函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

大鵬、マルキィアン・ボリシコ、ニーナ・サゾーノヴァ そして函館ゆかりのシュヴェツ家について

2013年4月10日 Posted in 会報

小山内道子

元横綱大鵬のお父さん、マルキィアン・ボリシコ  去る1月19日、元横綱大鵬が亡くなりました。まだ72歳という「若さ」でしたから、残念なことです。もう少し長生き出来て、大鵬の強さの土台となったお父さんの母国ロシア(出身地はウクライナ)との友好のためにも貢献してほしかった、貢献できればよかったと思いましたが、叶わぬ夢となりました。ただ、日本という社会環境では難しかったのかもしれません。いずれにしても、大変な苦境の中から大横綱となり、社会的にも立派な生涯を全うしたことに対して敬意を表し、心からご冥福を祈ります。戦前大鵬一家が住んでいたサハリン州ポロナイスク市(旧敷香)に大鵬の銅像を設立しようというサハリンの人たちの動きがあるそうですが、サハリンとの絆を示す確かな記念となることでしょう。
 大鵬のお父さんについてはロシア人だと一般にも漠然と知られていましたが、正確なことはヴェールに包まれていました。そこで、その出自や戦後の運命について資料に基づき、『オタス』(『トナカイ王』)の著者N.ヴィシネフスキー氏が「マルキィアン・ボリシコ」という論稿を書きました(≪ВЕСНИК Сaхалинского Музея 1≫、1995 所収)。ボリシコというのは大鵬のお父さんの名前ですが、彼は1925年日本軍占領末期の北サハリンから樺太に逃れ、大泊を経て敷香(現ポロナイスク)に住んで日本人女性と結婚し、家庭を持ちました。大鵬も敷香で生まれたのですが、終戦時日本軍の仕事に徴用されていたボリシコは、一緒に北海道に引き揚げることができず、ソ連領となったサハリンに残り、そのまま生き別れとなったのです。『オタス』を翻訳していた私はこの論稿をも翻訳しましたが、その後、この論稿は「大鵬の父親、サハリンに死す――歴史に翻弄された"白系ロシア人"の孤独な生涯――」というタイトルで『文藝春秋』(2002年5月号)に掲載されました。こうして私は大鵬家の問題と関わることになり、弟子屈町川湯温泉在住だった大鵬の実兄を何度か訪ねて樺太時代の生活や引き揚げ時の話などをうかがいました。ただし、それは本稿のテーマではありませんので、先へ進みたいと思います。

大鵬の異母姉ニーナ・サゾーノヴァ
 2001年の秋モスクワに滞在中、晴天の霹靂ともいうべき出来事が起こりました。日本と所縁の深い知人のB氏と電話で話していて、「ちなみに、大鵬のお姉さんがモスクワに居るという噂を聞きましたけど、ほんとうでしょうか?」と尋ねますと「ええ、いますよ。ニーナはよく知ってます。電話番号、教えましょうか?」と、いともあっさりと異母姉ニーナの所在が分かり、電話番号まで教えていただいたのです。有頂天になった私はすぐにニーナに電話して自己紹介し、午後にはキエフ駅近くのアパートを訪ねたのでした。さらに数日後にも伺い、ニーナの誕生から80歳になろうとしていたその夏の事まで話していただきました。また、その後もモスクワへ行くたびに訪ね、物語を補ったのですが、ここでは本稿と関わる部分だけを簡単に紹介したいと思います。
 ニーナ・サゾーノヴァは1919年、北サハリンのアレクサンドロフスク市で生まれました。母親はマルガリータ・サゾーノヴァ、父親はマルキィアン・ボリシコでした。マルガリータは大きな店を構えた裕福な商人アントン・サゾーノフの妻で5人の娘がいましたが、アントンが1915年に結核で亡くなった後、何かと支えてくれていたボリシコと1917、8年頃再婚したのです。ニーナの誕生についてはヴィシネスキー氏の調査でアレクサンドロフスク教会「メトリカ」の記載を確認しています。ボリシコ家はウクライナから移住してきた自由農民でしたが、マルキィアンは農業を嫌い、若いころから鉱山調査隊に参加したり、狩猟や行商に従事し、社交的で商売上ヴィノクーロフとも懇意だったと言われます。1920年、北サハリンが日本軍の占領下におかれて以降は、日本軍の協力者となり、羽振りがよかったのです。しかし、1925年3月、日ソ基本条約締結に基づく日本軍撤退とソ連軍進駐を目前にして、ボリシコは馬車を仕立て、娘ニーナだけを連れて内陸経由で日本領樺太への脱出を目指して出発します。ところが、しばらくして姉のリーダが馬を飛ばして追いかけてきて、ニーナを奪い取り母と姉妹たちの許へ連れ帰ったのです。こうしてニーナは父親と永久に別れてしまいました。
 夫アントンの死後、マルガリータは大きな家の半分を中国人と日本人に貸して暮らしを立てていましたが、ソ連軍進駐と共に立派な家屋は接収され、家内の目ぼしい品物は没収されて、一家は納屋に住むことになりました。その後北サハリンでは「体制の敵摘発」運動が展開され、特に1930年代にはこのキャンペーンはエスカレートして、日本人と少しでも関係のあった人々は逮捕されるようになります。マルガリータはニーナに自分の姓を名乗らせ、家内でもボリシコの名をタブーとし、ボリシコの写真はすべて焼き捨て、日本軍の協力者ボリシコとの関係は消し去られました。しかし、マルガリータやアントンの弟たちは逮捕され、その後行方不明になり、ボリシコの父親カルプ・ボリシコも逮捕されて行方不明になったのです。
 サゾーノフ家の5人の娘たちは1930年代初めまでには皆サハリンを出て就職していました。しかし、母マルガリータはアントン同様結核にかかっていて、1934年には治療のかいなく死去しました。ニーナは母の死でサハリンに1人取り残され、孤児院に入れられました。その時のさびしい思いは今も覚えているのです。法律によって14歳までは生地を離れられませんでしたが、誕生日が来てモスクワの姉の許へ引き取られました。それ以後はモスクワ在住で、その後の人生も波瀾に富んだものでしたが、ここでは割愛します。厳しい社会主義体制下では日本領樺太にいる父ボリシコを捜すことなど不可能でしたし、1960年代半ば、ソ連巡業でモスクワを訪れた大鵬に親方が「きょうだいがいるそうだけど、捜してもらおうか?」と尋ねたそうですが、大鵬は断ったと自叙伝に書いています。

サゾーノフ家とシュヴェツ家
 故清水恵さんは函館ゆかりのシュヴェツ家について、現在東京在住のシュヴェ家の方々に取材し、多くの資料に当たるなどして、シュヴェツ家について多くの論稿を残しています。それらはみな著書『函館・ロシア その交流の軌跡』に収められています。
 去る1月下旬、私は「サハリン・樺太史研究会」で「北サハリンにおける生活イメージを求めて――大鵬の異母姉ニーナ・サゾーノヴァの人生に見る歴史の軌跡」の報告をしました。その準備過程で、北サハリンのアレクサンドロフスクにおいて二大資産家の豪商と言われたサゾーノフ家とシュヴェツ家についても調べました。その際気になっていたのは、清水さんが「サハリンから日本への亡命者――シュウエツ家を中心に」の中で、1925年の日本軍の北サハリンからの撤退時のシュヴェツ家について、次のように書いている一節です。
 「......一家は革命をきらって、アレクサンドロフスクから、日本が支配する「樺太」に亡命した。それは一九二〇年代の前半のことだと思われる。豊原(現ユジノサハリンスク)に建てた家は現在でも残っているといわれているが、筆者はまだ確認していない。家業は毛皮商で、経済的には恵まれていたようである。ドミートリイとともに息子のフィリープも一五歳の時から商売をしていたという。
 フィリープは豊原でゾーヤ・アントーノブナ・サゾーノワと結婚した。彼女の実家も樺太にあり、シュウエツ家[ママ]よりさらに裕福だったという。それからゾーヤの出産のために、一家はハルビンへ移住し、......」(前掲著書、p.274)
 ところが、私がニーナ・サゾーノヴァから聞いたのは以下のようである。
 ニーナがまだ5歳の1924年、ニーナの2番目の姉ゾーヤが隣家でやはり大きな店を構えていた裕福なシュヴェツ家の幼馴染の長男フィリープと結婚した。若い2人の結婚式は、ニーナもおぼろげに覚えているが、それは華やかで盛大なもので、あとあとまでの語り種となったという。ですから、ゾーヤたちの結婚は実家のあるアレクサンドロフスクで行われ、豊原ではなかったのです。
 シュヴェツ家については、興味深い資料も見つけました。外務省記録『外国人ノ動静関係雑纂 府県報告 露国人の部』の大正11年(1922年)5月10日の報告、「露国商人来往に関する件」に「北樺太亜港寿町 雑貨商ドミトリ・シウヱツと同イワン・シウヱツがやはり雑貨商、材木商、農業の3人と共に横浜から大阪に来て総額2万円の雑貨、洋酒、綿布、羅紗服地等を購入した」と大阪府知事等に宛てた報告が残っています。亜港というのはアレクサンドルフスクの日本での呼び名で、1922年の日本軍占領時代には北サハリンと本州との往来による商品の仕入れが行われていたことが分かる資料です。それにドミトリはフィリープの父親でイワンはドミトリの弟です。
 また、「シュヴェツ家が豊原に建てた家が現存する」ということの真偽を確かめたくて、ユジノサハリンスク在住のヴィシネフスキー氏に調査を依頼しましたが、シュヴェツ家の家は存在しないとの回答でした。代りに大発見があったのです。氏の友人グリゴーリー・スメカロフ氏がシュヴェツ家の研究をしていて、氏が在住するアレクサンドロフスク市にシュヴェツ家の家屋が現存するとして、その写真をヴィシネフスキー氏経由で送ってくださったのです。拡大すると本当に大きくて頑丈そうな立派な家屋であることが分かり、建築年は不明ですが、歴史の重みが感じられる感動的な資料と言えるでしょう。
 スメカロフ氏にはサゾーノフ家に関しても、1907年の「埠頭荷揚げ許可通行証」のコピーを送ってくださったので、当時の商取引の実情が現実味を帯びてきました。今後スメカロフ氏のさらなる研究を通して、新しい事実を含め体系的に北サハリンの商取引などがサゾーノフ、シュヴェツ両家に即して明らかになることを期待し
たいと思います。

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Дом Швец アレクサンドロフスクにあるシュヴェツ家の家屋 D.スメカロフ氏撮影

「会報」No.34 2013.3.31

色丹島訪問記 ――北方領土問題を考える――

2013年4月10日 Posted in 会報

小川正樹

はじめに
 筆者は2012(平成24)年8月3日から6日まで、社団法人北方領土復帰期成同盟が実施した北方四島交流(教育関係者・青少年訪問)事業に参加し、色丹島を訪問してきた。近年、尖閣諸島や竹島など、領土をめぐる問題が社会の注目を集めている。この中で、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島からなる、いわゆる北方領土の領有問題は第二次世界大戦・太平洋戦争での敗戦から現在に至るまで、60年以上にわたって解決されてこなかった、極めて重大で深刻な問題である。北海道で学ぶ児童・生徒は必ず北方領土問題を学習するが、児童・生徒の意識は世代・地域により差があると言わざるを得ない現状である。
 2012(平成24)年、本校生徒会長戸田幸一郎君から相談を受けたことから、今回の色丹島訪問は始まった。戸田君は前年、「"北方領土を考える"高校生弁論大会」に参加し、領土問題の重大さを認識し、さらなる学習と知識を広げるため、北方四島交流事業への参加を強く希望していた。こうして、筆者の北方世界への関心と戸田君の領土問題に対する情熱が結びついて、今回の色丹島訪問が実現した。

1 北方四島交流事業とは(1)
 1991年4月18日に日本の海部俊樹首相とソ連のゴルバチョフ大統領の名によって日ソ共同声明が発せられた。その第4項目では、歯舞群島、色丹島、国後島および択捉島の帰属について、日ソ双方の立場を考慮しながら領土画定の問題を含む日ソ平和条約の作成と締結に関する諸問題が取り上げられた。ここでソ連側から日本の住民と四島住民との交流拡大、日本の住民の四島訪問の簡素化された無査証の枠組みの設定などが提案された。日本側もこれらの問などを継続的に話し合うことを表明した。同年10月14日付の日ソ両国外相間の往復書簡により、領土問題の解決を含む日ソ間の平和条約が締結されるまで、日ソの相互理解の増進を図り、いずれの一方の法的立場を害するものとならないよう共通の理解をしたうえで、領土問題解決に寄与することを目的に、日本の住民の北方四島への訪問を旅券、査証なしで行なう新しい「北方四島交流事業」の枠組みが作られた。
 1992年から開始された日ロ双方の住民が交流するこの事業は、領土問題解決に向けた好ましい環境の整備を目的とし、北海道においては北方四島交流北海道推進委員会が、全国においては北方領土問題対策協会が主体となって実施している。この事業により四島在住ロシア人住民の意識に変化が表れ、ロシア側では「領土問題は存在しない」立場から「領土問題は存在する」立場へと変わってきた。
 こうしたロシア人島民の意識の変化は、北海道大学スラブ研究センターの岩下裕明教授が2005(平成17)年10月21日から28日まで、択捉島、国後島、色丹島の3島で各島100人ずつ合計300人を対象とした世論調査の結果にも表れている(2)。この調査は北海道新聞社編集局報道本部が主体となり、サハリンの新聞社「自由サハリン」の協力によって実施された。この調査項目の第7番目の「北方領土の日本への返還」に対してロシア人住民の回答は以下のものであった。

 無条件で賛成する  (2.0%)
 条件付きで賛成する  (28.7%)
 反対する  (61.3%)
 わからない  (7.3%)
 無回答  (0.7%)

 ここから9割以上の住民が領土問題に対して賛否の判断をしており、住民の意識の中に領土問題が存在していることが裏付けられる。さらに第11番目の「日本人との共生は可能か」という質問に対してロシア人住民の回答は以下のものであった。

 可能である      (20.3%)
 条件付き可能である  (23.7%)
 不可能である  (38.7%)
 わからない  (15.0%)
 無回答  (2.3%)

 ここから無条件・条件付での可能と判断した住民は44%で、不可能と判断した住民38.7%をわずかに上回っていることがわかる。四島のロシア人住民の中には、北方四島が日本に返還された後、日本人と共生することができると考えている人が半数近くにのぼることが明らかにされ、「北方四島交流事業」によりロシア側に友好的雰囲気が形成されてきていることが裏付けられている。

2 2012(平成24)年度第3回北方四島交流訪問事業への参加
 筆者は2012年8月3日から6日まで、「北方四島交流事業」に参加して色丹島を訪問してきた。まず、8月2日に根室市の北海道立北方四島交流センター(愛称ニホロ)で結団式と研修会が実施された。ここで、外務省欧州局ロシア課の岡野正敬課長より北方領土問題についての講義が行なわれた。ここで「日本固有の領土」とは、一度も外国の領土となっていない土地であると説明され、改めて北方四島は近代以降、一度も外国に領有されていなかったことを確認した。国際社会でのルール、日本政府の立場を改めて認識するとともに、一般の日本人は領土問題に対して曖昧な立場であることを強く感じた。さらに、サンフランシスコ平和条約における千島列島の解釈についても説明を聞き、問題の難しさを痛感した。この条約では日本の領土を具体的に決定しているわけではなく、しかもソ連(現ロシア)はこの条約を調印さえしていない。日ソ(日ロ)関係はこの条約では規定されていないのである。外交交渉の難しさを現実の問題として改めて認識することができた。続いて岡野課長は、参加する中学生・高校生に対して今回の訪問の目的を説明した。基本的に相互理解を深めることが目的であって、具体的に何かを交渉することが目的ではないが、ただし、領土問題の重要性を認識して行動することを生徒たちに求めた。領土問題に対して国民の関心が低下すること、領土問題を発信しないことは、ロシアに対するマイナスのメッセージとなる恐れがあるので、領土問題解決のためには国民一人一人が問題の重要性を認識して、返還を粘り強く求めていくことが必要であると強調した。
 これからの訪問事業の中で、実際に中学生・高校生に求められていることは、日本の魅力、社会問題を発信し、北方四島の住民に日本に興味・関心を持ってもらうことであった。北方四島の住民が日本を身近な存在と思うだけで、領土問題の解決にはプラスになり、この訪問事業に参加した一人一人が外交に関わっているという認識のもとで交流に取り組むことが求められた。最後に、岡野課長は厳しい表情でロシア政府の管轄権に服する行為、ロシア政府の許可を必要とする行為は絶対にしないこと、誤解される恐れのある発言は慎むことを全体に注意した。
 続いて、今回の交流事業に参加する教員の意見交換会が開かれた。今回参加するのは、中学校教員7人、高校教員5人の合計12人であり、中学校教員は全員が道東地方に勤務しているが、高校は根室管内2人、石狩管内2人、渡島管内1人で、高校はできる限り全道から参加させようとする意図が見られた。
 意見交換会では四島在住のロシア人教員に北海道の教育現場でおきている問題と同様の問題を抱えているかどうかを質問することで方針がまとまった。この意見交換会では隣人としてのロシア人に興味を持つ点では共通していたが、各自の関心、訪問への期待は多様であった。これ以外に、現在の日本の教育における課題、懸念もいくつか提起された。

3 色丹島へ
 2012年8月3日の朝、第3回北方四島交流訪問団の出発式が根室港で行なわれた。今回の訪問には、元色丹島島民で現在は千島歯舞諸島居住者連盟の小泉敏夫理事長と高橋はるみ北海道知事も同行した。名簿で氏名・出欠を確認しながら、今年5月から供用された新船舶「えとぴりか号」に乗船した。当日は天候もよく、波も穏やかで、順調な航海であった。途中、船内では小泉敏夫氏による講演が行なわれた。この間に船はロシアが実効支配している海域に入った。
 出港から約4時間後に国後島の古釜布沖に到着した。湾内にはロシア船のほか、中国のコンテナ船が停泊していた。船上から見た古釜布の街並はまさにロシアの街並で、低層の建築がロシア独特の色彩でペイントされていた。ここでロシア国境警備隊の係官が乗船し、入域手続を行ない、ここからいよいよ色丹島に向けて出航した。古釜布から約3時間で色丹島穴澗沖に到着した。この日は湾入口に投錨し停泊した。海霧による視界不良のため、色丹島の様子はまだわからなかった。船内は日本時間のままであったが、現地時間に合わせるため、色丹島滞在中は全ての行動を2時間早く行なうことになった。
 8月4日は朝5時30分に起床し、朝食の後、いよいよ穴澗湾に進んだ。湾内には廃船がそのまま放置され、なかには戦車も放置されていた。7時過ぎに穴澗湾の桟橋に接岸した。この桟橋はコンクリート製で、湾内にある水産加工会社ギドロストロイが建設したもので、非常に立派であった。船員の説明によると、以前は木の桟橋を使用し非常に危険であったが、最近新しく建設されたとのことであった。ここでロシア風の歓迎セレモニーを受けた。民族衣装を着たロシア人学生がパンと塩を持って出迎えてくれた。この後、穴澗(アナマ)の市街地へ車で移動し、穴澗文化会館で歓迎セレモニーを受けた。
 島内を走る自家用車はほとんどが日本製の中古車であり、RV車が中心であった。島内には舗装道路が1か所もなく、悪路が続くため、日本製のRV車は大変役に立っていた。バスは、左側通行のため日本製は不向きであり、ロシア製か韓国製が使用されていた。これはサハリンやウラジオストクと全く同じであった。今回、筆者が乗車したのはトヨタのプラドで、2010(平成22)年まで名古屋方面で使用されていたものであった。車内の車検証のシールが平成22年となっていた。
 歓迎会には穴澗(ロシア名クラボザボツコエ)の村長のほか、サハリン州政府の幹部も出席した。ここでサハリン州政府が製作した日ロ交流のビデオが上映されたが、そこには領土問題の説明はなく、これまで20年の北方四島交流事業の経緯と実績が紹介されていた。領土問題、主権の問題を棚上げしながら、簡素化された手続きでのロシア入域と墓参、交流事業の様子が映像で流されるのを目の当たりにして、日本とロシアの認識の差を痛感した。ロシア政府としては、領土問題は存在せず、ロシア側の行為によりこの交流が実現している、という印象を与えようとしていると思わざるを得なかった。
 穴澗の市街地には数軒のスーパーと1軒のレストラン「インペリアル」があり、ここでお土産を購入することになった。今回の訪問では3,000円を換金し、1,050ルーブルを手にした。1ルーブルは約3円の交換レートであった。スーパーにはロシア製品と並んで、日本の商品、韓国の商品が売られていた。食料品では日本製品よりも韓国製品の方が多いことは、これまたサハリンやウラジオストクと同じであった。スーパーで使用しているエアコンもLG製品であり、北方四島が韓国商品の市場に組み込まれていることを実感した。
 午前中、穴澗の学校を訪問した。ここは1994(平成6)年の北海道東方沖地震により建物が倒壊し、日本からの人道支援でプレハブの校舎が建てられ、学校を再開することができた。最近、新しい校舎が完成し、日本の建てたプレハブ校舎は、現在、芸術(音楽)学校として使用され、放課後には子供たちがここで音楽を楽しんでいる。新しい校舎を案内され、各教室の様子を視察した。ロシア語、数学、理科、社会のほか、技術室や日本語学習の教室もあった。体育館はバスケットボール1面ほどの広さで、少し手狭な感は否めなかった。このほか、校舎内の空きスペースを利用して卓球台が設置され、生徒が卓球を楽しんでいる様子も見られた。午前中はここで日本人の生徒とロシア人の生徒のレクリエーションが実施された。
 「インペリアル」での昼食を済ませた後、学校に戻って意見交換会を開いた。テーマは「教育の現状と課題」で、日本とロシアの双方から説明、質問が行なわれた。まず、ロシアの教育システムについて、簡潔な説明が行なわれた。ロシアでは7才から17才までの11年間、一貫して1つの学校で学ぶ。1~4年の初等科には現在37人が在籍し、5~9年の中等科には現在52人が在籍し、10~11年の高等科には現在13人が在籍し、生徒数は合計で102人である。この後は、高等教育機関として大学に進学することになるが、北方四島に大学はなく、近くてもサハリン島、多くは極東本土やモスクワなどの大学に進学しているようである。ロシアの学校は1年を4つの学期に区分している。9月1日から11月4日までが1期、11月11日から12月31日までが2期、1月11日から3月31日までが3期、4月1日から5月31日までが4期で、6月1日から8月31日までの3ヶ月間が夏休みである。進級試験は9年生と10年生の間と11年生の終わりに実施される。9年生の終わりに進学するか終了するかを選択するが、ほとんどの生徒は11年間の学習を選択し、終了して就職する生徒はほとんどいない。授業数は初等科が1日に45分授業を4コマであり、中等科になると1日に5~6コマ、高等科になると1日に7コマとなる。休み時間は10分で、昼休みは20分で、ここで昼食もすませる。放課後は体育館やプレハブ校舎で過ごし、6~7時頃に帰宅する。初等科は週5日制だが、中等科以上になると週6日制となる。

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中央左の男性が小泉理事長、右の女性が高橋知事
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穴澗湾の景色
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穴澗村の市街地
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高校生の報告の様子

4 色丹島内の視察
 8月5日はあいにくの雨であった。島内には舗装道路がないため、雨天時は相当の悪路になる。この日は穴澗から斜古丹(ロシア名マロクリリスコエ)へ向かった。島内の悪路では日本製中古車が大活躍していた。1時間半ほどで斜古丹に着いた。まず、丘の上にある日本人墓地に向かう。墓地は柵で囲われていて、ロシア側により草刈りがなされていた。ロシア側の好意を感じた。日本人墓地として区画されている中には何基かの墓があったが、基礎の部分しかないものが多く、家名を刻んだ上の部分が失われているものが多かった。旧ソ連時代に、日本統治時代の痕跡を消し去るために撤去され、それ以来墓石は行方不明のままである。1998(平成10)年の墓参の時に、日本人墓地の標柱が建てられた。このほかに、クリル人(アイヌ)の標柱も同じ敷地内に建てられていた。今回同行した小泉敏夫氏の墓が墓地の中に残っていた。基礎の部分は当時のままの場所にあるそうで、墓石の上の部分は失われてしまったが、墓そのものは日本統治時代と変わらない場所にそのまま残されていた。墓参という、当たり前と思っていた行為が、ここでは本当に幸運なことであることを痛感するとともに、国家の対立に翻弄される民衆の悲しみと苦しみを感じた瞬間であった。
 墓参の後、ギリシア正教の教会を訪問した。丸太小屋風の教会で、外から鐘を鳴らすようロープが張られていた。訪問団が帰る時に、教会にいたロシア人が楽しそうに鐘を鳴らしていた。音楽を重視するのはニコライの日記にも見えるとおりであるが、ここでもそれを実感することができた。
 この後、斜古丹の文化センターに集合し、ホームビジットの班分けを行なった。ここからはバスに乗り、丘の中腹にある集合住宅に向かった。筆者のグループはアレクサンドルさんの自宅を訪問した。家の中には妻のゲオルギエブナさん、息子のキリルさんと孫が出迎えてくれた。ロシア人の一般家庭(集合住宅)では玄関のドアの前で靴を脱ぎ、靴はそのままドアの外に置くことになっている。家の中には靴は持ち込まない。集合住宅の外観は相当傷んでいるようであったが、室内は相当手入れがなされていて、壁紙や床、家具などはきれいに手入れされていた。外観からはわからなかったが、室内は非常に快適な空間であった。
 居間ではすでに食事の準備がなされていた。アレクサンドルさんは、娘の病気治療のため、一度北海道を訪問した経験があり、その時に日本語を勉強したそうで、わずかではあるが会話を成立させることができた。通訳は全グループに同行したわけではなかったので、通訳が巡回してくるまで会話集などを活用して交流することになっていた。筆者のグループには退出する時になってやっと通訳が巡回してきた。そのため、2時間近いホームビジットの時間、意見交換したり、確認したりすることはほとんどできなかった。息子のキリルさんは若干英語を話すことができたが、意見交換までには及ばず、片言のロシア語と身振り手振りで何とか会話しようと試みたが、最後はアレクサンドルさんの日本語が頼みであった。アレクサンドルさんは日本への渡航経験や訪問団受け入れなど、日ロ交流にはとても積極的であった。アレクサンドルさん夫婦は、斜古丹から穴澗まで同行し、出航する「えとぴりか号」を埠頭で最後まで見送ってくれた。こうしたロシア人との個人的交流は、日ロ交流の裾野を広げるものであり、これこそが北方四島交流事業の目指すものであり、こうした交流を積み重ねることが、わずかではあっても確実に領土問題の解決に向かっていくと感じた。
 息子のキリルさんは、島内の学校を卒業した後、シベリア地方の大学で教員になるために勉強し、体育の教員をしばらくした後に色丹島に戻ってきた。島では警察官となり、アレクサンドルさんの住宅近くで家族3人暮らしている。島内出身者の進路の1つの事例であろう。他の同級生の就職先や居住している場所などを質問したかったが、今回の訪問では確認することができなかった。
 アレクサンドルさんは室内を案内してくれた。集合住宅は2LDKでバスとトイレが別々であった。応接室にあったパソコンはサムソン製であったが、プリンターはエプソン製とキャノン製の2つを所有していた。テレビは、居間にパナソニック製のものが、同じくパナソニック製のDVDと一緒にあり、寝室にはLG製のテレビがあった。室内の家電製品は日本製と韓国製が半々であり、色丹島にも韓国の家電製品が確実に広まってきている。領土問題だけではなく、経済問題についても今後は真剣に検討していかなければならないことを痛感した。アレクサンドルさんの食卓にも韓国製のジュースが並び、一般家庭やスーパーでは韓国製の食料品が普通となっており、これはサハリンやウラジオストクのスーパーと同じ状況であった。これから先、韓国製品の影響力はさらに大きくなっていくものと思われた。
 ホームビジットの後、色丹島の景勝地であった稲茂尻(イネモシリ)の海岸を視察した。稲茂尻にも日本人の墓地があったが、車中では眠ってしまい、確認することができなかった。稲茂尻の海岸につき、景色を眺めた。実に美しい湾であり、砂浜が続いていた。浜辺には多くの昆布が打ち上げられており、海の中でも多くの昆布が手付かずであった。ロシア人は昆布を資源・商品として認識していないため、昆布を採取している様子はない。昆布を商品化・商業利用する技術や発想がないためであろう。これはサハリンと同様であった。この付近に日本の寺院があったそうだが、ここにかつて日本人が生活していた形跡は全く見られない。
 稲茂尻から移動し、マタコタンという入り江を視察した。日本統治時代には日本人の家が数軒あったらしく、小泉敏夫氏はここの漁師は豊かであったと説明していた。現在はロシア人漁師が網の手入れにこの入り江を利用しているのみである。そのほか、島内のロシア人もこの入り江に遊びに来ているようであり、付近にごみが散乱していた。
 この日の夕食会が色丹島訪問の最後の行事であった。日本人とロシア人の生徒がゲームをしたり、踊ったりして楽しい時間を過ごした。夕食会の後、埠頭まで歩いて移動した。今回交流した生徒、家族、関係者が埠頭まで見送りに来てくれた。色丹島のロシア人住民と交流し、個人としては相互信頼関係を構築することは可能であると思えたが、領土問題の解決を考えると、とても複雑な気持ちになる。色丹島の住民にとっては、日本とロシアが戦争した不幸な歴史よりも、ソ連の崩壊や北方四島交流事業、人道支援の歴史の方がはるかに身近であり、直接的な問題である。日本人はどうしても領土問題から離れることができない。終戦は8月14日か9月2日かという解釈の問題とともに、日本人とロシア人の意識のズレを大いに感じた。


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斜古丹村の日本人墓地の様子
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色丹島略図(独立行政法人北方領土問題対策協会ホームページより)
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アレクサンドルさんと記念写真(中央の男性がアレクサンドルさん)
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稲茂尻海岸の景色
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マタコタンの景色

おわりに
 今回、色丹島を訪問するまでは、北方領土問題は単なる知識であり、地図や資料集で確認する作業でしかなかった。実際に北方四島を訪問すると、そこには現実の問題が横たわっている。ロシアの国境警備隊による入域・出域の手続き、ルーブルへの換金、ロシアの街並、その中に日本人の墓地もあり、日本の人道支援で建設されたプレハブ校舎や発電所もある。北方四島には現在のロシアと現在の日本、そして過去の日本が同居している。今回の訪問で北方領土問題を知識としてではなく、体全体で、実体験として感じる、考えることができた。
 領土問題は政府レベルで解決すべき問題である。我々にできることは、その基礎固めとなる住民交流であり、友好・交流の積み重ねと隣人としての相互信頼関係の構築である。この交流が領土問題解決にどれくらいの影響を与えているのかはわからないが、日ロ双方の相互理解、相互信頼関係構築には多くの影響を与えている。ロシアは遠くて恐ろしい国家ではもはやなく、近くて、信頼できる国家に近づいている。
 領土問題解決のために我々ができることは限られている。しかし、今の我々ができることを、どれくらい真剣に継続していけるか、我々の意識と行動がまさに今、問われている。


(1)  『北方四島交流の手引』(独立行政法人 北方領土問題対策協会)。
(2)  岩下裕明+北海道新聞情報研究所「「北方領土問題」に関するアンケート・世論調査」(21世紀COEプログラム「スラブ・ユーラシア学の構築」研究報告集15号『日ロ関係の新しいアプローチを求めて』北海道大学スラブ研究センター、2006年)1~64頁。

(函館ラ・サール高等学校教諭)

「会報」No.34 2013.3.31 研究会報告

「イコン画と山下りん」を学ぶ研修旅行の報告

2013年4月10日 Posted in 会報

大平利成

 平成25年2月9日、日本ユーラシア協会青森支部は冬の企画として、函館日帰り研修旅行を行いました。
 工藤朝彦副支部長の紹介で函館日ロ交流史研究会を知りその特別なお計らいで実現したもので、函館ハリストス正教会のイコン画拝観と画家山下りんの足跡を学ぶことが目的です。
 当日の参加者は会員7名で、このような研修を目的とした旅行はほとんど初めての人達ばかりです。
 午前8時青森駅発の特急に乗り津軽半島を北上、約2時間で函館駅に到着。
 目指す正教会は函館山に近い坂の上にありました。
 ロシア風ビザンチン様式といわれる聖堂の白い漆喰壁と青銅色の屋根がひときわ目を引きます。
 教会では函館日ロ交流史研究会世話人の岸甫一氏と中嶋肇氏が待ちうけ、案内もしていただきました。
 それによれば、この建物は万延元年(1860)にロシア領事館の付属聖堂として建立。
 その後、函館の大火で焼失したものの大正5年(1916)に現在の聖堂が再建され今では国指定の重要文化財になっているとのこと。  
 聖堂の内部正面に「救世主の復活」「最後の晩餐」、そして両脇に聖人たち。
 吹き抜けの壁面いっぱいに大小80点のイコン画が掲げられていて、山下りんが描いたものも多数あります。
 黒衣に身を包んだ神父のN.ドミィトリエフ氏がおみえになり、教会の歴史とイコン画、聖ニコライについてユーモアたっぷりのお話しをしていただきました。
 初代の聖堂ができた翌年には有名な聖ニコライが領事館付きの司祭として来日し手さぐりで伝道を開始したそうです。
 10年後、聖ニコライは東京の神田駿河台に転任し本格的な宣教活動を精力的に展開。
 そのなかで日本における伝道は日本人の手で行われるのが一番、イコン画の制作も日本人の手で、という結論に達し、そこでいよいよ山下りんの登場と相成るわけです。
 なるほどなるほど......私たちは神父さんのその達者な日本語と、ふくよかな語り口にすっかり魅了されてしまいました。
 さて昼食後は正教会に隣接する信徒会館に移り、いよいよ函館日ロ交流史研究会主催の研修会です。
 北海道立函館美術館の主任学芸員・大下智一先生が映像を駆使して「明治のイコン画家山下りんと北海道」と題して一時間ほど講演。
 山下りんは安政4年(1857)、今の茨城県笠間(かさま)市に生まれ、幼いころより絵を書くことが好きで16歳のときに単身で上京し豊原国周(とよはらくにちか)に弟子入りし浮世絵を修行。
 その後、洋画家をめざして明治10年(1877)開校の工部美術学校に女子1期生として入学、教官フォンタネージに油絵を師事。
 当時の作品を見ると、師には及ばないものの彼女のデッサン力もかなりのものだったことが分かります。
 明治13年(1880)美術学校在学中に入信したことにより、聖ニコライからすすめられて単身ロシアの首都ペテルブルクへ留学。イコン画の製作技術を習得するためでした。
 紆余曲折はあったものの帰国後はイコン画の制作に励み、その作品は全国の正教会に届けられます。
 山下りんの生涯については以前ユーラシア協会でもDVDを見る機会があり多少の予備知識を持っていましたが、大下先生のお話にもあった明治時代の開明期と反動期の波に翻弄される美術界と画家たち、そして山下りん。そのように事象を歴史的に捉えることによって彼女の遍歴がより理解できたように思います。
 また北海道のイコン画が歴史的にも美術的にも非常に価値の高いものであることも今回初めて知りました。
 道内のイコン画は函館をはじめ上磯、札幌、小樽、釧路、上武佐(中標津)に計70点も現存すること。これらは北海道が日本におけるロシア正教発祥の地であることや、ロシアとの地理的近さに由来すること。開拓民の精神的な支えとしても重要な役割を担ったこと。そして北海道に残っている日本人の油彩画としては相当に早い時期のもので、きわめて質の良いものであることなどです。
 また神父夫人、山崎ひとみさんの補足説明も素晴らしく、参加者から「まるで"NHK日曜美術館"のゲスト解説者のようだった。機会があれば山崎さんのお話も拝聴したい」という感想もいただきました。
 緊張した「勉強」から解放され、紅茶とお菓子をいただき記念写真を撮って研究会は無事終了。再び聖堂に戻りあらためてイコンをみつめました。
 イコン画は聖画となった瞬間、永遠に作者の手を離れもはや書き手は無となるという大下先生の話を思い出し、参加者一同あらためてイコンの精神性に思いを深くした次第です。
 観光コースではないこのような旅行は初めてでしたが函館日ロ交流史研究会の皆さんのおかげで大変充実したものとなりました。
 皆さまには心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

(日本ユーラシア協会青森支部支部長)

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「会報」No.34 2013.3.31 研究会報告

『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』を刊行して

2013年4月10日 Posted in 会報
 大西剛

遠いロシアと近いロシア
 あるとき大学生に、ソ連時代のロシアはアメリカと並ぶ先進国だった、と言うと、エッ、と驚かれた。それが逆に自分にとっては驚きなのだが、今のロシアが往時ほどのプレゼンスをもち得ていないということは私にも十分理解できる。それでも、今も軍事的には大国であろうし、日ロ間には領土問題が横たわっている。正直なところ日本人の間ではネガティブなイメージの方が強いのかもしれない。
 一方で、関西で育った人間としては、軍事や領土問題とはまた違ったロシアの甘い甘い記憶がある。
 かつて大阪にパルナスというロシア菓子の会社があって、高級洋菓子の代名詞だった。誕生日やクリスマスが近づくと、パルナスのケーキが食べられることを心待ちにしていたものだ。パルナスという言葉の響きは、今の高級洋菓子ブランドが束になってもかなわないほど、まぶしさに満ちていた。
 パルナスはピロシキでも知られていた。パルナス以外の「まがい物」のピロシキもあったが、パルナスの本物はゆで玉子の砕いたものが入っていて、それはたいそう美味しかった。当時はまだ玉子は貴重品であり、たまにではあるがパルナスのピロシキ食べるたびに、玉子を惜しげもなく入れるなんて、やはり先進国の食べ物は違う、という思いを強くした。
 マクドナルドの日本第1号店が誕生するのは、大阪千里万博が開かれた翌年の1971年のことだが、この私の記憶はそれ以前に遡る。そんな時代にあって、ピロシキは数少ない異国の香りのする食べ物だった。だからその記憶は強烈で、私自身はハンバーガーには目もくれないが、ピロシキと聞くだけで今もなお食指が動く。
 私が函館市民になる前、まだ旅行者として函館に足を運んでいたころ、港ヶ丘通りや八幡坂を歩くたびに、その甘いロシアを思い出した。そして、函館の人はロシアにどんなイメージを抱いているのだろうかと興味をもった。
 港ヶ丘通りと八幡坂とのT字路は、記念撮影の名所として、シーズン中はひっきりなしに観光客が訪れる。そのすぐ脇に、ロシア極東連邦総合大学函館校がひっそりと佇んでいる。ハレとケとでも言うべきようなその対比。坂を下ったその先に浮かぶ摩周丸をバックに夢中で写真を撮る人々に、意外と足元の景色は目に入らないのかもしれない。私にしても偶然目にしたというだけで、函館に来るまでは日本にロシアの大学の分校があることも知らなかった。だが、ここにそれがあるという風景は、函館市民にとっては、至極当たり前のことのはずだ。その「当たり前にある」という感覚は、いったいどのような感覚なのか。
 関西にいると、普段ロシアを意識することはまずないが、学生時代に根室に初めて行ったときには、北方領土の早期返還を叫ぶ看板の多さに驚いた。一方、同じ北海道でも函館には、ロシアの大学の分校があって、ロシアをルーツとする教会が町のシンボルになっている。幸坂を上って行けば「旧ロシア領事館」というのもある。根室のロシアは、函館のロシアよりも遠い国かもしれないし、関西からよりも、見方によってはむしろ遠い国とも言える。同じ日本国民でも、住んでいる場所によって各国との距離感は違ってくるし、直線距離では測りきれない遠さと近さがあるのだろう。

国際都市函館の始まりはロシア
 ロシア極東連邦総合大学函館校を最初に目にしたのは2008年の秋、私としては4年ぶりに函館を旅したときのことだった。それ以降、私は毎月、函館に来るようになった。当時は京都に住んでいたが、やがて住民票をこちらに移し、2011年秋に「新函館ライブラリ」という出版社をスタートさせた。
 最初はリスクもコストも小さくて済む電子書籍を中心に、と考えていたが、今の日本の出版環境では埒が明かず、2012年3月、初の印刷本として中尾仁彦氏の『箱館はじめて物語』を上梓した。高田屋嘉兵衛以来、海外に開かれた町であった函館の誇る「日本初」「北海道初」を経糸に、函館の歴史をわかりやすく解説した書籍である。
 その編集時のことであるが、本文関係ではあらかたの作業が終わり、表紙のデザインの制作に入った。当初は元町公園下にあるペリーの銅像の写真を使ったレイアウト案を考えていたが、歴史に詳しいある方の「はじめてならアメリカよりもロシアでしょう」という一言を素直に受け止め、ハリストス正教会の聖堂に朝日の射す写真をメインに据えた。
 開港都市函館のはじめてがアメリカというのは、あまりに教科書的に過ぎると言える。確かに条約上の開国は、日米和親条約の締結とそれに伴うペリーの来函ということになるのだろうが、私がこの場で述べるまでもなく、函館とロシアとの関係は、はるか以前に遡る。
 恥ずかしながら私の「歴史認識」はたかがその程度であり、以後もさして進歩はないが、2012年の夏、そんな私のところに、一通のメールが送られてきた。要旨は以下の通りだった。

・ハリストス正教会の司祭であった自分の祖父が翻訳し、1923年(大正12)に富山県の高岡新報に連載した『十五歳の露國少年の書いた勘察加旅行記』を復活させたい
・これは1918年にロシア人親子3人がカムチャッカを旅行したときの日記であり、経由地函館の町の様子やカムチャッカでのデンビー商会、『デルス・ウザーラ』の著者であるアルセーニエフとの出会いなどが書かれている。
・私家版として出版し、国立国会図書館等へ献本することで後世に残すことがいちばんの目的である。原稿のPDFファイルを添付したので、負担が少ない方法や率直な意見をお示しいただきたい

 駆け出しの出版社にとっては、こうして声をかけていただけるだけでありがたかった。だが、印刷・製本、編集費まで含めて、まともに計算するとかなりの金額になる。見積を出して驚かれはしまいか。
 売れそうな本ならば、費用は全部こちら持ち、あるいは編集費だけでも無料にして、販売利益を編集費に充てるという方法もあるが、それにしてもテーマがあまりに地味過ぎはしまいか。駆け出しの出版社であるがゆえ、あまり売れそうにない本を出すような余裕はない。
 そんなことを思う反面、函館に関係する本なら、書店売りをする本として、きちんとしたかたちで出してみたいという気持ちもあった。
 しかし函館はあくまでも経由地に過ぎない。翻訳者がハリストス正教会の司祭をしていた、とあるが、その経歴をよく読むと、残念ながら函館ではなく本州のハリストス正教会の司祭だった。また、その時点での私は、デンビー商会についてすらも、戦前の函館で手広く商売をしていた、という程度の知識しかなかった。

『カムチャツカ旅行記』の刊行
 ともあれ原稿を読んでみなければ何とも言えない。旧かな遣いで書かれたその原稿は決して読みやすいものではなかったが、期待半ばで読み進めていくうち、好材料がポツリポツリと見つかってきた。
 往路、函館ではデンビー商会の支配人の自宅を宿に1週間滞在している。その間、市電に乗ってオペラ鑑賞に出かけたり、大沼へ1泊の魚釣り旅行に出かけたりするが、一般の歴史書ではそんな場面は記載されるはずもない。そういった旅行記ならではの記述から、当時の函館の町の様子が垣間見られた。
 2カ月半に及ぶカムチャツカ滞在の宿舎となったのは、函館と縁の深いデンビー氏の別邸だった。別邸の近くにあったデンビー商会の鮭缶詰工場にも足を運び、その高度に自動化されたラインについて克明に描写していた。函館からやってきた船大工が、ロシアとは違う方法で船を修理している様子についても興味深げに綴られていた。
 この旅行記が商品として成り立つものかどうかは相変わらず未知数だったが、原稿に一通り目を通したときには、これを出版しようという気持ちが強くなっていた。依頼者との条件面での折り合いもつき、早速、編集に取りかかった。
 まずは、旧かな遣いのまま編集を行い、約1カ月後の8月初旬に、電子書籍として無料公開を開始した。これは、早くかたちになったものを見たい、という依頼者の要望を請けてのことである。
 その後、印刷書籍として有料販売するべく、読みやすい現代かな遣いに焼き直すとともに、当時の函館やカムチャツカ、あるいはデンビー商会に関する説明資料を付け足すことにした。
 その過程で、元函館市中央図書館館長の長谷部一弘氏から、市立函館博物館に旧日魯漁業株式会社が寄贈した写真帳があるはずであり、当時のカムチャツカの様子を知る上で参考になるだろうとのアドバイスをいただいた。
 このときすでに季節は冬になっていた。現代かなに置き換えるのは予想以上に手間のかかる作業だった。これは後で知ったことだが、厳寒の博物館収蔵庫から資料を取り出し閲覧するというのは容易ではない。たとえば冷たいままの写真帳は、めくるだけで写真が割れる。かといって急に温かい部屋に運ぶと写真の表面に結露が生じる。
 そういう中で閲覧を願い出た私に対し、市立函館博物館では、まず資料を前もって収蔵庫から暖房の入っていない部屋へと移して、穏やかに「冷蔵状態」を解き、閲覧当日は朝から暖房を入れ徐々に常温に戻していく、という手間な作業をしてくださった。労をお取りいただいた同館学芸員保科智治氏にはこの場を借りてお礼を述べたい。
 膨大な収蔵点数を誇る市立函館博物館では、各資料・史料の詳細や寄贈あるいは製作された背景を特定することも慎重を要する作業となるが、以前に博物館で「街と歩んだ北洋漁業~ニチロ創業100年」という企画展が催された際の担当者で、旧日魯漁業関係の資料に詳しい佐藤智雄氏(現在は函館市教育委員会文化財課学芸員主任)が、師走のお忙しい中、そのときの記憶をたぐり寄せながら、親身にご対応してくださった。
 また、デンビー商会や当時のカムチャツカに関する資料はないものだろうかと函館市中央図書館に相談したところ、同館主任主事の奥野進氏が函館・八幡坂にあったデンビー商会の写真をお出しくださるとともに、『函館・ロシア その交流の軌跡』(清水恵著・函館日ロ交流史研究会刊)という書籍をご紹介くださり、追加資料の作成に大いに役立つこととなった。
 各位のご指導、ご協力のおかげで、旧かな版の編集段階では気が付かなかったことがわかってきた。本誌の読者には当たり前のことかもしれないが、当時のカムチャツカはサケ、マスの宝庫として日ロ両国から熱い注目を浴びた有望の地であり、函館を拠点にいちはやく事業を展開したデンビー商会と、まだ黎明期であった日本の北洋漁業の推進者として頭角を現した旧日魯漁業株式会社がしのぎを削り、その製品である鮭缶詰のヨーロッパ輸出は巨万の富を生み出そうとしていた。そしてデンビー商会や日魯漁業が現地ににおける事業の中心地と定めたのが、まさに少年の旅したウスチ・カムチャツクであった。なお、「鮭缶を売って軍艦を買った」と言われるほどに、函館を拠点に展開された北洋漁業は、当時の日本において貴重な外貨獲得源の1つであったという。
 さらに興味深いのが、少年の旅した1918(大正7)年は、ロシア革命の翌年であるということだった。要するにデンビー氏のようなブルジョワジーは、未曾有の窮地に追い込まれようとしていた。事実、同年5月に、デンビー商会は三菱合資会社主導で設立された北洋漁業株式会社に買収されるという形をとり、デンビー氏は名目上、漁場経営の表舞台から退く。それにも関わらず、その翌月である6月から9月にかけて、ウスチ・カムチャツクで少年たちを迎え入れ、ともに狩猟三昧の日々を送るのだ。
 その心中、いかばかりだったろうか。ただ、発動機船で遠路熊猟に向かいながらも、デンビー氏一人が野営地に留まり猟に出ないといった場面があるなど、そういった背景を意識して読めば興味をそそる描写も散見される。
 また、その4年後の1922年には北洋漁業と旧日魯漁業が合併、デンビー氏はウスチ・カムチャツクでの事業から完全に手を引かざるを得なくなり、少年が足を運んだデンビー商会の工場は、旧日魯漁業の工場となった。ちなみに本書には、市立函館博物館が所蔵する旧日魯漁業製作の写真帳『東カムサッカ漁工場他事業風景』から、その外観や缶詰生産ラインの写真を、少年が旅した風景を想像するための参考資料として転載させていただいている。
 なおこの旅行記は、少年の父親がロシアでの出版を考えたが、革命の影響で出版活動が停止されたためそれがかなわず、結局ベルリンで出版されることとなるが、それがこの1922年のことだった。そしてその翌年、依頼者のメールにもある通り、日本語に翻訳されて高岡新報に掲載された。本書の巻頭には、高岡新報の掲載予告広告の文面も収録しているが、十五歳の少年の旅行記が新聞に載ったという事実は、この時代、カムチャツカにいかに高い関心が寄せられていたかということを物語っている。
 『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』〈復刻改訂版〉は年末ぎりぎりに編集が完了。印刷・製本を経て2013年1月23日に、まずは函館市内で先行販売を開始した。それからまだ日も浅いが、予想していたよりも興味を感じてくださる方が多く、「ロシア語の原書を知っていて、日本語版があれば読みたいと思っていた」という方がいらっしゃるという話を人づてに聞くなど、改めて函館とロシアの近さを実感することとなった。私自身もこの本の編集を経て、ロシアという国を少しは近くに感じるようになったのかもしれないし、北洋漁業については、「あの時代の函館はよかった」という語り草のレベルを超え、日本という国全体に果たしたその役割の大きさは、いつまでも語り伝えるべきだと思えてならない。
 本書はあくまでも十五歳の少年の手によるものではあるが、その観察眼はなかなか鋭い。どこかでお手にとっていただければ幸いである。

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刊行された『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』〈復刻改訂版〉
(新函館ライブラリ代表)

「会報」No.34 2013.3.31 特別寄稿

ガブリール・クラマレンコ:アストラハンからサハリンまで

2013年4月 9日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに
 先頃、ジョルジュ・クラマレンコ著・松本高太郎翻訳『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』復刻改訂版が出版された(1)。同書は、1917年に首都サンクトペテルブルクで勃発したロシア革命の翌年に当たる1918年の夏、横浜のセント・ジョセフ学院に通っていたジョルジュが、末弟のアーシャと共に父親(ガブリーフ・クラマレンコ)に連れられて向かったカムチャツカでの日々を綴った旅日記である。この復刻改訂版の出版のことは、本号で大西剛氏が詳しく触れている。
 ガブリール・クラマレンコは、19世紀末から20世紀初め、サハリンそしてカムチャツカで活躍した漁業家で、かつては函館の漁業者の間で良く知られた存在だった。
 ところが、クラマレンコ研究が日本ではほとんど行われていないこともあり、今ではその名もすっかり忘れ去られてしまった。筆者自身、サハリンの元流刑囚漁業家ビリチと同時代、しかも同じ地域(サハリン・ウラジオストク・函館・カムチャツカ)を舞台に活動した同業者ということで、以前からクラマレンコに注目していたが、特に調査研究を行ってきたわけではなかった。
 しかし、このたび『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』の復刻改訂版が出版されたことで、筆者のクラマレンコへの関心は一気に高まった。ジャーナリストのドロシェーヴィチ(2)、宣教師ニコライ(3)、動物学者で魚類学者のシュミット博士(4)といった、クラマレンコの同時代人によるクラマレンコに関する記述、あるいはクラマレンコの活動の場であったカムチャツカ(5)やウラジオストク(6)の研究者が近年発表した研究論文等を手に取ってみると、思いのほか情報量は多く、内容的にも非常に興味深いため、是非とも本号で紹介したくなった。
 本稿は、これまで日本で紹介されることのなかった、サハリンで漁業経営者として成功するまでの若き日のクラマレンコに光を当てる。それとあわせて、ロシア革命以降、クラマレンコ一家がたどった過酷な運命についても触れる。
 『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』を補完する情報として読んでいただければと思う。

■生まれ故郷アストラハン
 ガヴリル・アモーソヴィチ・クラマレンコ(Гаврил Амосович Крамаренко)は、1867年3月31日にアストラハンの町人階級の家に生まれた。アストラハン郡の中等専門学校を卒業し、13歳からクズネツォフ兄弟漁業商会の事務所で働くことになった。13歳で少年クラマレンコは両親を亡くし、それ以降、自立の道を切り開かなければならなかったのである。
 クズネツォフ兄弟漁業商会でクラマレンコは、事務所の会計係として働いた。漁業に携わったわけではなかったが、アストラハン県はロシアでも有数の漁獲量を誇る土地である。1週間の鰊が、丸々一年の生活を養ってくれた。そのため鰊到来の時期ともなると、本業はさておき、事務所の全員が漁を行う労働者を監督するため、現場に派遣された。そこが、クラマレンコの学び舎であり、あらゆる知識の源となったのである。
 1892年、クラマレンコは狂犬病に罹った犬に噛まれた。その治療のためモスクワに送られた。同地でたまたま購入した飢餓救済富くじが大当たりし、1,000ルーブルを手にした。これがクラマレンコの人生の大きな転機となる。
 「幼いころから冒険心にあふれる少年だった」、「サハリンやアムール川の魚の豊かさについて新聞で読んだことがあったため、極東に向かう決意をした」、と後年クラマレンコは回想しているが、「クラマレンコは、運試しに極東に向かう決心をした」(シュミット博士)、「進取の気性に富んだ性格でもあり、そろばんを捨て、腋の下にバイオリンを抱え、この時代多くの人々を惹きつけたウスリー地方へと向かった」(ドロシェーヴィチ)という同時代人の指摘からは、若きクラマレンコは、漠然とした夢を抱きつつ、新天地を目指したといった方が正しいであろう。

■極東の「オルフェウス」
 ウスリー地方(現在の沿海地方南部のこと)に到着したクラマレンコについて、ドロシェーヴィチの記述を借りれば、以下のとおりである。
 クラマレンコは「すぐさま成功を手にした」。「ウスリー地方全域が、彼のバイオリンの意のままに行動したとも言える。結婚式、洗礼式、名の日に演奏し、エキゾチックな君主のわけのわからぬメダルで身を着飾り、「アフガン、ブハラ、そしてお人よしのキルギスの君主の宮廷の名手」としてコンサートを行った」。
 クラマレンコのバイオリンを前に人々は狂喜した。故郷を捨て、ロシアやウクライナとは何もかもが異なる極東の地で暮らし始めた人たちに、青年クラマレンコがもたらしたのは、故郷ロシアあるいはウクライナを想起させる文化的な香りであり、余興の少ない未開の地での一瞬の空騒ぎといったところだろうか。
 しかし、「こうした様々な芸術に、彼自身、そしてウスリー地方の人々もすっかり飽きてしまった頃、クラマレンコは「演奏のために」サハリンへと去っていった」。

■漁業家へ転身
 クラマレンコがサハリンに到着するまでの経路について、同時代人のシュミット博士は、「1894年にウラジオストクに到着し、アムール川河口、そしてニコラエフスクに出かけ、サハリンに分け入った、と説明している。
 潤沢だった所持金も、サハリンに到着する頃には見事に消えてなくなっていた。バイオリンだけが残っていた。そのバイオリンで演奏を披露し、バイオリン教室を開き、一時的に凌いだ。
 しかし、それも長くは続かなかったようで、1895年、3年の期限で、サハリン島の監獄の漁労に対する「技術上の監督官」に任命された。「地元の官憲の勧めを受け」たため、とクラマレンコはドロシェーヴィチに説明したようだが、シュミット博士の、「サハリン島東海岸の漁労監督官のポストを得ることに成功し」た、との記述から想像するに、アストラハン時代に漁業者の監督した経験をアピールし、仕事にありついた、というのが真相ではなかろうか。
 いずれにせよ、この職を得たことは、クラマレンコのサハリンでの不安定な生活を安定させただけではなかった。漁業監督官として島の全ての海岸を巡視した経験を通して、クラマレンコは漁業のことを完全に理解した。そしてこの時得た情報は、魚の加工場を発展させる際に大いに役立つことになる。
 1896年には、サハリン島長官から漁場を借り受け、日本人とともにコルサコフに近い「ピェールバヤ・パーチ」(日本名で「一ノ沢」)で漁業を開始した。
 このようにして、アストラハンの事務所の会計係は、極東のバイオリン弾きを経て、漁業家へと転身したのである(7)。

■漁業家への道の模索
 エニセイ県出身のヤコブ・セミョーノフ、あるいはロシアに帰化したスコットランド出身のジョージ・デンビーのように、サハリン島が昆布や魚が豊富だという噂を聞きつけて、はるばるやって来た冒険心にあふれた人たちがいたのも事実だが、当時のサハリン島が流刑地であったことを忘れてはならない。つまり、自由意志でやってくる人はまれだったということである。そのため、クラマレンコがやって来るまでは、大量の鰊が上がればそれを食べることはしたものの、余った魚を塩蔵するという、加工について考える者はいなかった。おかげで、クラマレンコ程度の知識や経験でも、当地では珍重されたというわけである。
 しかし、クラマレンコがすぐに漁業家として成功したわけではない。知識不足からくる失敗があり、そこから学んでいった。一例を挙げると、クラマレンコは、ただ同然の支払いをしただけで、囚人労働で工場、地階、地下室を建てさせた。ところが魚を納める穴倉は魚を腐らせるだけで役に立たず、また魚を塩漬けにするための地下室からは塩水が漏れ出し用を成さなかった。これは何も囚人労働に問題があったからではなく、建造物の建て方を知らないクラマレンコに非があった。
 当初、クラマレンコは、監獄に魚を供給し、その代わりに毎年少額の助成金を得ていた。そして日本人漁業者には批判的で、大挙してサハリンに押し寄せ、鰊のような価値ある魚を、食用とするのではなく、大釜で茹でて肥料としていることに対して、「蛮行だ」、日本の漁業者は「濫獲者」だと声高に叫び、非難した(1896年の「サハリンカレンダー (Сахалинский календарь)」に論文を発表)。
 ところが、日本人と鰊の〆滓を作り、肥料として日本に販売し、日本人に漁場を貸す名義人となることが、助成金を得るよりもはるかに大きな利益をもたらすことを理解するようになると、クラマレンコは、自ら「濫獲者」の道を選んだ。

■独立した事業の拡大へ
 ジャーナリストのドロシェーヴィチは、クラマレンコの事業は、地元の人たちにとって何の役にも立っていないと非難し、資源豊かなサハリンは、ロシアで脱落した人たち、あるいは濫獲者たちの餌食になっていると嘆いた。しかし、当のクラマレンコは、次なる目標を立てていた。事業の拡大には会社を設立しなければならず、それには資金調達が必要だと考えた。
 1897年、東京経由で、オデッサ、ペテルブルグ、そしてアストラハンに向かった。東京駿河台の宣教師ニコライを訪ねたのは、同年10月22日(露暦11月3日)のことである。同日のニコライの日記によると、クラマレンコは、自分の事業計画案がプリアムール総督のドゥホフスコイに積極的に支持されており、公的補助金が支給されるよう奔走することを約束されたこと、総督と二人並んで写真を撮ったほど仲が良いこと、峡谷(8)にクラマレンコの名を冠することを命じたことなど、あれこれと自慢げにニコライに話したようである。
 故郷アストラハンでは、地元の大漁業家の関心を自分の事業に向けることに成功した。その中には、K.P.ヴォロビヨフ、そして保存期間の短い物資の輸送を専門としているN.V.ヴェレシャギンが含まれていた。クラマレンコは、資金調達のみならず、大規模な漁業経営法や長距離輸送のノウハウなど、今後の事業展開に必要な事柄を故郷で貪欲に学んでサハリンに帰って行ったに違いない。
 この時の旅には、もう一つ大きな目的があった。1898年、首都サンクトペテルブルクで、農務省と国有財産省を訪れ、全く新しい方向性で事業を発展させるために、現在日本人が借りているテルぺニア湾(日本名「多来加湾」)の4つの漁区とアニワ湾の8つの漁区を自分に貸与してほしい、と陳情したのである。「全く新しい方向性で」とは、日本人漁業者に握られているサハリン漁業を、ロシア人漁業者の手に移すことを意味していたとも受け取れる。
 サハリン南部に進出する日本人漁業者が年々増加するに従い、ロシア政府は日本人漁業者の進出を抑制し、自国民優遇策を採るようになっていく。決定的だったのが、1899年のアムール川漁業規則である(9)。
 これ以降、日露戦争が勃発するまでの数年間は、クラマレンコ、セミョーノフ、デンビー、さらにはビリチといった、サハリンのロシア人漁業家の黄金時代となる。日露戦争が勃発した年の1904年には、サハリン開拓で貢献したクラマレンコは、世襲名誉市民となった。

■クラマレンコ一家のこと
 以下では、断片的ではあるが、クラマレンコ一家についてまとめてみたい。
 G.A.クラマレンコの妻は、出自はポーランドで、シェホフスカヤの出身だった。二人の間には、長男ガヴリール(呼び名は「ガガ」)、次男ゲオルギー(同左「ジョルジュ」)、三男ニコライ(同左「コカ」)、四男アレクサンドル(同左「アーシャ」)そして長女マリア(同左「マルーサ」)の5人の子供がいた。
 長男・次男・三男の3人は、ツァールスコエ・セローで学んだ後、イギリスで学んだ。
 1910年5月22日、クラマレンコは、もうすぐ11歳になる長男ガガを伴い、カムチャツカを訪れた(10)。
 ところがロシア革命を機に、クラマレンコ一家の生活は一変する。
 1917年のロシア革命の初め(筆者注:2月革命から間もない時期に、の意か?)、クラマレンコは、寄宿制の女学校に通っていた長女のマルーサを呼び戻し、妻、マルーサ、次男、四男を日本に向かわせた。
 日本に着いてからのマルーサは、神経を患うようになり、入院が必要となった。日本でこの手の病を治療することが難しいと判断したクラマレンコは、ペトログラードに向かう精神科医夫妻に娘を託し、連れて行ってもらうことにした。
 一方、日本に残った次男ジョルジュと四男アーシャは、横浜のセント・ジョセフ学院に通い始めた。そして1918年の夏休み、父親、すなわちクラマレンコに連れられ、カムチャツカを訪れた(その時のことは『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』参照)。
 1918年の夏の時点で、長男ガガと三男コカはアルハンゲリスクにいた。なぜそのような遠い北辺の地に、両親や他の兄弟と離れていたのか、理由については明らかでない。

■一家のそれぞれの運命
 革命後、5人の子供たちの運命は様々だった。まず長男ガガについては、英国のカレッジで小型漁業船の技術免許を取得した後、第4ペトログラード商業学校を即席コースで終了した。1920年代末には、ウラジオストクに暮らし、ここで専門学校を特別に終了し、「ダリゴスリィブトラスト」で主任技師として働き、いわし漁のための引網船を造った。
 1927年以降カムチャツカの漁業会社(ACO)に所属し、新規の漁区の開拓や魚の缶詰工場建設など漁業の方面で、あるいは農業や林業経営でも力を発揮した。その後、カムチャツカのカラマツで漁獲用の小型の船を造ることを発案したことから、クリュチ市の木材加工コンビナートで働くことになり、そこで造船所建設の陣頭指揮に当たった。
 これらのことから、ソヴィエト政権初期の頃は、カムチャツカで活躍していたことがわかるが、1938年2月18日、内務人民委員部によって逮捕された。1940年10月26日には、8年間の自由剥奪を言い渡された。1946年8月13日に自由を回復した後、1981年までトボリスクの船舶工場で働いた。1991年1月20日死亡。
 最近までウスチ・カムチャツカ地区クリュチ市ベレゴヴァ通りには、ガガ一家が暮らしていた家が残っていた。
 次男ジョルジュと四男アーシャは、共にロシアから亡命。長男ガガ(ガヴリール)の息子ゲオルギー・ガヴリロヴィチによれば、二人はモロッコに暮らし、映画スタジオで働いていた。
 三男コカは、パリでタクシー運転手をしていたという説もあれば、白軍のデニーキン軍の戦線で戦死したとの説もある。
 マリア・ガヴリロヴナは、レニングラードに暮らしていた。
 クラマレンコ夫妻は、革命後亡命し、1928年に二人は死亡し、二人はドイツのベルリンに眠る。別の資料(ヒサムトディーノフ論文)によると、夫妻は亡命後、イギリス、フランスで暮らした。1928年10月10日、クラマレンコはパリで死亡した。

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長男ガガ(ガヴリール・ガヴリーロヴィチ・クラマレンコ)http://www.npacific.ru/np/library/publikacii/questhist/istor-25.htmより


(1) 原文は、Крамаренко Жорж. Камчатка Моё путешествие и моя охота на медведей и горных баранов в 1918г. Дневник 15 летнего школьника. Изд.Ольга Дьякова и Ко., Берлин.
(2) Дорошевич В.М. Сахалин (Каторга). М., 1903. ロシア人ジャーナリストのドロシェーヴィチは、作家アントン・チェーホフのサハリン来島から6年後の1897年に流刑地サハリン島の社会調査のため訪れた。首都に戻ってから、著書『サハリン(徒刑地)』を発刊する。同書の中で、サハリン来島以前、サハリンで漁業家として歩み始めた若き日のクラマレンコについて、「サハリンのオルフェウス」と題した一小節の中で触れている。
(3) 中村健之介訳・解説・註解『宣教師ニコライの全日記』第5巻、教文館、2007年。
(4) Шмид П.Ю. Морские промыслы острова Сахалина. Рыбные промыслы Дальнего Востока III. Спб., 1905.
(5) Борисов В.И. Семья Крамаренко на Камчатке // Вопросы и истории рыбной промышленности Камчатки. Сборник трудов. Вып.10(2). Петропавловск-Камчатский, Изд-во КГТУ, 2000. С.77‐89.
(6) Хисамутдинов А.A. Русские в Хакодате и на Хоккайдо или заметки на полях. Изд. ДВГУ, Владивосток, 2008.С.275.
(7) クラマレンコが直接漁業に携わるようになった時期や場所については、カムチャツカの研究者ボリソフ論文には、「1893年、プリアムール地方に到着し、そこで漁獲方法や販売市場に関する知識を得た。1894年、F.F.ブッセ移民局長の勧めを受け、アムール川で漁業を始めた。」、とあり、サハリン来島以前から漁業に関与していたことを示す資料もある。なお、フョードル・F.ブッセは、1882年から1892年までの10年間、南ウスリースク移民局長を務めたが、1884年ウラジオストクにアムール地方研究協会の起ち上げに尽力し、同協会の初代執行委員長を5年間務めるなど、学者としての評価も高い(Приморский край. Краткий энциклопедический справочник. Владивосток, 1997.С.58-59.)。ニコライ・ブッセは従兄。
(8) ロシア語で"падь"(Дневники святого Николая Японского. Под ред. К. Накамура. СПб., 2004.Т.3.С.616.)。1896年にクラマレンコが借り受けたピェールバヤ・パーチ」(日本名で「一ノ沢」)のことを指しているのかどうかは不明。
(9) この頃の状況について、『函館市史』(通説編第2巻第4編1147頁)には、明治31(1898)年は、新規則が調査中とのことで、旧規則が1か年適用されるが、6月には営業税率の改定を布告し、この実施をみた明治32年には樺太島の最良漁場であったアニワ湾内5か所とホロナイ川口海浜漁場をロシア人クラマレンコに許可した、と書かれている。
(10) この時、長男ガガも紀行文を残し、1910年にサンクト・ぺテルブルクで『ペテルブルクからカムチャツカまで、そして日本へ』として出版された(Крамаренко Г. В Камчатку: От Петербурга до Камчатки и в Японию. Путешествие школьника, опсанное им сами. СПб., 1910.)。参考までに、カムチャツカでクラマレンコ親子は、「古くからの知人ビリチ」のところに宿泊した。

