罪と罰(47) 折り合い

 今日はこういう日なのか、と私は暗い気分になった。何か話があると言われて聞いてみると、いい話とは真逆の内容を語られる。次に誰かに話がある、と言われたら、多忙か空腹か生理痛を理由に断ろうと心に決めた。3番目の理由は特に男性には有効な手だ。

 「よく思い出してみたんだけどね」カスミさんは話している。「さっきの定年後再雇用契約社員の契約更新の件、私、確かに木下くんに説明したのよ。そんなに細かくではなかったけど、木下くんもドキュメント作ってたし、ソースの該当部分も教えておいたから。いくらなんでも、それを実装フェーズで忘れるってことはないと思う」

 私はうなずいた。木下はいつも無駄口ばかり叩いているような印象があるが、そういう細かい部分は意外にしっかりしている。カスミさんに説明を受けて、ドキュメントまで作ったのなら、本人が言っていたように「単に忘れただけ」ということは考えにくい。

 「ということは」私は必要もないのに声を潜めた。「木下がわざと忘れたふりをしたってことですか?」

 カスミさんは首を横に振った。

 「本当のところはわからないけど。でも、飛田さんと木下くんは、よく衝突してるでしょう。その原因の全部とは言わないけど、半分ぐらいは私にある気がするのよ」

 カスミさんはそう言ってクスクス笑った。

 「これが2人ともが私の魅力にまいっちゃって、恋のバトルを繰り広げてるだけならいいんだけどね。それなら、ケンカをやめて、私のために争わないで、とか歌ってりゃいいんだけど」

 私も思わず吹きだした。

 「あいにくそうじゃなくて、木下くんが私を、何て言うか、かばってくれてるのよね。私の出番を無理矢理作ろうとしてるというか」

 「そうかもしれませんね」私は同意した。「まあ、あの2人がそもそも反りが合わないってのもあるんでしょうけど」

 「このまま私がいると、あの2人の衝突がもっと激しくなって、もっと何か致命的なトラブルを引き起こしそうで怖いの。東雲工業のシステムをずっと見てきた私としては、自分が原因で三吉さんや霧島部長に迷惑をかけることになるのは、絶対に嫌なのよね。だからといって、別の部署に異動することはできない。となれば、もう、退職するしか道がないってもんよ」

 口調は冗談めかしているが、寂しさを隠しきれてはいない。私は反射的にカスミさんの手を握った。

 「そんなことないですよ。むしろカスミさんがいてくれるから、あの2人が何とかまとまってるんですよ。それに今日みたいに三吉さんが無理難題言ってきても、カスミさんなら場をなごませたりできるじゃないですか」

 「それはさあ」カスミさんは私の手をポンと叩いた。「つまり、プログラマとしては役に立たないってことよね」

 「いや、そんな……」

 「別に卑下して言ってるんじゃないのよ。それはもうずっと前から自覚してたことだから。それこそ、Webシステム開発部に異動してきて、レイコちゃんや木下くんたちがやってることを見たときから。ああ、この人たちは私じゃできないことができるんだなあ、ってね」

 「……」

 「でもねえ」カスミさんはため息をついた。「私が本当にショックを受けたのは飛田さんだったの」

 「飛田ですか?」

 「私は東雲工業のシステムのメンテをずっとやってきたし、私にしかできないことをやってる、という自負も少なからずあったのよね。AS/400からVB6のクラサバに移行したときから、ずっと見てきたんだから。東雲さんのシステムは、定年までずっと面倒見ていくつもりでいたし、それは私にしかできないんだと思ってたのよ」

 カスミさんは私の手をぎゅっと握り返すと、そっと手を離して、重い民芸調のカップを両手で包むように持った。

 「だからシステムリニューアルで、飛田さんが主担当になったときも、それほど心配しているわけじゃなかったの。技術面では無理でも、業務手順や仕様レベルだったら、まだまだ私が貢献できると思ってたからね。でも、飛田さんは私の力なんか、ほとんどアテにしないで、要件と仕様をまとめて、Webシステムとして作り直しちゃったじゃない。それを見ていて思ったのよね。本当に優秀な人っているんだなあって」

 それが可能だったのは、飛田が現行システムの仕組みを生かす、ということに重きをおいていなかったためだ。だが、それを差し引いても飛田が優秀なエンジニアであることは疑う余地はなかった。

