6月4日を忘れるな。

 中国で許されぬスローガンを、今年も香港、東京、世界各地で掲げる中国人とその友人がいる。

 民主化を求める学生を中国共産党政権が武力で封じた天安門事件から、25年が過ぎた。

 なぜ忘れてはならないのか。彼らが提示した民主化の方向性は正しいからであり、政権が事件を歴史から消そうとしているからである。

 あのころ社会主義圏の国々は次々に変革を余儀なくされた。その中で中国の政権はもちこたえ、急速な経済成長を遂げた。

 その自信ゆえか、習近平(シーチンピン)国家主席は4月の訪欧時こう講演した。「立憲君主制、帝政復活、議会制、多党制、大統領制、みな試したがうまくいかない。最後に中国が選んだのが社会主義の道だ」。しかしこれは、共産党の観点から歴史を単純化した議論にすぎない。

 計画経済を捨て去った今、習氏のいう社会主義とは、共産党の一党支配への批判を許さぬ体制を意味する。弾圧されているのは活動家や知識人だけではない。各地で、党の幹部が絡んだ行政や司法の不正に庶民が声を上げられずにいる。

 それでも事件の主役の一人、王丹氏は、「人権」の意識を権力が無視できなくなったという成果を指摘する。04年には憲法に「国家は、人権を尊重し保障する」と書き込まれた。

 前首相の温家宝氏は、政治参加を徐々に広げ、教育によって個人の自由と発展を重視することを度々表明していた。

 習政権になってから、それが逆流しているようにみえる。6月4日を前に、活動家らの拘束を徹底し、外国メディアにも圧力をかけてきたのは異常だ。

 政治を変えようという意思はこの25年、民間で受け継がれてきた。ネットの普及は市民の連帯を促し、監視や弾圧に屈せず発言を続ける人々がいる。都市部での工場立地反対など、市民運動も芽生えている。

 社会にかかわり、政治を考える人びとの層は着実に厚みを増している。国民の水準が低いとか、国情に合わないといった、民主化尚早論は通用しない。

 自由を求める民の声に、習政権は耳を傾けねばならない。権力批判の発言だけで投獄するのは正義に反する。

 言論と結社の自由を認め、健全な批判ができる幅を広げる。そんな民主化の段階的な発展なくして、国の安定はない。

 四半世紀前の学生らの叫びは今なお価値を増している。決して忘れるわけにはいかない。