「会報」No.34 2013.3.31 研究ノート


小島倉太郎の遺品にみるその足跡 -クレイセロック号探索から聖スタニスラフ第3等勲章受勲まで-

2012年7月24日 Posted in 会報

大矢京右

はじめに
 小島倉太郎(1860-1895)は、明治初年の北海道でロシア語通辞として活躍した役人である。小島はその語学力を活かしてクリルアイヌ(1)の強制移住に立ち会うこととなったり、コレラの流行に伴う外国船への立ち入り調査を担当したりするなど、「役人」としての役割を果たすだけに留まらず、震災被災地への寄附行為や博物館への資料寄贈、週刊ウラジオストク新聞への寄稿など、「文化人」「国際人」としての役割をも十分に果たした進取気鋭の「函館人」であった(2)。小島の死後、彼の遺品は遺族によって市立函館博物館をはじめとした北海道内の諸研究機関に寄託・寄贈されたが、これらはいずれも北海道の教育史・行政史・写真史など様々な研究分野においてきわめて貴重な資料群と評価されており、これまでも渡辺1983やザヨンツ2009など重要な論文として結実している。
 本稿は、激動の時代に35年という短いながらも波瀾万丈の人生を生き抜いた小島自身のライフヒストリーの中でもひときわ強く輝きを放つ聖スタニスラフ第3等勲章受勲について、市立函館博物館所蔵『小島倉太郎関連資料』および北海道立文書館所蔵『小島倉太郎文書』ならびに当時の函館新聞などの関連文献をとおしてその足跡をたどったものである。

小島倉太郎略歴-クレイセロック号遭難事件前夜-
 小島倉太郎は1860(万延元)年に幕吏の長男として出生し、父の転勤に従って日ロ雑居地であった樺太へ移住、1871(明治4)年にロシア商人に預けられて以降ロシア語を学び、1873(明治6)年から1881(明治14)年までは開拓使仮学校・函館魯学校・東京外国語学校で官費生としてロシア語を修めた。
 卒業後小島は1881(明治4)年3月17日付で開拓使の御用係として辞令を受けると、1884(明治17)年のクリルアイヌ強制移住の立ち会いや1886(明治19)年に国後島近海で難破したアメリカ船員の護送、樺太から北海道へ逃げ出したロシア人囚人の護送など、持ち前の語学力を見込まれて日本中を奔走する。小島のクレイセロック号遭難事件への関わりはまさにこのような仕事の一つであったのだが、その辛苦はそれらのいずれをも遙かに凌駕するものであった。

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小島倉太郎の1881年2月19日付卒業証書(北海道立文書館所蔵)

クレイセロック号遭難事件とロシア人の来函
 1889(明治22)年11月、樺太クリリオン岬から沿海州ウラジオストク港に向かうロシア海軍の帆走船クレイセロック号が宗谷沖で消息を絶ち、乗組員と思わしきロシア人水夫の遺体が宗谷郡抜海村(現在の稚内市抜海村)の海岸(3)で発見された。そしてロシア領事を通じてその事実を把握したロシア東洋艦隊司令長官は、ロシア海軍軍医БУНГЕ,А.А.頭に少尉БУХАРИН,В.Н. および水夫 ОЩЕПКОВ,А.Ф.の調査派遣を決定し、1889(明治22)年12月30日にこの3名が来日したのである。
 БУНГЕ と БУХАРИН は年の改まった1890(明治23)年1月5日に和歌浦丸で来函し、ОЩЕПКОВも横浜から次便で合流、北海道庁は7日付で函館出張所の小島と第二部逓信課の井川義松の調査同行を命じた。

クレイセロック号の探索
 来函時、クレイセロック号遭難からすでに1ヶ月以上が経過しており、ロシア側としてはできうる限り早めに進行したかったのであろうか、3名のロシア人と2名の日本人の一行は早くも翌8日正午12時の函館発小樽行き高砂丸に乗り込んだ。そして小樽到着後は休む間もなく10日発の貫効丸で増毛へ出発する予定であったが、折り悪く暴風雨が彼らの行く手を阻んだ。一行は足止めを余儀なくされたが、いつまでも手をこまねいていることはできないので、海路をあきらめて陸路で札幌を経由して増毛をめざすことを決断した。札幌までどのようにして向かったかに関する記録はないが、調査行の目的とメンバーのステイタスから見ても、おそらく当時開通して間もない幌内鉄道を利用したであろう。それならばいかに冬場の北海道とはいえ、安全かつ迅速に札幌まで到着したことと考えられる。しかしこの調査行で最も困難な道のりはここから始まるのである。
 一行は1月18日に札幌を出発し、急峻な冬の増毛山道を通って稚内をめざしたのであるが、まさに筆舌に尽くしがたい困難が彼らを待ち受けていた。この様子を小島は「仝峻路ハ北海道中ノ大難所ニシテ夏時スラ通過シ得易スカラズ 當時積雪丈餘結氷シ恰モ銀板ヲ鋪クニ異ラズ其道ノ何レニ在ルヲ知ラス 加之烈風飛雪来襲シ滑路一歩ヲ誤チナバ千仞ノ雪蹊ニ陥ル可シ 或ハ躓キ或ハ倒シ辛フシテ生命ヲ保チ増毛港ニ出ツルヲ得」(4)と自らの旅行畧記に記している。

クレイセロック号の発見と生還
 増毛山道を何とか越えた一行は海岸沿いに北上し、ロシア人水夫の遺体が見つかった抜海村よりわずかに南方の手塩国ワッカサクナイ(現在の豊富町稚咲内)の海岸にて、全壊したクレイセロック号の残骸を目の当たりにした。厳しい寒さの中完全防備した一行は、クレイセロック号の全体像および破壊された内部の写真を撮影した上でさらに北上、抜海村の海岸に仮埋葬されたロシア人水夫の死体を検視した上で、ようやく北海道最北の地である稚内に到着することができた。しかしこれで調査が終了したわけではない。「遭難ノ模様及船体並乗組員行衛等巨細探知之為」「北海道西北海岸並ニ諸島ヘ」(5)派遣された3名のロシア人と小島たち一行は、休む間もなく宗谷岬最北端に位置する宗谷岬灯台附近も仔細に調査し、稚内発小樽行きの紀ノ川丸船上から礼文・利尻・焼尻・天売の各島も巡視した上で、2月23日に小樽に到着した。小樽では少し心の余裕もできたのか、同地で撮影されたБУНГЕのポートレートが小島のもとに残されている(6)。

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クレイセロック号の残骸と小島一行(北海道立文書館所蔵)

帰函と別れ
 一行は札幌の北海道庁で顛末を報告した後、小樽発函館行きの高砂丸に乗船、ようやく函館の地を踏むことができた。時はすでに2月28日で、1月8日に函館を出発してから実に50日ほどが過ぎていたことになる。帰還した当日に小島は函館田本写真館でポートレートを撮影しているが、その痩けた頬がいかに過酷な旅であったかを物語っているようである。また、函館市中央図書館が所蔵する古写真の中には、生死を共にした3人のロシア人と小島が一緒に写っている写真があり、撮影日や撮影場所などは明かではないが、小島の風貌や服装がポートレートと共通していることや、机の構造や床面の柄が他の田本写真館撮影のものと酷似していることから、おそらく同じ時に撮影されたものであろうと考えられる。
 翌3月1日に北海道庁函館出張所で二木理事官に調査の顛末を報告したのち、3人のロシア人は3日午後2時発横浜神戸行きの和歌浦丸で帰京することとなり、小島にも随行のために2日付で「出京ヲ命ス」辞令が下された。船出の際には二木理事官と函館ハリストス正教会のセルギイ神父が見送りに来ていたというから、3人のロシア人は出発前日(日曜日)に教会を訪れていたのかもしれない。横浜に到着したロシア人と小島がいつどのように別れを惜しんだのかは定かではないが、3月10日に横浜の鈴木写真館で撮影された ОЩЕПКОВのポートレートが小島のもとに残されており、おそらくその直後に3人のロシア人は船上の人となったのではないだろうか。
 なおこの在京時、小島は9日に東京で外国語学校時代の学友である戸澤鼎から写真を贈られたり、13日に東京丸木写真館にて同じく戸澤鼎や鈴木於菟平らとともに記念写真を撮影したりするなど、かつての学友たちと友人と旧交を温めている。
 また、小島がいつ函館に戻ったかについても具体的な記録はないが、3月25日に函館田本写真館で撮影された写真が残されていることから、少なくとも13日から25日の間には戻っていたものと考えられる。

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2月28日撮影小島倉太郎(市立函館博物館所蔵)

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小島一行の記念写真(函館市中央図書館所蔵)

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1889年田本写真館撮影写真(市立函館博物館所蔵)

聖スタニスラフ第3等勲章の受勲
 小島の生命を懸けた協力に対して、ロシア皇帝アレキサンドルⅢ世は1890年6月29日付で小島への聖スタニスラフ第3等勲章の授与をロシア勲章局に対して勅命を下し、これに伴ってロシア勲章局長から小島に対して1890年7月16日付で第3133号勲記が交付された。しかし郵送の手違いなどもあって、実際に小島のもとに勲章が届き、併せて日本政府から「大日本帝国外国勲章佩用免許証」が交付されたのは1894(明治27)年9月3日のことであり、アレキサンドルⅢ世による勲章授与の勅命が下ってから既に4年以上の歳月が過ぎ去っていた。ただ一つの救いは、翌1895(明治28)年7月22日に急逝する小島の生前において、この吉報が届けられたことであろう。
 なお、これら勲記および佩用免許証などは現在北海道立文書館が所蔵しているが、聖スタニスラフ第3等勲章本体の所在については不明である。

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小島と東京外国語学校学友(東京丸木写真館 3月13日撮影)(市立函館博物館所蔵)

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3月25日撮影 小島倉太郎(市立函館博物館所蔵)

おわりに
 以上、小島倉太郎のクレイセロック号調査行から聖スタニスラフ第3等勲章受勲までを、主に北海道立文書館所蔵『小島倉太郎文書』中「クレイセロック号探索関係アルバム」および市立函館博物館所蔵『小島倉太郎関連資料』中「明治初年の写真アルバム」を中心に、当時の函館新聞の記事や写真資料の裏書きなどで情報を補完しながらできるだけ詳細にその足跡をたどってみた。そして改めて小島の果たした功績と国際貢献を認識するとともに、その卓越した能力とバイタリティに今更ながら驚かされるばかりである。
 小島の生涯は短いながらも明治初年の函館がおかれた国際的な状況等を如実に表出しており、当時の社会状況等をあぶり出すための一試論として、今後も小島の生涯における象徴的な場面を切り抜く作業を進めたい。


(1)千島列島北部に居住していたアイヌの一分派で、千島樺太交換条約(1875年)に伴い1884(明治17)年に南千島シコタン島へ強制的に移住させられた。地理的・政治的にロシアの影響を強く受けていたため、言語や宗教などの生活文化はロシア化されていた。
(2)小島の経歴などに関しては、小島1994などに詳しい。
(3)『小島倉太郎文書』中「クレイセロック号捜索関係アルバム 旅行畧記」には「オネトマリ」と表記されているが、「オネトマナイ(利尻島対岸)」の誤りか。
(4)『小島倉太郎文書』中「クレイセロック号捜索関係アルバム 旅行畧記」より
(5)『小島倉太郎文書』中「クレイセロック号捜索関係アルバム 旅行畧記」より
(6)БУНГЕのポートレートは鶏卵紙に現像され、上野彦馬の台紙に貼られている。手書きで「отару」(オタル)と書き込まれており、小樽で撮影したものをБУНГЕがウラジオストクの上野の写真館で複製して小島に送付した可能性がある。

参考文献
大矢京右 2010 「小島倉太郎関連資料」『市立函館博物館研究紀要』20 pp.51-56 市立函館博物館;函館市
小島一夫 1994 『小島倉太郎を偲んで』私刊;札幌市
小島一夫 1998 『けんかたばみ回想記』私刊;札幌市
ザヨンツ,マウゴジャータ 2009 『千島アイヌの軌跡』 草風館;浦安市
渡辺雅司 1983 「東京外国語学校魯語科とナロードニキ精神-小島倉太郎の講義録をもとに-」『ロシヤ語ロシヤ文学研究』15 pp.1-14 日本ロシア文学会;京田辺市
『小島倉太郎関連資料』市立函館博物館所蔵
『小島倉太郎文書』北海道立文書館所蔵
1890年1月7日付『函館新聞』2629号2面
1890年1月8日付『函館新聞』2630号3面
1890年1月12日付『函館新聞』2634号2面
1890年1月19日付『函館新聞』2640号2面
1890年2月25日付『函館新聞』2669号2面
1890年3月1日付『函館新聞』2673号2面
1890年3月2日付『函館新聞』2674号2面
1890年3月3日付『函館新聞』2675号2面

「会報」No.33 2012.7.20

Прикосновение к прошлому.

2012年7月24日 Posted in 会報

ロシア連邦総合大学函館校教授 アンドレイ・グラチェンコフ

  Когда в руки попадает книга, возраст которой составляет почти 75 лет, это всегда событие. Знакомство с такой книгой это встреча с прошлым, а прикосновение к её страницам равно удивительному прикосновению к прошлому.
Таким прикосновением к прошлому стала для меня книга «最新露語読本», изданная в Японии в 1937 году.
 Книга не большая, но тем не менее, начинается она портретом её автора Семена Бек-Булат - Смирнитского.
 С парадной фотографии на нас смотрит ещё молодой, полный сил мужчина, чуть старше 30-ти лет. Он одет в черный сюртук, который украшают три ордена. Вероятно, фотография сделана ещё до октябрьской революции 1917 г., но может быть, сразу после приезда в Японию. Черные глаза, черные волосы и черные усы, говорят о татарских предках этого человека, а его длинная фамилия это только подтверждает. Но о фамлии позже, а снача поговорим об орденах.
 На фотографии можно разглядеть орден Станислава 3-ей степени, орден св. Анны второй степени и французский орден почётного Легиона. О чём же говорят эти награды? 

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 слева на право: орден св.Анны второй степени, орден св. Станислава третей степени с мечами, орден Почетного легиона
 Известно, что во время Первой мировой войны (1914-18) автор воевал на германском форонте. Вопрос, где же наш автор получил французский орден в Росии или во Франции? Франция и Россия были союзниками. Во Франции на германском фроне сражался русский экспедиционный корпус, многие солдаты и офицеры которого были награждены французскими орденами. Учитывая, что Смирнитский хорошо знал французкий язык, можно предположить, что он получил орден во Франции. К сожалению, за недостатком материала, это предположение не может быть доказанным фактом.
 Рискну предположить, что и орден Станислава получен  за боевые заслуги, а значит  это орден Станислава с мечами, хотя на фотографии такие детали разглядеть трудно. Орденом Станислава 3-й степени с мечами награждали молодых офицеров невысокого звания.
 Наконец, самый высокий по достоинству орден св.Анны второй степени. Вторая степень Анны считалась выше Станислава 3-й степени. Орден св. Анны второй степени носили на шее. Это знаменитая «Анна на шее». Те из читателей, кто знакомы с произведениями Чехова, конечно, вспомнят рассказ одноименного названия.
 Итак, Анна на шее, Станислав и французский орден на груди: типичный орденский набор, характерный для военной карьеры молодого офицера в чине не ниже порутчика и не выше штабс-капитана.
 А теперь несколько слов о фамилии нашего автора. Она, несомненно, дворянская и более того она, как вы видите, двойная.
 Двойная фамилия состоит их двух частей или двух фамилий. Значит, автор получил её от своего отца, т.к. двойные фамилии по женской линии никогда не передавались. Кроме того, носитель такой фамилии принадлежал к потомственнму дворянсту.
 Что такое «потомственное дворянство»? Среди дворян Российской империи были потомственные дворяне и дворяне служилые. Служилые дворяне не могли похвастатся древностью своего рода. Купцы, крестьяне, козаки или ремесленники, но в первую очередь солдаты получалили дворянство за верную службу государю. В 18 веке вместе с дворянским званием, получали и деньги, и землю и крепостных крестьян.
 Напротив, потомственные дворяне вели свой род от древнего предка, который уже в 12-16 веках, занимал высокое положение. Таким предком нашего автора был татарский князь или «бек» по имении Булат. Именно на него и указывает первая часть фамилии.
 В 16 веке, когда Московское царство приседенило к себе Казанское и Астраханское ханства многие знатные татары перешли на службу к русскому царю и стали частью потомственного дворянства Московского царства. Подобная история повторилась и в конце 18 в.когда Российская империя присоеденила к себе Крымское ханство.
  Но фамилия нашего автора интересна ещё тем, что она не только  татарско-русская, а,возможно, татарско-польская. На это обстоятельство указывает её вторая половина «смирнитский». Смирнитский это польская форма русской фамилии Смирнов, которая происходит от детского прозвища «смирный»: спокойный, добрый. Фамилию Смирнитский носили многие дворяне, чьи предки были выходцами с Украины или Литвы в то время, когда две этих страны были частью Великого Польско-литовского королевства
 Остаётся не ясным, когда и по какой причине две фамилии соеденились в одну. Возможно, кто-то из предков автора присоеденил фамилию жены, чтобы отличатся от остальных носителей фамилии Бек-Булат. Возможно, кто-то из предков автора приобрёл поместье, ранее принадлежащее Смирницкому. Вместе с поместьем новый владелец получал и право на ношение новой фамилии. Такие случаи не часто, но были. Но окончательно разрешить эту загадку, за недостатком источников пока трудно.
 А теперь несколько слов о самой книге. По своему содержанию эта книга представляет собой хрестоматию для чтения на русском языке, что тоже очень интересно. Ведь выбор текста для чтения тоже, хоть и немного, но говорит о личности автора хрестоматии, о его литературных вкусах и политических взглядах. Наконец, в текстах хрестоматии не могли не отразится и те методы, при помощи которых русский учитель в Японии преподавал русский язык японским ученикам.
 Личность автора, несомненно, отразилась на материалах хрестоматии.
 Он монархист и это видно по тексту, в котором монархическое правление оценивается значительно выше республиканского. С другой стороны, нельзя забывать, что в 30- годы критика монархического строя в Японии была невозможна и неуместна, особенно со стороны эмигранта.

 Кроме того, даже при беглом знакомстве с текстами хрестоматии в глаза бросается отстуствие текстов, прямо связанных с жизнью и реалиями Советской России.
 Со дня большевистской революции 1917 г. на 1937 г. прошло уже 20 лет, с момента восстановления отношений между Японией и СССР в 1924 году прошло 12 лет, но ни текстов из советских газет и журналов, ни текстов из произведений советских писателей (за единственным исключением) в хрестоматии нет. А жаль!
 Ведь результате огромных изменений в обществе и в укладе повседневной жизни в, русском языке 20-30 г.г. появились сотни, а может быть тысячи новых слов. Но автор, эмигрировавший из России в 1919 году, не знал об этих переменах а скорее всего, из за недостатка опыта недооценивал их. В результате, он проигнорировал изменения происшедшие в русском языке, и основной акцент сделал на изучение традиционного русского языка, характерного для начала 20 века.
 Отсюда выбор текстов, среди которых много нравоучительных русских сказок. Героями этих сказок являются домашние животные и звери. Сказки эти и в начале 20 века и в начале 21 века читают дети, я сам их читал в детстве и читал своим детям. Хороший, старый добрый русский язык, но нет нет, да и попадется незнакомое крестьянское слово, сохранившееся только в тексте сказки, а в языке горожан уже совсем забытое.
 Много поговорок, отражающих здравый смысл русского крестьянина, некоторые из этих поговорок живы и до сих пор.
 Много стихов, а точнее, басен Крылова, поэта сегодня почти совершенно забытого, но еще в 40-е и 50-е годы широко издаваемого и изучаемого в средней школе.
 Если сказки занимают в хрестоматии большое место, то произведения русской классической литературы 19-20 в.в. отсутствут совершенно. В хрестоматии нет даже маленьких отрывков из призведений Гоголя, Пушкина, Тургенева,Толстого или Чехова. Возможно потому, что автор предназначил свою хрестоматию для учеников, чей уровень русского языка еще недостаточно высок, возможно, но вот чтение стихов требует достаточно высокого уровня языка и серьезного знания поэзии. Так на кого же все-таки расчитана эта хрестоматия?
 На этом фоне, тексты переведённые автором с французского языка, сегодня выглядят, как простое желание автора показать ученикам свое знание французского языка.
 Наконец, короткий рассказ «Судьба»(№103) - произведение молодой советской литературы. Сложный текст. Действие рассказа происходит на Украине в годы гражданской войны. Много деталей, связанных с особенностями того сурового и жестокого времени, много слов, взятых из украинского языка.
 Возникает вопрос, если тексты хрестоматии, предназначены для начального уровня, то этот текст расчитан на учеников с высоким уровнем русского языка. Боле того, этот текст требует подробных коментариев, которых в хрестоматии нет.
 Нет в хрестоматии и коментариев к другим текстам, как нет и примеров основных фразеологических моделей. А ведь для изучения подобных моделей и предназначена любая хрестоматия.
 Но не будем слишком строги к автору и его работе. Оценивая его труд с позиций 21 века, нельзя забывать какие изменения призошли в преподавании иностранных языков за последние 50-т лет. Для своего времени хрестоматия Бек-Булат -Смирнитского была полезной книгой.
 И последнее, год издания этого пособия 1937. Мимо этой даты пройти невозможно. Это год, когда массовый террор в СССР, достиг своего апогея, а позже пошел на убыль, хотя до самой смерти Сталина не прекращался никогда. Знал ли об этом наш автор, это вопрос очень интересный. Конечно, Смирнитский знал, что происходило в 30-е годы в СССР, но не смотря на репрессии монархист Смирнитский поросит у советского правительства советского гражданства для своего сына. Почему? Скорее всего, как и многие русские эмигранты, Смирнитский видел в диктатуре Сталина сходство с режимом Наполеона Бонапарта. Наполеон стал первым консулом, а затем и императором Франции после периода террора, направленного против вождей Великой французской революции.
 В советской России тысячами истребляют лидеров большевистской революции и полководцев гражданской войны: евреев и русских, украинцев и поляков, литовцев и латышей, грузин и армян и т.д. Значит, прийдет время, когда Сталин, как и Наполеон станет императором Великой России. Императором России Сталин не успел стать, а скорее всего не захотел стать, ибо такой властью, которой он обладал, не обладал ни один монарх в мире.
 А наш автор так и не дождался восстановления монархии в России, умер после окончания Второй мировой войны в Японии. На его глазах в Японии произошли огромные премены во всех сферах жизни, на его глазах СССР превратился в одну из мировых держав. Началась новая эпоха в отношениях между Японией и СССР, но написать новую хрестоматию, отражающую все эти перемены он уже не успел.

 Примечание не для печати. Проблема графского титула и фамилии автора.
 В списке графов Российской империи на 1916-17 г. фамилии автора нет.
 Среди дворян Смирнитских графов нет. В списке титулованных татарских родов фамилии автора нет. В списке основных дворянских фамилий Российской империи фамилии автора нет. Наконец, в перечне основных двойных дворянских фамилий фамилии автора тоже нет.

(次号に和文を掲載します)

「会報」No.33 2012.7.20

函館の「旧ロシア領事館」案内

2012年7月24日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに
  函館市西部の船見町の高台に位置する「旧ロシア領事館」は、函館とロシアの交流の象徴的建物となっている。また、「擬ビザンチン風建築」と言われるこの建物は、函館市の観光名所の一つとなっており、建物内部が閉鎖中であるにも関わらず、幸坂の急な坂を上り、わざわざ見に訪れる観光客も少なくない。建築の専門家からの評価も高く、その文化財的価値については、川嶋龍司著『函館市文化財シリーズ-第3集- はこだての文化財』(函館市文化財保存協会発行、非売品、1971年)、『函館市史 都市・住文化編』(函館市史編さん室編、1995年)などで触れられている。
 現在は「旧ロシア領事館」と呼ばれているこの建物は、1965年から1996年までの約30年間、「函館市立道南青年の家」として活用されていた。そのため、中学・高校時代に青少年宿泊研修活動で宿泊したことがある、という記憶を持つ市民も少なくない。筆者自身は函館出身ではないため、宿泊の経験はないが、1984年に函館を訪れた際に、「道南青年の家」の中に入り歴史展示を見学したことを思い出す。
 「旧ロシア領事館」の歴史は、函館港が露領漁業(のちの北洋漁業)の基地としての地位を確立した20世紀初頭に始まり、函館市の繁栄の源となった北洋漁業と密接に結びついていた。ロシア(ソ連)領事館・領事のことは、『函館市史』(①)でも詳しく取り上げられている。また、在札幌ロシア連邦総領事館経由で入手したロシア外務省史料を翻訳・解説した「〈史料紹介〉日露戦争及び明治40年大火とロシア領事館」(②)は、初めて領事館の設計者がゼールであること、現存する領事館の完成が1908(明治41)年12月であることを確定し、領事館が完成するまでの経緯の詳細を明らかにした。
 筆者自身も、函館生活を重ねるに従い、ロシア(ソ連)領事館研究の重要性を認識するようになり、「函館のソ連領事館と日本人職員」(③)、「函館とロシア(ソ連)領事館-20世紀を中心に-」(④)、「二十世紀の在函館ロシア(ソ連)領事館」(⑤)などでこの問題を取り上げてきた。
 郷土史研究の面からだけでなく、2001年4月から2012年3月まで函館市国際課に勤務していた時には、仕事上、「旧ロシア領事館」を案内・解説する機会が多々あった。
 旧ロシア領事館については、いずれ1冊の本にまとめたいと考えているが、本年4月に異動となり、仕事上「旧ロシア領事館」と関わることがなくなったため、これまで建物を案内する際に口頭で説明してきた事柄を活字にとどめておきたいとの思いからまとめたのが本稿である。「旧ロシア領事館」の概略書兼建物復原の際の簡易手引書にでもなれば幸いである。

■20世紀の函館のロシア領事館の位置づけ
  函館のロシア領事館の歴史をひも解くと、設立の経緯や目的、さらには業務内容まで、全く異なる領事館(あるいは副領事館)が現在までに3つ存在した。
 最初の領事館は、幕末開港期の1858年に開設された。初代領事はゴシケーヴィチである。これは、日本で最初に開設されたロシア領事館であり、かつ日本で唯一のロシアとの外交窓口という位置付けであった。
 ゴシケーヴィチ領事以降は、ビュツオフ、タラヘンテベルグ領事代理、オラロフスキーへと続くが、明治維新を経て、1872年に首都東京に公使館が開設されると、函館の領事館は夏だけ開庁する、横浜の領事館の管轄下に入る、長崎の領事と兼務するなどと、領事が函館に常駐することがなくなり、1870年代半ば以降は、事実上閉鎖状態に置かれた。
 再びロシアから函館港が注目され、恒常的に領事が置かれるようになるのは、20世紀初頭のことである。大きな転換点は、ロシア政府が自国の漁業者を優遇し、外国人、つまり日本人漁業者に対する規制を強化することになるアムール川下流域を対象とする漁業仮規則が公布された1899年であった(⑤)。出漁関連の各種事務を執るために、露領漁業の基地となっていた函館が領事館の設置場所に選ばれた。これが2番目のロシア領事館である。この時、西洋建築の独立した領事館が建設されるが、これが現存する「旧ロシア領事館」へと引き継がれていく。
 その後、ロシア本国では、ロシア革命(1917年)、国内戦争の時代を迎えるが、函館では帝政ロシア時代の領事が残った。1925年1月、日本はソヴィエト政権を正式に承認し、同年5月25日、函館にソ連領事館が開館した(⑤)。
 函館のソ連領事館では、これまでと同様、露領方面に出漁する船に対する査証(ビザ)を発給した。また、ウラジオストク、ハバロフスク、ペトロパブロフスク方面へのビザの発給権は与えられたが、これらの場所以外のビザは、東京の大使館で取り扱った(⑤)。
 ソ連領事館が閉鎖されたのは、1944年10月1日のことである。北樺太石油と石炭の利権がソ連へ委譲され、北サハリンのオハとアレクサンドロフスクの2カ所の日本領事館が閉鎖されることに伴い、ソ連側も敦賀と函館の2カ所のソ連領事館を1944年6月をもって閉鎖したいと通告してきた。敦賀は6月中に閉鎖となったが、函館では、閉鎖の期限を9月末まで延長し、漁期中、館員を残留させることでソ連側の合意を得た。閉鎖直前の9月29日には、日魯漁業(株)が湯の川若松館で送別晩餐会を開き、ザヴェーリエフ領事夫妻と通訳のアレクセーエフが出席した。日本側からは、日魯の首脳部のほか登坂函館市長も出席し、盛大な酒宴が張られたという(①)。
 3番目の領事館は、2003年9月19日に開設された在札幌ロシア連邦総領事館函館事務所(元町14-1)で、現役の領事館事務所である。北海道・青森県・岩手県を管轄区域とし、商用・観光・留学を目的にロシアに渡航する日本人へのビザの発給や、サハリン石油開発プロジェクトが盛んな時期は、同プロジェクトに従事する外国人労働者のロシア滞在ビザの延長を行ってきた。初代所長はウソフ副領事(2003年9月-2008年8月)、二代目所長はブロワレツ領事(2008年8月-2012年7月)、そして8月には三代目所長が着任する予定となっている。

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左:元キング邸1(『函館』函館市役所発行、1926年)。右:現在。東坂を登り切った右手にあった(倉田撮影)

■船見町にロシア領事館が建設されるまで
 ゴシケーヴィチ領事着任から約2年間は、実行寺に領事館と居宅を置いていたが、1860年、現在のハリストス正教会敷地内に領事館が完成した。その場所は、現在司祭館が建つ辺りである。木造2階建ての白い瀟洒な建物は、港に入る船が最初に見る光景となっていた。ところが1865年1月、西隣に位置する英国領事館(現在遺愛幼稚園が建つ場所)からの出火で全焼した。1861年に函館のロシア領事館付属司祭として着任したニコライは、ニコラエフスクで毎土曜日に発行されていた週刊新聞「ヴォストーチノエ・プリモーリエ」(1865年6月11日付)に、「木造の日本式住宅の消火は困難を極め、2階建ての領事館・書記官の平屋・領事館付海軍士官の平屋は全焼、ゴシケーヴィチ領事が日本滞在中に蒐集した膨大な数の動植物・鉱物コレクションもすべて焼失し、日本人が特に消火に力を入れた通訳の家・司祭の家・病院・教会が類焼を免れた」と、被災状況を伝えている ( Гузанов В. Иеромонах. Документальное повествование. Жизнь и подвиги Святителя Николая Японского. М., 2002г. С.100-101.タチアナ・サプリナ氏提供資料)(⑤)。
 大火後は、被災を免れた建物を領事館に転用していたようだが、その建物も1870年ともなると、地震と暴風雨で完全に崩壊しつつあり、修理なしには住むことができない状態になっていた(⑥150-151頁)。しかし、ウラジオストクに新たな海軍基地を開いたロシアにとって、1870年代以降の函館港は、ロシア海軍の寄港地としての役割を終えていた2。また先述のとおり、東京に公使館が開設されたことで函館のロシア領事館は事実上閉鎖状態にあり、本国ロシアから修繕費が送金されてくる見通しもなかった。1877年に瀬棚沖で起こったロシア軍艦「アレウト号」遭難事件のような海難事故が北海道・樺太沖で発生した場合には、臨時に領事が函館に派遣され、臨時の事務所が置かれるにすぎなかった(⑦)。

■ロシア領事館の設計者たち
 ロシア領事館の設計者は、ドイツ人リヒャルト・ゼール3であるが(②)、実はその前に2つの案が廃案となっていた。最初の案の設計者は、数多くの東京の建築設計を手掛けたお雇い外国人建築家として有名なジョサイア・コンドルで、関東大震災で焼失した初代ニコライ堂の設計者でもあった。コンドル案は、ロシア産木材を使った、ロシア式の堅牢な木造建築を建てることが望ましいと判断され、1902年中に却下された(②)。
 次に設計を依頼されたのは、ハバロフスクのヤジコフ陸軍大佐だった4。こちらはロシア様式で設計されていたものの、やはり難点があり、函館で実現するのは難しいことが判明した(②)。どのような「難点」があったのかは不明だが、その後石造りでの建設が決定されたため、サハリン島から建設地(函館)に届けられていた木材は不要となり、その運搬・後片づけのために88円50銭を要したことが明らかにされている(②)。
 こうした折り、ゼールに新たに設計が発注され、1903年7月に石造りのすばらしい設計図が提出され、承認に至った(②)。ゼールは1903年11月4日、帰国の途に就き(⑩)、その後を継いだのは、同年5月に来日し、ゼールの事務所に入ったドイツ人デ・ラランデだった(②)。

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コンドル案(⑧) 下:上のコンドルの設計図の右端にあるサインを拡大したもの。「April 1902」と記載されているため、設計図が1902年4月には完成していたことがわかる。

■建物から見た旧ロシア領事館

1906年12月 領事館完成(船見町125-4、現在の船見町17-4。住居表示上は船見町17-3)。
1907年 8月 大火で焼失
1908年12月 同じ場所に完成(再建・現存)
1944年10月1日 領事館閉鎖
1952年    外務省の所管となる
1964年    函館市が外務省から建物を購入
1965年 4月 「函館市立道南青年の家」を開設
1972年 1月 宿泊研修棟部分を増改築
1996年 7月 「函館市立道南青年の家」を廃止

 「旧ロシア領事館」は、本館と附属建物から成っている。本館は、レンガ造り2階建(内部主軸部は全部木造)。屋根木造瓦ぶき、内壁および天井漆喰塗、一部紙張り。床木造板張り、リノリウム敷建具木製。附属建物の方は、レンガ造り、平屋建て、屋根木造亜鉛メッキ鉄板ぶき、内壁漆喰塗、天井竿縁、居室床木造、物置床コンクリート叩き、建具木製となっている。敷地面積は、3,732.23平米。本館の延床面積は、1階が428.12平米(附属建物の面積を含まず)、2階が253.90平米である(⑩)。
 領事館の外観は、用途の変更に伴い、変化してきた。主だった点をまとめると、表1のとおりである。

 表1 在函館ロシア(ソ連)領事館の外観の変遷
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ロシア領事館 左:大正初期のロシア領事館。右:1964年6月(函館市中央図書館蔵)。

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「旧ロシア領事館」外観 左:「函館市立道南青年の家」時代(1968年頃)。右:現在(倉田撮影)。

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本館建物は、1989年3月1日、函館市の景観形成指定建築物に指定された(倉田撮影)。

■函館大火前と大火後(現存)
 1903年に着手された領事館の工事は、1904年5月にすべてが完了する予定であったが、1904年2月に日露戦争が勃発すると同時に、工事は中断された。工事が再開されるのは戦後のことで、1906年12月、ようやく完成に至った。ところが翌年の明治40年の大火で領事館一帯は焼失した(②)。レンガ造とは言え、木骨であったため、一部土台を除き、全焼だった。
 ロシア政府にとってロシア領事館建設が急務であった証拠に、1908年4月には再建に関する契約書が函館の大工との間で結ばれ、1カ月以内に工事を開始することが約束された(②)。
 1908年12月、約8カ月で完成した領事館は、大火前と同じ場所に、ゼールの設計図とほぼ同じ形で再建された。ただし、若干、大火前と後(現存する「旧ロシア領事館」)とでは異なる点がある。その最大の相違点は、表階段の設置位置と形状である。ゼールの設計図にある表階段は、やはりゼールが設計し、1893年に竣工した同志社大学神学館(現クラーク記念館)の階段に酷似している。同志社大学クラーク記念館の階段の方が、見た目に美しく、いかにも手の込んだものであることが素人目にも明らかである。大火直後の再建ということで、経費と時間を節約するために変更されたのだろうか。
 それ以外にも、大火後は玄関入口にスロープや外階段の手すりがないこと、裏階段の位置、ビザや出漁関係の証明書を発給するための事務所の専用出入り口の位置5が異なっていたことなどが見てとれる。

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大火で被災したロシア領事館(⑧)

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左:ゼールの設計図より1階部分(②、⑧)。右:ゼールの設計図の右端に書かれたサイン(⑧)

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同志社大学「クラーク記念館」の階段(『同志社大学クラーク記念館』同志社大学キリスト教文化センター発行、2010)

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現在の「旧ロシア領事館」表階段(倉田撮影)

■「ソ連領事館」から「函館市立道南青年の家」に用途変更
 ソ連時時代の間取りは、表2のとおりである(ロシア外務省史料館所蔵、在札幌ロシア連邦総領事館提供資料)。本館1階部分は、正面玄関向かって右手に領事の執務室、函館市の政財界の代表を招いて設宴を行った食堂、食後にダンスや音楽を楽しんだ客間などがあった。正面左手の出入り口から入ると、査証や出漁関係の書類の受付、事務室、そして翻訳室へと続いた。1階の風呂と寝室は、おそらく来客用のものであろう。2階は、領事の家族が暮らす居住空間で、家庭教師用の部屋もあった。平屋の附属建物は、使用人のために作られたものであった。
 さて、1944年10月1日に閉鎖され、領事館員が引揚げた後は、日本人の管理人(小田切由太郎)が管理に当たり、函館西警察署が側面的に協力することになった。連合軍占領下にあった1947年、大蔵省管轄となり、1951年のサンフランシスコ講和条約締結(ただし、ソ連は同条約に調印せず)の翌1952年以降は外務省の所管となった。同年8月、道庁から渡島支庁に管理を委嘱され、渡島支庁が直接管理の責任に当たった(⑩)。
 1962年7月末、日本外務省はソ連側に対し、在ソヴィエト連邦日本国外交領事財産が返還されることを条件として、在本邦ソヴィエト連邦領事財産をソヴィエト連邦政府に返還することを口上書でもって提案した6。これに対するソ連政府の回答は、日本政府が支出した費用を支払わない代わりに、ソヴィエト連邦領事財産、つまり、函館の領事館の権利を放棄するというものであった7。
 1964年、函館市は領事館の建物を外務省から購入し、翌1965年から1996年までの30年余りにわたり、青少年宿泊研修施設「函館市立道南青年の家」として活用された8。また、敷地は日魯漁業(株)からの借地だったが、1981年に函館市は同社から市有地(弥生町)との等価交換で取得し、現在は市有地となっている9。
 ソ連領事館閉鎖直後の平面図は図1のとおりであるが、宿泊研修施設に用途を変更した後のものが図2である。さらに図3は、開館当初の定員は50名だったが、利用者の増大から、約2倍に相当する120人を収容する施設とするため、附属建物を一部壊し、2階建てブロック造の宿泊研修棟を増築し、本館の部屋の大半を畳部屋に替えるなど、大規模な増改築工事が行われた後のものである(「旧ロシア領事館」の現状も図3と同じ)。

表2 ソ連領事館時代の間取り(⑧)
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左:図1 ソ連領事館閉鎖直後の平面図(⑩)
中央:図2 道南青年の家開設当初の平面図(⑩)
右:図3 増改築後(現況)の平面図(⑩)

■旧ロシア領事館復原に向けて
 領事館の建設当初の外観は、函館みやげ用に作成された絵葉書等から知ることができるが、内部について知る史料はほとんど残されていない。
 以下は、1968年に撮影された写真と現在の姿を比較したものである。筆者は、建築に関して全くの素人であるため、専門家の視点からの再考が必要だが、筆者が知る範囲内のことを紹介しておく。

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1階の照明器具 現在(倉田撮影)

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2階の照明器具(1968年頃)

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シャンデリア 左:1968年頃。右:現在(倉田撮影)。 領事館時代には、「客間」にあったシャンデリアが、増改築時に港側の部屋に移設された。この時に電球の上下逆に取り付けられた。

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暖房器具(倉田撮影) 道南青年の家時代に使われていた石油ストーブと煙突。ソ連領事館時代は、向かって左手の部屋に作りつけのペチカ(燃料は石炭)が用いられた。

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食堂 左:領事の歓送迎パーティー風景(『函館日日新聞』1932年11月26日より)。右:現在(倉田撮影)

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食堂の小窓 左:道南青年の家時代(1968年頃)。右:台所側から写した現在の小窓(倉田撮影)。ソ連領事館時代には、現在よりも左手にあった小窓。当時の利用方法は定かでないが、道南青年の家時代には、台所側から食事の差出口として利用されていた。

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食堂の天井(倉田撮影)

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食堂と客間の間の扉と装飾された取つて(倉田撮影)扉は横開き。

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2階の部屋(中庭に面する側の部屋) 左:壁が取り除かれ、二段ベッドが設置された(1968年頃)。右:ベッドが撤去され畳敷きになった(倉田撮影)。

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門柱と門扉 左:道南青年の家時代の門柱と門扉(1968年頃)。右:現在の門柱と門扉 中央左側の門柱は、2005年夏、坂下にある墓地にお盆の墓参りに来た市民が自動車の操作ミスにより倒壊。古い時代のレンガの雰囲気を持たせて再建された(倉田撮影)。

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ソ連時代の国章と標章 左:ソ連領事館時代に設置されていたソ連の国章(函館市蔵)。右:正面扉上に鎌と槌の標章。

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附属建物入口 左:1968年頃。右:現在(倉田撮影)。屋根付きの小さな出入口が増築されたことがわかる。

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附属建物(南東方向から)(倉田撮影)

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附属建物(北東方向から) 左:1968年頃。まだ附属建物が完全に残っていた。右:増築された宿泊棟との継ぎ目部分(倉田撮影)

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左:増築された宿泊棟(北東方向から。夏)(倉田撮影)。庭の樹木は、戦時中、日本軍により植木も伐採し、終戦の燃料難から盗伐などにあったといわれている(⑩)。
右:増築された宿泊棟(ブロック造2階建)(倉田撮影)

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外階段
左:ゼールの設計図には階段に装飾的な手すりがある。
中央:道南青年の家時代は、扉の開閉可。外への出入り自由。手すりはない(1968年頃)。現在ははめごろしになっており、出入り不可。
右:階段部分は集合写真の撮影に良い場所だった(『函館毎日新聞』1932年11月8日)。

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1967年4月財団法人相馬報恩会から寄贈された国旗掲揚台(⑪ 倉田撮影)

旧ロシア領事館ゆかりの品々(市立函館博物館蔵)

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おわりに
 「旧ロシア領事館」は、築100年以上が経過した。閉鎖されて既に15年余が経ち、老朽化も進んでいる。しかし、函館とロシアの交流を現在に伝える貴重な建物であり、かつ、専門家からも文化的価値の高い建築物と評価されていることから、復原・活用されることを期待したい。
 閉鎖中の「旧ロシア領事館」を外側から見ていると、建物にばかり目がいきがちだが、「旧ロシア領事館」が、露領漁業の勃興によって始まり、函館の街の繁栄を支えた北洋漁業と共に歩み、日魯漁業(株)と共栄共存してきた歴史を忘れてはならない。


1 日本人を嫌っていたレベデフ領事が、建物の中に日本人を入れることを嫌い、13年の任期中、一度も改修を行わなかったため、すぐに使える状態にはなく、船見町の通称「堤倶楽部」(元キング邸・元米国領事館 当時の船見町60番地。咬菜園跡の隣接地)にソ連領事館の仮事務所が開館された。元の領事館の改修工事は1927年7月から始まり、9月末に工事は終了、現在地に移転した(④)。
2 函館に代わってロシア海軍の冬期保養基地となったのが長崎。しかし、1898年にロシアが遼東半島を獲得し、大連・旅順の租借権を得ると、長崎もその役割を終えた。
3 1888年10月、エンデ&ベックマン建築事務所の全権代表として来日し、司法省と東京裁判所の工事に従事。明治政府との雇用契約は1893年3月31日で終わるが、1894-95年まで明治学院大学に「建築顧問教師」として雇用され、1897年に横浜山手で設計事務所を開設した(⑨)。函館のロシア領事館の設計図を依頼された当時は、横浜の設計事務所で活躍していた。
4 ハバロフスクのヤズィコフ(Языков)工兵大佐には3人の娘(長女マリア20歳、次女ヴェーラ19歳と三女)がおり、築地のカトリック学校で学んでいた。1901年5月、3人の娘はハバロフスクへの帰途に就くため横浜港から神戸に向かう汽船に乗った。ところが、船内で長女が失踪したため、妹たちは神戸で下船し、東京のニコライのもとに駆け込んだ。当時のロシア正教とカトリックの対立関係も相まって、露仏の両公使館を巻き込む大事件となった。カトリックに改宗した長女は、カトリック修道女の手引きで、カナダ行きの船に乗せられたことが明らかになるが、その後の長女の行方は不明(1901年5月4日、5月6日のニコライの日記より。中村健之介訳・解説・註解『宣教師ニコライの全日記』第7巻、教文館、2007年)。
5 現在の建物には、領事館正面玄関と同じ向き(東側)に事務所の出入口が作られているが、ゼールの設計図では、南側(附属建物のある側)になっている。
6 この口上書には、1956年の日ソ共同宣言で、日ソ両国政府が戦争の結果として生じたすべての請求権を相互に破棄することが規定されたが、外交領事財産(=函館の領事館)については所有権の放棄を定めたものではないこと、日ソ両国間に外交関係が回復して既に5年以上が経過する中、ソ連大使館も日本国内で正常な活動を行っているため、今後も日本政府が引き続きソヴィエト連邦領事財産を管理する理由は乏しいこと、そして、函館のソ連領事館の土地・建物を良好な状況のもとに管理するために日本外務省が支出した総計641万7,077円(1954年4月の暴風雨による災害や1961年5月の台風4号の被害による修理費を指す)の弁済をソ連側に求めることなどが盛り込まれていた。そして、1963年3月31日までに日本政府の提案に応じない場合は、日本政府が管理しているソヴィエト連邦領事財産を全て競売に付し、その売得金のみを日本政府が保管することが提案された(⑩)
7 長崎ロシア領事館では、土地を巡って裁判にまで発展した(堀合辰夫「帝政ロシア 長崎領事館-敷地についての法的側面」『ドラマチック・ロシアin Japan II』、生活ジャーナル、2012年、333-347頁)。
8 青少年宿泊研修施設の設置場所として、湯川町1丁目35番3号の市有地(606.08坪)が候補地として内定していたが、1964年5月に外務省からソ連領事館の建物の購入が認められると、函館市は6月29日、1,558,388円で購入し、同建物に開設することを決めた(⑪)。
9 ロシア領事館が建設された当時、日本は外国人の土地所有を禁じていたため、日本人が領事館に永代借地していた。ところが、ノモンハン事件(日ソ両軍の満蒙国境紛争)が起こった年(1939年)夏、高台に位置するソ連領事館から船の出入りはもちろん、船渠(どつく)に時々入る海軍の駆逐艦等が見えることを面白く思わない軍部が、ソ連領事館の追い出しにかかった。具体的には、領事館の坂下に位置する境内から高い塀のようなものを建てて、「皇威宣揚」という1字何メートル四方もある大きな文字を書いたものを建て、領事館の正門は板塀でふさぐなど、様々な嫌がらせを行った。対するソ連領事館は、この事件が発生した時期は、ちょうどカムチャツカの送込時期にあり、日魯漁業(株)の船が沢山揃って函館の港に入港し、領事館からの査証(ビザ)を求めているところであったことを逆手にとり、査証拒否という反撃に出た。これに驚いたのが日魯の平塚社長で、1日出港が遅れると巨額のチャーター料の損害が出るということで、土地の所有者を探し出し、日魯が土地を買うことにし、以来土地は日魯が無条件無期限でソ連領事館に貸与することになった。(常野知一郎「外国領事館にはられた立退命令書」(『道南の歴史 私の終戦史』道南の歴史研究協議会編・発行、1982年、32-35頁)。ちなみに領事館の土地の登記簿類は、昭和9年(1934年)の函館大火で法務局が被災し、焼失していた。

出典
①函館市史 通説編』第3巻、函館市史編さん室編、函館市発行、1997年。
②清水恵・A.トリョフスビャツキ「〈史料紹介〉日露戦争及び明治40年大火とロシア領事館」『地域史研究はこだて』第25号、1997年、65-87頁。
③倉田有佳「函館のソ連領事館と日本人職員」『函館日ロ交流史研究会会報』No.30(2007年10月)11-15頁。
④倉田有佳「函館とロシア(ソ連)領事館-20世紀を中心に-」『はこだて外国人居留地研究会会報』No.3、15-21頁。
⑤倉田有佳「二十世紀の在函館ロシア(ソ連)領事館」『ドラマチック・ロシアin Japan II』生活ジャーナル、2012年、290-309頁。
⑥伊藤一哉『ロシア人の見た幕末日本』吉川弘文館、2009年。
⑦清水恵『函館・ロシア その交流の軌跡』函館日ロ交流史研究会編・発行、2005年。
⑧在札幌ロシア連邦総領事館提供資料(ロシア外務省史料(АВПРИ)。史料提供時に、函館日ロ交流史研究会で使用する件については、領事の事前了承済み)。
⑨「リヒャルト・ゼールの経歴ならびに建築作品について -R.ゼール研究 その1」、「同左その2」『日本建築学会大会学術講演梗概集(北陸)』2002年8月。347-350頁。
⑩函館市所蔵資料。
⑪『函館市立道南青年の家20周年記念誌』1986年。

「会報」No.33 2012.7.20

高田嘉七氏の死を悼んで

2012年7月24日 Posted in 会報

大矢京右

 去る2011年11月27日、近世北方開拓の雄、高田屋嘉兵衛の七代目に当たる高田嘉七氏が、不慮の事故で急逝された。箱館の発展に心血を注ぎ、ゴロウニン事件の解決に奔走した嘉兵衛の血と魂を受け継ぐ氏は、「社団法人北方歴史研究協会理事長」「登録博物館北方歴史資料館館長」「ロシア地理学会会員」などそうそうたる肩書きとともに常にロシア関連研究および民間日ロ外交の先頭をひた走り、その業績については枚挙にいとまがない。
 私は2008年4月に函館博物館へ異動となり、その縁で高田さんが北方歴史資料館で月1回開催していた「博物館連絡協議会」なる集まりに誘われ、幸いにも高田さんと交誼を結ぶことができた。その会は仰々しい名前に反してとてもフランクな情報交換会であり、市内の登録博物館の学芸員をはじめとした高田さんを慕うメンバーが、高田さんの手料理のご相伴に預かりながら様々なジャンルの話題に花を咲かせていた。そして、亡くなる12日前にも恒例の仲間たちが集まったのだが、終わり際に「来月(12月)は26日だな」と確認したのが高田さんの最後の姿になってしまった。
 我々は高田さんと約束だった12月26日に偲ぶ会を開催して高田さんに献杯し、今年1月21日に称名寺で開催された「お別れ会」では裏方として微力を尽くさせていただくことができた。高田さんを失ったことは途方もなく大きな損失だが、高田さんが我々に、そして函館に残してくれたことを心に、一人の「函館人」として地域へ貢献していくことが、高田さんの恩に報いるただ一つの方法であろう。心から高田さんのご冥福をお祈りしたい。

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2009年5月27日に開催した「高田嘉七さんの喜寿を祝う会」

「会報」No.33 2012.7.20

青森とロシアの交流史

2012年4月25日 Posted in 会報

工藤朝彦

 青森とロシアとの交流は、古くは、近世中期、多賀丸漂流のことが挙げられる。
 1744年(延享元年)11月14日、下北半島佐井村の商人、竹内徳兵衛が新造船「多賀丸(1200石積)」に水主17名と供に乗り込み、大豆・昆布・魚粕等を満載し、江戸に向けて出航した。しかしながら、難風により遭難し、半年も海上を漂流してから、翌年5月、千島の第五島のオンネコタン島に漂着した。漂流中に7名が死に、この島で竹内徳兵衛も死に、残りの10名はカムチャッカのポシエレックに連行された。その後、選抜された5名が、1754年にイルクーツクに日本語学校が開校されるとともに同市に移り住み、教師として働き、最後の者は1786年頃まで生存していたらしい。多くの者は現地の女性と結婚し、そのうちの二世の一人、トラベズニコフは1792年、根室、次いで松前に来た第1回ロシア使節団の総理として日本を訪れ、また、別の二世のアンドレイ・タターリノフは露和辞典(露和会話)を編さんしたが、これは、旧ソ連科学アカデミーに保管されているレクシコン(露和語彙集)で、ロシアに入った最初の日本の言葉であるとロシアの学界で言われている。
 佐井村出身の5人が、イルクーツクの日本語学校で、日本語を教えていた頃、1772年にシベリア調査のためにイルクーツクに来ていたドイツの学者ゲオルギは彼らと親しくなり、日本に関する情報を彼らから知ることとなったという。ゲオルギが書き著している彼らに関することは、誌面の関係から、別の機会に述べたいと思う。また、順天堂大学教授の村山七郎博士が青森県の地元紙、東奥日報社に「多賀丸の漂流民が伝える200年前、ソ連で発見された下北の方言」で詳しく掲載しているので、これもまた、1997年10月に多賀丸の軌跡を追った青森の学術調査隊の成果と併せて、今後、紹介したい。
 また、他には、日本で最初に種痘を施した中川五郎治の物語がある。中川五郎治は、陸奥国川内村(旧盛岡藩、現青森県むつ市川内町)に1768年に生まれ、江戸後期の北方系牛痘種痘法の伝来者として知られている。小針屋佐助の子で、本名は佐七。若い頃から蝦夷地に渡り、松前の商家に奉公する。
 後に択捉島の会所番人となったが、1807年(文化4年)、ロシア船の同島襲撃で捕らわれ、シベリアへ流される。五郎治40歳の時である。シベリア抑留生活は5年に及び、逃げ出したり、捕らえられたり、仲間に死に別れたりした。1812年(文化9年)に松前に送還されるが、出国した危険人物として厳しく取調べられた。シベリア抑留中にロシア語を読めるようになったことから、ロシア語の種痘書を持ち帰り牛痘種痘術を覚えた。
 1824年(文政7年)、日本で初めて、田中正右偉門の娘イクに天然痘の予防接種を施したと言われる。種痘は、種苗を得るのが難しく、シーボルトはじめ日本の数々の名医が試みるが失敗に終わっている。公式には、日本への種痘導入は、1849年(寛永2年)に楢林宗建がオランダ商船の医官モーニックの協力を得て長崎で成功したとされるが、これに先立つこと25年前に、五郎次は、松前で多くの人々に種痘を施していたのである。
 その種痘法は函館の医師である高木啓蔵、白鳥雄蔵によって、秋田、京都に紹介され、福井の笠原良策によって実践されたが、医学界では画期的なことであった。後に、ロシア語の種痘書は馬場佐十郎が翻訳し「遁花秘訣」、さらに、三河の利光仙庵が「露西亜牛痘全書」として刊行している。
 1848年(弘化5年)9月27日、中川五郎治は一生を終えた。享年81歳。(参考文献:松木明知「北海道の医史」、同編「北海道医事文化資料集成」)
 近代では、1906年(明治39年)に青森港が特別輸出港に指定され、税関出張所が置かれたこと。1907年(明治40年)7月、青森~ウラジオストク間の試航のため交通丸(1540トン)が青森港に寄航し、1909年(明治42年)7月から定期就航したこと。これにより、対露貿易の促進に繋がったが、前後して、青森市と青森商業会議所が、ウラジオストクに調査団を送っている。このように対露貿易の環境形成が整う中、青森県議会議長、衆議院議員、青森市長などを歴任した北山一郎が、1909年(明治42年)9月1日に、合資会社青浦商会を設立し、浦塩港に支店を設け、青森県のリンゴを輸出した。実業家としての北山一郎は、他に、木材とパルプ事業を目指した樺太ツンドラ株式会社や日出セメント株式会社運営にも係わっていた。

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ウラジオストクの青浦商会支店

 北山一郎は明治3年、青森県南郡浅瀬石村に生まれた。北山家は代々豪農で、地方に名高い素封家であった。早稲田専門学校政治科を卒業後、帰郷し青年団を組織し、33歳で県会議員に当選している。日露戦争中は出身地の浅瀬石村の村長におされ、戦争終結と共に、青森に転出した。北山一郎の転出の動機は、日露戦争によって日本が獲得した北方の利権を、北方人自ら開拓しないという信念からであり、青森県の物産をシベリアに輸出して貿易の拡大を図ることであった。彼は樋口喜輔、渡辺佐助、藤林源右衛門、小館保治郎、佐々木彦太郎といった財界人の後援を得て、青浦商会を株式組織に変え、業務を拡張、リンゴ、醤油、蔓細工、大理石、牛馬を輸出し、大豆、豆粕の輸入をした。
 しかし、露国は大正5年、経済復興の理由の下に、リンゴの輸入を制限したため、玉葱、馬鈴薯の輸出に転じ、浦塩鰊の輸入の斡旋をしたが、欧州大戦後、露国革命になってからは、全く取引が出来なくなり、大正15年に青浦商会は解散したのである。
 青浦商会については、青森大学学長末永洋一氏が『「青浦商会関係資料」調査記(市史研究あおもり3)』で「青浦商会の本店は青森市濱町三十八番地、支店は露領浦塩斯徳港ペキンスカヤ街五、出張所は敦賀港富貴藤原商店方、また、中国東北部(当時満州)にまで営業地域を拡大するため、ハルビンに出張所を設置していた。当時、交通丸が、青森とウラジオストク間を年間26回就航していた。」と述べている。
 年代を遡ること、1892年(明治25年)、探検家で青森市長も務めた笹森儀助は千島探検をした。笹森儀助は1845年(弘化2年)1月25日に弘前在府町に弘前藩士の子として生まれ、1915年(大正4年)9月29日に弘前で死去したが、その人生は波乱万丈で想像を絶するものであった。
 儀助は政府が軍艦を千島諸島に派遣する計画があることを、郷里の友人で新聞「日本」の社主陸羯南から知らされた。以前から北方視察を望んでいた儀助は、伯爵佐々木高行に斡旋の労をとってもらい、民間人として巡航に参加できることとなった。
 周知のことだが、千島諸島が日本領に編入されたのは、1875年(明治8年)である。
 以前の北方国境は得撫島と択捉島間が日本とロシアの国境とされ、樺太については両属雑居地であったが、ロシア側が全島の領有を主張するなど、両国間の問題となっていた。日本政府は、樺太の利権を全て放棄するかわり、千島諸島全てを領有し、両国の国境はカムチャッカ半島南端ラカッパ岬と占守島間に引かれた。これが樺太千島交換条約である。
 さて、儀助は帆船軍艦磐城(長さ47m、幅8m、656トンの木造砲艦)に乗り、7月6日に函館港を出航。乗組員は120人、便乗者は儀助ら6人。この小船は、狭いこと限りなく、水も食料も少なく、北に行くほど寒さが厳しく、体力は一気に衰弱したようだ。7月10日に根室に着くと、儀助は根室郡庁や警察署、測候所、水産会社を訪ねて日露交流史、根室開拓の沿革や実態を調査している。千島調査は後に『千島探検』にまとめられ、明治天皇にも上呈されるが、千島諸島の実効支配はロシア側が有利で、政府の無策が批判されると共に、今後の施策が13項目に亘って提案されている。
 7月31日、磐城は根室を出航し千島諸島に入り、8月1日に択捉島留別港に停泊。食料や石炭を積み込み、3日出帆し、6日には千島諸島最北端の占守島と南隣の波羅茂知島間の海峡に至り、20日間に渡り調査を行ったが、その間、磐城は嵐で難破しそうになり、食料・水が底を突くなどで、途中で調査を打ち切らざるを得ず、9月3日に根室に帰港した。また、艦長の榊原長繁は、1891年(明治24年)に起きた大津事件以後の日露関係に配慮してか、儀助の島上陸が許されたのは一週間程度であった。
 しかしながら、千島アイヌのヤーコフという酋長との出会いで、現地の様子を聞くことができ、1893年に刊行された『千島探検』で、儀助は、千島列島の警備として島庁の設置と、色丹アイヌの占守島復帰を提案している。樺太千島交換条約により、1884年に占守島から97人のアイヌが列島最南端の色丹島に移住させられたのである。
 儀助の他、1861年に、民間人として最初に千島探検をしたのは青森県田子町出身の真田太古であり、翌年には千島開発会社を設立している。(参考図書:辺境からのまなざし~笹森儀助展(青森県立郷土館)図録)
 ロシア革命後から第二次世界大戦終了前までに、青森市内には、数家族の白系ロシア人が住んでいた。このことについては、私が体験した事実として、「会報」No6(1998年1月8日)で紹介しているので、ご覧いただきたい。
 次に現代の平成に入ってからの青森の日ロ交流について、年表でその概要について述べたい。

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戦前、青森に住んでい白系ロシア人「カチヤとワレンチン兄妹」

《一つには、みちのく銀行の大道寺小三郎の偉業である。》
【1990年】
4月 みちのく銀行「ハバロフスク・ナホトカ・ウラジオストク経済視察」
ウラジオストクではダルソーと「中古車輸出」「医療関係者の交流」等、12項目について「覚書」を取り交わす
5月 ウラジオストク・ダルソー一行来青
6月 「青森県日ソ交流協会」設立 発起人55名 会長:菊池武正 副会長:大道寺小三郎
7月 「ペレストロイカのロシア9000キロの旅」実施報道関係者ほか総勢152名参加
青森港からソ連客船「ネジダノーバ号」で出発、青森空港史上はじめてアエロフロート機で着陸帰国
8月 「青森県日ソ交易株式会社」設立 資本金2億5千万円
ウラジオストク・ダルソーと青森・ウラジオストク間の定期航空路開設について継続協議
9月 ダルソー派遣の車両検査員3名が160台の中古車輸出の事前検査のため来青
ソ連車両運搬専用船「ニコライ・プリゼバルスキー」号が青森港へ入港
10月 「ソ連経済・文化ミッションツアー」実施
中古車の継続輸出、ソ連科学アカデミー水中生物学研究所とバイカル湖水の商品化に関する「覚書」締結
「医学研修」ウラジオストクから医師3名が弘前大学医学部で研修開始
12月 在札幌ソ連邦総領事館領事V.Iバラーキン夫妻来青 講演:「極東と日本の関係」
ブリノフ、ウラジオストク市長歓迎の昼食会 場所:函館
歓迎パーティ(函館市・函館日ロ親善協会主催)【1991年】
2月 ハバロフスク人民代議員議会議長一行来青
4月 ソ連科学アカデミー・シベリア支部湖沼学研究所一行来青
5月 弘前大学医学部前でソ連へ援助する医薬品の発送式
17,400千円の義援金、24,200千円相当の支援物資を調達
ハバロフスク・ウラジオストクで医療品の贈呈式、とうもろこしの種を市民に配布
6月 ノボシビルスク航空産業財団より自動車修理取得のため実習生3名来青
青森県とソ連の交流活動のための民間大使として、モスクワからの通訳クーロチキナ・リュドミラ・アナトリエブナさん来青(以後、2年間みちのく銀行で勤務する。恐らく戦後初の長期にわたって在青したロシア人。)
7月 ノボシビルスク航空産業公団に中古車200台輸出
青森県日ソ協会・鯵ヶ沢町主催、「極東シベリアの旅」 青森港から「オリガザドフスクヤ」号でウラジオストク港へ
8月 青森朝日放送の招きで沿海州テレビ・ラジオ委員会(ウラジオストク市)来青
相互協力関係の合意
鶴田町町議会一行訪ソ。
*ソ連でクーデター勃発
鯵ヶ沢町齋藤町長(協会の発起人)「第13回日ソ沿岸市長会議(ウラジオストク市)」参加
10月 ハバロフスク州ダリニュク議長あてに県民の無償提供による中古タイヤ5000本を(ソ連貨物船「BALTIYSKIY-71号」で)送る
【1992年】
2月 鯵ヶ沢町が招聘したナターリア・クズメンコ女史がウラジオストクから来青 
4月 大道寺副会長(みちのく銀行頭取)が東京でゴルバチョフ元大統領と会談 10万ドルをゴルバチョフ財団に寄贈
5月 ユジノサハリンスク市長 みちのく銀行の招待で来青
6月 みちのく銀行の招待でハバロフスク・テレビラジオ委員会議長が来青
8月 青森空港からアエロフロートのチャーター便「ロシアツアー(みちのく銀行企画)」。県知事団長とする「青森県ミッション団」が同乗し、27日にハバロフスクにおいて「青森県とハバロフスク地方との友好的なパートナーシップに関する協定」を調印
10月 RAB青森放送とハバロフスク・テレビラジオ会社「極東」と放送業務について協定書締結
【1993年】
2月 みちのく銀行の招待でチジョフ駐日大使来青
3月 青森公立大学の開学式典出席のため、ハバロフスク・ウラジオストクから教育関係者が来青
5月 青森県の招待でハバロフスク地方政府代表団が来青
第1回のロシアチャーターツアー
6月 第2回、3回ロシアチャーターツアー
7月 第4回ロシアチャーターツアー、ユジノサハリンスクで花火大会開催
戦前に青森市の新町小学校に在校していたエカテリーナさん(サハリン パナチョフ氏の妹)来青
第5回ロシアチャーターツアー
8月 第6回ロシアチャーターツアー
青函ツインシティの共同開催事業「ウラジオストク訪問クルーズ」
(函館市とウラジオストク市の姉妹都市提携1周年記念)
9月 第7~9回ロシアチャーターツアー
10月 第10回ロシアチャーターツアー
青森南高等学校でロシア語を教えることとなったタマーラ・ドレゴワさん来青
【1994年】
4月 (財)鳴海研究所清明会からハバロフスク州立第二病院へC/Tスキャナーと200万円を寄贈
5月 第1回ロシアチャーターツアー
サハリン日本産業見本市に県産品(りんごジュース、日本酒、津軽凧等44品)を出展
7月 第2回ロシアチャーターツアー
8月 ハバロフスク卓球選手団来青 卓球交流
青森県の国際交流員フォロンコフ・オレグさん赴任
9月 第3回ロシアチャーターツアー
日ロ親善サッカー交流のためハバロフスク訪問
10月 ロシア・東欧学会第3回大会シンポジウム「環日本海経済圏を目指してーロシア極東と経済・地域交流の状況と展望」が青森公立大学で開催される
【1995年】
4月 青森~ハバロフスク定期航空路の開設
5月 ハバロフスク・ウラジオストク・サハリンで市民にトウモロコシの種子を無料配布
6月 ハバロフスク市において親善花火大会を実施30万人の観客が堪能
7月 みちのく銀行のユジノサハリンスク駐在員事務所開設
ロシアでは東京銀行に次いで2番目の開設
大道寺副会長がハバロフスク市より外国人で初めての名誉市民章を受賞 
青森青年会議所主催の「グローバルちびっ子トレーニングスクール」にロシアの子供たちが参加
8月 大道寺副会長がユジノサハリンスク市より外国人で初めての名誉市民章を受賞
9月 ハバロフスク市で「青森県フェア」開催 3日間で1万人来客
10月 青森県立郷土館において「ロシア極東の自然と文化 ハバロフスク郷土博物館所蔵品」開催
12月 国立ハバロフスク医科大学関係者が弘前大学と学術交流協定の締結のため来青
【1996年】
4月 極東3市に、トウモロコシ・野菜・花の種94,000袋空輸
青森明の星短大でハバロフスク教育大学の2名の女子留学生が、2年間学ぶこととなった。
7月 みちのく銀行は合併20周年記念事業の一環でサハリンにピアノ55台を寄贈
8月 ウラジオストク極東国立工科大学に「みちのく銀行日本語センター」開設
10月 大道寺副会長に、モスクワのプレハノフ経済アカデミーより名誉博士号を授与
11月 鯵ヶ沢町と幻の魚といわれるイトウの保護と養殖で交流しているサハリン州政府は、技術者の派遣と発眼卵の提供に関する協定を結ぶ
【1997年】
4月 鶴田町の鶴の舞橋丹頂鶴自然公園に、アムール州ヒガンスキー国立自然保護区から丹頂鶴二羽が届く
大道寺副会長にハバロフスク国立極東総合医科大学とハバロフスク総合教育大学から、外国人として初めて名誉教授号を授与
5月 サハリン州ポロナイスク市でA型肝炎が流行、サハリン州政府に注射器10万本緊急輸送
11月 青森県とハバロフスク州の友好協定締結5周年記念式典に、イシャーエフ知事が出席
【1998年】
5月 ハバロフスク州政府にリンゴ5トン寄贈
大道寺副会長、ハバロフスク市創立140周年記念式典に出席
11月 佐井村は「多賀丸漂流記念碑」建立に伴い、多賀丸漂流の歴史調査に関係の深い、イルクーツク大学のクズネツオフ教授を招聘
【1999年】
2月 「みちのく銀行モスクワ」設立、邦銀では初のロシア現地法人となる
7月 青森~ハバロフスク国際定期便に「アエロフロート」に代わり「ダリアビア航空」が就航
【2000年】
8月 モスクワで運行される予定の「青森ねぶた祭り」が、ロシアの原子力潜水艦事故のため中止となる
9月 弘前大学はハバロフスク国立極東総合医科大学、モスクワ大学と大学間交流協定を締結
【2001年】
1月 みちのく銀行大道寺会長のロシア連邦名誉領事伝達式が行われる(任命日:2000年12月7日)
7月 ウラジオストクからロシア極東漁業技術大学所属の「パラダ」、ロシア極東アカデミー所属の「ナジェジュダ」の2隻の帆船が来青、青函ヨットレースに参加
【2002年】
2月 青森市で開催された「北方都市会議」にハバロフスクのソコロフ市長、ユジノサハリンスクのシドレンコ市長が出席
8月 みちのく銀行モスクワのユジノサハリンスク支店開設
9月 大道寺氏、ユジノサハリンスク市創立120周年記念式典に出席
【2003年】
3月 みちのく銀行モスクワのハバロフスク支店開設
9月 モスクワに由紀さおり・安田祥子姉妹を招いて、コンサート「ロシアにひびく日本の歌」を開催(主催:みちのく銀行)
10月 大道寺氏のロシア極東国立総合大学教育部門名誉博士号授与式がウラジオストクで開催
11月 大道寺氏、ロシア連邦プーチン大統領令により「友好勲章」を受章
【2004年】
5月 大道寺氏にロシア連邦プーチン大統領令により「サンクトペテルブルグ建国300周年記念メダル」授与
8月 東シベリア天然ガス視察ツアー
【2005年】
7月 中学生ハバロフスク視察派遣事業
【2006年】
3月 青森県日ロ交易(株)解散
7月 青森~ハバロフスク国際定期便就航再開ハバロフスク・サハリン地区の小中学生教師を招聘
【2007年】
7月 青森~ハバロフスク国際定期便就航再開
ハバロフスク・サハリン地区の小中学生教師を招聘
中学生ハバロフスク派遣事業
【2008年】
7月 青森~ハバロフスク国際定期便就航再開(1往復) ハバロフスク・サハリン地区の小中学生教師を招聘
【2010年】
7月 ハバロフスク極東シベリアツアー(ウラジオストク航空チャーター便) 7月25日~7月28日
注:  (下線部)は私と交流のあったロシア人である。ウラジオストク在住のナターリア・クズメンコさんとは、今でもメールを交換している。

