髙橋真梨子

24歳で歌手デビュー。
その後、ソロシンガーとして、「桃色吐息」「はがゆい唇」「ごめんね…」など数々の愛の名曲を送り出してきた。
なぜ彼女の歌声は世代を超えて、人の心を揺さぶるのか?

 
その日、彼女はリハーサルスタジオにいた
全国ツアーを控えた、一ヶ月のリハーサル。
公演チケットは、発売とともにソールドアウト。

ソロデビュー以来、延べ650万人を動員。
人は彼女を、バラードの女王と呼ぶ

昨年の大晦日…
紅白歌合戦で、圧巻のステージみせた。
29年ぶり、出場3回目で紅組のトリを務めるのは、異例中の異例。

髙橋真梨子の実力と人気をあらためて全国に印象づけた。

彼女の歌の魅力はこんなことからもわかる。
昨年6月、滅多にないテレビ出演を果たすと…
その翌日、音楽配信サイトのチャート1位から7位を独占。
「髙橋真梨子」を知らなかった若者たちが、彼女の歌に、またたく間に魅了されたのだ。
デビューから40年を過ぎてなお、その歌の影響力は衰えることを知らない。

芸能界の中からも、彼女への賛辞の声が。

名曲「for you...」をカバーしたことのある
つるの剛士は…

つるの「情熱的でアクティブでってイメージがすごくあって、やっぱり歌手としてだけでなくて、人としてもすごく魅力的な方だと思います。」

谷村「彼女の声って、他の人にはないドライな光の部分とウェットな影の部分を併せ持つ。」

萬田「引き込まれますね、真梨子ワールドに。声の質もあるでしょうし、ハートもあるでしょうし…」
なぜ髙橋真梨子の歌声は世代を超えて、人の心を揺さぶるのか?
それを解く鍵は彼女の過去にあった。

真梨子の側にはいつも、彼の姿がある。
こちらが照れてしまうくらいラブラブな2人。
夫のヘンリー広瀬。
結婚して20年あまり。
夫としてだけでなく、バックバンドのリーダー兼プロデューサーとして、彼女を公私ともに支えてきた。

真梨子は彼と少しでも離れ離れになると…

真梨子「なんかねもうね、すっごいウルウルして寂しくなっちゃうんですよ、今でも! それでもう(ヘンリーが)一生懸命仕事してるのにもういないと生きていけない!とか言ったの。いい歳なのに全然大人になれないんですね。昔寂しい思いをしたからかもしれませんね。」

2人が素直に愛を伝え合える理由、そこには、真梨子の人生が大きく関係している。

愛を求めて…


昭和24年、広島に生まれた真梨子。
ジャズサックス奏者だった父・月夫と、母・千鶴子の間のひとりっ子。

子煩悩だった父には、夢があった。
『一流のジャズプレイヤーになる』
一家は、当時、ジャズが盛んだった福岡・博多に移住。
しかし…

真梨子が幼稚園に上がる頃、父は体の末端が腐敗していく病に冒され両足を切断。
激痛を伴う病。だが…

真梨子「絶対に弱音を吐かない人だったんで、私、それ見るの辛くて、駆け出して病院のお庭のところでずっとしょんぼりしてましたね、かわいそうで。」
一家を支えるため、父に代わり母がキャバレーで深夜まで働いたものの、高価な痛み止めの薬が家計を圧迫。
これ以上、家族に迷惑はかけられないと、ついに、父は実家の広島に1人戻ることを決意。
5歳の真梨子は母の元に残った。

当時、隣に住んでいた友人は

「夜遅くまで働いていることに反抗していた。ともかくさみしく感じながら2人で夜、留守番していた。」
そのうち母は妻子ある男性と不倫関係に。
相手の男は、真梨子の家に出入りしはじめた。
父以外の男性と同じ空間にいる息苦しさ…
それだけではなかった。

真梨子「泣くしかない訳ですよ。(母への)DVがはじまるとね。耳も鼓膜がどっちも破れ、鼻も折れ、そして耳鼻咽喉科に通ったり何回もあったんです。」

繰り返される暴力、それでも、母は別れようとはしなかった。
家に入り浸り、母を独占する男…
母の愛を得られず、真梨子は孤独を感じていた。

やがて両親は正式に離婚。
大好きだった父と、ほとんど会えなくなってしまう。

当時、真梨子の心をなぐさめていたのは歌だった
小学校では、コーラス部員。
歌の上手さは抜群だった。
時は「ザ・ピーナッツ」全盛期。
いつか、歌手になれたら…そう夢見るようになった。
真梨子「音楽に携わってると、父が喜んでくれる。本当は楽器をやって欲しかったと思うんですけどね。私は、そういうお金もなかったし、習い事できる状態ではなかったんですね。歌なら、鼻歌でも歌えるわけなんで…」