 「もっとショックだったのはね、もしかしたら、私はものすごく大量の時間をムダにしちゃったんじゃないか、ってことに思い至ってしまったことなのよ。自分だけじゃなくて、東雲工業の人達の時間も含めてね。どういうことかわかる?」

 「いえ」

 「もし私に飛田さんぐらいのスキルとやる気があって、家族や生活なんかの諸々の事情が少し違っていたら、東雲工業システムのWeb化はもっと前に開始していたかもしれないし、そうすることで業務の効率化もずっと前に実現できたかもしれない。東雲工業の企業活動だってもっと活発になっていたかもしれない。売上アップにもつながったかもしれない。庶務担当の人達が手作業でやってた作業の時間をゼロにできたかもしれない。うちの売上にだってもっと大きく貢献できたかもしれない。そんな沢山のIF文に気付いてしまったら……ううん、違うわね、とっくに気付いていながら、目をそむけてきた事に、正面から向き合わされたら……」

 カスミさんはカップを置き、窓の外の産業道路を行き交う大型車両の群れを眺めた。

 「これまで私は父親の病気のことや、下の子のことで、不当に会社から優遇されてきたでしょう。大した能力もないのに、管理職としての給与をもらって、週に3回は他の人より早めに退社させてもらって。それも東雲工業システムのメンテナンス続けていることで、会社に貢献しているから許されるんだと、自分を納得させてきたのよ。でも、今回のリニューアルの件で、私がやってきたことは、私にしかできないことでも何でもなかったことがわかった。もう私の居場所は、とっくになくなっていたのよね」

 カスミさんに置き去りにされた手の甲に暖かい液体が落ち、私は自分がいつのまにか涙ぐんでいたことに気付いた。

 「そんなこと、どうでもいいじゃないですか」私は囁くように言った。「会社なんか利用できるだけ利用してやればいいんですよ。うちの会社には、カスミさんの半分も仕事してないのに、高給取ってる連中が何人もいるんですから。そういう人たちに比べれば、カスミさんが会社に貢献してきたのは事実じゃないですか。今回のリニューアルにしたって、カスミさんが今まで繋いでいてくれたからこそ、東雲工業さんだって、うちを信頼して発注してくれたわけでしょう」

 「うーん」カスミさんは困ったように微笑んだ。「それもあるかもしれないけど、実は半分は五十嵐さんのおかげなの」

 「え?」私は戸惑った「五十嵐さん?」

 「五十嵐さんがやった一番最初の面談のとき、私が聞かれたのは、仕事内容より、東雲工業の組織の話の方が多かったのよ。あれは、システム導入のキーマンが誰かを把握しようとしてたのね。それから、1人で何度も足を運んで、システムリニューアルの提案をずっとやってくれていたみたいでね。その地道な営業活動の成果でもあるのよ、今回のリニューアルが実現したのは」

 「そうだったんですか……」

 「だから、たとえ私がいなくても、遅かれ早かれリニューアルは実現してたはずよ」

 「いや、でも」私は反論した。「今日の飛田の暴言、見たでしょう?あれじゃあ、いずれ顧客からの信頼を失いますよ。あいつをコントロールできてないあたしが一番悪いですけど。むしろ、カスミさんの出番はこれからじゃないですか。辞めることなんかないですよ」

 このときの私は、少し前に嶺井課長から言われたことをすっかり失念していたが、カスミさんはそうではなかった。

 「嶺井さんから私について何か言われなかった?」

 「え?」

 「たとえば私を外してほしいとか」

 「知ってたんですか?」

 私が口を滑らせると、カスミさんはニッコリ笑った。

 「やっぱりね。いえ、知ってたわけじゃないのよ。三吉さんから忠告されてたから。嶺井さんがITに関する社内のルールを厳格化しようとしていて、これからは直接の相談ができなくなるかもしれない、って」

 「そんなの……」私は涙を拭った。「従う必要ないですよ。うちの問題なんですから。嶺井さんに口を出す権利はないんです」

 「でも、そう言われた以上、それを無視して私が打ち合わせの場所なんかにノコノコ出て行ったら、嶺井さんはいい顔しないわよ。別に嶺井さんが私を嫌ってるとか、そういうことじゃなくて。自分が決めたルールを公然と無視したら許さないんじゃないかな、あの人は」

