天安門25年 中国政府「対応正しかった」6月4日 19時17分
中国の北京で民主化を求める学生らの運動が武力で鎮圧され大勢の死傷者が出た天安門事件から、4日で25年になりました。
中国政府は、当時の指導部の対応が正しかったという立場を改めて示しました。
天安門事件は1989年6月4日、民主化を求めて北京の天安門広場などに集まった学生や市民に対し軍が発砲するなどして、大勢の死傷者が出たもので、中国政府は319人が死亡したと発表していますが、犠牲者の数はこれをはるかに上回るという指摘もあります。
犠牲者の遺族らは政府に対して真相の究明や謝罪を求め続けていて、事件を巡る議論が認められない中国国内の現状に、アメリカや日本などからも疑問や憂慮の声が出ています。
しかし、中国外務省の洪磊報道官は4日の記者会見で、「1980年代末に北京で起こった政治的な波風とそれに関連するすべての問題について、中国政府はとっくに結論を出している」と述べ、事件をわい小化する中国政府の見解が変わらないことを強調しました。
そして、「改革開放以来の三十数年間で中国の経済と社会は世界が注目する成果を挙げ、民主と法治のシステムは絶えず改善されてきた」と述べ、当時の指導部の対応が正しかったという立場を改めて示しました。
一方で当局は、市民の抗議行動など不測の事態を恐れて、銃を持った武装警察など大勢の警察官を天安門広場周辺に動員し、厳戒態勢を敷きました。
中国では共産党の一党支配の下で官僚の腐敗や権力の乱用がまん延し、体制そのものへの批判が水面下で広がっていますが、習近平指導部はこうした動きに危機感を強め、民主化を求める人々の言論活動を抑え込んでいます。
天安門事件とは
天安門事件は、1989年の6月4日、北京中心部の天安門広場やその周辺に共産党指導部が軍の兵士や戦車を出動させ、民主化を求める学生や市民を武力で制圧したものです。
兵士が市民に向けて銃を発砲するなどして大勢の死者やけが人が出ました。
事件のきっかけは、学生や市民による民主化運動に理解を示したことなどから1987年に失脚した改革派の胡耀邦元総書記が、この年の4月に突然死去し、学生たちが追悼集会を開くために天安門広場に集まったことでした。
ところが、共産党の指導部が早くからこの動きを動乱と決めつけたことで反発が強まり、民主化を求める学生らは腐敗した官僚の打倒や報道の自由など幅広い要求を掲げて座り込みやデモ行進を続け、知識人や労働者も加わって運動を拡大させていきます。
5月中旬には、当時のソビエトでペレストロイカと呼ばれた改革路線を進めていたゴルバチョフ書記長が中国を訪問し、これに同行して多くの外国メディアが北京入りしたこともあって、学生らの運動は世界からさらに注目を集めました。
党の指導部は、5月20日に北京市に戒厳令を敷いて事態の収拾に乗り出し、6月3日から4日にかけて天安門広場やその周辺に軍の兵士や戦車を出動させ、学生たちを武力を使って強制的に排除しました。
この際、兵士による発砲などで多くの学生らが犠牲になり、中国政府は死者の数について319人と発表しましたが、実際はもっと多いのではないかという指摘もあり、事件の真相は今も明らかになっていません。
中国メディアは報道せず
4日の中国国内の新聞やテレビは、天安門事件から25年になることについて一切、報道していません。
インターネット上でも関連する情報を徹底的に封鎖していて、中国版ツイッターと呼ばれる「ウェイボー」で、天安門事件を意味する「六四」というキーワードを入力しても検索結果は表示されないようになっています。
天安門事件は25年たった今も中国政府にとって最大のタブーで、国民の間で事件の記憶が呼び起こされないよう神経をとがらせていることがうかがえます。
また外国メディアの報道も例外ではありません。
海外に向けて放送されたNHKの4日のニュース番組は、天安門事件に関連するニュースを伝えたところ突然映像と音声が中断されました。
事件を巡る外国メディアの取材活動に対しても締めつけが強まっていて、軍の発砲などで多くの死傷者が出た北京市内の現場や天安門広場を3日夜から4日午前にかけて取材しようとしたNHKのクルーも強制的に排除されました。
北京駐在の特派員で作る「中国外国人記者クラブ」は、多くの外国人記者や中国人スタッフが警察当局からの呼び出しを受け、事件に関する取材を行わないよう圧力を受けているとして懸念を示すとともに、嫌がらせをやめるよう求める声明を出しています。
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