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2007年2月

2007年2月 1日 (木)

ニュースレター第90号2007年2月1日 キルギス「アジアの瞳サマーキャンプ&フェスティバル」準備すすむ

ユーラシアンクラブニュースレター第90号2007年2月1日


キルギス「アジアの瞳サマーキャンプ&フェスティバル」準備すすむ 大野 遼

    前号で今年の活動の方向についてお知らせしました。今回はそのうち2つの取り組みについて現状を報告します。

    第一は、アムールの汚染による民族文化と暮らしの危機を克服しようとしているシカチアリャン村自立支援の活動についてです。

    現在、日本国内ではシカチアリャン村の一角にある国際的に著名なペトログリフ(岩絵)を中心にした展示会開催の準備をしています。ユーラシアンクラブを創設した2003年の8月、まだ兼任していた北方ユーラシア学会(会長:故江上波夫/当時)の事務局長として札幌学院大学の鶴丸俊明教授を団長とするアムール流域岩壁画調査を実施、この際に採取した岩絵の拓本を中心として企画しています。

    不足する情報を写真、解説などで補いスタートしようとしていますが、これだけではまだ十分ではないので、さらに拓本を追加採取することも検討しています。このため、別紙のような予定で、シカチアリャン村のツアーを実施しその際に、拓本、写真、展示資料の収集を図ろうと考えています。展示会の開催にご協力いただける方や期間、開催場所についての情報をぜひお寄せいただくようお願いします。またツアーへの参加希望者も募っています。お知らせください。

    第二の取り組みは、「アジアの瞳サマーキャンプ&フェスティバル」です。

    キルギス・イシククル湖がいくつものシルクロードが合流するアジア・シルクロードの十字路であることや、天山山脈の中心に位置し草原と湖、渓谷と氷河など自然豊かな環境にあることを考慮し、またアジアの不安定要因になっている石油天然ガスなどの地下資源依存型の社会がバイオマスや自然エネルギーに基礎をおいた自立型循環型社会に移行しようとしているアジアの現状を見通した上で、キルギス・イシククル湖周辺を太陽と水に依拠した、未来を見つめる「アジアの瞳」として位置づけて「人と文化、自然を大切に」というメッセージを発信するいくつものシルクロードイベントを行うことになりました。

    キルギスと日本の間は、シルクロードと呼ばれた人と回廊で結ばれており、「アジアの兄弟」というべき歴史文化的、民族史的潮流が流れています。東京・中央区日本橋は、アジア・シルクロードの時空を超えた終着駅であり、江戸で花開いた三味線は、キルギスの楽器コブズと兄弟の楽器となっています。

    このため8月のサマーキャンプ&フェスティバルでは、コブズと三味線を中心としたアジアの演奏家の音楽フェスティバルを開催し、キルギスと中央区の間をシルクロードの回廊でつなぐとともに、アジア・シルクロード音楽の素晴らしさを世界に発信する催しに発展させたいと思います。

    また今年がシルクロードの作家・詩人、井上靖さんの生誕百年であることや、生前井上さんがイシククル湖をシルクロードの十字路として重視していたものの訪問の夢を果たせなかったことを考慮し、「井上靖記念シルクロード文学賞」を創設し、サマーキャンプ&フェスティバルに参加する人を中心に散文詩を募集、イシククル湖で最終選考し、コブズ、三味線などシルクロードでつながっているアジアの楽器を伴奏に朗読して作品を顕彰するとともに井上靖さんのシルクロード詩集の一篇を現地で披露し、シルクロード文学の基礎を築いた井上靖氏を顕彰する計画を実施したいと考えています。

    日本全国の凧揚げ愛好者で組織する日本の凧の会は「シルクロードの風を感じる」凧で散文詩受賞者を讃える予定です。このため、井上靖さんのご遺族兄弟の皆さんと話し合いを続けています。

