さあさあ皆様今宵も居酒屋「知恵泉」開店です。
(増田)大将どうなんですか?最近?先週落合シェフが考えて作ってくれた新しいメニューの評判は。
あちら「吉宗のさつまいもニョッキアラコマツネーゼ」これね女性に大評判で出てるんですよ。
女性が来る時もあるんですか?この店。
ありますあります。
井森さんぐらいでしょ。
ハハハ!結構来ますよ。
ほんとに落合さんありがとうございました。
(落合)非常にうれしいですね。
甘えついでにもう一つ本日また来て頂きましたのでもう一個大ヒット作のメニューを作りたいなと思ってるんですよね。
自分でできるお役に立てる事ならば喜んで。
ほんとですか!ありがとうございます。
それで大ヒットにしたいというふうに思ってるんです。
なかなか難しいですよね大ヒット。
すぐにはヒットしないですからね。
そうですよね。
なかなか難しいんですが今日こちらのお店のお薦めとしまして「ヒット作の生み出し方」というのをお薦めしたいと思うんです。
今日ご紹介しますのが江戸時代の希代のヒットメーカーこの方です。
18世紀半ば江戸を中心に庶民の文化が花開き始めます。
歌舞伎や浮世絵が発展し人々の間で大流行。
書籍の出版が江戸で本格的に始まったのもこのころです。
次々と版元今でいう出版社が出来ました。
その中で数々のヒットを飛ばす敏腕の出版プロデューサーがいました。
蔦屋重三郎人呼んで「蔦重」。
ヒットさせた本の一つが「吉原細見」。
吉原の店や遊女を詳しく解説したガイドブックです。
江戸中の男が手にしたと言われるほど大当たりしました。
そこには蔦屋ならではのヒットの秘訣が隠されていました。
また蔦屋は無名の作家や浮世絵師の才能を発掘する事にもたけていました。
例えば美人画に新たな作風をもたらした喜多川歌麿。
独自の役者絵で江戸に衝撃を与えた東洲斎写楽。
彼らを見いだしたのも実は蔦屋です。
後世に名を残すクリエーターたちと蔦屋。
その知られざる交流秘話とは?数々のヒットを飛ばし江戸の流行を作り出した男蔦屋重三郎。
その知恵を読み解くのは…。
イタリア料理界の第一人者…落合さんがオーナーシェフを務める店は日本一予約がとれないと言われるほどの人気ぶり。
うにのパスタが私は大好物なので。
うにのパスタがほんとにおいしいと。
店のヒットメニューは「うにのスパゲティ」。
トマトと生クリームのソースに生うにをたっぷり。
本場イタリアのものよりクリーミーに仕立て女性客の心をわしづかみ。
店のヒット作になりました。
もともとは席数36の小さな店からスタートした落合さん。
独自のアイデアで次々とヒットを飛ばし今や5つの支店をオープンさせています。
果たして…今日は江戸と現代2人のヒットメーカーからそのヒントを学びます。
「うにのスパゲティ」落合さんとこのヒット作ちゃいますのあれ。
36席のうち35人の方が頼んでたって事が一度あります。
そういうヒット作っていうのはどういうふうにして思いつくものなんですか?それはヒットを出そうと思って僕は考えたわけじゃなくて例えばイタリアで当然イタリアもうにのスパゲティがあるのでイタリアで食べた時にもっとこうしたらいいのになって思いがあったんですよイタリアでは。
イタリアのうにのスパゲティってどんなんなんですか?にんにくと唐辛子でオイル作りますよねそこでうにを炒めちゃうんです。
炒めたところにゆでたパスタを入れてあえますからちょっと硬くなったタラコが入ってるみたいな感じなんです。
ちょっとカスカスした感じの。
そうですね。
日本の皆さんもうにってクリーミー甘いってイメージがあるじゃないですか。
もうクリーミー甘いっていう形じゃなかったです。
イタリアのパスタになっちゃうと。
それをそのイメージに持っていったんですね。
ほんだらうにのスパゲティのクリーミー甘いというのは落合さんが作り出したと。
日本でね。