父は、両足を失ってもなお、広島の小さなライブハウスでサックスを吹き、夢を追い続けていた。
ある日、父を訪ね、歌手になりたい…そう伝えた真理子に、父は思わぬ言葉をかけた。

月夫「まり子、歌をやるのはいいが、絶対に芸能界に入っちゃいけんよ。」

真梨子「バカにしてるわけじゃない。真梨子のことを思って言ってあげてるんだからアイドルみたいなものを目指すな。とにかく、発声練習から始めなさいって。」

福岡にいた、父のバンド仲間に本格的に歌を習い始めた真梨子。
夏休みのたびに母とその不倫相手から逃げるように広島の父を訪ねては、手ほどきを受けた。
それは、日々の暮らしの中で唯一、愛を感じられる瞬間だった。

いつしか一つの夢が宿る。
父に認められる歌手になりたい。
しかし、真梨子が15歳の夏、広島から、1通の電報が届く。
「チチシス(父死す)」
父は39歳という若さで、この世を去った。
真梨子を抱きしめた母。だが…

真梨子「抱きしめんなよって感じでしたよ。あなたに抱きしめられたくはないって。その頃は歌をやっていた時なので、歌がなかったらあなたの娘どうってると思う?って聞きたい。触ってほしくない、お母さんには…」
母との間に、埋めがたい溝が生まれていた…
若くして旅だった最愛の父…
不倫相手から離れない母…
残されたのは、“歌”だけだった。

やがて、16歳の少女の圧倒的な歌唱力は、地元博多で評判を呼ぶ。
そんな時、音楽プロダクションから声をかけられた

「東京で歌手を目指さないか?」

真梨子「東京には行きたくなかったんですよ。ちょうどその時家の母がいけいけっていう。『邪魔なんだろう』って感じで。」

しぶしぶ上京した真梨子は、アイドル養成のためのグループ、「スクールメイツ」の一員として売りだされる。
園マリ、伊藤ゆかりら人気アイドルと同じステージに立つこともあった。

真梨子の所属プロダクションの社員だった園田正強は、当時の印象をこう語る。

園田「芸能界というか業界というか一番合わない性格。つまり地味で自己顕示欲がなくて、辞めたほうがいいんじゃないのって?この業界は。という印象がありましたね。」

強要されるダンスや演技のレッスン、八重歯の矯正…
歌とは関係ないことばかり。
ついに…

園田「意見が合わないのでわかりました。ってさっさと帰っちゃったんですね。みんなで媚を売る世界でしょ。我々みんな良い度胸してるね、あの子はって話があったことを覚えてる。」

せっかくのチャンスを、なぜ棒に振ったのか?

真梨子「下積みが必要なんだな、というのはすごい分かりますよ。だけども、お父さんとの約束を守れない気がする、みたいな感じだったんです。もう二度と、東京に来ないというつもりで帰りました。」

自分の気持ちに嘘はつかない


本物の歌手になりたい。
上京から3年で博多に戻り、地元で歌い始めた。
だが、そんな真梨子の元に、またも東京からオファーが来る。

真梨子「しつこかったんですよ。断っても来るっていうし、真梨子じゃないとダメなんだよしか言わないし。」

声をかけてきたのは当時、新たなボーカルを探していた人気グループ、ペドロ&カプリシャスだった。
リーダーのペドロ梅村は、真梨子が14歳の時に博多のクラブで共演。
以来、彼女の歌声に惚れ込んでいたという。

ペドロ「スタンダードなジャズじゃなくて、POPSっぽいジャズ歌っていたんですよ。英語の発音もしっかりしているし。ものすごく音楽のセンス高いなって思いましたよ。」

ペドロの押しに負け、1年だけという約束でボーカルを引き受けた真梨子。
この時、運命の人と出会う。
後に夫となるヘンリー広瀬。

ヘンリー 「最初の印象ははっきりいってあんまり良くなかったですね。それは多分お互いだと思うんだけど、まあ、タイプではないというか、女性としてあんまりみてない…」

音楽的な趣味は合ったが、最初はただの仕事仲間でしかなかった。

その1年後…
♪「ジョニィへの伝言」
発売されたレコードは大ヒット。
紅白歌合戦、初出場を果たす。
1年のつもりで出てきた東京…
しかし図らずも歌手・髙橋真梨子の名前と歌声は、日本中に響き渡ることになった。
今、真梨子はコンサートのリハーサルの真っ最中。
そばにいるのは夫のヘンリー広瀬。
プロデューサーとしてバンドのリーダーとして、真梨子をサポートしてきた。
メンバーと密にディスカッションしながらリハーサルを進めていく2人。

