかし、日本政府はその3度の申請を、ことごとく却下している。

 出身国・イランに帰ってしまうと死が待っているというのに、長年暮らす日本で「難民」と認められずにいるジャマルさんは、あまりにも宙ぶらりんで無権利な状態に置かれている。

 ちなみに、そもそも「難民」ってなに? という人もいると思うので、そこから説明しよう。

 UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のサイトによると、難民とは「人種、宗教、国籍、政治的意見やまたは特定の社会集団に属するなどの理由で、自国にいると迫害を受けるかあるいは迫害を受けるおそれがあるために他国に逃れた」人々。

 ちなみに日本は先進国の中でも「難民認定率」が極めて低く、たとえば2011年の認定率は0.3%。21人しか受け入れを認めていない。しかし、他の先進国を見てみると、2011年のアメリカ、カナダでの難民認定率は40%を超え、それぞれ1万人以上を新たに難民と認め、イギリス、ドイツ、フランス、オーストラリアでも、数千人を新たに難民と認めて受け入れている。

 そんな日本はしかし、「難民条約」を批准している。難民条約を批准した国は、先ほどの難民の定義に当てはまる人を保護するという条約上の義務がある。が、日本の場合、その義務をほとんど放棄しているような状態なのだ。残念ながら、日本は「先進国でもっとも難民に冷たい国」なのである。

 さて、そんな日本で、ジャマルさんの前にも「難民認定」は高い壁となって立ちはだかっている。

 一度目に申請したのは、01年。が、申請はしたものの、1年間、なんの連絡もなく放置されたままだった。結局、1年後に審査官が通訳者を連れてやってきて、やっと事情を聞かれたものの、審査官が聞き取りのあとに読み上げた聴取内容は、ジャマルさんの発言と違う部分も多かった。

 「それで、『こんなこと言ってない』って言っても、審査官は『何書けばいいかは俺が決める』って言うんです」

 そうして02年末、入国管理局から「難民不認定」の通知を受ける。ジャマルさんは不服申し立てをするものの、03年にはその却下通知がくる。同時に知らされたのは、強制送還と強制収容の令状が発行されたということ。それからほどなくして、ジャマルさんは入管収容所に入れられてしまう。

 この「収容所」がひどいところなのだが、それはまたあとで触れたい。

 とにかく、収容されてしまったら、そのままでは強制送還されてしまう。イランに送還されてしまえば、待っているのは拷問と死だ。そんな時、ギリギリのタイミングで支援してくれる弁護士が見つかった。「強制送還されないためには、とにかくすぐに裁判を起こすしかない」とアドバイスをもらい、ジャマルさんは「難民不認定の取り消し」「強制送還の取り消し」「強制収容の取り消し」を求めて裁判を起こす。危機一髪のタイミングだった。

 結局、04年4月には「難民の蓋然性が高い」という判定を受け、ジャマルさんは無条件で釈放される。収容期間は、実に5ヶ月ほど。

 「最初は横浜の収容所で、1ヶ月もしないうちに茨城の牛久市にある収容所に移されました。800人くらいが入るところで、とにかくひどいところでした」

 さて、そうしてなんとか釈放されたジャマルさんは、04年夏から、渋谷のUNHCR前で座り込みを始める。この時期、日本の難民受け入れ制度の落ち度や入管収容所の劣悪な環境に対して、クルド難民たちによる座り込みが行なわれており、それに合流したのだ。

 しかし、その年の9月、座り込みは警察によって排除されてしまう。この混乱の中、ジャマルさんは「転び公妨」で逮捕されてしまう。起訴されたジャマルさんは、拘置所の独房で5ヶ月を過ごすハメになる。結果的に「有罪」となり、再び茨城の収容所へ。収容生活は1年間にわたって続いた。

 そんな収容生活の中、ジャマルさんは体調を崩し、多額の保釈金を払うことでやっと「仮放免」という形で釈放される。

 04年、逮捕された時にもジャマルさんは難民申請をしている。しかし、却下。

 そうして2010年3月、またしてもジャマルさんは入管収容所に収容されてしまう。この時は、入管に出頭したらそのまま収容されてしまうという意味不明な展開だった。ちなみに「難民認定はされておらず、仮放免中」のジャマルさんは、2ヶ月に一度、入国管理局に出頭し、「仮放免の延長」の手続きをしなければならないという。また、同時に「旅行許可証」も貰う。「え、呑気に旅行?」と思うなかれ。ジャマルさんは、今住んでいる東京から、例えば隣の神奈川県に行く予定がある場合、それを事前に入国管理局に届けなくてはいけないのだ。届けていない場合、「東京から神奈川に行った」ことが発覚すれば、そのまま強制収容されてしまうおそれがある。「ちょっとした移動」が、即収容所行きとなってしまう生活なのだ。

 さて、それでは「収容所」とはどんなところなのか?