《青森県のハバロフスク地方との友好提携までの経緯・現状》
 東西の緊張緩和により青森県とソ連との交流の拡大が考えられることから、平成2年12月に「ソ連との交流に関する基本方針」を策定し、今後のソ連との交流に当たっての基本的な考え方を取りまとめた。方針では、青森県と地理的に近く、交流の機運が醸成されつつある沿海地方。ハバロフスク地方、イルクーツク州を交流推進地域とし、これらの地域との交流を始めることとした。
 平成3年2月に、ハバロフスク地方人民代議員会議ダリニュク議長を招聘し、交流についての協議を行った。平成4年8月には、知事を団長とする青森県ミッション団をハバロフスク地方、イルクーツク州、沿海地方に派遣した。ハバロフスク地方行政府イシャーエフ長官との会議の結果、農林水産業・文化・スポーツ等の分野で交流することで合意に達し、平成4年8月27日、ハバロフスク市において友好協定を締結した。
 ハバロフスク地方とは、地方政府代表団の受け入れ、青少年、医師及び農業技術者の派遣・受け入れ、水産技術者の派遣、民族芸能団の受け入れ、国際交流員の招致、県職員のハバロフスク派遣・行政実務研修などの分野で交流を行っている。
 平成19年度は、友好15周年を記念して記念行事を実施している。

《青森公立大学とロシアとの交流》
 平成4年10月、佐々木誠造青森市長は、加藤勝康学長予定者(青山学院大学でロシア経済学等を教鞭)、加藤幸廣大学開設準備委員会専門委員(元外務省職員でナホトカに駐在後、日本商社に勤務)とともに、ロシア極東地域の各大学(極東国立大学、極東国立工科大学、ハバロフスク国立教育大学)を訪問した。また、ウラジオストク市長のエクレーモフ氏、ハバロフスク地方行政府第一副知事のミナキル氏等と懇談し、教員及び学生の相互交流の可能性について意見交換をした。
 帰国後の記者会見で、佐々木市長は「教員と学生の相互交流について基本的な意思を確認し合う事ができた。今後の進め方については、相互主義を原則に具体的な交流プログラムと条件を事務的に詰め、これらの環境が整った段階で協定書の調印へと運びたい。大学間の相互交流により、双方にとって有意義な人材養成が実現されることになれば、将来それを核として、学術文化にとどまらず経済など様々な分野の交流の促進に繋がる。」と述べた。
 こうして、翌年の平成5年4月に青森公立大学が開学し、ロシア語講座が開講したのである。ロシア語講座の講師は、トルスト・グーゾフ・アントリーエビッチ(1952年2月15日、ウラジオストク生まれ)、極東国立大学東洋学部日本語学科を卒業後、モスクワ科学アカデミー東洋研究所日本研究センターに勤務し、日本の歴史を学び、特に鎌倉時代に制定された武士政権のための法令「御成敗式目」のスペシャリストである。現在、青森公立大学の准教授。因みに、弟さんは広島大学の非常勤講師としてロシア語を教えており、江戸時代の「目安箱」に詳しく、また、帝政ロシアと日本との関係について研究している。
 また、青森公立大学は、極東国立工科大学と学術交流の締結をし、学生の相互派遣、留学生の派遣・受け入れを実施している。
 縁あってか、2000年5月13日に、函館日ロ交流史研究会の研究会を青森公立大学で開催し、トルストグーゾフ氏に「青森公立大学でのロシア語教育」について、留学生のイワン・カシェーエフ君には「ウラジオストクの日本クラブ紹介」について、講演していただいている。
 ロシア人留学生の中でも、現在も友人関係が続いているアンドレイ・シビニィニィコフ(32歳)について少し紹介したい。祖父は、今でも健在でウラジオストクに住み、戦前、ハルビンの日本語学校で学んだことから、日本語を話すことができる。また、ウラジオストクのアルセニエフ博物館の館長を務めたという。母は、ウラジオストクの病院で内科医として勤務しており、弟は、早稲田大学での留学後、モスクワの銀行で働いている。
 彼は、極東国立工科大学を卒業した後、本格的に日本で経営経済学を学びたいとの思いで、今度は、日本政府の文部科学省からの奨学金を得て、再び、青森公立大学大学院で学ぶこととなった。約6年前、修士を取得し、東京のロシア系貿易会社で働くこととなり、現在は、専ら、ロシア等海外からの水産物の輸入取引に携わっている。一昨年、日本の女性と結婚したが、私はロシア式結婚式に招待され、東京在住の多くのロシア人と懇談することができた。今、奥さんは、ロシア語習得に熱が入っている。

 最後になるが、芽生えだした、ちょっとしたロシアとのビジネスの話を紹介したい。
 青森公立大学の学生が設立した貿易会社がある。会社は、学生が所属するゼミの教授の名前を冠した「TLFIT」丹野大教授(多国籍企業論)とゼミ生が2006年10月、研究室内に設立し、資本金は10万円。社長・輸出入担当と組織化されている。
 取扱商品は、ペルーのコーラ・スコットランドのチョコクッキー・韓国の即席ラーメン等約20種類で、主に大学の売店で販売している。
 先に紹介したアンドレイ・シビニィニィコフとタッグを組み、青森県産のリンゴをロシアに輸出した経験のある丹野教授は、ロシア向けの県産品の輸出を提案した。八戸出身の社長(3年生)は海産物の輸出を試みたが、賞味期限があることから取り止めた。そこで、毎年秋にハバロフスクで開催される国際見本市2007年に初出品し、12品目をそれぞれ5個から30個販売した。「にんにくふりかけ」「焼肉のたれ」は好評であったので、賞味期限の長い加工品にターゲットを絞り、戦略を練っているところである。
 また、この国際見本市では、青森県・物流会社の現地法人の関係者が、「蜂蜜入りりんご酢」1本900ルーブル(約3,600円)を120本、「顆粒みそ汁」1食30ルーブル(約120円)を3,500食、販売した。他に、試飲として「しじみ汁」の人気が高く、日本酒や焼酎を輸入したいというロシア商社と弘前市の酒造会社での商談も始まり、青森のロシアビジネスが、再び動き出している。

「会報」No.32 2010.8.30

ワクワク函館への旅

2012年4月25日 Posted in 会報

小林千香子

 2010年2月18日から20日、生まれて初めて北海道の地を踏む日がやって来た。「日本・ウラジオストク協会懇談サロンin函館」出席のためである。飛行機の往復だけではあまりにあけっけないので行きは新幹線「はやて15号」で東京出発、八戸で特急「白鳥15号」に乗りかえる。
 気のせいか青函トンネル前から雪景が本州とは異なるような感じ。サイロがあったり、すっきり伸びた樹木が雪景の中でロマンチックに異国的に写る。
 私の背後で若い女性が「就職が決まらない」ことを相方に訴えている。ガランとした車中で厳しい社会状況を知る。不況はもちろん全国的規模なのだが......
 初日はロシア極東国立総合大学函館校で日本・ウラジオストク協会浅井事務局長の「ロシア極東と日本地方都市の貿易」と題しての特別講義。ソ連(ロシア)ビジネスに携わって来られた浅井さんならではの厳しい現状も伺った。40名の聴衆は熱心に耳を傾けていた。
 続いて「マースレニッツア」という冬を追い出し春を迎え祝うロシアのお祭りが同大で行なわれた。冬を象徴するワラ人形「モレーナ」をかついで冬を楽しむ「クマ」「ウシ」のお面たち。やがて彼らは「太陽」にほうきで追い出されるという寸劇が演じられる(絵A)。「冬」と書いてあるワラ人形に火が放たれ、「冬」の左に朱で糸ヘンをつけると「終」りという文字に。つまり冬は終りということになる。
 春の神「ヤリロ」が訪れ春となり、その寸劇は終わる。「コール八幡坂」の合唱団や学生達が加わり「マースレニッツア」が盛り上がる。日本流にいえば立春の訪れだ。
 雪の校庭いっぱいに香ばしい焼肉の煙が漂い始めた。料理の達人アニケーエフ副校長の指導のもと、学生達の手作り料理が次々と完成。ブリンヌイ、ボルシチ、シャシリーク(くし焼)、コンポート、ピロシキ等の御馳走が運ばれて来る。紅いボルシチの色がロシアを想い起こされなつかしい。

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絵A

 私達の周りでも日本人男性と結婚した若いロシア人女性、留学生、教師、函館に住み着いたという東京人等との会話が弾み、楽しい交流会だった。
 同校のイリイン・セルゲイ校長は流暢な日本語を話された。2009年北海道新聞の「ひと」の記事によれば、先生はウラジオストク生まれ。中学時代ナホトカ近郊で過ごした。その折、図書館で川端康成の「山の音」の翻訳を読み「こんな国もあるのか」と感銘を受けたという(非常におませな中学生だったと思う)。私ごとになるが、学生時代私もやはり「山の音」を読み衝撃をうけた。突然大人の世界に投げ込まれた気がした。今から50年も前、宝塚から急行列車に飛び乗り鎌倉の川端先生宅の自宅前に佇む変な女学生を先生はジッと鷹のような冷徹な目で見つめられた。以来川端文学は私の原点になった。
 イリイン校長はこんなことも言われた(絵B)。「以前卒論といえば学生が原稿用紙に手書きしたものを、うやうやしく持って来て両手で手渡したものだが、今はこんな小さなメモリーチップを持って渡しに来るのです。」それを先生がパソコンに入れて読ませて頂くというのもなんだか主客転倒しているような気がする。先生のため息もわかる。しかし時代は先に先に進んで行く。良きにつけ悪しきにつけ決して後戻りしない。

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絵B

 夢の又夢でも20代に戻ってこんな大学でロシア語を勉強してみたいなアと希った。明るくユーモアとペーソスに満ちた校長先生の存在は今後も同大学の更なる発展を可能にするだろう。
 おみやげに同校の「15周年記念文集」、「15年の歩み」「関連新聞記事」等の冊子を頂いた。どれも立派で同校を知る上で貴重な資料だ。
 その後、同校内に置かれている付属函館ロシアセンターを視察した。若い女性スタッフが生き生きと活動している姿が頼もしかった。
 ハリストス正教会のニコライ・ドミトリエフ神父を訪ねた(絵C)。白く美しい日本初のハリストス正教会の建物である。情熱的な語り口、巧みな日本語、何か不思議な人を包み込むようなお人柄だ。
 教会内でニコライ神父著蔦友印刷(株)「ロシア人・日本人」を求めた。帰ってから読んでみたが面白くて面白くて止められない。ハートフルな自叙伝である。「大好きな日本人にロシアを知ってほしい!」と訴えている。これこそ私の求めているものだ。多くの友人達にこの本を回覧することにした。

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絵C

 市立函館博物館視察。
 函館をみおろす丘の上の木造の古い建物が時代を感じさせながら佇んでいる。雪の道をふみしめ博物館にたどり着く。
 佐藤・大矢両学芸員が出迎えてくださる。樺太関係や露領・北洋漁業関係の資料をみせて頂く。熱心な説明が嬉しい。「にしん御殿」などという言葉を子供時代にきいたことがある。それも北洋漁業の盛んな時代の言葉だろう。
 夜函館山夜景を楽しむ(絵D)
 これが噂にきいていた百万ドルの夜景!太平洋と日本海どちらをも右と左に眺められるぜい沢。広大な夜景に息をのむ。弘前からかけつけたロシア語勉強中の青年と合流。山頂レストランで夕食。

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絵D

 2月20日 宿泊先のホテルは清潔で眺めのよいホテルだ。夜景を眺めながら屋上露天風呂としゃれ込む。朝は風花に打たれながら湯に浸る。この幸せを何と表現したらよいか...
 赤レンガ倉庫群は海の側に立ち並び昔の繁栄をかもし出している。
 ロシアホテル跡地、ロシア人墓地―雪の墓地に眠る函館にかかわった過去のロシア人がたくさん居ることを知る(絵E)。

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絵E

 この墓地は大切に保存されていた。
 旧ロシア領事館は擬ビザンチン風建築で二階建て建物。1908年に新築され、今は両国民の友好のシンボルとなっている。
 「旧ロシア領事館復元・活用の会」の工藤玖美子代表との出会いもあった。東京を脱出し、函館を本拠にし、この運動に全力をあげているという。函館を愛し、ロシアを愛する、ロマンを地でいく女性、私には彼女の気持ちがとてもよくわかる。
 午後の交流会は、函館日ロ交流史研究会が主催し、函館日ロ親善協会、旧ロシア領事館復元・活用の会、はこだて外国人居留地研究会、極東大学函館校教師の皆さん24名の参加があった(絵F)。

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絵F

 函館日ロ交流史研究会長谷部世話人代表からは同研究会の15年余りの歩みほか、前職場である市立函館博物館とアルセニエフ博物館との交流について画像を見ながらこの説明があった。
 日本・ウラジオストク協会事務局田代さんからは、協会の設立経過活動についての報告。中本会長からは、「日露の架け橋チェーホフと日本人をめぐる秘話 ‐チェーホフ生誕150年によせて」の興味深い話が画像と共に参加者を魅了した。
 又、エレーナ・イコンニコワさん(サハリン大)は、御自身のテーマである「ロシア文学におけるサハリンとクリル諸島のイメージ」について、中本会長による通訳を介して講演された。モスクワからみて極東の地もかくも知られざる深い歴史をもっていること、流刑の地であっても案外自由に人々は生きていたこと等。
 このような内容を普段知らされることはなかった丈に、よく綿密に調べられたことに驚きであった。18世紀19世紀、又は日露戦争の背景も加わり、詩や文学が極東の地を舞台に生き生きと語られているのに感動した。
 懇親会は失礼してひと足先に帰途についた。タクシーの運転手さんが、新幹線の止まる予定地が函館ではなくて次の駅に決定したことを「函館の危機」だとふんがいしていた。地形的に函館は無理だということなのだそうだ。
 旅人の私がとやかくいうことはできないけれど、これだけロシアとの深いつながりのある都市はない。この魅力ある都市は、東京ものですら東京を捨てて住まわせるほどの美しさやエネルギーを放っている。交通の不便さにより人々の足が遠のくのだとしたらロシアとの文化交流の妨げにならなかと心が痛む。次の機会には家族や友人と一緒に函館を訪れ、なつかしい人々と再会したいと希っている。
 この日のために奔走してくださった倉田有佳さん、そして函館の関係者の方々に心から御礼申し上げます。

「会報」No.32 2010.8.30 特別寄稿

サハリン島で迎えた日露戦争とビリチの戦後 -ロシア極東国立歴史文書館史料より

2012年4月25日 Posted in 会報

倉田有佳

■ロシア極東国立歴史文書館訪問
 今年3月7日から17日までウラジオストクを訪問し、ロシア極東国立歴史文書館(RGIA DV)での資料調査を行ってきた。場所は、ウラジオストク駅のすぐそばで、宿泊先に選んだホテル「プリモーリエ」から徒歩で10分弱である。
 実は、同文書館の利用は、今回が2度目で、ウラジオストクの総領事館に専門調査員として勤務していた当時(2000年12月)、日頃からお世話になっていた極東大学モルグン教授の案内で訪れたことがある。RGIA DVは、1992年にシベリアのトムスクからウラジオストクに移転してきた(詳しくは『ロシアの中のアジア/アジアの中のロシア(III)』参照)。同じ建物には、国立沿海地方文書館(GAPA)が入っており、閲覧室も同じ。閲覧室の扉を開けてすぐの机がGAPAの担当者で、右手前方の机に座っているのがRGIA DVの担当者であるとの説明を受けた。
 当時のウラジオストクは、深刻な暖房問題を抱えていた。文書館の閲覧室も室温は常に1-2度、3-4人いる閲覧者も、皆がオーバーを羽織って新聞や史料に向かっていた。覚悟はしていたが、もものの15分も経つと身体が芯から凍えてくるため、廊下に出て、持参した魔法瓶に入れてきた熱い紅茶で暖を取った。
 そのような懐かしい思い出を胸に、10年ぶりに訪れてみると、建物の造作は変わっていないが、廊下の壁紙が新しく、明るい雰囲気になっていた。無論、暖房の心配もなく、閲覧室は机も床も清潔で、非常に快適だった。一方、変り映えしないのは、担当者の女性の対応で、1990年代半ばのモスクワの図書館や文書館が思い出された。また、閲覧者が必要な箇所を黙々と書き写している姿も懐かしかった。昨今は史料の写真撮影が許可されているものの、1ファイル、1ドキュメントにつき800ルーブル(当時:3000円強)と高額であるため、ロシア人学生や研究者は、書き写しが中心とならざるを得ない。
 領事館函館事務所ブロワレツ所長からトロポフ館長に事前連絡しておいていただいたおかげで、行った初日から史料を閲覧することが許可されたが、RGIA DVの閲覧時間は、月曜から金曜日の9時から15時までと短く、しかも「アルヒヴィストの日」だの、まれにみる大雪による急な閲覧室開放時間の短縮もあり、史料の写真撮影は、閲覧最終日にあわてて行うはめになってしまった。
 とは言え、このたびの調査は、私の近年の研究対象であるKh.P.ビリチの生涯のうち、サハリン島時代の空白部分を埋める上で大いに役立った。具体的な成果は、今年末を目処に発刊予定の論文集『日露戦争とサハリン島』の中の倉田担当章に反映させたため、詳しくはそちらをご覧いただくとして、以下、本稿では、函館と関係のある点を中心に、このたびの成果を紹介したい。

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左:ロシア極東国立歴史文書館の看板 右:国立沿海地方文書館の看板

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外観

■日露戦争中ビリチが拿捕した函館からの密漁船
 日露戦争勃発直後、ビリチは自費で義勇兵隊を編成し、自ら隊長となった。そして、RGIA DVの史料を典拠としたサマーリン論文から、サハリン島の沿岸警備に就いていたビリチ隊が密漁船2隻を拿捕したことまではわかっていた。しかし、今回、自分の目で史料を確かめた結果、ビリチが拿捕した船の名前は、「ダイサンカイショーマル」ではなく、正しくは「ダイサンカイチマル」であることが確認できた(Ф 702 оп.1 д.482)。
 この事件については、外務省外交史料館所蔵史料でも調べてみた。すると、1904年4月12日、函館近郊の銭亀沢や石川県羽昨郡の漁夫計63名が、松前郡吉岡に赴くと称し、汽船「東洋丸」に乗りこんで函館を出航したが、吉岡には上陸せず、「第三加悦丸」に乗り換えてサハリン島に密航したことが明らかになった。「カエツマル」を「カイチマル」と聞こえたのは、函館弁の影響だろうか。それはともかく、「ダイサンカイチマル」は、函館の小熊幸一郎所有の「第三加悦丸」のことと考えてほぼ間違いないないだろう。
 実は、「東洋丸」に乗った銭亀沢村出身の漁夫一行が、サハリン島で拿捕された事件については、『函館市史 銭亀沢編』(函館市史編さん室編、函館市出版、1998年、79-81頁)で詳しく述べられている。しかし、「東洋丸」とだけあり、「第三加悦丸」には全く触れておらず、ビリチ隊との接点が見出せなかった。ここにようやく、函館からの密漁船を拿捕したのがビリチ隊であることが判明したのである。
 外務省記録から、「第三加悦丸」が拿捕された状況をたどってみると、1904年4月19日、悪天候の末、ウッスロ(日本時代の鵜城、現在のオルロヴォ)に漂着し、飲料水と焚火を求めて上陸すると、露国守備隊38名が銃剣を伴って陸上の山影から出て来た。逃げ切ることもできないまま拿捕され、5月21日、一同は本船に乗り移された。露国将校1名と兵16名、ロシア側船長1名が同行し、アレクサンドロフスクへ護送された(外務省記録[3. 5. 8. 19])。
 アレクサンドロフスクから先、大陸側のニコラエフスクへ渡り、ハバロフスク、ブラゴヴェシチェンスク、さらにトムスク、チュメニ、ペルミとシベリアを横断し、最終的にドイツのブレーメンへと送られ、函館を出航して8ヶ月後の12月6日、長崎港に無事到着したことなどは、『函館市史 銭亀沢編』で触れているとおりである。
 なお、ビリチ隊が拿捕した船ではなかったが、1904年8月7日に小樽から出航した「加茂丸」の乗組員13名は、サハリン西海岸でロシア兵に捕えられると、「第三加悦丸」でアレクサンドロフスクからニコラエフスクに移送され、「第三加悦丸」一行と同様のルートでシベリアを横断し、ブレーメンから日本に送られ、約1年後に神戸港に到着した。その状況は、一行が帰国後に語った「樺太遭難実話」(『北海タイムス』1905年8月26日-9月30日)に詳しい。

■戦場サハリン島でのビリチ
 RGIA DVで今回閲覧した史料は、貴重な情報を提供してくれるものばかりだが、中でも、戦時中に失った自己資産を回復するために、戦後になってからプリアムール総督に宛てたビリチの請願書(Ф. 702. оп. 1. д. 482. л. 209об-210)は、重要だった。
 請願書の中でビリチは訴える。敵の手に渡る前に漁場一帯を焼き払えという軍の命令に従ったため、ウッスロの自宅や倉庫など堅牢な計15の建物、漁場の船、漁労用具類などの資産を失った。軍の指揮官の助言に従い、飼育していた大型角獣の家畜84頭と馬9頭を参謀本部が置かれているアレクサンドロフスクに送り、残る大型の英国種の豚150頭は、屠殺後廃棄処分にした。4人の義勇兵を伴わせ新品の完全武装の木造船を軍に提供した。
 請願書という性格上、ビリチが事実を誇張している可能性は否めないが、日本軍の樺太上陸後、軍の命令に従い、軍当局に積極的に協力したビリチの姿が浮かび上がってくる。

■ロシア側に求めた戦時中の補償
 ビリチが捕虜となり、弘前のロシア人捕虜収容所に送られたことはわかっていたものの、本国帰還直後については空白だった。それが上記プリアムール総督宛ての請願書により、ビリチが帰還後、真っ先に居住登録した場所は、プリアムール総督府や漁場の入札等の問題を所管するプリアムール国有財産局が置かれているハバロフスク市であることが判明した。
 ビリチの戦後は、戦時中に失った自己資産の回復請求から始まった。上述のような莫大な資産を失った埋め合わせとして、かつて日本人が経営していたオリガ湾とプチャーチン島の海面漁区の長期借区権の付与を願い出た。プリアムール総督府官房とプリアムール国有財産局は、ビリチの訴えに善処するが、地元住民に鮮魚を供給することが優先され、これらの海面漁区は、1906年の入札リストから外されていたことが判明し、あえなくビリチの訴えは却下された。

■日本政府に求めた漁場賠償問題
 ところで、日本政府によるロシア人漁業者への補償問題については、セミョーノフ、デンビー、クラマレンコ等の長期契約の特許を有する、いわゆる優先漁場には、120万円の賠償金が日本政府から支払われたことは、清水恵論文で明らかにされているが、ビリチほか15名のロシア人漁業者の漁場については、これまであいまいにされていたため、以下、外務省編『日露交渉史』を基に事実関係を整理しておきたい。
 ビリチら15名も、セミョーノフ、デンビー、クラマレンコ同様、日本政府に賠償を求める。しかし、一年限りの許可を得た漁業者ということで、一旦は日本政府から賠償の対象外と判断される(1908年2月14日付駐日露国公使宛て文書)。しかし、日露協約が成立し、両国の友好ムードが高まる中、ロシア政府は、従来懸案となっていた戦中戦後にロシア側が蒙った損害に関する一括解決を提案していく(1908年8月)。ここにビリチら15名の漁場の賠償問題も含まれることになる。
 ロシア政府は、日本の官憲がロシア人漁業者の漁業権を否認して、ロシア人漁業者が経営していた漁場を日本の官憲が競売にかけたことは、ポーツマス条約第10条に違反する、それと言うのも、ビリチらは、長期漁業借区の条件に服従すべき誓約を済ませており(このたびのRGIA DVでビリチらの誓約書を閲覧。Ф. 1193. Оп. 1. Д. 210. Л. 51)、ロシアの官憲から5年間の借区の特許を与えられるべき予備手続きを完了していたが、日露戦争が勃発したために正式の特許を受ける時機を失っただけで、事実上は長期契約者に等しいからである、と主張した。
 日本側はロシア政府の主張を法的に正しいと考えるまでには至らなかったが、戦後の両国の友好ムードに後押しされる形で、両国政府の閣議決定を経た後、1911年8月26日、他の案件を含め一括解決をみた。
 ここに「南樺太旧露国漁業者救恤金15万円」が交付され、ビリチら15名は、戦後6年目にして日本政府から賠償金を受け取ることになったのである。

「会報」No.32 2010.8.30 研究会報告要旨

平成21年度市立函館博物館函館開港150周年記念特別企画展「アイヌの美-カムイと創造する世界-ロシア民族学博物館・オムスク造形美術館所蔵資料」

2012年4月25日 Posted in 会報

大矢京右

はじめに
 本特別企画展は、函館開港150周年を記念して市立函館博物館と財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構の共催で、2009年7月18日(土)~9月6日(日)の51日間(実開館日数44日間)に渡り市立函館博物館本館にて開催されたものである。展示資料についてはロシア民族学博物館所蔵のアイヌ民具資料215点とオムスク造形美術館所蔵の平澤屏山筆アイヌ絵12点を各館より借用し、資料の少ないアイヌ絵については市立函館博物館および函館市中央図書館等が所蔵するアイヌ絵等を追加展示することで内容の充実を図った。なお、市立函館博物館での開催終了後は、北海道立帯広美術館・帯広百年記念館(2009年9月18日(金)~11月11日(水)開催)ならびに京都文化博物館(2009年11月23日(月)~2010年1月11日(月)開催)において巡回展示された。

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1. 資料来歴
1-1.ロシア民族学博物館

 1902年にロシア皇帝アレクサンドルⅢ世の命により創設されたロシア民族学博物館はロシア連邦サンクトペテルブルグ市に所在し、約2,600点ものアイヌ関係資料(北海道・サハリン)を所蔵する、ロシア国内で最も大規模な博物館の一つである。
 所蔵アイヌ資料の大部分は、ロシア帝国地理学協会正会員ヴィクトル=ニコラエヴィッチ=ヴァシーリエフによって収集されたものであるが、サハリンアイヌの民具については1912年7月~8月の約1ヶ月間で約1,000点が収集され、北海道アイヌの民具についてはその帰途北海道平取において5日間で約800点が収集されている。これらヴァシーリエフによって収集された民具類は、収集年や収集地が明らかである上、その数量もさることながら資料の種類も多岐に渡り、当時のアイヌの生活の細部までもうかがい知ることができる。また、北海道で収集された資料については、北の玄関口であった函館で現地ロシア商人の手を借りて整理・取りまとめされ、本国に向けて発送されていることから、いささか函館にも縁のある資料であるということができよう。ちなみに、資料の使用イメージを伝えるために借用した写真資料も、1900年代初頭にポーランドの民族学者ブロニスワフ=ピウスツキによってサハリンで撮影されたものなどで構成され、当時の生活の様子を直接視覚的に伝える貴重な資料である。

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ヴァシーリエフ

1-2.オムスク造形美術館
 1940年に設立されたオムスク造形美術館は、ロシア連邦オムスク市(西シベリア)に所在し、18世紀から20世紀にかけて制作された線画を中心に、約26,000点の資料を所蔵している。
 同館が所蔵するアイヌ絵は、幕末・明治の函館で活躍した絵馬屋平澤屏山(1822-1876)によって描かれたとされる「ウイマム図」「オムシャ図」「種痘図」「穴熊引き出し図」「熊送り図」「踏舞図」「夜間サケ漁図」「鹿猟図」「熊猟図」「眺望図」「貝突き図」「斬首図」の12枚である。平澤屏山は、杉浦嘉七に伴われて十勝でアイヌと生活を共にするなどしてつぶさにその様を観察しており、色鮮やかなウルトラマリンブルーやエメラルドグリーンといった人工顔料を用いて描かれたアイヌ絵の数々は、国内はもとより国外でも高い評価を得ていた。
 これら12枚の絵はロシア科学アカデミー会員のエヴゲニイ=ミハイロヴィッチ=ラヴレンコが1949年にレニングラードの古書店で入手し、1985年に同館に寄贈したものであるとされるが、どのような経緯で古書店に流れ着いたかは定かではない。しかしいずれにせよこれらの資料が、幸か不幸かこれまで日の目を見ることが無かったため、褪色などの劣化もない素晴らしい状態で今回公開される運びとなったわけである。

2.展示および開催状況
2-1.第1展示室-アイヌ民具-

 市立函館博物館本館2階の第1展示室には、ロシア民族学博物館から借用した資料215点が「まかなう」・「まとう」・「いのる」の3つのテーマ別に展示された。
 最初の「まかなう」のコーナーには、アイヌの生活用具を作り出すマキリ(小刀)や、それから作り出されるチェペニパポ(皿)などの木製品、そしてカロマハ(物入れ)などの布・毛皮製品などが展示された。それらかたちや文様からは、ものとしてのカムイを飾った「装飾美」が伝わってくるとともに、使いやすさを追求した道具の形状や素材の性能を遺憾なく発揮させる適材適所などの「道具としての機能美」も感じられるものであった。
 次の「まとう」のコーナーには、アイヌの衣服や装飾品の形や文様の「装飾美」が伝わるような、サハリンアイヌが用いたテタラペ(イラクサ製の草皮衣)や北海道アイヌが用いたアットゥシなどの衣服やタマサイ(首飾り)などの装飾品が展示された。これらの資料からは、刺繍や切伏による装飾や素材の色合いと質感を活かした「もの自体の美しさ」とともに、夫や子どものために針を運んだ女性の「装飾に込めたこころの美しさ」も感じ取ることができる。
 第1展示室最後の「いのる」のコーナーには、イクパスイ(捧酒篦)やラマッタクイコロ(呪術用宝刀)などの精神文化に関わるものと、トンコリ(五弦琴)が展示された。これらの資料からも、前2コーナーの資料と同じようにアイヌの木彫りの巧みさが感じられるとともに、カムイ(神)に敬意を払い、日々祈りを欠かすことの無かったアイヌの「信じるこころ」や「家族を想うこころ」、そして手慰みにトンコリを爪弾く「人生を楽しむこころ」などの「こころの美しさ」が伝わってくる展示であった。

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展示を見る観覧者たち

2-2.第2展示室-アイヌ絵-
 市立函館博物館本館3階の第2展示室では、「描かれたアイヌの世界」と題して、オムスク造形美術館所蔵の12枚のアイヌ絵とともに、市立函館博物館、函館市中央図書館、北海道開拓記念館などが所蔵する江戸時代から明治にかけて描かれたアイヌ絵など44枚を一堂に集めて展示した。
 展示室は「平澤屏山以前のアイヌ絵」「平澤屏山のアイヌ絵」「平澤屏山以降のアイヌ絵」の3つで構成され、屏山以前のアイヌ絵の草分け的な存在である小玉貞良の作品から、屏山作の函館市指定有形文化財「アイヌ風俗12カ月屏風」、そして屏山の弟子にあたる木村巴江の作品などが時系列で展示された。中でも明治期の函館で製材業を営んでいたトーマス=ライト=ブラキストンの邸宅で飾られていたという2枚の大判のアイヌ絵は、傷みが激しいことからこれまで展示されることがほとんどなかったものであるが、今回のテーマに合わせて函館図書館への寄贈当時の新聞記事とともに展示され、多くの観覧者の目を引いていた。

3.おわりに
 7月18日の開催初日には、市立函館博物館本館での開会式でテープカットが行われ、函館市中央図書館でパネル展示とともに第一線の研究者を招いたシンポジウム「箱館開港とアイヌ絵師平澤屏山」が開催されるなど、華々しいスタートをきった。
 また、展示期間中も学芸員による展示解説(8月8日)や、世界的なトンコリ奏者OKIを迎えたナイトミュージアム「OKIのトンコリコンサート-伝統音楽の夕べ-」に多くの参加者が来館するなど盛況を極め、最終的には44日間の開館日数で2,752名の観覧者が来場したのである。
 今回の特別企画展は、函館開港150周年という一つの節目を迎えるにあたって、函館に縁のあるアイヌ資料の里帰りという趣旨で開催された。そして多くの市民がこの趣旨に賛同・協力して博物館へ足を運ぶとともに関連事業に参加したことから、いわば開催する側と観覧する側とでともに作り上げた展覧会であったといえよう。これにより博物館交流を核とした日本とロシアの友好が促進されるとともに、先住民族に対する理解の向上による和人とアイヌの友好も促進されたことは、大きな前進となるに違いない。

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OKIのトンコリコンサート

「会報」No.31 2010.1.31

ドロシェーヴィチ『サハリン(監獄)』に描かれたKh.P.ビリチ

2012年4月25日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに
 近年、筆者が研究対象としているフリサンフ・プラトーノヴィチ・ビリチ(Хрисанф Платонович Бирич)に関する最初の発表の場は、当会会報23号「研究ノート」(2003年)であった。以来、研究成果は、様々な場で発表してきたが※、集大成と言うべきものは、昨年11月末、筆者が在籍する北海道大学大学院博士後期課程「研究論文II」として提出した「来日ロシア人漁業家ビリチの生涯-流刑の島から大いなる北の海へ」(A4判62頁、未刊行)である。現在は、この論文を基に、博士論文の執筆に取り組んでいるところである。
 さて、当地函館は、漁業家時代のビリチが足跡を色濃く残した地であり、函館でビリチと言えば、「サハリンの金持ち漁業家」、「堤商会」のライバル会社「デンビー商会」の幹部として知られている。しかし、ビリチの全生涯を振り返ってみるならば、19世紀半ば、ヴォルィニ県ザスラフスキー郡シェペトフカ村で生まれ(生年については、1857年、1859年もしくは1860年、1863年と諸説ある)、青年期以降は、准医師、サハリンの流刑囚、サハリン南部の漁場の経営者、カムチャツカの「デンビー商会」漁場の監督官であり同商会が経営する缶詰工場の経営者、ウラジオストクの商人、そして臨時プリアムール政府全権代表としてカムチャツカを統治した政治家などと、様々な側面を持っていた。
 そこで、本稿では、函館で良く知られている「サハリンの金持ち漁業家」となる直前の、流刑地「サハリン島」時代のビリチの姿を、ドロシェーヴィチ『サハリン(監獄)』を通して紹介したい。

描かれたビリチ
 流刑地サハリンの実態を世に広めたのは、何と言っても作家チェーホフの『サハリン島』である。その中で、ビリチについては、移住囚「ビリチ某」として触れられている(第12章)。しかし、人間ビリチに肉薄し、ビリチの本質を見事に描いたものは、チェーホフ来島から7年目の1897年にサハリン島を訪れた社会・政治評論家で劇作家のV.M.ドロシェーヴィチ(1865-1922)の『サハリン(監獄)』(Дорошевич В.М. "Сахалин (Каторга)". М., 1903)を置いてほかにない。
 ドロシェーヴィチは、ちょうどマウカに出張中だったビリチと、偶然にも同じ宿、しかも隣の部屋に泊ることになり、図らずもビリチと深く関わることになった。自著『サハリン(監獄)』には、「ビリチ」という小節まで設けている。
 描かれたビリチは、背が低く、おしゃれには関心がなくみすぼらしい格好をしており、チョッキには、時計ならぬ犬でもくくりつけられそうに「大きな」鎖を付けた中年男である。
 ドロシェーヴィチによって描かれた外貌からは、品性は感じ取れないが、ビリチ自身はインテリ(知識階級)を自称し、教養ある人(=ドロシェーヴィチ)と知り合えたことを喜び、自分の妻が専門学校出で、現在は漁場に住んでいることを話す。と同時に、日本からの漁船到着が遅れているため「何千もの」損益を被ったと愚痴る。ちなみに、ドロシェーヴィチによると、「何千もの」は、ビリチの口癖だった。ドロシェーヴィチは、早くもビリチが俗物であることを見抜いている。
 乞われもしないのに、まるで影のようにドロシェーヴィチの行く先々に付きまとい、宿では大酒を飲んだビリチが、嫌気がさすほどしつこく、そして途切れなく話を続け、特に監獄に対してはすざましい罵倒の言葉をのべつ幕なし吐いた。だが,ドロシェーヴィチは、これはビリチなりの暇つぶしだろう、と軽く受け止めている。
 2人で話している時、ビリチはドロシェーヴィチの膝をぴしゃりとたたく。かと思えば、フロックコートをつかんでほうりだす。はたまた自分の煙草の吸いさしをドロシェーヴィチの小皿の中に投げ捨てる。このように、ビリチは無意味で無遠慮な振舞いを繰り返すのだが、ドロシェーヴィチは、この行動は、ビリチが、「あたかも毎秒毎に相手に対して、自分とあなたとは平等で「遠慮なく」ふるまってもよいということを証明しようとしているかのようだ」と捉えている。
 描かれたビリチから察するに、ビリチが最も憎悪したのは、平然と怠惰な生活を送る自堕落な徒刑囚たちだった。食らって、飲んだくれ、何にもしないでいるろくでなしどもへの鞭打ちは当然だと豪語した。同時に、ろくでなしどもへの懲罰が何ひとつないことに憤慨し、これでは徒刑地ならぬ、ろくでなし奨励の場だ、と怒りを露わにし、ドロシェーヴィチに対して、ろくでなしとは何なのかを世間に知らしめてくれ、と頼んでいる。

「流刑囚上がりの農民」ビリチの苦悩
 1893年にペラゲア・ペトロヴナと教会結婚(正式な結婚)し、「流刑囚上がりの農民」という自由身分に昇格して少なくとも4年が経過していたが、当局の支配を受け続け、その一方で、長年の囚人生活の中で身についてしまった動作やしぐさから自分が抜けきれていないことを恥じ、いたたまれない思いをしているビリチの姿をドロシェーヴィチは描いている。
 ビリチとドロシェーヴィチの2人が町のメインストリートを歩いていると、突然、不意に角から顔をはち合わせるかのように管区長に出くわした。ビリチは瞬時に脇に飛びのけた。「あたかも電流が彼を捉え、頭からひさし付きの帽子を脱ぐのではなく、はぎ取った。」ビリチは狼狽し、ドロシェーヴィチに懇願する。こうしたしぐさを取ったことは書かないでくれ!と。そして、「ここでは多くの我慢をしなければならなかった!」と小声で、苦しげに言った。
 何よりもビリチを苦しめたのは、監獄や徒刑囚のつながれた足枷の音が日々の生活空間の中に存在していることであり、それがある限り、流刑地「サハリン島」から解放されることはなかったのである。
 ただし、こうした苦悩は、ビリチだけのものではなかった。そもそもドロシェーヴィチは、ビリチを取り上げた理由は、ビリチの監獄に対する考えが、元流刑囚が感じる典型的なものだと感じたからで、そうでなければ「彼の小さな身体には、ほんのわずかの注意を払うほどの価値もなかったであろう」、と語っている。チェーホフもまた、『サハリン島』の中で、「流刑囚上がりの農民」の苦悩について、ほぼ同様の指摘をしている。

むすび
 ビリチを「サハリン島」から解放したのは、日露戦争であった。ビリチは漁夫隊から成る義勇兵隊の隊長として闘い、捕虜となった後は、大尉相当の待遇で弘前のロシア人捕虜収容所に収容された。講和条約締結後、本国に帰還するが、サハリンに戻ることはなかった。
 日露戦争でロシアが敗北した結果、北緯50度以南のサハリンは日本領となり、サハリン南部で手広く漁場経営をしていたロシア人漁業家は、サハリンから手を引き、カムチャツカに進出した。ビリチもその一人であった。
 そして、「サハリン島」も、戦後のサハリン徒刑制度の廃止に伴い、流刑の島から解放されたのである。

※ 「Kh.P.ビリチの生涯-20世紀初頭のロシア極東と日本-」「ロシアの中のアジア/アジアの中のロシア」研究会通信No.5 、「Kh.P. ビリチの生涯‐19世紀末-20世紀初頭のロシア極東と日本」『異郷に生きるIII』所収(成文社、2005年)、「弘前ロシア人捕虜収容所とKh.P. ビリチ」『異郷に生きるIV』所収(成文社、2008年)、「サハリンの元流刑囚Kh.P.ビリチの子供たちと日本の学校」『異郷』(来日ロシア人研究会会報第31号)。

「会報」No.31 2010.1.31

「浦潮日報」のデジタル化について

2012年4月25日 Posted in 会報

 ここ数年来、懸案となっていた函館市中央図書館所蔵「浦潮日報」のデジタル化が終了しました。国立国会図書館の「全国新聞総合目録データベース」によると、国内では国立国会図書館、函館市中央図書館のほか東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫、敦賀市立図書館のみが所蔵する貴重な新聞で、函館にとっては極東ロシアとの交流を語る貴重な資料となっています。
それぞれの館が所蔵している号数は他館と補完関係にあり、原紙保護の意味も含め、当会会員の研究資料として複製化に取り組みました。撮影データは、DVD2枚に保存し、会員の利用希望があれば、配布しますので、お知らせください。新聞リストを巻末に添付します。

函館市中央図書館所蔵 「浦潮日報一覧(PDF)」

「会報」No.31 2010.1.31 研究会活動報告

函館に縁の深いズヴェーレフ家の人たち ―キューバからオリガさんを迎えるに当たって―

2012年4月24日 Posted in 会報

小山内道子

■ズヴェーレフさんとは
 昭和18(1943)年、「レリメツシュ商会」関係外諜容疑事件が摘発されて、小樽、釧路 函館の白系ロシア人7名が逮捕された。そのうちの一人が函館の洋服商クジィマー・ズヴェーレフさんで、札幌刑務所に収監されたが、1年後に獄中で死亡した悲劇の人物である。また、ズヴェーレフさんは1929年から「北海道亡命露国人協会」会長として、北海道の白系ロシア人を束ねる活動していたことでも有名だった。対米戦争が苦境に陥っていた当時、貿易や行商で樺太、千島を含め全国を動き回る白系ロシア人へのスパイ容疑事件が度々起こり、様々な悲劇をもたらした。現在私達は内務省警保局の残した『外事警察概況』や『外事月報』により事実を知ることができるが、「ズヴェーレフさんの獄死」という事件も一つの「歴史上の事実」という感覚になっていた。つまり、函館に残された家族はその後どうされたのかなど、生身の人間と歴史の接点は見えないまま霞んでしまい、現実感は失われていた。

■次女ガリーナさんとの出会い
 1999年秋サンクト・ペテルブルグで友人のナターリアさんに東京生まれのヴェーラさん宅に案内していただいた。ヴェーラさんは1956年ソ連に帰国した元白系ロシア人で、戦前から戦後1958年まで東京に滞在して大学でのロシア語教育に貢献した画家ブブノワさんの晩年のお世話をした方である。東京の白系ロシア人のお話を伺うつもりだった。ところが、ここで「こちらはガリーナ・アセ-エヴァさん、函館にいたズヴェーレフさんの娘さん。北海道の方だというので、お呼びしたのよ」とガリーナさんを紹介されたのである。「ああ、あのズヴェーレフさんの......」とすぐに「獄中で亡くなった」ズヴェーレフさんを思い出した。「ガリーナさんですか?ペテルブルグに住んでおられたのですね!」ほんとうに驚いたが、こうして「歴史上の」人物を「発見した」のである。私は夢中でガリーナさんの両親のこと、また、何よりも日本からペテルブルグに至るまでのカリーナさん自身の人生の物語を根掘り葉掘り尋ね、メモしていた。最初に両親の歩みを紹介しよう。

■ロシア革命・内戦・日本への亡命
 1917年のロシア革命とその後の内戦により多くのロシア人が国外へ亡命した。ソビエト政権を受けいれず祖国を脱出、あるいはソビエト政権打倒のため戦う白衛軍に加担したが敗退して亡命した軍人や家族など、1917年-1921年に約250万の人々が亡命したといわれる。亡命先は独仏などヨーロッパ諸国が一番多かったが、シベリア、極東地方から中国の国境地帯、東清鉄道沿いにハルビンを目指す場合も多かった。これらの亡命者は革命派の人々がソ連軍即ち赤軍から赤系と言われるのと対比して白系ロシア人と呼ばれる。
 ガリーナさんの父クジィマー・ロジオーノヴィチ・ズヴェーレフさんは1887年ウラル地方ペルミ県クングール市(当時)で生まれた。第1次世界大戦に徴兵されてドイツ戦線で戦い、負傷して捕虜になったが、その後釈放されてゲオルギー十字勲章を授与され、2等大尉に昇進して兵役免除となった。しかし、革命が起こり、さらに内戦に突入、1918年ウラル地方ではコルチャーク将軍率いる白衛軍が優勢となり、ズヴェーレフさんも今度は白衛軍に徴兵された。負傷した脚が悪いため経理部主計として働く。しかし、コルチャーク政権崩壊後は、逃れてセミョーノフ軍に加わるが、彼の軍隊もシベリアより敗退しため、ズヴェーレフさんらは逃走、1922、3年頃ハルビンに到達したのである。このように元白衛軍の兵士とその家族など様々な避難民がハルビンに流入したため、革命前9万人だった人口がその頃35万人に膨れ上がり、生活は日増しに困難になっていた。他国への移住を望んでも、祖国を棄てた無国籍者ではビザ取得は不可能だった。この状況は世界的な問題となったため、国際連盟で論議され、ナンセン博士の提案によりロシア難民に「身分証明書」(以後「ナンセン・パス」と呼ばれる)を発給する決定がなされた。これによりビザを取得して他国へ移住することが可能になった。日本政府は従来難民の入国を厳しく制限していたが、1925年から「入国提示金制度」を適用することになった。日本での生活資金として一人1500円を提示すれば入国を認めるのである。これは大金だったため、資金のない人たちはグループを組んで2、3家族ずつが一定の期間をおいて提示金を貸し回ししながら移住するという方法を考案したという。
 この「ナンセン・パス」と提示金制度を利用して1925年ハルビンから北海道旭川に移住したのが、後の日本初の300勝投手ヴィクトル・スタルヒンの一家である。娘ナターシャ・スタルヒンの書いたスタルヒンの伝記『白球に栄光と夢をのせて』を読むと、避難民となった白系ロシア人の苦難の逃避行が生き生きとした具体像として迫ってくる。           
 さて、ズヴェーレフさんはハルビンで生活の資を得るためあらゆる仕事をしたが、その過程で同郷ペルミ出身の親しい仲間が出来た。そして、人口急増で展望の持てないハルビンから、当時着物から洋服への転換が急激に進んでいた日本へ移住し、洋服の行商をすることになった。

■札幌、室蘭を経て函館へ
 1926年頃日本に渡ったズヴェーレフさんのグループにアンドレイ・ヴォルコフ、その妻ダーリアと1歳の娘ヴェーラがいたことは確かである。その他に旭川に行ったコレジャトコフ氏と青森に住んだ旧教徒のベーリコフ家も一緒だったと思われる。が、確証はない。昨年札幌ハリストス正教会に信徒の戸籍簿とも言うべき「メトリカ」が残されていることが報道され、拝見する機会に恵まれた。ヴェーラとアンドレイは日本移住後間もなく病気で亡くなったと聞いていたが、「メトリカ」には確かに1926年、1927年の永眠と記載されていた。この時同時に「札幌里塚霊園」にロシア人の墓碑が残されていることが分かり、訪ねてみた。この霊園は札幌薄野に隣接し古くからあった「豊平墓地」が全面移転されたもので、一角に「ハリストス墓域」があり、そこに1924年から1941年に亡くなったロシア人の墓碑8基が残されていたのである。「函館外人墓地」は有名だが、札幌にもロシア人墓地があることが分かった。そして、ここにヴォルコフさん父娘の墓碑もあった。ガリーナさんにも確かめたが、このグループは当時は札幌に住んでいたことが分かった。
 実はズヴェーレフさんの妻ダーリアは亡くなったヴォルコフさんの未亡人である。ダーリアもペルミ出身で、革命後既にハルビンに逃れていた父親を頼って筆舌に尽くしがたい艱難の末1922年頃ハルビンに到達した。1924年頃ヴォルコフと結婚、翌年にはヴェーラが生まれ、一家は1926年頃ズヴェーレフと共に北海道へ移住した。札幌に落ち着いた後、相次いで娘と夫を亡くし一人残されたダーリアは、その後ズヴェーレフたちと室蘭に移り、二人はやがて結婚する。1929年と推定される。子どもには次々に恵まれ、1930年から1933年まで毎年誕生している。長女タチアーナ、長男ミハイル、次男アレクセイ、次女ガリーナの4人である。1932年末か33年には函館に移住しているので、ガリーナは函館生まれである。その頃父親は「北海道亡命露国人協会」の会長として活躍していたが、生業の洋服の行商は続けていた。母親は「ボルガ」という喫茶店を開き、パンやケーキ類も売っていた。しかし、1934年の「函館大火」により店は焼失、大きな痛手を蒙ったが、何とか立ち直って、松風町に店も再建した。

■ズヴェーレフ家の子供達と教育
 4人の子供たちは4歳または3歳から第二大谷幼稚園に通い、6歳になると皆大森小学校に入学した。また、毎日店の前の歩道で近所の子供達と遊んでいたから、日本語には不自由しなかった。しかし、両親は子供達にロシア人としての教育を受けさせたいと考えて、小学校2年の1学期終了後長女から順番に東京にある寄宿制のプーシキン名称ロシア初等国民学校に入学させた。次女のガリーナが入学したのは1940年9月である。ガリーナはここで、しっかりロシア語の教育を受けたので後々まで役立ったという。この学校は当時4年制だったため、タチアーナとミハイルが卒業して横浜のミッションスクールに編入した1942年9月、下の二人も一緒に転校した。横浜に家を借り、函館から母親が4歳のナージャと3歳のオ-リャ(オリガ)を連れて出てきて、子供達の面倒を見た。しかし、太平洋戦争に突入し、戦況が悪化の一途を辿っていた情勢の中で、1943年1月ズヴェーレフ氏がスパイ容疑で逮捕された。母親はこの知らせを子供達には「パパが入院した」とだけ告げて帰函した。夏になっても父親は釈放されず、状況は改善の兆しさえ見えない。ミッションスクール閉鎖も伝えられたため、両親は上の子4人を当時日本の植民地だった大連のロシア人中学校(ギムナジア)へ転校させることに決定し、1943年12月に出発させた。そして、これがその後14年にわたる家族との別れとなった。その約1月後に父親は獄中で亡くなっている。家族が再会出来たのは、1957年ソ連のロストフ市においてであった。

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ズヴェーレフ一家、店の前で

■ガリーナさんを招いた10周年研究会
 2003年12月、函館日ロ交流史研究会は創立10周年記念シンポジウムの特別ゲストとしてペテルブルグからガリーナ・ズヴェーレヴァ(現在の姓はアセーエヴァ)さんを招待した。この席でガリーナさんは小学校2年まで過ごした函館の思い出を幼稚園・大雨・大火・アイヌの人達・行幸・祝祭日などの項目で詳しく話され、また当時の自分たちの暮らしやお付き合いのあったロシア人のこと、大森小学校の思い出、さらに函館を出て東京と横浜で通った学校と暮らしについても語られた。後半は日本を出てから大連での終戦、ソ連の市民となりウラジオストック、サハリンを経てペテルブルグの姉弟の許へ合流するまでの長い道程についても。この時私達は歴史が個人の人生に刻み込んだ軌跡をたどることができ、歴史を直接的に実感できたのである。
 60年ぶりに故郷函館を訪れたガリーナさんは奇跡のような体験だったと語った。様々な人達との出会い、教会で見せていただいた「メトリカ」、60年を経て初めての父のお墓参り、懐かしい場所の数々、そして父の「事件」の記録文書、これらすべてがガリーナさんにとってもやはり歴史と自分の人生との接点を実感させ、深い満足感を与えたのである。

■キューバから迎えるオリガさん
 ガリーナさんの末の妹オリガ(キューバではスペイン語風にオルガ)さんは1940(昭和15)年函館で生まれた。戦後になっていたがやはり大森小学校に通った。そして、姉たちと同じように3年生の頃横浜のセント・モア女学院へ転校した。しかし、英語で行われる授業についていけないこと、ロシア人であるなどでいじめられ、また東京から通っていたため病気になって函館に帰り、1年ほど休学した。4年から卒業までは大森小で学び、卒業後は遺愛女学校に入った。しかし、1953年夏、一家は東京に移住する。そこで9月からは恵泉女学院に通学した。1957年、ソ連政府の勧めにより、また、何より1943年に別れた兄弟姉妹に合流するためにソ連へ帰国する。14年ぶりに長兄の家でようやく父をのぞく家族全員が再会を果たしたのである。オリガは2年通ってソ連の10年制学校(当時)を卒業、1959年秋レニングラード大学(当時)東洋学部日本史学科に進学した。17年間馴染んだ日本語が専門の勉強に多いに役立った。大学時代に革命の国キューバの留学生イダルベルトと知り合い、彼の社会主義にかける理想と情熱に惹かれて結婚した。1965年に大学を卒業、2年働いて1967年にはキューバへ渡った。今年でキューバでの生活も40年になる。今では歴としたキューバ人というべきだろう。キューバではロシア語の教師をしていたが、ソ連崩壊後は日本語の教師に転向した。
 1994年国立国会図書館に勤めていた高木浩子さんはキューバに出張したが、その時の日本語通訳がオリガさんだった。1ヶ月の滞在で二人は大変親しくなる。当然、オリガさんの数奇な人生の物語についても詳しく聞き、高木さんは大いに感銘を受けた。翌年オリガさんは国際交流基金の日本語教師研修で東京に来た。その時高木さんと以前からオリガさんと親交のあった慶応大学のキューバ研究者工藤多香子さんがオリガさんを函館や恵泉女学院などゆかりの場所に案内した。お二人はますますオリガさんの物語に関心を寄せ、今年11月私費でオリガさんを東京へ招待することに決めた。函館の研究会もこの好機にオリガさんを函館に招くべく計画を進めている。13歳まで函館で暮らしたオリガさんは、函館で一番長く生活した白系ロシア人として1953年頃までの思い出を、ロシア人社会のことを含めて語って下さるだろう。

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1970年前後のズヴェーレフきょうだい 前列右からアレクセイ、タチアナ、イワン(ガリーナの息子)、オリガ
後列右からガリーナ、一人おいてミハイル、ナジェージダ

「会報」No.30 2007.10.1

現代ロシアの結婚式(体験談)

2012年4月24日 Posted in 会報

遠峯良太/エレーナ

 2006年8月18日、新婦の故郷であるウラル山脈の麓の町エカテリンブルグで私たちは結婚式を挙げた。
 関空からウズベキスタンのタシケント経由で約半日。新郎はロシア初渡航となる両親、おばと共に向かった。
 ロシアの結婚式の長い一日(正確に言うと一日では終わらない)は、昼すぎに新郎が新婦の家に迎えに行くことから始まる。
 しかし花嫁はすぐには出てこない。アパートの入口で新婦の友人に通せんぼされ、新婦にふさわしい男かどうか試される。新婦の家まで数々の難関――新婦のキスマークを当てる、輪切りのレモンの下に女性の名前が書かれた紙が入っていて、新婦の名前を引き当てるまで食べ続ける、結婚に関するクイズを解くetc. ―─を突破しなくてはならない。
 この儀式を「ヴィクプ」といい、ロシアの結婚式の始まりには欠かせないイベントである。結婚に際して新郎新婦の同姓の友人各1名が「証人」となるのであるが、「ヴィクプ」を取り仕切るのは新婦の証人。一方、新郎の証人は新郎が関門を突破できるよう手助けするのである。
 では、問題が解けない場合はどうなるか?手持ちの現金やウォッカ、お菓子を差し出し、新婦側と交渉して通してもらうのである。
 なお、「ヴィクプ」という言葉には「買収」という意味もあり、元来は花嫁を買う儀式であった。結婚前に金品を贈るという意味では、意義も形式も異なるが、日本の結納に似ているとも言える。
 ヴィクプが無事に終了し、新郎が新婦を「買収した」ところで、数台の車に分乗して町の名所めぐりに繰り出す。「ヨーロッパとアジアの境界線」や二人の通っていたウラル大学などで記念撮影をしたりシャンパンで乾杯したり......晩夏のウラルの青空の下、のどかなひと時を過ごすことができた。ロシア人のカップルは、無名戦士の墓に行って花束を捧げたりすることも多い。新郎が留学していた3年前と比べ、町並みが確実に近代化してきており、旧ソ連時代の面影が次第に薄れていっているのがはっきりわかる。立ち並ぶ新築の高層ビルにこの国の好景気ぶりを実感させられた。
 続いて、夕方6時から挙式が始まる。場所は町の戸籍登録所(ザックス)。役場の一室が式場になっているのである。宗教活動が制限されていたソ連時代の名残といえるだろう。現在は正教会で挙式を行うカップルも多いが、新郎新婦共に正教徒であることが条件となる。
 婚姻届1枚で済んでしまう日本とは異なり、ロシアの婚姻手続きは煩雑だ。結婚式の1ヶ月前と2日前の2回、夫婦そろって役場に出向いて申請しなくてはならないのである。若くして結婚し、すぐに離婚してしまうカップルが多いため、考え直す時間的猶予を与えるためといわれている。
 役場の結婚式では、式を執り行うのは聖職者ではなく役場の職員。教会のような荘厳さはないが、親しみやすい雰囲気であった。全体的な流れは日本のキリスト教式の挙式のような感じだが、やはり要所要所で違いはある。式の途中に婚姻届にサインすると、結婚証明書が交付される。続いて指輪の交換(ロシアでは右手薬指にはめる)。そして最後に新郎新婦が皆の前で一曲踊るのである。
 披露宴は町はずれのホテルで行われた。入口では、新婚夫婦を新郎の母がパンと塩を両手に出迎える。新婦を新しい家に迎える儀式である。このパンに新郎新婦が順番にかじりつく。より多くかじり取った方が、家の主になるという言い伝えがある。さらに、これが人生最後の辛味になるよう願いを込め、パンにたっぷり塩をつけて相手に食べさせる。感動もあって(?)思わず涙が出た。ロシアの結婚式は、とにかく身体を張る場面が多い。
 披露宴が始まると、陽気な参加者のテンションがさらに高まり、我々から時間の概念をすっかり取り去ってしまった。所定の時間内で詳細なプログラムが組まれ、スタッフが常時進行を確認し、細かい指示に従って動く最近の日本の披露宴とは対照的である。その場にいたほとんど全員が余興やスピーチを行い、時間が空くと音楽が流れ出し、ダンスに興じる。
 その合間に、突発的に「ゴーリカ!」という掛け声がかかる。「酒が苦い(ゴーリカ)からキスで甘くしろ」という意味で、この掛け声がかかるたびに新郎新婦は立ち上がってキスをするのである。
 披露宴の最中、突然新婦の靴が盗まれた。新郎たちが芸をしてそれを取り返すのだが、これもロシアの披露宴の定番で、本来は新婦自身が盗まれ、新郎が探し当てる、というイベントである。
 この一日は時間を忘れるほど楽しく、参列者一人一人が心からの言葉をかけてくれ、胸が熱くなった。お開きは結局夜中の2時。翌日も午前中から2次会という豪快なスケジュールであった。通常はその翌日も宴は続くそうだが、新郎側が外国人ということで、手加減してくれたそうである。
 総じて形式ばらず、心のこもった今回の結婚式は、言葉の壁を軽々と乗り越え、一緒に行った遠峯一家をたちまちロシアファンにしてしまった。

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「会報」No.30 2007.10.1 研究会報告要旨(その1)

クリルアイヌ研究と市立函館博物館

2012年4月24日 Posted in 会報

大矢京右

■クリルアイヌとは
 アイヌ民族は、北海道、樺太南部、千島列島といった環オホーツク地域における先住民族である。北海道や樺太に居住していたアイヌは、江戸時代の場所制度の中に組み込まれたり、明治時代の同化政策などが行われたりすることによって、彼ら独自の文化の中に日本文化の影響が色濃く現れるようになった。また、カムチャツカ半島南端から千島列島にかけて生活していたクリルアイヌは、千島列島という日露両国の勢力が拮抗する地帯に生活していたことから、日露双方の影響がその生活文化の多方面に見られることとなった。特にウルップ島・エトロフ島間の渡航が禁止されていた19世紀初頭から中葉にかけてはロシアの千島経営の影響を直接的に受け、全千島が日本領となった千島樺太交換条約締結時(1875年)には、ロシア語を話し、ロシア式の名前をつけ、ロシア正教を信奉するなど、生活文化の隅々にまでロシアの影響が見て取れる状態であった。
 しかし当時は日露間で緊張感の高まっていた時期でもあり、その国境地域に文化的にロシアとのつながりの強いクリルアイヌを住まわせておくのは危険であるとの考え方もあったことから、主に北部・中部千島に居住していたクリルアイヌは、1884年、日本政府によってシコタン島に強制移住させられる。慣れない気候風土や同化政策の一環として日本政府により強制された慣習(衣食住に至る)は彼らを弱らせ、移住当初97人を数えたクリルアイヌの人口は急激に数を減らしていった。また、日本政府による同化政策は言うまでも無く、和人との結婚による文化伝承の断絶や、和人からの差別による自らの文化への自己否定などによって、現在に至っては彼らの文化を伝承する人はいなくなってしまったとされている。

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pic.1:1899年当時シコタン島のクリルアイヌ

■クリルアイヌ研究について
 文化を伝承している人がいないとされるクリルアイヌを研究する際、フィールドワークや聞き取り調査を直接行うことができないことから、かつての探検者や研究者らがクリルアイヌを直接「観察」してその様子を記述した「民族誌」と、彼らが実際に作成・使用した「物質文化資料(民具や考古資料)」がその生命線となる。「民族誌」は多種多様な事象をその記述者の目線で表現したものであり、クリルアイヌの文化の一端を直接捉えることができるものの、記述者の思想・立場などがバイアスとなって現れることがある。また、「物質文化資料」も、民具に関しては収集者の意図がその内容に反映され、考古資料に関しては自然環境やモノの素材により得られる資料に偏りが出る可能性がある。よってこれらの資料を相互補完的に研究することがきわめて重要であると言えよう。

■クリルアイヌ関連物質文化資料について
 クリルアイヌ関係資料のうち物質文化資料に関して言えば世界中の博物館に約500点ほどが収蔵されているが、日本国内には、東京帝国大学で助手をしていた鳥居龍蔵によって収集された民具資料82点(国立民族学博物館所蔵)や、馬場脩によって収集された考古資料194点(市立函館博物館所蔵)、また、河野常吉によって収集された考古資料30点(旭川市博物館所蔵)などその大半が存在している。しかしそれらの資料のほとんどは情報が欠落してしまっており、資料の分析・研究を困難にしてしまっているのが現状である為、まず資料の整理・分類から始めていかなければならないことが多い。
 市立函館博物館には世界中で確認されているクリルアイヌ資料の約半分にあたる222点が収蔵されており、その内28点の民具資料は千島樺太交換条約締結による開拓使の千島調査の際に収集されたものや、馬場脩による収集品、そしてその他篤志家等による寄贈品などで構成され、194点の考古資料に関してはほとんどが馬場脩の千島調査の際に直接収集されたものである。資料の数が多いのはいうまでもないが、その属性も多岐に及んでいるため、クリルアイヌ研究において比類無き好素材であると言える。しかしその世界屈指のクリルアイヌ資料の収蔵量を誇る市立函館博物館も、資料に関する情報(素材・用途・製作時期・使用時期等)が付帯しているものがほとんど無く、その為に研究が進んでいないのが現状であり、早急な整理・分類が待たれているところである。

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pic.2:クリルアイヌ関連資料の展示状況

■市立函館博物館所蔵資料の研究にむけて
 前述のとおり市立函館博物館には多くのクリルアイヌ関連資料が収蔵されているが、これらを研究するにあたっては、まず函館博物場時代に収蔵された所謂「旧蔵資料」と馬場脩によって寄贈された所謂「馬場コレクション」の2種類に大きく分類することができる。
 「旧蔵資料」は、千島樺太交換条約締結後に開拓使が行った調査時に収集された民具資料や篤志家による寄贈品(民具資料・考古資料)で構成されている。開拓使による収集品は、収集時期が判明している上、樹皮編袋やテンキ(ハマニンニクの草をクリルアイヌや北米海岸インディアンに共通して見られるコイル編みと言う技法で巻き上げて作られた容器)等の手工芸品が多く見られ、クリルアイヌの生産能力を見極めようとする開拓使の意図が見て取れる。また、収集地に関しても資料に直接貼り付けられた旧函館博物場の整理タグや、函館博物場の資料を函館商業学校に移管した際の『素博物場陳列物品商業学校江引継物品及其外物品書類』から特定することができる。これに対し、篤志家による寄贈品に関しては、多種多様な人々によって様々な時代に収集された経緯があるため、資料に付帯する情報量の差も大きく、その整理・分類は困難を極める。よってこれらに関しては、今後函館博物場および函館博物館関連の文書資料等を調査していくことから始め、暫時情報の蓄積を行っていくことが重要であろう。
 馬場コレクションに関しては、コレクションそのものに関する研究は長谷部一弘によってなされているものの、個々の資料に関する分析は未だ途上にあり、ましてそれらを利用した研究に関してはほぼ手付かずの状態である。今後、馬場脩の発掘調査時の論文や著作物と資料を照らし合わせることで個々の資料に関する情報を整理することで、初めてクリルアイヌ研究の用に供することができるようになると言えよう。直接クリルアイヌに接して描かれた民族誌とその際に得られた民具資料、また直接遺跡や住居跡を調査して書かれた報告書とその際に得られた考古資料。整理・分類された馬場コレクションはこの好条件を全て備えており、クリルアイヌ研究において世界に二つと無い重要な資料群となり得るものである。

