2010年2月4日
“拉致監禁”の連鎖(1)
「拉致監禁事件」――。成人した大学生あるいは社会人たちが、ある日、友人たちの前から忽然と姿を消す。それが拉致だと分からないケースや、拉致によることが分かっても、その経路や監禁された場所が判明しないまま、数カ月、あるいは数年間にわたって行方不明となる場合がある。そんな被害者の一人、後藤徹さん(46)=東京・北区=は、親兄妹やプロの強制改宗屋と呼ばれる人たちに、彼らが「保護」と言い募る拉致監禁下で強制的に改宗を迫られた体験を持つ。それも12年5カ月もの想像を絶する長い期間にわたり新潟や東京区内に監禁され、日常のあらゆる自由を奪われた生活を余儀なくされていたのだ。
(「宗教の自由」取材班)
プロローグ(1)
日本人拉致と12年5ヵ月の空白
法治国家を揺るがす重大犯罪
首脳会談を終え、北朝鮮の金正日総書記(左)と両手で握手を交わす小泉純一郎首相=2002年9月17日、平壌市の百花園迎賓館(代表撮影・時事)
|
拉致監禁は、明らかに法治国家を揺るがす重大犯罪である。個人の意思に反し暴力で基本的人権を奪って連れ去り、人生を台無しにする手口と実態は、身代金要求がないだけで誘拐にも匹敵する凶悪さで、多数の日本人が拉致され今なお解決されないでいる北朝鮮による「日本人拉致事件」とも変わるところがない。こちらの拉致も、北朝鮮当局が同事件の犯行を認めるまでに25年の年月を要したのである。
☆
「捜査を総合的に検討した結果、北朝鮮に拉致された疑いがある」――1997(平成9)年5月1日の参院決算委員会で、警察庁の伊達興治警備局長(当時)がこう述べ、北朝鮮に拉致された疑いのある日本人を「7件10人」と断定した。政府が、北朝鮮による拉致事件を初めて公式に認めた瞬間だ。
時計の針は、それから20年余昔に戻る。1977(昭和52)年9月19日、東京都三鷹市役所で警備員をしていた久米裕さん(当時52歳)が、能登半島の宇出津海岸から北朝鮮に拉致され姿を消した。
北朝鮮の金正日総書記が日本人拉致事件を認め「遺憾であり、率直におわびしたい」と謝罪したのは、2002(平成14)年9月17日に北朝鮮の平壌で行われた日朝首脳会談の席上だった。日本政府が拉致事件を公式に認めてから、さらに5年後のことである。
この国家による重大犯罪が発覚するまでに長い空白期間があったのは、独裁体制を敷く北朝鮮の凶行で真実にフタをしやすかったという理由が第一だが、ほかにも理由はある。最近はやりの「不作為」という言葉を使えば、日本の政治の不作為、報道機関・言論人の不作為、捜査の不作為も見過ごせないほど大きかった。その上に、事件が表面化するのを積極的に妨害工作した勢力のあったことも影響した。
久米さん失跡事件では、事件関係者が石川県警に逮捕され、乱数表などが発見された。その背後に、北朝鮮工作員の影が見え隠れしたが、なぜか逮捕された人物は不起訴処分になって、事件はうやむやに処理された疑いを残している。
この時、事件を重大視する炯眼を発揮してマスコミが大きく報じていれば、のちに続いて起こった幾つもの悲劇的な事件は避けられたかもしれない。