    三つ目は、自然資源を活用するアジアのリサイクル社会の実現のために、さまざまな試みを実践する人々との協働の関係を発展させようと計画中です。ユーラシアンクラブでは、大地の学校・大地のフォーラムを進めてきた若林一平を中心として、市川勝・北海道大学名誉教授の協力を得て、シルクロードの交流を再評価するサプライズイベントを実施します。

    日本側から、さらにシルクロードを自転車で走る活動を続けているシルクロード雑学大学やさまざまな団体が参加を検討中です。キルギス側は、伝統的騎馬競技、英雄叙事詩マナスの朗詠、鷹狩り、シルクロード料理、ファッションショーなどキルギスの文化を日本人参加者に紹介するプログラムを政府を挙げて計画中です。

    一連のシルクロードをキーワードとしたイベントを通して、アジアの人と文化、自然を大切にというメッセージを世界に発信し、アジアの平和と安定に寄与する催しとして発展させたいと希望しています。近く最終調整のためキルギスを訪問する考えです。広く普及するための工夫を検討中ですが、第一回イベントに参加したい興味ある方への情報提供にご協力いただくようお願いします。
    【写真】キルギス共和国の文化財。8世紀頃。


シンポジウム「アジアに迫る温暖化と低炭素エネルギー開発 ~バイオ燃料、水力発電CDM、天然ガス開発の持続可能性を問う」

    日 時:2007年2月8日(木)11:00~18:00(10:30開場)  
    会 場:JICA地球ひろば 3F講堂(東京都渋谷区広尾4-2-24)
    (東京メトロ日比谷線 広尾駅下車(A3出口)徒歩1分)
    内 容: 基調講演Ⅰ ギンティン氏(FoEインターナショナル)
    基調講演2 柏木 孝夫氏(東京農工大学大学院教授)
    セッション1水力発電とCDM セッション2バイオ燃料と持続可能性 セッション3天然ガス開発 パネルディスカッション
    定 員:200名 資料費:1000円(主催3団体及び協力団体会員・サポーター/500円)
    主 催:国際環境NGO FoE Japan、財団法人 地球・人間環境フォーラム、NPO法人バイオマス産業社会ネットワーク <>br※シンポジウム詳細はこちらをご参照ください。http://www.foejapan.org/climate/doc/evt_061212.html お申込み:下記フォームよりお申込みください。http://www.foejapan.org/event/event_form.html
    *定員になり次第受付を終了させていただきます。
    お問合せ先:国際環境NGO FoE Japan>energysympo@foejapan.org Tel:03-6907-7217
    ※本シンポジウムはH18年度環境再生保全機構 地球環境基金、(社)国土緑化推進機構 緑と水の森林基金の助成を受けて開催されます。


エネルギー革命の時代に希望を~「ユーラシア大地の学校」開設に向けて 第三十二回

エネルギーの政治=独露同盟再考 報告者:若林一平

    プーチン大統領の強権的とも言えるエネルギー外交が顰蹙(ひんしゅく)を買っている。厳寒の最中に天然ガスの供給を停止するという。し かもかつては同盟を組んでいた兄弟国のベラルーシやウクライナを相手の恫喝外交はいかがなものであろう。だがちょっと待った。

    歴史を振り返ってみると日米開戦の直接の契機となったのが米国による対日石油禁輸措置であった。エネルギーが国際政治の最重要ツールであることは今も昔も変わりはないのである。プーチンはそのことを教えてくれた教師と考えるべきかもしれない。

    ここで再び想起しておきたいのはこの連載でも既に取り上げた旧西ドイツのブラント首相の東方外交である。ブラントは1969年首相就 任、冷戦下のソ連との関係改善を一気に推し進めて1970年に東独を承認しオーデル・ナイセ線を確定して今日の統一ドイツへの道筋を用意した人物である。実はこの人ブラントはソ連を相手にしたたかにエネルギー外交(=ビジネス)を進めていたのである。この辺の事情は日本エネルギー経済研究所の十市勉氏がつとに指摘しているところである。

    このころ米国はソ連の東欧への圧力(1969年チェコ侵入、1970年ポーランド暴動)の対抗措置として石油天然ガス関連技術の対ソ禁輸措置に踏み切っていた。要するにソ連は追いつめられていたのである。だがこのときをチャンスと見たのが西独のブラントであった。

