2014年6月2日08時48分
東京電力福島第一原発の事故に首相補佐官として対処し、吉田昌郎(まさお)所長との連絡役を務めた細野豪志氏が朝日新聞のインタビューに応じた。
細野氏は事故から3年が経過し「記憶の限界に来ている。そろそろ話さなければいけない」と考えていた矢先に「吉田調書」報道が出て、証言を決心したという。
細野氏との一問一答は次の通り。(肩書は原則当時)
■吉田さんへの接触
――首相補佐官として官邸に入って、一番最初に吉田さんとやりとりを始めたときの記憶は。
細野「思いだそうとしているんですが、いつかは正確には記憶が呼び起こせないんです。3月12日がかなり大変でしたもんね、あのときは私も連絡はとってないです。12日は武藤さん……。武黒さん、川俣さんか、が官邸に来ていた。基本的にはリエゾンで来てくれた2人を通じて情報を取るのが官邸のスタンス。12日夜から地下に入って、総理が朝、ヘリでいく前後を含めて、2人を通じて色んな情報を取っていました。ただ、非常に情報が入りにくい状況で、象徴的だったのは12日3時36分の水素爆発。事前に予測できなかっただけでなくて、それがあったという事象も含め官邸には報告もなかった。そこでかなり、情報の流通の遅さというか、なかなかこれは情報が入っていないと感じるようになったんです。その後のいずれかのタイミングで一度、電話で話しています。それは、総理からの指示もあったので、吉田所長と話をさせてくれないかと。その前提で、総理が吉田所長と会ったので『あの人は信頼できる』と。本当に必要な時は現場への確認が必要だと。それで、そこは一応つないでおいた方がいいかなという思いもあったので、12日から13日、どのタイミングか分からないが、連絡した。私の携帯の番号を知らせ、総理にも連絡が取れると、いざというときには、ということもあったので連絡をしたんだと思う」
(武藤=武藤栄・東電原子力担当副社長、武黒=武黒一郎・東電フェロー、川俣=川俣晋・東電原子力品質・安全部長、リエゾン=連絡員、地下=内閣危機管理センター、3時36分=午後3時36分、総理=菅直人首相)
――1号機の爆発がきっかけですか?
細野「そうですね。情報がなかなか入らないということでいうならば、この1号機が一番典型でしたね」
――総理からどう言われましたか。
細野「正確なやりとりは記憶がないです。ただ、現場が大変だっていうのは本当によく分かっていたので、直接電話は基本的にしないと。特に武黒さんが原子力の専門家でもあったので、武黒さんを通じて情報を確認するのが基本でした」
■電話が鳴った
――爆発があり、情報を取りたいという中で、吉田さんへの接触が始まるという流れですか。
細野「15日以降は、私は東電に行ったのでテレビ会議で常にリアルタイムで連絡が取れることになっていました。その前は、ちょっと記憶が定かじゃないですが、2回電話しているかも。何かで、どうしても聞かないといけないことがあって、連絡をしたことがあったことが1回、もしくは2回あった。いずれも私が自分でかけているが、逆に初めて電話があったのは14日の、ここが私もね……。2号機に水が入らなくなっている時ですね。あの時にガス欠だったことがありましたね。あの前に、吉田さんがそれを調書の中で述べているか知らないが、ここは正確に記憶してるので、それはここですね。炉心損傷が始まったのが14日の8時ごろですね。その時に電話があったんですね。そこは吉田所長がかなり深刻な声で電話をしてきていて、これはちょっと本当に厳しいかもしれないという趣旨の発言があって、私もそこは本当に最も深刻だと思った場面の一つです」
(テレビ会議=東電本店と福島第一原発と福島第二原発と柏崎刈羽原発と福島オフサイトセンターを結ぶ映像会議システム、ガス欠=消防車の燃料切れ、8時=午後8時)
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