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【社説】

集団的自衛権 平和主義守り抜くなら

 国民の命と暮らしを守るには、軍事的対応の強化が唯一の回答だろうか。戦後日本の「繁栄の礎」を築いた平和主義という憲法の理念を、一内閣の判断で骨抜きにすることがあってはならない。

 安倍晋三首相の記者会見を受けて「集団的自衛権の行使」容認をめぐる本格的な国会論戦が始まった。きのうの衆院予算委員会に続き、きょうは参院外交防衛委に舞台を移して集中審議が行われる。

 首相は初日の論戦で「日本は七十年間、平和国家の歩みを進めてきた。その道から外れることはないし、これからもその道を歩んでいく」と強調した。同時に「国民の命と暮らしを守らないといけない」とも述べた。

 政府が果たすべき第一の役割は平和を維持し、国民の命と暮らしを守ることである。その点、首相の主張に異論はない。問題は、どうやって守るのかだ。

 例えば、政府が検討事例に挙げた、紛争地から避難する邦人を輸送する米輸送艦の防護である。

 首相は十五日の記者会見で、お年寄りや乳児を抱く母子を描いたイラストを示しながら、「彼らが乗っている米国の船を今、私たちは守ることができない」と、行使容認の必要性を強調した。

 しかし、これは現実から懸け離れた極端な例である。米艦艇に輸送を頼らなければいけない緊迫した状況になるまで、お年寄りや乳児を抱える母子が紛争地に取り残されるだろうか。そうなるまで手を打たなかったとしたら、政府の怠慢にほかならない。

 首相はきのう「日本人が乗っていない船を護衛できないことはあり得ない」とも述べた。ついに馬脚を現したという感じだ。

 これでは、集団的自衛権の行使容認が、日本国民の命をどう守るかではなく、米軍の軍事行動と一体化することが主目的であると疑われても仕方があるまい。

 集団的自衛権は国連憲章で加盟国に認められた権利だが、安全保障理事会に報告されたこれまでの例を振り返ると、米国や旧ソ連など、大国による侵攻を正当化するものがほとんどだ。そのような権利の行使が、平和主義国家の歩みと相いれるだろうか。

 現実から懸け離れた事例を示して、お年寄りや乳児を抱えた母子を守らなくていいのかと情緒に訴え、一内閣の解釈変更で憲法の趣旨を変えてしまう。

 平和主義を守り抜くというのなら、そんな政治手法をまずは封印する必要があるのではないか。

 

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