    ブラントは西シベリアの天然ガス輸入計画を積極的に進めた。天然ガス輸入と交換にドイツのパイプライン技術をソ連に輸出するのである。

    ソ連の天然ガス輸入は当時のブレジネフ書記長の政治軍事力拡大に直結するものとして米国が最も警戒していたことは言うまでもない。だが、西独そしてフランスは中東とソ連(ロシア)それぞれの安定度を天秤にかけた。ソ連の方がまだマシとの結論に仏も同調した。仏はガスタービンなどのソ連への高度技術の輸出も強行。

    結局、欧州のソ連からの天然ガス輸入は全消費量の30%以内ということで米国と手打ちとなった。西シベリアからの天然ガスパイプライン5500キロメートルが完成したのは1984年である。

    政治、軍事、そしてビジネス。これら3点セットを魔術師のように使い分けるヨーロッパの政治家の離れ技には驚嘆するしかない。というか 僕らの頭が幼稚すぎるのであろう。

    僕らが「飢えと寒さ」から解放されてから久しい。しかしこのことは自明の前提ではないことを銘記しておきたい。
    【写真】1973年10月17日、アラブ石油輸出国機構 は、中東戦争を有利に運ぶため、石油消費国への輸出を削減。(松本市 HPよりhttp://www.city.matsumoto.nagano.jp/daisuki/syasin/ 1973/197303/index.html)


ロシアの新年祭り・シベリアは特別な祝い方 ジーマ・オダ

    ロシアの新年祭り、特にシベリアの新年祭りは祝い方が特別です。

    12月の下旬ごろ、ロシアの至るとこの町の中心広場でヨールカ「クリスマスツリー」が立てられ、雪から作られたデェードモローズ「マローズ爺さん」と彼の孫娘「スネグーロチカ」をおかれ、きれいにイリミネージョンと美しい玩具で飾り付けられています。

    最近までは、どこでも自然の蝦夷松の木を使っていましたが、人口繊維からヨールカを立てるようになりました。蝦夷松ノ木代わりにジベリア赤松の木を飾る習慣もあります。町の建物は新年おめでとうと書かれた看板とイリミネージョンで飾られています。町の周りはピカピカ光っていて、それをみて、そろそろ新年がやってくると思って、いい気持ちになります。

    新年祭りはロシア人にとっては家族で迎えるお祭りです。それで、最初、自分の家を飾り、ヨールカを立てます。私はいつもヨールカのためにジベリア赤松の木を買って、電飾や球状の飾りや人形などはもちろん、お菓子や小さなミカン、リンゴなど様々なもので飾り付け、そしてヨールカの下にマローズ爺さんと彼の孫娘の人形を置きます。

    子供が小さいときは、あらかじめ新年のお土産をヨールカの下に隠して、子供に探させました。その騒ぎと喜びは大変なものでした。今、みんな大人になって、マローズ爺さんの奇跡をあんまり信じなくなりました。

    新年祭りは家族に幸運を向けてくださるように、みんな心の中で祈っています。だから家族一丸なるようにします。ロシアではお正月は祝日で、最近一週間くらい休むようになりました。離れ離れになって学生生活をしている子供たちや親戚、みんながそろえるように努力します。

    新年を迎える時の料理は、家庭料理で極めて盛大豪華です。もちろん肉料理が多いです。それでも野菜サラダ、珍しい作り方でできたサラダも食卓に出てきます。果物だったら是非リンゴ、ブドウ、オレンジ、キビという珍しい果物も見えます。ほとんど食べられないくらいの量の食べ物が並べられます。みんなテーブルに座って、旧年とのおわかれのトストを告げて、乾杯し祝います。

