ちーっす。
昨日の記事で「正論」とはなんぞやというコメントをちらほら見かけたんですよね。
それでいつもだったら皆さんはどう思いますか?という投げかけの記事を書いて、皆さんの意見読んで...で終わりなんですけどね。これも一応意図があるんです。皆さんからいただいた意見をもとにして私がまとめ考察記事を書くのもありだと思うんですけどね、それだと結局私の主観が混じった何物かになってしまうじゃないですか。それは勿体無いというか、個々の意見をそのまま残すことをこのブログでは優先したいと思いまして、あえてまとめは書かずにいたんです。
でもたまには自分の考えはこうなんです!!
\ドン!!/
...もアリかなと思いまして、今回は辞書も引かず自分の経験や考えたことなどから出来上がったTHE・主観を述べてみようかと。私の思う「正論」とはこうだというところを書いていきたいと思います。
私の考える「正論」とは、所謂マナーやルールといった規則的な考えの上に成り立っていると思います。結構窮屈なのではないかと思います。
言葉で説明しづらいので、何か例をあげてみましょうか。
AくんがBくんを殴った
という事例があったとします。ここで行うべき対応について、私の中の正論は「殴ったAくんを叱る」ことです。それはなぜかというと、倫理的にも暴力というのは許されないものだと思いますし、どのような理由があっても手を出すのはいけないことだからです。これは私達が小さなころから学んできたことで、ある程度の人たちが「暴力は否だ」という意見に同意してくれると思います。私にとっての正論というのは
倫理的な規範に基づいて考えた多数派の共通認識
...と言えます。
それでなぜ正論だけでは世の中が成り立たないのかというところですよね。私がよく指摘される「ポンコツの言うことは正論だけど今は正しくない」というのは、前述の例で言うならばAくんとBくんの状態や背景を考慮した発言に感じられないからだと思います。
もしかしたらAくんは前日トラブルがあって機嫌が悪かったのかもしれません。その他にもBくんから罵声をあびていたのかもしれない...。さらに言うならばBくんが罵声をあげていたのはBくんのお母さんが日頃からBくんに対して罵声をあびせていたのかもしれません。
このように背景を辿っていくと、正論を言うにしても配慮の必要性を感じますし、Aくんだけを責められない理由も見えてくるかと思います。
このような可能性があることを考えると、私の中の「正論」をそのままぶつけるのってかなり酷ですね。
多分私に指摘をしてくれた人達はこういった背景などを考えて言っていたのだと思います。こうなってくると私は「正論」の存在意義を考えてしまいます。
でも正論のない世の中は無秩序になるだろうしきっと上手くいかないと思います。だから正論はあったほうがいい。もっと突き詰めていくと各々の中に「正論」を持っておくことも大切なことのように思います。
その上で必要なのが相手の背景を知ること(できれば)と、配慮した言葉遣いなのかもしれませんね。
私の思いはこんな感じです。
今日はこれでおしまい♫
私は胸毛フェチではありません