- >>39204
破折・・・
- >>39203
>>名無しのボーイさんへ、
>>分かり易い点では、スイスの設計図ですね。これがヒントですが。
>>大聖人はどういわれていますか?
彼是 尽くし 敵に対抗しても ダメだった場合、最終的には自殺をする
黙って受動態になり敵に殺される 或いは『レ●●の苦しみを受ける』
いわば『受け身』『虚無的』な結論で、最終的には地獄に陥るわけですが
日蓮大聖人は そこまでは述べておりません
(但し、報恩抄の最後は、南無妙法蓮華経が効かなかったら
全てダメだろう・・・と言う意味合いで それに近い内容を述べている。)
但し、それ以外は『破釈』と言う意味では ある程度は実用的じゃないでしょうか?
スイスの場合 防衛ばかり いや 自己保身に走る余り
曲がりなりにも『三類の強敵』に対する対処法を皮肉にも述べている訳ですから
迷い薫じて法性となる 当体儀抄に書かれていた絵を 見事に描いておりますね。
- 名無しのボーイさんへ、
今度は、言われていることの意味が分かります。よかった♥
貴方の疑問は妥当なものですが、その答えもすでに私の文章にありますが、お気づきになりませんか。
私からの進言としては、あれこれと不安で想像するよりも、まず書かれた観心本尊抄をきちんと読むことではないでしょうか。相手が書いた手紙の内容を理解せずに想像で批判するクチですか?それほど愚はありません。貴方のは自分の想像と不安から一歩も出ていません。
ご質問に対して批判を書いてしまうのも不親切ですが、私は貴方質問が嫌いではありません。
分かり易い点では、スイスの設計図ですね。これがヒントですが。大聖人はどういわれていますか?
また。
私は特殊な解釈を施してるのではなく、そのまま読んでいます。そうではなく世の真理は飛躍した論理のほうが正しい(著述者の意を汲んでるということ)場合もありますね。たとえどのような飛躍した論理でも結構ですよ、私(学会)以外に、全文を整合性のある読み方ができるのでしたら提示してください。他宗のいわゆる解釈は全てちぐはぐなのですよ。
- >>私たち衆生の己心にある仏を観る(湧現する)、つまり本抄の観心とは私達の観心です。
>>日寛上人は、この観心とは地涌の菩薩ではなく
>>我等の観心なんだと、もう、くどいほど文段で述べられています。
>>それは、ここまでの本文の文脈からも理解できますね。
>>本章の冒頭から、衆生の己心に仏があるというテーマで、ずっと言って来てるでしょう。
その通りです 従って 日顕も否、日蓮正宗の歴代の法主であれ
五老僧であれ 人間である以上 観心があるわけで仏でもあるわけです。
沖浦さんも観心があるわけで仏でもあるわけです。
飛躍的な言い方をすれば アルカイダだって 大久保清だって 山崎正友だって
人間である以上 観心があるわけで仏でもあるわけです。
問題は 日蓮と合意している部分を判定する人が不在になっている点ですね
それ等を第三者に証明しきれる人が まったくいない点で それ故に
不毛な論議や争いが25年近くも続いて 一向に解決が出来ていない点です。
しかも その証明だって、相手の揚げ足を揚げつらい
手段化が先走って 実用性が一つも見受けられない論議で
第三者には伝えきれていない 勧心の本尊抄にもなっているし・・・
伝えたとしても、間違った解釈や誤解を招く要素の混じった伝わり方をしているし・・・
ところで、あなたの述べている論は日蓮と合意していると思っていますか?
- >>39196
>>私たち衆生の己心にある仏を観る(湧現する)、つまり本抄の観心とは私達の観心です。
>>日寛上人は、この観心とは地涌の菩薩ではなく、我等の観心なんだと、もう、くどいほど文段で述べられています。それは、ここまでの本文の文脈からも理解できますね。
>>本章の冒頭から、衆生の己心に仏があるというテーマで、ずっと言って来てるでしょう。
>>
>>我々の己心に釈尊の因行果徳が具わっていて、己心に尊い本仏があるんだよって。
>>その観心の本尊を見るのに明鏡が必要だっていうのが、ここまでの本抄の趣旨です。
・・ですから それを拡大解釈した結果が
沖浦さんの人本仏迹だと言う事にも繋がるわけですよね
従って この場合 仏の価値を天秤に計って精査をするためにも
あなたが述べた 対鏡や明鏡が必要となってくるわけですが
その対鏡の精度だって正確じゃなかったら意味がないでしょ?
だから法主本尊論が出てきてしまうわけだし
それは見る角度を変えれば正解なわけです。
プロが書写した内容に基づいた御本尊ですからね
但し 師と言う概念を考えれば
法主=師=子供に教育を与えるもの。 ・・でもあるので
師の責任と言うのは非常に重く それは日蓮正宗に限らず
創価学会にも当てはまるし、一国にも当てはまる訳だし
母親にも当てはまるわけですから
その点を あなた自身が何処まで理解した上で述べているのか
法論に挑んでいるのか? その辺は非常に懐疑的です。