    零時になったら、シャンペーンをあけて、天井へ向かせてボーンと音を出して、お互いについであげ、「スッ ノフィム ゴドム」・「新年おめでとう」とあいさつします。

    子供たちが小さいころ、彼らを呼んで、歌を歌ってもらったり、踊ってくれたりしていました。中学生の頃は、好きな詩を読んでもらったりしていました。それをビテオで撮影して、今、みんなで喜びながら見ています。もちろん、友達と知り合いを呼んで、一緒に新年を迎える家族もいます。

    午前一時ごろ、市民は中央広場に集まり、シャンベーンとウォッカを注ぎあいながら「新年おめでとう」と大声で叫び、新年の花火を待ちます。ここで待ち合わせをする人もいるし、ここで新年になって始めて、お友達とか知り合いと会って喜んで、自分の家へ誘い新年を迎えるパーティを夜明けまで続けます。

    【写真】モスクワの北東約500㎞にあるエンターテイメント・センター「マローズ爺さんのふるさと宮殿」。夜はライトアップされます。


ナナイの村・シカチアリャンの歴史と文化、そして暮らし06 大野 遼

    シカチアリャン遺跡を含めアムール川流域の古代絵画は、さまざま視点で語られる。①日本も含めた東アジア在地伝来の世界観や伝承②北方にあって実は南方の系譜として議論される南方の視点③東アジアの東端にあって実は西方内陸アジアとの関わりで議論されるものなどがある。そしてそれぞれの視点が、日本との関わりで語られることになる。 

    今回は、シカチアリャン遺跡を③西方内陸アジアとの関わりで紹介する。この地域の人々は、中国の文献上は「黒水靺鞨」に遡るといわれる。「アムール川の靺鞨」である。靺鞨は、後に渤海国を形成した。渤海は、日本とも正史の記録だけで34回日本海を渡海する交流を行った。日本人がよく知る遣隋使、遣唐使の渡航回数より多い。この渤海・靺鞨は、古代チュルク・突厥と直接境を接し交流をしていた。

    渤海・靺鞨と古代チュルク・突厥など西方の民族文化との交流については、私が学会の事務局長としてお付き合いのあったロシア科学アカデミー極東支部のエルンスト・シャフクーノフ博士からいくつか論文をいただいたことがある。

    その中には、ウラジオストク北西のウスリースク市で発見された石版に刻まれた印刻を「古代突厥文字で記された渤海の州都の名前スイフン」と解読し、「渤海では古代ルーン文字が知られていた」という「渤海人の文字の問題に寄せて」、ソ連地理学協会沿海州支部紀要に発表された「択捉島における岩盤文字」などの詳論がある。

    日本でも北海道南部の手宮洞穴(小樽市)、フゴッペ洞穴(余市町)の岩壁に刻まれた、掻いたような記号が、英国人ジョン・ミルンや鳥居龍蔵らによって古代文字、突厥文字に関連付けられていた。それによれば、東アジアや日本列島には、古代突厥文字(ルーン文字)を記す突厥人が来ていたり、あるいは靺鞨人が自身の言葉(満州ツングース語)を記すためにルーン文字を使用していたことになる。

    実は、シカチアリャン遺跡を含めて、ナナイの文化遺産として知られる古代絵画遺跡でも突厥人の痕跡が残されていた。「極東古代絵画の調査」で実施した三箇所のペトログリフのうちチェルトヴァ・プリョーサ遺跡で突厥の石人に酷似する表現の人面が3点発見された。

    オクラドニコフも、シカチアリャンの岩絵の系譜に突厥と靺鞨との直接の接触の影響が見出されると指摘して「狩猟」「ヒョウ」「騎士」の岩絵をその類似例として取り上げ「(影響があることは)驚くにあたらない」と書いている。

    アムール川の靺鞨と呼ばれたシカチアリャン村を含めアムール流域の人々の祖先の歴史文化が、太古の昔から女真、モンゴル時代まで西方内陸アジア及び日本と深い交流のあったことは既に明らかになっている―「シベリアの古代文化」(アレクセイ・オクラドニコフ)「シベリアの先史文化と日本」(加藤晋平)。その一端を私が学会の事務局長として少し関わりのあった事例で紹介する。