■ケーススタディ~「バラライキ」
 市立函館博物館所蔵のクリルアイヌ関連資料の中に、フラットバック形態をした3弦の弦鳴楽器「バラライキ」(収蔵番号1218)がある。シコタン島で製作され、1886年に函館で開催された北海道物産共進会に出品された資料であり、出品後に函館博物場が収蔵したものである。これについて考古学的手法である実測図の作成・観察に加え、文献資料を用いて分析を行った。
 「バラライキ」のヘッドは平たく形成され、細長いネックにはおそらく獣の腱を撚って作ったと考えられるフレットが巻いてあり、ずれないようにネック自体に刻み目が作られている。共鳴胴は角が丸くなった三角形をしており、共鳴胴表板には砂時計のような向かい合った三角形の響孔が空けられている。素材はマツ材が用いられ、共鳴胴側板は熱を加えることで湾曲させたイチイ材の薄板が用いられている。弦と駒は欠損しているが、ヘッドの表面に対して垂直に貫通した3本の糸巻きと、3箇所に溝を切った竹製の糸受けから、3本の弦を共鳴胴側板の底部に貫通させた木釘を根緒にして張っていたと考えられる。
 胴体に貼られたタグからは、この製作者がケプリアン=ストロゾフであることが読み取れる。ケプリアンは1836年9月9日生まれでクリルアイヌの元首長であり、函館博物館の原簿では製作年が「明治十九年十月」(1886年)となっていることから、製作当時50歳であったと考えられる。ケプリアンが首長を勤めていたのは1882年までであるが、1884年のシコタン島移住以降も次首長であるヤコフ=ストロゾフとともにクリルアイヌの精神的支柱であった人物の一人であったと考えていいだろう。
 ちなみに19世紀中葉のロシアで製作・使用されていたバラライカはこの「バラライキ」とほぼ同じ形態をしており、クリルアイヌがロシア人と接する過程においてその芸能文化にも影響を受けていたということは、大変興味深い事実である。
 また、この資料が作成された時期と共進会に出品された時期が同じであることを勘案すると、共進会に出品する為に作成された資料であることが考えられる。すなわち、クリルアイヌの指導者的立場の者が、自らの独自性と生産能力を示すために作成したのがこのロシア風の楽器であったということは、いかにクリルアイヌの生活の中にロシア文化が根付いていたかを傍証するものであろう。
今後は、類似したクリルアイヌ関連資料や北海道アイヌや樺太アイヌの資料(トンコリなど)とも比較研究していくことにより、クリルアイヌの文化についてより詳細な研究が可能になっていくことだろう。

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pic.3:「バラライキ」(収蔵番号1218)

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pic.4:クリルアイヌと開拓使職員

図版説明
pic.1:鳥居龍蔵(1919)「Etudes archeologiques et ethnologiques. Les Ainou des iles Kouriles」(仏文)中の「PLANCHE7A」
pic.2:函館市北方民族資料館2階展示室における展示。クリルアイヌの舟形大皿、杓子、テンキ等が配置してある。
pic.3:実測図上に置いたバラライキ。共鳴胴裏板に和紙製のタグやシール式のタグなどが貼られている。
pic.4:共進会に製品を出品する為来函した時の写真。左端からケプリアン=ストロゾフ、小島倉太郎(ロシア語通詞)、ヤコフ=ストロゾフ、赤壁次郎(根室県役人)。北海道大学附属図書館北方資料室蔵写真資料

「会報」No.30 2007.10.1 研究会報告要旨(その2)

函館のソ連領事館と日本人職員

2012年4月24日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに
 昨年3月、市内在住の石塚さんという方から、当会会員の岸甫一さん宛てに手紙が届いた。これは、函館市中央図書館主催「地域の歴史講座」で岸さんが「函館の日ロ交流」をテーマに講演を行うのに併せて、同図書館展示ホールで開催された写真パネル展「函館日ロ交流史展」(市国際課提供資料)の中で、石塚さんがご尊父のお名前(「石塚軍治」)を見つけたことによるものであった。
 手紙によると、石塚軍治さんは、1927(昭和2)年5月から1933(昭和8)年9月まで在日ソ連通商代表部函館支部(函館の通商代表部は昭和10年に閉鎖)に、続く1933(昭和8)年10月から1938(昭和13)年9月まではソ連領事館に通訳として勤務されていたとのことである。
 冷戦時代のソ連大使館は、警備員、掃除婦、料理人に至るまで、本国ソ連から連れてきて、日本人職員は一切雇わないと聞いていたため(現在のロシア大使館も同様の模様)、戦前の函館のソ連領事館で、通訳をはじめ、雑役婦や運転手までもが日本人であったことは驚きであった。
 ともあれ、研究会としては、今年度中に石塚さんをお招きし、ソ連領事館に通訳として勤務されていたお父様に関するお話を伺わせていただきたいと考えているところであるが、初代領事のゴシケヴィチ時代のロシア領事館については、研究が進んできているものの、ソ連領事館については、掘り下げた研究は行われていない。
 そこで、石塚さんをお招きする前に、まずはソ連時代の函館領事館と日本人職員について、内務省警警保局編『外事月報』を基にして、多少なりとも明らかにしてみようと試みたのが今年4月の研究会での報告であり、以下は、当日の報告の取りまとめである。

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石塚軍治さんのお名前が下段右よりに出ている(『函館日日新聞』1932年11月26日付け)

帝政時代の函館のロシア領事館
 函館のロシア領事館は、1858(安政5)年に日本で最初のロシア領事館として開設された。初代領事ゴシケヴィチ時代のロシア領事館は、ロシア病院による日本人医師への西洋医学の浸透、洋服や写真術の伝授など、北の地の「文明開化」に大きな役割を果たしたと高く評価されている。
 しかし、ロシアの極東開発の拠点がニコラエフスクからウラジオストクに移行したことから函館港の重要性は低下し、また、明治維新後、首都東京にロシア公使館が開設され、ロシア正教の宣教活動の拠点も東京に移されたため、函館は交流拠点としての地位も失っていった。
 これが、20世紀初頭、露領漁業の勃興を契機に、函館港は再び注目されることとなり、ロシア政府は、査証(ビザ)を発給する領事館用の独立した西洋風の建物を多額の官費を投じて建設した(日露戦争をはさんで1906(明治39)年に建物が船見町に完成するが、翌年の大火で焼失。すぐさま再建工事が始まり、1908(明治41)年に同じ場所に完成した。これが現存する旧ロシア領事館)。

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大正初期のロシア領事館(函館市中央図書館蔵)

ロシア革命後の函館の領事館
 1917(大正6)年のロシア革命、そして続く国内戦争と、ロシア国内の混乱は5年に及んだ。函館の領事館には革命後もレベデフ領事が残留し、1921(大正10)年にウラジオストクに白系のメルクーロフ政権が樹立され、日本政府との間で漁業条約が締結されるまでの間、露領に出漁する日本人に査証など各種証明書を発行し、手数料を徴収し続けたのであった。
 1921年-1922(大正11)年は、ロシア極東の混乱した情勢の中で、査証を取得せずに日本の軍艦に見守られながらカムチャツカ方面の漁場に出漁する「自衛出漁」が採られたが、1923(大正12)年、当時東京市長であった後藤新平とソ連全権代表のヨッフェとの合意により、ソ連から函館に査証官が派遣され、五島軒に事務所が置かれた。

ソ連領事館の誕生
 1925(大正14)年1月、日ソ基本条約が締結され、日本がソヴィエト政権を承認すると、2月にレベデフ領事は函館を去ってメキシコに亡命し、4月には、ソヴィエト政府から派遣されたロギノフ領事が函館に着任した。当初、査証官として派遣されてきたロギノフ領事であったが、東京の大使館にソヴィエト政権の代表が着任すると、函館も「函館事務所」として公告された(同年5月25日)。
 事務所は、通称「堤倶楽部」(元キング邸・船見町60番)に置かれたが、これは、日本人嫌いで知られたレベデフ領事が、領事館の建物内に日本人を入れたくないため13年間の任期中、一度も改修を行わなかったため建物の傷みが激しく、改修工事を終えて移転したのは、2年後の1927(昭和2)年9月末のことであった。
 「堤倶楽部」で執務が行われるようになった年の初夏、時事新報の伊藤記者が、日魯の関係業者ということにして、カムチャツカ取材に出かけている。日魯漁業の強力なバックアップを受けたおかげで、わずか数日で査証を取得することに成功した。同氏は見聞記に、「一定の地域に止まり、労働者として働く者は、別に一人ひとり領事館まで出頭する必要もなく、百人二百人と人数を限って、その数に依って函館の査証が受けられる。だがこうした査証では各地を旅行するということは全然できな」いと記している(伊藤修『最北の日本へ(カムサツカ見聞記)』大正15年)。
 また、1929(昭和4)年、ソヴィエト政権下で最初にカムチャツカを日本の新聞記者として訪問した大阪毎日新聞の長永記者の旅行記によると、「毎年カムチャツカ方面へ出かける日魯漁業会社の人々は函館のロシア領事から楽に査証を得られるが、突然、視察などで出かける者の査証は甚だめんどうな手続きをとらねばならない。特に、私は大阪毎日新聞記者としてロシア官憲の査証をとる必要があったので比較的寛大な函館のロシア領事館に呈出せず、東京にあるロシア大使館の総領事に査証を求めた」(長永義正『カムチャツカ大観』昭和5年萬里閣書房)、とあることから、函館の領事館は、漁場に出漁する人たちのための査証に限定して発給したのではないかと考えられる。この点、確認が必要である。

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ソ連領事館時代のソ連の国章(函館市で保管)

ソ連領事館と日本人職員
 ソ連領事館で雇用された日本人には、先述の石塚軍治氏のような通訳以外にも、掃除・洗濯などを行う雑役婦や料理人や自動車の運転手、そして時には、館員の幼い子供の面倒を見るための保母がいたことが確認される。当時の資料から、領事館の北側にある本館と隣接する平屋の付属建物には、従僕や雑役婦のための部屋や召使の厨房、便所(汲み取り式)、洗濯室が置かれていたことが明らかになっている。
 1936(昭和11)年11月25日、日独防共協定(1937(昭和12)年には日独伊三国軍事同盟へ)の締結は、日ソ漁業条約改定交渉(1928(昭和3)年に結ばれた条約の改定)にも影響を与えた。この交渉のひずみが原因で、1938(昭和13)年12月25日、函館のソ連領事館が、国旗と国章を撤去して、東京の大使館に引揚げるという事件が起こった。
 これは、日本の官憲から圧力を受け、雑役婦、料理人、自動車の運転手が次々に解雇を申し出、その代わりの人材が見つからない状況が続き、領事館の執務や領事をはじめとする館員の一般生活に大きな不便が生じたことから、領事館側が強硬手段に訴え、問題の解決を図ろうとしたためとも考えられている。中でも日本人の運転手を雇えないことは、ソ連の自動車運転免許証で日本国内の運転が認められていなかっただけに、深刻な問題であった。
 函館は、政治・経済の中心地から遠く離れていたこともあってか、ソ連領事館に雇用された日本人通訳が検挙されるようなことはなかったが、東京では、2・26事件の関連で、ソ連大使館に情報部通訳として勤務する井上満が検挙され、軍機保護法違反で有罪となり、2年以上を獄中で過ごすといった事件や、日本ハリストス正教会の瀬沼恪三郎がソ連のスパイ容疑で逮捕、7週間獄に入れられるなどといった事件が起こっている(1936(昭和11)年3月)(澤田和彦「日本における白系ロシア人史の断章―プーシキン没後100年祭 (1937年、東京)―」『スラブ研究』47号)。
 函館のソ連領事館に話を戻すと、1939(昭和14)年4月2日に日ソ漁業条約仮協定(暫定)が妥結され、北洋への出漁者や諸物資輸送のための査証発給が必要な時期が来ると、領事館は再開されることになった。そのため、日本側も妥協し、領事館は雑役婦、料理人、さらには領事代理の次女のための保母の雇用が可能となった。

国際関係の悪化とソ連領事館
 関係改善もつかの間、モンゴル国境でノモンハン事件が起こり(1939(昭和14)年5月)、日ソ関係は急速に悪化した。函館でも日本官憲の取り締まりが一段と厳しくなった。
 同年6月、パウリチェフ領事代理は、東京の大使館に行ったまま函館での査証発給事務を拒否するという行動に出た。函館に残った館員には査証を発給する権限が与えられていなかったため、日本外務省は、査証発給業務が遅れることは、露領漁業に支障を与えることになり、日本側に経済的に大きな打撃を与えかねないと判断し、ソ連領事館に対する取締りを緩和することにした。
 こうした外務省の譲歩に対して、内務省は、ソ連側の足元につけ込むような不当な要求を避け、これまでどおりの方針で断固臨むという強硬な態度をとり続けようとするが、外務省からの再三の要求を受け、内務省は政策的見地から取締りを緩和し事件の解決をはからざるを得なくなった。
 このように、当時は査証の発給が政争の具として利用されることがしばしばあった。
 1941(昭和16)年6月22日、独ソ戦が始まると、日本で暮らすロシア人外交官の家族にモスクワ引揚げ命令が出された。これは、家族を人質にとり、駐日外交官の逃亡を防ぐ手段としてスターリンがとった措置であったと見られているが、函館では、10月26日の第5次引揚げで家族(夫人と子供)全員が引揚げ、ザベーリン領事以下5名が残った。
 領事館館員の最大の関心事は、独ソ戦の戦況であったが、日ソ中立条約締結直後であったため、函館における領事館館員の諜報活動は、まだまだ消極的であった。

領事館における防諜活動の強化
 これが一転して、防諜活動が積極化するのは、1943(昭和18)年以降のことである。ただし、函館の場合は、査証事務が閑散となる秋から冬の一時期に限られていた。
 外事警察の報告書によると、防諜活動の内容は、各種図書の購入、市内を徘徊したり映画館等に出入りして、市民の生活状況や市民の言動に特に注意するといったことであった。しかし、市内の書店で、書籍(新経済辞典や電気化学便覧ほか)を購入しようとすると、2件の書店で店主から婉曲的に購入を拒否されるなど、図書による諜報活動は、総じて不振であったとも報告されている。同時に、各種新聞、書籍等を訳すため、熱心に日本語の勉強するようになり、これまでの露語を解さない日本人の語学教師に加え、露語を解する日本人教師が1名増強された。なお、雇用に係る交渉は、領事館通訳のアレクセーエフが行った。『外事月報』には、「殊に大東亜戦争の決戦段階に於いて北方アリューシャン及千島、樺太方面の我軍事情報を諜知」するための諜報陣の強化を目的とするものだと報告されているが(1943(昭和18)年12月分)、こうしたことは、領事館に勤務していた日本人通訳から外事警察が入手した情報ではないかと考えられる。
 館員の諜報活動は、北洋漁業における日魯会社の等の漁獲高を知ることにも及んだ。さらに、函館郊外に暮らす旧教徒のクラフツォフやサファイロフなど、白系ロシア人を諜報宣伝活用に利用するため、二人のところに行けば酒が入手できるなどと言って、領事館に勤務する日本人の料理人をそそのかして彼らの住所を聞き出したことも外事警察の報告書には記されている(『外事月報』1943年4月分)。
 太平洋戦争が激化する中、1943(昭和18)年末には、館員が5名から8世帯15名に増員された。これに伴い、日本人の炊事婦1名の増加が求められているが、戦争末期まで、ソ連領事館の方から日本人通訳や雑役婦などが解雇されることはなかったようである。

ソ連領事館の閉鎖
 北樺太石油と石炭の利権がソ連へ委譲され、同地のオハとアレクサンドロフスクの日本領事館が閉鎖されるのに伴い、1944(昭和19)年6月をもって敦賀と函館のソ連領事館を閉鎖したいとソ連側が通告してきた。
 敦賀の領事館は6月に閉鎖されたが函館の場合、漁業期間に査証の発給を止められては困るため、漁期が終わる9月末まで延長してもらうことになり、10月1日をもって閉鎖となった。
 閉鎖される二日前、ザヴェーリエフ領事夫妻と通訳のアレクセーエフは、日魯漁業が開催した送別晩餐会に出席した。温泉街湯の川の老舗割烹旅館若松館で開かれ、函館市長も同席している。
 函館のソ連領事館は、北洋漁業と切っても切れない関係にあった。日本の官憲や軍部が
強気の行動に出ても、北洋漁業で多大な利益を得ていた日魯漁業は、査証発給の遅れや発給の拒否が出ないために、あくまでもソ連領事館との良好な関係維持に努めていた。そうした姿勢は、領事館の閉鎖直前まで続けられたのであった。

おわりに
 戦後、函館市はソ連領事館を再び函館に誘致しようと試みるものの実現はしなかった。この間、管理人として地元函館の日本人夫妻が留守を預かっていた。
 1952(昭和27)年からは外務省の所管となり、1956(昭和31)年の日ソ共同宣言による国交正常化を経て、1964(昭和39)年には函館市が外務省から建物を購入し、「函館市立道南青年の家」を開設した。土地については、戦時中、敷地をめぐる騒動が何度か持ち上がり、日魯漁業が買い上げていたことから、1981(昭和56)年に函館市は日魯漁業から取得(市有地と交換)している。
 1996(平成8)年までの約30年間、青少年の宿泊研修施設として使用されたが、現在は、外観のみを一般開放している。
 その一方で、2003(平成15)年9月、在札幌ロシア連邦総領事館函館事務所が開設された。事務所は所長(2代目)と所長夫人の2名体制がとられており、日本人職員は置かれていない。

「会報」No.30 2007.10.1 研究会報告要旨(その3)

ハバナで出会ったオリガ・ズヴェーレワさん

2012年4月24日 Posted in 会報

髙木浩子

出会い
 函館のズベレフ家の消息については、函館日ロ交流史研究会の『函館とロシアの交流』に掲載された次女のガリーナさんと小山内道子さんの報告に詳しい。ここで、再びズベレフ家について触れるのは次の理由による。
 ガリーナさんは1943年に姉兄3人と大連に旅立っており、それ以降1957年にソ連で再会するまでの母、祖父、2人の妹の日本での生活についてはほとんど知られていない。しかし、それを語れる人がいる。その人はズベレフ家の末っ子でガリーナさんの妹オルガさんである(筆者はオリガではなくスペイン風のこの呼び名に馴染んでいる)。
 筆者とオルガさんの出会いは偶然だった。筆者は、ハバナの海岸から大勢のボートピープルがフロリダを目指していた1994年に、勤めていた国立国会図書館からハバナにあるアジアオセアニア研究所に派遣されたが、そこで通訳をしてくれたのがオルガさんだった。彼女が函館生まれで、父上が戦時中にスパイ容疑で収監され獄死、戦後ソ連に帰ってレニングラード大学に進学し、キューバの留学生と出会い結婚、キューバに移り住んだことを聞いた時は驚いた。キューバに来てからは、ハバナ大学でロシア語を教えていたそうであるが、ソ連邦の崩壊とともにキューバにおけるロシア語のニーズが減ったため、日本語教師および日本語通訳に転じた。翌1995年春、彼女は"国際交流基金の海外日本語教師のための短期プログラム"で38年ぶりに来日した。
 東京でもニコライ堂や住んでいた落合の家の跡等思い出の地を訪ね歩いたが、5月にはいっしょに函館に飛び、松風町の家の跡、通った大森小学校、父上のお墓のあるロシア人墓地を訪ね、ハリストス正教会では受洗者名簿も見ることができた。それは、彼女自身はもちろん同行した私にとっても忘れられない感激的な旅であった。そこで、帰国するオルガさんに家族の物語をまとめるよう勧め、ここで紹介する彼女の手記を送ってくれたが、私信として手元で眠っていた。
 昨年、インターネットで偶然、函館日ロ交流史研究会のホームページを見つけ、『函館とロシアの交流』を送っていただき、ズベレフ家に関するガリーナさんと小山内さんの報告を発見した時の驚きと喜びは忘れられない。長年、探し求めているものに出会ったと思った。その後、小山内さんから、追加情報もいただいて、10月、オルガさんにこれらの資料を届け、もっと詳しく彼女の物語を聞くため11年ぶりにハバナに飛んだ。いくら離れているとはいえ、オルガさんがガリーナさんの日本訪問を知らないのは奇妙に思われるかもしれない。しかし、残念ながら、ロシアもキューバも郵便事情が甚だ悪く、驚くに値しないことなのである1。ハバナへの直行便はなく、メキシコかカナダで1泊しなくてはならないから2日がかりである。
 ハバナではオルガさんの家の直ぐ側のホテルに1週間滞在し、毎日、持参した報告を読み語り合った。そこで、彼女は、沢山の写真を見せてくれた。それらは、彼女が函館から東京、ソ連を持ち歩いた貴重な写真だった。特に私が心を打たれたのは、室蘭であいついで亡くなったヴェーラ(お母さんと前夫ヴォルコフ氏の娘)とヴォルコフ氏の葬儀の写真で、後に再婚することになるオルガさんのお父さんをはじめとする亡命ロシア人の仲間が棺の脇に立つお母さんを取り囲むように写っていた。オルガさんに追加情報を含め、私信を公開したいことを伝えたところ快諾を得たので、ここに紹介する。オルガさんの日本語力はすばらしく、ごく一部補足したが、ほぼ原文のままである。

両親のこと
 ガリーナさんたちが大連に渡るまでの戦前戦中の家族の事情は、オルガさんは幼かったので、直接の記憶はないようであったが、お母さん、おじいさんから断片的に聞いていたようである。以下、「 」内はオルガさん直筆の手記。

「私の両親はロシアで起こった十月革命の亡命者でした。父の事は殆ど何も知りません。白軍の将校だったそうです。彼が日本に来る前どこに住んでいたか、また彼に私達の他に家族があったか、何も知りません。母に聞いた事がありますが、彼女の話では、亡命者の間では余り過去について聞かない事になっていたらしいです。それは、きっと亡命者は各自みんな色々な過去を背負っていたからではないでしょうか。
 エリク・マリア・レマルクのある小説の中で、たしか「凱旋門」という小説だったと思いますが、その主人公は亡命者で男性と女性の間の関係はベッドの関係の方が簡単に出来て、過去についてとても話しにくかったと書いています。きっと亡命者は逃れて来た所の事や残して来なければならなかった自分の家族について、自分の過去について話すのが辛かったのかも知れません。
 母はウラル山脈の近くのペルミ地方から来ました。母の父(私の祖父)はセレドニャーク(その頃のロシアの田舎の百姓はクラーク=富農、セレドニャーク=中農、べドニャーク=貧農の3つの階級に分かれていました。)で2回も銃殺されそうになったので中国に逃げて、ハルピンに落ち着いてから自分の家族を呼び寄せました。母は自分の母と弟ステパンと一緒にシベリアを通って中国に行く事にしましたが、旅行の途中で母の母がチフスにかかり亡くなりました。そのころ母は20歳くらいで弟は10歳くらいでした。母はシベリアに残って看護婦になりたかったが、小さな弟と一緒では無理だったので中国に行くことにしたそうです。だから、母は勉強するチャンスを無くし、無学で一生を送ることになったわけです2。
 中国ではいろいろな家でメードや子供の世話をする仕事をして働きました。そこで彼女は一番目の夫に会って結婚して、1925年頃、日本に行き、室蘭に住み、娘ヴェーラを産みました。しかし、ヴェーラと夫はあいついで亡くなりました。
 未亡人になった母は私の父に会って、好きになって、結婚して、6人の子供を生みました。1934年の函館大火の後、中国にいた祖父も、母の弟が病死した後、父の招待で日本に来て私達といっしょに住んでいました。1941年太平洋戦争が始まって、1943年、父がスパイ容疑で逮捕され、刑務所に入れられたので、母は姉や兄がいじめられるのを心配して、上の兄姉4人を中国の大連に送る事にしました。そこにはそのころロシアの学校(ギムナジア)があったからです。父が1944年1月7日に刑務所で亡くなり、1945年8月に戦争が終わりましたが、大連に行った姉兄との連絡がとれなくなり、私達は長い間、離れ離れに住むことになりました。」

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ズベレフ一家

函館の暮らし――思い出すこと
 オルガさんは1940年に函館で生まれた。1944年にお父さんが亡くなった後、戦中戦後の混乱期をお母さんは自分の父親と2人の子供とともに1954年まで函館で暮らした。そのころのことをオルガさんは次のように語っている。

「私は昭和15年に函館の松風町で生まれました。私の姉兄は、そのころ東京にあったロシア語学校で勉強していたので、末っ子の私が7月15日に生まれたことを喜びました。それは私の誕生日に家に帰って来る事が出来るからでした。しかし、それも戦争のせいで2回か3回しか来ることが出来ませんでした。
 一番上の姉は13歳、次の兄は12歳、その次の兄は11歳、その次の姉は10歳で中国に行ってしまいました。私と直ぐ上の姉はいつも姉と兄たちが帰って来るのを待っていました。父が亡くなった事も知っていましたが、何かの間違いで父はまだ生きているのではないかと想像したこともよくありました。
 私は父を全然覚えていません。ただ、お葬式の日、1月だったので、とても寒くて、誰かの肩の上に乗せられて、元町の下の方から坂を見上げている場面を今でも思い出す事がありますが、実際にその思い出はお葬式の時かどうか、余りはっきりしていません。もしかしたら、命日だったのかもしれません。
 戦争の事については余りよく覚えていませんが、函館の空襲を覚えています。それはもう戦争の終わる直前に近かったからだと思います。空襲がひどくなったとき私達一家(祖父、母、姉と私)は湯の川に疎開しました。そこで私の代母のクラフツォフ家が木苺の砂糖漬けを作っていましたので、そこの倉庫を借りて、どのくらいだったかは覚えていませんが、一時住みました。祖父は松風町に留守番する為に残り、母は行き来していたと思います。その家は丘の上にあって、冬になると、そこからそりで滑り降りるのが楽しみでした。その近くに日本の女性と結婚していた1人のロシア人(サファイロフ?)が住んでいた事を覚えています。彼はグズベリを栽培していて美味しい砂糖漬けを作っていたようです。彼の名は覚えていませんが、とても親切で教養のある人だったと思います。彼の家で初めて揺り椅子を見ました。彼の奥さんは病気だったと思います。その後、姉ナジェージダは学校に入る為母と一緒に松風町に帰ったので、私は後に残され、とても寂しくて、悲しかったのを今でも覚えています。その後、母が会いに来た時、私が母にすがりついて泣いたので母は置いて行くのが、可哀相になったので、家へ連れて帰ったと言っていました。」

 お父さんが収監されるまでは、比較的余裕があった生活も、亡くなられた後は相当、厳しいものであったようで、そのころの生活を次のように語っている。

「戦後はみんな苦労していました。函館では母は父が残した洋服屋をやっていましたが、店には古いものしかなく全然お金が入ってこなかったので、母は家を留守にして、よく商いに出ました。そのときは母が待ちどうしかったです。函館の港まで行って、青森から来る船を待って、それに母が乗ってきたかを確かめたりしました。
 家にはお風呂がありましたが、その風呂を使わないで家族そろって家の前にあった銭湯に行きました。ある日お風呂に入った後とてもおなかがすいて力が全然なくなったので母に抱かれて帰った覚えがあります。今から考えれば食料不足だったのでしょう。そのころは非常に生活が苦しかったと今になって思います。しかし、そのころはそれでいいのだと思っていました。私は普通、祖父が作った木製の下駄(それは日本の伝統的な下駄ではなく板の上に鼻緒代わりに革をとりつけたもの)を履いていました。私は日本の下駄が欲しかったが、それはなかなか手に入らなかったのでしょう。教会に行くときだけ靴を履きました。」

 しかし、戦後の函館の生活については楽しかったと語っている。

「私の少女時代はとても楽しかったです。家にはいつも自転車があって函館中を駆け回りましたし、相撲を見に行ったり、芝居を見に行ったり、映画を見に行ったりしました。函館の競馬を見に行ったこともあります。紙芝居も楽しみでした。戦後アメリカ軍が来たときは家にも来ました。そのころのアメリカの兵隊は戦争を体験した人達だったから人情があったような気がします。そしてその人達にかわいがられました。
 野球を見に行ったこともあります。ヴィクトル・スタルヒンが函館に来た時は、必ず家に来て、私達は母に買って貰えなかったお菓子を買って貰いました。随分かわいがって下さいました。母は父が生きていた時、いつもヴィクトル・スタルヒンを可愛がったと言っていました3。それはヴィクトルも父親を亡くしたからです。兄ミハイルの話では、私の父はヴィクトルの代父(名付け親)であったそうです4。それが本当であれば、私の父はロシアでヴィクトルの父親の友人であった事になります。」

横浜のインターナショナルスクール
 オルガさんは函館で幼稚園に入り、大森小学校に入学したが、お母さんが将来を心配してであろう、9歳頃、お姉さんのナジェージダとともに、横浜のインターナショナルスクールに転校させた。しかし、そこはなじめなかっただけでなく病気になり、函館にもどって大森小学校を卒業し、函館の遺愛女学校に進学した。その頃の思い出を次ぎのように語っている。

「大体私が9歳の頃、母は横浜にあったセント・モーアという修道女の女学校に私を入れました。その時までは大森小学校にいっていて、英語は全然出来ませんでした。その学校では何から何まで英語だったので、随分泣かされました。何も分からなく、数学だけしか出来ませんでした。私のすぐ上の姉が1年か2年前に横浜に行った時は、セント・モーア女学校は戦争で焼けて、建設中だったので、セント・ジョセフ学校で1学年をやりました。その学校は修道士が教えていましたが、殆どの修道士は日本語を知っていたので、生徒が分からない時は日本語で説明してくれたので、姉は私のように苦労しませんでした。
 横浜の学校に通っていた間、私達は御茶ノ水のニコライ堂の下の戦前ロシアの学校があった建物に住んでいたロシア人の家族(コイチェフ家)に預けられました。その建物の二階にはロシア正教の教会がありました5。そこから横浜まで通うのは大変でした。朝はいつも早く出なければならなくて、帰るのも遅かったです。
 学校には色々な国の子供がいました。私はロシア人だったので、そこでも差別されました。それに英語が出来なかったので、ますます差別される一方でした。だから小さい子供はすぐに言葉を簡単に覚えられると考える人が多いですが、私はそう思いません。今でもどんなに辛かったか思い出す事があります。そこで病気になったので、母は私を函館に連れ帰りました。1年間ぐらい病気のため学校を休んで自宅で療養し、そのあと4年生から6年生まで大森小学校にいきました。」

一家で東京へ
 1954年、オルガさんが遺愛女学校に進学した年の9月に一家は東京(下落合1-5-5)に移り住んでいる。洞爺丸台風の年である。東京でオルガさんは1957年にソ連に帰国するまで、経堂の恵泉女学園に通った。その頃の思い出やソ連に帰国するいきさつを次のように語っている。

「東京では目白に住み、毎日目白から新宿に出て小田急線に乗って、経堂の恵泉女学園に中学校を終えるまで通いました。とても楽しい時代でした。学校には広い土地があって野球場やテニスコートやバスケットコートなどがあって、友達同士で早く学校に来て、ソフトボールを練習しました。授業は午後3時までだったので、そのあとは学校の近くの写真屋さんのおばさんがよく写真を撮りに来たので、いまでもその写真を見てそのころの事を思い出します。
 東京には、そのころロシア人のクラブ6があって、そこには色々なサークルがありました。そこで私はロシア語を習ったり、マンドリンの弾き方を習ったり、コーラスに参加したり、演劇をやったりしました。そこでソ連の事情を聞いて、社会主義は素晴らしいシステムだと考えてました。そして、私の兄姉に会うためには、ソ連に帰らなければならない事も理解できました。
 母は自分の子供に会う為にソ連に帰る決心をして、1956年に高校を卒業したすぐ上の姉ナジェージダをソ連に送りました。一番難しかったのは私の祖父をソ連に帰るように説得する事でした。最後に彼も自分の孫達に会いたかったからソ連に行く決心をし、私達一家は1957年9月にソ連に帰りました。その年はモスクワで青年のフェスティバル(第6回世界青年学生平和友好祭)があったので、それに参加した日本の団体が帰国した船7に乗って、新潟からナホトカに行きました。」

ソ連へ帰国して
 ソ連国籍取得の詳しいいきさつはわからないが、ソ連政府からの働きかけもあったであろうし8、なによりソ連にいる子供たちと連絡がとれたことが帰国の動機となったのであろう。帰国に関しては、日ソの国交が回復した1956年に直ぐ上の姉ナジェージダがまず仲間と帰国し、翌年、残りの家族がナジェージダが落ち着いたロストフ・ナ・ダヌーへ帰国し、1943年に別れた兄姉たちと再会した。しかし、帰国後も生活は大変だったそうである。ソ連帰国後の生活について次のように語っている。

「ナホトカは建設中でした。ソ連の一番最初の印象は余りいいものではありませんでした。私はお米のご飯を食べるのに慣れていたので、その代わりに他の穀物が出てくると、余り食べたくありませんでした。ナホトカから汽車に乗ってモスクワまで行きました。長い間、夢見て来たモスクワに着いた時は嘘みたいな感じがしました。そこから、私のすぐ上の姉がいたロストフ・ナ・ダヌーへ行きました。
 まず、初めに驚いたのはみんなロシア語を話している事でした。日本では誰かが近くでロシア語を話している場合は、必ず私達の知り合いでしたが、そこでは、私達の知らない人もロシア語を話しているのです。長い間それに馴染む事が出来ませんでした。まず、最初に直面した問題は住居の問題でした。住む所がなかったから、部屋を借りて、そこに住み始めました。アパートを借りる事はその頃出来なかったからです。その後今はよく覚えていませんが、大体3ヶ月後2部屋のアパートを貰いました。その頃のソ連はモスクワやレニングラードのような大都市では食料の問題はありませんでしたが、ロストフ・ナ・ダヌーは大変でした。勿論、市場には何でもありましたが、値段が高かったので、何時もそこで食料を買う訳にはいきませんでした。それから年金生活に入る為に母は病院で掃除のスタッフとして6ヶ月働きました。
 私達がロストフ・ナ・ダヌーに着いてから上の姉達と兄達が来て、母は15年振りに、翌年夏休みに帰って来ると思って中国の大連に送った子供達に出会った訳です。子供の面影もない大人になった子供達でした。きっと、母は自分の子供達が色々苦労した事を聞いて随分辛い思いをしただろうと思います。何しろ13歳、12歳、11歳、10歳の子供達が、母の元から離れて、自分で自分の運命を決めなければならなかったのです。もし、近くに誰か経験のある人がいて相談に乗ってくれたら、どんな運命を選んだか分かりません。もしかしたらみんな日本に帰って来ていたかも知れません。その様な事を考えれば限りがありません。」

 ソ連帰国後、大学に進学、キューバに渡るまでのいきさつについては次のように語っている。
「一応落ち着いてから私は学校に行き始めました。東京にいる時ロシア語を勉強していたのですが、実際には余りよく分かりませんでした。教室で先生が説明している時は全部分かるような感じがしましたが、家に帰って宿題をする段階になると、何も分からなくなって、とても苦労しました。ソ連の学校で9学年と10学年をやって、1959年に学校を卒業してから、1961年にレニングラード大学の入学試験に合格して、東洋学部の日本史科に入り、日本の歴史を勉強し始めました。勿論、私が日本語を良く知っていた事は入学する為の大きなプラスでした。
 大学では色々な知識を得て、沢山の友達ができて、とても充実した生活を楽しみました。私が2年生の時、ソ連にキューバから沢山の留学生が来ました。レニングラード大学にも十人ぐらいのキューバ人が色々な学部で勉強し始めました。そして、私は経済学部で勉強していた今の夫であるイダルベルト9と知り合い、彼の理想に惹かれました。なぜなら、ソ連に来た時の私の理想に合っていたからです。ソ連の青年達は革命が起こってから五十年も経っていたので、ずっと物質主義的になっていたのです。キューバではほんの一、二年前(1959年)に革命が起こったから、みんな熱心に社会主義こそキューバにある様々な社会問題を解決すると信じていました。しかし、結果的にはそうではありませんでした。その事について話す為には色々な国際事情や経済の知識を持っていなければなりません。ですから、その様な分析は専門家に任せましょう。
 イダルベルトと知り合ってから2年経った後で結婚して、1965年に大学を卒業してから2年間インツーリストというソ連の旅行会社でガイドとして働きました。1967年にキューバに渡りました。」

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左上からミハイル、ガーリャ、タチアナ、左下からナジェージダ、アレクセイ、オリガ

キューバで新しい生活
 また、キューバに着いてからの生活については次のように語っている。

「キューバに来てからは、スペイン語を知らなかったので、ロシア語を教える事になりました。そして、1990年までロシア語を教えていました。
 ソ連が崩壊してからキューバでのロシア語の必要性が全然なくなったので、転身を図らなければならなくなりました。その時ハバナ大学で松尾先生10の日本語教師養成クラスに参加して、私の頭の中に眠っていたが、使う機会がなかった為にもう話せなくなっていた日本語を呼び起こす機会が与えられたのは幸運でした。よく覚えていませんが、確か1990年の9月から私は日本語の授業を始めました。日本語のクラスは大学だけではなく、アジア会館(アジアの家)やアジア・オセアニア研究所などでもやりました。1998年に大学を退職して、今は時々、大学で教えたり通訳をしています。」
 
 オルガさんは、現在、ハバナ市内にご主人のイダルベルトと住んでいる。息子イダルベルトと娘グロリアの2人の子供がいるが、グロリアはメキシコ人と結婚しメキシコに住んでおり、イダルベルトもメキシコで仕事をしている。キューバはソ連崩壊後、未曾有の経済危機に直面し、一時期よりはましになったとはいえ、相変わらず、国民は窮乏生活を強いられている。10年前に行った時は外国人用のホテルを除くと一般家庭では長時間の停電が常態化していたが、今回もホテルの窓から停電して真暗な街を眺めるはめとなった。物不足も相変わらずで、街には古い自動車が走り、バスなどはいつくるかわからない有様である。
 でも南国のことゆえ太陽の光はまぶしく海は輝き、夜ともなると、あちこちでサルサの音も聴こえる。毎年やってくるハリケーンの被害も深刻で、私が帰国後1週間目に襲来したハリケーンでオルガさんの家も冠水した。好転しない経済状況に絶望して国を離れる若者も多いと聞いた。こういう状況の中で、キューバではエリートに属するオルガさんの暮らしもなかなか大変で、ロシアに帰国するのもままならぬのが実情である。
 オルガさんは17歳まで日本ですごし、ソ連(ロシア)ですごしたのはわずか10年、キューバに来て既に40年たっているが、国籍はいまだにロシアだそうである。彼女はどこでも異邦人だったのではないかと思う時があるが、その心情を次のように語っている。

「よく次のような質問をされます。「あなたの母国語は何語ですか」と。この質問に答えるのは案外難しいです。なぜなら私はロシアの家族の中に生まれ、初めて発音した言葉はきっとロシア語だったと思います。しかし、幼い時から私は日本の幼稚園に行き、その後日本の学校で色々な知識を得ました。外では日本の子供と遊んだり、喧嘩したりしました。でも、私は、外の子供とは異なっていたから目立ちました。それがとても嫌いでした。しかし、いまそのことを考えると、それが私の運命だったのでしょう。
 日本では金髪だから日本人になりきることが出来なかったし、ソ連へ行った後も私は外の人と違いました。服の着方から物の考え方も違っていました。」

終わりに
 オルガさんは、幼い頃をすごした函館をとても懐かしがり、10年前、函館を訪れた時も、函館は父のお墓もあるし私の故郷だと言っていた。17歳まで日本にいたとはいえ、その後、日本語とは遠ざかっていたに違いないのに、彼女の日本語はきれいで、いかにも少女時代に読んだらしく、『赤毛のアン』をまた読みたいと言っていた。
 10年前に日本に来た時は、オルガさんは残念ながら函館の小学校の友達や東京の恵泉女学園の友達と会うこともできなかった。今回、『函館とロシアの交流』を届けた時、10年前に研究会のことを知らなかったことを残念がっていた。彼女がまた来日できれば、友達にも会わせ、戦後の函館や東京の生活、またソ連帰国後の生活についてもっと聞きたいと思っている。


1 今回も小山内さんがペテルスブルグのガリーナさんから預かった手紙を私がハバナのオルガさんに届けたが、これが1番確実な通信手段である。現在は、ガリーナさんの息子とオルガさんのご主人のパソコンでメールの交信ができるようになったそうである。
2  オルガさんはこう表現しているが、革命後のハルピンへの逃避行にはじまり、日本亡命、2人の夫との死別、6人の子供の教育、ソ連への帰国をなしとげたお母さんは無学などではなく知恵と才覚にとんだ女性だったと思われる。
3 スタルヒンの父親が1933年1月に旭川で殺人事件をおこした時に、オルガさんの父親が北海道露国移民協会会長としてめんどうを見た可能性が高い。
4 スタルヒンの父親もオルガさんの父親もウラル地方出身の軍人であったようなので、オルガさんの父親が1916年にタギールで生まれたスタルヒンの代父となる可能性はあると思われる。
5  戦後、アメリカからニコライ堂の主教が派遣されることになった時、ロシア正教会との連携を望んでいたいくつかのロシア人グループは日本正教会を離脱し、大聖堂南石段下の「プーシキン学校」と呼んだロシア人学校の2階に祈祷所を設け、モスクワ総主教庁との関係を続けた。(『東京復活大聖堂修復成聖記念誌』1998)
6 現在、駒込のロシア正教会駐日代表部教会のある場所にあったという。
7 日本から参加した約150人の青年・学生たちはソ連船アレクサンドル・モジャイスキー号で新潟、ナホトカを往復した。
8 1946年9月26日、ソ連大使館は亡命ロシア人のソ連国籍復帰令を布告(高井寿雄『ギリシア正教入門』教文館1977)
9 イダルベルトは高校時代にキューバ革命に参加、革命後はしばらく税関で仕事をしたが、若い人に勉強させるべきであるというゲバラの進言で、ソ連に留学、経済学を学び、帰国後は経済企画の仕事についている。
10 松尾威哉氏は、キューバ政府の要請を受けて、1990年9月から3年間ハバナ大学で主としてオルガさんのようにロシア語教師からの転身を図らねばならない大学教授に対する日本語教育にシルバーボランティアとして携わった。(松尾威哉『キューバの光と影』)

「会報」No.28 2006.11.11 特別寄稿

明治初年の函館に於ける露語和訳露西亜語教科書

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

1 史料の性格
 市立函館図書館(現、函館市中央図書館)に来歴は不明ながら、標題のようなタイトルをもつ冊子がある。もっともこのタイトルは、表紙に貼られた短冊に墨で書かれたものであり、後年になって付けられたものと思われる。体裁は縦20.6センチ、横13.9センチの布張りのノートブックである。
 本史料は黒インクの手書きのもので、序文の中に編者として小野寺魯庵、三輪魯鈍、嵯峨善次郎の名が記されている。本文は84頁で、目次によれば一課から十五課までになっているが、内容は十三課までで終わっている。
 さて、この史料は序によれば、初心者用のロシア語教科書として製作されたものとある。同じく序にはこれが上下篇であることが記されているが、ノートは上篇にあたる部分のみで終わっていて、下篇の存在は確認できない。続いて述べる通りこのノートは原本からの写しらしいが、いつ誰が何の目的で写したかは、何ら記載がない。
 では、この冊子の原本と思われる「魯話和訳」という史料について、松村明氏の論考(1)を紹介しよう。それによると、広田栄太郎氏(2)所蔵になる「魯話和訳」は、半紙本(縦24センチ、横19.2センチ)袋綴一冊、墨付百十枚という体裁である。第一の扉にロシア語、第二の扉に日本語で書名・著者名・訳者名・成立年・成立地が記されている。第二扉の方をここに転載すると、「魯話和訳魯西亜司祭官ニコライ著 日本仙台小野寺魯庵・江戸三輪魯鈍・加賀嵯峨善次郎 同訳。箱館一千八百六十七年」とあり、これが1867(慶応3)年という明治以前のもので、ニコライが執筆し、箱館で製作されたことが明らかにされている。そして松村氏は市立函館図書館の本史料を確認の上、「魯話和訳」を書写したものであろうとされている。なお、この「魯話和訳」も同じく上篇だけしかないという(ただし、こちらは十五課まであるらしい)。
 今回、この「魯話和訳」と本史料との照合はできなかったが、本史料の成立の事情を解明する上では是非必要なことであろう。
 さて、この教科書の存在を言及している文献がもう一点存在している。昇曙夢著「ニコライ大主教の生涯と業績」(3)である。これには次のように書かれている。
 ...『魯和和訳』は最初写本で行われたようだが、あとで明治二年にニコライ師が日本ミッション(傳道会社)創立の件で帰国し、同四年に帰任した時持ち帰った石版印刷機で自ら印刷したとのことである...
 これが真実とすれば、石版刷りのものはある程度普及したことも考えられる。以上を総合して考えれば、本史料は慶応3年に作られたロシア語会話教科書を、箱館の学習者が石版刷りのものが普及する前に書き記したもの、といえるのかも知れない。
 次に著者と編者について若干の解説を試みてみよう。ニコライ(俗名、イワン・ドミートリェヴィチ・カサートキン)は改めて紹介するまでもないほど有名で、1861(文久元)年に箱館のロシア領事館付の司祭として来日、その後、日本正教ミッションを開設。以降、一生を日本での正教布教に尽くし、宗教界にとどまらず様々な方面で多大な影響を及ぼした人物である。
 編者として名前が上がっている3人はあまり著名とはいえない。それでも嵯峨善次郎こと嵯峨寿安(1840・天保1年、金沢生まれ)は比較的知られているほうだろう。嵯峨は加賀藩の命で1869(明治2)年ロシアに留学するが、その際のシベリア横断が有名である。彼の事績については左近毅氏の研究(3)があるので、詳しくはそれを御覧いただきたい。本史料に関することだけを引用させてもらうと、嵯峨が箱館に来たのは1866(慶応2)年のことで、ニコライと語学の交換授業を行っている。箱館には2年と数ヶ月の滞在だったが、ロシア語学習歴1年足らずにして、本史料のような翻訳に携わっていたことになる。
 小野寺魯庵とは小野寺魯一(1840・天保11年、仙台生まれ)に相違ない。河野常吉『北海道史人名字彙』によれば、ニコライに師事したとあるが、いつ頃のことかはわからなかった。しかし本史料により慶応3年以前に来箱していたことが明らかになったわけである。しかし本史料により慶応3年以前に来箱していたことが明らかになったわけである。彼は維新後外務省に入り、ほぼ嵯峨寿安と同時期にロシアに留学している。帰国後は開拓使に奉職し、その間1875(明治8)年の樺太千島交換条約、1878(明治11)年の黒田長官らのウラジオストク訪問に同行するなど重要な任務をこなしている。
 3人目の三輪魯鈍(江戸)がいかなる人物かはほとんどわからない。先の村松氏も不明としておられる。可能性があるのは明治初期の外務省職員の中に、外交書簡担当として名前がある「三輪」少佑という人物である(4)。明治17年の職員録にも庶務係として「東京府士族三輪帆一」という氏名があるが(6)、彼が明治10年に市川文吉(この時ロシア公使館勤務)の父に「魯国荷物」を届けているのは(7)、ロシア担当だったからではないだろうか。いずれにしろ幕末に、嵯峨や小野寺と同様箱館に滞在して、ニコライからロシア語を教わっていたわけである。

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露語和訳露西亜語教科書

2 幕末の函館とロシア語の関わり
 函館とロシア語について、本史料の位置付けを考える上でも参考になると思われるので、幕末の状況をここで簡単に紹介しよう。
[ロシア領事館のロシア語学校]
 はじめ寺院の一遇に居住していたロシア領事は、1860(万延1)年、新築なった領事館に移転した。この領事館の構内に小さな家が建てられ、その半分が日本の子供たちのための学校として利用されるように作られたことが、1861年のイワン・マホフの報告によって語られている(8)。
 この学校が実際機能していたことは、1861(文久元)年の「各国書簡留」という運上役所の書類に表れている。これには箱館役所の下級役人の子弟を中心とした生徒たち(奉行が指名した)の名前があり、中には2年後に箱館奉行から「魯語通弁御用」を申し渡された千葉弓雄もいる。ここでは最初領事自らが教鞭をとったのかも知れない。「領事より」として稽古のために、上述の生徒氏名とほぼ一致する10人ほどに「仮綴書物」と「稽古本」を、またそのうち4人にはさらに「魯国風聞書」「魯国イロハ本」が贈られているのである。「和魯通言比考」もおそらく使われたことであろう。
 ニコライ司祭が来日してからは、学校は彼の仕事になったらしい。というのは生徒のために「ゴロインの書籍」(『日本幽囚記』の和訳「遭厄日本紀事」は文政年間に脱稿している)の貸し下げを運上所に頼んでいて、領事も「彼(ニコライ)の学校」と表現しているのである。
 こうして始まったニコライによるロシア語教授に、小野寺魯一、嵯峨寿安や三輪魯鈍のように全国から青年たちが集まってきたのだろう。しかしその個別の実態は定かではない。因みに1868年7月15日付けのニコライの手紙には、「わたしは自分の住まいに学校を開いており、最も近しい人を助手として日本人[複数]にロシア語を教えている」とあり、ロシア語教授は連綿と続いていたことがわかる。この一連の過程で本史料が製作され、代々筆写されていったものであろう。
[志賀浦太郎による教授]
 箱館奉行の命令によって、御役所のロシア語通訳者養成のため教授が行われた。その教師となったのが、長崎から来た志賀浦太郎である。もっとも志賀の当教授がはじまったのは、文久2(1862)年であるが、生徒はニコライが教えていた役所の子弟たちと重複している。しかし志賀は、慶応2(1866)年7月にロシア軍艦で箱館を出航したまま(11)、ついに帰ってこなかったので、彼の授業もそれまでだった。彼は運上所にあった、「鄂羅斯語戔箋」(魯西亜語日本文字対訳)1冊と「鄂羅斯語小成」(魯西亜語日本文字対訳字引)47冊(12)を借用していたから、授業にもこれを用いたことであろうが、これ以上のことはわからない。
 興味深いことには、ニコライと志賀浦太郎の授業では、さすがに前者が難しかったらしく、ついていけない生徒が志賀の授業に移りたいと申し出ている記録もある(13)。


(1)松村明「幕末期ロシア語学書についての覚書」(『文章語学』33号 昭和39年)
(2)『えうゐ』17号(解説・注 外川継男)
(3)左近毅「嵯峨寿安とロシア」(共同研究『日本とロシア』)、同「嵯峨寿安(一八四〇~一八九八)関連年表(共同研究『ロシアと日本』第3集)
(4)・(5)『外務省の百年』(原書房)注
(6)宮永孝「幕末ロシア留学生市川文吉に関する一史料」(『社会労働研究』第39巻 第4号)
(7)秋月俊幸「ロシア人の見た開港初期の函館」(『地域史研究はこだて』第3号)
(8)・(9)文久元年「異船諸書付」(北海道立文書館蔵)
(10)中村健之介「日本もまた稔りは多い-箱館のロシア人からの手紙」(『地域史研究はこだて』第16号)
(11)『杉浦梅潭 箱館奉行日記』によれば、杉浦兵庫頭は神奈川での通訳のため、というロシア軍艦アスコリドの要望でやむなく浦太郎を乗船させたのであって、要務を終えたあとはまた箱館に返してもらうつもりだったことがわかる。
(12)「訳官黜陟録」(函館市中央図書館)
(13)同上

「会報」No.29 2006.11.11 史料紹介

「日露修好150周年回航事業」に参加して

2012年4月24日 Posted in 会報

岸甫一

回航事業
 2005年は日魯通好条約が調印され、日露間に国交が樹立されてから150周年というという年でした。これを記念して日露の次世代を担う青年150名を乗せて6月24日~7月5日、函館・下田など日露交流ゆかりの地を訪れる回航事業(日露青年交流委員会主催)が実施されました。リーダーである内田一彦外務省ロシア交流室長によれば、「この回航事業の目的は、日本とロシアの青年が、日露交流の歴史を深く知ることにより、日露関係の重要性を認識すること、船という閉ざされた空間の中で約2週間の間、生活を共にすることにより、密度の濃い交流を体験することにあった」。「ルーシー号」という富山伏木港とウラジオストクを結ぶロシアの定期航路船に乗船したのは、日本からはロシアについて学んでいる学生、伝統文化に携わる学生や青年、日露ゆかりの地の関係者など50名、ロシアからはおもに極東を中心に日本について学んでいる学生、文化芸能関係者、青年政策関係者、若手ジャーナリストなど100名。

セミナー資料の準備
 私は、本研究会会員であり、市国際課職員の倉田さんを通して、ウラジオストクから函館に向かう船上のセミナー「函館に関わる日露交流史」の講師依頼があり、不安はありましたが、この機会に自分の研究視野も広げられると思い、蛮勇を振るって引き受けることにしました。4月~5月はセミナー資料作成のため、移転による一時閉館間際の市立函館図書館に毎週のように土日に通い、購入間もないデジタルカメラで画像資料を撮影しました。また、清水恵旧蔵書を清水正司さんからお借りできたことも資料の作成上、大変助かりました。
 6月24日に日本人参加者は富山伏木港を出て、26日にウラジオストク着。その地でロシア人参加者と合流。私は勤務の都合で26日午後、飛行機で新潟空港からウラジオストク空港に到着しました。

日露学生会議
 翌27日午前は、極東大学で日露学生会議。「日露交流150年、将来への提言」というテーマで日露学生の数名がスピーチをおこないました。ここでは船上の夜、一緒にビールを飲んだ東京外国語大学ロシア語専攻3年・福田祥君の、日露間の壁と可能性を過去にとらわれず率直に主張したスピーチの一部を紹介します。 

 「現在、日本ではロシアに関する情報が絶対的に不足していると思います。特に私たちくらいの年齢の若者達は、大学などでロシアについて勉強している人達を除いて、まったくと言っていいほどロシアについて知りません。また、ロシアのことについて報じるメディアは少なく、たとえ報じたとしてもほとんど政治的な話題ばかりです。
 このような状況が蔓延しているということは、日本人とロシア人の間に立ちはだかる障壁であると思いますし、そのためにお互いが正しい理解に達することができなくなってしまうのであればそれは大変な損をすることになると思うのです。
 私の友達の多くは、私がロシア語を学んでいることを知るととても驚きます。しかしそのあと、大体がロシアについて色々と質問をしてきます。もちろん私は知っている範囲でしか答えられないのですが、それでも興味津々な様子で話しを聞いてくれます。つまり、ロシアに関して興味を抱いてくれる人は確かにいるのです。きっかけさえあれば、ロシアと日本が学生・市民のレベルでより近づくことも可能だと思うのです。
 そのきっかけの一つとして、私達の担っている役割は重要です。この事業を通して出来た友達や、手にした発見や感動のことは、必ずや周囲の人々にも伝えたいですし、そうしなくてはならないと感じています」。

その後、会場の参加者も含めて活発な自由討論を行ったが、筆者は残念ながら、この学生会議には出席できませんでした(ウラジオストクの日本センターのオリガさん、3年前にお世話になったドミトリーさんと、つかの間の面会のため)。青年たちの議論は「領土問題は一刻も早く解決して日露間の交流を飛躍的に促進すべきではないか、北方領土に両国の国民が共生することは可能か、ステレオタイプから脱却したイメージを日露双方が形成すべきではないか、文化交流を進めることが相互理解の早道ではないか」(内田)に集約されるという。

船上セミナー
 28日10時、いよいよ私の出番。船上セミナー「函館に関わる日露交流史」の時間。前夜、夕食を挟んでロシア語通訳の鍋谷さんと綿密に打合せをしたつもりでも緊張が走りました。講義内容は「Ⅰ箱館・蝦夷地とロシア人の出会い、Ⅱ箱館開港とロシアとの交流、Ⅲ日露交流全盛期の函館と露領(北洋)漁業」の函館で日露交流が活発であった3つの時期に注目し、アイヌの役割・地図の交換・ロシア語学習・翻訳・ロシア語入門書作成・ニコライの日本研究・ロシア語版函館案内・ロシア語版函館新聞・露領漁業での亡命ロシア人や日本人通訳の活躍など、経済的・文化的には函館では日露両国民が協力関係にあった事実を具体的に紹介しました。正味1時間程の話はアッという間に終わってしまいましたが、嬉しことに終了後、ロシア側のバルカノフ・セルゲイ団長から「自分も歴史の教師であり、興味深く聞いた」との謝辞をいただきました。同セミナー資料は函館日ロ交流史研究会のHPの「函館から見た日露交流史」で見ることができます。そのほか、船上では文化交流も活発に行い、ロシア人参加者は茶道、折り紙、能、書道、剣道などを体験しました。

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船上セミナー

函館での交流
 29日はロシア極東総合国立大学函館校の学生の案内で散策したり、ロシア人墓地で慰霊祭を行いました。私は午後の函館市長への表敬に参加し、夜は西波止場に停泊中の「ルーシー号」の船上レセプションに出席しました。
 船上から函館港に下りるとき、上手な日本語で話しかけてきたイルクーツク国立言語大学2年のマリア・マリツェヴァさんは、日本の歴史に興味があるのだがイルクーツクには日本の歴史にかんする適当な日本語の本が無いというので、勤務校で使用している「日本史」の余っている過年度教科書1冊をプレゼントしたところ大変喜び、船上レセプションで返礼にイルクーツクの絵はがきとバッジをいただきました。彼女はこの回航事業から帰国して、「出発前には、日本の文化に触れる楽しみとともに、日本の学生とうまく会話できるか、共通点を見出すことができるか大変心配でした。しかし、私たちの間には異なる点より、一致する点がいかに多いかわかりました。今では、私たちはメールの交換をしており、今後ともこの世界でお互いを見失わないよう希望しています。......この航海の間、私はほとんど眠りませんでした。私たちにとって毎分、毎秒が貴重だったからです」と述べています。

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マリツェヴァさんに「日本史」教科書をプレゼント

"将来への提言"
 私は函館で一行と別れたが、学生たちは自らのイニシアティブで、その後の航海の途次においても学生同士で議論を継続し、最終寄港地である下田に到着した7月2日、日露学生による"将来への提言"を発表しました。内田ロシア交流室長は「(ロシア人青年は)日本に対しても固定観念を持っていません。青年間の交流が日露関係を動かす原動力となるかもしれない、という印象をもちました」と述べています。発表された"将来への提言"の中の「北方領土問題の理解を深めるため、この問題に関する共通認識を見出すことを目指します」の一文は、学生たちが船上で議論の末まとめた草案では「領土問題の解決に向け、共通認識を見出すことに務めます。」であった。この興味深い修正の経緯については、回航事業に同行した佐藤陽介『北海道新聞』記者による記事【次世代たちの提言】をぜひ読んでいただきたい。日露学生による"将来への提言"、『北海道新聞』の記事【次世代たちの提言】は本研究会のHPの「函館から見た日露交流史」に掲載されています。

終わりに
 短期間とはいえ日露の次世代を担う青年と生活を共にできたことは、私にとって当初の目的であった「研究視野を広げる」のみならず、日露交流全体のなかで奥行きの深い立場に立たされていたような気がしています。"将来への提言"をまとめ上げて、立派に使節団の役割を果たした日露青年の今後の活躍を大いに期待すると同時に、本研究会や終始お世話になった岩城さん、菅原さんをはじめ日露青年交流センターの皆様から日露交流史の研究をさらに深める契機を与えて頂いたことに改めて感謝申し上げます。

「会報」No.28 2006.5.1 2005年度第2回研究会報告要旨

→船上セミナー「函館に関わる日露交流史」の資料は、こちら(日露青年交流センターへのリンク)をクリックしてください。

むかし、「露探」という言葉があった ―函館の場合

2012年4月24日 Posted in 会報

奥武則

 昨年6月末、函館を訪れた。《「現場」を踏んでおかないと......》という気持ちだった。
 観光地・函館の「売り」は、函館山からの夜景とともに「文明開化」の言葉が似合うハイカラでノスタルジックな雰囲気だろう。
 1858年、日本はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと修好通商条約を結んだ。函館(当時の表記は「箱館」)は横浜、長崎とともに開港地となる。この結果、函館は幕末から明治初期にかけて、横浜、長崎とともに国際貿易港として西洋文明の取り入れ口となった。
 だが、同じ西洋文明の取り入れ口といっても函館には横浜や長崎と明らかに違う要素がある。ロシアとの深いつながりが、それだ。
 横浜や長崎に比べて函館はロシアに圧倒的に近い。蝦夷地と呼ばれた鎖国時代の北海道では、この地を支配していた松前藩がアイヌ人を通して事実上、大陸と交易をしていた。幕末・明治初期に日本の北の玄関となった函館において、横浜や長崎にみられないかたちで「ロシア」が大きな存在となったのは必然だった。私が《「現場」を踏んでおかないと......》と思った「現場」の意味も、この点にかかわる。
 そのころ、前年秋に手を初めた「露探」についての著作をようやく書き終えようとしていた。そこでは、1つの章を「函館」に割いた。原稿は本会会員である菅原繁昭氏・奥野進氏らからお送りいただいた資料などを使ってほぼ書きあげた。だが、「函館」に何のアイサツもしないまま、というのが気になっていたのである。

 日清戦争の後、当時の満州(中国東北部)をめぐって日本とロシアの対立が深まる。結局、1904年2月、日露戦争が火を噴く。ロシアとの緊張が深まる中、登場した言葉が「露探」である。
 「露西亜の軍事探偵」を短くして「露探」。つまりロシアのスパイということになろう。「露探」という言葉そのものの「起源」についてはいくぶん込み入った状況があり、ここではふれない。
 いずれにせよロシアとの戦争勃発の可能性が濃厚になった1903年秋以降、「露探」は当時唯一のマス・メディアだった新聞に登場し、多くの人々が「露探」として指弾された。「ロシアのスパイ」だから本来はロシア人ということになろうが、指弾された人々の大半は日本人だった。要するに、「敵国・露西亜」に内通する許しがたい輩、というわけだ。
 作家・社会運動家の木下尚江が《流行の毒語「露探」》と題した論説を、1904年3月4日の『毎日新聞』(『横浜毎日新聞』の後身。今の『毎日新聞』とのつながりはない)に書いている。冒頭の部分と結語を引く。
 《今日に当りて若し他を毀傷せんと欲する者は、呼ぶに「露探」を以てするに如くはなし》
 《「露探」あゝ、何等危険なる毒語の流行ぞや、吾人は敢て之を毒語と云ふ》
 「毒語」という表現は、当時、「露探」が単なる誹謗中傷を超えて放っただろうまがまがしさをよく伝えてくれる。函館は、その「毒語」が最も力を発揮した「現場」なのである。
 「文明開化」の時代、函館の「ロシアとの深いつながり」として、もっとも見えやすいものは、日本ハリストス正教会(ロシア正教会)とのかかわりだった。
 ギリシャ正教は10世紀末にロシアの地(当時はキエフ公国があった)で国教とされた。帝政ロシアのもと、ロシア正教会は大きく発展する。開港地となった函館では、1859年、上大工町(現在の元町)にロシア領事館が完成し、付属の聖堂が造られた。日本における最初のロシア正教会の教会である。
 初代の領事館付司祭が病気で帰国した後、1861年6月、ニコライ(1880年に主教、1906年に大主教)が赴任した。東京・神田駿河台のニコライ堂(東京ハリストス復活大聖堂)にその名を残す人である。彼はロシア正教会の日本での本格的布教を目指し、1862年1月、拠点を東京に移すが、後任の修道司祭アナトリイも函館で布教に励んだ。同年9月にはすでに信徒は100人を超えていたという。
 こうしたロシア正教会の存在とともに「露探」にかかわって函館が「現場」となった要因は、これも実は現在の観光地・函館の「売り」と重なる。
 「函館の夜景」は標高334メートルの函館山の山頂から見下ろす。眼下の市街地のさまざな光、その向こうに広がる函館湾の漆黒の闇。これが夜景の見事さを生む。だが、平和な時代、夜景スポットとして函館山を有名にしたこの立地は、戦争を想定した場合、要塞を築く絶好の条件だった。
 1898年から4年間かけて、この地には大小合わせて5カ所の砲台が築かれ、ロシアとの有事に備えることになった。これが函館要塞である。要塞がある地域は1899年、これも「露探」と深いかかわりがある軍機保護法と同時に公布された要塞地帯法によって特別の「保護地域」となる。たとえば、その第8条第1項は次のように規定する。
 《要塞司令官ハ要塞地帯内ニ於テ兵備ノ状況其ノ他地形等ヲ視察スル者ト認メタルトキハ之ヲ要塞地帯外ニ退去セシムルコトヲ得》
 日露開戦が必至の状況になっていた1904年2月8日、この条項が函館の地で発動された。10日の『函館新聞』が前日、函館市内に撒かれた号外を再録している
 《露探嫌疑者として其筋の密偵中のもの少なからざる由は兼ねて耳にする所なりしが果然一昨日午後六時より九時十五分までの間に左記十七名は二十四時間内に要塞地帯外に退去を命ぜられたり》。
 当時の新聞はいまのような段を越える見出しはないが、この記事の冒頭には「●売国嫌疑者」という大きな活字が付いている。
 「左記十七名」は、住所、職業つきで列記されている。最初に《元町五十四番地 正教会祭司 目時 金吾/同 伝道師 村木 彌八/同 伝道師 豊田 正一》が登場する。「祭司」は「司祭」の誤りだが、言うまでもなく3人ともロシア正教会函館教会で布教・伝道に当たっていた人たちだ。12番目には《元町五十四番地正教内 税関吏》として倉岡馬之助という人物も出てくる。この人物も正教会関係者だろう。退去命令が出た17人のうち、直接、正教会に関係する人物が4人いたことになる。目時ら3人は当時の正教会のスタッフのすべてではないかと思われる。函館教会は活動停止に陥ったにちがいない。
 さらに《露語通弁》の沢克己、竹中淳太、楠瀬菊水、《露領漁業者》の中瀨捨太郎といったロシアとのつながりが分かる職業の人物もいる。
 17人の退去をセンセーショナルに伝える号外が出た翌2月10日、ついに日露戦争が始まった。14日、函館区(当時は行政的に函館区)は周辺7村とともに戒厳令施行地域となる。この戒厳令は要塞区域を「臨戦地境」とするもので、その区域内での軍事に関係する地方事務および司法事務が要塞司令官の指揮下に入る。要塞司令官は集会の禁止や新聞雑誌の発行停止などについても大幅な権限を持つことになった。要するに、地域的に「軍政」が敷かれたと思えばいい。戒厳令は函館のほか、長崎、佐世保、対馬も対象となった。
 要塞地帯法に基づく退去命令はこの後、2月22日に第2弾があり、さらに日本人6人が退去させられたようだ。「軍政」の下、函館市民の緊張は一層高まっていただろう。「ロシア」に少しでもかかわりのある人やものへの反応もより敏感になっていったはずだ。そうした状況を背景に、この時期、『函館新聞』には「露探」の文字が頻出する。単に「露探疑者」にふれるだけではなく、「露探」とされた人々の私行などを取り上げ、道徳的に糾弾する論調が目立つ。《祖先伝来の日本民族たるj純血を失ふて露国の狗となり国家の秘密を売る人面獣心の亡者》(2月25日『函館新聞』)といった表現が、その典型である。
 最終的に退去命令が出された人数は画定できないが、新聞報道を通じて確認できるのは日本人24人とロシア人6人。実際にはもっと多かっただろう。だが、新聞の大仰な「告発」にもかかわらず、軍機保護法などで、罪を得たものは何と1人もいなかった。
 全国的にみると、この時期「露探」として軍機保護法違反で逮捕され、有罪となった人物もいないわけではない。だが、大半の人は函館のケースと同じように、具体的なスパイ行為が明らかになったわけでも何でもないのに「ロシア」との何らかのつながりなどから「露探」として指弾された。
 私としては、ここには「国民国家」における《非「国民」》排除」の構造が見たいと考える。むろん、メディアが、そこで大きな力を発揮した。刊行予定の拙著では函館のケースを含めて、こうした「露探」と国民意識のかかわりに光を当てたつもりである。
 日露戦争が終わってすでに1世紀余。「露探」は死語となったけれど、「流行の毒語」を生み出した構造は消滅したわけではない。

