学童疎開70年:感謝伝えに…姫路の女性、同級生と鳥取へ

毎日新聞 2014年05月29日 22時37分(最終更新 05月29日 23時27分)

当時の写真を見つめる柴田睦子さん=兵庫県姫路市の自宅で、小野まなみ撮影
当時の写真を見つめる柴田睦子さん=兵庫県姫路市の自宅で、小野まなみ撮影

 第二次大戦中の神戸大空襲のため、11歳で神戸市から鳥取県日南町に疎開した柴田睦子さん(80)=兵庫県姫路市=が30日、同級生2人と疎開先の自照寺(じしょうじ)(同町福塚)を再訪する。地元に住む伊田美和子さん(85)が昨秋、私費で寺に「疎開学童記念碑」を建てたのがきっかけだった。1944年の学童疎開の開始から今年で70年。柴田さんらは伊田さんに直接感謝を伝え、ともに戦争の記憶が次の世代に継承されるよう祈る。

 神戸市の御影(みかげ)第二国民学校6年生だった柴田さんは、毎日のように警報音を聞き、遠くで焼夷(しょうい)弾が落ちるのを見た。45年6月5日にあった2回目の神戸大空襲では、防空壕(ごう)へ逃げ込んで無事だったが、自宅や学校が焼失。神戸の市街地は壊滅状態になり、同級生31人で鳥取県福栄(ふくさかえ)村(現日南町)に約3カ月間疎開した。

 村は温かく子どもたちを迎えた。住職の奥さんは自分の幼い長女をおんぶしながら、面倒を見てくれた。風呂を使わせてくれた村人は「おなかすいてるやろ」とサツマイモなどを食べさせてくれた。

 現在、寺の近くに住む伊田さんは学童疎開の話を聞き、記念碑建立を思い立った。伊田さんは当時、村外に住んでいたが、家族と離れてつらい思いをした子どもたちのことを記憶にとどめたいと考えていた。「悲惨な戦争が二度とあってはならない」との思いで昨年11月23日、町を見渡す境内に完成した碑に「不戦平和の誓い」と刻んだ。

 終戦後、嫁いで姫路市に移り住んだ柴田さんは、当時を思い出すこともなくなっていたが、今年に入り友達からの手紙で碑の存在を知った。「70年近くたっても自分たちのことを思ってくれる人がいる」と感激で涙がこぼれ、「とにかく感謝の気持ちを伝えたい」と訪問を決めた。家が焼けたため疎開後も神戸に戻れず、御影の学校を卒業できなかっただけに、再訪は70年越しの卒業式のようにも思える。

 柴田さんは「学童疎開のことを話しても、今の時代に聞く人は少ない気がするけれど、この機会を逃せば風化する一方でしょう。伊田さんや仲間と思い出を語り合いたい」と話す。【小野まなみ】

 【ことば】学童疎開

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