 「……」

 「要するに、私はもう、うちの会社や東雲工業さんに役立つ存在ではなくなったってことよ。厄介者扱いされてまで、会社に残っているのはつらいわ」

 エンジニアに限らず、自分が会社にとって本当に有用な人材であると自信を持って断言できる社会人が、一体どれぐらいいるだろう。この仕事は自分にしかできない、と思っていても、一般的な企業内の業務はほとんどの場合、他の社員がやっても何とかなるものだ。

 以前の会社にいたとき、従業員40名ほどの小さな映像機器メーカーを何度か訪問したことがある。そこの社内SEの男性は、独学でFlexを勉強し、社内システムをいくつも作成していた。エンドユーザの視点から作られた画面は、私の目から見てもよく考えられていて、使いやすいものだと言えた。ところが、その男性が病気で長期入院している間に、取引先の内線番号検索システムが必要になり、営業部門の若手社員がネットで集めた情報だけで、ExcelとVBAによる簡単な検索の仕組みを作り上げて、関係部署に配布したのだ。社内SEは退院してその話を聞いたとき、問題のExcel画面の稚拙な作りを見てせせら笑った。そして早速、Flex を使ったWebベースの検索システムを試作して、関係者にデモを行ったのだ。「やっぱりあなたの作るシステムはクオリティが高いね」という賞賛の声を期待してのことだったが、意外にも反応は小さかった。すでに若手社員が作ったExcelのシステムで業務が動いてしまっていたため、あえて切り替える必要性が認められなかったのだ。

 私自身、自分が取り替えの効かない唯一無二の人材か、と問われれば、首を縦に振ることはできない。自分が無能だとは思わないし、この仕事は好きだが、私のプログラミングや要件定義のスキルなどは、ひいき目に見ても、せいぜい中の上といったところだろうし、jQuery や Bootstrap などを使うことはできても、ああいうものを作り出すことは、一生できないだろう。管理職としても、たとえば守屋、木下、足立の誰かが私の代理を務めたとしても、それほど混乱することなく業務は回っていくだろう。会社の仕事というのは、そうあるべきものだ。

 多くのエンジニアは、自分の代わりはいくらでもいる、という思いを抱きながら、私のように、どこかで折り合いを付けながら、日々の業務を粛々とこなしている。でも、カスミさんは私などよりずっと誠実な人なので、折り合いをつけて会社に居続けることに、罪悪感をおぼえてしまうのではないだろうか。

 「正直なところを言うとね」カスミさんは窓の外から自分の手元に視線を移した。「私は五十嵐さんの改革に、手放しで賛成していたわけじゃないのよ。でも会社の状況が厳しいのは理解していたから、改善する方向に変わっていくなら、それもいいかなと思ってたの。社会人になってからずっと勤務してきた会社だから、倒産するようなことになってほしくはないしね」

 「……」

 「五十嵐さんの――というか瀬川部長の、かな――改革はうまくいって、うちの会社は新しいスタートを切ることができた。それは誰の目にも明らかだし、喜ばしいことよね。でも、新しい体制に席を確保できるのは、エンジニアとして変わろうとする意志がある人だけなのよね。私や武田さんみたいに、昔からの自分のやり方を維持していこうという人は、エンジニアとしての居場所はないの。武田さんは営業に異動した。中村課長は総務よね。私にも社内にそれなりの人脈はあるから、その気になれば開発以外の部署に席を移すことは可能かもしれないけど、そういうことはしたくないの。プログラマとしての最後のプライドみたいなものかしらね。些細なプライドだけど」

 「そんなこと言ったら」私は声を絞り出した。「辞めなきゃいけない人なんていっぱいいるじゃないですか。これまで会社に貢献してきたんですから、少しぐらい会社からお返しをしてもらっても……」

 「それも生き方の1つかもしれないけど、たぶん、うちの会社ではそんな考えの人は淘汰されていくんじゃないかな。どっちみち、私にはそういう考えはできないけどね」

 「でも……」

 「私が辞める理由はもう1つあるの。うちはこれからも、東雲工業さんとは取引を続けていくでしょう。なのに私は、それにプログラマとして関わることができないわけよね。会社に居続けるってことは、飛田さんが、私がやるよりも何倍も効率的な方法で、東雲工業システムのメンテナンスをやっているのを見続けなければいけない、ってことになるじゃない。それはさすがにつらいのよ」