消費者目線というか…。
おっしゃるとおりですね。
日本で僕が当然イタリア料理やらせて頂くうえでお客さんは99%日本のお客様ですよね。
どうしてもその方々においしいって言って頂けないと続かないだろうなっていうのはあったんですよ。
というのがやっぱり僕たちの仕事ですよね。
今回取り上げます蔦屋重三郎なんですけれども江戸時代出版プロデューサーとしてヒットを生み出した人なんですが詳しい方お呼びしてあるんですよね。
いらっしゃいました。
こんばんはようこそいらっしゃいました。
江戸東京博物館の館長でいらっしゃいます竹内先生でいらっしゃいます。
どうぞお掛け下さい。
竹内さん今日蔦屋重三郎について話そうと思ってるんですが…。
重三郎という事でまず今日は是非皆さんにお見せしたいものを持参しました。
お土産を持ってきて頂いたという事で。
じゃ皆さんでせっかくですのであちらで見せて頂いてもよろしいですか?ちょっと移動しませんか。
はい。
どうぞどうぞお上がり下さい。
お待たせしました。
これお持ち頂いたものはどういったものでしょうか?江戸時代庶民が好むような出版物がいろんな種類出るんですね。
これ復刻本なんですね。
これは表紙が赤いものですから一般的に「赤本」というんです。
これは子ども向けのものです。
ですから字はほとんどなくて絵本ですね子どもの絵本。
大体「カチカチ山」とか「花咲か爺さん」とか「さるかに合戦」とかそういう内容です。
これが「黄表紙」といいます。
大人の漫画です。
絵があってその人のしゃべってる事とか…ここに。
これみんな洒落の言葉ばっかりですから。
いろんな笑いも入ってるわけなんですね。
笑いはもうたくさん入ってますこれは。
どんなお話なんですか?「金々先生栄花夢」っていう面白い名前ですけど田舎で育って退屈で貧乏でやだやだっていう金村屋金兵衛という人がいたんですね。
この物語は以下ですねここに夢の中があります。
夢が吹き出しになってる!そうです。
すごいんです。
豆まきをやったりあらゆる栄耀栄華やるんです。
でも寝てるところに夢を吹き出しでっていうのは今でも使う手法なわけでしょ。
それを当時やってたってこの発想というのはすごい事ですよね。
この種類がねいろんな種類出るんですね。
当たったやつはこれが一万数千部売れたというんです。
今だってなかなか…。
なかなかないですよ。
ミリオンセラーです。
こういったものっていうのはやっぱり本屋さんで皆さん買うものなんですか?ほとんど多くは実は貸本屋さんなんですよ。
風呂敷に箱に入れた新刊本を持ってお得意先回って「いかがですか?これは」とかってこうやって。
そうすると「これ読みたい」と言うので。
もしも少なく見積もっても1軒につき10人ぐらいお得意さんがいたとしたら読者層って1万人単位でいたという事になりますか?そうですね。
庶民っていうかあるいは長屋のはっつぁんくまさんとかそういう層にまで実は字が読めていたんだと。
それは何か要因があるんですか?寺子屋が各ご町内にあると。
これは幕府が決めた学校ではなくて町内の人たちがああいうお師匠さんに是非教わろうという形で町立というと変ですけど。
私塾ですか?じゃあ。
そう私塾です。
当時は勉強しに行くって事がステータスであり楽しい事やったんですかね。
その背景があるからこういうベストセラーとかあふれる出版物というのはその時流に乗ったのがまさに蔦屋重三郎。
なるほどなるほど。
ではまず蔦屋の最初のヒットから見ていきたいと思います。
武士も町人も集う日本最大の歓楽街です。
父親は吉原で働いていたといいます。
蔦屋は…更に貸本業も手がけました。
本が詰まった箱を背負って蔦屋が回ったのは吉原の茶屋や遊女たち。
歌を詠んだり文を書いたりと教養の高い遊女も多く商売はすぐに軌道に乗ります。
てきぱきと働く蔦屋は吉原の人気者だったといいます。
