10万円で家を建てて生活する寝太郎のブログ

「資本主義との闘い方」より  


たまにツイッター等を拝見させてもらっているばたおさん(@BATAO_Hetare)の「資本主義との闘い方――自給自足と農的コミューンの建設」(『あじーる!』第3号)という小論を(掲載誌を買いには行けなかったので個人的にお願いして)読ませてもらった。

ちなみにばたおさんのことは全く知らない。生き仏かもしれないし、極悪人かもしれない。ただ、「元エホバの証人」という経歴がとても気になる。その気になり方は「脱北者」に対する興味と似ているかもしれない。つまり「元・被洗脳者(良いものであれ悪いものであれ)かつ現・自立的思考者」に対する興味である。


最初に、ダイジェスト。

第一章は「資本主義の何が悪いのか」

資本主義社会における豊かさとは、他者から奪ってくることで実現されるものだからだ。そしてそのために、矛盾をより周辺に――国内の富裕層が底辺層に、先進国が途上国に、現役世代が将来世代に――送り出し、問題を空間的にも時間的にも不可視化させるのが資本主義というシステムなのである。

第二章は「資本主義とどう闘うのか」

市場と商品への依存は、商品に頼らない生き方や楽しみ方を忘れさせ、私たちを資本主義を守らざるを得ない状況へと追い込み、結果、資本主義は再生産される。したがって、闘い方は「賃労働をやめて、自身の仕事を」に集約される。広い意味での「自給自足」であるが、著者は(たとえばガンジーのように)原理主義的にならずに、今ある便利なものは使ってゆこうというスタンスである。

第三章は「農的コミューンの建設に向けて」

未来的な理想としての「農本主義的アナキズム」が先例の紹介と共に主張され、その礎となる自給自足に向けての著者自身の実践の第一歩について触れられている。


以下、自分自身の問題に絡めつつ、いくつか思うところを述べたい。


・結局どうして闘うのか

この小論に限らずイデオロギー・ライフスタイルに関するものを読んでいていつも思うのだが、「資本主義が悪い」ことと、「資本主義と闘う」こととは、普通は繋がらない。はいそうですね、それじゃあやりましょう、ということにはならない。

著者は「(周辺に送り出された矛盾は)いつか返ってくる」、あるいは、

資本主義を崩壊させる道を選ぶ方が、結果的に得策なのである。資本主義への服従は、短期的には得となることもあるかも知れないものの、長期的には破滅をもたらすからだ

と述べているが、誰にとって「得策」で、「長期」とはどのくらいのことを言うのだろうか。百年二百年のスパンの地球の未来を考えたときに今の方法ではまずいことは目に見えているが、自分自身の生命戦略として考えるならば、「いつか」とか「長期」とかは、ほとんど無限の未来に等しいように思える。少なくとも、社会・経済の構造をひっくり返して、新しい構造の中で望む生活を送るよりは、少しくらい不満があってもブツクサ言いながら現社会に追従したほうが、あるいは現社会をうまく利用したほうが、圧倒的に「得」である。なにしろ、日本は搾取する側である。いくら日本の中で「負け」だと言っても、世界的に見れば恵まれているし、うまくいっている。どんな生き方をするにしても、周囲が恵まれているに越したことはないのだ。

もちろん、人間が思考したり行動したりする理由が生命戦略だけであるとは思わない。だとしたら、どんな原理に基づいているのだろうか。自分と似ている人間ならばだいたい察しがつくのだが、著者の場合はあまりよくわからない。「子供たちの未来のため」「地球の未来のため」「第三世界のため」とでも一言書いてあれば合点がゆくが、そういうわけでもなさそうである。

『脱資本主義宣言』の人もそうだった。

どうすれば楽に生きられるのか。そんなことばかり考え、書いてきた。・・・ある時期から、楽に生きるためにはこの「経済の仕組み」を何とかしないとダメだろうと思い始めた。(『脱資本主義宣言: グローバル経済が蝕む暮らし』p.211)

