真面目すぎると死ぬ

俺は真面目系クズだから、安く生活することを常々意識している。そういう意識のもと世の中を見渡してみると、意外にも真面目な人が多いことに気がつく。そんな真面目な彼らを見ていると「素晴らしいなあ」と思う反面、「そんなに真面目で疲れませんか」とも思う。

もちろん、俺のような真面目系クズが普通に生活してくことが出来るのは、本当に真面目な人達が少しずつ積み上げてくれている何かしらの支えがあってこそだというのはわかっている。そのくせ飼い主の手を噛む犬のように不遜な態度で真面目な人達に文句をつけるのは如何なものかと、我ながら思う。

しかし、犬を飼っている方ならわかると思うけど、お宅のわんちゃんは貴方を愛している。私も真面目な貴方を愛している。愛しているので手を噛むけど、まあそれも馬鹿犬なりの愛情表現である。許してやって欲しい。

ちなみに俺は、犬なんて飼っていないし、飼ったこともないです。

真面目すぎると疲れる

そもそも真面目って何だろうって話ですが、俺はざっくりと「規範意識が強い」くらいの意味で捉えている。

Wikipedia先生によれば

規範意識(きはんいしき)とは、道徳、倫理、法律等の社会のルールを守ろうとする意識のこと。遵法精神ともいう。

とのこと。

法律のようにはっきりと明文化されたものであろうが、暗黙的な不文律であろうが、とにかく真面目な人はルールを守ろうとする。

でも、そんなふうにルールを守ることばかり意識していると疲れると思うんですよ。ルールって要するに制約なので、何をするにも不自由さがつきまとう。ルールからはみ出さないように、取り決めに抵触しないように常に気を張っていないといけない。我慢しなきゃいけないことが増えたり、心配事が増えたりすると、人はその分疲れてしまう。

「ルールを守る目的」を意識する

ルールを守ること自体は必要なことだ。ルールを守らないと死ぬ。でもそれは言うまでもなく、時と場合による。ルールを守らなくても大丈夫な場合とか、ルールを守らないことの方がむしろ必要とされるケースだってままある。

そういったケースに対応するためには、「何のためにルールを守るのか」を意識しておく必要がある。

俺がこれまで見てきた感じだと、真面目な人とそうでない人では、この「ルールを守る目的」への意識が異なっている。真面目な人はルールを守ることを自己目的化してしまっている傾向がある。

遵法の自己目的化は教育によりもたらされる

なぜルールを守ることそれ自体が目的となってしまうのか。それはひとえに「教育」の賜物だろうと俺は思っている。

教育で辞書を引くとこんな説明が出てくる。

ある人間を望ましい姿に変化させるために、身心両面にわたって、意図的、計画的に働きかけること。知識の啓発、技能の教授、人間性の涵養(かんよう)などを図り、その人のもつ能力を伸ばそうと試みること。「―を受ける」「新入社員を―する」「英才―」

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/55770/m0u/

「望ましい姿に変化させるために」とあることからもわかるように、教育の前提には支配関係があり、教育は恣意性の強いものだ。

しかし、近代的な価値観においては、恣意的な「価値観の押し付け」は悪とされてきた。だから、そうした教育のあり方は隠蔽されるようになった。それでも、根本的に教育が支配関係に基づく恣意的な価値観の押し付けであることに変わりはない。象徴的暴力によってクリプト化され押し付けられた価値観は、ハビトゥスという形で我々のうちに身体化されている。

だから、被支配者である我々は、教育の過程を通して自らの内に刷り込まれた価値観に背くことを絶対的に悪とし、それ故に自らがその価値観に背くことを恐れる。

真面目系クズがルールを尊ばない理由

真面目ではない人、例えば俺は、ルールを守ることの目的を強く意識する。ルールを守ることで得られるメリットのためであったり、ルールを守らないことで被るデメリットを退けるためであったり。効用と費用を見比べて、ルールを破った時の効用のほうが大きくなる場合はルールを破るし、費用のほうが大きくなり、結果として損失がもたらされる場合はルールを守る。

真面目な人が「ルールを守ること」を絶対的に肯定するのに対して、我々真面目系クズが「ルールを守ること」を損得勘定の末の選択肢として扱うのは、多分まともに教育を受けてこなかったからだろう。せんせーのお話なんて基本的には話半分程度に聞いているだけだった。そういう生徒を学校教育的には何と言うか。「不真面目な生徒」である。でもそれだと困ることも多いから、表面上は真面目なフリをするようになる。そうして真面目系クズが生まれる。

でも、それでいいと思うんですよ。だって、こうしたほうが疲れない。それに、これで十分やっていける。やっていけるどころか、得をすることだって多い。体力に自身がある人はいいけど、そうじゃない人、真面目すぎて疲れてる人って割りと多いと思うんです。そういう人は是非真面目系クズに生まれ変わって楽に生きて欲しい。というか、真面目すぎると死ぬ。

真面目すぎると死ぬ

みんな大好きB級パニック映画の『ディープブルー』。見たことない人は今直ぐ借りてきて見て欲しい。面白い。

ディープ・ブルー [Blu-ray]

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この映画を見ると、真面目すぎると死ぬってのがどういうことかわかる。

サミュエル・L・ジャクソン生き残ると思ったでしょ? 俺は思った。そしたら速攻食われてやんの。サメが後ろからパクーって。なんじゃこりゃ。そんで、どうなるのかなーって見守ってたら、おもしろ黒人キャラが出てきて即サメに狙われてて、こんなん死ぬやん。お決まりやん。なんやコックて。鳥はどこ行ったんや。そしたらこのおっさん、「オーブンでコックが死ぬなんて冗談がすぎる!」とか言いつつ困難を乗り越え、結局最後まで生き残る。しかもサメを2匹も倒してしまう。

彼は敬虔なキリスト教徒なわけですが、危機に陥るところりと態度を変えて、神への禁酒の誓いをサラッと破り、首から下げたロザリオを武器にしてサメと戦ったりする。そういうルールに縛られすぎない臨機応変さがあったからこそ、彼は生き残ることが出来た。

これを、所詮はただのフィクションだなどと思う事なかれ。物語とは必然性によってもたらされる。

ラディカルに変化し続ける環境の中で生存するためには、その環境に適応していく必要がある。前述した通り、そもそもの仕組みから、教育はレガシーな価値観の押し付けによって成立している。もちろん、それもある程度の社会適応のために有用であるからこそではある。

多分、知識や技能などはレガシーなものでも通用しやすい。でも、その根底にある価値観や、それに基づく規範意識については常に変容を求められる。旧態依然とした決まり事に縛られていると、変化する環境への適応を阻害されることになる。

死は、生に含まれている。生の対極ではない。「生」の対極にあるのは「生きていない」であり、それを「死」とイコールで結びつけることは出来ない。死は生の中で徐々に成熟し、達成される。ここで言う「死ぬ」とは、そういったあり方の「死」へ向かうことを指す。

まあ流石に、普通に生きているとサメに食われて死ぬことはないが、だからといってのほほんとしていられるかというと、それも違うんじゃないかなと思うのです。