ごきげんよう。はなこだよ。
私は最近プチびっくりしたことがある。
先日、娘を保育園に迎えに行った帰り、自転車に乗っていた私たちの横を通り過ぎた車がクラクションを鳴らした。
すると娘は「ピー!ピー!」と言ってその音の真似をした。
私は思わず「ピーじゃないでしょ、プップーでしょ」と当たり前のように言おうとしてはたと気づいた。
車のクラクション音をあらわすのは「プップー」というのが私の中では常識で、他の多くの人にとってもおそらく一般的な表現であると思う。
しかしそんな常識など知らぬ娘にとってその音は「ピー!」なのだ。
そして私はそれをあえて否定し訂正する必要もないのだ。
そんな出来事があって私は自分がいかに常識というものにまみれているかを認識し、常識を持たぬ子どもを新鮮に感じて少し感動したのだった。
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私がいつも読ませてもらっている包茎大好きポンコちゃんのブログに書いてあったように、世の中には「正論」というものが存在する。
正論とは、道理にかなった正しい意見や議論のことをいうが、私の中で正論というのは、より多くの人が“いいかんじ!”と認めたもの、要は多数決で決められたものだというイメージがある。
そして私はこの正論というのがあまり好きではない。
意見の衝突があった際に、誰かが正論の剣を手にしたとたん、少数派の声はかき消されてしまう。
多数派も少数派も同じ人間、それぞれ一人一人が同じように声を持っている。
それをかき消し、ときに人を追い詰める正論というものには、なんだかうーんと思っている。
悪さをしたバイキンマンは確かに悪いかもしれないが、だからといってアンパンチしてバイバイキンさせてもいいんか?ということである。
自身以外を異端とする正論の剣はとても鋭い。
それによって傷つけられる者もいる。
しかしそれが本当に正しいとは誰にも証明ができないのだ。
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ちなみに包茎大好き(大事なことだから二回言う)ポンコちゃんは正論を押し通してしまうのが自分の欠点だと言っていたけれど、私はそれが欠点だとは思わないし、いつも“どう思いますか?”と読み手に投げかけるスタイルでブログを書いているのにもその点を気づかっているからなのかなあと感じている。
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あとこんな記事も読んだ。
電車内で泣く赤ちゃんに対して舌打ちするおじさんもいるけど、そのおじさんだって大変な状況に置かれて(例えば身内の不幸とか)苦しんだあげくの「チッ」かもしれないからあんまり責めるなよっ☆みたいなことが書いてあって、私としてはかなり同意できる内容だった。
この場合の正論が「赤ちゃんが泣くのはしょうがないことなんだから舌打ちするなんて大人気ない」というのだとして、これが正論だ!だから他はダメだよ!と切り捨ててしまったら、(仮に)身内の不幸というイレギュラーな状況や、気が動転していたおじさんの気持ちは全く汲み取られることなく消されてしまうことになる。
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で結局何が言いたいのかというと、正論や常識をあまり信じすぎると、自分自身を追い詰めてしまうことにもなりかねないよなあ、ということだ。
というのも自分がその正論からはずれた行動をしてしまったとき、自分自身の気持ちを汲み取ってやることができず、許してやることができなくなる。
実際に私にもそのような経験があるが、それはとてもつらく苦しいことである。
正論や常識が意味のないものだとは言わないし、ダメだとも思わない。
だが私は常に心のどこかで、「ピーでもプーでもどっちでも良くないか?」という気持ちを持っていたいのだ。
そんないいかげんな気持ちが時として、自分自身や大切な人を守ることになるかもしれないと思っている。
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うめえよお、麦茶がうめえよおおおお
— はなこ (@hanako55211) 2014, 6月 3
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