「地球志向」ではなく、あくまで個人的な問題であり、しかしそれがどこかで構造的な問題に繋がっているらしい。僕にはまだ、その接続点がよくわからない。

僕の「社会問題」に対する興味のほとんどは、「人はどうして社会問題に興味を抱くのか」という問題に対する興味である。そして、その一番知りたい部分、問題の焦点が構造的な問題へと変化するまさにその瞬間については、どの本にも書かれていないのだ。

僕個人としては、与えられたルールの中で如何にうまく立ち回ってゆくか考えるだけである。どう生きるにしても、資本主義(というかそれによって局所的にもたらされている富)は倒すのではなく、うまく利用したほうがいいと思っている。


・「へたれ」であることを忘れていないだろうか

著者は「へたれ」を自称している。僕もそうだし、雑な言い方をすれば、現代っ子は多かれ少なかれ「へたれ」である。「へたれ」は換言するなら、まさに「資本主義再生産要員」である。剣よりペンを得意とする。余計なお世話かもしれないが、肝心の農耕は大丈夫なのだろうか。個人の特性を省みず、即、農耕へ、という考え方は、理論も実践もあるが現実的な観点が抜けていたポルポト派の失敗を思い出さずにはいられない。

というのも、これはまさに、僕個人の問題でもあるからだ。僕も、自給自足が簡単にできるのなら、それに越したことはないと思っている。なぜなら、僕は自営も雇用もしたくないし、ばたおさんが述べているように(かっこよく言えば)「食の自立なしに思想の自立なし」という側面もあるし、今はネット経由の収入が少しあるが偶然的なものだと思っているし(だいたいページビューなどという厄介なものに生活を握られてはたまらないし)、それから、歳を取るにつれていろいろとごまかしが効かなくなってくるのではと思うからだ。

一番のごまかしは、健康である。今は、何を食っていようが、どんな生活をしていようが、とにかく痛いとか痒いとか苦しいとかなく毎日が過ぎてゆく。けれども、いつかの未来、たとえば十年後とか、結局、毎日を健康的に生きるためにはどうしたらいいのかという思考が九割を占めるような気がする。それで、定住して自給的に生きるという結論に至るのではないかというような気がしている。

しかし、体力も根気もあまり無いし、「気遣いの義務」に耐えられないのではないか、という大問題に行き当たり、そう考えてゆくと、狩猟採集、それも猪の解体とかじゃなくて、ものすごくヤワなどんぐり拾いとか、せいぜいタラノメやツクシくらい、釣りもできるようになりたいが・・・でも結局、主食は賄いきれないし・・・などと思考は右往左往している。

ちなみにばたおさんは、狩猟採集には量的な観点から一般性が無いとして否定している。




・スタートは現社会であるという悲しさ

思想の実現のために、著者は「貯金を叩いて」土地を購入している。おそらく著者の金銭感覚からすると信じられないくらいの大金である。その土地の値段は、この高速回転の経済下で利用することを考えて付けられている値段である。とても不利なスタートを強いられている。

だからと言って、どうしようもない。現時点の価格に従って買うしかないのだ。「このようなライフスタイルを描いているので、こういうライフスタイルに相応しい値段で買いたい」と言ってこの小論を手渡してもたぶん門前払いである。この不利なスタートに覚えがある者から言わせてもらえば、お金を払ったことは忘れて、神様から授かったと思って、全体性を考えるときは土地取得以降を考えたほうが精神衛生上も良い。

土地が安く手に入るのなら(つまりゼロスタートできるのなら)、自給自足に足るくらいの畑の隅にポンと何か建ててゴソゴソやりたいという気持ちは僕にもある。しかし農地は取得できないし、農地に居住用の小屋は建てられないし、農地でない土地は不確定要素が多かったり値が張ったりで・・・云々。

いずれにしても、「不服従」と一口に言っても、実際やるとなると、理不尽なこと、うまくいかないこと、面倒くさいこと、効率悪いことが重なって、ダークサイドに陥ることがある。ぼちぼちやっていこう。




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