    【写真】チョルトヴァ石人顔 突厥の影響と見られる岩絵


樺太紀行 第5回(最終回)北緯五十度線の怪 若林 一平

    樺太に関心を持つようになってからこれまでほとんど気にしていなかった不思議な事実に気がついた。どれでもよい。日本国内発行の地図帳を手に取っていただきたい。そして北海道のすぐ北側に注目して下さい。

    不思議なことに樺太(サハリン島)の北緯五十度のところに東西に必ず一本の線が何の断りも無しに引かれているのだ。但し線の太さは一貫していない。北方領土と千島列島との間に引かれている国境線なら理解できる。日本政府が領有権を主張しているのだから。

    樺太の北緯五十度線は旧国境線である。まさかこれから南樺太の領有権を日本政府が主張しようというわけではあるまい。既にユジノサハリンスク(豊原)には日本の総領事館も開設されている。サンフランシスコ講和条約でも南樺太は放棄しているのだし。

    不思議な北緯五十度線。この間の情報を総合してみるとこういうことらしい。平和条約締結までは日ロの国境線は最終確定していないというのだ。地図業者はその筋のお達しに従っているだけであろう。これはあまりにも姑息な形式論ではないだろうか。確定しているモノは潔く認めて利害調整を図ってゆかないといたずらに相手方の不信感をあおり、不確定なモノをそのものとして交渉する余地を狭めていることになるのではないだろうか。

    ユジノサハリンスク総領事館開設は2001年1月。現在 やっと6年が経過したばかりである。この総領事館開設の際にもロシア側の北方領土占領の既成事実の承認につながる等々の反対意見が日本政府内で根強かったという。

    サハリンは島でありながら自然気候等々は大陸だ。北海道と似てはいるが生態系は全く違う。アイヌの人たちも大陸とつながって生活をしていた。大陸(中国)の絹を江戸に入れていたのも彼らである。

    ソ連の崩壊後サハリンの人口は急減した。だから僕らの訪問は大歓迎なのだ。北海道ほどの面積にわずか53万人。うち4万人が朝鮮の人たちだ。ナナイやエベンキの人たちも生活している。大日本帝国による植民の記憶も多数存在する。これらは歴史の反省の契機となる生きた教材であることは言うまでもない。(樺太紀行2005年版は今回で終わりです)

    【写真1】旧豊原市長公邸、現在はロシア軍将校宿舎
    【写真2】旧豊原駅構内の日本時代からの狭軌の鉄路、まだ現役である(写真は2枚とも2005年9月筆者撮影)


キルギスへの誘(いざな)い 写真で見る中央アジアのオアシス10 若林一平

    日本語との出会い
    「トモダチ、トモダチ」と言いながら一人の男性が僕らの輪の中に入ってきた。彼はビシュケクの日本語センターで日本語を学んでいるという。
    (写真:アラアルチャ渓谷で 1998年、若林一平撮影)


ユーラシア短信 UNHCR、イラクへの支援活動を要請

    UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)、イラクでの支援活動に対し、6000万米ドルの支援を国際社会に要請
    ジュネーブ(8日)発

    UNHCRは8日、紛争で故郷を追われた数十万人ものイラクの難民や国内避難民を支援するための今後12か月間の予算6000万米ドルの支援を要請した。この予算は、シリア、ヨルダン、レバノン、エジプト、トルコにいるイラク難民の支援やイラク人以外の難民、イラク国内にいる国内避難民への保護や支援事業にあてられる。

    イラクでの絶え間ない暴力によって大規模な国内外への避難が発生、周辺地域に影響していると判断。支援要請では、最近の大流出は、1948年のイスラエル建国時に発生したパレスチナ人の避難以降、中東で最大規模の長期的な人口移動だとしている。いまやイラク人の8人に1人は避難していることになる。
    【写真】悲しみの顔を見せる家族、ヨルダンにて。


