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大勝利へ

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月29日(木)16時32分12秒 i223-218-163-217.s42.a014.ap.plala.or.jp
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  ※ 『そんな教学は聞いた事もない』との嘲言を取り消し、当方に対して、間違ってました、と言いなさい。

>砌を出してくださいな。
>「本門教主釈尊が地涌千界の脇士と為る」との砌を。

おいおい、一体誰が『本門教主釈尊が地涌千界の脇士と為る』と申したか。
其れよりもお主は『本門の釈尊が地涌千界を脇士と為す』と言っていたのではないか。

先ずは、其の事について認めなさい。

して、お主は、地涌千界の棟梁をして、上行再誕の日蓮(大聖人)、と答えたのであろう。
つまり、其の答えからすれば、本門の釈尊が日蓮大聖人の脇士と為る、との解釈になろうが。

となれば、地涌千界の棟梁たる日蓮大聖人が、此の末法に出現して、本門の釈尊を脇士と為す、一閻浮提第一の本尊を
立てる、という事ではないか。果たして、此の何処(どこ)がおかしいか。

しかしお主は『「地涌千界が、釈尊を脇士とする」ような意味であるとの、そんな教学は聞いたことがない(笑』と
言ったのである。して、其の本人が、今になって、一閻浮提第一の本尊を立てた地涌千界の棟梁こそは、上行菩薩の
再誕である日蓮(大聖人)と言い出した。

つまり『本門釈尊為脇士』とは『本門の釈尊を脇士と為す』と判読するが正解であり、又、其れこそが大聖人の御正意で
あろう。仍って、当方が云う処の『此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に
立つべし』が正解なのであり、当時の創価学会の教学に於いて間違ってはいないのである。

して、お主は其れに対し、

>本門釈尊が主語ですよね。
>本門の釈尊、(地涌千界)を脇士と為す。
>「地涌千界が、釈尊を脇士とする」ような意味であるとの、
>そんな教学は聞いたことがない(笑
>宗門でさえ言ってないことをよく言うの~(笑

と言って来た。

果たして『地涌千界が釈尊を脇士とする』ような意味など、聞いた事がない(笑 と嘲笑した本人が、今にして地涌千界の
棟梁は日蓮大聖人である、と言う。ならば、当方の『此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の
本尊、此の国に立つべし』の解釈で間違いないではないか。しかし、お主は、其れをして聞いた事がない、と云う。

だから当方は、其れは本当なのか。それとも間違いなのか、其の事を此に問うているのである。

してお主は、此の期に及んで『砌(みぎり)を出してくださいな。「本門教主釈尊が地涌千界の脇士と為る」との砌を』
などと、苦し紛れに「教主」まで付け加えて駄駄を捏ねておるが、本より、此の御文に於いては「此の時地涌千界して、
本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし』との全文を通して判釈しなければ、其の正意は得られ
ないのであり、又、其の事は、前(さき)に於いて述べたとおりである。

大勝利よ、まだ、片付いてはおらんぞ。

再詰する。

一、『本門の釈尊、(地涌千界)を脇士と為す』とは、創価学会の教義か、其れとも自義か。自義なれば論敗とする。


二、して、其の地涌千界を脇士と為す、其の地涌千界の棟梁が、日蓮大聖人であるとは、創価学会の教義であるか。
  其れとも自義か。自義なれば論敗とする。

三、して、当方が解釈した処の『此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つ
  べし、とは、 応に地涌千界が今時末法に出現して、本門の釈尊を脇士と為す、つまりは本門の釈尊を脇士とする
  大御本尊を此の大日本国に建立する、との意であろう』の論述に対して、「そんな教学は聞いたことがない」と言い
  放った。其れで間違いないか。お主が寄こした『地涌千界の棟梁は、上行再誕の日蓮大聖人』との回答から、其の
  整合を述べよ。出来ずんば「そんな教学は聞いた事もない(笑」との嘲言を即刻に取り消し、当方に対して謝罪すべし。


よろしいか。論窮による拡散は許さんぞ。全ては上記三項の詰問に在る。

須らく答えるべし。
 
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