やがて蔦屋は自ら本を出版しようと考えます。
手がけたのは「吉原細見」。
「細見」とは案内書の事。
吉原の町のガイドブックです。
当時の吉原は面積およそ2万坪。
高級店から庶民向けの店まで200軒以上が建ち並び2,000人以上の遊女がいました。
このためガイドブックは必需品でした。
それまでも店や遊女の最新情報を掲載した細見はいくつかの版元から出版され人気を博していました。
蔦屋は今更他の版元と同じ物では売れるまいと考えます。
そこでこれまでにはない細見作りを目指しました。
横長だった本の形を縦長に変えました。
その理由は?通りに沿って店が記され所属する遊女の名が書かれています。
通りを真ん中に配置しその両側に店を書き込んでいます。
位置関係をより分かりやすくする工夫でした。
遊女の名前の上についた印は料金のランクを示しています。
これを見れば自分の懐具合に応じて店を選ぶ事ができるのです。
レイアウトを変えた事で情報を削らなくてもページ数を減らす事ができました。
見やすくて安い。
蔦屋のガイドブックは大評判となります。
蔦屋の名が知られるようになると吉原を訪れた文人や絵師たちが店に立ち寄るようになりました。
蔦屋は彼らと交流を深めていきます。
その中には当時の有名人平賀源内もいました。
蔦屋は早速源内に細見の序文の執筆を依頼OKをもらいます。
工夫その3有名人の文章を載せて本に箔を付ける。
その後も多くの著名人に執筆を依頼した蔦屋。
最新情報を満載した細見を定期的に刊行し版元として足場を固めていくのです。
遊女が2,000人以上いる町ですからねガイド本が必要だというのも分かるような気がしますが。
それから有名人平賀源内に序文を頼んだっていうのは結構現代にも通じますよね。
今でいうたら本の帯の部分に紹介文みたいな。
そうですねまさに。
それ誰に書いてもらうかによって箔が付く。
そうですね。
一流人にとにかく書いてもらうというのが蔦屋の考えなんですね。
竹内先生ヒットの理由というのは最大の理由というのはどんなところにあると思いますか。
それまでも別の出版社はいくらでも細見は出してた。
自分はこれならちょっと不便だというところを自分で直していくっていう形で見やすくなって分かりやすくなった。
それから本の値段も安くなった。
最終的に最大のあれは私は地元というかまさに吉原生まれの吉原育ちが出版してるんですから情報の確かさ。
これは他の出版社よりは優秀だったという事になる。
情報の豊富さ確かさそして何よりもお客さん目線でのヒットの飛ばし方という事になるわけですよね。
落合さんいかがでしょう。
それは一番大切だと思いますね。
お客様の得にならないと僕たちやっていけないですからね。
お客様は「何かすごい得した。
また来よう」って気持ちにならないと次がないですから。
次?次を考えていらっしゃる。
そうです。
今回だけのお客様じゃないですから。
新しい店もどんどんどんどん出てきますしどうしても新しいお店に皆さんお客さん目が行きます。
その中でも僕の店を選んで頂くにはお客さんに何か得ですよねプラスですよねというこういう何かそういうのがないとお客さんはまた…また選んで頂けないんですよ。
一発ヒットを出すだけだと駄目だと。
継続っていうのが大事だと。
一発ヒットも大事ですけどヒットしたヒット作をず〜っと必ず同じに作り続ける。
これが難しい。
昨日よりも今日はうまく作るぞというそういう気持ちがないと「前の方がおいしかったよね」って絶対言われちゃうんですよ。
えっレシピ同じやのに?全く同じだと。
やはり同じだとお客さんは味に慣れますから。
そうするとこの前おいしかったというよりもおいしいって思わせないと駄目なんですよ。
え〜でもお客さんはあの味を求めてきてるような感じも…。
その味をだからすこ〜しずつ…分かるか分からんかぐらいにちょっとずつ。