 昼間の晴天に安心していていたら、日が落ちるとともに函館山は霧に包まれ、結局夜景は見ることができなかった。しかし、その日午前、元町の丘を登って、青空には映える日本ハリストス正教会函館教会と出会うことができた。
 日露戦争期の建物は1907年に焼失し、現在の聖堂は1916年に再建された。尖塔と礼拝堂は緑色の屋根を持ち、アーチ型の装飾が施された白壁と美しく調和している。ちょうど「ガンガン寺」の愛称を生んだ鐘が鳴った。

「会報」No.28 2006.5.1 特別寄稿(その1)

博物館交流と日ロ交流展覧会 ―国立アルセニエフ博物館にて―

2012年4月24日 Posted in 会報

佐野幸治

 2002年7月にウラジオストク市沿海地方国立アルセニエフ博物館と市立函館博物館が姉妹提携を結び4年目となる2005年、函館空港発着ウラジオストク航空チャーター便による函館市訪問団と共に7月1日から5日間の日程でウラジオストク市を訪れた。
このたびの訪問は、国立アルセニエフ博物館において博物館交流事業「新しい函館そして交流の形」と題する展覧会を開催するためである。
両博物館は姉妹提携以来、博物館文化交流を中心として日ロ交流の歴史、とりわけウラジオストクと函館との関係について、1992年の両市の姉妹都市提携以来様々な交流が続いてきている中にあって、さらに両市及び両市民の交流について理解を深めるべく、2003年にウラジオストクにおいて、2004年には函館において相互に交流の歴史を伝える展覧会を開催してきたところである。
国立アルセニエフ博物館は、アムール地方地理学協会の博物館として1884年に創設され、主に民族学・考古学資料の収集を中心に始まっている。その後、「ウラジオストク国立州博物館」、「沿海地方郷土誌博物館」と改称され、1945年に探検家で学者であるウラジーミル・クラウディエビッチ・アルセニエフ(1872~1930)の名を冠した「アルセニエフ沿海地方郷土誌博物館」に、そして1985年に現在の名称となっている。正式名称は「国立文化機関 沿海地方国立アルセニエフ総合博物館」ある。
国立アルセニエフ博物館は極東シベリア地域において最も古い博物館として、また、ロシア極東地域における文化教育機関の拠点として活動し、職員数約200名、収蔵点数40万点を超える総合博物館である。
 現在の博物館本部は1906年に建てられた3階建ての建物で、路面電車が走るスヴェトランスカヤ通り(革命戦士広場・青年劇場方向、ゴーリキー劇場へも)とアレウツカヤ通り(シベリア鉄道出発点ウラジオストク駅方向、駅は博物館からほど近い)に面し、かつて日本の商店が並んでいた一角にあり、歴史的建造物として欧州的な佇まいが残されている。アレウツカヤ通りを挟んで向かい側には真っ白な沿海州政府の高層ビル、その横には革命戦士広場が広がり、そして目の前の港には多数の軍艦などが碇泊している。
博物館本部から反対側(裏手)のなだらかな坂を海の方向に歩いて15分ほどの所には、アルセニエフが住み最後を過ごしたという煉瓦造りで2階建ての家があり、そこは博物館分館の一つ「アルセニエフの家博物館」として公開され、写真・愛用したタイプライターや机などのほか調度品等の遺品の数々を見ることができる。そして、書斎の壁には大きな虎、「デルス・ウザラ」を感じ取ることも......。(アルセニエフの足跡を追い続けた「おれ にんげんたち ―デルスー・ウザラーはどこに―」の著者岡本武司は、この本でアルセニエフと共に「デルスー・ウザラー」を克明に描いている。岡本氏は元朝日新聞記者で、ウラジオストクの大学に留学し沿海州地方の先住民を研究、2002年7月に急逝、生前アルセニエフ博物館を一度ならず訪れている。この本は2004年7月京都市ナカニシヤ出版から刊行。)
また、ハバロフスク博物館長も歴任しているアルセニエフは、カムチャツカ調査隊として調査の際、1918年7月に来函し博物館を訪問していることも知られる。その後1926年にも日本を訪れている。
2005年はウラジオストク市創立145年、日露通好条約が調印されてから150周年の節目の年にあたり、文化交流事業など様々な記念事業が行われ、特に古都ウラジオストクでは、6月30日から7月6日まで記念行事の一環として「第4回ウラジオストク・ビエンナーレ―ビジュアル・アート・フェスティバル―」が開催された。この期間中、青年劇場、大学、展示センターや中央広場など市内各所において、ドラマや美術工芸展、コンサートなど多彩なプログラムが繰り広げられ、日本からも音楽、書道、民謡舞踊や各種の展覧会など多数の団体、個人が参加している。中でも展覧会など中心的な会場となった国立アルセニエフ博物館は多くの市民たちで賑わった。
今回の様々なビエンナーレ・プログラムの中で、市立函館博物館や函館日ロ交流史研究会などによる共同展示プログラムは、国立アルセニエフ博物館で開催の博物館プログラム「時代と間隔の交差点―ウラジオストク」展として位置付けされ、函館のほか、ハバロフスク、ブラゴヴェシェンスク、ウラジオストクの4つの博物館が参加、それぞれ展覧会を行った。
ウラジオストク・ビエンナーレは今回で4回目となるが、この様に一同に会したのは初めてだそうである。「時代と間隔の交差点......」だったのかも知れない。
今回のウラジオストク・ビエンナーレ博物館プログラムの函館の展覧会テーマは「新しい函館そして交流の形」と題した。それは、一つは合併して新しく函館市となった地域の文化などを紹介すること、そしてもう一つは、これまでの歴史資料に基づく交流の軌跡のほか、博物館はもとより様々な交流活動を紹介することにより、今後の交流や研究等に向け、より一層の活用資源となるのでは、とのことからこのようなテーマとした。
従って、展示内容は縄文遺跡をはじめとする地域文化、市立函館博物館に開設のウラジオストク・アルセニエフ博物館コーナーの紹介、函館の書物に見るロシアとの歴史交流軌跡、函館日ロ交流史研究会からの「函館にみるロシアの面影」を紹介した展示、姉妹都市交流や民間団体の交流、スポーツなど青少年交流など、そしてきらめく函館夜景をはじめ国際観光都市函館を紹介するポスターの掲示まで及んだ。そのほかに縄文紹介リーフレットや函館を紹介するロシア語入りのパンフレットなどをお持ち帰り用として会場に備えた。
展示にあたっては、前記した通り函館日ロ交流史研究会から多くの出品がなされこと、更に会員による展示作業等の協力を得た。
さて、7月3日午後に予定された博物館プログラムのオープニングに間に合わせるため、展示作業は2日朝から始めた。事前にそれぞれのコーナー割付は概ねあったが、実際の現地を見ての作業であり、パネル等展示資料を床いっぱいに並べ壁面との位置関係を見比べながらの作業となった。
作業は、私、函館日ロ交流史研究会会員のほか、国立アルセニエフ博物館バプツェヴァさん、ナターシャさんと通訳のヨーダさん(3人共女性)の協力で進められたが、時間がない中で特にポスターの掲示や国際交流関係のパネル等は函館日ロ交流史研究会の会員にお願いした。会場中央に配した2台の陳列ケースには書籍類、そして壁4面にはそれぞれ沢山の資料が並び、ボリューム感ある展示ができあがった。また博物館と違った視点での資料などバラエティーに富むものとなった。午後6時頃までには展示室内の後かたづけや清掃も済み無事作業を終えることができた。
7月3日午後2時15分、ウラジオストク会場で沢山の人たちが詰めかけてる中、地元男性歌手によるロシアならではの力強い歌声(ウラジボストカ......と聞こえた)でオープニングセレモニーが始まり、国立アルセニエフ博物館員から参加した各博物館が紹介された。参加の博物館は、私以外はすべて女性の博物館員である。そして、ウラジオストク展示会場から順にそれぞれの会場で代表者から展示などについてスピーチが行われ、観覧者も順に各会場を巡った。セレモニーの締めくくりは函館会場での表彰式、大勢が見守る中、各博物館に国立アルセニエフ博物館館長名の賞状が授与された。
函館へは《「新しい函館そして交流の形」展で第4回ウラジオストク・ビエンナーレに参加した市立函館博物館一同を表彰する。》と記された賞状が贈られた。
「一同」とは、これまでの交流が積み重ねられた、そして今回の展覧会が協働による成果としての「交流体」であったことを意味する。
 函館日ロ交流史研究会からの協力は、展覧会を通じて色々な出会いが更なる互いの理解と様々な交流を深める貴重な機会であったと考えており、今後の進展を願うものである。
函館日ロ交流史研究会の皆さんには、新ためてこの場を借りて感謝申し上げたい。
 函館に戻り、「荒野の7人」、「王様と私」や「十戒」などの有名映画俳優ユル・ブリンナー(ユル・ブリネル)がウラジオストク出身であると聞いたことを思いだした。

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アルセニエフ博物館、函館会場でのレセプションの様子と賞状

「会報」No.28 2006.5.1 特別寄稿(その2)

函館のロシアホテル

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 今回は1860年代初頭から1879年までの約20年にわたって函館に存在した「ロシアホテル」についての報告したい。
 なおこのホテルの名称については、香港のDaily Press社から発行された1870年版の住所氏名録、いわゆる「ディレクトリー」に、「russian hotel」と表示されている。ホテルはもっと前から存在していたが、「ディレクトリー」上ではこの年が初出で、1879年版まで継続して登録されていた。同時代の日本語資料では、今まで見た限りでは商人ピョートルの家とかピョートル屋敷というような表現しかないが、「ディレクトリー」に記載のある「ロシアホテル」としたい。ホテルというと立派なものを想像するが、史料からは食堂兼宿屋ぐらいのものだったと推測される。
 このロシアホテルについては、「函館市史」通説編第2巻(1990年)にも書いたことがある。その時は、断片的な資料しかなく、十分な記述ができなかったが、数年前、ロシアの作家ヴィターリー・グザーノフ氏と左近毅氏が、ホテルの経営者であるピョートル・アレクセーエフについてかなり詳しい経歴を紹介されたので、正直驚いた。お陰でようやくストーリーが見えたというところだ。
 両氏の論考は、グザーノフ氏は『ロシアのサムライ』という本のなかで、「ロシアの仲買い」と題して、1章をさいている。私が読んだのは左近毅氏の翻訳版。また左近氏は『異郷に生きる』の中で「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの場合―」と題して、グザーノフ氏の本をさらに肉付けされた形で発表している。
 ただ私にとって残念だったのは、この二つの本には典拠となった資料名が示されてないものがあるため、出典確認が困難な点だ。その意味では、この報告にも課題があるが、ともあれ、本論に入りたい。話は日本の開港当時に遡る。その頃日本に住んでいたロシア人といえば、函館における領事団、すなわち、外務省と海軍省に属する人たち、それに領事館附属教会の修道司祭だったが、このホテル経営者アレクセーエフとその妻及び従業員は、一応は、日本における最初の民間ロシア人であるといえる。一応と断ったのは、その前歴に領事団との関わりがあるからで、まずはグザーノフ・左近両氏の本からアレクセーエフという人物、そして彼が函館にたどりつくまでを紹介したい。
 ピョートル・アレクセーエフは、トゥヴェリ県のイワノフスコエという村で、1832年6月に生まれた。ここは貴族コルニーロフ家の世襲領地で、アレクセーエフの身分は農奴だった。クリミヤ戦争が起きると主人のアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・コルニーロフは黒海艦隊所属フリゲート艦の砲兵下士官として出征することになり、アレクセーエフも雑役水夫として同行することになったのだ。彼らはこの戦争で大きな功績をうち立てた。戦後、コルニーロフは海軍中尉となって北ドゥヴィナ川のソロンバラ造船所に派遣され、ここで新造されたクリッパー「ジギット号」に乗り込むことになった。もちろんアレクセーエフも一緒である。
 「ジギット」号は太平洋艦隊に配備され、函館のロシア領事館の庸船として、ロシア暦1858年10月24日に、領事一行を乗せて、初めて函館港に姿をみせた。すなわちアレクセーエフも領事団同様、1858年には函館に来ていたことになる。生年からするとこの時は26歳だった。ちなみに当初ジギット号の艦長はカズナコフという人だったが、1860年の時点ではコルニーロフが艦長になっている。
 もう少し2人の本から引用を続けたい。1861年2月にロシアでは領主農民の解放が実施され、コルニーロフ家の農奴アレクセーエフは、函館でその知らせを受けたと書かれている。しかし、グザーノフ氏は年月をはっきりと記していないので、いつのことだったかはわからない。左近氏は1862年初頭のことと書いている。両氏とも太平洋艦隊が函館に集結した時にその知らせが届き、ポポフ海軍少将とゴシケーヴィチ領事が各軍艦を訪れて乗員に祝意を告げたと記述していて、自由の身となったのは、アレクセーエフだけではなく、それぞれの軍艦には同じ境遇の人たちがいたことがわかる。
 その中で多分アレクセーエフだけが国に帰らず、函館に居留することになった。どういう経緯だったのか、ここからは主に日本にある資料に基づき私の考えを述べたい。
 函館居留の理由は二つあって、一つは函館で結婚相手を見つけたこと、もう一つは函館に商売ができる環境や条件があったことだ。
 まず、妻となった女性について言及したい。彼女の名前はソフィヤ・アブラモヴナというが、この名前は横浜外国人墓地にあるピョートル・アレクセーエフの墓に妻として刻まれている(アレクセーエフについて詳しく言及する前にお墓の話というのも恐縮だが、彼は1872年10月に東京で亡くなった。詳しくはあとで触れたい)。
 そのほか、ソフィヤ・アブラーモヴナに言及している人は、ニコライ神父とニコライ・マトヴェーエフがいる。
 ニコライ神父は1882年2月20日の日記に「ソフィヤ・アブラモヴナが1858年から日本にいて、私はまだ若い頃の彼女に会った」と記している(この日記については最後にもう一度ふれるが、非常に貴重な情報が書かれている)。
 1858年といえばニコライ自身はまだ来日おらず、領事一行が来日した年だ。当時の日本を考えると、常識的に言えばソフィヤ自身が単独で来日したとは考えらない。その年に函館に来たのは領事一行と、軍艦だけのはずで、軍艦には乗っていなかっただろうから、領事とともに来日したとしか考えられない。
 ロシア領事が来た時の箱館奉行の記録、「村垣淡路守公務日記」(『大日本古文書』幕末外国関係文書附録之六)の安政5年10月23日の項に、在留ロシア人というメモ書きがあり、そこに「下女2人」という表現がみえる。私は今のところピョートルの結婚相手は、この下女、すなわち領事のメイドだったのではないかと思っている。
 下女に関しての記録はほとんどないが、青森県の三戸町立郷土資料館に珍しい資料「安政七年庚申歳 魯西亜人通行之節諸取扱手續并見聞之書」がある(詳しくは、清水恵「安政七年のロシア領事奥州街道通行に関する三つの史料」『地域史研究 はこだて』第19号を参照)。1860年、領事一家と医師の妻が江戸に行った帰り、奥州街道を通って函館に帰るときに宿泊した三戸本陣の記録だ。この記録の中に一行に随行していたメイドの姿が描かれている。ソフィヤかどうかはわからないが、当時のメイドの様子が伝わってくる貴重なものだ。絵の脇には「年16、7才位」で「丈5尺位」とあるので、身長およそ150センチとかなり小柄な女性のようだ。
 仮に彼女がソフィヤだとしたら、ピョートルとの年齢差は10才ぐらいだったことになる。

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「安政七年庚申歳 魯西亜人通行之節諸取扱手續并見聞之書」(三戸町立民俗資料館)に描かれた「下女」

 次にこの2人がいつ結婚したのかという点を考えてみたい。当然1858年以降ということになるが、文久四元治元子年「異船諸書付」(東京大学史料編纂所蔵)には、「子年二月」(西暦でいえば1864年3月頃)における居留ロシア人調査という報告(「各国外国人居留人数取調書」)があり、新築島住居...(このあと述べるとおり外国人居留地)商人ペヨトル、すなわちアレクセーエフには妻と子どもが1人いると記録されている。子供がいるぐらいだから、1863年にはあるいはもっと以前に、結婚していたのではないかと考えられる。
 話が横道にそれるが、1864年に子どもが1人というのは、よく考えると驚くべきことで、流れからいえば函館で生まれたと考えるのが自然である。そうすると、これまで初めて日本で生まれたといわれていた、ニコライ・ペトローヴィチ・マトヴェーエフはいったいどうなるのか、と頭をよぎる。マトヴェーエフは准医師の息子として1865年に生まれたと宣教師ニコライの日記にあるが、その前の1864年には同じペトローヴィチあるいはペトローヴナの父称を持つ赤ん坊が存在していたわけで、何となくすっきりしない。そしてこの赤ん坊はニコライが洗礼をさずけたと考えるのが自然だ。しかも、ピョートル・アレクセーエフは、先ほど触れたように1872年に亡くなっていて、幼くして父親が死んだという点でもマトヴェーエフの境遇に似ている。
 話を戻そう。同じ居留ロシア人調査によると、ゴシケーヴィチ一家の家族構成は母と倅、他に女1人となっている。妻がいないが、彼女は亡くなったことがわかっているので、この女はメイドをさすと考えられる。前は2人いたのが1人になっている。もちろん1人は帰国したのかも知れないが、アレクセーエフの妻になったとも考えられ、ソフィヤ、メイド説と矛盾がない。
 参考までに、グザーノフ氏はピョートルの妻をニコラエフスクの十等文官で功労貴族ワシーリー・チェルノーフの娘、ソフィヤ・ワシーリエヴナ・チェルノーヴァで、2人は1867年に結婚したとしている。この記述は日本側の資料に基づきこれまで述べてきたこととは整合性がとれない。左近氏もグザーノフ氏と同じ女性を妻としているが、結婚成立に至る経緯はわからないとしている。今のところこの食い違いを説明できないが、そのような説があるとだけ紹介したい。
 ホテル経営者の素性がわかったところで、次にロシアホテルの開業について触れたい。
 位置は現在のJR函館駅から海岸伝いに西側に進んだところで、当時の居留地、現在の住所は大町11番地で相馬倉庫が建っている。もともとは、江戸時代末期に埋め立てられた土地だった。開港場の函館には、各国の領事や商人がやってきたが、函館山のふもとの狭い地域に発達した街だけに、外国人居留地として専用スペースを確保することは不可能だった。
 そこで箱館奉行はとりあえず、海岸を埋め立てて少しばかりの「居留地」を作ることにして、当時の運上所(税関)の隣りに、およそ2000坪の埋立地を作り、10区画に分割して、各国の商人たちに貸し渡すことにした。この居留地は当時、大町築島あるいは大町築出地と呼ばれていた。
 こうして1861年春には埋立が完了し、当初は第6番に、ロシア領事ゴシケーヴィチ名義の土地が確保された。表口12.5メートル、奥行38.7メートル、面積は約480平方メートル(145坪)。決して大きな敷地ではないが、後日ここにロシアホテルが建てられた。
 「地税請取書」(地崎文書、札幌学院大学蔵)という書類によれば、この土地の地税は、1861年4月から半年分を、ゴシケーヴィチが納めているが、それ以降1864年10月まで3年分の地税を、1865年になってピョートルが納めたとある。すなわちこの敷地は1861年10月以降は、名義上、ゴシケーヴィチからピョートルに変更になっていたことになる。この頃にピョートルが農奴の身分から解放されたのかもしれない。
 ホテルの建設・開業年ははっきりしないが、1864年には間違いなくできていたことがわかる。ソフィヤと一緒に暮らすために家を建てたとすると、早ければ1862年、遅くても63年には、出来ていたと思われる。自宅兼ホテルだから、ホテルといっても空き室を提供する程度だったのかも知れない。

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「居留地」分割図(『函館市史』通説編2、文久元年「大町築出地外国人江貸渡規則書」より作成)

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「函館戦争図」、右は部分拡大図に見るロシアホテル(市立函館博物館蔵)

 なおグザーノフ氏によれば、コルニーロフ艦長は、1863年末にバルチック艦隊への転属となり、函館を去るにあたって、函館に残りたいというアレクセーエフの身元保証のために領事ともども尽力したそうだ。結局函館領事館付きの人間ということで海外長期滞在証なるものを発行してもらったという。またゴシケーヴィチとニコライ神父が彼の庇護者であったとも書いている。
 この頃の様子を示す日本側の史料として、前出の文久四元治元子年「異船諸書付」に「日本人正助差出候別紙書付ニ偽り記し有之候ニ付差出候別紙相添御届申上候書付」という史料があるので、紹介しておきたい。
 内容はアレクセーエフが自分の家兼ホテルで使っていた日本人召使正助の賃金に関わるトラブルを領事に訴えた文書で、もとはロシア語の史料だ。志賀浦太郎が日本語に訳したものが残っているが、アレクセーエフの肩書きが「お台場にまかりありそうろう コルニロフ君江附属人」となっている。私が知る限り、コルニーロフとピョートルの関係を示す唯一の日本側文書だ。また文書の末尾に、アレクセーエフは読み書きができないので、エゴル・イワノフが聞き書きした旨の注意書きがあるのも、非常に興味深い。
 次にアレクセーエフの仕事についてだが、ホテル業に加えてグザーノフ氏や左近氏が「仲買人」と書いているように、「ロシア海軍御用達商人」という側面があったようだ。石炭や食糧品の買い付けに始まり、その他公然とあるいは内密で様々な用事を引き受けていたのでは、と推測される。
 実際、当時このような人が必要とされており、函館で商売人として残る環境や条件があったというのはまさにこの点だ。
 様々な用事の一端を示す一つの書簡が残されているので紹介したい。1865年の「英国官吏来翰録」(北海道立文書館蔵)という簿冊に収録された文書だ。同じ大町居留地に住む欧米人が連名で、イギリス領事宛に「ロシアホテル」の不都合を訴えている文書で、それによると、まず大町居留地規則ではここにホテルや食堂、娯楽施設などを建ててはいけないことになっているのに、それに違反していること、さらにロシア軍艦が入港するとこのホテルはpublic resortとなり、街の遊女が大勢やってきて大変な醜態をさらすので居留地の住人は困惑させられると訴えている。
 それから、1885年にドイツで出版された雑誌"Allgemeine Konservative Monatsschrift fur das christliche Deutschland,1885.5"に、1866年11月に来日して1871年まで滞在していたドイツ人R.ゲルトナーという人の日記(翻訳の概要がA.H.バウマン「R.ゲルトナーの日記」『地域史研究 はこだて』第25号に紹介されている)が掲載されている。彼は函館に滞在し、アレクセーエフと妻のことをこう記している。
 「函館のホテルの主人はアレクセフ・ピンターといて、まさにロシア人そのもので静かで働き者の妻がいる。主人は客と同じくらい大酒を飲んだが、働き者の妻がきちんと家計を切り回していたので、経営はうまくいっていた。ピンターの妻は牛を数頭飼っていて、新鮮な牛乳を1リットルあたり1.5マルクで居留外国人に売っていたし、養豚も行い豚肉を売っていい商売になっていた。」
 わずか数行の文章だが、酒飲みの亭主とよく働く寡黙な妻のイメージが伝わってくる。ソフィヤが牛や豚を飼っていたのは、狭い居留地ではなく別に土地を借りていたことがわかっている。1867年から、現在の海岸町付近に民間同士の契約で土地約3500坪を借りていることから、ここがその牧場だったと思わる(国文学研究資料館史料館蔵「明治7年函館港外国人エ地所相対貸渡書類」)。ちなみに当時このあたりは亀田と呼ばれる地域で、函館ではなかった。この牧場で飼育している家畜以外にも、周辺の日本人から牛などを購入していたこともわかっている。ホテルのレストランや居留外国人に供するほか、多くは軍艦に積み込んだものと思われる。
 1868年4月8日、外国人居留地のデュースの家から火が出て、居留地はほぼ焼けてしまう。ロシアホテルも被害を免れなかったようで、この年の秋にアレクセーエフの家と蔵と厩の建設を巡って日本人と裁判沙汰になっている書類が残されている。また火事のあと、6番に加えて隣接した8番の地所も新たに賃借したことが土地契約関係の書類からわかっている(この契約書原本は、未見だが、北海道大学の北方資料室にあるようだ。[編注―北海道大学図書館北方資料データベースによると「魯西亜商人アレクシスへ地所所持の証書](和文原本・露文原本)(開拓使外国人関係書簡目録)、もしくは「魯西亜商人アレクセイ地所保有証書(仮題)(日本北辺関係旧記目録)カ])。
 火事の後、日本は江戸から明治へと体制が大きく変化し、明治2年函館は、戊辰戦争の最後の戦闘の地となるが、その箱館戦争を描いた絵図の中にロシアホテルらしき建物も描かれているので、紹介したい(下図参照)。ロシアの旗がたっているのでホテルとわかる。さらに山側にもロシアの旗が見える建物があり、正教会の建物も見え、教会の屋根はタマネギ型のクーポルがはっきりと描かれている。
 さて、箱館戦争も終わって暫くした頃、いよいよニコライ神父が東京での宣教活動のため、上京することになるが、アレクセーエフも同行したことが、グザーノフ氏によって明らかにされた。私はこれに関する資料を全く持っていないので、グザーノフ氏から引用した。アレクセーエフは1871年中に函館を離れたと書いている。ニコライ自身が東京に着いたのは、翌年の3月11日なので、先遣隊として早く出ていたものと思われる。
 ニコライは色々な雑事をアレクセーエフに手伝ってもらったと書いているが、駿河台に土地を購入する際にもアレクセーエフが資金的協力をしたようにほのめかしている。函館時代からニコライとアレクセーエフの間には、親しい関係があったようだが、ニコライの生まれたベリョーザ村とアレクセーエフの故郷トゥヴェリは、ロシアの地図でみると、近いところにあり、異国でお互いに親近感のようなものを感じていたのでは、と想像させられる。
 しかしこの年の10月26日に風邪がもとでアレクセーエフは亡くなってしまう。享年40歳。遺体はニコライにより横浜の外国人墓地に埋葬されたという(アレクセーエフの墓碑銘は今ではかなり読みにくくなっている)。
 さて、函館には子供をかかえて突然未亡人になったソフィヤがいた。さすがに働きものだけあって、その後も立派にホテルを切り盛りした様子がうかがえる。居留地も牧場も夫名義の土地証書をソフィヤ名義にし、開拓使宛のアメリカ産の牛を輸入したいと書いた書類も残されている。夫が亡くなったあとも意欲満々といったかんがある。
 ここで従業員についてもふれたい。前掲の「ディレクトリー」にはアシスタントとしてパラウチンという名前が見える。ロシア人と思われるが、どういう人かは不明である。「ディレクトリー」では、1879年版までその名前があり、ピョートル亡き後もずっと働いていたことがわかっている。もしかするとアレクセーエフ同様もと農奴で自由になった軍艦乗員だったのかも知れないし、領事館の下男として働いていた人かも知れない。
 日本人従業員については、下表をみると、コックや牛飼い、馬てい、下男など数名いたことがわかる。マキシモヴィチの植物採集で助手をつとめた須川長之助や、日本人初の正教受洗者の一人川股驚礼の妻の名前もみえる。ホテルの食堂ではロシア料理かどうかわからないが、とにかく洋食が供されたことと思うが、従業員リストからわかるように少なくとも1868年以降日本人コックが3人採用されていた。彼らはそういった料理のレシピを修得しただろうし、ここでパンも焼いてたのでその技術も身につけたものと思われる。函館におけるロシア料理の元祖は、このロシアホテルといってもよいだろう。

ロシアホテル関係日本人スタッフ

1876年か
氏名
年齢
雇用年月日 本籍地・身分 請負人氏名
コック ヒキヤ チュウスケ
41
辰年[1868]11.24 秋田県湊新城町、農民 親分、カワサキチョオジロオ
牛飼い コメヤ ソオキチ
46
丑年[1877]9.15 秋田県船越村、農民 親分、トリガタ キジベイ
馬丁 ミカミ トラキチ
30
戌年[1874]10.16 青森県紙漉村、農民 サイド シンペイ
下男 藤田幸八
18
戌[1874]7.27 函館地蔵町15番地、農民
コック助手 須川長之助
36
明治9年[1876]4.20 岩手県郡山下松本村、農民 親分、クドオ ゲンザイ、恵比須町
1878年か
氏名
年齢
雇用年月日 本籍地・身分 請負人氏名
下男 イガラシ トオゾウ
45
明治5年9月 函館開拓使平民 親分、ナシ
門番 イシダ ニスケ
54
明治5年9月 函館開拓使平民 親分、ナシ
コック オノ タイチ
41
明治4年12月 函館開拓使平民 親分、ナシ
ボーイ クラオカ ウマノスケ
46
明治4年12月 函館開拓使平民 親分、ナシ
洗濯婦 川股篤礼の妻
34
明治11年6月 陸前国水沢県金成村商人 函館平民、沢辺琢磨
1879年か
氏名
年齢
雇用年月日 本籍地・身分 請負人氏名
コック トガシ ヨオスケ
48
明治5年3月 山形県酒田下新町、平民
馬丁 ヨネヤ ソオキチ
49
明治3年3月 秋田県男鹿船越村、平民 函館平民、ムラタ コオキチ
下男 藤田 幸八
21
明治8年6月 函館、開拓使平民 ナシ

「露西亜人より開拓使及県令に宛てた手紙の原文85通」より翻訳(函館市中央図書館所蔵)

 ホテル経営以外の記録としては、ソフィヤはアナトーリイ司祭が管理する宣教団の女学校で教えていたいうことが1878年のニコライの報告書にある。この学校では一般科目のほか裁縫や編み物が教えられていたというので、その先生だったのかもしれない。 
 また1874年に函館のロシア語学校の教師サルトフが亡くなった時に、彼女が解剖同意書にサインをしたり、遺品の整理をしたことなどが記録されている。
 その後ホテルは1879年夏に廃業となったようで、明治12(1879)年8月22日の「函館新聞」の広告によれば家具の競売が8月25日におこなわれている。廃業の理由はロシア海軍の基地がニコラエフスクからウラジオストクに移って、函館に軍艦が入らなくなったからだ、と書いているものがある。また函館で成功した東洋堂というパン屋は、外国軍艦への仕込みも一手に引き受けるようになり、ロシア人のパンを駆逐したと言っている。
 1880年にはロシアホテルの土地は函館在留のポーターというイギリス人に正式に譲渡されており、土地契約書からもロシアホテルの文字は消えた。
 なお、明治15(1882)年7月29日の「函館新聞」には、藤田幸八という元従業員が、ホテル廃業から数年後にビリヤード場を開いた広告がある。彼は主がいなくなったホテル内で少しの間パン屋を開いたこともあったが、その後別の場所にパン屋を開き、さらに明治15年にこの広告どおり玉突き、すなわちビリヤード場を営業している。同日の新聞本文に「玉撞き開業」と題して事情を述べた記事があるので、要約すると、「玉突きは以前にピョートルが営業していたことがあったが、その後、しばらく函館にはなかった。ある人がその頃の器械一式を購入してしまい込んでいたが、今度それを柴田幸八に貸し出すことになった。それは彼が玉突きをよく心得ていて洋語(英語なのかロシア語なのか)もできるからだ」というものだ。 
 ほかの従業員も何らかのかたちで、ホテルで身につけた技術や知識を活かした人がいるのではないかと思われるが、今のところ不詳である。
 一方ソフィヤはどうしたのかといえば、前に紹介したニコライの日記に彼女のことが出ている。当会会員の倉田さんに翻訳をしてもらったところ、彼女は東京の公使館にいたらしく、スツルーヴェ公使が1881年にアメリカに転勤となった時に彼女も子守として一緒に日本を去ることになり、ニコライに別れのあいさつに来たことが記され、ニコライが彼女が若かりし頃に会って、白髪となった彼女と別れるという言葉が記されていた。
 気になるのはソフィヤとピョートルの間に生まれた子どもだが、そのことに言及している資料は未見で、ソフィヤと一緒にいたのかどうか消息は不明である。
 話の締めくくりにまた、マトヴェーエフが出てくるのも因縁深いが、彼は1910年にウラジオストクで発行された「極東の星」という雑誌に「日本におけるロシア人召使」という文章を書いている。これは檜山真一氏が見付けられた資料で『地域史研究はこだて』第18号に翻訳が掲載されている。
 マトヴェーエフはソフィアの写真まで手に入れているが、この文章を読み直してみると、彼は何を伝えたくてこのような文章を書いたのかと、改めて感じる。このことについてはまた別な機会に譲るとして、今回はこれで報告を終わりたい。

ロシアホテル小史

年次
出来事
1858 安政5 ロシア領事一行が来函する(下女が2人同行)(『大日本古文書』幕末外国関係文書 付録之六)
ロシア海軍のジギット号が領事館の用船として来函(ヴィターリー・グザーノフ著・左近毅訳『ロシアのサムライ』 2001年、左近毅「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの場合―」『異郷に生きる』成文社 2001年 63-75頁)
(コルニーロフとその農奴だった水夫のピョートル・アレクセーエフ乗船)
1861 文久元 この年2月、ロシアで農奴解放(前掲『ロシアのサムライ』、前掲「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの場合―」)
1862 文久2 (アレクセーエフ、自由の身となり、退役する)
1863 文久3 この年末、コルニーロフ艦長は太平洋艦隊勤務から、バルチック艦隊勤務となる(前掲『ロシアのサムライ』、前掲「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの場合―」)
アレクセーエフは函館に残り、大町居留地でロシアホテル経営及び仲買人となる(北海道立文書館所蔵「箱館奉行所文書」、「開拓使公文録」各種)
この頃にソフィア・アブラーモヴナと結婚する(領事館付きの下女か)
1864 元治元 アレクセーエフ夫妻に子供が生まれている(北海道立文書館所蔵「箱館奉行所文書」、「開拓使公文録」各種)
1865 慶応元 居留地の外国人から苦情あり(北海道立文書館所蔵「箱館奉行所文書」、「開拓使公文録」各種)
「ロシアホテルに遊女たちがきて、ロシア士官たちと大騒ぎ」
1867 慶応3 アレクセーエフ、海岸町に3450坪の土地を借用する(国文学研究資料館史料館「明治7年函館港外国人エ地所相対貸渡書類」)
牛を飼い市内の外国人に牛乳を宅配、豚も飼って豚肉販売(「ゲルトナーの日記」(Allgemeine Konservative Monatsschrift fur das christliche Deutschland))
1868 明治元 居留地デュースの家から出火、居留地はほとんど類焼(『杉浦梅潭日記』)
居留地のアレクセーエフ邸宅建設で、日本人大工とトラブル(地崎文書「明治二年検印録」)
1872 明治5 アレクセーエフ、ニコライ司祭の東京進出に同行する(前掲『ロシアのサムライ』、前掲「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの場合―」)
約8か月後、アレクセーエフ、東京で没する(お墓は横浜外人墓地)(前掲『ロシアのサムライ』、前掲「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの場合―」)
夫の没後も妻ソフィアが日本人スタッフを雇いホテル経営を続ける(函館市中央図書館所蔵「露西亜人より開拓使及県令に宛てた手紙の原文八五通」)
1874 明治7 ソフィア、ホテル経営のかたわら正教女学校で教える(中村健之介『明治の日本ハリストス正教会』)
函館ロシア語学校の教師サルトフ死去につき、ソフィア、遺品の引き取りをするなど後始末(函館市中央図書館所蔵「御雇魯学校教師サルトフ変死一件書類」)
1879 明治12 ホテルを廃業し、家具が競売になる(明治12年8月22日「函館新聞」)
ソフィアは横浜の公使館へ(公使ストルーヴェの子守か)(中村健之介ほか編『宣教師ニコライの日記抄』北海道大学出版会 2000年)
1881 明治14 ストルーヴェの転勤にともない、ソフィアも日本を去る(アメリカへ)(前掲『宣教師ニコライの日記抄』)
?
ソフィア、ロシアのどこかの養老院で亡くなる(檜山真一「日本におけるロシア人召使』『地域史研究はこだて』18)

*この報告は、故清水恵さんが2003年6月に第42回来日ロシア人研究会で報告されたもので、当日の配付資料をもとに、奥野が出典など一部補記しました。

「会報」No.28 2006.5.1

平成18年度 函館市の対ロシア国際交流事業紹介

2012年4月24日 Posted in 会報

倉田有佳

 函館市は、ロシアとは、ウラジオストク市(1992年7月28日)、ユジノサハリンスク市(1997年9月27日)の2つの都市と姉妹都市提携を結んでおり、市代表団の相互派遣、教育・文化・スポーツ・経済など、様々な分野で交流を継続的に行ってきています。2002年には、市立函館博物館とウラジオストク市のアルセニエフ博物館が姉妹博物館提携を結びました(博物館交流の詳細は本号掲載佐野幸治氏報告を参照)。
 平成18年度の姉妹都市交流事業は、ウラジオストク市とは、青少年交流団の相互派遣、市職員の研修受け入れを、また、ユジノサハリンスク市とは、公式訪問団の受け入れ、青少年交流団の相互派遣、市職員の研修派遣、サハリン経済訪問団の派遣などが予定されています。
 姉妹都市交流事業以外にも、2006年は在札幌ロシア連邦総領事館函館事務所が開所して3周年を迎えるため、事務所が開所した9月には、「ロシア(ソ連)映画週間」を開催します。会場は函館市中央図書館の視聴覚ホール(150名収容)ですが、視聴覚ホール横では、写真パネル展「函館とロシア(ソ連)の交流 1956年~2006」を同時開催する予定です。
 さらに、2007年3月末には、サンクトペテルブルグの国立図書館所蔵の写真・版画・書籍を展示する巡回展「日露修好150周年記念 ロマノフ王朝と近代日本」を北海道立函館美術館と共催で開催します(会場:北海道立函館美術館)。
 これ以外にも、今年はガガーリン宇宙飛行士が人類初の宇宙飛行を行って45年(1961年4月12日)に当たるため、来る5月18日(木)から30日(火)に、函館市中央図書館1Fホールにおいて写真展「~人類初の宇宙飛行から45年~ガガーリンとソ連(ロシア)の宇宙開発」を開催します(水曜日は図書館の休館日です)。日本で初公開となるものを含め、APN通信社撮影・在札幌ロシア連邦総領事館提供による約60点の貴重な写真を展示します。
 以上、今年は文化的な行事の比重が高くなっています。函館市外の道内や青森在住の当会会員の皆さんもこの機会に函館を訪れ、ロシアを知り、体験する機会としてみてはいかがでしょうか。

(当会会員・函館市企画部国際課主査) 

「会報」No.28 2006.5.1

訂正します

2012年4月24日 Posted in 会報

○昨年7月に当会会員有志がウラジオストク市建都145周年記念訪問団に参加し、「ウラジオストク訪問記 2005.7.1~7.5」を発刊したところですが、その中の「旧日本人街散策マップ」(8頁)掲載の「旧杉浦商店」の写真について、ウラジオストクの日本人街の地図の作製者の一人であり、関西のハルビン・ウラジオストクを語る会の会員杉山公子さんから誤りについてご指摘がありました。掲載した写真は杉浦商店ではなく、正しくはこの建物の右隣の建物(次頁写真)でした(杉山公子「ペキンスカヤの"日本人ビル"」『セーヴェル』第18号を参照)。ご指摘いただきましたことにお礼を申し上げるとともに、ここに訂正いたします。

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杉浦商店は、看板が掛かっている2階建ての建物でした

「会報」No.28 2006.5.1

コーカサス情勢 ―民族紛争とカスピ海地域のエネルギー資源を中心に―

2012年4月24日 Posted in 会報

廣瀬徹也

1.コーカサス地方
 黒海とカスピ海に挟まれ 約44万平方キロメートル、5,000m級の山がつらなる 大コーカサス(カフカス山脈)で北と南に分かれる。18世紀末から徐々にロシア帝国に征服された。現在山脈の北はロシア連邦に属し、ダゲスタン、チェチェン、イングーシ、北オセチア・アラニア、カバルディノ・バルカル、カラチャエヴォ・チェルケス、アデイゲヤの7つの共和国とスタブロポリ地方、クラスノダル地方、ロストフ州があり、山脈の南(ザ・カフカス)にアゼルバイジャン、グルジア、アルメニアの三つの独立国がある。
 温暖な気候にめぐまれた農業地帯で、長寿(平均寿命グルジアで72.6歳、アゼルバジャンで64.8歳)の秘訣は温暖な気候と豊富な野菜、果物とヨーグルト。ワイン、ブランデー、絨毯とキャビアは世界的に有名。鉱物資源とすばらしい観光資源もあり。優秀な人材があり、かつ人件費も安い。治安さえ安定すればと、経済的に大きく発展する可能性があると考えられる。

なぜ今コーカサスが注目されるか
(1)欧亜、北のロシア、南のイスラム圏に接する地政学的重要性
 西アジア情勢がいまだ不安定な今、その裏庭にあたるコーカサス地域の安定はユーラシア地域全体の平和と安定に不可欠である。
(2)国際的パワーゲーム
 この地域において政治的及び経済的(特に下記石油、天然ガスをめぐって)観点から、ロシア、米を筆頭に地域大国たる、トルコ、イランも加わり、さらに国際情勢を利用して自国の安全保障を確保し、国内少数民族による独立運動やイスラム原理主義過激派の封じ込め、隣国との紛争の有利な解決を図らんとする域内諸国の思惑もからんで「第二のグレートゲーム」とも呼ばれる勢力争いがおこなわれている。
(3)カスピ海周辺地域のエネルギー資源(石油、天然ガス)の存在

2.民族紛争
 北、南とも言語系統、宗教・宗派を異にする複雑な民族構成で、多彩な文化の宝庫であるが、一方その複雑な民族構成が様々な民族紛争・領土紛争の源となっている。

〈民族構成〉
・カフカス諸語系......この地域の先住民族。
グルジア人:キリスト教徒(グルジア正教)。
チェチェン人 、イングーシ人 、アバール人、 チェルケス人 、アディゲ人 、アブハーズ 人等:ほとんどがスンニー派イスラム教徒。
・インド・ヨーロッパ語族......アルメニア人:キリスト教徒(アルメニア 教会:単性論)、クルド人:スンニー派、オセット人:スキタイの末裔と言われキリスト教徒が多い。ロシア人などスラヴ系:キリスト教徒(正教)
・アルタイ語族......アゼルバイジャン人:シーア派、その他はスンニー派イスラム教徒

1)チェチェン 北コーカサスでは歴史上最も反抗していた勇猛な山岳民族がムスリムのチェチェン人達。独ソ戦争中イングーシ人とともにカザフスタンへ強制移住させられたこともある。完全独立派が武闘しており、外国のイスラム過激派組織の関与もあると見られている。石油利権もからんでいる(原油産出・パイプライン通過)。

チェチェン紛争の経緯とチェチェン武装勢力が起こした疑いのあるテロ事件等:
○1991年11月、ドゥダーエフ空軍少将(後初代大統領)らチェチェン民族会議がソ連邦からの独立を宣言。
○1994年12月―1996年8月(エリツィン時代)、第一次チェチェン戦争、ドゥダーエフ戦死、70万人のチェチェンの人口のうち、8万人から10万人が死亡したと言われる。
○ロシア国内の厭戦気分の高まりでロシア安全保障会議のアレクサンドル・レベジ書記と対ロシア交渉派のアスラン・マスハドフ総参謀長「ハサブユルト和平合意」成立。独立問題は2001年まで先送り。
○1997年2月、欧州安全保障機構(OSCE)などの監視のもと、初のチェチェン共和国大統領/議会選挙が行われ、マスハドフが当選。その後誘拐などの犯罪の横行。
○1999年8月7日、チェチェンの野戦司令官バサーエフとハッターブがダゲスタンに侵攻。8月31日から、モスクワなどの都市では大規模なアパート爆破事件が続発し、9月23日、ロシア政府、再びチェチェンへの空爆を再開始(「第二次チェチェン戦争」)。その間プーチンが大統領に就任。ロシア側はマスハドフ政権に対抗して、宗教指導者であるカディロフ行政長官を首班とする臨時行政府を設置。
○2001年10月、グルジア領内に拠点を置くゲラエフ指揮官率いる武装勢力の一派が、カバルディノ・バルカル共和国あるいはカラチャエボ・チェルケス共和国への侵攻を企図している動きが見られ、両共和国の国境警備が強化された。
○2002年1月、スタブロポリ地方のゴリュガェスカヤ村に対し、自動小銃等により武装したグループが攻撃。
○2002年10月、チェチェン武装勢力による劇場占拠事件。
○2003年7月、モスクワ郊外トゥシノ飛行場で自爆テロ事件、12月モスクワのナショナル・ホテル前で自爆テロ事件。
○2004年2月6日 モスクワ市内地下鉄車内での爆弾テロ事件。
○同年5月9日、正常化プロセスに中心的な役割を果たしてきたカディロフ・チェチェン大統領爆弾テロにより殺害。
○同年6月21日から22日、イングーシ共和国において300~500人の武装兵が同共和国治安機関を襲撃、88人が犠牲。
○同年8月24日、深夜にモスクワから飛び立った旅客機2機が墜落し、乗客・乗員全員が死亡。
○同年8月31日、モスクワ市北部地下鉄駅周辺での爆弾テロ事件、9月1日北オセチア共和国の学校占拠事件 数百人死傷。

 自己の主張を貫くためには自らの命も子供を犠牲にすることもいとわないテロリストと強硬策一本槍のプーチン政権、チェチェン問題は解決への出口が見えない。
 ロシア人女性記者ポリトコフスカヤの著書「チェチェン―やめられない戦争」は、チェチェン戦争の実体をあますところなく描いている。
 今のところ諸外国政府はテロとの戦い支持の観点から厳しいプーチン政権批判は出来ない状況。
 日本外務省はチェチェン、イングーシ、ダゲスタン、北オセチア・アラニア、カバルディノ・バルカル、カラチャエボ・チェルケス各共和国及びスタブロポリ地方に渡航延期勧告を出している。
 日本政府は、ロシア連邦北コーカサス地方における避難民に対し、平成13年世界食糧計画(WFP)を通じ、食糧援助(小麦粉、1億5,000万円)を行っている。民間でも「チェチェンの子どもを支援する会」という日本のNGOがバクーでチェチェン難民学校に民族楽器と衣裳、文房具を贈るなど支援活動を行っている。

2)南コーカサスの民族紛争と国際関係
イ)アゼルバイジャンとアルメニア間のナゴルノ・カラバフ地域の帰属をめぐる紛争
 ナゴルノ・カラバフ自治州はソ連期を通じてアゼルバイジャンに属してきたが、同地の70%を占めるアルメニア系住民が、同地のアルメニアへの移管を求めて、ペレストロイカ末期から運動を起こし、それが双方の民族虐殺に発展した。ソ連崩壊後はアルメニア、アゼルバイジャン間の戦争となり、多くの犠牲者を出した。1994年の停戦合意以後は小規模の停戦違反を除き、停戦が維持されているが、アゼルバイジャンは国土の20%を占領されたままで、早期の解決が求められているものの、両国を仲介しているOSCEミンスクグループも成果を出せておらず、事態の打開は難しそうである。
ロ)グルジア国内
 アブハジア自治共和国がグルジアより分離独立を求める動き、南オセチア地方がロシア領北オセチアとの統合を求める動きなどがある。
 グルジアはロシアとは従来より上記アブハジア、南オセチア紛争でロシアが独立派を支援しているとして関係がぎくしゃくしていた。逆にチェチェン武装勢力がロシア領から国境を超えてグルジアのパンキシ渓谷に逃げ込むため、ロシアはグルジア政府にその取り締まりを求めてきたが、グルジアが取り締まらないことを理由として、グルジアへの締め付けを強めている。
 他方、目下建設中のカスピ海のアゼルバイジャンからグルジアを通りトルコの地中海岸に出る石油パイプラインを護りたい米国はグルジア軍の防衛能力向上のために訓練、装備供与中心の軍事援助を進めている。
 極めて単純化すればアゼルバイジャン、グルジアは親欧米・親トルコ、これに対しアルメニアは親露・親イランである。
 三国いずれもこれら紛争で生じた数十万の難民、国内避難民をかかえている。
 日本外務省はいくつかの地域に同じく渡航延期勧告を出している。

3.カスピ海周辺地域の石油・天然ガス
 「第二の北海油田」と言われ、沿岸5ヵ国(ロシア、カザフスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャン、イラン)だけでなく、米国やトルコが政治的及び経済的観点より大きな関心を示してきた。開発には日本企業も参加しており、中国もなんとか食い込もうと懸命である。
 カスピ海の法的地位の問題やパイプライン・ルートの問題、更にはインフラの未整備などから同地域の開発は必ずしも順調には進んでいないが、9.11後、米露協調ムードが高まるにつれ、開発が活性化する可能性も生じてきている。エネルギー供給源の多様化、中東依存度の低減等の観点より、同地域周辺のエネルギー開発の進展は、わが国のエネルギー安全保障にとっても重要な意味を有している。
(注)カスピ海の法的地位の問題
 自国の沖合いの資源は各国が独占的権利を有するとの立場のアゼルバイジャン、カザフスタン、ロシアと5ヵ国の共同開発すなわち20%の権益獲得を強く主張するイランの対立。

4.南コーカサスの政治変動
 1991年末のソ連崩壊で三国は独立を果たしたものの、独立後数年は内政不安と内乱が続いた。その後大統領による権威主義体制の下で一応安定してきたものの政治や官僚機構の腐敗が激しく、経済の停滞と深刻な失業問題があり。昨年来政治変動あり。
1)アゼルバイジャン:2003年10月の大統領選挙で権威主義者としてならしたヘイダル・アリエフ大統領の息子イルハム・アリエフが選出され、旧ソ連初の「権力世襲」が起こった(12月にはヘイダル・アリエフが死去)。
2)グルジア:2003年11月に無血クーデター(バラの革命)が起こり、同じく権威主義体制を強めていたエドゥアルド・シェワルナゼが失脚。2004年1月に実施された大統領選挙で政変の中心人物であったサーカシビリが圧倒的支持を得て当選。

5.日本政府の「対シルクロード地域外交」
 このような中で日本政府は「対シルクロード地域外交」の旗印の下、様々なODA、難民支援を行なっており、いまや日本はトップドナーの一つになった。〝政治的野心のない真の友情〟と感謝されている。
 「対シルクロード地域外交」は次の三つの方向性を持っている。すなわち、
(1)信頼と相互理解の強化のための政治対話
(2)繁栄に協力するための経済協力や資源開発協力
(3)核不拡散や民主化、安定化による平和のための協力

(資料)
本年6月外務省欧州局新独立国家室(現中央アジア・コーカサス室)作成

地域エネルギー情勢
(1)概観
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(2)域内の主要石油・天然ガス・プロジェクト
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第3回研究会、北方民族資料館にて

「会報」No.27 2004.10.8 2004年度第3回研究会報告要旨

補遺―1877年、瀬棚沖におけるロシア軍艦「アレウト号」の遭難をめぐって

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 今年3月に発表した拙文「1877年、瀬棚沖におけるロシア軍艦『アレウト号』の遭難をめぐって」は、以下の一連の事件を取り扱ったものであった。

(1)1877(明治10)年11月、ニコラエフスクからウラジオストクに航海中のアレウト号、暴風のため流され瀬棚沖において座礁する。死傷者はなく、62名全員が救出される。
(2)同年12月、アレウト号乗員送還のため、ウラジオストクよりアブレク号来る。62名中49名を同号に乗艦させ、残り13名は座礁したアレウト号および搬出物看守の目的で瀬棚に残す。しかし、この収容作業中、今度はアブレク号の13名が暴風のため本船に戻れなくなる。結局、アレウト号の看守役13名と、本船に戻れなくなったアブレク号収容隊の13名、計26名が瀬棚に残留する。アブレク号の13名はその後間もなく函館に移動。アレウト号の13名は瀬棚にて越冬。
(3)1878(明治11)年、4月、再び送還船来る。艦名はエルマーク号。函館でアブレク号の13名を乗船させて後、瀬棚沖に投錨。アレウト号の13名を収容しようと、本船から大型カッターで上陸。全員を乗せて本船に戻る途中に転覆。12名の死者を出す。

 その際、わたしが用いた資料は以下の4点であった。

(1)救助されたアレウト号仕官が開拓使及県令に宛てた手紙
(2)開拓使がアレウト号の瀬棚沖漂着、救援について報告した公文書
(3)ソ連国防省海軍本部が瀬棚における水夫埋葬について作成した報告書
(4)後日アレウト号を引上げた函館在住ジョン・ウイルの回想録
 さて、この一連の事件真相解明の難しさは、「3隻のロシア軍艦が事件の渦中にあること」と「上述4点の資料間の記述に齟齬が多いこと」にある。わたしは執筆段階で、さまざまな可能性の示唆を試みたものの、「...この遭難事件に関してはまだ不明な点が多く、今後の研究の進展が待たれる...」と結ぶよりなかった。死亡した12人も不詳であった。
 ところが、最近、瀬棚町を訪れた知人がカメラに収めてきた「アレウト号慰霊碑」を見てわたしはあっけにとられた。12名の死者は不詳どころか、慰霊碑の下部には9人の姓名がロシア語とカタカナで併記され、「外3名不詳」と刻まれているではないか。しかも、9名の内訳は、アレウト号乗組員6名、エルマク号3名となっているではないか。「12名の死者の中には、カッター船を漕いでアレウト号残留者を迎えにいったエルマーク号の船員も含まれていたのではないか」という、執筆時のわたしの仮説は、仮説でも何でもなく、すでに周知の事実だったのである。

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瀬棚町のアレウト号慰霊碑

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1972年、アレウト号慰霊碑建立時の「露国軍艦アレウト号乗組員遭難慰霊碑」と町長(当時)の声明文を刻んだ銘版

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1988年、新たに加えられた「遭難者名碑」
 
 それにしても、執筆時に1972年建立のこの記念碑を自分の目で確認せず、また、瀬棚町が所蔵する関係資料も未見であったことが悔やまれてならない。昨年、わたしは瀬棚町役場に電話で取材を行なったのだが、そのとき得た回答は「12名の死者は不詳、関連書類は喪失」というものであった。このときの瀬棚町役場の対応を恨むつもりはない。今後の調査・執筆にこのような過誤のないよう、今回の失策を肝に銘じる所存である。

 さて、アレウト号に関するこれまでのわたしの研究の経緯を簡単に説明して、今回、あらためて瀬棚町役場に問い合わせてみたところ、以下のことが判明した。

(1)アレウト号慰霊碑建立の1972(昭和47)年当時は、「露国軍艦アレウト号乗組員遭難慰霊碑」の銘版と、慰霊碑建立規成会代表として当時の町長の名が署名された声明版だけだった。
(2)しかし、1988(昭和63)年になって、新たに死者9名(外3名不詳)の名を刻んだ「遭難者名碑」が設置された。これは、ソ連邦地理学協会沿海州支部学術書記(当時)ア・ヒサムトジーノフによる町長宛嘆願によるものである。ヒサムトジーノフは嘆願書の中で、死者9名の姓名を明らかにしている。

 このことは、わたしが使用した先述の4資料の外に、新たな関係資料が極東ロシア史の分野で精力的に活動するヒサムトジーノフ氏によってロシア側で発見されたことを暗示している。アレウト号にまつわる一連の事件の真相解明は、そう遠くない未来に果たされるかもしれない。わたし自身であれ、他の研究者であれ、その真相に一歩ずつ近づくのは誠にスリリングな経験であろう。

*この補遺を記すにあたり、慰霊碑の写真を提供くださった当会会員の桜庭氏と、ヒサムトジーノフの嘆願書の存在を調べてくださった瀬棚町役場総務町民課の加賀谷さんに厚くお礼申し上げます。また、本編を執筆する際には、北海道立文書館の宮崎美恵子さんに多大なご協力をいただきました。ここにあらためて記してお礼申しあげます。

「会報」No.27 2004.10.8

失われた墓碑銘 ―函館のロシア人墓地

2012年4月24日 Posted in 会報

菅原繁昭

 先般、当会世話人の一人である清水恵さんから、市立函館図書館蔵の「墓地関係書類 函館正教會」という史料をみせていただいた。表題通り、函館ハリストス正教会の墓地に関わる様々な書類の写しを集めたものであるが、そのなかに昭和24年3月28日付けで函館ハリストス正教会から大蔵省管理局長宛に提出された「連合国人墓地調」という書類が含まれている。これには1859年のG.ポウリツエフから1944年のK.ズヴェーレフまでの45名にのぼるロシア人埋葬者の氏名、男女別、死亡年月日などが記載されている。
 これまでにロシア人墓地については、函館出身の民族学研究者である馬場脩が1基ずつ丹念に調査しており、調査結果は『函館外人墓地』(昭和50年、図書裡会)という労作にまとめられている(馬場脩の人となりは、清水恵「覚書・モイセイ馬場脩の生涯―北方民族研究に捧げた人生―」『地域史研究はこだて』第31号所収、を参照されたい)。ところが清水さんが両者を比較してみたところ、「連合国人墓地調」に記載されているが、馬場脩の調査に欠落している者が12名(表参照)もいることに気づいたという。しかも1911年から1928年までと特定の時期に限られている。

表 墓碑が確認されないロシア人埋葬者一覧

氏名 性別 死亡年月日
1 シメオン・シソツエフ 1911.07.28
2 ニコライ・アントノウイチ・キム 1914.09.09
3 グリゴリイ・ストロユーク 1914.10.20
4 エフイミヤ・ホフローワ 1915.07.27
5 エラセイ・セーデイユ 1916.10.17
6 ウラジーミル・オリソフ 1919.11.10
7 アンナ・ジエルトビナ 1919.11.10
8 ワシリイ・コートフ 1919.11.20
9 フエオドル・ワーロフ 1920.09.24
10 セラフイーマ・ユーロワ 1922.10.21
11 イワン・コビヤコーフ 1926.10.22
12 サーラ・グリゴーリエワ 1928.03.13
「墓地関係書類 函館正教会」(市立函館図書館蔵)より作成

 馬場脩の調査に漏れたということは、いうまでもなくロシア人墓地に彼らの墓碑がなかったためである。彼らはどのような人々であったのか、埋葬された時期を考えれば、亡命ロシア人も含まれている可能性もある。はたまた漁業関係者もいることであろう。あるいはまた、どのような状況で亡くなった人々なのか、そうしたことを知りたい。それを確認するために図書館に所蔵されている地元紙を調べてみることにした。対象者全てについて調査をし終えていないが、二、三の該当例を見つけることができたので、とりあえず、ここに紹介しておく。
No.3:大正3年10月21日付け「函館毎日新聞」
 大正3(1914)年10月20日にカムチャツカから入港中のロシア義勇艦隊汽船ニジニノブコロド号で来港していた漁夫カルホール(30歳)が、仲浜町税関構内沿岸で溺死体で発見された。
 人名表記が異なるが、状況的に同一人物と思われる。
No.4:大正4年7月27日付け「函館新聞」
 大正4(1915)年7月26日にカムチャツカから入港したロシア汽船エニセー号に乗船していた23歳くらいの露国美人が同日(船内で)死亡、函館入港後に警察医の検視を受け、死因は肺結核と判明、死体は塩漬けとしてウラジオストクに「赴くべし」とある。
 死亡日に1日のずれと遺体をウラジオストクに送る予定とあるが、実際は函館で埋葬されたと思われる。
No.9:大正8年9月26日付け「函館毎日新聞」、同年9月25日付け「函館新聞」
 大正8(1919)年9月24日に函館停泊中のロシア汽船(義勇艦隊)トウヴェリ号船客の漁夫フエオドル・ワーロフ(48歳)は西カムチャツカのアストラハン漁場から来函していたが、船内において墜落死した。
 これは記事と調書とでは1年違うが、明らかに調書が誤記したものである。
その他:大正11年12月3日付け「函館毎日新聞」
 大正11(1922)年12月1日に函館停泊中のロシア義勇艦隊汽船シーシャン号乗船の「白軍の幼児」が感冒のため船内で死亡、白軍家族30名の上陸が許され、会葬を行う。
 この幼児の記録は調書にないが、この幼児もロシア人墓地に埋葬されたと思われる。
現在、ロシア人墓地に行くと、現存している墓碑はいずれも石造であるが、墓碑の確認できない人々の墓碑は木柱であったと考えられる(厨川勇「初代ロシア領事夫人の墓のなぞ」『地域史研究はこだて』第20号所収)。木柱ゆえに時間の経過とともに朽ちてしまい、そのまま忘れられてしまったものであろう。なお、「墓地関係書類」中に昭和25年調査の「墓地設置調査」と題した書類があり、これには埋葬者が約380体とある。つまり、表に掲載した12名以外にも、その名も知られていない数多くのロシア人がこの地で永遠の眠りについていることになる。今後、さらに新聞史料を渉猟し、また当地のハリストス正教会にも関連史料が所蔵されている可能性も高いと思われるので、機会をみておたずねしようと思っている。新しい情報を得たら、稿を改めて報告したい。

「会報」No.27 2004.10.8

函館とウラジオストクとの新たな交流 ―文化・学術交流、はじめの一歩―

2012年4月24日 Posted in 会報

長谷部一弘

新たな博物館交流の一歩
 平成14年7月28日、市立函館博物館と沿海地方国立アルセニエフ博物館との間において博物館姉妹提携がなされた。これは、函館市市制80周年記念、函館・ウラジオストク両市の姉妹都市提携10周年記念事業の一環として行われたものであったが、とりわけ北東アジアの両地域における博物館を媒体とした新たな文化交流のかたちをめざす博物館交流のはじめの一歩となった。
 そもそもこの提携にいたる経緯を思い起こせば、平成13年2月に「日本の中のロシアを求めて」を取材するために来函したアルセニエフ博物館の研究員スヴェトラーナ・ルスナク女史(「会報」No.20に寄稿)がロシアとゆかりの深い函館の地に在る函館博物館との博物館交流を提案したことがきっかけであったと記憶している。地域に根ざした博物館をめざす函館博物館は、北東アジアを視野に入れた幅広い博物館活動の可能性を探るものとしてそれを受け入れたわけである。
 調印書には、博物館交流の具体的な手だてとして、刊行物等の情報の交換、専門分野における共同研究、共同企画による展覧会、シンポジウム等の開催が盛り込まれ、両博物館が地域の中で先ず出来るところから交流を図っていくことで合意した。函館市青少年研修センターを会場に開催されたガリーナ・アレクシュク館長と金山教育長による調印式に引き続き、ルスナク女史による「函館―ウラジオストク:歴史的関係と協力の展望」と題した記念講演では、およそ150名の参集者を前に函館とウラジオストクにおけるこれまでの歴史的事実と今後の可能性を篤く述べられた。
 そしてこの博物館姉妹提携の調印により、早速交流事業の第1回として、平成15年にウラジオストク市において開催される第3回ウラジオストク・ビジュアル芸術ビエンナーレ参加の博物館プログラムノミネートの展覧会「函館とウラジオストク―歴史的関係と協力の経験」を企画、開催することとなった。

博物館姉妹提携1周年記念事業(ウラジオストクで函館を紹介する)
 平成15年7月1日から6日の1週間、アルセニエフ博物館を会場に多くのウラジオストク市民を集めて博物館姉妹提携1周年記念展覧会「函館とウラジオストク―歴史的関係と協力の経験」が盛大に開催された。「函館、ロシアの架け橋、その人々」、「函館、ウラジオストクとの出会い」、「目で見る今日の函館」で構成された展示内容は、函館から持参したジュラルミン製ケース2箱分の写真パネル、年表、書籍、観光ポスター、ビデオ映像、CD等の限られた展示資料で満たされた。期間中の新聞報道等のインタビューでは、博物館交流の意義や展覧会の趣旨などにおよんで初めて紹介された函館とウラジオストクとの歴史的関係や函館の街の素顔などに大きな興味と関心が寄せられた。また、この展覧会開催期間中には、沿海地方に在る地方博物館を一堂に会した「博物館円卓会議」が設けられ、文化の相互理解発展に向けた博物館、ギャラリーの役割や博物館と地域の関わりについて活発な討議がなされた。特別ゲストとして迎えられた佐野館長と私は、日本、函館における博物館と地域の関わりについての実態や可能性などを紹介し、共有した情報交換の場を持つことが出来た。ちょうど、平成15年は、「ロシアにおける日本文化フェステバル 2003」にあたり、ロシア各地では多岐にわたる日本文化に触れる機会が設けられ、滞在期間中の沿海地方、日本などの周辺地域を取り込んだウラジオストク市あげての芸術、文化の祭典ビエンナーレでも書道などの多彩な日本文化のプログラムが組まれる中で、博物館交流事業がその一つとして参加できたことも大きな交流の成果であった。私が観た祭典ビエンナーレに沸いた1週間のウラジオストク市民と博物館との関わりは、博物館そのものが地域と市民に当たり前に向き合い、市民も生活の一部として当たり前に博物館を行き来していることであった。

平成16年度函館、ウラジオストク博物館交流事業(函館でウラジオストクを紹介する)
 博物館姉妹提携1周年記念事業「函館とウラジオストク」展の成果をもとに、平成16年7月5日から7月11日の1週間、函館市民芸術ホールにおいて展覧会「ウラジオストクと函館」が開催され、函館市民にこれまでのウラジオストク市と函館市との歴史的、文化的交流やウラジオストク市の歴史、文化、姉妹博物館アルセニエフ博物館の歴史などが紹介された。展覧会は、事前の企画準備から展示に至るまでイライダ・バプツェヴァ主任研究員、ライダ・クリメンコ写真所蔵専門員をスタッフとしたアルセニエフ博物館と函館博物館との共同企画・展示によるものであった。
 展示に関わる写真パネル、年表、解説パネル、キャプションなどは、双方による資料のリストアップ、事実関係の確認、翻訳、画像処理、校正にいたるまで長距離のFAX通信などで詳細に協議、調整され、両博物館スタッフのほかに、双方の交流に関係する多くの機関や人々の協力によって遂行されたと聞く。このたびの展覧会の開催のためにバプツェヴァ、クリメンコ両女史のアルセニエフ博物館スタッフに加え、ウラジオストク日本センター職員であるオリガ・スマローコヴァ女史が翻訳や通訳の労をとって来函されたことも博物館交流事業の意義を覗かせている。
 なお、今回の展示にあたっては前々日の7月3日から、函館博物館、アルセニエフ博物館の職員らと共に、当会の会員もボランティアで展示作業に加わり、実際に汗を流しながら交流を深めることができた(展示内容の一部は当会のホームページで公開します)。
 さらに、来函した3人は、展覧会開催期間中、渡島、檜山地方の博物館や教育委員会でつくる道南ブロック博物館等施設連絡協議会の研修会や市民を対象とした展示解説セミナーでの講師参加、ゴローニン幽閉の地松前探訪、そして当函館日ロ交流史研究会の例会でも、特別ゲストとしてアルセニエフ博物館のお話をしていただくなど多岐にわたり交流を深めた。
 滞在期間中、ウラジオストクでは、アルセニエフ博物館が博物館姉妹提携の記念日にあたる7月28日より3ヶ月にわたり路面電車を使った移動博物館、つまり博物館電車が昼夜市街を駆けめぐるイベントを展開する計画を準備中であることを聞いた。車内には、昨年アルセニエフ博物館で使用した展覧会の写真パネルや年表、解説パネル、観光ポスターなどが掲げられ、函館とウラジオストクの歴史的、文化的関わりがウラジオストク市民はじめ大勢の観光客の眼に触れられるようだ。走る博物館電車の展示内容にも増して、路面電車という仕掛け装置によって博物館交流の意味やその可能性を地域市民に積極的に訴えていこうとする姿勢に共感するとともに博物館交流の成果が着実にウラジオストクで浸透しているように感じた。
 博物館電車のホットな話題を聞いた時ふと、昨年の展覧会終了後、函館博物館で用意した120枚程の展示パネル類をすべてアルセニエフ博物館に寄贈した際、その好意に応えるかのようにアレクシュク館長が、いただいた貴重な写真パネル類を沿海州地方に在るすべての地方博物館の巡回展などによって多くの地域の人々にも是非紹介したいと篤く語っていたことを思い出した。

