第120回 篠木 雅博 氏 (株)徳間ジャパンコミュニケーションズ 代表取締役社長

5. 若い人たちに賭けてみたかった〜Perfumeのブレイク


−−ナベプロの後は東芝EMI(現 ユニバーサル ミュージック)に移られますね。

篠木:ええ。ディレクターとして布施明さん、大塚博堂さん、アン・ルイスさん、あと3年くらいジャパンレコード(現 徳間ジャパン)にいて、五木ひろしさんもやっていました。

−−EMIでは椎名林檎さんも手掛けてらっしゃいますよね。

篠木:椎名林檎は後の方ですね。最初に自分で手掛けたのは石嶺聡子ですね。林檎さんは1998年くらいから始めて、「ここでキスして」「幸福論」とか10曲くらい録って彼女をデビューさせて、99年にEMIを辞めました。

−−その後、リワインドレコーディングスに移られたんですね。

篠木:リワインドレコーディングスは、ビクターとアミューズで作ったレーベル会社で、ヒップホップをメインでやろうということで大里洋吉さんに誘われました。僕は長年、流れに逆らわずにしているだけで、そんな大きな大志で動いているわけではないんですよ。EMIを辞めてリワインドレコーディングスへ来たら「先見の明があるね」なんて言われましたけど、そんなことはこれっぽっちも考えていませんでした。たまたま人のご縁で来ているだけです。

−−その後、徳間ではPerfumeをブレイクさせていますね。

篠木:そうですね。僕が彼女たちと出会ったのは2004年です。もともと彼女たちは小学校5、6年の頃から、アミューズに入って、トレーニングを積んでデビューしていたんです。その後、徳間からメジャーデビューしたんですが、出会った当初、正直言って何を歌っているのか全然分からなかったんですよ。でも、僕のような年齢の人間が分からないということは、若い人には良いのだろうと。自分の違和感は若者には受けるかも、と。

−−実際に反応はどうだったんですか?

篠木:徳間では初めてのケースだったと思うんですが、ネットから徐々に人気が拡がっていったんです。ネット時代のアイドル誕生といえるかな。
メジャーデビューして2年目くらいでしょうか。シングルを3枚出して、その後、コンピレーションアルバムを出したら、すごく反響がありました。

−−中田ヤスタカさんがプロデュースをするきっかけは何だったんですか?

篠木:当時、アミューズに入りたての若い社員がテクノ好きで、是非、中田さんとやりたいと。リワインド時代のつき合いで僕のところに話を持ってきてくれた、中村チーフ、石井君が最初のきっかけです。そのアイデアに新しいものを感じましたし、そういう人たちに賭けてみたかったというのが、本当の話ですね。こういう仕事は人間関係が大きいんですね。

−−現在も制作にはタッチされているんですか?

篠木:最近は、日本の音楽シーンを彩ったヒット曲を同年代のアーティストがカバーした「THE REBORN SONGS」シリーズをやっていますが、社長業が中心ですから制作はなかなかできないですね。社長という立場上、全体的な企画と大きい方向性、ビジョンを打ち出さないといけないですから。でも僕は編成会議でも感情むき出しのところがありますからね(笑)。どんどん企画あれば出していきますよ。

−−篠木さんはどのようなビジョンを掲げてらっしゃるんですか?

篠木:まずはいいアーティストを作る。もう1つは、日本はどうしても"若者音楽至上主義"みたいなところがあるので、もう少しシニア向けにもレコード会社は力を入れなくてはいけないと考えています。去年は伊東ゆかりさんや菅原洋一さんなどベテラン勢の作品をたくさんリリースしました。シニア向けも頑張ってほしい、挑戦してほしいという意味も含めて、ですね。でも、良い数字を出しています。ネット時代に音楽商品パッケージは苦しんでいますが、どんな企業も生き延びるために時代の商品づくりしかありません。あの老舗さんだって赤字ってのがよくあるじゃないですか。時代の担い手になるスタッフづくりも大きな仕事ですね。

−−篠木さんは一貫して制作畑を歩んでこられていますよね。

篠木:今のレコード協会で「コテコテのディレクター上がりは君だけだな。ヒット曲作ってよ」と先輩方からよくいわれます。嬉しいような複雑ですね(笑)。