変えようという意味じゃなくて気持ちの上でも。
ヒットの中で進歩がなくちゃいけないという事なんですね。
それがヒットがずっと続いてくれる秘訣です。
ロングヒットね。
「吉原細見」でヒットを飛ばした蔦屋重三郎なんですがこのあと更なるヒットを生み出していくんですよね。
さあそれはどういうものなのかご覧頂きたいと思います。
版元を始めて9年。
蔦屋は34歳の時日本橋通油町に耕書堂という店を開きます。
当時の日本橋は経済と文化の中心地。
一流の版元が軒を連ねる場所でした。
蔦屋もついにその仲間入りを果たしたのです。
蔦屋を躍進させた原動力があります。
そのころ流行していた狂歌です。
狂歌とは洒落や滑稽社会風刺を盛り込んだ五七五七七形式の歌です。
例えば…。
愛好者たちは「連」と呼ばれるグループを作り盛んに歌会を開いていました。
そこは武士も町人も身分を超えて集う場所名の知れた人気狂歌師も誕生しました。
この狂歌ブームに目をつけたのが蔦屋です。
何か新しい事ができないかと考えます。
そこで蔦屋のとった行動は…。
蔦屋はまず狂歌界の大スター四方赤良と親しくなります。
赤良の日記には「蔦屋に誘われ仲間たちと吉原で遊んだ」と書かれています。
いわば吉原の接待。
こうした努力が実って蔦屋は彼らの歌会に誘われるようになります。
狂歌師として「蔦唐丸」というペンネームまで持った蔦屋。
やがて自ら歌会を主催するようになりました。
蔦屋の歌会には人気の狂歌師たちが集いました。
こうして自ら狂歌を楽しむうち蔦屋はあることに気づきます。
当時狂歌はその場限りの読み捨てが当たり前。
どんな優れた歌も記録される事はまれでした。
蔦屋は集まったメンバーに一つの提案をします。
「詠んだ歌を本にして出版しましょう!」。
その話には狂歌師たちも大賛成。
出版するとなればがぜんやる気も出ます。
こうして人気の狂歌師たちによるえりすぐりの歌が本にまとめられます。
それは「狂歌集」と呼ばれ爆発的な売れ行きとなりました。
その後他の版元が手を出そうとしても主だった狂歌師たちは既に蔦屋に抑えられておりヒットは蔦屋が独り占めしたのです。
更に蔦屋のアイデアはとどまるところを知りません。
狂歌集は文字だけで構成されている。
それをもっと華やかにもっと楽しいものにできないか。
そこで思いついたのは狂歌にやはり当時大流行だった浮世絵を添える事。
狂歌と浮世絵人気者同士の組み合わせでした。
こうして出来たのが「狂歌絵本」です。
更にここには蔦屋ならではのユーモアも。
実はこれ「百人一首」をパロディー化したデザイン。
気取ったポーズをとって描かれている人物はその狂歌を詠んだ本人というわけ。
美しいながらも洒落を利かせた蔦屋の狂歌絵本は何度も版を重ねるほど評判となります。
読み捨てだった狂歌を集めた狂歌集。
狂歌と浮世絵を組み合わせた狂歌絵本。
どちらもまさに蔦屋自らが狂歌のファンになったからこそ気付いたアイデアでした。
まずは自分がファンになるという事でしたけれども…。
自分がそれを仕事にしてるんだったらその仕事が好きじゃないと追求できないですねいろいろと。
もっと知りたいもっと知りたいとなって当たり前だと思うんです。
自分がファンになるというのがヒットを生み出す蔦屋の秘訣でしたがそれ以外にも蔦屋重三郎ヒットを生み出す秘訣というのがあったんですね。
それをこちらの巻物で用意してみました。
まずはいこちら。
蔦屋最初も狂歌界のスター四方赤良に近づいてますけど竹内先生これはどういうような意味合いがありましたか?当時の別の分野でもとにかく一流の人とつきあえ。
本物という事は量ではなくて質だと思うんですね。
どんどん出版物も質が高ければ量的にも売れるというのは筋道になっていく。
その元にはそういう一流っていう事とつながる。
さあ極意その二でございます。
狂歌本と浮世絵の組み合わせというようなお話がありましたね。
