横浜大空襲:毎年5月29日 命奪われた母を思い出す
毎日新聞 2014年05月28日 20時09分(最終更新 05月28日 20時19分)
横浜市南区の雑貨店主、田村史郎さん(90)は、毎年5月29日が近づくと横浜大空襲で命を奪われた母を静かに思い出す。出征する自分を無言で見送った母が切り盛りした洋服店の屋号を形見と思って引き継ぎ、今も店頭に立つ。大空襲からきょう29日で69年。戦争体験者が少なくなる中、強い非戦の誓いは今も薄れない。
「生きて帰ってくるなよ」。1945年3月、出征の日。家族が口々にそう声をかける中、母のツルさんだけは無言のまま心配そうな表情を浮かべていた。それが最後の別れになった。
生家は1865年に新潟県で創業した洋服店。第二次世界大戦前に転居した横浜でも洋服店「よろずや」を開業した。一家総出で働き、そのかいあって店は繁盛したが、戦渦が広がるにつれ営業を続けられる状況ではなくなっていった。1943年に店を閉め、田村さんは両親、祖母、5人の兄弟と近くへ引っ越した。
そんな時、田村さんに召集令状が届いた。「怖い。行きたくない」。そう思ったが、口には出せなかった。出征後は千葉県の陸軍部隊に配属され、戦車に見立てた馬に爆弾を持って突っ込む「特攻」の訓練に明け暮れた。「お前らより馬の方が大事なんだ」。理不尽な理由でよく殴られた。配給物資の乏しさから戦況は厳しいと感じていたが、末端の兵隊に詳しい情報が知らされることはなかった。
出征から約2カ月たった5月29日の朝。おびただしい焼夷(しょうい)弾が横浜を襲った。自宅は焼け落ち、消火活動に当たっていたツルさんも巻き込まれ、命を落とした。44歳だった。
横浜が空襲に遭ったという情報は千葉の部隊にも伝わり、胸騒ぎがした。1カ月後、疎開中の弟からツルさんの死を伝える手紙が届いた。検閲した上官から「田村、泣くなよ」と渡されたが、人目をはばからず泣いた。
終戦でようやく戻ってきた横浜は焦土と化し、どこから手をつけていいのか分からなかった。店は父が再開させたものの、借金がかさみ経営が傾いた。「先祖代々続く店をつぶしたら母さんが悲しむだろうな」。田村さんは店を受け継ぐ決意を固め、50年に横浜橋商店街に移転し、雑貨店として再建を図った。「よろずや」の看板はそのまま残した。