明石康のユーゴスラヴィア紛争調停
1992年国連事務総長特別代表に就任、カンボジア和平に力を発揮した。そののち、1994年にユーゴスラヴィア紛争収拾のため事務総長特別代表に就任。カンボジアが比較的うまく行ったから、ユーゴの火中の栗を拾いに行かされた。日本国内では、国連で活動する日本人は少ないから、明石様びいきだが、セルビア人がサラエボ包囲して市民虐殺など解決が長引いたから、一部の西側外交官には明石代表の評判はあまりいいとは言えない。
ボスニアにおいて攻勢を強めるセルビア人勢力への対応について指導力・決断力を発揮し得ず結果的にスレブレニツァの虐殺事件発生を招いたとして批判を受けた。(ウィキペディア参照)
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「爆問学問」で爆笑問題が明石康を訪問しているが、「うまく行く場合と、うまく行かない場合がある」と答え、うまくいった場合を、と言って語り始めた。
明石 康(あかし やすし、1931年1月19日 - ):秋田県北秋田郡扇田町(現・大館市比内町)出身。小学生の時、秋田市に移住県立秋田高等学校(当時の秋田中)から山形高等学校 (旧制)を経て、東京大学(教養学部アメリカ学科)に進学。卒業後、フルブライト留学生として、バージニア大学大学院を修了、コロンビア大学で学ぶ(25歳の時、重光葵による日本の国連加盟受諾演説を傍聴席で直接観た)。1957年博士課程在学中、国連職員に採用され、1992年に国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)事務総長特別代表に就任、カンボジア和平につとめた。
ユーゴスラビア紛争は、ユーゴスラビア連邦解体の過程で起こった20年近く前の話だから、歴史に関心のない人には、サッパリだから、それを簡単に…
ユーゴスラビア(多民族国家)は第二次世界大戦まではドイツ、イタリアに支配されていたが、戦後にパルチザン(ゲリラ)勢力を率いた指導者ヨシップ・ブロズ・チトーによって独立を達成する。ユーゴスラビアは「七つの国境に囲まれた、六つ共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字を一つの国家にした」そのような多様性を内包していた。(ウィキペディア参照)
七つの国境(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニア)
六つ共和国(スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア)
五つの民族(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人)
四つの言語(スロベニア語、セルビア語、クロアチア語、マケドニア語)
三つの宗教(正教、カトリック、イスラム教)
二つの文字(ラテン文字、キリル文字)。(ウィキペディア参照)
単一民族という日本では考えられない複雑さである。朝鮮(韓国)人、フィリピン人、中国人、ロシア人、日本人が同数で台湾あたりに国を作ったら、もめるだろうな。それでも。最初、チトー大統領が生きている1980年までは、ユーゴスラビアまとまっていた。それでも、まとめているのは、サーカスの綱渡りだと聞いたことがある。
ボスニアの都サラエボは、60パーセントは違う民族間の結婚だ、と明石康さんは説明していた。第三者的に見れば、似たもの同士だが、ヨーロッパ人から見た日本人と韓国人、中国人が似ているようなもので、民族意識を煽ると、途端にこれが一緒にされた民族は小さな差が許せなくなる。民族雑居から民族純化を煽って団結を叫ぶと、大抵は戦争になる。
この地形的には、ここはヨーロッパの民族が移動して集まってきた駅前広場みたいな場所がユーゴスラビアだった。これがチトーの死後、ユーゴを構成する各(民族)国ではチトー時代の体制からの脱却を開始する。また、各国ではミロシェヴィッチ(セルビア)やトゥジマン(クロアチア)に代表されるような民族主義者が政権を握り始めていた。1991年から、次々戦闘が勃発した。
ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立したが、その国内のセルビア人勢力がボスニアからの独立を目指して戦争を繰り返した(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)。セルビア国内でもコソボ自治州が独立を目指したが、セルビアの軍事侵攻によって戦争となった(コソボ紛争)。