という事あるんでしょうかね?ありますよね。
異業種コラボレーションがあります。
例えば和食の方と僕とメニューを一緒にする。
中華料理の方と一緒にする。
それでまたそれを毎年やって下さいというような恒例のパーティーになる事もありますし。
組み合わせるってなるほどなとそういう事なんだなというのは思ってましたしね。
その組み合わせによってまた新しいものが生み出されるという事もあるわけですね。
そして三つ目の極意でございます。
彼はやっぱり非常に名プロデューサーと言われるだけにやっぱり基礎っていうか地固めというかそういうのいつも意識してたと思うんですよね。
まずですね「吉原細見」というのは年に2回定期的に刊行されるという今日でいうとJRの「時刻表」というか必ず売れるというか隠れたベストセラーですから。
もう一つは「富本節」というのが当時ものすごくはやりましてね歌舞伎で。
歌舞伎舞踊では伴奏音楽に必ず「富本節」。
そうすると稽古本というのがありまして。
これも随分売れて。
ハウツーものというか実用書というかそういうものもよく彼は出版してましたね。
これがしっかりした財政基盤そこに更なるいろんな事をやっていこうという。
爆発的ヒットではないにしても確実に収入が得られるというものだったわけですからね。
やっぱり一番堅実さは求めていたと思いますね。
プロデューサーという場合によく跳躍といいますか冒険とか派手な事を考えますよ。
彼もそれはやるんですけどでも基に堅実さがあったという事ですよね。
そこが抜きになると彼のやった割合人から見ると随分新しい事やってるなというのが出てこなかったんじゃないかなと思いますね。
単なる一発屋では終わらないというところの知恵が分かったような気がしますね。
蔦屋の知恵なんですけれどまだまだ尽きないんですよね。
蔦屋が生涯かけてこだわった事がありました。
それを物語る一文が残されています。
若い才能を育てる。
それが蔦屋のこだわりでした。
美人画で名をはせた浮世絵師喜多川歌麿もその一人です。
歌麿は20代でデビュー。
美人画や役者絵を描いていました。
しかしちょうどそのころ同じ分野で鳥居清長が人気を博しておりその陰でなかなか大きなチャンスに恵まれませんでした。
蔦屋はそんな歌麿の才能を見抜き何かと面倒を見るようになります。
例えば歌会に連れていき…人脈づくりに手を貸しました。
また吉原のなじみの店で遊女を描く機会を与え浮世絵の技術を磨かせました。
一時は…蔦屋は時間をかけて歌麿の才能を育てていきました。
やがて蔦屋は狂歌絵本の挿絵を歌麿に任せるようになります。
虫や植物を繊細に描き出す筆遣い。
その技量は人々をうならせ歌麿はその名を一気に挙げたのでした。
天明7年時代の空気が一変します。
老中松平定信による寛政の改革が始まったのです。
出版界も幕府から厳しい取締りを受けます。
罪をとがめられた多くの作家が執筆を断念するようになりました。
寛政3年ついに蔦屋が出版した本が発禁処分を受けます。
しかも財産の半分を没収されるという重い処罰を言い渡されたのです。
そんな状況にあっても蔦屋は才能ある作家の発掘をやめませんでした。
寛政6年蔦屋は新しい浮世絵師をデビューさせます。
あの東洲斎写楽です。
当代人気の役者たちの顔をアップで捉えた構図。
役者の内面までも浮き彫りにするかのようなリアルな描写が江戸の人々を驚かせました。
他にも蔦屋はその生涯を通じて多くの作家たちへの援助を続けています。
作家の滝沢馬琴。
若い頃蔦屋の店で手代をしながら作品を書いていました。
後に「南総里見八犬伝」を執筆し江戸文学のスターとなります。
同じく作家の十返舎一九も大坂から江戸に来た当初蔦屋の家に居候していました。
一九は大ベストセラー「東海道中膝栗毛」の作者です。
どんな窮地にあっても若い才能を育て続けた蔦屋。
