花田紀凱氏(『WiLL』編集長、元『週刊文春』編集長)の救いようのない「赤っ恥」
片岡英彦 | 企画家/戦略PRプロデューサー
元『週刊文春』編集長で、後に『マルコポーロ』『uno!』『メンズウォーカー』『編集会議』『WiLL』などの編集長を歴任した花田紀凱氏が、PC遠隔操作事件の被告人である片山被告を弁護する佐藤博史弁護士に対して、下記のような発言を行った。
花田紀凱氏の発言
私は今でも「雑誌」という媒体に対しては畏敬の念を抱いている。それは、時に、テレビや新聞など大手ジャーナリズムでは主張できないような独自取材・スクープにより、巨悪による不正を暴く。また時に、「タブー」とされる日本の諸問題に対して鋭く切り込む。こうした過去の実績があるからである。もっともその「弊害」も多々ある。それでも「畏敬の念」を抱くに十分な雑誌ジャーナリズムとしての役割(使命)とモラルが存在するものと思っている。
ところがである。この花田氏の記事を読んで私は、正直自分の目を疑った。これは本当にあの「花田紀凱」氏の発言なのか?自分は「この程度の人」が編集者だった数々の雑誌を、今まで(今でも)読んでいるのか?日本を代表する編集者として、花田氏の編集する数々の雑誌をこれまで拝読してきたことを、非常に残念に思った。
私は司法制度や法律学については全くの素人であるが、少なくとも「弁護士の仕事」(特に刑事事件の弁護士)が最初に心がけるべきこととが、「依頼人(被告人)の主張を信じること」だという理解はある。依頼人を信じることができなければ、弁護活動は行えない。その上で、弁護士は、依頼人(被告人)の主張を裏付ける証拠を探し、提出するなど、依頼人の主張に正当性があることを最大限探っていく仕事だと思っている。
「真実義務」と「誠実義務」の衝突
もっとも、その過程においては「真実義務」と「誠実義務」の2つの義務板挟みとなることもあるだろう。
では、そもそもなぜ、弁護士は「刑事被告人を弁護する」のか?
片山被告の弁護に際して佐藤弁護士が行った行為は何一つ間違ってないと、私は思っている。
弁護士の仕事は警察や探偵のように真犯人を探すことではない。あくまで依頼者である被告人の権利を擁護(弁護)することである。仮に佐藤弁護士が、最初から片山被告自身の言葉を信じることなく、「犯行を行った」という勝手な思い込みにより、弁護士という職業でありながら、片山被告を「有罪」に導くような裁判活動を行っていたならば、それこそが弁護士として最も恥ずべき態度である。
刑事裁判のルール
■無罪の推定
「無罪の推定」とは、犯罪を行ったと疑われて捜査の対象となった人(被疑者)や刑事裁判を受ける人(被告人)について、「刑事裁判で有罪が確定するまでは『罪を犯していない人』として扱わなければならない」とする原則です。 「無罪の推定」は、世界人権宣言や国際人権規約に定められている刑事裁判の原則であり、憲法によっても保障されています。
■疑わしきは被告人の利益に
すべての被告人は無罪と推定されることから、刑事裁判では、検察官が被告人の犯罪を証明しなければ、有罪とすることができません。被告人のほうで、自らの無実を証明できなくてもよいのです。ひとつひとつの事実についても、証拠によってあったともなかったとも確信できないときは、被告人に有利な方向で決定しなければなりません。これを「疑わしきは被告人の利益に」といいます。
■ 無罪の証明は難しい
疑いを向けられた市民がみずからの無実を証明することは、とても困難です。検察や警察は、その組織・人員と、捜索・差押え・取調べなどの強制力をもちいて証拠を集めることができます。これに対し、被告人は自分に有利な証拠を集めるための強制力も組織も持っていません。ここに大きな力の差があります。にもかかわらず、被告人がみずからの無実を証明できない場合は有罪としてしまったら、多くの無実の市民が有罪とされてしまうおそれがあります。
■ えん罪は悲劇です
そして、無実の市民に対する有罪判決は、その人の自由や権利を不当に奪い、その人生をくるわせるという深刻な結果を招きます。こうした悲劇を防止するために、被告人は無罪と推定され、検察官が犯罪を証明しない限り、有罪とすることができないものとされているのです。
弁護士やジャーナリズムが究極的(最後に)に守るべきものは
花田氏はマルコポーロ編集長時代の1995年に同誌上において、『ナチ「ガス室」はなかった』というホロコーストを否認する特集を組んだ結果、ユダヤ人団体からの強い抗議を受けた。その結果、文藝春秋社は同誌の廃刊、及び同号の回収、さらには同社社長の辞任と花田氏の解任が決定された。(マルコポーロ事件)。こうした過去の「事件」などからも、花田氏は編集者(ジャーナリスト)が、実在する人間の証言や言質を評価する際の難しさについて、他の誰よりもそれを熟知されているものと思っていた。
また、編集者(ジャーナリスト)も弁護士も、究極的には「弱者(被告人等)の盾」となることで、国家権力から被告人の自由を守る使命があるとも私は思っている。
■今回の花田氏の発言は、そもそも刑事事件における「弁護人の役割」を本当に理解しているのか?
■ジャーナリスト(編集者)とは究極的には誰のために報道・表現の権利を行使する職業なのか?
■こうした発言により刑事事件の弁護を引き受ける弁護人らに萎縮効果が働く懸念を抱かないのか?
という、3つの視点において、全くもって「赤っ恥」な言論であると思った次第だ。
花田氏には、雑誌ジャーナリズムの第一人者として「畏敬の念」を抱いていた。同時に雑誌ジャーナリズム全般にも敬意を払ってきたつもりだ。こうした思いが踏みにじられる非常に残念な内容の記事であった。