 ジャマルさんと会うまで、私はこの国に「入管収容所」というものがいくつもあり、そこに何百人もの外国人が収容されているという事実など、まったくと言っていいほど知らなかった。

 ジャマルさんは言う。

 「入管収容所は、とにかくひどいところです。僕は転び公妨で逮捕された時に拘置所も経験していますが、拘置所も入管収容所も同じようなものです」

 ちなみに入管収容所は、「在留資格のない外国人が、帰国するまでの間、もしくは在留資格を得るまでの間に一時的に滞在する施設」。それ以上でも以下でもない。しかし、それが「拘置所」と同レベルとはどういうことなのだろう?

 「僕は品川、牛久、横浜の3つの収容所を経験しています。最初に入れられたのは、横浜の石川町にあった入管収容所です。ここは小さなところで、建物の8階にありました。収容されていたのは70人ほど。10畳の部屋に10〜12人が入れられて、1日中、部屋から外には出られません。外部へ電話することもできなければ、診療室もありませんでした」

 この収容所にいる間、ジャマルさんは耳の内出血により熱を出す。痛みもひどかったものの、入管職員に言っても市販の風邪薬を渡されるだけ。収容所の中では体調が悪くても職員に怯えて何も言えずに耐える外国人も多く、ジャマルさんは「希望する全員の受診」を求めて収容所内でハンストをし、「全員受診」の約束をとりつけた。しかし、やっと病院に行けるという時に、ジャマルさんは屈辱的な扱いを受ける。商店街の真ん中にあるクリニックまでの移動中、手錠をかけられたのだ。診察中も手錠は外されなかったという。ジャマルさんはこの時のことを「恥ずかしかった」と振り返る。

 その後、ジャマルさんは茨城県牛久の収容所に移った。ここは800人くらい収容できる施設だが、今年3月、ここに収容されていたイラン人とカメルーン人が相次いで亡くなったことが報じられている。詳しいことは明らかにされていない。

 また、入管収容所内で起きたことではないが、2010年にはガーナ人の男性が日本からの強制送還中に離陸前の飛行機内で死亡するという事件も起きている。入管によると、男性が暴れたため、職員が「制止」したということだが、タオルを口でふさがれ、座席で前かがみに押さえられた上、両手首も固定されていたという。

 この事件では日本人の妻が不起訴処分となった入管職員9人の処分を不服として審査を申し立てている。

 これらの「入管」周辺の事実を少し知っただけでも、「外国人」に対するこの国の扱いがわかるのではないだろうか。

 さて、次回はジャマルさんの現在の生活に迫っていきたいが、この原稿を書いている真っ最中、ジャマルさんを一番悩ませているのは、入管でもイスラム独裁政権でもなく、南京虫である。現在、知人宅に住んでいるのだが、そこに南京虫が大量発生しているらしいのだ。ジャマルさんから届くメールには、「今、身体中がかゆくて目が覚めました」「10匹をやっつけました」「血を吸って2センチくらいになっている!」などと臨場感溢れる「南京虫との闘い」が実況中継されている。

 そうしてとうとう本日、みんなで大掃除をして南京虫の巣を発見!!

 「大革命です!」

 ジャマルさんからのメールには、そんな言葉が躍っていた。

 ということで、次回はジャマルさん最終回。

 巣を発見したところで、ジャマルさんは南京虫との闘いに終止符を打てるのか? 難民認定は? そしてジャマルさんの「難病」とは? 今後の生活の見通しは?

 すべてはまだ進行形である。

 ジャマルさんへのカンパは、以下で受け付けています!
 よろしくお願いします!

【郵便振替】 00110-6-317603
口座名:フリーター全般労働組合
※通信欄に「ジャマル」と記入してください

 

  

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第297回 働いたら収容所、帰国したら拷問〜〜謎のイラン人、ジャマルさんは難病で難民!! の巻(その2)」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    日本の難民認定率の低さ、難民認定手続きにかかる時間の長さなどについては、ずいぶん前から指摘されているところ。しかし、根本的な変革はないままに、収容施設での難民申請者死亡事件なども相次いでいます。戦乱や弾圧から逃れてきた人に、最低限の安心と安全さえも与えられない社会が、果たして本当に「先進国」なのか。私たちの社会そのもののあり方を映し出す「鏡」として、一人ひとりが考えてみたい問題です。

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雨宮処凛

あまみや・かりん: 1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮日記」

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