そのこだわりこそが数々のヒットを生み出し江戸の文化に革新を起こしたのでした。
蔦屋のこだわりの一つ若者を育てる事というのがありましたが。
発行も禁止されたり財産半分持っていかれたりしてる中育てる余裕ないはずなんですけどね。
ほんまにそういうものが好きやったんかなって好きじゃなかったらなかなか続けへんかったんちゃうかなと…。
作家を育てたり作品を世に出したりするのをプロデュースするのがあくまで好きなのであってお金儲けを第一に考えた結果頑張った感じではないんですか?そうではないと思いますね。
遠く江戸文化江戸文学界はどうなるかっていう。
馬琴でしょそれから一九でしょ。
まだ無名だけれども人材を発掘して登用していくというか発掘して世に送り出そう。
もうどん底みたいなとこに陥れられながらも屈しない精神というんですか?これがすごいと僕は思うんです。
落合さんにもどん底というかそういう経験はあったり…。
ありますよ。
お店を開けさせて頂いた頃全然お客さんが来なくて。
さすが4か月くらいお客さん来ないとへこみますよね。
へこみますけどこのまま逃げ出すわけにもいかないしと思ってる時にいろいろ人のご援助があったりお客様に助けて頂いたりして今があったんですけど。
でも前向きに考えていたからそういういい結果が出たんじゃないかなと自分は思うんですよね。
そういうどん底の中でも手放さなかった思いというのは…。
「愚痴は言わない」ってふうに自分でもこだわってますね。
愚痴は反省にするとやっぱりだいぶ違いますよ。
愚痴と反省は違う。
あれは似て非なるものです。
「あ〜もう失敗した。
この失敗はもう繰り返さないようにするぞ」というのが反省じゃないですか。
愚痴っていうのは「失敗しちゃったよな〜」と全然次はどうなんだって事を思わないじゃないですか。
愚痴は言わずに反省して前を向くこれがこだわりなわけですね。
さあ増田さん落合さん店の大ヒットメニューを考えるという大問題がまだ残されている。
実はね吉原の大ヒット作というのをちょっとヒントにご用意しました。
それがこちらなんですよ。
お豆腐でございます。
吉原の中には山屋というお豆腐屋がありまして非常に人気があったという事なんですよね。
さあ落合さんこの店のヒットメニューを考えて頂けますでしょうか?ちょっと考えてみます。
よろしくお願いいたします。
歴史の知恵満載の当店特製メニュー。
今回は蔦屋重三郎が愛した吉原ゆかりの食材を使ったヒットメニューに挑戦!
江戸時代最大の歓楽街吉原はグルメタウンでもありました。
そばにまんじゅううなぎにうどん。
その中で山屋という店が出していた豆腐は吉原名物の一つとされその人気は歌にも詠まれるほどでした
豆腐は夜桜や雪見酒に欠かせぬ風流なおつまみだったようです
山屋は既にありませんが当時山屋と並ぶ人気を誇った豆腐店が今も残っています。
この店は硬い木綿豆腐が一般的だった当時江戸で初めて軟らかな絹ごし豆腐を売り出したそうです
江戸っ子は新し物好きでございますので中には吉原帰りにあちらでは朝食が出ないという事で朝から消化にいい温かい豆腐を食べていくお客様が多かったと聞いております。
現在も江戸時代と同じ製法で作られている豆腐。
山屋の豆腐もこんな感じだったのかもしれませんね
落合さんこの昔から伝わるしっかりしたお豆腐で何か新しいお料理にチャレンジしてみて下さい。
楽しい食材をありがとうございます。
お任せ下さい。
お〜落合さんお任せ下さいときましたね。
豆腐もイタリアにはないですよね。
豆腐はないですね。
ないですけどこれ豆乳ですよね。
大豆ですね。
にがりで固めて作ってる。
イタリアはチーズを牛乳をにがりのようなレンネットというので固めて作る。
まあ同じようなもんですよ。
そうだな〜。
アッラ…。
アッラチネーゼピッカンテ。
だから麻婆豆腐。