 カスミさんはカップを口に運んだ。私は再び涙がこぼれ落ちそうになった目元に、まだ暖かいおしぼりをそっとあてた。

 しばらくの間、私たちはどちらも口を開かなかった。コーヒーはとっくに飲み干され、カップの底に残滓となっている。

 「決心は変わらないんですか?」私は訊いた。「あたしや他のメンバーが、カスミさんに会社にいて欲しいというだけじゃ、残る理由にはなりませんか?」

 「そう言ってくれるのは嬉しいけど」カスミさんは優しく首を横に振った。「ごめんね。もう決めたから」

 「東雲工業を飛田1人に任せるのは、すごく不安なんですけど」

 「飛田さんはねえ、見かけほど自信があるわけじゃないんだと思うわよ」

 「え?」

 「五十嵐さんは技術もあったけど、対人能力も優れてたでしょう?飛田さんは今のところ技術だけよね。そのことは、飛田さんもわかってるのよ。だからコミュニケーションスキルが足りない部分を、技術でカバーしようとして、ああいう言動に出るんじゃないかな」

 「でしょうね」私はうなずいた。「コミュニケーションスキルを向上させようという方向に行かないのが、飛田らしいですけど」

 「レイコちゃんの、というか、箕輪課長の役目よね、それは」カスミさんは面白そうに笑った。「飛田さんが五十嵐さんの半分でも対人折衝能力を身に着けたら、超強力な戦力になるじゃない」

 「だといいんですけどね」

 「ま、がんばってね」カスミさんは立ち上がった。「そろそろ行こうか。ここはおごるから」

 「いえ、そんな」私は慌てて伝票を奪い取った。「部下におごらせるわけにはいきません」

 「後輩におごってもらうわけにもいかないでしょう」

 結局、割り勘にして、私たちは店を出た。真夏の空が痛いぐらいに眩しい。

 これで瀬川部長の悩みの種が1つ減ったことになるのか、と私は気付いた。元々、カスミさんが第2開発課にいられるのは、9月末までの予定で、その後は決まっていなかった。瀬川部長としても、退職勧告などをするのは気が進まなかったに違いないから、カスミさんが自分から退職の意を表明すれば内心ホッとするだろう。

 だが私は、歩きながら10月末までの日数を計算していた。あと2ヵ月足らず。それまでにカスミさんを翻意させることができるかもしれない。そんな私の目論見は、カスミさんの言葉で崩れ去った。

 「実はもう次の職場をだいたい決めてあるのよ」

 「え?」私は驚いて訊き返した。「どこですか?」

 「ごめん、まだ言えない。確定じゃないから。でも順調に話が進めば、11月から新しい職場だと思う。10月はほとんど年休消化するだろうしね」

 「そうですか」私は躊躇いながら訊いた。「あの、お給料とかは?」

 「今よりは下がるでしょうね。まあ、来年は下の子も小学校に上がるし、何とかやっていけるとは思う」

 「やっぱりシステム関係の仕事ですか?」

 「それはまだわからないの」

 「せめて送別会はちゃんとやらせてくださいね」私は五十嵐さんのときのことを思い出して強調した。「絶対ですよ」

 「ありがとう」

 カスミさんは嬉しそうにうなずいた。

(続く)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術・製品の優位性などを主張するものではありません。

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コメント

lav 2014年6月 2日 (月) 08:14

まさかね。東雲工業にうつるなんてことはね?

ミーミー 2014年6月 2日 (月) 09:00

箕輪を課長から引きずり落とせ

未熟者 2014年6月 2日 (月) 09:18

さて、帰社したら木下君を絞り上げないと…飛田さんがもうやってるかな?

JJJ 2014年6月 2日 (月) 09:48

無能は「自分が無能である」ことに気付かないから無能なんだが。
この人は一応は気付くことはできたので、無能ではないかなぁ。
でも現実世界は武田みたいに会社にしがみつくやつの方が多いよねぇ。

おいおい 2014年6月 2日 (月) 10:22

最新話が上がったらすぐに有能・無能談義が始まるな。
そんなに順位付けしないと気が済まないか?

飛田はパラメータの割り振り間違ってるな~遅かれ早かれ自分の凡ミスをカバーしてくれる人居なくて自滅するタイプだわ。

なんか最近の内容から、前半の秘密結社イニシアティヴとか要らなかったんじゃ。

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ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

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