「人身売買・奴隷・拉致の日本史」渡辺大門 いかなる時に奴隷化は許されたのか

 

人身売買・奴隷・拉致の日本史

人身売買・奴隷・拉致の日本史

 

 たまに日本に奴隷はいなかったと思っている人がいるみたいだが、当然そんなことはない。歴史書に奴婢・生口・下人などの名前で出てくるのがそれである。彼らは良民に隷属し、譲渡・売買・相続の対象になった。この本は古代から戦国時代までの歴史書に登場するそれら奴隷の例が載せられているが、なかでも「良民から奴隷になることの禁止」について触れたものが目立つ。

労働力として奴隷を求めるものは多いが、社会全体にとってみれば必ずしも奴隷は好ましいものではない。律令制度では奴婢に対して良民より少ない口分田が与えられていたが、不輸不入の権を持つ荘園で働かされれば全く税がとれなくなる。限られた土地で奴隷労働をさせ他の土地を荒れるに任せるよりは、農民にそれぞれ土地を与えて耕せたほうが年貢も多くなる。

また「さんせう太夫」の説話が昔から悲劇として伝えられてきたことからも、奴隷階級の存在そのものは認めるにしても、良民が奴隷になることは倫理的に問題があると思われていたのだろう。

古代アテネのソロンの改革も、市民が奴隷階級になることを禁じるものだった。奴隷階級が存在すること自体は構わないが市民が奴隷になるのは困る、というのはある程度普遍的な感覚なのだろう。

しかしこの良民が奴隷になることが仕方ないとされる場合も存在した。大規模な飢饉などで生活が立ち行かないものが大量に発生した場合と、戦乱で捕虜になった場合である。

朝廷や鎌倉幕府は良民を奴隷にするような取引を禁止し、発見した場合は契約を無効にして奴隷を解放していたのだが、鎌倉時代に大規模な飢饉が度々発生してそうも言っていられなくなる。妻子を売って当座の金を手にし、売られたものは所有者に喰わせてもらうというようなことが頻発した。

また、戦国時代以来戦争が常態化し、大人数を動員するようになると、ろくな報酬が与えられない兵士の士気を維持するために大名たちは侵略先で乱取りの権利を認めるようになった。戦国時代の分国法には奴隷について触れたものも多いが、奴隷売買を制限するというよりは、商取引のルールを定めたものが多い。「逃亡した奴隷が別の主人の所有物になっているのを見つけても勝手に連れて帰ってはいけない」というような現代で言う善意の第三者の保護を定めたようなものもあれば、隣国とのトラブルを恐れたのか、「隣国から逃亡した奴隷は買わずに元の所有者に返せ」というような決まりもある。それだけ戦国時代には人身売買が一般化していたのだろう。

国外から人を狩って奴隷にすることはもっと抵抗感が低かったようだ。ここらへんもローマやギリシアを思い起こさせる。倭寇が国際的に活躍した時代には、朝鮮・中国沿岸部の村を襲撃し、労働力不足だった九州に売る例が多かったようだ。もちろん逆に日本人が朝鮮・中国に奴隷として売られることもあった。東アジアにろくでもない国際乱取りネットワークがあったわけだ。

豊臣秀吉は国外に奴隷を運ぶ南蛮人を厳しく取り締まったことで知られ、国内でも奴隷取引を禁止した。耕作放棄された土地に農民を戻す意図もあっただろうし、今後の戦争の根を断つには乱取りという戦争のうま味を否定する必要もあったのだろう。朝鮮出兵の際にも秀吉は当初乱取りを禁じたのだが、出兵が長期化し戦費がかさむと結局乱取りを解禁して奴隷を国内に連れてきた際には届け出るように改めた。

そのほか日本人奴隷は一騎当千の傭兵として植民地反乱を鎮圧するために西洋人からの需要が高く、彼らにあてがう女も必要とされ多くの日本人が売られていったなど、いろいろ興味深い本だった。ただ読み手の好き好きなのだろうが、事例の紹介に終始して総論的なものがない部分は僕にはちょっと物足りなく感じた。