裁判員制度が始まって五年がたった。司法権の一部に国民が参加できる、新しい権利といえる。民主主義を鍛える制度と考えて、さらに磨きをかけたい。
裁判員として刑事裁判に参加したいか−。アンケートをすれば、今でも80%超の人が「参加したくない」と回答する。だが、実際に裁判員になった人に問うと、「非常によい経験と感じた」が56・9%、「よい経験と感じた」が38・3%で、合わせて95・2%が肯定的な回答を寄せる。
最高裁の調査結果が示すのは、つまるところ、経験すれば国民の考えが一変することだろう。
◆守秘義務が鎖になる
だが、なぜ「非常によい経験」という感想が、強く世間に響いてこないのか。答えは簡単だ。「守秘義務」という鎖が、裁判員経験者を縛りつけているからだ。
評議の中身を漏らせば、刑罰が伴う。だから、身近な人が尋ねてみることもためらわれる。その結果、せっかくの「よい経験」が社会に広く共有されない。
経験者の数は、補充裁判員も含め、五年間で約五万人。「よい経験」と感ずる人も年間約一万人ずつ、増えていく計算だ。守秘義務をなくせば、制度はさらに国民に近い存在になる。参加してみる−、その精神こそ、もっと尊ばれるようにすべきである。
もともと司法権に国民の出番はなかった。立法権に対しては、国会議員を選挙で選べる。行政権に対しても国民が意見を伝える機会はある。裁判員制度は国民が司法の一翼を担う、新しい権利と呼ぶことができる。二〇一一年の最高裁大法廷判決はこう述べた。
<司法権の行使に対する国民の参加という点で参政権と同様の権限を国民に付与するもの>
参政権に等しいと言っているのだ。権利を得ているのに、国民が無関心であっていいはずがない。
◆「全員一致」の原則で
十九世紀のフランスの政治思想家トクヴィルは「アメリカの民主政治」で陪審制をこう述べた。
<陪審は各市民に一種の司法官の資格を与える。陪審はすべての人々に彼らが社会に対して果たすべき義務をもっていることを、そして社会の政治に入り込んでいることを感じさせる>
民主主義の“学校”であり、民主主義を成熟させる手段だと看破したわけだ。実際に現在の米国では、原則的に十二人の陪審員は、「全員一致」になるまで、徹底的に話し合いを重ね、有罪か無罪か決めている。
量刑の判断は原則的に職業裁判官が行うが、死刑事件だけは異なるのも重要な点である。「死刑」と決めるのは、やはり市民による陪審なのだ。ここでも十二人の「全員一致」が要求される。
なぜなら、死刑は人の命を国家が奪う究極の刑罰であるからだ。「超」の付く適正手続きが必要なのだ。生か死か、この問題はおろそかにはできない。
それに比べて、日本の場合はどうだろう。職業裁判官三人と市民六人で構成される裁判員制度では、少なくとも裁判官一人を含む過半数で、死刑を決める。
死刑という、取り返しがつかない究極の刑罰に対しては、米国と同じように「全員一致」にすべきではなかろうか。何しろ、死刑制度を持つのは、先進国では日本と米国だけなのだ。米国ですら、死刑廃止州は十八州を数える。
また、米国のように有罪か無罪かを決める審理と、量刑を決める審理を分ける二段階方式を採用すべきだと考える。
日本では混然一体で行うため、被告の成育環境や更生可能性など、情状立証が不足する。死刑でも被告がどんな人物なのか、深く掘り下げないまま判決に至っていないだろうか。
裁判員が正しい判断をするためには、正しい情報を与えなければならない。取り調べの全面的な録音・録画や、全証拠の開示などが不可欠なのはそのためだ。裁判員制度の改良点はいくつもある。
陪審制が民主主義の“学校”であるならば、民事訴訟や行政訴訟にも市民を加える発想も浮かんでくる。
米国の憲法修正七条は、民事での陪審の権利を保障し、実際に民事陪審も行われている。
<民事的陪審は、すべての市民たちの精神にいくらかの裁判官精神の習慣を与えるのに役立つ。そして、これらの習慣こそはまさしく人民を自由ならしめるように準備する習慣なのである>
◆固定観念を破るには
原発訴訟や基地の騒音訴訟、一票の不平等訴訟…。国民がこうしたテーマにまで参加すれば、職業裁判官の固定観念を打ち破るだろう。国民の審判力も育成される。裁判員制度が成長を始めると、民主主義はより成熟する。
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