宗教者は和解を説け 原発事故被害者同士に溝
2014年5月16日付 中外日報(社説)
膨大な量の汚染水処理をめぐる体たらく、見通しのない核燃料処理、そして廃炉。福島第1原発の事故はこの国全体に暗雲を広げ続けているが、中でも罪深いのが被災した地元の人々、全てが被害者たる国民の分断だ。
東京で開かれた東日本大震災関連のシンポジウムで、福島のキリスト者らのNPOが、風評被害に苦しむ農家らの支援のため地元産の野菜などを教会のネットワークを通じて首都圏で販売する取り組みを報告した。
ところが京都での別の脱原発研修会では、そのような動きに「危険の疑いがあるものを、特に子供に食べさせるのは大問題」と強く反発する意見が仏教者から出た。
NPOはもちろん厳しい放射能基準を決めて計測しているし、「残留農薬の方がよほど危険」と訴えるが、批判者は「基準内だから安全という保証はない」と不信感を拭えない。
同じような対立は事故直後から指摘された。政府や東京電力のいいかげんな情報に翻弄された結果の、少しでも被曝を回避するために自主避難した人々と、「故郷を守る」と留まった人々との溝だ。それが互いに「危険を覆い隠すに等しい」「風評を煽る裏切り者」と非難の応酬になり、一度避難した人は批判が怖くて二度と帰れないという悲しい状況も生まれた。
避難先でも同様だ。福島県二本松市の仮設住宅に暮らす警戒区域の浪江町民が、スーパーで総菜ばかりを買う、と近所の主婦から後ろ指をさされる。避難者は働きたくても職もなく、パート仕事に追われるにもかかわらずだ。その後ろ指をさす側の市民も進まない地域の除染に不安感を募らせる。
いわき市では、市の予算が市外からの避難者に使われることに批判が出、長期の仮設生活で心身とも疲れ果てた住民に「補償金暮らしで毎日、酒とパチンコばかり」と白い眼が向けられる。一方、いわきナンバーの車が他地方でなお敬遠される。
問題の責任の所在、責められるべき者は明らかなのに、被害者同士が対立するのは悲惨だ。弱い立場の者同士が連帯して抗議の声を上げるという力がそがれているのは、国や東電にとって都合のいい状況だ。
そこに宗教者の役割がある。NPO代表は「教会関係者でも測定値を信用せず、福島というだけで敬遠する人もいる。だが、互いの立場の考えを尊重しながら活動する」と言う。悪への怒りと同時に、和解の心を説き、常に「小さくされた者」の側に立つのが宗教者だ。