キルギスの魅力 玄奘三蔵の歩いた氷河・森・草原
『ツール・ド・シルクロード20年計画』と国際交流&環境調査 (2)  シルクロード雑学大学・長澤法隆

    キルギスを初めて旅したのは1999年のこと。中国のカシュガルから、標高3752mのトルガルト峠を自転車で越えたい。人力で、天山山脈を越えてキルギスの首都であるビシケクをめざしていた。

    カシュガルを出発し約60kmペダルを踏んだ。中国からの出国手続きを行うトパという小さな集落に到着。ところが、洪水のためキルギスとの国境であるトルガルト峠へ通じる道路は、通行止めになっていた。100年に一回といわれる濁流に飲み込まれて、道路が消えていたのだ。急遽、ウルムチへ移動し、天山山脈を飛行機で越えた。ビシケクにあるマナス空港から、バスで天山山脈のふもとにあるナリンという町をめざした。

    天山山脈の南側にある中国の新疆ウイグル自治区。峠へと続く道は、草も木もない岩の間にあった。ところが峠を越えてキルギスに入る。緑の絨毯、ハーブの草原が広がっていた。どこまでもハーブの草原が続いていた。自転車から降りて、ハーブで覆われた丘に上ってみた。深呼吸すると、体の隅々までハーブの香りに満たされた気分になる。ハーブの草原は、地平線へと続いている。

    ところで約1400年前、シルクロードの旅人である玄奘三蔵は、トルガルト峠よりも東にあるベデル峠を通って、中国からキルギスへと旅を続けたと推測されている。氷河の間を進む行程で、厳しい自然に苦しみながら、ハーブの草原に入ったことだろう。そして、ホッとしたことだろう。玄奘三蔵は、アクベシム遺跡へと歩を進めたようだ。

    近年、世界の各地で「氷河が後退している」とのニュースに接することが多くなった。地球の温暖化、異常気象。どちらなのか。素人には分からない。

    中国の雲南省にある梅里雪山へ通い続けている知人の小林尚礼氏は、『梅里雪山 十七人の友を探して』(山と渓谷社刊)で「五〇年後から一〇〇年後には、遺体が下流の瀾滄(ランツアン)江に流れ出るといわれていた。しかし、わずか七年で見つかるとは誰も予想していなかった」と記している。この後、小林氏は1991年に遭難した京都大学山岳部の仲間の捜索を始めた。1998年のことだ。

    中国の雲南省では、氷河が後退しているのは事実のようだ。では、一〇〇年ぶりの洪水が発生した天山山脈では、どうなっているのだろうか。

    天山山脈の氷河は、中央アジアにおける水の供給源である。氷河が後退し、水の供給量が少なくなったら、中央アジアの農業だけでなく各種の産業にも大きな影響があると思われる。どうしよう。

    夏に行われる「アジアの瞳 サマーフェスティバル」で、シルクロード雑学大学では、氷河の先端部分をGPSとデジタルカメラで記録して、異常気象や温暖化などの研究をしている研究者にデータを提供する計画だ。自転車と徒歩で、ハーブの草原、森、湖、そして氷河を巡る。雄大な風景と人間の共存の道を巡る旅ともなるだろう。ホームページhttp://www.geocities.jp/silkroad_tanken/。

    【写真】自転車旅行は、気さくに声をかけてもらえる。


編集後記:1月27日、ワシントンでイラクからの米軍撤退を求める集会がありました。全米から1万人以上が集まったと報じられています。注目はベトナム反戦以来34年ぶりに姿を見せた女優のジェーン・フォンダさん。「ベトナムの教訓を学ばず、まだ集会をしなければならないことは本当に悲しい。」「沈黙は選択肢ではありません。」と呼びかけました。(高橋)


発行:特定非営利活動法人ユーラシアンクラブ 発行人:大野遼住所:〒151-0053東京都渋谷区代々木2-13-2 第一広田ビルTEL:03-5371-5548 FAX:046-285-4895 E-MAIL:paf02266@nifty.ne.jpホームペイジ:http://eurasianclub.cocolog-nifty.com/郵便振替:00190-7-87777ユーラシアンクラブ。会費、ご寄付はこちらへお願い致します。ご連絡はメールかファックスを希望します。

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