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芸術ホールでの展示作業

「会報」No.26 2004.9.10 2004年度第1回研究会報告要旨

アルセニエフ博物館について

2012年4月24日 Posted in 会報

アルセニエフ博物館主任研究員 イライダ・バプツェヴァ

 国立沿海地方アルセニエフ総合博物館(以下、アルセニエフ博物館とする)は極東・シベリア地域における最も古い博物館である。現在に至るまでに名称は4回変更された。

1884年 アムール地方地理学協会の博物館として創設された。
1890年 この年一般に入館を開放。19世紀末からF.F.ブッセ、V.P.マルガリートフ、L.Ja.シテルンベルグ、M.I.ヤンコフスキー、V.K.アルセニエフ等の著名な学者の協力により、主に民族学・考古学のコレクションを行ってきた。
1900年 全世界パリ展示会でアルセニエフ博物館の民族学コレクションは銅メダルを2つ授与された。
1925年 ソビエト政府によりアムール地方地理学協会の博物館は、独立した機関となり、名称もウラジオストク国立州博物館に変わった。
1938年 ロシア極東地域で沿海州がハバロフスク地方と沿海地方に分けられた。
1939年 上記の理由でウラジオストク国立州博物館は改組され、沿海地方郷土誌博物館となった。
1945年 ソビエト政府令により沿海地方郷土誌博物館に有名な探検家V.K.アルセニエフの名前を冠した。
1985年 アルセニエフ沿海地方郷土誌博物館が、現在の名称である国立沿海地方アルセニエフ総合博物館となった。

Ⅱ 概要
・国立文化機関 国立アルセニエフ沿海地方総合博物館 ウラジオストク市スヴェトランスカヤ通り20番
・1884年創立。ただし、1890年9月30日に一般の入館者に開放したため、市民にはこの日が本博物館の創立日とみなされている。
・職員数は198名、うち、学芸員・研究者66名
・ウラジオストクの本部のほか、ダリネレーチェンスク市歴史博物館、パルチザンスク市歴史博物館、レソザヴォツク市歴史博物館、アルセニエフ市歴史博物館、チュグエフカ村にある作家A.ファデーエフ文学記念館の5つの支部を沿海地方に有する国立総合博物館。
・ウラジオストクの本部は、街の中央にある本部(スヴェトランスカヤ通り20番)の他、国際展示センター(ピヨートル大帝通り6番)、アルセニエフの家博物館(アルセニエフ通り7番―B)、スハーノフの家博物館(スハーノフ通り9番)の全部で4つの建物を管理し、総面積は2778平方メートルに及ぶ。
・収蔵コレクションは、ロシア極東地域で最大で、自然・歴史・考古学・民俗学・文化関係の40万点以上に上る。毎年、6000点以上の新蔵品が博物館に入ってくる。

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研究会の様子

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アルセニエフ博物館

「会報」No.26 2004.9.10 2004年度第2回研究会報告要旨

最後の「低い緑の家」 ―サファイロフの晩年―

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 大正末期から昭和初期にかけて、湯川には一群の白系ロシア人が居住した。現在の私の住まいからそう遠くないこの地域に、かつて「ロシア人集落」があったことは、私もこれまで何度か耳にしている。そして、「あまり裕福ではなかった」、「自家製のジャムや酢漬け、パンを売っていた」などと聞くたびに、市内西部地区のロシア人とは別様の暮らしぶりが想像されていた。この集落の特異さは、斉藤茂吉が昭和7年の来函時に詠んだ歌からも伝わってくる。
 「ロシアびと ひとかたまりに 住みつきて 街のかげなる 家等はひくし」(7首のうちの1首)
 このようなおり、私は「湯の川風景」という一枚の絵の存在を昭和8年4月21日の「函館新聞」(以下、「函新」)で知った。画家の名は宮島求、草耀社なる美術グループに所属する市内の教員であった。新聞に紹介された絵は白黒で寸法も縮小されているが、そこには確かに湯川のロシア人集落が描かれている。市立函館博物館に尋ねてみたが、原作品の存在は確認できなかった。集落の様子は掲載記事中に以下のように述べられている。

「鎮守の社、湯の倉神社の裏道を登る。由緒ありげな老木の根もとに腰を下し初夏の赫熱を緑陰に遁れる。丁度ここで左右より登る来る二坂は合して更に登りとなる。人の世からおき忘れた山道、轍の跡と馬糞と朽葉の坂道は大きくうねって続いている。坂道に添ふてこれからは露人村を形成している。コバルト色のペンキを塗った素人造りの低い家屋、而も不規則な並べ方、無雑作に壁の所々を破った気まぐれな西洋窓、道南に珍しい題材である。
 夏の夕べ彼等グループは各自愛妻携帯で庭先―道路ばたの草のいきれの中にテーブルを出して持寄り晩餐会に喜々として赤高い鼻を働かしている。時々三脚へ寄り来り
  エカキサン、オモシロイデスカ
など愛想を振りまいている。
  アレ、オクサン、サキ、コドモオカシ、ゴッソサン
 今坂を上がって来た鍬を担いだ女との会話。中々ここは国際的で彼我認識充分である。」(旧漢字、旧仮名使い以外は原文のまま)

 記事中で「コバルト色」と言われているのは、恐らく「明るい緑色」のことだろう。相馬久子(元函館市長登坂良作氏長女)さんの記憶によれば、湯川のロシア人の家は緑であったという。また、彼女がモスクワからサンクトペテルブルクまで旅行したおりに車窓から見た家々は「まさに湯川のロシア人の家と同じ」だったそうである。人里離れた雑木林の坂道に沿った家々。故郷の家を模したのだろう、壁はみな明るい緑一色に塗りこめられている。しかし、素人普請のせいか、梁は高く掲げられることなく、屋根はみな一様に低い。でたらめな寸法でくりぬかれた窓が、雑然とした集落からさらに統一感を奪っている。想像の中の湯川ロシア人集落は、憐れで、奇妙で、しかし、どこか牧歌的である。
 第二次世界大戦後、この集落の住人はクラフツォフ、サファイロフの2家族だけとなる。そして、クラフツォフが東京へ移ってからは、とうとうサファイロフだけになる。サファイロフについては田尻聡子さんの「百万本のバラの花」(『道南女性史研究』第9号、1992年)に詳しいが、私はここで、最後の「低い緑の家」の住人の晩年を中心に、二、三の新しい知見を記しておこうと思う。

 サファイロフの来函時期は(田尻さんは不明としているが)、大正7年であったらしい。昭和3年8月5日の「函新」にはサファイロフが同年8月1日付けで内務大臣から日本への帰化を認められた旨の報告があるが、そこには彼が大正7年9月に来函したと言及されている。ペトログラードからリューリ商会の会計係として極東出張中に革命となり、妻子は本国に残したまま亡命を決意したという(昭和33年8月11日「北海道新聞」(以下、「道新」)。
 サファイロフの生業は、日本帰化当時はリューリ商会事務員であったが、リューリ商会の撤退後から第二次世界大戦までは化粧品の行商もした。しかし、この後は定職もなく、戦前、戦中と湯川の自宅で栽培した果実からジャムを作って生計を立てていた。戦後砂糖の配給が中断され、ジャム作りがままならなくなったとき、サファイロフは昭和23年2月15日付けで田中北海道知事に砂糖の配給を求める嘆願書を出している(「函新」昭和23年3月1日)。これに対して、同知事は彼の高齢と困窮に同情し、砂糖の代わりに水あめ10缶を配給した。この「ジャム美談」には後日談もあって、この2年後、田中知事の来函時に、サファイロフは水あめ配給の謝礼を兼ねて知事の宿泊先を表敬訪問している(「函新」昭和25年1月11日)。
 サファイロフは市井のロシア語教師としても長いキャリアを持っていた。私の手元にある新聞記事では、彼が出した最も古い「露語教授」の広告は「函新」の大正13年9月22日で、この年には暮れの12月28日にも同じく個人教授の広告が出ている。翌年、サファイロフは元陸軍露語通訳寺西準一が創立した「函館露語講習会」にも講師として名を連ねている(「函新」大正14年9月15日)。
 サファイロフは風変わりな老人だったのかもしれない。たとえば、道を歩いていて人とすれちがう時、絶対に自分から脇に譲ることはなかったという。次のようなエピソードもある。戦後、彼は愛犬の急死を悼み、犬を剥製に出した。ところが、できあがった剥製に生前の美しい毛並みは面影もなく、「これでは剥製にした甲斐がない」として、剥製業者の菊地某に5万円の損害賠償を求めて告訴している(「道新」昭和25年7月26日)。いずれにせよ、サファイロフは常にちょっとした有名人であった。
 日本人の妻を得て、日本に帰化したサファイロフは、社会主義国となった祖国に帰る意志を持たなかった。ところが、1957年、モスクワに住んでいた長女から「お父さん、帰ってきませんか」という写真入りの手紙が届く。肉親の情が思想的相反に優ったのだろう。この手紙を受け取って以来、故国に帰り娘と逢うことが彼の悲願となる(「道新」昭和33年8月11日)。彼の帰国実現のために奔走したのが、日ソ友好協会函館支部理事長の原忠雄と棒二森屋の渡辺熊四郎社長であるが、高齢となっても行商して歩く、その「尾羽打枯らした」様子をみかねて、渡辺社長が長く彼を援助したことはあまり知られていない。
 原氏は昭和33年訪ソ親善団の一員としてモスクワを訪れ、ついにサファイロフの長女、ミーリッツァ・ドシール・コーヴィチさんに会うことができた。帰国後、彼女から預かった写真をサファイロフに手渡し、彼女の近況を報告した(「道新」昭和33年10月3日)。
 サファイロフの望郷の念はこれを機にいよいよ募り、また、それに共感した周囲の人々が彼の訪ソ実現に向けてさらに熱心に運動していたとき、不幸が襲う。昭和34年8月19日、サファイロフは行商中(カール・レーモンのハム、ソーセージ等を売っていたらしい)にトラックと接触し、左大腿骨骨折の重傷を負うのである。妻の入院などで、既に決定していた訪ソ予定が遅れていた矢先のことであった(「道新」昭和34年8月20日)。結局、この交通事故がもとで、サファイロフは翌昭和35年1月、訪ソを果たすことなく、94歳で函館に骨を埋めた(田尻さんは、サファイロフが永住帰国を望んだので、帰国が阻まれたと記しているが、上述の新聞によればあくまで交通事故が原因だったらしい)。
 彼の死から3年後、昭和38年9月、彼の教え子でもあった市内中学教師の山田誠二さんが、日ソ協会の使節団の一員としてソ連を訪問することになった(「道新」昭和38年7月22日)。このエッセイ執筆にあたり、山田さんを探して当てて電話で伺ったところ、今から40年前、確かにサファイロフ夫人正子さんから手紙や遺品を預かり、モスクワの娘さん家族を訪ねたとのことだった。あいにく娘さん本人は不在だったので、留守番をしていたお孫さんにそれらを託してきたという。サファイロフの帰国はこうした形で実現したのであった。

 歳月は流れた。現在の湯川地区に、ロシア人集落の跡を留めるものは何一つない。かつて歌人や画家の、そして市民たちの耳目を集めた「低い緑の家」は、今や、私たちの記憶や想像の片隅に残るだけである。

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宮島求「湯の川風景」(昭和8年4月21日付「函館新聞」)

「会報」No.26 2004.9.10

「函館とロシアの交流」を読んで

2012年4月24日 Posted in 会報

前川公美夫

 北海道の歴史に関心を持ってはいても、札幌に暮らしていると、ついつい目は開拓使が置かれて以降のことに向いてしまいがちである。外国との交流についても、お雇い外国人のアメリカ人を主体に眺めてしまってロシアとの交流史に特段の思いを致すことはないのだが、函館では事情は大いに違っているようだ。
 函館日ロ交流史研究会創立10周年記念としての本書を読んだりペリー来航150年を迎えての活動を見聞きしたりすると、函館ではひとりロシアに限らず、アメリカや、フランス、ドイツなど、北海道が諸外国とかかわりを持ち始めたころから濃いつながりがあったという認識が、複数の世紀をまたいだ現在に至るまで、市民に潜在意識として生き続けているのだろうことを感じさせられる。それらの国の代表格としてロシアがあるのだろう。
 ロシアとの交流史の研究では、水産業を軸とした経済面が主流をなすだろう。人、金、物の動きの大本には経済活動があるのだから、その背景をなす外交交渉ともども、研究の本流にあるべきことは当然である。
 鈴木旭会長の巻頭言「創立10周年を迎えて」には、北洋漁業をめぐる経過が、その拠点都市としての函館市の動きを含めて分かりやすくまとめられており、本書の各論を読み進める上で大いに参考になった。菅原繁昭「ロシア(ソ連)極東諸港と函館の海運事情」も、函館が沿海州、サハリン、カムチャツカを結ぶ要の位置にあることを、歴史的経過の中で理解させてくれる。
 清水恵「ロシア革命後、函館に来たロシア人」は函館が道内におけるロシア人居住の中心地であったことをまず示し、うち幾人かの例を引いてその暮らしぶりを紹介している。その内容のうち、ロシア革命後の外交史をめぐり、ソ連から函館に、正式な国交を結ぶ前から査証官が派遣されていたことが示されている。便宜的な措置であったろうが、「北洋出漁」を滞らせずに行っていこうという、両国間にあった経済活動第一の姿勢がうかがえるようだ。
 その一方で、シンポジウム「大正・昭和期に函館に来たロシア人」は、経済面での交流にまして長く心に残るのが人と人とのつながりであることを理解させてくれる。「大正・昭和期」は、函館の対外交流史の中で注目が集まる幕末から明治初期にかけての時代に比べれば歴史としてはまだ新しいと言えるが、そうであったとしても、関係者が健在のうちに聞いておかなければ消え去ってしまう話が多いだろう。今やっておかなければならない仕事であった。
 そうした人たちの1人として招いた女性の来し方を紹介する小山内道子「ガリーナ・アセーエヴァの歩んだ遠い道のりをたどって」は、ズヴェーレフ家の家族とその暮らしぶりを紹介することにより、函館、さらには東京のロシア人社会の様子を描き出している。
 かねて、函館に限らず、当時のロシア人たちのなりわいの中で、故国の食べ物を出す飲食店のほかに衣類の行商というのを目にしたり耳にしたりしたとき、仕入れ先やお得意先はどんなところだったのだろうと、漠然と考えていた。この論考で、その背後には全国的なロシア人の輸入・行商グループがあったらしいこと、そして、ちょうど日本人の衣服が洋服に切り替わる時期に当たって商売は大きな利益を上げることができたことが示されていて、ようやく納得がいったことだった。
 研究者にとって、新たな事実や観点の発掘には心が躍るものがあるだろうし、その高ぶりは読む方にも及んでくる。
 原暉之「ロシアの新聞雑誌記事に見る洋式船亀田丸の事績(1861年)」の、資料4で、亀田丸がニコラエフスクに携えていった日本の商品が全く先方の関心を引かなかったこと、山田伸一「ロシア領事館前の朝鮮人座り込み」では、函館に来ていた人たちが「本州経由ではなく、朝鮮半島の東北部からロシア沿海方面を経て、海路で北海道に至っていることは、朝鮮半島と北海道の間の言わば『日本海北回り』の人の流れを示して」いたことがそうした例である。
 そのほかにもまた、歴史のひとこまとして書き残しておきたい、あるいは語り継いでおきたいテーマにも心が動く。
 桑嶋洋一「もう一つのロシア交流史―ディアナ号の大砲について―」は、1854年に伊豆下田港で津波に遭い、戸田村に向かう途中で沈没したディアナ号由来の大砲に関しての、函館と横浜を結んでの謎解きである。「おわりに」には、「(横浜で出てきたディアナ号の大砲が)昭和35年の発掘以来、今回まで世に明らかにされなかった理由は、横浜市が日露開国交渉と無関係だったからであろう」という嘆きとも言えそうな筆者の思いが記されているが、他面から見ると、こうしたあたりに函館の研究者の腕の振るいどころがあることを示してもいよう。
 また、ところどころ現れる研究者の感想に、新聞社に身を置く者として、己を振り返ったり、共感を覚えたりするところもあった。
 「ロシア極東から函館に避難したロシア人―1922年秋―」で倉田有佳は、ペトロパブロフスクからの避難民が乗った船2隻の間に起こった騒動と、その取り扱いをめぐる函館側の動きを調査し、函館日日新聞、函館毎日新聞、函館新聞に当たって記事の内容を比較しつつ全体像を探っている。
 函館の歴史を調べるうえで、かつて3つの新聞が競っていたことは貴重である。それぞれの記事が内容を補い合い、また矛盾を見せてくれることを手掛かりに、より真実に近付いていくことができるだろうからである。「新聞情報を鵜呑みにしてはならず、他の資料で検証する必要がある」のはもちろんである。
 当時の記者たちがそんなことを思っていたかどうかはともかく、記事は歴史を文字に刻んでいっている。いまその場にある私にとって、自分がかかわっている記事が、後世の研究者に役に立つことがあればという思いは常にある。
 また、「1877年、瀬棚沖におけるロシア軍艦『アレウト号』の遭難をめぐって」で、清水恵がジョン・ウイルの回想録について、「表には出ない裏話は、逆に信ぴょう性を感じさせるものがある」と書いていることには同感するものがある。
 すべてには触れられなかったが、いずれも読み応えのある内容であった。
(北海道新聞文化部長)

「会報」No.26 2004.9.10

Морской сборник(Morskoi sbornik『海事論集』)にみる函館とロシア 1856-1870

2012年4月24日 Posted in 会報

天野尚樹

はじめに
 ロシア海軍省が発行する機関紙『海事論集』には、開港初期の函館(箱館)に来航したロシア人による報告記事が多数掲載されている。主たる投稿者は、軍人と領事館員である。それらの記事は、当時のロシア人による直接の見聞に基づいた函館認識を示す貴重な資料といえる。そこで、幕末から明治初年度にかけての『海事論集』に掲載された函館関連記事から、その特徴的傾向を析出し、開港初期におけるロシア人の函館認識の(部分的)再構成を試みる。

1 貿易に対する関心の薄さ:中国条約港体制の影響
 19世紀後半に出版された太平洋地域におけるロシア貿易についての研究書に、「長崎に次いでロシアにとって重要な日本の港はエソ島にある函館である。......にもかかわらず、これまでのところ、ロシア―函館間に貿易関係はない」(1)と記されているように、国際貿易港として発展した函館におけるロシアの交易活動は非常ににぶい。当該時期における『海事論集』の函館関連記事の圧倒的多数が来航者による航海記録であり、貿易に関する報告がきわめて少ないことが、ロシア人の函館貿易に対する関心の薄さを裏書している。1856年から1870年にかけての『海事論集』掲載記事中、函館貿易についての記事はわずか4本であり(2)、その内容も、「輸出のための主要な産業は魚の干物と昆布である。以前、それらを扱う交易は松前経由でおこなわれていたが、いまでは干物も昆布もエゾ島全域から函館に直接運ばれてきて、ここから英国船で中国へ輸出される」(3)といった程度の、第三者的なそっけないものである。
 函館貿易におけるロシアの影響力の低さの原因は、ロシア中心部からの地理的遠さ、貿易港ウラジオストクの開基(4)などに加えて、中国における条約港への参入の遅れが大きく響いている。1842年の南京条約締結以降、中国は欧米諸国に開港をせまられ、不平等条約体制に基づいた貿易活動が各地で展開されることになった。しかし、中露貿易には、18世紀からつづく陸上交易の長い伝統があり、またそれを理由に、条約港での海洋貿易を中国側はなかなか認めなかった。1858年の天津条約によって、ロシアの条約港貿易への参入が許可されたが、すでに交易開始後10年以上がすぎていた中国条約港貿易にロシアが入り込む余地は少なかった。そこで圧倒的な影響力をほこっていたのはイギリスであり、主力商品である海産物の最有力市場を上海とする函館貿易で当初主導権を握ったのも、必然的にイギリスであった。

2 石炭補給地としての函館:長崎の台頭
 函館に来航するロシア船にとって、そこでの最重要の目的は燃料である石炭の補給であった。1867年には約5200トンの石炭を函館で補給している(5)。しかし、石炭補給地としての函館の重要性も低下していく。理由としてはまず第1に、函館で採掘される石炭の質である。「函館の石炭は、サハリンの石炭に比べるとずいぶんと質が落ちる」(6)「函館でとれる日本の石炭は、煙管が小さく蒸気再熱器(換気機能)のついたロシア船のスチームボイラーには合わない。蒸気が落ちて煙管が絶えずつまってしまうのだ」(7)と乗組員が報告しているように、質自体の良し悪しはともかく、ロシアの蒸気船には不適合なものであった。第2の理由は、上記報告でも触れられているが、サハリンでの石炭開発の進展である。第3の、そして最大の理由は、長崎の高島炭田の開発である。「サハリン石炭にとって最も危険な競争相手は高島(長崎)の石炭である。高島炭田は、イギリスのグラバーが経営しており、函館とも横浜とも距離的に非常に近い。高島(長崎)炭田の発展はかなりのもので、急速に進歩している」(8)。上海に籍をおくイギリスのジャーディン・マジソン商会の支援を受けて1869年に炭層が発掘された日本初の近代的大炭鉱である高島炭田の発展で、ロシア船の石炭補給地は、ウラジオストクの開基ともあいまって、函館から長崎へと移行していった。

おわりに
 ロシアにとっての函館は、函館の重要機能である貿易と石炭補給の意義が弱かったことから、地図上の近接性にもかかわらず、その重要性はさほど高くなかったといえる。もっとも、『海事論集』掲載記事からのみで断定的結論を下すことはできず、ロシア外務省外交文書館(モスクワ)に所蔵される在函館ロシア領事館報告等を利用した、より広範な調査が要求されることはいうまでもない。ただし、管見のかぎり、ロシアによる函館貿易をめぐる資料の数はきわめて少ないことを付言しておく。


(1) K・スカリコフスキー『太平洋におけるロシア貿易』サンクトペテルブルク、1883年、408ページ(露語)。
(2) 「函館における船舶と貿易の動き」(無署名)第46巻、1860年第5号、雑報欄;ナジーモフ「函館」第48巻、1860年第9号、雑報欄;I・マホフ「日本」第67巻、1863年第8号;スタリツキー「スタリツキー大尉の手紙」第94号、1870年第8号、非公式文書欄。
(3) ナジーモフ前掲、143ページ。
(4) 「長崎―ウラジオストク間に定期航路が開設されたので、現在、両港間の貿易は間違いなく発展している」。スカリコフスキー前掲、404ページ。
(5) スタリツキー前掲、23ページ。
(6) マイデリ「プロペラ式クリッパー船『ジギット』号船長・海軍大尉マイデリの報告」第40巻、1859年3号、公式文書欄304ページ。
(7) 「コルヴェット艦『ヴァリャーグ号』の航海について」(無署名)第88巻、1867年1号、海事雑報欄22ページ。)
(8) スタリツキー前掲、25ページ。

「会報」No.25  2004.6.24 2003年度第3回研究会報告要旨(その1)

函館日ロ交流史研究会第3回研究会に参加して

2012年4月24日 Posted in 会報

堀江満智

 2003年8月、私は北海道を訪れて函館日ロ交流史研究会の例会でささやかな発表をさせていただいたことは、心に残る有意義な経験となりました。北海道訪問の前半の目的は、札幌の北海道開拓記念館での北海道北方博物館交流協会主催「アルセニエフ沿海州探検とデルス・ウザーラ」特別展に提供した私の資料の受取りをかねて、同展スタッフの方々にお会いしたことでした。
 特別展の中の「海を渡った日本人」のコーナーで、浦潮の居留民だった堀江一家が遺した生の資料を展示していただいてお役に立てたこと、北方博物館交流協会の方や開拓記念館役員の皆さんから日頃の活動をお聞きし、ロシア、いえ北東アジアとつながりの深い北海道の地にあらためて興味とロマンを感じたことでした。その仕上げが帰途訪れた函館日ロ交流史研究会でした。
 原物資料をお見せできる機会でもあり、明治、大正時代のウラジオストク居留民の典型的事例である祖父、堀江直造の足跡と今後の日ロ交流について、稚拙ながら次のような話をさせていただきました。

 堀江直造(1870―1942)は、京都府舞鶴に生まれ、働いていた大阪の西澤商店が浦潮で食料や日用品の輸入商を始めるのに伴い、店主西澤源次郎と共に1892年に浦潮へ渡った。草深い浦潮にあって刻苦勉励し、西澤商店は当時11軒しかなかった二等商店(ロシア政府による商店のランク付け。一等商店は当時は大会社4軒のみ)となり、直造も日本人倶楽部の幹事になるなど日本人社会の基盤づくりに努めた。
 日露戦争で一旦帰国したが、多くの二等商店がそうであったように、戦後すぐ渡航し、更に商売を発展させた。1907年には浦潮商友会内露語学校創設の寄付をし、1909年に自由港制度が廃止され高い関税が課せられるようになると、自ら浦潮に缶詰素麺製造工場をつくり、アレウツスカヤ街の港に近い場所に居を構えた。そして日本人小学校学務委員や日本人居留民会会頭、商工会副会頭などを務め、また邦字紙『浦潮日報』創設に経営面から協力し、日本人社会の更なる発展を夢みた。
 これは直造に限らず、多くの日本人居留民が日露戦争からロシア革命までは最も活躍し、他民族と共生して近代的市民社会を建設した時期でもあった。その矢先に起こった革命と干渉戦争「シベリア出兵」のため、ご承知のように日本軍の敗退と共に日本人社会は破局を迎えた。
 この間の肉声がきこえてくるような資料は少ないのが現状だが、直造は日記、写真、手紙、絵葉書、電報、ルーブル紙幣、帳簿の切れ端といったものを遺した。公的資料の隙間から見える生身の居留民の暮らしの匂いがするようなものであった。
 商売や日々の生活の記録の他に、特に1918年の日記には「出兵」に際して、日本人居留民会が軍や総領事館とどのように協力したか、「石戸商会事件」等さまざまな出来事を通して書かれている。革命の過渡期の混乱の中、営業と生活を守るために奔走し、またロシアの当時の体制側の人達と交流する中で自然に反革命の側に組み込まれていく様子もわかる。現地住民の声の集約者であると同時に国策の末端の推進者でもあった居留民会の苦悩も少し見える。
 初めは「出兵」に疑問をもっていた日本人居留民も次第に商売人の顔になってゆく。直造ら主な商人が日本軍の兵站を担う「軍事用達社」や「西比利亜商事株式会社」を作り、直造は社長になったが、やがて大損をして1921年に浦潮を引き揚げることになる。侵略的「富国強兵」政策と共にあった日本の近代化の中で多くの日本人居留民が辿った道であった。
 妻、萬代(1876―1944)の明治の日記には草創期の浦潮の暮らし振りが主婦の目線で描かれている。直造と萬代の日記にある多くの固有名詞は日本人社会の主な人々の行動記録でもある。
 子供のなかった直造夫婦は妹の子である正三(1898―1963)を養子にしたが、その正三は浦潮の日本人小学校を出た後、早稲田中学から東京外語ロシヤ語科へ進んだ。ロシア語を専攻したのは直造の跡を継ぐためだけでなく、正三自身もロシアの文学や芸術が好きだったからだ。
 極東ロシアで活躍することを夢みて1919年外語を卒業して浦潮に戻った正三は、カムチャツカに商店を出したりしたが、情勢は厳しく1922年やむなく日本へ引き揚げた。帰国直後の日記には美しいロシア語のページがあり、ロシアの思い出やロシア人女性との恋の顛末が綴られていた。その後はロシア語を生かすことも、ロシアの地を踏むことも二度となかった。
 居留民二世は、ロシアの文化や国民性、生活の中のロシア語を身をもって学んだ世代であり、さまざまなレベルでのロシア理解を深めた者も多く、本来なら日ロの有為な架け橋となる筈であったのだが。
 民衆が個人で渡り自発的に辺境の地を開拓し日ロ交流も育んだが、世界史の流れと国策に翻弄されてすべてを失った。その後の不幸な日ロ(日ソ)関係の中で、そんな史実は殆ど語られることなく70年余りの歳月が流れた。90年代に入って私は何人かの元居留民の子孫の方々と知り合った。ご自身がかつて浦潮に暮らしたことのある方もあり、一様に日本人街に「良いところだった、楽しい暮らしだった」と美しい思い出をもっておられるのだ。それまで私が少し抱いていた負のイメージ、つまり売春婦や女衒、投機的商人や悪徳商人もたくさんうごめく街で、最後は侵略戦争の橋頭堡となったというのとは逆のメルヘンチックな思い出をずっと胸にしまってこられたのだ。建設的な生活と珠玉の想い出、やくざな街とキナ臭い最後、どちらも浦潮の本当の姿であろう。私が知っているのはほんの一部だ。関係者も高齢に、或いは故人になりつつある今日、日ロ協同で新たな事例の発見や総括がなされて、全体像を多面的に後世に伝えられたらと思う。

 あとで参加された会員の皆さんから質問やご意見が出されましたが、ある方が「そんなに発展していた日本人社会が国策によってつぶれた、とだけいわれるがなぜか、もっと詳しい理由や事情があったはずだ」とおっしゃったのが印象に残りました。1919年以降の資料は私の家にはありませんが、引き揚げの迫った浦潮で、明治以来、仕事や生活を共にしたロシア人やその他の人々とはどんな別れがあったのか、国家とは別次元の民衆の心情や行動はどうだったのか、今後のきめ細かい調査を期待したいと思います。
 なんだか釈迦に説法のような話になってしまいましたが、函館日ロ交流史研究会の皆さまと懇親会や夜の函館見物をご一緒できて、何重にも思い出深い旅になりました。
 倉田さんや清水さんなどお世話になっていてもなかなかお目文字の機会のない方々とお話しできたこと(倉田さんとは最後の夜に一献傾けながら)も楽しかったです。
 関西でも「関西日露交流史研究会」というのを1998年に立ち上げて、貴会と似たような雰囲気でやっておりますが、質量共にこちらには及びません。でもこれからも交流させていただければ嬉しく思います。

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堀江満智著『遙かなる浦潮』

「会報」No.25 2004.6.24 2003年度第3回研究会報告要旨(その2)

ガーリャさんの東京・横浜滞在を共にして

2012年4月24日 Posted in 会報

小山内道子

出迎え
 モスクワからのSU583便は2003年12月4日定刻10時55分に成田空港に着いた。2日前の電話連絡が最後だったので、実際に姿を見せるまでは気が気ではない。ところが、ガーリャさんが到着ロビーに現れたのはかなり最後の方で11時40分だった。ともかく「元気で無事到着」にほっとして、2年余ぶりの再会を喜び合った。
 10歳の時日本を離れて60年ぶりに全く違った日本にやって来たのだから、ガーリャ(敬称を略す)の思いはどうだったのだろう。私には、その思いに共鳴するゆとり、気遣いがたりなかったかも知れない。今振り返ると、「ガーリャさん招待」の道のりは結構たいへんだったからともいえよう。日ロ交流史研究会の10周年記念シンポジュウムへの異例の招待がほぼ決まったのが5月、早速電話をかけてまず健康状態を確かめると、問題があったので(白内障だった)、早速の治療をお願いし、次の電話では子ども時代の函館、東京などの生活を隅々まで思い出して、お兄さんたちにも伺っておいてほしい、また、ありったけの写真を探し出してほしいと頼み、追って手紙で、「報告文」作成のお願いと共にたくさんの柱とすべき項目を書き送った。眼の治療が終わった8月初旬にはパスポート申請をしていただき、函館の事務局では清水さんを中心に倉田さんの協力で一番難関のビザ取得のための「招待状」作成にとりかかった。日ロ間では航空券があっても未だに個人が自由に旅行することはできない。私たちの研究会が財政基盤の弱い民間組織であるところが招待者として障壁になるのでは、と懸念されたが、案外すんなり通ったのは嬉しかった。最後に航空券を日本の会社で購入し、ペテルブルグの提携会社で受け取れるように手配して準備が完了したのは11月下旬だった。つまり、たっぷり半年間皆で努力した結果である。
 リムジンバスで品川へ移動し、ホテルへチェックインした後しばし休憩してから遅い昼食をとる。東京ではわずか2日ほどしかないが、まず最初に一番大事な思い出のニコライ堂を訪ねることにした。ガーリャが函館の小学校から転校して学んだプーシキン初等学校は、当時このニコライ堂の敷地内にあったのである。

ニコライ堂(東京復活大聖堂)
 御茶ノ水駅に着いた頃には、冬の日は陰り始めていた。通用門から中へ入れたが、懸念したように大聖堂の扉は開かなかった。教会の事務所に伺って事情を話していると、奥のドアが開いてニコライ司祭が出て来られ、「ペテルブルクからいらしたのですか?特別に開けてさしあげましょう」と案内してくださった。こうして、ガーリャは大聖堂の中でしばし祈りを捧げ、プーシキン学校時代に思いを馳せることができたのである。
 私たちはプーシキン初等学校のあった場所を確かめることにした。正門を出て右に折れてぐるりと大聖堂を回って、正門前の通りと平行に走っている通りに出た。この通りには普通のビルがいくつも建ち並んでいるが、角から二つ目のビルの辺りにプーシキン学校の建物があったそうである。学校の出入り口はこの裏通りにあったことになるが、「幅広い美しい階段」が学校から教会の中庭に設置されていたのである。

銀座
 私たちは大仕事を終えた気分で銀座へ向かった。午後6時過ぎの銀座はたいへんな賑わいだった。人波に揉まれつつ三越まで「銀ぶら」し、くたびれたので、「カフェ・不二屋」に腰をおろす。ガーリャが注文したのは何と「あんみつ」だった。函館時代にお母さんが年に1、2回作ってくれた思い出の味だという。驚いたことに、ガーリャには銀座もお馴染みといってよい場所だったのである。プーシキン学校に居た頃、お父さんが上京すると必ず銀座に連れてきてくれて、文房具を買ってくれたり、レストランで食事をさせてくれたそうである。亡命ロシア人は概して生活レベルが高かったのだろうか...
 8時過ぎに品川に戻った私たちは夕食は軽く済ますことになり、ガーリャの希望でお蕎麦屋さんに入った。そしてガーリャはここでも60余年ぶりの蕎麦つゆにいたく満足したのである。

セント・モア(サン・モール)学院
 2日目は横浜探索の日となった。プーシキン学校の後転校したセント・モア学院とその頃住んでいた家を訪ねたいのである。私は事前に調査できなかったので、横浜市と神奈川県の教育委員会に電話して尋ねてみた。しかし、なかなか分からず、県庁の学事振興課というセクションでようやく兄弟校だったセント・ジョセフ学院の消息が分かり、そこでセント・モア学院の電話番号を教えていただき、横浜へ向かった。
 学校は意外に分かりにくく、ずいぶん歩いてやっとたどり着いた。ガーリャは「セント・モール」と発音するので、聖トマス・モアの名を冠していると思っていたが、現在校名はカタカナでは「サン・モール・インターナショナル・スクール」とフランス語読みになっていた。シスター・カーメル理事長が私たちに会ってくださったが、学院はアイルランドとフランス共同のカトリック系ミッションスクールで、戦後は1948年に再開された。生徒名簿は残念ながら戦前の分は消失したそうである。最近の名簿からロシア人らしい名前を2、3拾い上げてくださったが、全く馴染みのないものだった。ガーリャの時代との一番大きな違いは、学校が現在男女共学なっていることで、幼稚園を有する1年から12年までの一貫校で多様な国籍の生徒が集まっているが、日本人は「帰国子女」が多いそうである。カーメル理事長は校内も隈無く丁寧に案内してくださった。ガーリャはとても満足し、得意げな様子だった。数年前サンフランシスコからカーチャ・パンチューヒナ(注)が横浜を訪れて、やはりセント・モア学院を捜したが、見つけられずに帰ったと聞いていたからである。

鷺山とイリイン家
 次にガーリャたちが住んでいた「鷺山の家」を捜すことにした。学校を出ると、昔ガーリャたちが歩いて通学した道をたどることになったが、ガーリャの記憶が不確かな上、周囲の様子も変化しているので、雲をつかむような感じだった。大分歩いて、何とか高台の「鷺山」にたどり着いたが、岡の上はかなり広くて細い道が何本か通っている。何軒か「この家だと思う」という場所立ったが、確定できない。向かいにイリイン家があれば間違いないということになり、向かいの階段を上ってみた。そして奇蹟が起こったのである。私たちの後から上がってきた女性に尋ねると、その方がイリイン家の長男ヴィターリさん(故人)の2番目の奥様であることが分かり、ガーリャたちの家も確認できたのである。奥様は私たちを招じ入れてもてなして下さり、イリイン家の様々な物語を語ってくださった。ガーリャは天国のパパが引き合わせてくれたと感動しきりだったが、私にとっても感銘深い横浜の1日となった。
 3日目は「来日ロシア人研究会」で報告と交流の1日を過ごし、4日目は清水・倉田さんが合流して午前中皇居周辺を散策し、午後いよいよ函館へと旅立ったのである。

注)カーチャ・パンチューヒナは、戦前釧路で洋服屋をやっていたパンチューヒンさんの娘さん。ガーリャの姉ターニャの同級生でプーシキン初等学校で学んでいた。戦後アメリカに移住したが、1997年ペテルブルグを訪れ、皆に再会した。現在の姓はドウダーエフ。

「会報」No.25 2004.6.24

石川政治「ソ連捕虜通信」から

2012年4月24日 Posted in 会報

倉田有佳

 函館に居住して丸3年が経つが、市立函館図書館所蔵資料は膨大であり、ロシア関係資料に限ってもほんの一部を閲覧したに過ぎない。今回ご紹介する「ソ連捕虜通信」は、市史編さん室にさりげなく置かれていた市立函館図書館図書目録の索引をぱらぱらめくっていた時、そのタイトルが眼に飛び込んできたもので、まったくの偶然から閲覧することになった。
 これは、美しい赤色の表紙をした24頁から成る豆本(7㎝×5㎝)で、タバコ用にと現地の子供からもらった紙が帯として使われている。捕虜通信という名前から、質の悪い新聞紙に印刷されたものを想像していただけに、愛らしい豆本が油紙に大切に包まれて出てきたのにはたいへん驚かされた。
 さて、捕虜通信の基になっているのは、捕虜用郵便葉書で、平壌第47部隊で終戦となり、シベリアに捕虜として抑留された石川政治氏が、昭和22年夏以降過ごしたボルガ川上流のカマ川のほとりにあるエラブガ(ソルジェニーツィン著「ガン病棟」の舞台でもある)の第97収容所から函館に住む両親に宛てたものである。この5つの通信を、10年後の昭和30年12月、「ソ連から引揚船大成丸 舞鶴入港のラジオニュースをききつつ」、ガリ版刷りで再構成したものが「ソ連捕虜通信」で、奥付によると発行日は翌昭和31年4月29日である。
 内容は、ラーゲリ(収容所)での生活状況、ラーゲリで迎えた正月の食事や娯楽、物価、帰国状況などが詳しく書かれている。
 帰国後、石川氏自身が分析しているように、葉書はおよそ4~5ヶ月かかって父母の元に届いた。葉書をよく見てみると、この郵便物がウラジオストクの郵便局経由で日本に送られたことがわかる。ソ連全土から、様々な思いを乗せてシベリア抑留者の故郷の肉親に宛てられた捕虜通信の集積所が、ウラジオストクの鉄道駅と道路を挟んで向かい側に建っているあの郵便局であったとは何とも感慨深い。
 ところで、著者の石川政治氏は、大正12年に埼玉県で生まれ、現在の北海道大学水産学部の前身である函館高等水産学校を卒業し、北海道庁経済部水産課に勤務して間もなく、平壌で入隊、終戦後ソ連に抑留され、昭和23年8月に帰還した。帰還後、市立函館博物館に勤務し、昭和44年に3代目館長となった。
 「ソ連捕虜通信」は、70部刊行されたが、昭和31年5月8日付『北海道新聞』によると、かつてエラブガ収容所で労苦をともにした人々のグループ「エラ草会」の会員たちに配布したところ、当時の思い出を伝える小冊子として非常に喜ばれたそうである。
 この資料を補足する形で紹介したいのが、平成7年に石川氏が亡くなられた後、現在埼玉県にお住まいの夫人が回想録をまとめ、7回忌に当たる平成13年に発行された『ヒザラ貝の涙雫―石川政治回想録―』(非売品)である。
 先の捕虜通信は、「悲惨な食生活やひどい真相も書きたかったが、さしひかえて出した」ものだったが、帰還後、シベリアでの収容所生活について回想録をまとめている。散逸したものも少なくないようだが、現存するものは『ヒザラ貝の涙雫』に収められている。テーマは44項目に上り、うち10項目は食べ物と関連していたことからも、ラーゲリの厳しい生活環境が偲ばれる。
 また、『ヒザラ貝の涙雫』の巻頭には、昭和31年4月27日に五稜郭公園で戦友会が開かれた時の案内状、抑留中に描いたという絵6点、収容所での唯一の娯楽で日曜日は朝から晩までやっていたというマージャンのパイ、捕虜用郵便葉書のオリジナル、そしてソ連から帰還の際に持ち帰ったという黒パンが写真で紹介されているため、「ソ連捕虜通信」と併せて見てみると、一層興味深い。

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捕虜通信より

「会報」No.25 2004.6.24 市立函館図書館所蔵資料紹介

サハリン島の漁業をめぐるロシア政府(プリアムール総督府)の対応

2012年4月24日 Posted in 会報

神長英輔

1.報告の目的と方法
 私は目下、「北洋漁業」の起源を解明する作業をすすめている。今回の報告は「露領漁業」の初期、19世紀末から20世紀初頭を対象としている。この報告は、この時期におこったさまざまな変化のうち、プリアムール総督府による一連の規制策の動向を日本からの出漁規模の拡大という事態と関連づけて理解する試みである。
 具体的な論点は二つある。まず、ひとつめは政策担当者が状況の急激な変化にどう対応したか、という点、もうひとつは政策の地域差である。ここではこれらの点を中心に総督府の漁業規制の論理を読み解く。

2.1880年代後半から1890年代前半までの漁業政策
2.1.1890年前後までの振興策
 この時期の政策担当者はプリアムール総督府管内の漁業を発展途上と見なしていた。具体的には、まず、良質で安価の塩の供給が重要とされた。また、新しい漁場の開拓を促すため、徴税は漁獲物の量を基準に賦課する方法がよいとされた。基本的にはロシア人漁業者を優先する方針が明らかにされたが、その方針は外国人を排除することを意図したものではなかった。

2.2.1890年代前半の振興策
 1890年代前半、事情はやや変化する。この時期、ニコラエフスクを中心地とするアムール川下流域には日本人の漁業者が現れて、操業や買漁などをおこなうようになった。また、軍務知事の正式な許可のもとで沿海州の各地で日本人の漁業が始まったのもこの時期とみられる。
 こうした現状をふまえ、起業したてのロシア人漁業者たちは日本人との競合を意識した主張を展開するようになった。税制面での優遇や、雇用義務や買い上げ義務の廃止がその例である。
 一方で総督府は管内の漁業の総合的な発展を指向していた。総督府は塩の供給の円滑化、漁業移民の誘致、専門家の招請といった政策に加え、外国人(日本人)の誘致による新規漁場の開発の試みなどを政策の柱に据えた。
 また、サハリン島においては、こうした漁業による地域の開発を囚人の民生向上策と絡めて実施しようとした。
 この時期、総督府の政策に外国人、特に日本人漁業者の活動を警戒している様子はあまりなかった。

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サハリン島の日本人漁業者と在コルサコフ領事一家
(樺太定置漁業水産組合編『樺太と漁業』より)

3.1890年代後半から日露戦争直前までの漁業政策
3.1.1890年代後半
 1890年代後半、ロシア極東各地の沿岸をめざす日本人漁業者の数はさらに増えた。1890年頃には日本人漁業者がほとんどいなかったニコラエフスク周辺も、1898年頃の夏季には1000から2000人の漁業者が訪れるようになっていた。
 この時期、総督は各地でロシア人漁業者の起業が相次ぎ、遠隔地への輸出も構想されている現状をふまえ、管内の漁業の将来については楽観的な見方を示した。一方で日本人を中心とする外国人が各地で操業している実態も把握しており、漁区の長期貸与には消極的な姿勢をとった。
 ここには、原則としてロシア人漁業者を優先する、という方向性がすでにみえつつある。その一方で、この時期の総督府の政策には強制的な外国人排除の姿勢がうかがえないし、ロシア人を一律に優遇することにも二の足を踏んでいた様子がある。総督府の態度は、名義貸しを防ぐためにも漁業の発展のためにも、ある程度の競争に耐えうるロシア人漁業者の出現を期待する、というものだった。一方、新規の漁場を開発するために外国人の力を借りるという政策はすでに撤回されていた。総督府の漁業規制策は転機を迎えつつあった。

3.2.政策転換
 1899年からの数年で総督府の漁業政策は大きく転換する。
 日露戦争直前の1903年に刊行されたプリアムール国有財産局の報告書は、管内の漁業振興の基本方針は「国民化」にあるとした。これは、外国人に代えてロシア人漁業者による漁業の発展をめざす政策である。この報告書は、すでにある程度の漁業の発展が達成された以上、外国人漁業者の役割は終わったとも述べた。
 同年に開かれた第四回目の代表者会議の報告書でも当面の漁業政策の課題は「国民化」にあるとされた。日露戦争直前、「国民化」は管内の漁業振興において揺るぎない最優先の課題とされていた。
 1880年代から「国民化」は管内の漁業振興における主要な目的のひとつだった。しかし、1890年代末までは、それが総合的な開発や国庫収入の増大といった目的よりも優先される課題ではなかった。そうした意味では1890年代末に大きな転換があったといえる。
 ただ、この時点で早くも管内一律の「国民化」政策は挫折していた。サハリン島においては日本政府の反発に妥協して、規制策の施行が延期されていたし、監視が行き届かないカムチャッカ半島では密漁が相次いでいた。「国民化」政策は限られた条件の中でしか成立しなかった。各地方においてはそれが自覚されつつあったが、それが具体的な政策に反映されないまま、ロシア極東は日露戦争を迎えることになった。

4.結論
 この時期、一連の規制策によって活動が規制されたにも関わらず、日本からの出漁の規模は拡大を続け、輸入量も増大した。これは一見して逆説的である。
 しかし、以上の内容をふまえれば、この「逆説」は初めから矛盾した論理にみえる。そもそも、日本人漁業者に対する規制策の多くは日本市場への依存度が高い地域で施行が延期されたため、ロシアによる規制が一概に強化されていったとはいえない。また、規制の効果も地域によっては限定的であり、名義借りや密漁が相次いだことはむしろ真の効果だった。実際、アムール川下流での禁漁の後にカムチャッカでの密漁が激増したという。さらに「国民化」を最優先する選択は最初から決まっていたわけではない。上述の通り、日本人漁業者を誘致する試みもあった。
 したがって、ロシア側が一貫して日本人漁業者の排除をめざしてきた、という見解は誤っている。
 これは対立が存在しなかった、ということではない。各地で日本人とロシア人の漁業者の対立は相次いでいたのは事実である。ここで主張したいのは、そうした個別的な事例の積み重ねがそのまま単純に政策に反映されたわけではない、ということである。

「会報」No.24 2003.10.1 2003年度第2回研究会報告要旨(その1)

ゴシケーヴィチ記念学会取材より

2012年4月24日 Posted in 会報

権平恒志

 私はNHK函館放送局の記者で、今回、ベラルーシの第2回ゴシケーヴィチ記念学会(The Second International Historical and Literary Reading Dedicated to Iosif Gashkievich, a Prominent Scholar, Writer, Traveler and the First Consul of Russia in Japan, a Native of Belarus)の会議で高田嘉七さんに同行して取材をした。
 この学会は去年の10月にあったが、1回目は1995年5月にオストロベツで開催された。ベラルーシのペンセンター総裁で国際ベラルーシ研究者連盟の会長、アダム・マリジス教授が主催したものである。彼の話ではソ連崩壊後、ベラルーシが一つの国としてやっていくにはベラルーシの歴史を再評価しなければならない、それにあわせてベラルーシ出身の歴史的人物あるいは詩人、学者や作家など色々な人を再評価しようということだった。その一環で、今回はゴシケーヴィチを通じて日本との関係を深く考えようと開かれた会議であった。
 日本からは高田さんのほか東大名誉教授佐藤純一先生が、長くベラルーシの研究に携わっているということで招待されていた。
 ベラルーシでの取材は3日間の滞在で、首都ミンスク(人口170万人)とオストロベツに行った。学会は2日間、3つのセッションで行われ、1日目の第1セッションは「ゴシケーヴィチの生涯と業績、その学問的遺産」、午後には第2セッション「ベラルーシ、ロシア、日本―社会・文化的交流」と題して行われた。翌日にオストロベツに行って、「ゴシケーヴィチとオストロベツの郷土史」という第3セッションが持たれた。
 報告者は41名だったが、それ以外にも大学で歴史を勉強している学生等が参考ということで自分の論文を発表したり、詩の朗読をしたりと、総勢では50人ほどが報告をした。大勢のゴシケーヴィチ研究者がいるので驚いたが、ベラルーシだけではなく、日本、アメリカ、リトアニアのビリニュス、ポーランドのワルシャワからも研究者が来ていた。
 報告について紹介しよう。最初に佐藤先生が報告をされたが、1857年にゴシケーヴィチの編集でペテルブルクで刊行された「和魯通言比考」の共同執筆者橘耕斎について、ロシアにある資料をもとに話をされた。
 その他、ミンスクで出版社をやっているイワン・ソロメヴィチ氏が、ロシアの作家ヴィターリー・グザーノフの書いた『白ロシアのオデッセイ』をベラルーシ語に翻訳したことについて述べた。ゴシケーヴィチがいかにベラルーシにとって重要であるかという思いを強くし、さらに研究を深めたいということであった。
 ミンスクの歴史学者(聖スカリナ啓蒙センター)リディア・クラジャンカ氏は「日本におけるゴシケーヴィチのキリスト教のミッション」という報告をし、ブレスト在住の歴史学者アレクサンドル・イリイン氏は「ゴシケーヴィチの仲間であるフィラレート修道士の謎について」という報告をした。これは日本に滞在したことがあり、後にブレスト女子修道院院長になったフィラレート修道士がパーヴェル大公とエカテリーナ二世の間に生まれた私生児ではないかという変わった推察であった。それに対しては会場から反論や多くの意見が出ていた。
 ミンスクのベラルーシ国立大学学生のオリガ・ザハレンコ氏は「ゴシケーヴィチの日本と中国における研究活動」について報告をした。それからミンスクの昆虫学者イーゴリ・ロパーチン氏の「ゴシケーヴィチの昆虫研究」は、短い報告だったが、会場の関心を呼んだ。ゴシケーヴィチの発見による標本を実際に持って来て、ゴシケーヴィチの学名がついていることを紹介していた。
 高田嘉七さんはゴシケーヴィチと高田屋嘉兵衛の意外な関係についてを報告された。高田屋の支配下にあるエトロフで働いていた父を持つ横山松三郎がニコライ神父と親交を深めたこと、またゴシケーヴィチの昆虫研究を助けて昆虫の絵を描き、その後ゴシケーヴィチに写真術を教わって写真家になり、日本人初の航空写真を撮ったことなどが紹介された。
 ほかにグロードノの歴史学者ドミトーリイ・ゲンケーヴィチ氏が、1872年ゴシケーヴィチが晩年を過ごしたマリ村で生まれた息子ヨシフ・ヨシフォヴィチ・ゴシケーヴィチの学術活動を報告した。
 第二セッションでは、ベラルーシ国立大学で日本語教師をしている古澤晃氏の報告があった。ベラルーシで初めて日本語教育が行われたのは、1993年ミンスク国立言語大学で、現在通訳学部東洋語学科で10人、ベラルーシ国立大学国際関係学部東洋語学科でおよそ20人が日本語を学んでいるとのことであった。
 私がおもしろかったのは、ペテルブルクの大学助教授ヴァレンチン・グリツケーヴィチ氏による、ベラルーシと日本の関係において、ルーセリという名前で知られているニコライ・スジロフスキーの生涯についての報告である。彼は20世紀の初頭日本に来て新聞や本を発行したり、極東に関する論文を書いたという興味深い人である。
 アンドレイ・ソコロフというペテルブルクの歴史学者はアイヌ民族の研究者ブラニスワフ・ピウスツキーの報告をした。
 ところで、ミンスクの市民にゴシケーヴィチに知っているか、街頭で10人に尋ねたところ、誰も知っている人はいなかった。学校でも学んだ記憶がないといっている。日本について、という問いには、好意的な印象を持っているが、多くは詳しく知らないということだった。ヨーロッパをむいているので、あまりアジアに関心はないという。
 2日目、朝にミンスク市内のペトロパブロフスカヤ教会でゴシケーヴィチのパニヒダが執り行われた。今回の学会にあわせて開いたということである。その後、昼から第3セッションとしてオストロベツにむかった。ミンスクから北西へ車で2時間ぐらい、リトアニア国境に近いところにある。色々な報告の中でさかんに、ベラルーシとリトアニアとの関係が深いことが指摘されていた。オストロベツの住人はスラブ系のバルト人だということである。この町にはゴシケーヴィチの胸像があって、大人も子どももみんなゴシケーヴィチを知っている。彼について尋ねると日本、函館で働いたベラルーシが誇る偉大な人という答えが返ってくる。オストロベツのウダガイにある学校では8年生から9年生が、近代史の授業で、ゴシケーヴィチについて詳しく学んでいる。教科書には5年前から彼についての項目が登場した。学校の一階には2年前に郷土資料室が設けられ、ゴシケーヴィチの肖像や日本人研究者から寄贈された絵などが展示されていた。なおバスで移動して、ゴシケーヴィチが晩年を過ごしたマリ村に行ったが、郷土歴史資料館が建設されて、日本の外務省の協力を得て資料等が集められている。今後日本との交流を深めたいと望んでいるそうだ。
 オストロベツというこんなに遠いところで、函館の名前を聞いて、率直にうれしかったし、ゴシケーヴィチは日本でももっと光が当てられるべきだと感じた。そしてここからまた交流が生まれていけばと感じた。
 なお最後にマリジス教授が報告で、2年に1度ぐらいこの研究会を開きたいし、日本でも開催したいと言っていた。

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(2003.7.19報告より―文責:清水)

「会報」No.24 2003.10.1 2003年度第2回研究会報告要旨(その2)

満州国建国宣言とユーラシア主義 ―ルスナクさんの報告「ハルビンの白系ロシア人」に寄せて―

2012年4月24日 Posted in 会報

米重文樹

 2002年4月6日付の本会報No.20に掲載の「ハルビンの白系ロシア人」と題する報告を最近になって偶然読む機会を得た。その中に私の名前に言及した箇所があって、一読して納得のいかない点があったので、以下若干のコメントを記すことにする。問題の箇所は次の通りである。
 東京大学の米重文樹教授は、ユーラシア主義者の思想は、1932年の「満州国建国宣言」にも影響を与えていると考えている。また、米重教授は、五族協和の協力の上に創られた平等な国家という思想は、当時の多くの日本人の目に非常に魅力的なものに映ったに違いないと述べている。
 後半部分はさておき、問題は「東京大学の米重文樹教授は、ユーラシア主義者の思想は、1932年の満州国建国宣言にも影響を与えていると考えている」となっている点である。
 ルスナクさんのこの判断が1997年に私の書いた論文「極東におけるユーラシア主義」(露文)に依拠としたものであることはすぐに分かったが、私自身はその論文の中で「ユーラシア主義者の思想が1932年の満州国建国宣言に影響を与えた」とは一言も述べていないし、それを匂わすようなことも一切書いていない。おそらくルスナクさんは、私が拙論の中で「満州国建国宣言」の骨子のひとつをなす五族協和に触れた直前の節で、「満州国建国宣言」と同じ年の1932年パリで出された「ユーラシア主義宣言」の日本語訳の存在を紹介していることから、「米重教授は影響関係があったと見ている」と判断されたのであろう。ちなみに、この日本語訳(正確には翻案)の筆者嶋野三郎は当時満鉄の調査部に所属、1931年から1933年にかけてパリの満鉄欧州事務所にあって、ソ連事情調査のため欧州各地にでかけるという多忙な日々を送っていた。「ユーラシア主義宣言」はその中で嶋野が出会った本のなかの一冊であるが、その日本語訳が「日満共福主義」と題して雑誌『大亜細亜』に二回に分けて掲載されたのは、彼が帰国した年の1933年のことである。いずれにせよ、満州国建国宣言にユーラシア主義思想が影響を与えたという具体的な事実関係および介在者の存在については今のところ確証はない。ただ、拙論でも記したが、「ユーラシア主義の著作を翻訳するための相当な予算が満鉄の特別な課で組まれた」と いうことを当時ハルビンにいたロシア人ジャーナリストV.N.イワノフが1926年の時点で書き残している。しかも、その翻訳は「限られた範囲の人たちのための限られた部数」を予定したものであったという。この翻訳作業が実行に移された確証もこれまた今のところ見つかっていないが、その可能性は完全に捨て去ることはできない。なお、嶋野三郎が「ユーラシア宣言」を翻案のかたちで題名も変えて満州国建国の翌年に訳出した意図については、私なりの判断を拙論の上掲箇所の直後に段落を改めて記したつもりである(以下はロシア語原文からの日本語訳)。
 「(ユーラシア)宣言」の翻訳である嶋野の論文は、一方において「新国家」満州国における、他方において共産ロシアにおける、「単一尺度への平準化」政策に対する鋭い批判であった。
 最後に、ルスナクさんの報告の中で満州におけるユーラシア主義思想の受容者として、嶋野三郎の他に、本間七郎、中野の名が挙げてあるが、いずれも拙論の前半で私が扱った人たちで、報告はそれを転用したものである。その際報告者が「中野氏」としている人物は「中根」の誤りで、拙論ではロシア文字綴りで《Наканэ Рэндзи》と明記してあるだけに、誠に残念である。「中根錬二」は1937年ハルビン学院を卒業後、協和会を経て母校で教鞭を執る傍らロシア史(特に東洋との関係)の研究に従事、『哈爾濱学院論叢』(第3号、1943年)にユーラシア主義を代表する歴史学者サヴィツキーの「ロシア史に関する地政学的覚書」(1928年、プラハ)の翻訳ならびにユーラシア主義についてのすぐれた解説を発表した。1943年ハルビン学院より東京帝国大学文学部に研究生として派遣されたが、ほどなく学徒出陣で出征、翌年の1944年秋フィリピンにて戦死した。
 蛇足であるが、拙論「極東におけるユーラシア主義」(露文)については、日本スラブ東欧学会発行の欧文誌Japanese Slavic and East European Studies(vol.18,1997)を、また嶋野三郎については「精神の旅人―嶋野三郎(1)~(17)」(『窓』92号~110号、ナウカ、1995-1999)を、それぞれ参照されたい。
(2003年7月13日記)

*編集より
 ルスナクさんの報告「ハルビンの白系ロシア人」は、原稿を事前に入手できなかったことから、通訳者が同時通訳し、それを後日倉田がテープおこしし、とりまとめました。
 米重教授のコメントの中で、文頭の、「東京大学の米重文樹教授は、ユーラシア主義者の思想は、1932年の「満州国建国宣言」にも影響を与えていると考えている。」という点については、ルスナクさんの発言がテープからは聞き取り難いこともあり、通訳者の訳に基づきました。折をみて、ルスナクさんに確認したいと思います。
 2点目の、「中根錬二」を「中野」と間違えているというご指摘について。テープを注意深く聞き直してみましたところ、1回目の引用では「ナカノ」とも聞こえるのですが、2回目の引用では、確かに「ナカネ」と発音していたことが確認できました。ここに訂正しお詫び申し上げます。(倉田)

「会報」No.24 2003.10.1 特別寄稿

厨川勇氏の生涯と業績 ―ご逝去を悼んで―

2012年4月24日 Posted in 会報

小山内道子

突然の訃報とご葬儀
 厨川勇氏が亡くなられた。享年98歳だった。今年4月7日のことである。4月9日の『北海道新聞』に訃報と葬儀を知らせる公告が掲載された。全く予期していなかったご逝去である。今年お出しした年賀状には昨年同様1月下旬にお元気なご挨拶状を頂いていたし、2月27日のお誕生日にも昨年同様お花をお送りし、同居しておられるご長女の阿部恭さんから近影を伝えるお写真を頂いていたからである。是非近々上札の折にお訪ねしようと考えていた矢先だった。前日東京から戻ったばかりで新聞を見たのが午後だったことと、その日は既に断れない予定があったなどで葬儀列席は諦めることになった。厨川先生には是非お別れがしたかったが、もうお話の出来る先生にはお目にかかれないのだ。結局弔電を間に合わせ、翌日恭さんにお悔やみのお手紙と香料をお送りした。
 釧路ハリストス正教会発行の『道東教会報』5月号にピアニストで教会聖歌隊のリーダー役を務める(そのため厨川氏とは聖歌研修会などでご一緒する機会もあった)笠原茂子氏の「厨川神父永眠す」の追悼文が掲載された。以下、その中から紹介させて頂く。まず厨川神父とのご縁を〈笠原家はもともと函館教会所属でしたので、主人の曾祖母、祖母、大叔母達の埋葬式の時厨川神父様のお世話になり、また主人が小学校の時、堂役としてお仕えしたと聞いております〉と認めておられる。
 〈葬儀は4月9日午後6時に前晩梼パニヒダ、10日午前8時に聖体礼儀及び午前10時から埋葬式をセラフィム主教様の司梼、3人の神父・輔祭様(名前は割愛)の陪梼で司祭埋葬式が聖堂をうめ尽くすたくさんの参梼者に見守られながら厳格に執り行われました。
 埋葬式は3時間に及ぶご祈祷で、主教様と3人の神父様達によって四福音書が交代で長く読まれました。〉
 以上のように、葬儀は20年間函館教会の司祭を勤められた神品としてのもので、格式ある荘厳のものだったことがうかがわれる。

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福住のアパートで(1998年6月)

厨川先生との出会い
 厨川先生の約1世紀にわたる長いご生涯の内私がおつき合いさせていただいたのは、最晩年1998年93歳からの5年に満たないわずかな期間だけである。
 その頃私は「戦前の札幌における白系ロシア人の足跡」を調べていて、資料に散見される記録だけでなく、直にロシア人と交流のあった方々を捜し求めていた。1920年代後半から1945年の戦争終結までの期間釧路市でさえ10数人の白系ロシア人が住んでいたのだから札幌市にも、と予測を立てたが手がかりをつかむことが出来ずにいた。
 一番頼りになると思われた『札幌正教会百年史』には、わずかに1行シャルフェーエフ氏に言及した箇所があるだけで、意外にも信徒としての白系ロシア人集団についての記述は一切ないのである。ただ、この『教会史』によって厨川先生が1930年代からは札幌に住んでおられ、札幌教会の中心的な働き手であられたことが分かった。そこで、改めて1994年出版の『函館ガンガン寺物語』と北海道新聞に1995年1月、10回にわたって掲載された「私のなかの歴史」を読み返してみた。そして先生にお手紙を書いたのである。〈、、、先生のご本には、また新聞掲載の「歴史」にも現代のロシア人は殆ど登場しておりません。そこで先生が函館や札幌で直接間接におつき合いのあったロシア人について語っていただけないでしょうか。〉とインタビューさせていただくことをお願いしたのだった。
 2ヶ月ほども経ったある朝、突然先生からお電話があった。朗々たる元気なお声にまず驚いてしまう。しばらく入院されておられた由。早速お伺いする日時の打ち合わせをする。そして、数日後のお昼前札幌教会に近い福住のアパートを訪ねる。先生にはちゃんと計画がおありのよう外出の身支度をして待っておられた。初対面の挨拶などしばらくお話をしてから、タクシーでまず古い信徒で隣同士の親しいおつき合いもあったという窪田さんを藻岩山麓のマンションに訪ねる。戦前お姉さんが嫁いでいた釧路にしばらく滞在し、教会ではベロノゴフさんなどいろんなロシア人とおつき合いがあったというお話などをうかがう。ここで立派なお昼をご馳走になり、3時頃北東部の清田まで取って返し、やはり古い信徒の太田家にお邪魔する。太田家は夫人のお母さんである田村芳さんの父・田村末吉さんが、函館から移り住んだ札幌で最も古い信徒で、白系ロシア人を下宿させ、面倒を見ていたというユニークでたいへん興味深い方だった。この家族は『函館ガンガン寺物語』にも登場する。ここでも話が弾み、合間には先生ご自身の思い出も語られて、時間はかなり経過した。勧められるままに夕飯をご馳走になり、先生のアパートに戻ったのは、日もとっぷり暮れてからだった。次は函館の義姉97歳の石井ワサさんを訪ねましょう、という申し合わせをして、お暇した。とても長い1日だったが、いきいきと座談をリードされる語り口と人格からかもし出されるゆったりしたムードは、93歳というお年を感じさせず楽しいデートの思い出となった。
 先生のお考えでは、1920年代に増加した函館のロシア人は三つの系統に分けることが出来る(一部は革命前からも住んでいた)。一つは、カラリョフのようにちゃんとした会社に勤めたり、自ら会社を経営していた人たち。二つ目は、ラシャの行商をしたり、パンや菓子を売る小さな店やカフェをやるなど市内で何とか生計を立てている人たち。三番目は湯の川、団助沢の荒れ地を開墾し、農業に依存していた旧教徒や貧しい人たちである。1925年頃は100人以上はいたはずで、復活祭などには教会に何十人ものロシア人が集まっていたそうである。ただ先生ご自身は日常的にはカラリョフ家の息子たちと遊ぶくらいで、他のロシア人とは交渉はなかったのである。
 太田さん宅は、その後も独自に何回かお邪魔して、その成果は来日ロシア人研究会で「札幌における1930年代のロシア人模様」として報告し、また、北海道新聞文化欄に「札幌における白系ロシア人の足跡」として紹介させていただいた。
 因に、この頃の先生は手代木俊一氏監修による『明治期讃美歌・聖歌集成』(大空社)のハリストス正教会編執筆を担当しておられ、生き生きと仕事に励まれておられた。最近になって、先生のお名前も入ったこの立派な著作を見せていただいた。これも先生が残された大きなお仕事の一つなのである。

