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 東京電力福島第一原発の事故に首相補佐官として対処し、吉田昌郎(まさお)所長との連絡役を務めた細野豪志氏が朝日新聞のインタビューに応じた。

 細野氏は事故から3年が経過し「記憶の限界に来ている。そろそろ話さなければいけない」と考えていた矢先に「吉田調書」報道が出て、証言を決心したという。

 細野氏との一問一答は次の通り。(肩書は原則当時)

■吉田さんの人柄

――事故を通じて、事故後も含めて吉田さんと交流を続けた細野さんから、吉田さんの人柄を含めて思い出を聞きたい。

細野「私の吉田所長の記憶は15、16、17日くらいまでの本当に危機的な状況での記憶っていうのは一つひとつ大きいんですが、それ以上にその後のいろいろなことの方が鮮明に残っています。吉田さんの人柄をわりとよく表していると思うのは、現場の作業がギリギリの状況だったんで、私は『休んでもらわないと、もたない』と思ったが、そういう状況じゃないとずっと言い続けていた人だった。さすがにもたないということで、船を用意したのはいつごろか、いわきとか、あの辺に休める場所を取ろうと思ったが、『それは取ってくれるな』と。『我々はやり続けるしかない』と。でも、もうもたないと思ったんで、政府で船をチャーターして船で休んでもらった。これは実際に運用したのは2、3週間だったと思うが、研修船みたいなのがあって、そこで寝て、ご飯を食べられるという船がチャーターできたんで、1Fの人に休んでもらった。『そういうことを考えるならば被災者の方のことを考えてくれ』と。つまり東電作業員の待遇を考えるなら、避難していて体育館で雑魚寝している人がいっぱいいるから、そっちを考えてくれと。後からいろんなことがあってですね、4月ごろにあまりに東電作業員の環境が悪すぎるということで議論になったんです。医者が4月あたまに写真を撮ってきて公開してだいぶ問題になって。いろいろと、やってはきていたんですが、吉田所長の言葉がどこかに残っていて、船をチャーターしてきたりとか、でも十分ケアしきれず、NRCのカストーからかなり言われたことがあった。現場作業員をもっと大事にしろとかなり強く言われたことがあって。それに対して私が吉田所長からこういう言葉があったというと、カストーが絶句していた。そういうちょっと、ややまあ浪花節ではあるんだけど、今は我々の頑張りどころだという意識はあった。ただ4月からは状況も変わっているし、吉田さんとも相談して、許認可も出して、状況を良くするのに努力しましたけどね」

(1F=福島第一原子力発電所、いわき=福島県いわき市、NRCのカストー=チャールズ・カストー米原子力規制委員会専門家チーム責任者、浪花節=損得ではなく義理や人情を重んじるさま)

――彼の知見は政府で生かしたいという考えはなかったか。