麻婆豆腐といってもそこは落合さんイタリアンに仕立てるんだとか
これ焦げるから気を付けて。
そして豆板醤を加え「あれ中華料理?」と思いきやここでトマトジュースの登場。
あっやっぱりイタリアンだ
これもなめれば十分味分かる。
トマトジュースがきちんと出てきますね。
イタリアンですねこれ。
イタリアンです。
よかったですそう言ってもらえて。
炒めたひき肉ゆでた豆腐を加え更に煮詰めていきます。
見た目はまさに麻婆豆腐。
しかし加えるのはバジリコパルメザンチーズ。
味を調えれば出来上がり
麻婆豆腐ですねこれは。
更に今回は付け合わせにチーズリゾットも作ります。
それにしてもこの料理問題は名前
私それお店では言えないので命名するとすると…。
「イタリアンマーボー」。
しかも「蔦屋流イタリアンマーボー」。
どうでしょうか?もう伝わりましたね。
「蔦屋流イタリアンマーボー」の完成です。
召し上がって下さい。
「蔦屋流イタリアンマーボー」という事で皆さんに召し上がって頂きたいと思います。
中華じゃないんですか?これトマトジュースなんです。
バジリコも入ってます。
パルメザンチーズも入ってます。
イタリアンですね。
どうですか?あらうまいな。
イタリアンやな。
何?この見た目とのギャップ。
いいでしょなかなか。
中華じゃない。
すごいおいしい!よかった。
先生おいしいですね。
これだ!イタリアンと麻婆を合わせて。
いや〜ほんとに蔦屋の知恵がここにも生きてるわけですよね。
そう言われればね。
えっ気付いてなかったの?全然気付いてなかったです。
今回蔦屋重三郎の知恵さまざま見てまいりましたけど増田さんはどんなふうに味わって頂きました?一生懸命一つの事頑張っててそれを「あかん」言われた時に心折れるんじゃなくて同じ方向向いてるけど違う手法でそっちに行くというその知恵をね蔦屋だけにその知恵をレンタルしたいと思います。
さあそして最後になります。
落合さんヒット作の作り方落合さん流の極意教えて頂けますでしょうか。
夢だけじゃヒット出ないですよ。
思ってるだけじゃ。
そんな簡単にヒットは出ないです。
蔦屋重三郎さんもいろんな知恵からヒットが生まれていったんだろうなと思って人間性がすばらしい人だったんだろうなと思いますね。
落合さんに新メニューも考えて頂きこれだけの好評を頂いて…。
はやりますよ。
ほんとに私今日幸せだなと思ってね。
発売禁止になるんちゃう?ハハハ!ヒットし過ぎて。
これからもねヒット作を目指して日々精進していきますのでどうぞごひいきによろしくお願いいたします。
2014/05/27(火) 23:00〜23:44
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉(ちえいず) ヒット作の生み出し方「蔦屋重三郎」[解][字]
テーマは「ヒットの生み出し方」。江戸時代、敏腕出版プロデューサーとして、数々のヒットを飛ばし、歌麿や写楽などを見い出した蔦屋重三郎。人々の心をつかんだ極意とは?
詳細情報
番組内容
今回のテーマは、誰もが知りたい「ヒットの生み出し方」。江戸時代、敏腕の出版プロデューサーとして数多くのヒットを飛ばした蔦屋重三郎を取り上げる。人々が思いもつかないような本を次々と企画し、出版界に革命を起こした蔦屋。才能ある浮世絵師や作家を見い出すことにもたけていた。喜多川歌麿や東洲斎写楽、滝沢馬琴などは、蔦屋が育て世に送り出した。人々の心をつかみ、流行の最前線を走り続けた男。そのヒットの極意とは?
出演者
【出演】イタリア料理店店主…落合務,江戸東京博物館館長…竹内誠,増田英彦,【司会】井上二郎
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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