ユーゴーの中心セルビアでミロシェヴィッチが大統領になると、離反していく他民族国(コソボ)を併合しようとしたり、ボスニアをセルビア人が主導権を持つ国にしようとして、首都サラエボを包囲が1992年4月5日から1996年2月29日まで続いた。
明石さんは、国連はNATO軍を背景にして、この調停にかかわっていた。ボスニア紛争の中心人物、セルビア系民族主義者のボスと渡り合っていた。その後で糸をひくミロシェヴィッチ大統領とも、話し合った。戦争当事者と話し合うが、人数が多いと、まとまるものもまとまらない。
NATOの軍事力を背景にして進めるのだが、多国籍軍が多いとセルビア軍を押さえられるが、国連も足並みが揃うわけでもないし、自国の軍事負担を日本のように避ける国もあるから、首都防衛がオランダ軍200人のところへセルビア軍数千名で攻撃掛けてきた。それを接近戦になって、NATO空軍機の援護射撃で持っていたが、接近しすぎて危険だから、空爆を止めてほしいと司令官から電話で要請があったので、空爆をやめた途端、首都をセルビア軍に占拠され、ソレ以降、サラエボ市民は危険に曝された。その結果、首都人口が60%に減った。高いところからセルビア兵スナイパーが狙い打ちした。
1994年にはアメリカ合衆国の主導でボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間で停戦が成立した。これによって両勢力はセルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、またNATOによる空爆などの軍事介入も行われた。1995年に国際連合の調停で和平協定デイトン合意に調印し、紛争は終結した。
ユーゴスラビアがバラバラになって、その中央にある国であるボスニア・ヘルツェゴビナが最後までゴタゴタしていたが、なんとか停戦した。「バルカン半島は火薬庫」といわれ続けて、それにセルビアのミロシェヴィッチ大統領が火をつけた。そんな印象だね。
もう一つ、セルビア人がモスリム(イスラム教系)を憎む理由は、オスマントルコ王国に攻め込まれ、セルビアの国を滅ぼされた過去の歴史があるからだ。14世紀、トルコが攻めてきて、王様さえ戦死したという600年前の敵討ちという意識がイスラム教系の人間に投影されるようだ。この古い古い歴史、元寇の敵を討ちに中国人を憎むようなものだ。それほど、よその国では古い歴史を忘れていない。日本はアメリカとの戦いすら忘れていると、明石さんは二つの国は足して2で割ると丁度いいのに、と冗談交じりに言う。
ミロシェビッチ大統領
1991年スロベニア・クロアチア・マケドニア共和国独立に、1992年ボスニア・ヘルツェゴビナ独立運動に軍事介入した。また1998年以降激化したコソボ紛争を治安部隊により弾圧したが、1999年のNATOによるユーゴ空爆後、コソボの国連管理を容認する。
2000年秋、ユーゴスラビア連邦大統領選挙の際、いわゆる「ブルドーザー革命」により退陣。コソボ紛争でのアルバニア人住民に対するジェノサイドの責任者として人道に対する罪で起訴され、経済援助を条件にするNATOの圧力の下、2001年4月に職権濫用と不正蓄財の容疑で逮捕・収監された。国連旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(オランダ・ハーグ)に身柄を移送され、人道に対する罪などで裁判が行われた。
高血圧など体調の不具合という理由、また容疑事実の立証がなされなかったため、裁判は非常に長引いた。2006年3月11日朝、収監中の独房で死亡。死因は心臓発作。
彼のやったことは、民族主義を煽って、チトーがまとめたユーゴ・スラビアをバラバラにして、犠牲者を多くつくったことだ。日本で言えば、東條英機に似た人だ。戦争でしか、国の緊張と自分の人気が保てない。
明石さんが、ミロシェビッチ大統領との会談にヘリコプターで彼の別荘へ行ったときの話をしていた。小型ヘリで別荘のヘリポートに着くと、護衛もつけないでミロシェビッチ大統領一人で出迎えてくれた。孤独な大統領だな、という印象があった。
「信頼する部下と交渉してくれ」と紹介されて会談をしたが、「箸にも棒にもかからない人物」だった。有能な部下が彼にはいない。つまり、人間を見る目がないので、彼の周辺にはイエスマンばかりしかいない。彼の将来が予想された、と明石さんは爆笑問題の二人に語っていた。
国際関係では明石さん、ずいぶん活躍した。ところが、1999年4月には自民党・公明党担がれて「東京都知事選」に立候補したが、石原慎太郎が当選。自民党・公明党から支持されているのに、鳩山邦夫、桝添要一にも大差であえなく落選した。
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