2014年06月01日 (日) | Edit |
前回エントリについてhamachan先生に「精密なコンファメーション」とご紹介いただきました。駄文を書き続けているとネタがたまってくるもので、うさみ氏のような薄っぺらい議論であれば昔書いたことでその薄っぺらさを示してあげることもできるのですが、実を言うと、うさみ氏のこのご指摘についてはちょっと考えるところがありました。

そんなわけで将来に対するコミットをなるべく軽くして、現在の解決可能な現実的な問題に焦点を当てられるように、厚生労働省は解体すべきなのではないかと個人的には思っています。それが国民にとっても厚労省職員に取っても幸せな道なんじゃないでしょうか。そもそも将来の人生設計というのはパターナリズムで政府が面倒見るのではなく、個人の責任で立てるというのが本来の資本主義社会の在り方なのではないでしょうか。

「厚生労働省は解体するしか無いと思う(最終更新日:2014/05/22)」(うさみのりやのブログ)

これを「新自由主義」とか「リバタリアニズム」とかラベリングして批判することは簡単ですが、たぶん事態はそれほど単純ではないのではないかと思います。いやもちろん、経産省という組織が新自由主義的な政策を指向しているという指摘はある程度当てはまるでしょうが、そもそも戦後の焼け野原からの復興を目指した日本が、政府による社会保障ではなく企業による社会保障の充実を目指した時点から、日本の政策は企業活動を支援することに特化していたのが実態ではないかと。だからこそ、集団的労使関係の激化によって企業活動に支障が出ればレッドパージによって組合活動を抑制し、強力な産別組合によるナショナルセンターを形成して労使交渉するより生産性向上運動によって労働側の経営参画を促したのではないでしょうか。

こうした積み重ねによって企業活動の面から国民生活を保障する政策が展開された結果として、政府による生活保障はすべからくパターナリズムとして受け止められてしまう土壌が形成されることは、当然の成り行きだったのかもしれません。特に、労使協調によって雇用を維持する引き替えに絶大な人事権を会社に委譲しつつ、人事異動で内部労働市場を形成しながら幹部登用に道をつけていった大企業の「企業戦士」達からすれば、国の労働政策なんて余計なお世話でしかありません。一昔前に日本の産業構造を語るときの枕詞であった下請け関係による二重構造や、主婦と学生が非正規労働者の担い手であった日本型フレキシキュリティを支えてきたのが、大企業の「企業戦士」たる男性正社員だったわけですから。最近のドラマでは「誰に飯を食わせてもらってると思ってるんだ!?」という台詞はあまり聞かれなくなりましたが、失業保険が雇用の安定している大企業から雇用の不安定な中小企業や非正規労働者への再分配になっている事実からしても、男性正社員がそう言いたくなるのも無理からぬ話ではありました。

しかし、企業による生活保障は、企業がこけたら自分もこけるという意味で深刻なホールドアップ問題に直面します。雇用維持の引き替えに受け入れた企業の絶大な人事権は、労働基本権として憲法で保障された集団的労使関係上の権利の行使を換骨奪胎していきました。法律で労働基本権を制限されている国家・地方公務員のみならず、民間労働者からも集団的労使関係などは見向きもされなくなり(もちろん組合の側も思想に走って組合員の支持を失うという失態をさらしていますが)、それに代わって「交渉力の高いエンプロイアビリティをもつスーパー労働者」になることが唱導されています。こう書いてもいま現に働いている労働者の方にはピンと来ないようなのですが、「コミュニケーション能力に長けた意識の高い学生」になることを唱導する昨今の就活事情と対比させると、その異常さが際立つと思います。

これも拙ブログでは繰り返し書いているところですが、この感覚は地方自治体の世界も大差ありません。むしろ、任用という行政処分性を有する労働契約によって裁量を強化されたメンバーシップ型雇用の世界ですので、「労働基本権がなくたって仕事があるだけありがたい」と真顔で語る地方公務員が少なくありませんし、私の周りにも「組合とかいう左翼の集団なんか今さら興味ない」という公務員しかいません。

さて、その状況で「労働基準法は…」とか「日本型雇用慣行は…」とか「集団的労使関係の再構築を…」とか「サービス残業はそもそも違法で…」とか「限定正社員という形で…」なんて話をしても、その話を受け入れてもらえる余地はほとんどないのが実態ですね。返ってくる反応としては、「いくら法律を厳しくしても残業しなきゃ仕事が終わらないのに、時間外労働を禁止されたら倒産してしまう。そんな余計なお世話なんかやめろ!」ということでしょうし、「中途採用のくせに管理職志望?ふざけんな!」ということでしょうし、「首切り自由な限定正社員だと?労働者に対する横暴だ!」ということでしょうし、結局のところ厚労省(特に旧労働省の)パターナリズムと批判されてしまうのがオチです。企業に雇われているうちは生活が保障される限り、防貧機能を持つ年金保険や健康保険と救貧機能を持つ生活保護の違いを理解する必要もありませんから、労使折半の保険料も法人税も企業活動を阻害するものとして批判にさらされ続けるのでしょう。

他分野から労働政策がパターナリズムとして批判される傾向は、こうした日本的な企業による生活保障という歴史的経緯が強く影響しているように思います。その批判は、企業による生活保障が国民の大部分をカバーしている(と認識されている)うちは、実態はどうであれ政策上は妥当なものだったのだろうと思います。また、ミクロな企業内部では、実際にその企業で働く労働者はその企業の人事労務制度によって働き方を規定される以上、その実態の大部分は人事労務制度のあり方(決め方)によって左右され、その限りにおいて法制度は外部制約に過ぎず、やはりパターナリズムとの批判は妥当なものでしょう。

となると、現状認識として政府による規制が必要と考えるか否かが、労働政策をパターナリズムと批判するかどうかの分かれ目になるといえるのではないかと思います。そしてその現状認識は価値判断によって決まるものであって、理論とか現実のデータで決まるものでもなさそうです。

講義では、いつも4月のはじめに、事実と価値判断を峻別せよ、事実関係を問う実証分析(positive analysis)と価値判断を内在する規範分析(normative analysis)は別次元の思考方法が司る別世界のものであり3、決して混在してはいけないと教える。そしてその後毎年付け加えることは、次の言葉である。
「でもまぁ、今言ったことは初級の科学方法論であってね、実は、中級、上級の世界になると、事実と価値判断は独立に存在し得ないし、実証分析を行う際の問は、その人が持つ価値観に強く依存することが分かってくるんだよね。でも、それはあくまでも中級、上級の世界の話だから、まず君たちは、事実と価値判断を峻別し、実証分析と規範分析の違いを教科書レベルの知識としてしっかりと理解しておいてくれ。30過ぎても“経済学は価値独立な実証科学で云々”と言っているひとは、まぁ、社会科学にはあんまり向かないだろうな・・・」

権丈善一「勿凝学問116 事実は価値判断とは独立に存在し得ない 「人間は自分がみたいという現実しかみない」というカエサルの言葉の科学方法論的意(2007年11月12日)」(pdf)

「30過ぎても“経済学は価値独立な実証科学で云々”と言っているひと」…いろいろな方が目に浮かぶところですがそれはともかく、日本型雇用慣行の維持が難しくなっているという認識が共有されている現状であれば、その現状への対策として労働政策が以前より重要になっているという価値判断がまっとうな判断ではないかと思うところです。
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