ベラルーシ政府の表彰と『函館ガンガン寺物語』
 心残りなことに函館を訪問するという2回目のデートは成立せず終いとなった。秋頃にでもという約束は、私が9月後半モスクワに出かけたこともあり、釧路―札幌―函館往復旅行はちょっと荷が重い感じで、その年はなかなか具体的に提案できないままとなってしまったのである。そして1999年には2月にずっと入院しておられた奥様が亡くなられ、先生も何度か入退院を繰り返されておられたため、一人暮らしを禁止されてご長女宅に引き取られたのだった。その間2、3回はお電話でお話したものの、最早「お見舞い」という感じの訪問しかなくなっていた。
 この年には先生にとって晴れがましく嬉しいこともあった。厨川氏が最も心酔している初代ロシア領事ゴシケヴィッチの妻エリザヴェータの遺骨を特定して埋葬、墓石を建て守ってきたことに対しベラルーシ政府と在日ベラルーシ大使館から感謝状を贈られたことである。授与の日にはクラフチェンコ大使自ら江別のお宅まで足を運ばれた。先生は20年ぶりに司祭服に身を包み、精魂込めて『函館ガンガン寺物語』に再現した遥かなる140年前の函館に思いを馳せつつ、歴史の恩返しとも言うべき賞状と記念品を受けたのだった。
 私が先生に最後にお会いしたのは2001年の春で、あの闊達さは失われていたものの、まだ函館やロシア人の話を2時間ほどもおつき合いくださった。残念なことに、予定されていた『函館ハイカラ物語』の執筆開始には至っていなかった。
 ご逝去後の6月末お邪魔して、恭さんから思い出や最後の日々のお話を伺った。恭さん宅での約4年間一度も病気もせずに過ごされ、寝込まれたのは死の1週間前からだった。風邪の症状が出て往診していただき、肺炎の診断だったが、穏やかな経過で亡くなられたのである。死の前日の午後、「恭、オレは明日死ぬからな」とおっしゃったという。
 恭さんの思い出。〈子どもの頃は父を変わった人だと思った。浅草オペラの田谷力三に憧れていた父は、歌詞を書いた紙を壁に貼り、ハモニカを吹き、そろばんを鳴らし、お菓子の缶を足で蹴りながら、3人の娘に歌を歌わせていた。学生時代は陸上をやり、短距離の選手。水泳は小さい頃からずっとやっていて、「土左衛門を助けて死にそうになった」こともあるし、スキーも得意で横津岳で滑っていて、片方のスキーをなくした友人に片方を貸して、自分は死ぬ思いをしたなどの逸話も多い。ここに来てから、私に「お前は常識的だなぁ。そんな常識的な生き方でお前は面白いか」と言われてしまった、などなど〉
 先生は戦前函館大谷高女の教員になり、8年間数学、美術、音楽を担当され、1934年の大火以後は札幌に転去して会社経営に参加された。1960年函館教会の司祭になられた後、函館有斗高の非常勤講師を約20年勤められ、数学、工業英語、倫理社会、美術を担当、合唱指導もされている。とにかく多彩な才能に恵まれ、好奇心旺盛で活動的なアイデアマンでもあられたと思う。だからこそ、あの素晴らしい『函館ガンガン寺物語』の筆力が生まれたのではなかろうか。江戸時代末から筆を起こしているが、叙述がとてもヴィヴィットである。著者がまるでその頃その場に居合わせて経験しているようである。この著書は函館の歴史を語る大いなる遺産として著者厨川勇氏の名と共に特に函館市において記念されるべきではなかろうか。
 この著書では教会が中心に据えられているので、世俗の文化史をカバーしなければ、というのが先生の願いだった。書き残されたものはないが、既に先生の頭の中には構想が形作られていたようにおもわれる。私が断片的に伺った中に、岡田氏による私設の函館図書館誕生物語があったし、ダンスホールや写真屋のお話もあったように思う。この稿を終えるに当たって、『函館ガンガン寺物語』と対をなす『函館ハイカラ物語』の執筆者が出現することを切に願い、期待したいと思う。
(司祭であられた厨川先生の追悼文としては、あまりにに一面的であるのかも知れませんが、教会以外のお仕事について私なりにまとめさせていただきました。先生のご長女阿部恭様にはいろいろお世話になりました。記して感謝いたします。)

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ベラルーシ大使館から感謝状を授与される

「会報」No.24 2003.10.1

新発見の「重建永寧寺碑」拓本をめぐって

2012年4月24日 Posted in 会報

中村和之

 北海道の歴史を考える時、アムール川(黒竜江)流域や樺太(サハリン)との接触・交流を無視することはできない。この地域は中国王朝との関係が深く、モンゴル帝国(元)以降も明・清が支配の手をのばしたことが知られている。元は、それまでアムール川流域に置かれていた拠点をすべて廃止し、アムール川下流域のティルに、新たに東征元帥府(とうせいげんすいふ)を設置して支配を強化した。当時アイヌは樺太に姿を現し、ニヴフなどとの間に紛争を起こしていたが、元はこれに介入してアイヌを攻撃し、樺太からアイヌを排除した。
 15世紀の初頭、明の永楽帝は女真人の宦官(かんがん)・亦失哈(イシハ)を派遣し、かつて東征元帥府のあったところに奴児干都司(ヌルカンとし)を設置した。以後、明はアムール川流域・樺太の諸集団に積極的に支配を及ぼしたが、現地で活躍した官吏のなかには、アムール川流域の住民から登用された者もいた。明は、貂皮などの朝貢の見返りとして絹織物を下賜したが、そのなかには竜袍(りゅうほう)・蟒袍(もうほう)などといわれた役人の服が含まれていた。これが蝦夷錦とよばれるものである。
 亦失哈は、奴児干都司に併設して永寧寺(えいねいじ)という寺院を建立し、この顛末を記した石碑を建てた。これを「勅修奴児干永寧寺記」といい、立石は永楽11年(1413)のことである。この寺は現地の先住民によって破壊されてしまい、亦失哈によって再建された。亦失哈はこのことの経緯を記した石碑を建てている。これが宣徳8年(1433)の「重建永寧寺碑記」である。
 現在、この2基の石碑はウラジヴォストクに移されているが、ティルに立っていた時の姿を目撃した日本人が少なくとも二人はいる。一人は1809年の間宮林蔵(まみやりんぞう)で、『東韃地方紀行(とうだつちほうきこう)』にその時のことを書いている。間宮の記事は良く知られているが、もう一人1886年に黒田清隆がこの地に赴き、石碑を見ていることは、ほとんど知られていない。
 この石碑は、明朝のアムール川下流域・サハリン統治の内容を示す貴重な史料であるが、その内容は清朝を築いた満州族にとって都合の悪いものであった。自分たちの祖先が、明朝の支配下にいたことを示す証拠だったからである。そのため、この石碑の存在は長く忘れ去られてしまい、1885年に曹廷杰(そうていけつ)が発見して初めてその存在が知られるようになった。1891年に出版された『吉林通志』の金石志は、曹廷杰の持ち帰った拓本をもとにしたもので、これによって「勅修奴児干永寧寺記」と「重建永寧寺碑記」の内容が知られるようになった。
 『吉林通志』にいち早く注目したのは、内藤湖南である。日本における中国史研究のパイオニアである内藤は、若いときからこの石碑に注目し、良い拓本を得て釈文を完成しようとした。そのため、現在は京都大学人文科学研究所に収蔵される内藤湖南旧蔵拓本は、日本に現存する最良の拓本とされている。
筆者の調査では、現存する、あるいは採拓されたことが確認できる拓本は、以下の4種類である。

 1.金(きん)旧蔵拓本
  永楽碑表 宣徳碑(曹廷杰の採 拓?、1885年?)
 2.白鳥庫吉旧蔵拓本
  永楽碑表・裏(白鳥庫吉の採拓、 1909年)
 3.市立函館博物館蔵拓本(=新発見)
  宣徳碑(採拓の経緯不明、1924年2月1日に受入)
 4.内藤湖南旧蔵拓本
  永楽碑表・裏 宣徳碑(梅原末 治の採拓、1930年)

 このうち1は、残念なことに拓本そのものではなく、拓本の写真である。しかし状況の良い拓本だったようで、吉林省社会科学院の楊暘(ヤンハン)氏は、1980年代にこの拓本を使って「勅修奴児干永寧寺記」・「重建永寧寺碑記」の研究を一新した。2は現在のところ所在不明である。
 したがって、このたび、市立函館博物館の長谷部一弘氏により発見された3の拓本が、日本では最も採拓の時期が古いものとなる。4に比較するとやや墨が薄いなど、拓本の状況は必ずしも良くないが、3と4とを比較し、それに楊暘氏の釈文とも対校することによって、これまで判読が難しかった文字を確定できる。また、デジタル技術で白黒のコントラストを強調するなど、これまでは考えられなかった方法を用いることにより、「重建永寧寺碑記」の釈文の完成に近づけるかもしれない。
 なお「重建永寧寺碑記」の原碑は、現在は屋外に置かれており、摩耗が激しいため、ほとんど判読できない状態だとされている。その意味でも、今回発見された「重建永寧寺碑記」の拓本の価値は大きいといえよう。

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アルセーニエフ博物館所蔵の永寧寺碑の上部。右から左に「永寧寺記」と彫ってある(『白い国の詩』2000.4より)

「会報」No.23 2003.7.1 2003年度第1回研究会報告要旨(その1)

函館とロシア料理

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 函館では、ロシア料理がはやった時代は大きく2度あったように見受けられる。最初は幕末から明治初期、2度目は大正期から昭和初期にかけてである。
 函館、すなわち日本に初めてロシア人が居留したのは、1858(安政5)年のロシア領事団である。同時に函館にはロシア海軍の軍艦も頻繁に出入りし、乗員たちが上陸した。料理の具体的な内容は別として、彼らが日常領事館や軍艦内で食べていた料理を一応ロシア料理とすれば、函館における、すなわち日本におけるロシア料理は、ここに始まったわけである。彼らと接触を持つ日本人がまずそれを体験したものと想像される。
 1859年に来函したイギリス領事ホジソンは、奉行や各国領事とロシア海軍士官等を招いて正餐会を開いた。正餐は「ロシア風」にふるまわれたと書いてあるのがおもしろい。メニューをあげてみると、スープ、鮭の蒸し焼き、野菜つきの羊肉コートレット、脂身を刺した鶏の胸肉、ケイパーソースのかかった羊の足、野生の鴨と鵞鳥のあぶり肉、タルト、クリーム、コーヒー。それにシャンペンやキュラソー酒等飲み物も供されたが、日本人たちが非常によく食べて飲んだのには、ホジソンも驚いたようだ(多田実訳『ホジソン長崎函館滞在記』)。
 1863年前後にオープンした「ロシアホテル」は、函館で第一号、すなわち日本で最初のロシア料理店でもあったといえよう。場所は当時「大町居留地」と呼ばれた埋立地で、現在は相馬倉庫が建っているあたりである。ロシア人ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフと妻が経営するこのホテルの食堂には、コックとして複数の日本人が雇われていた。彼らは当然ロシア料理のレシピを学んだことであろう。また、ここではパンも焼かれたが、その技術を覚えた日本人従業員が後にパン屋を開業している事実もある(「函館新聞」明治12年9月7日付け)。
 それから経営者の妻ソフィヤは今の海岸町のあたりに、約3500坪の土地を借りて牧場にしていたらしい。牛や豚を飼って、牛乳や豚肉などの食材を自ら調達していたのである。当時の居留外国人たちも、彼女から肉や牛乳を買っていたそうだ(A.H.バウマン「A.ゲルトナーの日記」『地域史研究はこだて』25号)。
 ホテルの主人は1871年に東京での布教を開始するニコライ神父のために上京し、その年、その地で亡くなった(グザーノフ著、左近毅訳『ロシアのサムライ』)。残された妻ソフィヤと番頭のパラウーチンが、日本人スタッフとともにその後もホテルを切り盛りし、1879(明治12)年まで経営が続けられた。20年弱にわたるこのホテルの存在は、函館に少なからぬ影響を残したものと思われる。
 五島軒は1886(明治19)年にフランスで修業したコックを雇って開業した(「函館新聞」明治19年7月9日付け)。それ以前にロシア料理を出していたと言われているが、それを示す同時代資料はない。店主となる若山が明治17年に「森善」という別の西洋料理店で働いていたという記録もあり(『北海道立志編』明治36年)、今後の調査が必要である。1912(大正元)年頃に店の看板を英語からロシア語に取り替えたという記事があるが(「函館新聞」大正元年10月11日付け)、この時にはロシア料理を出していたものと思われる。当時、北洋漁業が好調で、港にはたくさんのロシア船が入った。漁場への行き帰り、多くのロシア人たちが函館でつかの間の休息を楽しんだのである。彼らが買い物をしたり、食事をしたりするので、函館の商店街にとってはいいお客様であった。第二のロシア料理ブームの始まりである。
 五島軒で修業したコックがいたというレストラン「鞍馬軒」(1909年開業)や「ライオン」も大正時代から第二次世界大戦が始まるまで営業していたが、どちらもロシア料理で名をなしていた。その当時の新聞には「ロシヤ料理/独特ザクースキとロシヤスープ/クラマ軒」、「精養軒の黒パンとライオンのビフテキ」といったような広告が頻繁に掲載されていた。五島軒は今も営業を続けているが、鞍馬軒やライオンが戦後復活できなかったのは、誠に惜しかった。
 なお、ロシア革命を逃れて亡命してきた、いわゆる「白系ロシア人」の店があったことも函館らしい。大正から昭和戦前期、銀座通りにはロシア人が経営する「チョコレートストア」があったというし、松風町にはズヴェーレフの経営になる喫茶店「ヴォルガ」があった(『近代函館』昭和9年)。またカムチャツカから来たプシューエワ母娘もロシア食堂を開いていた(「異国流亡」『経済往来』1974.8)。十字街にはオスモロフスキイ経営の食料品店があり、「カルバサ(ソーセージ)」が人気を博していた(「函館新聞」大正15年4月2日付け)。市内の至る所にロシア人の「パン売り」が見られたことも函館の風物であった。
 第二次大戦後は、ロシア人の血をひく吉田和子さんが1980年に始めたロシア料理店「カチューシャ」が特筆できる。オホーツク市で貿易商を営んでいた先祖は、パルチザンによって財産を奪われ、命からがら函館にやってきた。お祖母さんから教わったロシア料理のレシピが吉田さんの宝物だそうだ。

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「函館日日新聞」(明治42年11月3日付け)掲載の露西亜パンの広告

「会報」No.23  2003.7.1 2003年度第1回研究会報告要旨(その2)

函館という名の夢

2012年4月24日 Posted in 会報

A.トリョフスビャツキイ(訳 岩瀬夏実)

 沿海州の南の静かな田舎町ウスリースクで、この手紙を書いています。両親が暮らす小さな家の窓からは、昼も夜も車が果てしなく走り続けるウラジオストク―ハバロフスク自動車幹線道路が見えます。ロシア正教会の鐘が代わる代わる街中に鳴り渡り、車の騒音をかき消しています......。
 この数年で、街はアジアに向けてその扉を広く開け放ちました。ここには、沿海州で最大の中国市場があり、至るところに中華料理レストランが建ち並んでいます。ウスリースクの住民が日常生活で使うもののほとんどが中国製です。日本に関するものと言えば、ただ街の通りを走る自動車だけが、日本を思い起こさせます。とりわけ面白いのは、貨物自動車やトラックに日本語で、JR西日本、コープ、宅急便などと書かれていることです。ときおり、交差点では、そのような貨物自動車から日本語で、「左に曲がります!」とアナウンスが聞こえてきたりするのです。
 日本......。地図の上では目と鼻の先にあるのに、果てしなく遠く、まるで異次元にあるかのような国......。映画『おろしや国酔夢譚』の主人公が、「おろしや......あれは夢だったのか」と叫んだように、「日本......あれは夢だったのか」と叫びをあげることしかできません。実際、それがもし夢だったなら、とても素敵で幸福です。夢のあとには、今の生活と曖昧さに満ちた将来の現実に立ち返らざるをえないのです。しかし私たちは、かくある自らの運命に感謝しています。私たちは、数年のあいだ函館で過ごすことができました。両親と、日本について話すとき、「彼らの日本では」とは言えず、つい口癖で、「私たちの函館では」と言ってしまうのです......。
 函館の街には、まるで鏡のように、最も重要な歴史的事件や経過が映し出されています。それは、現在の日本の地理的な範囲だけではなく、太平洋の北西地域という大きなスケールにおいてです。函館は、日ロ関係の歴史のうえでも特別な位置を占めており、ロシアの文化を日本へ送り出す門戸の役割を果たしています。そのことを今もって思い起こさせるのが、ロシア正教、ロシア人墓地、ロシア領事館その他多くの建物です。かつて、函館の街には、ロシアの国内戦争から逃れてきた大勢のロシア人亡命者が住んでいました。ここには、南樺太や千島からの数千人もの引揚者が暮らしています。私は、彼らの運命に興味と親近感を覚えます。というのも、彼らの生まれ故郷は樺太と千島、そして私の故郷はサハリンとエトロフであり、それは実際上同じ場所なのです。残念ながら昔も今も、サハリンと千島の歴史は決して交わることなく平行して進み、日本人には日本人の、ロシア人にはロシア人の歴史がある。私は、函館にやって来るまでそう思っていました。
 函館日ロ交流史研究会の諸先輩や友人との興味深く独創的な交流は、多くの点で私のこの紋切り型の考えを打ち壊すことになりました。サハリンやクリル諸島の歴史の断片が、「純粋にロシア」あるいは「純粋に日本」ということはありえないのです。とりわけこれらの島々や北東アジア全体の非常に複雑な歴史的経過を正しく理解するには、ロシア、日本、中国、朝鮮その他の国々の考古学者、民族学者、歴史家らの独創的な協力が必要です。微力ながら私が参加させていただくことができた函館日ロ交流史研究会の活動は、ロシアと日本の歴史家の相互理解を深めるという方向性をもち、そのことは、日ロ関係の歴史における出来事や経過の客観的な理解を深めることに役立つものとなるでしょう。
 サハリンにおける日ロ関係の歴史に関する学位論文の準備に際しては、研究会の諸先輩に全面的な援助をしていただき感謝しております。日本とロシアの間の領土問題が、様々な歴史段階において、日ロ関係に影響を与えた重要な要因のひとつとなっているということはよく知られています。私の仕事は、19世紀の日ロ関係における主要な領土問題の研究―「サハリン問題」―に向けられています。研究会の諸先輩は、きわめて当然のこととして、「サハリン問題」と20世紀後半の領土問題―今もって未解決で現段階の日ロ関係の前進的な流れに歯止めをかけている「北方領土問題」―の間には、原因となる歴史的類似現象として関連性があることを指摘されていました。同時に、歴史的資料によって、「サハリン問題」が17世紀から19世紀にかけてロシアと中国の間に存在した「アムール問題」から派生したものであることが証明されています。そして、ロシアと中国、ロシアと日本の結びつきの強化、とりわけ、これら国家間の領土策定の過程が、何もない場所で行われたのではなく、長期にわたる歴史の中で中国と日本の「従属関係」を介した文明の影響下にあった人々が暮らす「周辺地域」と呼ばれる一帯で起きたことなのです。
 19世紀の領土策定過程で日ロ間に起こった出来事を客観的に理解するためには、極東全体において、それらの出来事が歴史的過程で果たした役割を認識し、関連する歴史学や民族学、歴史地理学の研究の成果を考慮することが必要です。私はその仕事に取り掛かりました。
 過去の事実と出来事が映し出す客観性と、見解が確立している過去の事象に対する批判的な分析は、ロシア、中国、そして日本の新しい一次史料を学術利用するのと同様に、非常に重要な要因となっているのです。私は仕事の上で、日本の一次史料を使い、ロシアがアムール問題の最終決定の範囲でサハリン島を戦略上監視下に置こうとしたことによって、幕府やその後の新しい明治政府の政策が活性化されたということを示そうと試みました。
 1860年の末から1870年の初めにかけて、明治政府はサハリンの南部の植民地支配をしようとしました。サハリンをめぐる日本とロシアの領土に関する論争に影響を与えたのが、1875年のサンクト・ペテルブルグ条約(樺太千島交換条約)です。20年にわたって領土策定の様々な案が検討されたのち、ロシアと日本はペテルブルグで、きわめて独創的な決定を受け入れることになりました。それは、極めて離れた場所に位置するそれぞれの領土を交換するというものです。加えてロシアは、サハリンの戦略的領有を保障し、経済制裁を行ったりは決してせず、その後30年にわたって日本がサハリンで漁業を営むことができるようにしたのです。
 函館で私が研究していたサハリン問題は、極東地域のロシアへの複雑な併合過程のほんの一部分でしかありません。今後私は、アジアにおいてロシアが果たした役割について研究すべく、微力ながら力を注いでいくつもりでおります。とりわけ、アジア・太平洋地域でのロシア帝国の外交政策、そして露米会社の活動にも興味があります。函館日ロ交流史研究会の諸先輩そして友人の皆さんには、今後ともご支援ご鞭撻のほど宜しくお願いいたします。この場をおかりして、研究会10周年をお祝いし、歴史的知識の普及と歴史家の国際協力を進める研究会の有益で崇高な活動にご期待申し上げます。

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送別会でのアナトーリイさん(2003.3.15)

「会報」No.23 2003.7.1 特別寄稿

地に落ち、豊かな実を結んだ人々 ―『異郷に生きるⅡ 来日ロシア人の足跡』を読んで―

2012年4月24日 Posted in 会報

菅原繁昭

 2002年6月8日、9日、当地の北方歴史資料館を会場に「来日ロシア人研究会」の研究合宿が開かれた。交流史研究会にも案内があり、出席させていただいた。小生は、よんどころない事情から初日の第1セッションしか拝聴できなかった。しかし、この函館合宿で発表された各氏の研究成果をもとに本年4月に成文社から『異郷に生きるII 来日ロシア人の足跡』として刊行されたので、遅ればせながら、あの時の追体験をすることができた。
 本書は6部構成からなる。「1.異郷に生きる」では文字どおり異郷たる日本に生きているロシア人からの聞き書き2編、それに来日したロシア人をマスとして捉え、その来日時期を3波に分け、それぞれの特徴や相違・類似点を総合的に分析したP.ピョートル氏の論攷「ロシア人はいかに来日したか」からなる。
 清水恵さんが聞き手となって纏めた「リュボーフィ・セミョーノヴナ・シュウエツさんに聞く」は、第1集の「サハリンから日本への亡命者―シュウエツ家を中心に―」の続編にあたる。第1集では1936年に函館を離れたシュウエツ家が、神戸を経由して東京に落ち着くが、その後当主となったヴァレーリイ・シュウエツは「在日ロシア人が横浜の外人墓地に埋葬される時には、ほとんど毎回のように立ち会った」と述べられている。第2集の聞き書きでは、話者として登場するリュボーフィさんの妹が1963年に亡くなり、横浜の外国人墓地に埋葬されるが、その際に一切を取り仕切った人物が、ほかならぬ、このヴァレーリイ・シュウエツであり、しかも彼は、のちには話者の伴侶となるという奇縁が語られている。ヴァレーリイは結婚する前にはロシア語通訳の仕事をしており、ボリショイサーカスの仕事もしたという。ボリショイサーカスといえば、1958年に初来日しているが、彼らを日本に招聘したのが函館出身の神彰(作家有吉佐和子の夫、後離婚)であったから、二人はどこかで遭遇していたかもしれない。ちなみに神彰は、交流史研究会の幹事である佐藤一成氏の函館商業学校の1年先輩にあたり、美術部に在籍という縁からいろいろな交流があったという。
 さて聞き書きに戻ろう。リュボーフィさんは、下関で生まれ、長崎で育ち、戦時下も日本に留まる。スパイ呼ばわりされるなど、辛い思いをしたようだが、父親の励ましの言葉で支えられていたという。強制疎開も経験させられ、また米軍機による来襲時には、急降下してきた戦闘機から相手の顔が見えるくらいの低空飛行で、パイロットが自分を日本人ではなく外国人と認識したため、難を免れたといった生々しい体験談が臨場感たっぷりに語られている。戦後は一時、神戸にでて、その後、横浜に移住、結婚して以来ずっと東京に住まいされており、昨年の研究会にも出席されていたのが記憶に新しい。なおリュボーフィさんが軽井沢に避暑に出かけた時のことが回想されているが、ここで私たちは再び函館に繋がる人物に出会う。それはA・デンビーとその妻マリヤ、さらにその妹ニーナ、それに彼女の夫のK・プレーゾの面々である。ちなみに平成元年、プレーゾの手を経て、デンビー一族の肖像画が市立函館博物館に寄贈されているが、昨年、同館の特別企画展において「函館ゆかりの人々」のコーナーでそれらの肖像画が展示されていた。
 次の「2.芸術家たち」は4編からなる。安井亮平氏の「ブブノワとトワルドフスキー」は、日本から帰国して絵画創作のかたわら絵画論や回想記を書き始めたブブノワ晩年の活動を紹介し、文芸誌「新世界」の編集長で詩人のトワルドフスキーとの邂逅と両者の訣別に至る経緯からブブノワの人柄にも言及する。書くという行為が、「目の記憶」=「個人生活のもろもろの面に現れる人間性の光景」を表現するためとするブブノワにしてみれば、「社会的意義」を強調する「ソビエト社会のエリート」たるトワルドフスキーとの間の対立は必然となるだろう、しかも両者の出自や個を形作る時代・環境差もパラレルに対立要素をもたらしたという指摘に同感することしきりであった。
 石垣香津氏の「来日ロシア人の肖像画―画家鶴田吾郎のロシアへの思い」を開くと鶴田の描いた「盲目のエロシェンコ」(表紙カバー参照)が目に飛び込んできた。何か懐かしい人との再会を果たしたような気がした。それが何であったか思い出すのに少々時間がかかったが、7年前に読んだ『新宿中村屋相馬黒光』(宇佐美承)であり、挿絵として使われていたものであった。石垣氏の論攷によって、若い日にロシアに憧憬をもった鶴田吾郎という一人の画家が複数のロシア人の肖像画を書くに至った状況を詳細に知ることができた。『盲目の詩人エロシェンコ』(A.ハリコウスキー)によると、エロシェンコは新宿中村屋を舞台に早稲田大学教授の片上伸らと交流を持っており、1915年7月に、その片上に誘われて北海道旅行を行い、函館では知人の教師大西亀三郎方に滞在している。ちなみに片上伸の父は、片上楽天といい、伸が来函した翌々年の1917年に大西らとともに五稜郭公園の中で懐旧館という観覧施設を開設している(大正6年8月8日付け「函館新聞」)。
 中村喜和氏は、1982年に来日したソルジェニーツインの日本印象記が2000年に「ノーヴィ・ミール」誌に発表されたので、それをもとに要約紹介されている。日本で案内役をつとめたロシア文学者の木村浩には一貫して好意と敬意を示しているソルジェニーツインであるが、日本食をはじめ「日本人の話し方、笑い方、暮らし方、それに心のもちかたまでが、彼の共感を拒んだ」という。苦虫をつぶしたようなソルジェニーツインの顔が目に浮かぶようだ。彼はいつも機嫌が悪いのだろう。そのほうが彼らしい(?)。
 「3.学者・教師たち」では3人の人物が紹介されている。小山内道子さんの「ワレンチナ松坂=宮内の人生の軌跡」は、ハバロフスク生まれのワレンチナさんという女性に焦点をあてている。同地の領事館でロシア語通訳を務めていた松坂与太郎と結婚、のちにハルビンに移り、ソ連参戦により夫は行方不明となる。1952年に夫から日本に行くようにとの便りがあり、子供らをつれて夫の親戚を頼って来日、最初は網走に住み、それから札幌に移る。1955年に夫が抑留生活から解放されて帰国が叶う。しかし彼はラーゲリ生活の後遺症からかワレンチナとの生活に破綻をきたし、一人で上京してしまう。その後、宮内幸雄と再婚。かつて宮内が北大の助手であった時に彼女からロシア語を習っていたが、彼女の子供達の教育にも誠実に対応していたこともあり信頼を寄せられており、二人は結ばれたのである。ワレンチナは1970年から札幌大学のロシア語講師として10年勤める。彼女は講壇だけの先生に留まらず、自宅を開放して学生たちによる「文化ロシアのミニサロン」となっていく。全てを包み込むような包容力のあるワレンチナ先生はどんなに学生達に愛されたことだろう。彼女の晩年にかつての教え子が通い続けたという。「「一粒の種」ワレンチナは札幌の地に落ちて、豊かな実を結んだのである」との結語に然り。
 「4.宗教家たち」では、「宣教師アンドローニクの日本滞在記より」と題し清水俊行氏がニコライを援助するために来日したが病気に罹り、1年足らずの滞在で帰国しなければならなかったことから「今では忘れられた存在」となっているアンドローニク宣教師の人となりを彼の日記をもとに紹介している。この中で函館に関係する興味深いエピソードが目にとまった。アンドローニクの来日から1か月が過ぎたころ、ニコライは彼をどこに配置するか熟慮していた。そんな時に函館の信徒がサハリン(樺太)の優良漁場を得て、その利益の三分の一を教会に捧げるという約束でニコライから親書を取り付け、漁場の提供を受けたが、他の漁場まで侵入して利益を得るという事件を起こす。このため沢辺神父は、事件のために信頼を失った山縣神父の後任にロシア人神父の赴任を求めたが、ロシア人宣教師は日本正教全体の発展のためであるとして、ニコライが函館派遣に難色を示した。
 この事件に関した当時の新聞記事を清水恵さんから教えていただいたので紹介しておこう。明治30年7月12日付け「小樽新聞」に「希蝋教僧侶の漁業」の題で報道されているものである。それによれば、サハリンの西海岸は、かつて日本人に漁業を許可していなかったが、函館の同教神父(日本人某)が教会費補充のために同所に好漁場を開くことが許可された。その神父はニコライ主教からロシア公使あての添書をもらい、それをもとに公使からサハリンのロシア官吏あての紹介状を得て、サハリンに渡り、その請願が受理されたという。「日記」と「新聞記事」の記述はほぼ合致している。記事は、この神父には2人の従者がいるが、漁業の利益は彼らに占められるだろうと締めくくられている。記事中の神父某は「日記」によって山縣神父ということが明らかとなる。また明治31年6月28日付けの「小樽新聞」には、「函館復活正教会」名の広告が掲載されている。函館の下田孝吉と長瀬長兵衛の二人が明治30年6月、7月に「薩哈嗹嶋」のタムラオ、ロモウ、ナヨロ他1箇所において鱒鮭漁業の許可をロシア政府から受けたが、彼らは当教会の代表役員の名義を乱用または詐称出願したものであり、最初から当教会は該事業に何ら関係はなく、ニコライ主教の承認を得て広告するという内容である。先の記事にある二人の従者とは「下田と長瀬」を指すと考えられるから、記事の予測したとおりの結果となったようだ。神父を巻き込んだ信徒による詐欺まがいの事件は正教会にとっては苦々しいものであったろう。
 「5.日本海を越えて」は4編からなるが、倉田有佳さんの「函館における露国艦隊1922年秋」などが所収されている。昨年の函館合宿、そして当会の2003年1月「第3回研究会」での発表と、内容を深めていったものである。概要は会報No.22を参照していただきたい。赤軍によるウラジオストク入城という政変にかかわり函館と小樽に入港した避難民を乗せたロシア艦隊の動向を函館の地元紙3紙を渉猟して、精緻な筆致で描いている。「はじめに」でそれらの艦船の「碇泊港での出来事や出航に至る経緯を明らかにする試み」は成功したというべきだろう。シーシャン号のウラジオストク回航に奔走するデンビー商会のダニチ支配人、同商会がロシア義勇艦隊の代理店を務めているから当然といえば、それまでであるが、水上署と歩調をあわせた彼の敏捷な動きに注目した。また露領漁業でカムチャツカなどへ漁夫や漁業用物資の輸送で用船される機会の多かった第2錦旗丸がロシア人避難民輸送のためにチャーターされるという巡り合わせも奇遇だ。
 「6.資料」は沢田和彦氏による「「日本で出たロシア語定期刊行物」書誌」。1900年代から1950年代までの日本で刊行されたロシア語の雑誌、新聞類の定期刊行物のリストである。所蔵先のリサーチといい、その一覧といい圧巻であり、これは研究者にとり、ありがたい1級品のデータとなろう。沢田氏のご労苦に敬意を表したい。函館関係でいえば竹内清の「週間函館」やアルハンゲリスキーの「日本の新聞雑誌展望」がリストアップされている。
 第2集を読み終えて、主に来日したロシア人の歩み、そして、そこに生まれた人と人との交流、そうした点にスポットを当てた、各自の研究は、歴史研究を包括しつつ、人間洞察という点における深さを表現し得ているように思えた。そして、編者の長縄光男氏の「はしがき」の言葉を借りれば「日本人研究者にとっては、ロシアとロシア人、そしてロシア文化への敬愛の念」があってこそ、はじめて成り立つ作業なのだということも痛感させられる秀作揃いの1冊であった。各著者にあらためて感謝したい。

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「会報」No.23 2003.7.1 新刊本紹介

F.P.ビリチについて

2012年4月24日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに
 フリサンフ・プラトーノヴィチ・ビリチの名前は、漁業家デンビーとの関わりの中で、時には「デンビーの子分」として、良く知られているのではないだろうか。しかし、筆者がビリチに関心を持ち始めたのは、ほんの3ヶ月程前のことで、これは、当研究会の今年2月の研究会報告でも取り上げた、1922年秋にオホーツク・カムチャツカ方面から函館や小樽に寄港した、露国艦船の問題と深く結びついている。事件の詳しい経緯は、会報22号あるいは『異郷に生きる II』を参照されたい。
 筆者は、論稿を仕上げた時、当時のオホーツク・カムチャツカ方面の赤軍と白軍との政治的対立や政治情勢の変化について言及できなかったことを、少なからず恥じていた。しかし、関連資料も調査する時間も限定された中では、事件のあらましだけでも明らかにしておくことを当面の課題とせざるを得なかった。
 脱稿直後、当会会員の清水恵さんから、1923年3月1日付『函館毎日新聞』の記事を見せていただいた。そこには、「前カムチャツカ執政官」ビリチが、著者が論文で取り上げた、あの「トムスク」号でペトロパヴロフスクから避難し、しばらく小樽に滞在した後、上海方面に亡命したが、ウラジオストクの赤軍の手で捕らわれ、投獄された後に市外の刑場で銃殺されたことが報じられていた。
 そのような人物が「トムスク」号に乗っていながら、なぜ記事に取り上げられることがなかったのか、強く疑問に感じながらも、これをきっかけに、これまで筆者にはなじみの薄かったビリチという人物について知りたくなり、新聞等で調べてみた。すると、小説にでもなりそうな波乱万丈の人生を歩んだことが明らかになり、彼を中心軸に置いて、19世紀末から20世紀初頭のロシア極東と函館(日本)の歴史的関係を明らかにしてみたいと考えるようになった。
 本稿は中間報告であり、今後の課題も少なくないが、会報に発表することによって、当会会員はもちろん、漁業と関わってこられた函館在住の方々の知るところとなり、本稿の誤りに対する指摘や、新たな情報の提供が生まれるなど、有益な反響を期待するところである。
 なお、漁業家としてのビリチについては、清水恵著「函館におけるロシア人商会の活動―セミョーノフ商会・デンビー商会の場合―」『地域史研究はこだて』21号、今田正美著『日魯漁業株式会社社史』で言及されているため、本稿でも各所で参考にさせていただいた(前者は、以下では引用を(1)で示す)。
 筆者はビリチの生涯を次の6つに大分してみた。1.サハリン流刑以前(1863年~1883年頃)、2.サハリン時代(1884年~1900年頃)、3.函館を拠点に漁業家としての基盤を築いた時代(1901年頃~1903年頃)、4.日露戦争と弘前での捕虜収容所時代(1904年~1905年)、5.カムチャツカの漁場で活躍した時代(1906年頃~1921年頃)、6.プリアムール政府特別全権~カムチャツカへ派遣~ウラジオストクへ引揚~銃殺(1921年10月~1923年2月)。

1.サハリン流刑以前(1863年~1883年頃)
 フリサンフ・プラトーノヴィチ・ビリチ(Хрисанф Платонович Бирич)は、1863年にロシアで生まれた。かつては将校だったが、1884年に軍規違反の罪で3年間サハリン流刑を宣告された(『宣教師ニコライの日記抄訳』、以下、引用は(2)で示す)。
 『日魯漁業株式会社社史』には、「その兄が医者であったため、これを扶けているうち自然医術を身につけ、薬剤の調合なども心得る器用な、利口な人であったが、その薬剤知識が仇となって劇薬の用法で法に触れる間違いを起こし、サガレン下りとな」ったとある。
 出生地を始め、サハリンに流刑される以前のことをビリチは語りたがらなかったのだろうか、その辺の事情を知る人は少なかったようである。

2.サハリン時代(1884年~1900年頃)
 流刑囚時代のビリチについては、樺太の一漁夫の投稿による新聞記事に詳しい(『東奥日報』明治38年8月23日および25日)。これは、同時代人が語る資料として貴重であるが、反面、当人は、ビリチ、デンビーは、「種々奸計を廻らし地方官吏に利を喰はして、己に許可になった漁場を威嚇的に横領した」他、ビリチは「君主然としてその漁場に居る漁夫の如きに対して公然殺生与奪の件を振ふて居た」として、ビリチに敵意むき出しにするなど、情報の客観性が問われるところである。
 ともあれ、「樺太の一漁夫」の話をまとめると、ビリチは殺人罪で流刑された囚人で、デンビーが「マウカに越年して辛く漁場を営んで」いた時に、ビリチは「徒刑囚として他の囚人と同じく灰色粗製の囚人衣や臭き羊毛の羊皮衣を身に纏ひ、満州人夫と共にデンビーの漁場で雇われ昆布採集を」行っていた。「デンビーは越年中、退屈の余り」ビリチを「露語の教師として露語を研究した」。それが元で、だんだんデンビーとの縁故ができ、引き立てられるようになった。その後、デンビーが病気に罹ると、コルサコフの病院に入院中、「元看護夫揚り」であるビリチは薬に関する知識を生かし、一生懸命看病に当たった。幸いデンビーは全快し元気になったため、それ以降は一層ビリチを「寵愛」した。
 前掲『日魯漁業株式会社社史』にも、「流刑地のサハリンで医者まがいのことをやっていた」こと、デンビーに医療面で施した恩がデンビーの共同事業者としての関係の基礎を造ることになったことが言及されている。
 時にジョージ・フィリプス・デンビーは40代半ば(1840年生)、ロシア国籍を取り(1894年頃)、漁場経営を有利に進める前のことであった。

3.函館を拠点に漁業家としての基盤を築いた時代(1901年頃~1903年頃)
 前掲「函館におけるロシア人商会の活動」によると、1900年初めには、セミョーノフ商会の資金で漁場経営をしていたロシア人が何人かおり、彼らの素性はビリチ同様、もと流刑囚農民が多かったようである。中でもビリチは、セミョーノフ商会経営及び同商会の融資漁場の3分の1近くを所有し、金持ちの漁業家として地位を築いていった。
 1903年9月7日、当時東京を拠点に宣教活動を行っていたニコライの下を訪れている。ニコライに渡されたビリチの名刺には、住所は「サハリン島、ウッスロ」となっていた。ニコライは、「ビリチは金持ちの漁業家である。彼の会社では、日本人向けに肥やしとなる鰊粕を作るために700人以上の日本人と100人以上のロシア人が雇われて働いている」と日記に記している((2)。
 前掲の「樺太の一漁民」は、この頃のビリチについて、「漁が当たりまして、開戦前迄には十二箇所の漁場を得て営業して居りました。段々金も自由も使い、追々頭を擡げると云ふ工合で、函館辺へ参りましても紳士風を吹かせて居りました」と語っている。
 経済的な豊かさを基盤に、紳士然とした立ち居振る舞いで、時のロシア領事の信頼を得るようになっていたのだろうか、ロシア領事館用の土地が必要となった時、ビリチがロシア政府の内命を受けて土地を物色し、代表して契約者となっている。
 これは1901年(明治34)のことで、当時船見町一帯に通称「西出山」と呼ばれたほどの広大な地所を所有していた西出孫左衛門が、五反五畝八分の畑地(1657坪)を9948円60銭で(9947円60銭とも)中瀬捨太郎宛に売り渡した。ここは、旧ロシア領事館が現在建っている場所と同じ船見町125番地の3で、当時の政府は、外国人名義で不動産登記を行うことを禁止していたため、中瀬がその信託的名義人となり、ビリチが地上権を999年にわたり賃貸借するという形が取られた(清水恵、A.トリョフスビャツキ著「〈史料紹介〉日露戦争及び明治40年大火とロシア帝国領事館」『地域史研究はこだて』25号および『北海道新聞』昭和31年12月3日)。また、売渡証書によると、このうち、領事分が1129坪で、ビリチ分が539坪と、ビリチは全体の3分の1強を所有することになった。
 この時代のビリチの生活は、順風満帆のように見えるが、わが子の教育には頭を痛めていたようである。先述の1903年9月7日に書かれたニコライの日記によると、当時ビリチには、長女エミリア12歳、長男セルゲイ9歳、次男パーヴェル8歳の3人の子供がいた。長女は、前年の同時期(1902年9月頃の意)、ビリチの妻が、カトリック系のフランス人学校に入れるために東京に連れて来た。そして、今回はビリチが3人の子供を連れて上京したが、これは、長女エミリア同様、下の2人の子供たちも同じ学校に入れるためであった。
 子供たちをロシアの学校に入れない理由についてビリチは、「残酷な寄宿舎学校の生徒が、息子たちを流刑囚の子供と言っていじめるのではないか、そのため息子たちがつらい思いをするのではないか、と恐れている」ことをニコライに話している。その一方で、「子どもたちにフランス語を身につけたいのだが、こんな年齢ではもう無理だということもよく承知している」とも述べており、その複雑な心境が伺える((2)。
 この時、ビリチが宣教団に100円献金したいと遠慮がちに申し出たこと、また、ビリチの妻もその前年、50円献金したことについても、ニコライは日記に記している。

4.露戦争と弘前での捕虜収容所時代(1904年~1905年)
 日露戦争中、ビリチは義勇兵隊長として参戦した。当時の新聞には、「義勇兵(囚徒)」とあるように(『東奥日報』明治38年7月25日)、ビリチはサハリンの囚人を統率して戦ったものと考えられる。前掲の「樺太の一漁民」は、「公権剥奪されたる免囚が、戦争の賜物で一躍大尉に任ぜられ、厳しく官服を纏ひ元の仲間たる免囚義勇兵を指揮すると云う境遇に上ったのは、本人も定めし満足のことであろう」と、皮肉たっぷりに書いている。
 ビリチ自身の言によると、戦争中は、コルサコフとアレクサンドロフスクの中間におり、その連絡をとる要務にあたっていた。しかし、弘前出身の向井連隊に捕らえられ、1905年8月12日に青森に到着、他の将校等と共に弘前の収容所に送られた(『東奥日報』明治38年8月12日)。
 当時、将校は土手町の天理教教会に、従卒は民家に収容され、その数は大佐を含む将校が15人、従卒は10人に上った(『弘前市史』)。ビリチは将校扱いであったため、天理教教会に収容されたに違いない。
 弘前の人たちは、ロシア人捕虜が、家族や従者を連れてきたことにたいそう驚いたようだが、ビリチの場合も妻を連れ立ってきた。その妻について、前掲の「樺太の一漁民」は、ビリチの妻は、「放火犯で同島へ流刑に処された女の娘」であったこと、弘前時代の話として、ブランデー5瓶を傾け、「酒狂の余り同伴の下女を殴打し警察に厄介になった」ことを伝えている。
 ビリチは、1905年11月30日にもニコライの下を訪れており、ニコライは日記に、「弘前より、捕虜のフリサンフ・プラトーノヴィチ・ビリチ来訪」と記している。この時ビリチは、戦場における日本人の残虐行為についてニコライに詳しく語っている((2))。なぜニコライにそのような話をし始めたのか、なぜニコライに会いに行ったのかといった疑問が湧くが、残念ながらニコライの日記には記されていない。もしかしたら、フランス人学校に通う子供たちの様子を伺うために上京したのかもしれない。
 弘前のロシア人捕虜収容所は、1905年7月26日に設置され、12月16日に閉鎖された(『弘前市史』)。

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弘前のロシア人捕虜(『青森県史』資料編 近現代2より)

5.ムチャツカの漁場で活躍した時代(1906年頃~1921年頃)
 日露戦争の結果として、サハリン南部は日本領となり、デンビーはサハリンの漁場を失った。しかし、その代償として多額の賠償金を得、それを元手に、カムチャツカに進出し始めた。一方、ビリチも日本政府に補償を求めたが、ロシア政府との契約自体が正式なものではないとして却下された((1))。
 さて、1907年、ロシア政府が自国民の漁業誘導を目的に、ロシア人だけに沿海州沿岸河川内に長期漁業の許可を与えると、ビリチは、カムチャツカ東海岸のストルボーワイ川とネルピーチ湖を落札した。そして、デンビーと資本を同一にし、パートナーとなった((1)。
 この時代の漁業家としての活躍ぶりは、前掲「函館におけるロシア人商会の活動」および『日魯漁業株式会社社史』に詳しいが、筆者が特に注目したのは、後者の、「1914年(大正3)頃のデンビー商会は、ウスカム河川漁区3、海面漁区5を基に、缶詰工場2、冷蔵庫、孵化場を経営し、デンビーとビリチの住宅をはじめ、北欧人幹部職員の住宅、事務所、労務者のアパートなど、防寒住宅が軒を並らべ、病院も病室や医療設備を整えたので、カムチャツカ随一のものとなり、部内の傷病者診療手当てはもとより、遠い奥地から現地人が、夏は舟で冬は犬橇りで診療を乞いに」来たという指摘である。
 おそらくビリチは、カムチャツカの地理や現地事情に詳しく、かつ、現地の少数民族の間でも広く知られる人物であったに違いない。

6.リアムール政府特別全権~カムチャツカへ派遣~ウラジオストクへ引揚~銃殺(1921年10月~1923年2月)
 さて、1921年5月、ウラジオストクでは、資本家のメルクーロフを首班とする白衛派政権が樹立された。そして同年10月末、メルクーロフ政府の命を受けたビリチは、オホーツク・カムチャツカ地方のプリアムール政府特別全権として、200名のコサック兵を率いて、艦船「キシニョフ」号でウラジオストクからカムチャツカに向かった。
 真偽のほどは定かでないが、大正12年3月1日付『北海タイムス』は、ビリチがカムチャツカに向かったのは、艶麗で虚栄心が高い妻が、一生の願いとして女王になりたいという「御伽噺にあり相な希望」を言い出したためだと報じている。さらに同記事には、ちょうどその頃は、「ロシア各地に於ける赤白の闘争激しく、ビリチにして見れば、自分が王となり、美しい妻を女王となすべき絶好の機会に思われた」ため、妻から託された5万円で「ボロ軍艦2隻」を購入し、「白軍兵の野心家」達を乗り込ませ、自分は「総司令官」としてカムチャツカの首都ペトロパヴロフスクに向かったと伝えている。
 時に、ビリチ58歳であった。同記事によれば、ビリチの妻は「農夫の娘とか漁夫の娘とか噂されていた」ということだが、筆者には、これが長年連れ添った妻と同一人物とはどうも思われない。
 いずれにせよ、カムチャツカ制覇の野望やデンビーと共に開拓したカムチャツカの漁場を赤軍の手に渡すことはあってはならないという思いから、地の利があるカムチャツカに乗り込んだのではないかと筆者は考える。
 先の『北海タイムス』の記事は、ビリチの最後について、「トムスク」号でペトロパヴロフスクを逃れ、ウラジオストクへ赴いたが、時既に遅く、身の置き処がないビリチは、暫しウラジオストクに潜伏していた。しかし、赤軍の手に発見され、2月8日に銃殺されたと報じている。さらに、2月8日にビリチがウラジオストクで銃殺されたことは、カムチャツカの漁場経営を専門的に行っていた函館の大北漁業に入電があったこと、彼の妻のその後については判明していないことにも触れている。
 このように、ビリチの最後については釈然としない部分もあるが、いずれにせよ、この当時のウラジオストク、そしてオホーツク・カムチャツカ方面の政治情勢を明らかにすることが先決であろう。

終わりに
 ビリチの数奇な運命の糸を手繰っていく作業は、大変魅力的であるが、ビリチ自身はなんとも人間的魅力に乏しい。しかし、筆者がこれほど強い関心を抱いた来日ロシア人はこれまでにいなかった。
 最後にお願いとして、ビリチについては、その顔すら明らかでないため、資料・情報等お持ちの方はご教示いただきたい。

「会報」No.23 2003.7.1 研究ノート

元山のロシア人避難民(1922年秋) 函館港における「マグニット号」とその周辺をめぐって

2012年4月24日 Posted in 会報

倉田有佳

 日本軍のシベリアからの撤兵の完了期日である10月25日の前後、当時日本の統治下にあった朝鮮の元山には9000人以上のロシア人が避難した。その大半はウラジオストクからスタルク提督に率いられた船団で避難した陸海軍人であった。朝鮮総督府内務局がまとめた元山のロシア人避難民に関する報告書『露国避難民救護誌』(1924年)には、「マグニット(函館より廻航せるもの)」との記述がある。そこで筆者は、当時の新聞(『函館毎日新聞』、『函館日日新聞』、『函館新聞』)を主な情報源として、この一件についてまとめてみることにした。
 そもそもマグニット号とは、シベリア艦隊所属の白軍砲艦(排水量750トン)で、メルクーロフ政権下でカムチャツカ、樺太方面でのパルチザンや日本人などの外国業者の略奪的な漁撈や木材伐採を取り締まるためにスタルク提督が派遣した特務艦であったが、友軍への弾薬、食糧、物資の海上補給にも当たっていた(関栄次『遥かなる祖国』)。
 日本軍のシベリアからの撤兵後、ペトロパヴロフスクでは赤軍勢力が著しく増加し、情勢が危険になると、同地の白軍とその家族全員はウラジオストクへ引揚げる決意をした。11月2日、マグニット号に白軍将卒等114名(140名とする記事も有り)が、同艦船の僚艦であり露国義勇艦隊所属貨物船のシーシャン号(総頓数1362トン)には白軍兵及び同家族約110名が乗り、約4年分の食糧を積込み出航した。しかし沿岸を巡回中暴風激浪に遭い、11月8日、函館港外に碇泊した。
 無線の故障から、ウラジオストクが赤軍に制覇された事実を一行が知ったのは函館入港後のことで、白軍将卒は赤化したウラジオストクに行くことに断固反対し、一方、船長と船員は、自分の身を案じると同時に家族をウラジオストクに残してきていたことから、ウラジオストクに戻ることを強く主張した。
 しかし、両者の反目は大きな騒動に発展したため、函館水上署では、危険極まりなく捨て置けぬとして強制退去命令を下した。それを受けて11月15日、マグニット号は白軍将卒170名を満載し、吹雪の中、スタルク船団が碇泊中の元山へ向かった。
 11月21日、スタルク提督は、海軍軍人、幼年学校生及び家族の約1970人を14隻に分乗させ元山を出航した。マグニット号は1日遅れて出航し、釜山で船団と合流後上海に向かった。
 さて、露国義勇艦隊所属貨物船のトムスク号(総頓数2715トン)は、10月18日、オホーツクの白軍交代員51名と乗客の計62名を乗せて同地を出航し、ウラジオストクに向かう途中、炭水補給のため小樽に寄港した(10月26日)。白軍将卒はウラジオストクの政変を知ると元山へ直行することを希望したが、思うように事は進まなかった。窮状を察した函館在住某ロシア人が出樽し、安全地帯に避難させるため小樽の船舶会社と傭船交渉を行うもののこれも成功せず、一同は絶望した。
 そのような中、アレクサンドロフスク港(以下亜港)には武装解除した白軍避難民が多数いることを聞き知り、下士官30名他は定期船永保丸で亜港に向かった(11月9日)。一方、将校等23名(うち3名は婦人)は、政情の鎮静化を待ち、当面は上海方面に亡命することを希望したため、露国領事館、函館と小樽の両水上署、道庁等で協議し、函館に碇泊中のマグニット号に移乗させることになった(一部シーシャン号に分乗)。これによりトムスク号は船長、船員、残留兵士9名をウラジオストクに送るのみとなったが、船長はマグニット号からの攻撃を恐れ、出航を渋っていた。しかし、11月15日にマグニット号が出航し、かつ、永保丸が亜港で日本の軍政署から人口増による食糧、住宅、職業難を理由に上陸を拒絶され小樽に戻るという知らせが入ると、11月16日、暗闇に乗じ、無断でウラジオストクに向けて出航した。
 11月下旬、在ウラジオストク露国義勇艦隊総支配人コンパニオンL.F.(後に日本に亡命、1924年に神戸で結婚、1934年に大連へ移住)等が来函し、義勇艦隊代理店を務めていたデンビー商会ダニチ支配人等と話し合った。その結果、シーシャン号はウラジオストクに戻すことで円満解決し(12月16日、ウラジオストクに向けて出航)、白軍将卒は傭船で元山もしくは上海方面等に送ることに決定した。
 12月初め、中国のロシア領事が旅券を下付する見込みが立ち、東京の露国大使館からは8000円が送金されたことにより、やっとのことで傭船契約を結ぶことに成功した。
 12月13日、白軍将卒170余名と亜港から小樽に戻った白軍兵を含む計約200名を搭載した第二錦旗丸が、上海に向けて出航した。途中、上海下流の呉淞(ウーソン)で、露国艦船十余隻が碇泊している横を通過した。これら元山からの艦船は、赤軍から帰順勧告が出されていたこともあり、長い間中国当局から上陸許可が得られなかった。第二錦旗丸の場合は、日本総領事館や露国領事館の助けを得て、到着から4日目の12月27日にようやく上海への上陸が許可された。
 ところで、上海にはロシア革命以前からロシア人の富裕層700名ほどが租界で暮らしていたが、避難民が大量流入した結果、上海には新たな亡命ロシア人社会が形成された。
 シーシャン号が出発した前日の12月12日付で、イリイン司令官から函館全市民及び函館在住ロシア人に対する感謝状が函館毎日新聞に届けられていることから、在函ロシア人、函館市民、場合によってはハリストス正教会と具体的関与があったとも考えられるが、事例に乏しいため、この点、今後も引続き調査したい。

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写真は船内で上海安着を祝う第二錦旗丸の一行(右からススロフ副官、イワノフ将軍、南勇太郎船長、イリイン海軍大佐『函館毎日新聞』大正12年1月10日付(9日夕)より)

「会報」No.22 2003.3.10 2002年度第3回研究会報告(その1)

ウラジオストク研修の旅 2003年1月5~9日

2012年4月24日 Posted in 会報

岸甫一・岸伸子

 このたび、函館日口交流史研究会、極東大学函館校、在ウラジオストク日本国総領事館などのお力添えにより、初のウラジオストクへの旅を無事に終えたことに感謝いたします。
 研修目的は、甫一にとって日日交流史研究の糸口発掘にありました。ロシア語を学び始めたとはいえ、おぼつかないと知りつつ、まずは行ってみようと、夫婦で出かけました。
 極東大学付属東洋大学では、ロシア正教クリスマスイヴというのに試験中......生徒たちが学内にあふれていました。繁忙期にもかかわらず、シュヌイルコ先生・モルグン先生・アフォーニン先生からアドバイスをいただくことができました。
 北海道・旭川でも教えたことがあるというシュヌルコ先生は、東洋大学が語学を重視し、日本、中国、韓国(朝鮮)の3部門からなり、沿海地方・サハリン・千島そしてアジア諸国から学生が来ていると説明されました。
 アフォーニン先生には、19世紀の日本・ウラジオストク関係の古文書の所在を文書館に確認していただくことになり、1日おいてアフォーニン先生の研究室(ロシア科学アカデミー歴史研究所)を訪問すると、空き時間を縫って閲覧紹介状をしたためてくださいました。只ただ感謝です。急遽、門限間近なロシア国立極東歴史文書館へ着くと、準備されていた目録と付箋の付いた文書ファイル4~5冊を文書課長(50歳代?の女性)が持ってきて親切に説明してくれました。ディーマさんの必死の通訳により、概略を知ることが出来ました。
 また、モルグン先生は18世紀の史料はここにはないが、「もっとやってほしいことがある」と積極的に提案されました。たとえば、「ウラジオストクと日本の関係はまだ研究が進んでいない」「日本時代のサハリンのことは、まだまだ分かっていない」と逆に研究を勧められました。1999年函館・日口交流フェスティバル報告書に掲載のモルグン報告に「北のからゆきさん」が触れられていたので質問すると(伸子)、「日本からの研究はない」とのこと。1937年までのウラジオストクの日本人の生活がよく分かるものに、戸泉米子『リラの花と戦争』(改訂版、2000年刊、福井新聞社)を紹介してくださいました。
 さらにサハリンからの引揚げ日本人について、関心をよせているモルグン先生と、その体験者から名寄で聞き取りをしたことがある伸子とは話しがおのずと進み、改めて樺太からの引揚げは日口交流史の課題であったことに気づかされました。
 アルセーニエフ名称沿海地方国立博物館はお洒落なヨーロッパ風の建造物の建並ぶスヴェトランスカヤ通りの一角にありました。博物館のガイドさんとオーリャさんの通訳で、2時間かけて見学。伸子の目をひいたのは、第二次世界大戦の展示室の2枚のポスターでした。銃剣をバックに「母なる祖国が呼んでいる」と女性が左手を挙げて兵士募集を訴えたもの、もう1枚は、血痕がついたハーケンクロイツのマーク入りの銃剣におびえる子を母親が「助けて」としっかり抱きしめているもの。日本は、戦争に向わせた象徴が女性ではなかったこと、再び銃剣を向ける側になってはいけないことをロシアの展示が教えてくれました。
 翌日、博物館で親しく迎えてくださったのはアレクシュク館長とルスナク学術評議会書記ら3名の女性でした。帰りがけに「仕事と家庭の両立は難しいですね」と問いかけると「まったくです。子どもは少ししかもてません」と、女性同士納得するものが通いあう一コマもありました。
 極東大学函館校卒業生の吉崎花野子さんを極東大学の学生寮に訪ねました。運動機能の障害をもちながらも、ロシア語とウラジオストクに魅せられ頑張っている花野子さん。彼女がクリスマスプレゼントにいただいたチョコレートをごちそうになり、ピロシキをほおばりながら、よもやま話に花が咲きました。
 ゴーリキー・ドラマ劇場では「クリスマスの夢」を観劇。"ウソから出たマコト"に託すという喜劇で、地元の名優たちが劇中何度も発っした「スノービン ゴーダム スャスチャ」(新年を祝う言葉)をすっかり覚えました。同行のオーリャさんらのおかげで市民に混じって楽しむことができました。イルミネーションも色とりどりの中央広場では夜9時をすぎても、小さい子たちが化粧姿のトナカイにのったり、滑り台を楽しんでいました。極東の国際都市ならではの干支・ヒツジをあしらったデコレーションケーキが売られているのには驚きです。
 ウラジオストクは、ここ数年で目抜き通りの外観を一新したようで、変化のただ中にありました。それにしても訪問した先々で、女性たちが責任ある職務を果たしており、今回の研修は、案外、伸子の方が刺激を受けたのかもしれません。

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極東大学付属東洋大学前で

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ウラジオストクのアルパート通りで(歩行者天国になっている)

「会報」No.22 2003.3.10 2002年度第3回研究会報告 (その2)

国立サハリン州文書館所蔵資料をめぐって

2012年4月24日 Posted in 会報

アレクサンドル・コスタノフ

 サハリン州にはアルヒーフ(以下、文書館とする)は18ある。国立の州文書館は1つ。残る17箇所は市立の文書館で、第二次世界大戦後に設立・整備されたもので、市の歴史資料を取り扱っている。州文書館には1860年以降の資料(下田条約以降のロシア軍関係のものなど)が収蔵されているが、資料は150年のサハリンの歴史を映しだしたように複雑な運命を辿って現在に至っている。その過程は4つの時期に区分される。

第1期 19世紀末~20世紀初頭
 サハリン島の運命と同じく、最古のロシア語の公文書は、1855年の日露通好条約が締結された頃、ロシア軍の哨所ができた時期のものである。この時期の文書は分散と散逸を経て、現在その一部は北海道大学附属図書館北方資料室に(「明治初年樺太関係ロシア語文書」等)、残りの大半はロシアの海軍史料館と文書館に保管されている。
 1875年のペテルブルク条約(樺太千島交換条約)で樺太がロシア領となり、流刑地となった。19世紀末から20世紀初頭のサハリンには、多くの文書があった。これは、流刑地には行政府が置かれ、強固な官僚体制下にあったためである。当時は、バイカル湖東のネルチンスクの流刑地と同様、サハリンも「ロシアのオーストラリア」と呼ばれていた。
 日露戦争が起こった最初の頃は、サハリンはまだ平和だった。1905年7月に日本軍がサハリンに上陸し、3ヶ月に亘る戦闘の後、北サハリンの長官リャプノフ中将が降伏した。しかし、サハリンの公文書は被害を余り受けなかった。これは、リャプノフ長官の命令で、日本軍との戦いの前に、北サハリンの安全な場所に疎開させていためである。ただし、長官自身が持参していた文書は日本の手に渡った。
 降伏したリャプノフ中将の罪状は、(1)防衛戦略が下手であったこと、(2)武装したまま降伏したこと、(3)貴重な資料が敵の手に渡ったことであった。(3)は、民間の資料はロシアに返却されたが、軍の地図は返却されなかった。
 島で最も古い資料は南樺太が日本領になってからもコルサコフに保管され続け、この資料は現在州文書館に保管されている。

第2期 ロシア革命・国内戦争の時代
 1917年にサハリン州の州都は、アレクサンドロフスクからニコラエフスクに移されたが、古い資料は、アレクサンドロフスクに残された。
 1918年のシベリア出兵をへて、1920年にニコラエフスク(尼港)事件が起こり、ニコラエフスクはパルチザンにより全焼した。しかし、アレクサンドロフスクに残された公文書は無事だった。
 1920~1925年、日本軍の北樺太占領下では軍政が敷かれたが、この時、サハリンの資料は日本軍の手に渡った(これが2度目)。日本軍は、ロシアの公的機関の活動を中止させ、全ての資料を一箇所に集めた。アレクサンドロフスクの歴史的資料もここに集められた。日本軍の資料の取扱は丁寧で、財産に関する資料などは、ロシア人が請求すれば与えてくれた。
 日本は、北樺太における恒久的利権を主張し、当時日本に亡命中であった帝政ロシア時代のサハリン州知事グレゴーリエフを首班とする「サハリン自治国家」の樹立を試みた。後に日本軍が北サハリンから撤兵し革命軍がやって来ると、グリゴーリエフは中国に亡命した。
 日本の最大の関心は、非鉄金属、石油、金、石炭がどこに埋蔵されているのかを示す鉱山関係の資料だった。この分野は、当時、日本の地質学者が調査に当たっており、事実上重要な資料であった。この資料により、開発前にロシア人の石油利権者が誰であるかということなども明らかになった。
 日本はニコラエフスク事件に関する資料に関心を持っていた。パルチザン部隊の資料など、資料の一部が日本側に渡されたものと想像するが、どこに行ったのかは不明である。
 1925年、日ソ基本条約が締結されると、モスクワからサハリンに役人がやって来た。アレクサンドロフスクで数週間に亘る話し合いが行われ、この年の5月15日には日本軍は北樺太から完全に引揚げた。協定書には、「公文書の引渡しについて」という項目がある。これにより、北樺太の資料は、(1)ロシアから日本軍の手に渡ったものはソ連側に戻され、(2)日本軍の占領下にあった5年間の資料(日本語と露語、量的には余り多くない)は一箇所に集められ、モスクワに送られることになった。
 ちなみに、1920年代後半は、白軍・反共組織の資料も集められた時代だったが、日本の文書は、コルチャーク政権に関するものなど、反革命文書の中に入れられた。こうして他の反革命文書と一緒にモスクワに送られ、党の秘密文書として取り扱われた。
 1920年代後半~1930年代は、ソ連全土に文書館が設立されていった時期であった。しかし、サハリン州は、中央から遠く、専門家も不足していた。特に1930年代は粛清の嵐が吹き荒れた複雑な時代であり、専門家はロシア極東へは行きたがらなかった。そのため、国立サハリン州文書館が設立されたのは1938年末と、遅かった(注:1947年に独立のサハリン州が設置され、ユジノサハリンスクが州都となるに及び、同文書館はアレクサンドロフスクからユジノサハリンスクに移転した/佐藤京子「サハリン州の文書館」『北海道立文書館研究紀要』第18号)。これ以降、本格的なシステマチックな資料整理が始まった。
 1930年代には、白軍関係の反革命資料のみならず、それ以前の資料も中央(モスクワ)に送られることになった。これは、「共産党史」、「ロシア革命運動の歴史」といったテーマが研究されたためで、研究に必要な関連資料全てであった。サハリン同様に、ネルチンスク流刑地の全ての資料もモスクワに送られることになった。ところが、実際はハバロフスクまでしか送られず、第二次世界大戦まではハバロフスクに置かれた。これは、1930年代後半は大粛清の時代で、上層部にとっては、公文書のことは二の次となっていたためと考えられる。

第3期 第二次世界大戦時代
 1941年、ソ連は独ソ戦で人的・物的のみならず、資料や公文書のかなりの量を失うことになった。この経験から、ロシア極東は、日本軍からの攻撃を受ける可能性が高い危険な地域と認識され、歴史関係や秘密資料は国境付近のハバロフスクから安全なシベリアに移されることになった。
 そして、1943年、トムスクにソ連極東中央文書館が設立された。トムスクに疎開したおかげで資料は失われずにすんだというプラス面があった一方、極東の研究者にとって、長年使いにくい状況に資料が置かれるというマイナス面もあった。
 1992年、ウラジオストクに資料が戻され、ロシア国立極東歴史文書館と名を改めた。ウラジオストクは、トムスクと異なり、保管場所はあるものの、まだ資料目録が完成していない(現在準備中)。ここにサハリン関係の資料も入っている。現在の館長は意欲的な人なので、近い将来使いやすくなると期待している。

第4期 第二次世界大戦終了直後
 1945年8月、対日戦争が始まり、8月11日、北緯50度線を越えてソ連軍は南樺太へ進入した。独ソ戦で受けた大破壊に比べると、こちらは二週間と短期間の戦いだった。難民は出たものの、日本の樺太庁公文書は被害を受けなくても良いはずだった。
 ところが、1945年末、豊原に内務省所管の公文書部が作られ、ロシア人アルヒビスト(文書整理者)は、資料の所在調査を進めたところ、樺太庁時代の公文書がないことに気がついた。理由は、日本国内と同様、南樺太ではソ連占領の直前に、かなりの量の公文書が国家機関によって焼却されたためであった。樺太庁長官の口頭での命令により焼却されたのであったが、警察関係の資料のみならず、民間会社の資料も焼却されてしまった。そのため、道路、鉄道、炭鉱、製紙会社といった、経済活動にとって重要な資料が失われた。行政機関では全ての資料を焼却してしまったため、戦後になって、水道修理をする際なども、図面すら残っておらず苦労した。なぜこのような措置がとられたのか、我々には理解し難い。しかも、ソ連側の北サハリン行政府の公文書についても、なぜか焼却措置が取られた。
 大津敏男樺太庁長官は逮捕され、シベリアに送られた。取調べでは、公文書は炭鉱かどこかに隠しているのではないかと疑われたが、どこにも隠していないことが判明した。1947年、ソヴィエト政権は、残った公文書(トン単位、袋・車両単位で計測)を一箇所に集める作業を行った。しかし、残ったものの中に歴史的資料は少なく、反古紙同然で、価値のないものばかりであった。
 当時、サハリン州には通訳官が不足していたため、ハバロフスクにこれらの資料は送られた。そこで重要書類と非重要書類に分けられ、15年間をかけて公文書の目録作りなど、資料整理が行われた。
 これらの資料は「戦利文書」として、サハリンに戻された(注:1963年に非公開文書として国立サハリン州文書館に受け入れられた/前掲佐藤京子論文)。1980年代末までは、研究者はアクセスできなかった。私は1987年から文書館で働いているが、自らも戦利品があることは公表しなかった。
 1991年に初めて日本の研究者がやって来た。この時初めて資料室へ案内した。日本人は皆驚いた。この後、ジャーナリストも大勢やってきた。最近では普通に取り扱っており、自由に閲覧できる。
 1995年、日本の資料全てを新目録に入れた(「樺太コレクション」)。日本人の協力で、分類名を日本語で作成した。この目録は堀知事宛に寄贈され、北海道立文書館に保管されている。3年前には、堀知事が公文書部を視察に来た。
 1997年には、資料集『南樺太におけるソ連の軍政時代(1945~1947年)』を出版した。現在は、1890年にチェーホフがサハリンを訪れ、人口調査を行った際の資料の整理が進行中である。
 なお、現在サハリン州には資料・文書などを扱う類似機関は100箇所ある。

