「どこまで演出か難しい」 梅村太郎監督一問一答
ドキュメンタリー映画「ガレキとラジオ」 梅村太郎監督との一問一答は次の通り。
--映画づくりのきっかけは?
僕は神戸が出身で、阪神大震災で実家が全壊しました。その後にオウムみたいな事件が起きて、神戸があっという間に風化したという思いがありました。
「3・11」が起きた時に、(勤務する)博報堂社内で震災復興支援プロジェクトが立ち上がって、東北に行って考えようと思ったんです。南三陸に入って、映画を作ろうとその日に思いました。
映画は比較的長寿命。10年先も記録としての価値があるだろうと思いました。
--常に現場にいた撮影監督とは緊密にやりとりをしていた?
そうですね、毎日話をしていました。
--出演した被災者の女性と監督も話をしたと思います。
女性はリスナーさん候補で、いろんな方に聞いているなかで出会いました。いろんな苦しい方がいらっしゃるけど、ちょっと話すだけでワンワン泣いちゃうというあの人の苦しみも、ちゃんと切り取らないとなと。
--女性がラジオを聴いている形になっている。
そんなには聴いてないですよ。
--そんなにと言うどころか、(女性が住む)あそこは「FMみなさん」の電波が入らない。
なので、CDで聴いてもらったり、そういう演出はしました。
--ラジオを聴いてないのに「いつも聴いている」というせりふも出てくる。
他にもリスナーさんは取材して、もっと聴いている方はいたんですよ。だけど、やっぱり登場する女性だと僕らは思って、CDでたくさん聞いてもらったんですね。だからそこはそうですね、演出です。
--震災の遺族を捜していたんだと思うんですが、女性でなければいけない理由はないのでは?
女性の悲しさで僕らも泣いたくらい、悲しい人だったから。
--被災地を描くときにどこまで演出を入れていいと考えていますか?
ナレーションの役所広司さんも死んだ人間として描いていて、「あの日僕は死んでしまった」というところから入って、でもラジオが聞こえてくるという「物語」として作っているという部分が非常にありました。
女性に関しては悩んだ部分もあります。最終的にはラジオを持っていって、一生懸命聞こえるように僕らがやって、アンテナをいれたり、CDもいっぱい聴いてもらって、ラジオのことも説明しました。リスナーさんはいっぱいいましたが、ある種の物語性の中では、彼女しかいないと思いました。
--ドキュメンタリーとなれば「真実」と受け取る。被災者がラジオで励まされて、前を向くということが伝わる映画になっていた。でも肝心のラジオを聴いていないのでは、感動を作ったとみられかねない。
僕は「ガレキとラジオ」を作ったのは良かったと思っていて、何とか制作して、それが「知る支援」ということで全国各地で上映されている。作って良かったと思っています。
--事実と違うと女性が苦しんでいても?
それを知って、整理がつかない。女性に会いにいかないと、と思っています。作ったことで女性を苦しめるわけにはいかないので。ラジオを聴いてもらうようにして、ラジオとの接点がゼロではないと思っていました。
--ラジカセも制作側が持っていったはずです。
はい。ピンクのラジオ。
--女性が出したリクエストはがきも演出ですか?
撮影監督が「ラジオが流れるから、リクエストしたら」とささやいてはいると思う。
--撮影監督から女性に「ラジオをたくさん聴いてもらっている」と報告があった?
そうは聞いていないです。でもラジオをCDで聴いてもらったり、できるだけ電波が入るようにしたりしていました。
--分かりやすい被災者像を描きだそうとしたのでは?
そうですね。はい。
--であれば、なおさら、ドキュメンタリーとしてやってはいけないんじゃないかなと。
なるほど。うーん。
--そこは切り離さないといけないのでは?
今でも「あるラジオの物語」としているんですよ。
--作り手はそうでも、ドキュメンタリーと書いてあったら、みんな真実だと思います。しかも「知る支援」を銘打っているわけですし。
どこまでが演出かというのは難しいですよ。僕は(女性は)大きくはリスナーの1人であるのではないかなと思っています。
【朝日新聞社】