真梨子「上手で、凄い、素敵、格好良いっていうのもいいんですが、うちの場合は愛情で演奏して欲しいって、そういう気持ちがあるんですよね。」

真梨子は音楽にも「愛」を求める。
約束の1年を大きく過ぎ、加入から5年、音楽性の違いが表面化し、人気絶頂のペドロ&カプリシャスから真梨子とヘンリーは脱退。
ソロデビューした髙橋真梨子は自らの歌の世界を模索していく。
ヘンリーはプロデュサーとして彼女をサポートする立場に。

6年後…
「桃色吐息」が大ヒット。

その後も、大人の愛を歌った名曲を次々と世に送り出していった真梨子。
その歌声は女性を中心に絶大な支持を受け、トップシンガーへの階段をいっきにかけのぼっていく。

そして、ビジネスパートナーは、いつしか私生活でもかけがえのない人に…
21年前、2人は結婚を発表。
真梨子は、多忙な音楽活動の傍ら、家事をこなし、ヘンリーに尽くした。

心から愛しあえる相手のいる幸せ…
だが、母との関係は変わらなかった。
あるとき、上京してきた母と口論になり、真梨子は、幼い日のことを強くなじった。
すると…

今までなら言い返してきた母が静かに涙を流した。
胸を突かれた。
生涯の伴侶を得たいまだからこそわかる、母の気持ち。
愛する夫と離れ、どれだけつらかったか。
胸に抱き続けた憎しみが、少しずつ溶けていく…

ようやく母を許す気持ちが芽生えたそんな時、突然、真梨子の体を異変が襲う。
47歳の時、真梨子は、突然、激しい疲労や手足のしびれ、、耳鳴りに襲われた。

更年期障害とウツ


ヘンリー「ほんとに彼女はみるみるやせ細っていって、食事も食べないし完全なうつ状態になっちゃって…」
  
それでも、ステージに立ち続けた真梨子だったが…
ついに、声も思うように出なくなってしまう。
毎年欠かさず続けてきたコンサートツアーも、数ヶ月延期せざるを得なかった。

20年来の友人、女優、萬田久子は、当時の状況をこう語る。

萬田「トイレも行けなくなりましたからね、1人で。やっぱり真梨子さん見てると、付き添わないとって思う位、ちょっと人が変わった感じでしたよね。」

心身ともにボロボロ、1人では何もできなくなった真梨子を支えたのが、夫のヘンリーだった。
食事の世話をはじめ、不慣れな家事も懸命にこなした。

真梨子「よく頑張ってくれましたね、いろいろ病院を探したり。安心させるために非常に気を使ってくれるんですけど、変に気を使うと私が、余計気を使って悪化すると思って『大丈夫、大丈夫』みたいな感じ。」

ヘンリーに支えられ、真梨子の体調は少しずつ回復していった。
ようやくステージにも立てるようになり、創作への意欲もわいてきた矢先…

母の千鶴子に癌が見つかった。
大腸癌…。余命1ヶ月の宣告…

失いかけて、初めて気づいた…
母は母なりに自分を精一杯愛してくれていたことを。
そして、愛を伝え、愛を受け止めることの難しさを。

真梨子「人間だれでもね、簡単に空気みたいなものだと考えてるじゃないですか?愛っていうのは。そんなに強調できないでしょ。みんなそれでもって成り立っているわけですから。」

真梨子は、母に最後まで癌であることを告知しなかった。
仕事が終わると、すぐに母の病室に駆けつけ付きっきりで看病する日々。
これまでの空白を埋めるかのように…

ヘンリー「その時はね、僕が側にいて見てても、嫉妬するくらいの親子愛っていうか、親子であり兄弟のようなっていう。」

癌が発覚したその年の大晦日、母はこの世を去った。
2ヶ月後…
ステージの上に真梨子の姿があった。
このコンサートで、真梨子は母が最も愛した曲を歌った。
彼女が作詞を手がけた『フレンズ』

真梨子「特別なものに愛ってつくりあげるとすごく大げさになってしまうし、変じゃないって言われるんですけど、実はものすごく愛に飢えてた子はすごく愛をテーマにものごとを運びたくなるんですよ。」
萬田「ほんと強くなりましたよね。それはだからひょっとして、お母さんとの本当の別れが出来たのかもしれませんね。いろんな自分のヒストリーじゃないけど、生い立ちとかをカミングアウトしたっていうのがすごく楽になったのかもしれませんね。」

ヘンリー「彼女すごく愛情深い人。それが口で表さないで周りの人たちは分かってるのね。それはね、つきあっていくとすごく分かると思うのね。それはたぶん、そのちっちゃい頃の辛い辛いことが、だんだんだんだん解放されてってる。」

結婚して21年
気がつけばいつも一緒にいる
愛に飢えた少女時代
歌が救いだった

真梨子「私はすごく愛に飢えているって言われれば、この年でね、そんなのは当たり前でしょ、すべては愛がなくてはできない…」

これからも「愛」を歌いつづけていく…
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