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国立サハリン州文書館資料案内
(A.Iコスタノフ氏は監修者の1人、ユジノサハリンスク、1995年)

(報告者:サハリン州行政府文書館部部長、報告会通訳:A.トリョフスビャツキイ)

「会報」No.22 2003.3.10 2002年度報告会

幕末の函館に「ロシアの影」を見たアメリカ人

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 日本が開国すると、多くの外国人がやって来たが、その中にフランシス・ホールというアメリカ人がいた。彼が来日したのは1859年11月のことで、「ニューヨーク・トリビューン」紙の通信員としてであった。あるいは1861年に横浜居留地に創立された「ウォルシュ・ホール商会」の経営者というと、知っている人もいるだろう。日本人には「アメリカ一番」とも呼ばれた有名な会社である。
 英文雑誌「イースト」のバーリット・セービン編集長からホールの滞日中の日記(Japan through American Eyes,2001,Westview Press)が刊行されていることを教えられので、早速読んでみた。
 そこには日本語のローマ字表記考案で有名なヘボンことヘップバーンと一緒に、1860年9月に函館を訪問した時の記録もあった。紙幅の都合上、全てに言及はできないが、函館滞在中に彼が体験した「ロシアの影」について述べたところを抜粋して紹介しよう。
 「9月28日金曜日...、船が函館港に近づくと、人目をひく白い建物、ロシア領事館が目に入った。この日の夜、船は無事に入港した。翌29日、空は晴れて素晴らしい朝だった。夜のうちにロシアの軍艦がやってきて、近くに錨をおろしていた。甲板からは函館の街がよく見えた。目立っているものは、白い建物の一群で、洋風の二階建てである。あれは何だろうと思っていると、ロシア軍艦の側面から煙りが巻きあがってきた。8時の空砲であった。すると軍艦と陸上の白い建物から一斉に正十字の旗(アンドレイ軍艦旗、革命前、ロシア軍艦の船尾につけられた)があらわれた―この北方海域にはロシア人たちがいるのである。彼等の勢力は、凍える北の国をはい出して、怪しげな影のように忍び寄っている」
 函館で、彼は自分がまさにロシアの影響力下にいることを肌身で感じとっていた。函館の街では、英語よりもロシア語のほうが普及していたと言い、彼はさらにこんなことを書いている。
「10月6日土曜日...、ロシアは世界のこちら側に港を持っていないことを悲しんでいた。だが、この〈ロシア熊〉はお粗末な冬の家から、ものほしそうな目で、広々として安全でジブラルタルのように難攻不落な港、夏が長くて冬も許容できる寒さにある港、木材や鉄、石炭がみんな安く手に入る港をじっと見ているのである。ロシアにとっては西におけるコンスタンチノープルより東における函館のほうがより重要でさえあるのだ」
 ロシアが北海道を狙っているという噂が流れたことがあったらしいが、実際、ホールの文章からはそういった噂が流れても不思議ではなかった状況が読みとれる。
 ところで、このホールの日記を読んでまもなく、伊藤一哉さんの論考(『地域史研究はこだて』34号)を読んで驚いた。そこには、ロシア領事ゴシケーヴィチが、江戸に「フランク・ホール」という通信員を置いていて、1863年11月16日付けの本国にあてた書簡では、副領事に推挙するほど、その仕事ぶりを評価していたというくだりがあったからである。
 ホールの日記によれば、彼は「フランシス」よりも、「フランク」と呼ばれるほうを好んでいたとあるから、同一人物に間違いないだろう。ホールは、「ロシアの影」に飲み込まれてしまったのか、あるいは影の正体を見極めようとしていたのか、益々興味深い。

「会報」No.22 2003.3.10

北の大航海時代 ―ラクスマン来航を中心に

2012年4月24日 Posted in 会報

岸甫一

 1792年のラクスマン来航は、日口関係史のみを見たのではその世界史的意義は把握できない。S.ズナメンスキーは「ロシア人が太平洋沿岸に現れてから1世紀半のあいだは、太平洋の北方海域を支配したのは彼らのみであった。......... だが18世紀の最後の四半期になると事情は一変した。太平洋北部海域に西欧の海洋大探検隊が出現したのである。.........探検隊は北アメリカを廻航してヨーロッパからインドや中国へ通ずる、重要な交易路を探索するとともに、毛皮の王国に拠点を確保することを意図して、このために太平洋北部沿岸の地図を作成したのである。」(秋月俊幸訳『ロシア人の日本発見』)と述べている。
 1778年、イギリス人クックが太平洋探検の際、ヌートカ湾(現バンクーバー島)で豊富なラッコの毛皮を対中国貿易の新資源として紹介し、カムチャッカのペトロパヴロフスクにも寄港したことから、1780年代にヨーロッパ諸勢力による北アメリカ北西岸と中国間の毛皮貿易ブームが勃興し、"環北太平洋地域"ともいうべき世界が形成されはじめた。
 ロシアは、アメリカ植民地領有の既成事実の確保を急ぎ、1784年シェリホフはアラスカのコジャック島を占領し、1785年にビリングス等がアリューシャン方面を測量した。
 一方、1885年~88年のフランス人ラペルーズによる世界周航に際し、ルイ16世が与えた計画指令書には「ロシアの統治はカムチャッカ半島に最も近い千島の若干の島に及んでいるにすぎない。それより南方の島々やロシアに属さない島における、フランスとの毛皮の交易の可能性、ならびに原住民の襲撃から安全な植民地ないしは企業所設置の可能性について調査すること。」(小林忠雄編訳『ラペルーズ世界周航記 日本近海編』)とあり、スペインも北アメリカ北西岸に沿って探検隊を北上させ、1788年にコジャック島を占額、1789年にはヌートカ湾を占領し、イギリスとの間で国際紛争となった。
 ラクスマン来航は、以上のような太平洋北部沿岸海域の毛皮貿易をめぐるヨーロッパ諸勢力の角逐が最高潮に達した時点にあった。イギリスが大黒屋光太夫を対日接近に利用しようとしたことは、1794年、エカテリーナ女帝に宛てイルクーツク太守ピールが「イギリス人は、アメリカ北部北緯50°のヌートカという良い場所を占領した上に、明らかに中国貿易の拡大に努め、対日貿易に関する策謀も放置することはない。現に日本に帰ってしまったコオドユを連行しようとする機会を狙っていたのである。」(郡山良光『幕末日露関係史研究』)と述べている。
 さて、幕府直轄直前の蝦夷地をめぐる国際関係には、その異域性から開放的一面がある。根室で、ラクスマンは「彼(松前藩役人鈴木熊蔵)の手もとに松前島すなわち蝦夷と.........樺太(からぶ)と呼ばれる島の地図があったので、写しを取るために借り受けた。写し取ってから医師の肩吾(加藤肩吾)に文字を書き入れてもらい、その地図は今後の航海の参考までに航海士のロフツォフ氏のもとにのこした。」(中村喜和訳『日本来航日誌』)と述べているように松前藩役人から北方図を入手しており、これを参考にしてクルーゼンシュテルンの航海図が作られたという。また1797年イギリス人ブロートンは「(エトモで、加藤肩吾が)......この島の港の一つである箱館では、ロシア人が商取引をしていることも知らせてくれた。」(久末進一訳『プロビデンス号 北太平洋探検航海記』)と述べている。
 18世紀末蝦夷地の動向も従来の"北方の危機"という国防論的視点からでなく、以上をふまえて、国際的な"環北太平洋地域形成史"の一環として把握してみたい。

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アダム・ラクスマン

「会報」No.21 2002.7.10 2002年度第1回研究会報告

アニワ湾のムラヴィヨフ哨所とサハリン問題の発端 ―ここにおいてロシアと日本は遂に隣人となった―

2012年4月24日 Posted in 会報

トリョフスビャツキー・アナトリー

 ロシアの東方進出はある歴史的時点まで他国の国益に直接触れることはなかった。開拓者たちが進出していた地域には国家を持たない先住民族が住んでいたからである。
 状態が転換期を迎えたのはロシア人がアムール流域に進出し、開拓を試みた17世紀の半ばの頃であった。その地域にダウール人など満州人と親戚関係にある先住民族が住んでおり、隣の清国はそれに対し自分の潜在主権を意識していた。繰り返されるロシア人と満州人の衝突は1689年のネルチンスク条約により治まり、両国は勢力範囲を確定した。その後1世紀半にわたってロシアの進出はアジア大陸の北東方面に向けられるようになった。それとともにロシア人のカムチャツカから千島列島沿いの南下は日本に不安を抱かせることになる。ロシア人の千島の南下こそが幕府の北方政策を積極化させ、その結果サハリンの南端部や南千島は日本の支配下に置かれることになる。17世紀の清国と同様に、江戸幕府はロシア人の国境付近への出現を自分の勢力範囲への侵入や国益に反することとして過度に受け止めていた。幕府は北海道、千島、サハリンのアイヌ民族は太古から日本帰属であり、アイヌ民族が住んでいたすべての地域は日本国の主権下にあると考えた。(実際には国後・択捉の首長らは1731年に、サハリンアイヌの首長らは1812年だけに松前を訪れ、ウイマムを献上した)。
 19世紀の半ばに再びロシアと清国・日本との間に領土権をめぐる争いが起こる。今度は極東における欧米列強の外交的・軍事的な行動により国際情勢が急激に変化し、それは東シベリア総督ムラヴィヨフなどの帝政ロシアのエリートの一部に不安を感じさせた。アムール河口やサハリンがイギリス等の外国に占領されないように、ロシアはその地域を予防的に占領することにした。
 1853年4月11日にロシア皇帝のサハリン占領命令が下され、それに従ってネヴェリスコイ海軍大佐はサハリンにおける日本人の拠点であるクシュンコタン(現在のコルサコフ)のすぐそばにムラヴィヨフ哨所を築いた。それは西海岸の久春内に一ヶ月の間存在したイリインスキー哨所を除けば、ロシア人にとって島での最初の拠点となった。
 東シベリア総督ムラヴィヨフはサハリン占領の実施要領についてネヴェリスコイに「サハリン島南端に居住する日本の漁民に不安を与えてはならない。しかして彼らに対しては友好的な態度を示し、われわれのサハリン島占領は外国人の侵略を防ぐためであり、彼らはわれわれの保護のもとに、安全に漁業と交易を続けうることを説明せよ。」と指令を与えた(和訳:秋月俊幸、『日露関係とサハリン島』、筑摩書房、1994年、69-70頁)。
 興味深いのは、当時の文書やこの問題に詳しい歴史家(ファーインベルグ、クタコフ、アレクセーエフなど)の著作にはサハリンに居住していた日本人に関して「日本の漁民」「サマーハウス」(летник)「仮小屋」(времянка)など長持ちしない、一時的な存在の色彩を添える傾向があった。実際には19世紀半ばのサハリンをめぐる露日両国の論戦は植民地の所有権をめぐる争いであったといえる。ロシア側は最初からサハリン南部にあった日本人の漁場は植民地であったことを分からなかったか知らないふりだけをした。
 この争いの特徴は武力行使となる恐れが多分にあったにもかかわらず両国はユニークな方法で、すなわち「雑居」という形でそれを避けることにした。アニワ湾のムラヴィヨフ哨所はある意味で島における日露両国民の「雑居」への道を開いた。その「雑居」はたった8ヶ月しか続かなかったが、1867年に調印された樺太仮規則への第一歩になったといえる。その仮規則によってサハリン島は日露両国の所有となり、雑居が正式に認められることになった。

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唐太クシュンコタン之図(市立函館図書館蔵)

「会報」No.21 2002.7.10 2002年度第2回研究会報告(その1)

北海道函館商業学校ロシア語担当教員中、最近当時の状況が判明した3名について

2012年4月24日 Posted in 会報

佐藤一成

 『函商百年史』(1989年[平成元年]3月30日発行)の184頁―第一編 沿革〈全日制〉の処を見ると、「函商における露語教授者」として、5名の教員の氏名が見える。今回、筆者は、このうち初代の山村栄亀氏、第5代徳武良信氏、そして本史に記されてない第6代目に当る成田ナヂェージダさんについて、調べた処を報告したい。

 1、山村栄亀氏(前掲百年史では英語・露語教授とあり、又182頁には同氏は東京高商出身とあり)は、後に教頭となるのであるが、筆者は東京高商なる学校でロシア語を学習したのであろうかと思い、この学校の後身である現一橋大学の学園史資料室に山村氏の件につき調査依頼をしたところ、次のような回答があった。
 「山村栄亀氏は、明治15年7月東京外国語学校ロシア語科を卒業。勤務先―在日本ロシア公使館。外語卒業後東京商業学校に入学せるも中退。この時勤務先は函館商業学校」
 東京商業学校は明治20年9月より高等商業学校となった。この学校でロシア語を教え始めたのは、明治26年からである(『一橋大学学園史』―ロシア語の部:中村喜和氏著作担当、昭和61年刊)。一橋大学学園史資料室の松村美子氏より資料ご寄贈、加えて種々ご教示頂きましたことに、記して感謝申し上げます。

 2、徳武良信氏(長野県派遣学生)は1920年(大正9年)9月24日満州哈爾濱に創設された日露協会学校の第1期生である(この学校は日本文部省令による3年制の専門学校。目的は対ロシア、後にソビエトの専門家の養成。外務省監下の日露協会による経営。後昭和7年より15年まで、哈爾濱学院、以後満州国に移管され満州国立大学哈爾濱学院[4年制大学]となる。昭和20年8月廃校)。
 徳武氏は大正12年3月25日に卒業し、日魯漁業株式会社に入社する。昭和16年には、日魯漁業株式会社函館支社事業本部外事部第1外事課整備係主任となっている。
 昭和14年から16年頃までロシア語の授業を担当していたが、非常勤講師であったろう。終戦後、昭和41年4月刊の哈爾濱学院同窓生名簿にカナダ移住とある。夫人はナターリア(ポーランド系ロシア人)さんといい、娘さん2人は函館遺愛女学校を卒業した。昭和54年バンクーバーにて死去された。

 3、成田ナヂェージダ氏(ロシア語担当時期は、昭和17年~昭和19年?)は、本名をナヂェージダ・ドミトリエブナ・サンプルスカヤ(日本名ケイ子)といい、1903年(明治36)9月17日、ロシア沿海州ニコラエフスク(現ニコラエフスク・ナ・アムール)に生れる。同地の女学校卒業の頃、尼港事件が起き、日本の軍艦で樺太の真岡に避難、日本人医師のもとで働くも、望郷の念止み難く、帰国に必要なヴィザ取得の為東京へ。東京でヴィザ取得が長引いていた時、関東大震災に合い、函館に避難。函館に来たのは、ロシア人が多く、又ロシア語通訳が沢山居ると聞いていたから。函館で縁あって成田実氏と結婚。成田氏は小さな漁業会社に勤めていて、北洋漁業に従事していたが、会社が日魯漁業に吸収されたので、日魯の外事係として働く。ロシア語は若い頃、漁場でロシア人と接するうち覚えたのであろう。42歳の時漁場で倒れ、帰函。結核で10年間柏野に在った函館療養所で療養するも死亡。この間日魯は良く面倒を見てくれたと云う。後にナヂェージダさんも日魯で働いたとのこと。子どもは男3人、女2人に恵まれたが、「合いの子」とよく云われ、悲しい想いがしたと云う。それで男の子2人は、千葉県の柏市の予科練にやったとのこと。(終戦後無事帰還した。)
 戦時中家が時任町にあり、同じ隣組に商業学校の校長公宅があり、ナヂェージダさんは良く遊びに行った。校長は立野與四雄と云った。夫人の外に2人の娘が居て、ナヂェージダさんを「成田のママさん」と歓迎した。ロシアの民話を聞くのが、とても楽しかったと姉の恵美さんは云う。立野夫人はナヂェージダさんの良き相談相手となった。ナヂェージダさんの処は子どもも多く、家計は苦しかった。そのことを知った立野校長はナヂェージダさんを、商業学校のロシア語講師に迎えた。
 その時ロシア語の授業を受けた本間哲男氏は、戦後、図書館第1分館で、ロシア語の市民講座をナヂェージダさんを講師に長いこと続けたのであった。又当時、商業学校で英語の教員であった屋代玲子(現奥座玲子)さんは、立野校長から「これからは隣国ロシアとの交渉も大切になるだろうから、生徒にロシア語を勉強させたいので、よろしくお願いする」と教職員にナヂェージダさんを紹介されたと語った。
 ナヂェージダさんは終戦後、北大水産学部でロシア語の非常勤講師をされた。(昭和44年4月14日~51年3月31日)
 昭和59年4月21日死去。(肺癌の為)成田家の墓は高龍寺にあったが、ナヂェージダさんはロシア正教徒として、函館山の裏手の正教会墓地に、夫実氏と共に眠っておられる。
 筆者も同じ頃水産学部に同業で勤めていたので、週1回の授業日にお会いしたことを懐かしく想出している。

「会報」No.21 2002.7.10 2002年度第2回研究会報告(その2)

ハルピンの白系ロシア人

2012年4月24日 Posted in 会報

ルスナク・スヴェトラーナ

 ハルビンの白系ロシア人という問題について、日日関係の一面として話したい。
 ハルビンの白系ロシア人の物語は、実に悲劇的である。白系ロシア人のある詩人は、将来、ハルビンがロシア人によって創られたことを覚えている人は一人もいなくなってしまうかもしれないと詩に書き残している。現在、ハルビンに白系ロシア人はたった一人しか残っていない。悲しいことが現実となってしまった。中国では、公式には、ハルビンがロシア人によって創られた街であることに触れていない。そのため、ハルビンの白系ロシア人の歴史は、ロシア時代のハルビンの最後の一ページと言えるだろう。
 ハルビンは国際的な街で、ロシア人のみならず、朝鮮人、ポーランド人、日本人、そして中国人が暮らしていた。1998年、ハルビンでは、大学の研究者達がハルビン創建100周年記念シンポジウムを開催しようとした。しかし、当局から許可されなかった。それは、中国当局は、ロシア人による中東鉄道建設以前から、そこには小さな町が存在していたと考え、ハルビンの町の起こりは中東鉄道建設開始以前からであるという立場をとっているためである。しかし、多くの歴史研究者は、満州を横断し、ウラジオストクと結ぶ鉄道建設が始まった時(1898年)を町の始まりと見なしている。ハルビンは、チ夕方面、ウラジオストク方面、大連方面の交通の要衝となり得る、戦略的に理想的な地点であった。数キロメートルに及ぶ鉄道付属地は、中東鉄道管理下にあったため、満州におけるロシア人の歴史は、鉄道に沿って発展したと言ってよいだろう。
 1898年~1917年までは、ロシアの普通の地方都市と同じ様にハルビンは発展し、初等教育機関から高等教育機関まで開設され、ロシアの行政機関の代表部が置かれた。1917年までに、ハルビンのロシア人人口は約7万人に達した。そして、1917年のロシア革命後、新しいロシアのハルビンの歴史、つまり、白系ロシア人のハルビンの歴史が始まった。当時中東鉄道総督であったホルワット将軍は、中東鉄道に共産主義者を入れないために、鉄道の管理権を中国側に譲った。
 1917年~1924年は、ハルビンの白系ロシア人の歴史の第一期と言える。この時代の特徴は、白系ロシア人の増大である。彼らの多くが中東鉄道沿線に住んだ。1924年、中国のロシア人人口は25万人を数えた。うち、ハルビンのロシア人は10万人に及んだ。1924年10月、中ソの話し合いの結果、中国は中東鉄道の管理権をソ連に返還し、中東鉄道の勤務者は、中国籍もしくはソ連国籍を有する者に限ることが法で定められた。その結果、ハルビンの白系ロシア人社会は、大きな打撃を受けることとなった。すなわち、ソ連国籍を取得したり、中国籍を取得する白系ロシア人が現れ始めたのである。
 1932年~1945年までがハルビンの白系ロシア人の歴史の第二期である。この時期の特徴は、「満州国」が建設されたことである。「満州国」時代、白系ロシア人は少数民族に位置付けられた。
 中東鉄道が「満州国」に売却された1935年以降、ソ連への帰還が始まった。帰還者の数は2万5千人に及んだ。他国へ移住した人達もいた。1930年、中国東北部のロシア人の内訳はソ連国籍者15万人、白系ロシア人10万人、中国国籍者1万5千人であったが、1934年には、ソ連国籍者11万人、白系ロシア人9万人、中国国籍者2万人となった。ハルビンだけでもロシア人は9万人にまで減少した。
 そして1945年、白系ロシア人の歴史は終焉を迎えた。当時、白系ロシア人たちは冗談で、今後ABCの選択、つまり、オーストラリア(A)、ブラジル(B)、カザフスタンなどのソ連の開拓処女地(C)(倉田:ロシア語で「ツェリナー」)に行くという3つの選択が迫られると言ったそうである。こうして、70年に及ぶ、満州におけるロシア人の歴史は幕を閉じた。
 中国籍を取ったロシア人の運命は多様であった。戦後、ソ連に帰還する人がいる一方、米国への移住希望者も少なくなかった。ところが、当時米国は、中国系移民を大きく制限しており、実際には、白系ロシア人は中国人でないものの、中国籍を取得したが故に、米国移住はかなり難しかった。どうしても米国に移住したい人は、まずチリに行き、そこで米国へ行く可能性を待ち続け、かなり時間を経た後に米国に移住することができた。他方、中国籍を取得して中国に残った人達は、中国企業で働いたり、中国政府から年金をもらったりしており、さほどの苦労はなかったと聞いている。(倉田:ロシア人の血を8分の1引くという20代の中国人女性から、「文革時代」はロシア語を解することが周囲に知れると当局に密告され、投獄される恐れがあったため、家庭内では決してロシア語を使わなかったという苦労話も聞いているため、中国籍を取得して中国に残ったことが、他の選択肢に比べて楽な運命を導いたとは言い切れないのではないかと考える)
 さて、国際都市ハルビンは、様々な民族が共存した街であったという点からも興味深い。白系ロシア人が暮らした時代、22のロシア正教会があったが、カトリック教会、ユダヤ教会も建てられた。また、13の医学や技術関係の高等教育機関の他、ロシア人による9つの研究所(東洋学、農業、郷土史研究他)が開設された。また、ハルビンには、帝政ロシア時代の教育方式に則った音楽院(3校)、バレエ学校(2校)、そして、市民が誇る「ハルビン交響楽団」(団員約60人)があった。
 最も興味深いのは、アルメニア人、グルジア人、ユダヤ人、ポーランド人、ウクライナ人といった、ロシア帝国の様々な民族が民族協会を設立し、共生していた点である。1998年に中国で開かれた会議の席上、ある中国人学者が、ハルビンが国際都市として豊かな文化を作り上げたことは、ハルビンの誇りであると述べた。
 様々な民族が相互に影響を与えつつ、共生する中で得た経験は、ユーラシア主義思想の側面からも興味深い。司馬遼太郎は自著『ロシアについて』の中で、日本人がシベリアというプリズムを通じて見たロシア人について書いているが、ユーラシア主義者はこれと非常に良く似た考え方を持っていた。ユーラシア主義とは、1921年にプラハなど東欧の白系ロシア人の間で生まれた思想で、東からロシア史を眺め、歴史を再評価することの必要性を説いた。ユーラシア主義思想は、アジアに暮らす白系ロシア人にも影響を与えたと言われている。
 「満州国」にふさわしいイデオロギーを模索していた日本人も、ユーラシア主義思想には強い関心を寄せた。満鉄調査部の本間七郎氏、彼の上司の嶋野三郎氏および中野氏は、ユーラシア主義者の主な著作を日本語に翻訳した。彼らは、多民族国家の繁栄、つまり、五族協和の上にできた「満州国」の繁栄を考える上で、ユーラシア主義の基本的考え方に特に関心を示した。ユーラシア主義の共同宣言は、日本と「満州国」の共同繁栄の宣言として和訳された。ユーラシア主義者の影響を受けた嶋野氏は、これが今後のアジア人の解放の基盤となるべきであると考えるなど、ユーラシア主義者の思想は、満鉄調査部の知識人たちにかなり大きな影響を与え、新しい国造りに役に立つ思想と見なされたようである。
 東京大学の米重文樹教授は、ユーラシア主義者の思想は、1932年の「満州国建国宣言」にも影響を与えていると考えている。また、米重教授は、五族協和の協力の上に創られた平等な国家という思想は、当時の多くの日本人の目に非常に魅力的なものに映ったに違いないと述べている。しかし、ユーラシア主義者の夢、そして、彼らの影響を受けた日本人は失望する結果となった。実際は、「満州国」は関東軍の管理下に置かれ、理念とは異なり、平等ではない、一定のイデオロギーに支配されてしまった。
 どんなにすばらしい理念であっても、実現された時には期待通りにならない場合があるということに注意しなければならない。「満州国」の場合も然りである。
 近年、ロシアの政界では、ユーラシア主義という言葉が復活している。日本でも、ソ連崩壊後の旧ソ連地域をユーラシアと呼んでいるようである。数十年前のユーラシア主義者と同様の考え方を持つ人もいる。
 ユーラシア主義者が主張した、東からロシア史を見直すという新しいアプローチは、私には、非常に興味深い。

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前列左端がルスナクさん。五島軒本店で

(報告者:アルセニエフ博物館学術協議会書記、報告会通訳:トリョフスビャツキー・アナトーリー、記録:倉田有佳)

「会報」No.20 2002.4.6

聖ニコライ祭に臨んで

2012年4月24日 Posted in 会報

工藤朝彦

 昨年12月に札幌ハリストス正教会の松平康博司祭様から、聖ニコライ祭が没後90年の命日にあたる2月16日に函館ハリストス正教会で執り行われることをお伺いしておりました。函館日ロ交流史研究会の事業参加や息子が所属するサッカーチームと函館のチームとの交流試合引率などで、年数回は函館を訪れておりますが、今回の訪函には特別の感慨で臨みました。
 教会には在札幌ロシア連邦総領事ご夫妻をはじめ各地から日本人やロシア人の信者の皆様が集まられ、ニコライの不朽体を納める「聖体礼儀」が行われました。聖堂では司祭や信者さんが祈りをささげる中、セラフィム辻永昇東日本主教々区主教が金属製のケースに入った豆粒ほどの遺体(東京・谷中墓地に埋葬されたミイラ化した聖ニコライの一部)をニコライを描いたイコンの板絵に納める様子を目のあたりにして、まるで映画の中のキャストの一人になったような、はたまた夢の世界にいるようでした。
 実ははずかしながら、信者でもない私は、事前に案内パンフレットを頂いていたのですが、聖ニコライ祭の聖体礼儀の詳細については知っておらず、この度のモレーベン(祈祷)が日本正教会の歴史上、極めて意義深い出来事であることを当日に実感した訳でありました。亜信徒・大主教聖ニコライが修復されたばかりの函館の教会に戻ってきて、今、白亜の教会がタイムカプセルとなって我々を聖ニコライが生存していた時代に運んでくれたのですから。
 私は、昭和50年代はじめ、ロシア語を学ぶために東京のお茶ノ水にあるニコライ学院に通っていたことがありました。何故ロシア語を学んだかと言えば、早稲田大学では商学部に籍を置いておりましたが、青森港に入港するロシア船を見て育ったこともあり、第二外国語としてロシア語を選択しました。しかしながら、一学年でロシア語の基礎を学んだ後、二学年と三学年での授業はマルクス経済学の原書を読むことが中心で会話はほとんど出来なかった状況、もっと生のロシアと接したい思いであった頃、アルバイト先であったお茶ノ水の「山の上ホテル」の近くでロシア語を教えている学校があることを知りました。
 多分、NHKロシア語放送のテキストに紹介されていたと思います。
 ニコライ学院では、夜間コースに通いましたが、生徒さんの大半は社会人で自分が一番年少でした。最初は単なる語学学校かと思っていましたが、学院の敷地内には、大きな聖堂があったり何か修道院みたいな施設(後で、司祭の養成機関であることがわかりました)があるなど、歴史を感じさせるとともに、ロシア的雰囲気を強く与えてくれたのです。また、同時に聖ニコライという方を知りました。
 そういうことから、大学4年の夏、寝袋を持って横浜港からロシア客船で津軽海峡通過ナホトカ経由シベリア横断鉄道でモスクワ・レニングラード・北欧・英国などまで旅をすることにしました。
 当時は、国鉄お茶ノ水駅を降りると聖堂の半円球が直ぐ見えたのですが、今は高層ビルの谷間の中にすっぽり埋まってしまい、何か寂しさが漂っている感じです。
 さて、聖堂での祈祷終了後、午後1時半からロシア極東国立総合大学函館校で開催された記念講演会は、立ち見がでるほどの盛況でした。概要について述べさせていただきます。

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聖ニコライ

●タチアナ・サープリナ女史(歴史学者で在札幌ロシア連邦総領事のご夫人)
「日本の聖ニコライの宣教の偉業」
・ニコライは24歳の時日本行きを決意し周囲の人々の反対を押し切り、141年前に日本の土を踏んだ。
・日本人の心を理解するために日本語教師の下、日本語をはじめ日本の古代から現在までの歴史、仏教徒の僧侶からは仏教書も学んだ。8年をかけて日本の歴史・文学・宗教に関する知識を身につけたが、方言には苦労した。
・日本人は外国人を避けるとともに憎んでもいた。ニコライが最初に宣教したのは、ニコライを殺そうとした神道の澤辺琢麿だった。当時、日本では洗礼は禁止されていたが、1868年には20名に洗礼を施したが仏教徒が多かった。父のような愛情で人々に接し、聖ニコライを囲む会も結成された。
・ニコライは聖書と使徒経の翻訳を死ぬまで続けた。
・日露戦争時、本国から帰国するよう説得されたが、日本の信者の懇願などにより日本に残り平和を祈りました。しかしながら、日本ではスパイ、ロシアでは売国奴といわれた。
・生活は質素で、継ぎ接ぎの祭服を着ていた。
・ニコライは死に際「私の生涯はかすみのようなものだった。日本での50年は何も出来なかった。私は鋤に過ぎない。土地を耕して使い物にならなくなった鋤は捨てられる。私は捨てられる。皆さん、誠実に絶え間なく土地を耕してください。」と言われた。90年前の葬儀には沢山の人々が参列し、明治天皇からは花輪があがった。
・過去10年間で、ニコライは母国ロシアで注目され、氏に関する本が発行されている。2000年2月16日、故郷のベリョーザ村ではお墓の起工式が行なわれ、函館ハリストス正教会をモデルとする教会を建設する計画も進んでいる。

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函館ハリストス正教会

●中村喜和氏(共立女子大学教授)
「まことの愛の半世紀 聖ニコライの偉業を回顧して」
・一橋大学では、第二外国語としてロシア語を選択した。ロシア語を学ぶためにロシア文化を知る必要があった。
・『宣教師ニコライの日記』を中村健之助さんをはじめ四人で訳した。
・ニコライの思いやりのある人柄は、後にイコン画家となった山下りん宛の手紙からも覗われる。
・ニコライの一生を彼の芸術的なところ、特に音楽の感覚の優れたことについて語りたい。
・ニコライは聖歌を重んじ、明治8年、詠隊のソプラノとアルトを養成する為に正教女学校を創設した。
・聖体礼儀(レトルギー)は聖歌と一体となってはじめてその儀式が成り立つ。
・明治12年、ニコライの二度目で最後の帰国時、聖歌を聞いた印象を、「ペテルグルグのネフスキー修道院の聖歌は実に素晴らしい。一方、神学大学付属聖堂の聖歌隊は以前ほど良くない。バスが劣る。」と述べている。
・明治36年、お茶ノ水駿河台で正教新聞主催のコンサートが開かれ、ニコライの好んだ曲「バビロンの川辺」や「ヘルビムの歌」などが演奏され、大変感動された。当時、コンサートは教会だけの催事ではなく、知識人が集まる文化的行事であった。
・ニコライは信仰には形式(聖歌・儀礼儀式)と内容(心と精神)があるが、内容がよければ形式にこだわる必要はないという日本的な考え方もあるが、形式も重要であると言われた。
 中村喜和先生はこの3月で70歳の定年を迎えられるとのこと。

●アレクセイ・ボゴリュボフ氏(エルミタージュ美術館学芸員)の報告
 また、山下りんの研究者で岡山大の鐸木道剛先生の紹介で、エルミタージュ美術館日本文化部学芸員でニコライの研究者でもあるボゴリュボフ氏から当該施設に保管されている絹の巻物に描かれた昔の箱館絵図(縦50㎝×横80㎝、ロシア領事館付属教会も見える)のスライドによる紹介があり、大変興味深い一齣でした。
 正教会信徒会館内に展示された遺品を見た後、17時台発の津軽海峡線で青森へ帰る予定でしたが、聖ニコライが身長182センチの大男であったことを窺わせる祭服のフェロン・マンティア・サッコスをはじめ、愛用されていた品々、直筆の手紙、文献、眼光鋭い自身の写真、1891年に建立された当時やその後の改築時の東京ニコライ堂の写真など興味尽きない数々の展示品に見入ってしまい、列車の出発時刻を忘れてしまい一列車遅らせることになりました。信徒会館を出る頃は、既に薄暗くなっていましたが、夕暮れの青空に浮かび上がった塗り替えられた白壁のガンガン寺が眩しくてしょうがありませんでした。
 司祭の皆様が打ち鳴らす鐘の音は一層大きく力強い響きとなって坂を下りてテクテクと歩いて函館駅に向かう私の耳にはいつまでも余韻が残っていました。これまで何回も聞いていたのですが、今回ほど活き活きした音ではありませんでした。
 「ああそうか イオアン・ドミトリビッチ・カサートキン(ニコライ)が巨体をゆすりながら鐘を打っているからだな」とふと思いました。

「会報」No.20 2002.4.6

話題の本の紹介

2012年4月24日 Posted in 会報

堀江満智著『遙かなる浦潮』
(2002年1月、新風書房)

 著者堀江満智さんの祖父堀江直造は、明治時代にウラジオストクに渡り、日本人経営の商店に勤めた。その後独立して、堀江商店と看板を出し、商売の成功とともに居留民会会頭となるなどウラジオストクの日本人社会の有力者となっていった。
 堀江商店については、1995年、当会が主催したシンポジウムにおいてゾーヤ・モルグン氏(当時ロシア科学アカデミー極東支部極東諸民族歴史・考古・民族学研究所)が発表した「ウラジオストクにおける日本人企業家」でも詳しく言及されたので、ご記憶にある方もいらっしゃるだろう。
 この度、孫の満智さんが堀江家に残された貴重な資料や写真を駆使して執筆されたのが、本書である。シベリア出兵時の様子など、公的な記録ではみられない興味深い事実も知ることができる。

「新日本古典訳文学大系、明治篇」第15巻『翻訳小説集 二』
(2002年1月、岩波書店)

 昨年7月28日の茶話会でお話しいただいた安井亮平先生の校注・解説による、高須治助訳『露国奇聞 花心蝶思録』が、収録されている(本文291~348頁、補注479~490頁、解説523~537頁)。
 「古典文学」に関心のある方は言うに及ばないが、「函館と高須治助」について、関心をお持ちの方にも必見の書である。
 当研究会としては、函館と高須についての新資料発掘が待たれるところである。

「会報」No.20 2002.4.6

ロシアとロシア人

2012年4月24日 Posted in 会報

工藤精一郎

 隣りの大国ロシアのことは、日本では残念なことだが、ほとんど知られていない。そこで歴史上の大きな事件を瞥見しながら、ロシアとロシア人について考え、ロシア理解の一助としたい。
 まず建国伝説だが、原初年代記によると、西暦850年頃ドニェプル河畔のキエフ付近に東スラブ族(現在のロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人)が農耕を営み、水路ビザンチンと交易を行っていた。ところが収穫期になるとスキタイ、ホロペツ等の遊牧民に襲われるし、交易船が掠奪される。これが毎年のようにくりかえされた。そこで長老たちが集ってワリャーグ人(ヴァイキング)を招くことにした。「わが国は広大であり豊かであるが、秩序がない。来りて君臨し、われらを領せよ」それを受けて武将リューリクが手勢を率いて乗りこみ、請われるままに支配し封建国家のようなものを作り上げ、遊牧民の襲撃を防ぎ、交易船の安全を守った。これがキエフ公国リューリク王朝の成立である。
 ここから考えられるのはロシア人は本来農耕民族で強者に支配されるのを望むということで、これがツァーリ幻想となるのである。
 次にキリスト教の受容である。四代目ウラジーミル聖公の時代になると、封建国家の宿命で、国が大きくなるにつれて秩序が乱れはじめて、国民を団結させる精神的中心が必要となった。そこで聖公はビザンチンからキリシア正教を入れて国民の精神のよりどころとし、ビザンチンの王女と結婚して自分の権威を高めた。聖書普及のためキリール文字が入り、キリスト教文化と共にロシア文化発展の基礎となった。こうして国が大きく飛躍しようとしたまさにその時に大きな不幸に襲われ、キエフ公国は壊滅した。
 1230年代のモンゴルの襲来である。強力な騎馬軍団モンゴルの前に平原国家キエフ公国はひとたまりもなかった。モンゴルは1243年キプチャク汗国をつくって居座り、以後240年間にわたりロシアを支配し、しぼり上げることになる。この間にロシア人がロシア人として生き残ることができたのは、モンゴルが宗教には手をつけなかったことと、ロシア人の強い忍耐心ニチェヴォの精神があったからにほかならない。
 モスクワ公国。北の森林地帯に逃れたリューリク一族のイワン・カリータがモスクワ河の畔にクレムリン(城塞)を造り、モンゴルに恭順な態度をとりながら、しだいに勢力をのばし、モスクワ公国を築き上げた。イワン三世の時代(1460年代)にはもうモンゴルに対応し得る国力に達していた。そしてビザンチンがオスマントルコに滅ぼされたので、皇帝の姪ソフィアと結婚し、ギリシア正教の総本山をモスクワに移し、モスクワを第三のローマと称し、ビザンチン皇帝の紋章双頭の鷲を自分の紋章とした。1480年イワン三世はついにロシアをモンゴルの桎梏から解放した。このモスクワ公国もイワン四世(雷帝)の死をもって幕を閉じることになる。そして15年におよぶ空位の内乱時代が始まる。これはツァーリ幻想、民衆の力の大爆発、強烈な国土愛などロシアの要素が表面に出た史上最も興味ある時代であるが、1613年ロマノフ王朝の成立をもって終った。
 ロマノフ王朝は徳川幕府と重なり、約300年つづくことになる。大きな流れは、ピョートル大帝とエカテリーナ女帝の西欧化政策によって、その恩恵に浴した貴族知識階級と元のままの民衆に二分化され、これがロシア発展に大きな歪みを生み出すことになるのだが、ここでは抑圧された民衆の大爆発について考えてみることにする。これがおもしろいことに100年周期で発生するのである。
 まず1670年のステンカ・ラージンの乱、当時はスウェーデンとの戦争が国民生活を圧迫し、忍耐は限界まできていた。ドンコサックのステンカ・ラージンの反乱に農民暴動が合流し、国を二分する農民戦争となった。スローガンは「全ロシアを政府の役人と農奴制から解放する。」この反乱は2年間つづいた。
 次は1770年のプガチョフの反乱。この頃もロシア・トルコ戦争の重圧で民衆の忍耐は限界をこえていた。ドンコサックの首領プガチョフが反乱を起し、ピョートル三世を名乗って農民解放を叫び、農民暴動が合流し、2年間にわたる農民戦争となった。エカテリーナ女帝はピョートル三世の皇后だったが、夫を排して女帝となった。ピョートル三世は難を逃れて民衆の中に生きているという噂が民衆の間にひろまっていた。ツァーリは神に命じられた存在で民衆を守ってくれる。悪いのは取巻きの役人どもだ。これが民衆のツァーリ幻想である。
 1861年アレクサンドル二世は、時代の流れを見て、上からの農奴解放を行った。これがガス抜きとなって100年周期は30年ほどずれた。そして1905年に日露戦争が契機となって第一回革命が起ったが、これは不完全燃焼となって、1917年第一次世界大戦を機に十月革命という大爆発が起った。
 こう見てくるとロシアの歴史は、建国以来培われたニチェヴォの精神が忍耐の限界を越えると強者による救いを夢想して大爆発を起す。この大きな抑圧を大きな爆発のほぼ百年周期の繰返しであったことがわかる。これがロシアとロシア人の来し方である。

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講演中の工藤精一郎先生

(2001年11月10日の講演会より)

「会報」No.19 2002.1.22 2001年11月10日の講演会より

ガリーナ・アセーエヴァさんに再会して

2012年4月24日 Posted in 会報

小山内道子

編集者より
 小山内さんには以前「会報」13号に「故国に帰った白系ロシア人の運命―ガリーナ・アセーエヴァさんに出会って―」を書いていただいたが、これはその続報である。ガリーナ(愛称:ガーリャ)さんは、昭和21年頃まで函館に暮らしていた白系ロシア人ズヴェーレフ家の次女である。
 一家の日本での生活やその後ロシアに帰国したことなどは、13号で紹介されている。

「註」登場人物について
*ヴェーラ:ヴェーラ・アファナーシエヴァ、東京に生まれ、1956年ソ連に帰国。晩年のブブノワさんとレニングラードで暮らし、お世話した。
*ブブノワさん:1922年、日本に嫁いでいた妹のヴァイオリニスト小野アンナを訪ねて来日した画家。長年早稲田大学でロシア文学を講じ、1958年帰国した。
*ナターシャ:ナターリア・マクシモヴァ。最晩年のブブノワさんと交流があった。

ロストフ在住の長兄ミハイル(ミ-シャ)
 昨年9月半ば思い立ってモスクワへ出掛けた。ちょうど2年ぶりのモスクワは、予想外に暖かくお天気も良かった。「バービィエ・レータ(秋の小春日和)が今年はずいぶん長く続いているんですよ」と皆嬉しそうに話していた。このお天気のせいか意外なほど市民の表情も明るく、落ちついていた。「アメリカの悲劇」、「カミカゼテロ」は話の前置きとしては話題になっていたが、やはり「遠い国」のことで、深刻さは感じられなかった。ドル安になるのは困ると不安がる友人もいたが、下がったドルはすぐに持ち直した。
 一昨年、ほんとうに思いがけなく出会うことが出来たガーリャさん(以下名前の敬称略す)には会いに行くかどうか迷っていた。というのはお姉さんのターニャが昨年9月急逝してしまったからである。ズヴェーレフ家の長女として日本のことを一番良く覚えており、北海道から来る私にとても会いたがっていたということだったのに。
 ガーリャに電話してみたら留守である。次にかけたガーリャの友人ヴェーラによると、ガーリャはお兄さんのミーシャを訪ねてロストフ・ナ・ドヌーに行っているが、数日後には帰宅するはずとのこと。念のためお兄さんの電話を教えてもらう。
 2、3日経ってロストフに電話すると、ガーリャはその日の早朝の汽車で帰路についた後だった。ペテルブルグまで36時間もかかるそうである。良い機会だと思ってミーシャとおしゃべりした。日本のことはいろいろ覚えているよと、日本語で挨拶の言葉などを使ってみせた。思い出すのは函館の五稜郭、湯の川、カラリョフ家の息子たちと遊んだことなど。ズヴェーレフ夫妻はカラリョフ家の子どもたちの洗礼時に代父母を勤めたほどの親しい間柄だった。
 ミーシャは2年生からは東京のプーシキン学校に行ったが、上野公園、菊人形の展覧会がなつかしいという。その後12歳で大連に行った。今ロストフには昔日本に住んでいた人たちが数人居て、折りにふれて集まっているという。10数分の電話でのおしゃべりだったが、日本とつながる小さな社会がロストフにもあることが分かって、いつの日か訪ねてみたくなった。

ペテルブルグで
 数日経ってガーリャに電話すると、前もって訪ロを知らせずに今頃電話してくることに不満げな様子が伝わってきた。会いに行かないのは「信義にもとる」ような気がして、ともかくその週末ペテルブルグへ出掛けた。ナターシャは新しい仕事で忙しい中ガーリャと連絡を取り合ってホテルに会いにきてくれた。とりあえずカフェで話したが、話題はまず4月に開かれた「日本週間」のことで、日本からコーラスグループが訪れたりしたが、行事のメインとなったのはナターシャの"「日本」百景"展だったのだ。そのカタログをいただいたが、初めてまとまった形でみるナターシャの絵の数々は「最も日本らしい日本」ともいうべき風景や人物像を表現していてとても素晴らしいものだった。
 ナターシャの言うように、ヴェーラを含めた人の輪、日ロの交わりはブブノワさんから枝葉を広げたものなのである。
 ナターシャとは別れて、便利だからとガーリャの案内で亡くなった姉のターニャの家へ行った。今は娘のオーリャの家族が住んでいる。オーリャは仕事に出ていて9歳の息子ダーニャが留守番をしていた。
 今回の訪問で一番感激したことだが、長女のターニャが管理していたという日本時代のアルバムをたくさん見せていただいたことである。今では骨董品としても価値がありそうだが、表紙が日本の名所の蒔絵で飾られたオルゴール付きの立派なアルバムに家族の歴史を刻む写真の数々が収められていた。
 ロシア人が皆で集まった時、夏に川湯に保養に行った時、ターニャが松風幼稚園に通っていた時...、ここに1枚お借りしてきたのは、家族で休日によく遊びに行ったという大沼公園でのスナップ(1938年頃)である。当時のロシア人は条件に恵まれなくとも、努めて生活をエンジョイしていたことが分かる。この次はアルバムに沿って具体的な詳しい話を聞かせてもらえるよう準備して訪問したい。
 午後にはバスを乗り継いで訪ねてきてくれたヴェーラも加わって、4人でガーリャが腕を奮ってくれた昼食を楽しんだ。ヴェーラといえば、去年半世紀ぶりに偶然消息が分かった聖心女学校時代の親友に招かれて初夏3ヵ月もアメリカ周遊の旅をしてきたそうで、いきいきと元気そうだった。そういう幸運とは無縁のガーリャはちょっと気の毒にも思えた。誠意をもって今後も交流を続けていくことが幾分かでもガーリャに喜びをもたらしてくれたらと願いつつ、再会を期して別れた。

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大沼でのズヴェーレフ一家 前列左からガーリャ、ターニャ、アリョーシャ、ミーシャ。後列は父クジィミーン、祖父テレンチイ、ナージャを抱いた母ダーリィア

「会報」No.19 2002.1.22

高須治助訳『花心蝶思録』をめぐって

2012年4月24日 Posted in 会報

安井亮平

 1883年(明治16年)6月に、『露国奇聞 花心蝶思録』が東京で刊行された。原作はプーシキンの最後の長篇小説『大尉の娘』(1836年)。わが国最初のプーシキンの単行本である。ロシア文学としてもこれが最初の単行本であった。
 東京外国語学校でロシア語を学んだ高須治助が原作から訳述したのを、当時の人気作家服部撫松が校閲したのだが、今日の理解では到底翻訳とはいえない、独特の作品である。
 原作は、「私」ピョートル・グリニョーフがその体験と見聞を孫のために記した一人称体の手記であるが、『花心蝶思録』の方は、三人称体で、その訳者序文で謳っているように、あくまでもピョートルとマリーヤの二人の若き恋人の「情史」中心である。プーシキン自身の歴史研究『プガチョーフ反乱史』(1834年)を踏まえて描かれるプガチョーフの反乱の様子とか、プガチョーフをはじめとする、恋人たち以外の登場人物の記述とか、風景描写や心理描写は、ほとんど省かれている。その量も原作の五分の一ほどにすぎない。主な登場人物の名前も、たとえば、主人公のピョートル・グリニョーフはジョン・スミス、その父アンドレーイ・グリニョーフはジョン・グリー、その母アヴドーチヤ・グリニョーワはジョネサン・サラムスと、姓と名を混同した、なんとも奇妙なイギリス風に変えられている。
 訳文は、漢文の読み下し体で、各章に七言の題詞が付されている以外、漢詩が随所にちりばめられている。当時もてはやされた、明治初期の翻訳史上画期的な、リットン著丹羽純一郎訳の『欧州奇事 花柳春話』(明治11年)張りである。『花心蝶思録』という題名も、『花柳春話』に倣ってつけられたものらしい。ちなみに『花柳春話』の校閲者も服部撫松であった。
 高須の訳文に服部がどの程度手を加えたか、一体「私」の手記という一人称体の原作が、なぜ、どの段階で、誰によって、三人称体と変えられ、「情史」中心の作品となったのか、などなど、詳かでない点が数多ある。
 『花心蝶思録』は、内容や文体からいって、また分量から考えても、決して『大尉の娘』の翻訳とはいえないのだが、しかし逆に、一人称体の作品を三人称体に改作するという、面倒で困難な作業をいとわず、ヨーロッパの文学作品を、自らのことばと文化に拘りつつ、紹介しようとした、明治初期の先人たちの辛労とがんばりには、頭が下がる。
 『花心蝶思録』について詳しくは、来年1月刊行予定の「新日本古典文学大系、明治篇」第15巻『翻訳小説集 二』(岩波書店)所収の小生の校注をごらんいただければ、幸いです。

 高須治助は、『花心蝶思録』の出版される(明治16年6月、ただし版権免許は前年11月)少し前、2月ころからしばらく函館に滞在した。この時の見聞をもとに、函館の主として花柳界の風俗を描いた、漢文体の『函館繁昌記』を著し、17年に刊行した。
 16年10~12月には「函館新聞」に、フランスの情話(原典不明)をロシア語より翻訳して、人情本風の『三重比翼の空衣』(未完)を連載した。これについては、桑嶋さんと清水さんにお世話になった。改めてお礼申します。
 まだ高須の函館に来た事情とか、滞在期間、その間の生活など明らかでない。どうかご教示のほどお願いいたします。

 研究会で報告した時には、まだ市立函館図書館を高須の件で訪れていなかったので、席上何度かその旨お断りしたのだったが、あの数日後訪ねてみると、案の定、図書館に高須の著書が6部所蔵されていた。その中4部は初見だった。『中央亜細亜露英関係論』の原著者はテレンチェフ、『馬術警策』の方は、マホチーヌイ陸軍少将であった。
 さすがに市立函館図書館。改めて脱帽。報告の前にまず図書館に行くべきであったと、反省することしきり。どうかご海容のほど。

「会報」No.18 2001.10.24

高須治助と函館図書館 ―安井亮平先生のお話から教えられたこと―

2012年4月24日 Posted in 会報

菅原繁昭

 今回の交流史研究会の茶話会は、函館近郊の大沼に来られているという安井亮平先生(元早稲田大学教授)がわざわざ函館まで足をのばしてくださり、お話してくださった。高須治助といえば当地では「函館繁昌記」(明治17年刊)の作者として知る人ぞ知るといった存在である。ちなみに清水さんが会報No.13掲載の「高須治助来函のなぞ」のなかで、来函事情等について推論を交えて紹介している。
 このたび、安井先生は、プーシキンの「大尉の娘」ロシア語原本と高須治助が翻訳した「露国奇聞 花心蝶思録」のコピーを携えて、いろいろな角度から翻訳の妙について話してくださった。高須治助が翻訳するに際し底本としたものが1869年のペテルブルク版であり、それが旧東京外国語学校から東京高等商業学校(現一橋大学)に伝わっていくが、その根拠として高須が原書のミスプリ部分をそのまま訳出していることで判明したといったくだりは、まるでミステリーの謎解きのようであり、思わず聞き惚れてしまった。
 ところで函館の歴史研究に関わりを持つものとして、明治10年代の函館の様子を記述した高須がどのような人物であったのかということに関心を持つのは自然なことであろう。安井先生は、そうした我々の関心にも丁寧に応える形で高須治助の略年譜を用意してくださり、それを紐解きながら、高須治助のロシア語と翻訳という世界を通してみた彼の心情にも肉薄しつつ、その歩みから伺い知れるその人となりを実に懇切な語り口で教えてくださった。
 ロシア文学といえば、かつて良く読んだ部類として、いわずもがなのドストエフスキーからはじまり、大学に入ると周囲の影響もあってゴーゴリ、ロープシン、そしてソルジェニーツィンくらい。自分にとり、プーシキンといえば、チャイコフスキーの「エヴゲーニイ・オネーギン」、はたまた、グリンカの「ルスランとリュドミラ」、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」といったロシア・オペラの台本の原作者といった印象が強いのが正直なところである。しかしプーシキン自体は遠い存在であっても、いざ高須治助がプーシキンの初の邦訳者と聞くと俄然、プーシキンが身近になるというのもおかしなことかもしれないが、これが函館の地域史フリークというやつであろうか。
 さて安井先生の作成された年譜をたどると高須治助は秋田藩士の富岡英之助の二男として生まれているのが分かる。富岡英之助という名前に見覚えがあったので、もしやと思い「函館繁昌記」の奥付を開いてみるとたしかに出版人の欄にある。高須治助の実父はこうした形で実の息子を支えていたといえるだろう。また治助は14歳(明治6年)で父と同じ秋田藩の藩医である高須松亭の養子に迎えられている。この養父の勧めで治助は、翌々年の8年に東京外国語学校露西亜語科に入学する。時の政府が「魯清韓」の3か国語を修得する者に奨学金を出したそうだ。そのためもあって没落した旧幕府の人々が、時流に乗っているとはいえないロシア語を学ぼうとしたものが多くいたそうだ。松亭が治助にロシア語修得を勧めた背景も、同じ文脈でとらえることができるという。そうであれば治助自らの意志でロシア語に向かったわけではなく、そうしたことが、その後の彼の人生にも陰を落としたようである。
 この養父にあたる高須松亭は、沢田和彦氏の研究によると、ロシアの使節として1853年に長崎に来航したプチャーチンが日本側の応接掛に提出した書簡(オランダ語)を江戸で翻訳しているという(「I.A.ゴンチャローフと二人の日本人 」『スラヴ研究』45号(1998)所収)。であれば経済的な事情とともに、かつて対ロシア関係において少なからぬ関わりをもった松亭は人並み以上にロシアへの関心を持ち、その想いを養子の治助に託したのではないかと想像を逞しくしてみる。
 さてプガチョフの乱に題材を求めた「大尉の娘」の翻訳本「露国奇聞 花心蝶思録」は、明治16年に刊行されているが、現在、サンクトペテルブルク、国立国会図書館、それに早稲田大学図書館の3冊のみが確認されているそうだ。挿絵は月岡芳年の手になる。彼は「浮世絵師の最後の偉人」とか「明治の浮世絵師」と呼ばれ、残酷趣味の絵も描き評判になったほか、洋風を融合した独特の描法で歴史上の事件に取材した作品を多く制作したことでも知られている。でも彼の浮世絵と、この挿絵のタッチはずいぶん違うように思えるが、いずれにしても当代一流の絵師を登用すること自体、なかなかのものだ。
 ちなみに原作には挿絵はなく、これは日本の読者の理解を助けるために創作されたものなのだろう。この芳年の挿絵は、服装、顔つき、室内の様子や背景など、どれをとってもリアリティがなく、日本的に変形されており「似て非なるもの」である。この翻訳本が1910年にロシア国内の雑誌に紹介された時に奇妙な挿絵が掲載されていると評価されたという。確かにエカテリーナやマリーの顔もロシア風とはいえないものの、未見の世界を想像しながら描いたものとしてはなかなかの出来映えだし、何よりも稀代の浮世絵師とプーシキンという取り合わせが面白い。
 さて「花心蝶思録」は明治19年に改訂版が出され、その題名も「露国稗史 スミス、マリー之傳」となる。改訂版も安井先生が確認されているのは国会図書館(4図)、早稲田(6図)、個人蔵(3図)だけという(括弧内は図版の点数、本によって差がある)。ところが茶話会の席上で桑嶋洋一さんから市立函館図書館にも「スミス、マリー之傳」があったはず、それ以外にも高須関係のものが複数所蔵されていると教えていただいた。後日、追跡調査をしたところ、いわば稀覯本といえる「スミス、マリー之傳」ミス、マリー之傳」の4冊目が確かに所蔵されていた。また高須がロシア語の原書から翻訳したもの4点、編集に関わったロシア語辞典の1点も確認できた。「スミス、マリー之傳」の挿絵は6図あるので、これは早稲田本と同じということになる。
 図書館に収められた年代順で列記してみると、「露和袖珍字彙」(昭和10年・個人寄贈)、「馬術警策」(同11年・東京明治堂購入)、「スミス、マリー之傳」(同12年・東京明治堂購入)、「中央亜細亜//露英関係論」(同13年・時代や書店購入)、「露国教育法」のみ不詳。すべて明治時代に刊行されているが、図書館に入ったのは昭和10年代に集中している。大半は古書として東京方面から購入され図書館に納められたものである。おそらく当時の図書館長岡田健蔵の独特の嗅覚が働いたものと思われるが、どのような意図があって購入したのか非常に興味深い。彼にとって高須治助はどのような位置を占めていたのだろうか。 

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市立函館図書館蔵「スミス、マリー之傳」

「会報」No.18 2001.10.24

A.T.マンドリク著「ロシア極東の漁業史1927年-1940年」の要約の試み(続)

2012年4月24日 Posted in 会報

A.トリョフスビャツキ

 ソ連国内で新経済政策(ネップ)が実施されていた1920年代には、日本人漁業者は北洋漁業の独占的立場を持ち、露領漁業も続けられていた。増えつつある日本の影響に対応するため、ソ連側は共に利用する漁場から日本人漁業者を排除できないならば、せめて彼らの活動に対する統制を強めるために、利権という方法を選んだ。
 利権方式を取り入れた極東漁業の移行計画は1927年から実施された。その時ロシア連邦人民委員会議はダリソヴナルホーズ(極東国民経済会議)宛の3月23日付けの手紙で、日本企業が新しいソ日漁業条約案に応じて特別の利権条約を締結しなければならないことが義務付けられると知らせた。ロシア連邦農業人民委員部の1927年11月29日付けの「ダリルイバ」宛の手紙では、漁業に関する外国人租借者との交渉は特別の許可がなければ行わないこと、日本人租借者との親密な付き合いを避けて十分注意することなどが指摘された。
 1928年1月23日にソ日漁業条約が調印された。新条約において、ソ連側は、日本人漁業者に河川及び入り江を除くソ連極東水域(日本海、オホーツク海、ベーリング海沿岸)で水産動植物(オットセイ、ラッコを除く)を捕獲、採取して、加工する権利を与えた(第一条)。毎年2月にウラジオストクで漁区の取得のための競売が行われることになった。
 様々な税や漁区の租借料として日本人租借者は相当の金額を支払った。例えば、1929年に日本人租借者によって支払われた金額は、ソ連極東の国民経済への産業投資総額を14.28%に増加させた。その後ソ連水域から日本人租借者の排除とともにその金額も次第に減少した。
 1928年にソ連政府は極東地域に残っていた個人漁業者に対しダリバンク(極東銀行)に800万ルーブルのクレジットの借り入れを命じた。日本側のかなりの支援を受けていた大物の個人漁業家M.M.リューリやA.G.ルビンステインですらその借り入れ、すなわち国家への依存を強いられた。政府の狙いは個人漁業者を支援するよりは、彼らの活動を国家のコントロール下において、一歩一歩漁業から排除することであった。しかし、政治的な理由でそのことはカムフラージュされ、利権漁区への個人企業の急激な進出のように見せ掛けられた。
 ソ連極東漁業の自国化が進められる中で、以上に述べたように、ソ連側の漁区で働いた日本人漁業者や労働者の人数は1930年にピークの38,559人に達し、1931年に20,163人、1932年に20,447人、1933年に17,896人まで減少して、その後中止された。日本の利権企業に関しても、ソ日漁業条約の有効期間が切れた1936年以降、次第にソ連側の圧迫を受けながら最終的に1944年末にソ連水域から引き上げた。
 当時の両国漁業交流から明らかなのは、双方は漁業分野において競争相手であり、自国の外交やマスコミを総動員しながら最大利益を得ようとした。日本との協力に関しては、ソ連政府の立場は二重性を持っていた。一方ではソ連極東漁業を増強するために、日本の漁業技術や漁業労働力が一時的便法であったが、他方では自給が可能になったらソ連水域から日本の漁業者を排除しようとした。全体としてみれば、当時ソ日関係におけるこのような問題を解決するのは殆ど不可能だった。

「会報」No.18 2001.10.24

カムチャツカ訪問記 ―カムチャツカ国立技術大学を訪ねて―

2012年4月24日 Posted in 会報

鈴木旭

 去る3月26日から4月7日までの2週間、NPO『カムチャツカ研究会』の要請を受け、カムチャツカ国立技術大学の特別講義を行うため、ペトロパブロフスク・カムチャツキー市を訪問した。
 3月23日新潟空港を出発してハバロフスクに一泊、翌24日現地時間16時30分(日本時間13:30)に、ペテロパブロフスク市近郊のエリゾボ空港に到着した。飛行中、雲の合間から覗かれるオホーツク海は、一面流氷が張りつめ、カムチャツカの山々も真っ白な雪に覆われていた。3月末とはいえ、現地は未だ寒さが厳しいものと予想された。然し空港に降り立つと、天候は曇りながら、気温はプラス5度前後と意外外に暖かく、路面の氷も溶けて春の訪れを感じさせた。
 今回訪ねたカムチャツカ国立技術大学は、1987年に創設されたペトロパブロフスク・カムチャツカ高等技術海事学校が前身で、その後カムチャツカ国立漁業船団アカデミー(マリン・アカデミー)に変わった。それまでの学校は、主に海員養成(トロール漁業船団の)を目的にしていたようであり、1999年に現在のカムチャツカ国立技術大学に名称を変え、航海学部のほか技術学部と経済学部を併設する総合大学に拡充されている。
 講義では、カムチャツカの水産物に関係する日本国内の流通(魚市場)の仕組み、日本人の魚の食習慣等、日本の水産物消費の特徴や日本漁業の現状を紹介した。受講者(学生と教員)の日本の水産業に対する関心は大きく、色々な質問が出されたが、中には、ロシアのカニの密輸に日本側も関わっているのではないか、北方四島の帰属、さらには日本の政治状況(森内閣の支持率の低さ、短期間に内閣が変わること)について、予想しなかった見解を問われ、戸惑いを感ずる場面も多々あったが、学生のまじめな聴講態度と、日本に対する関心が広い範囲に及んでいるのが印象的であった。
 また質問(教員)の中には、日本における「企業に対する国家発注」、「大学卒業者の就職の決め方について」、「企業経営に対する国家の助成(資金、資材の調達、生産物の販売、価格形成等)の有無」といった、かつての社会主義時代の国家統制、計画経済を思わせる質問や発言があり、市場経済についての認識が十分根を下ろしていないことがうかがわれた。
 滞在中、カムチャツカ教育大学の広瀬健夫先生(1997年信州大学定年退職後赴任)の要請を受け、州立図書館の日本文化センターで《日本漁業の歴史》というテーマで4回、戦後の日本漁業の展開過程や、戦前・戦後の日ソ・日ロの漁業関係について話をした。出席者の発言に、日本漁船の流網によるサケマスの漁獲に対する批判、北方四島はロシア固有の領土で日本への返還は反対といった率直な意見も出されていた。ただ日本漁船の流網によるサケマスの漁獲は政府間の合意の下で行われていること、四島の帰属問題が、ヤルタ会談に始まるソ連の対日戦争参加の経過、日本軍降伏以後のソ連軍の北千島進攻といった歴史的事実関係の認識で、双方に大きな食い違いがあることに驚かされた。ソ連軍の千島への進攻が、ヨーロッパにおけるヒットラーの侵略に対する祖国防衛戦争と同じ、祖国領土の回復のための戦争と受け止められているように思われた。このような歴史的事実についての認識の食い違いが、日ロ両国間の信頼関係の構築や国交正常化を阻んでいるのではないだろうか。
 両国の関係改善には、まず両国関係の歴史的事実について、特に次世代を担う若者と一般市民の中に、共通の認識を深めていく努力が必要なことを痛感した。

「会報」No.17 2001.6.18

『共同研究 ロシアと日本 第4集』を誤読してはいけない ―私にとってのロシアを導く糸として―

2012年4月24日 Posted in 会報

桜庭宏

 家に迷い込んできた雑種の柴犬と一緒に暮らし始めて10年になる。いわば難犬(?)として保護したのだが、今では私にとってかけがえのない共生者となっていて、四季折々の表情をみせる鉄道防雪林をこの犬と散策できることに感謝している。散策の道すがらに、ひとつの美術館、木村捷司記念室がある。ここで展覧に供されている、網を繕う男とその側に蹲まる一匹の犬が描かれている一枚の絵、「網を繕うギリヤーク」になぜか心が魅かれた。
 かつて私の父が職探しでサハリンへ出かけた折りに写生した、ホルムスクの旧王子製紙工場のスケッチの一部が私の手許に残されていたこともあって、記念室の木村裕行さんからこの絵が描かれた事情などをお聞きするに及んで、サハリンの景観をこの眼でみたい衝動を抑えがたくなった。この絵と出会ってほぼ一年後にサハリン行きは実現した。このサハリン行については、「会報」第5号掲載の田島さんの紀行文にゆずるとして、私にとって、ロシアへの思いはかくも情緒からの出発なのだ。
 そんな私にとって、長縄光男さんたちの共同研究報告書『ロシアと日本』は、私流のロシアへの思いに、「意外に深みと広がりとを」与えてくれる「仕事」である。それは、「はしがき・目次・本文・活動報告・人名索引」を含めてA5判260有余ページのこの報告書が、人と人との地味な交わりの歴史を繙くことによってこそ、日本とロシアが「真の相互理解」に至る道が開かれる、という考えを研究活動の根底に置いているからであろう。17人の執筆者が描く「世界」は、「来日ロシア人と日本文化・北の地の来日ロシア人・日本を訪ねて・大陸の亡命ロシア人・日本正教会のロシア人・ミセレーニア」の6つに構成されていて、そのどれもが、新資料の発掘と紹介、事実の確定と再構成などを通して、執筆者の研究視角やそこに込められた動機を静かに語っているだけでなく、私のロシアへの思いを醗酵させる「Something」がある。
 それだけにこの報告書は、研究者だけではなく、日ロは言うに及ばず外国との相互交流の推進活動を担っている、政治家、行政担当者、経済人、市民にこそ読まれるに相応しい内容が盛り込まれている。幸いにもこの報告書は、『異郷に生きる―来日ロシア人の足跡―』として、成文社よりハードカバー版(2800円)も刊行されているのだから。
 一枚の絵に出会ってサハリン行きを実現した私が、小山内道子さんの「トナカイ王ヴィノクーロフの生涯―北サハリンと樺太の狭間に―」から読み始めたのは当然のことであった。小山内さんは、サハリンの郷土博物館で購入された、N・ヴィシネフスキイ『オタス』(1994年刊)の紹介を中心に、サハリンを舞台に政治を利用しつつもそれに翻弄されたヴィノクーロフの生涯を素描し、あわせて「先住民のモデル村」と喧伝されていた「オタスの杜」の実像を明らかにしている。私にとって小山内さんの論考は、木村捷司が描いた「シェークと犬」、「シャーマンのつどい」や前記の絵など一連のオタス作品を観賞するうえで大きな手助けとなるだろう。また、コルチヤク派の治下で富を築いたヴィノクーロフのニコラエフスク事件後の政治情勢とのかかわりを記述した箇所は、「土足の正義」なる言葉とともに、かつて演習で読まされた週刊誌連載の「派兵」を遠い記憶から引きだしてくれた。
 政治を利用する「ヤクート商人」のヴィノクーロフの「本質」と思想的な「反ソ連・ヤクーチア独立」の「本心」、その狭間で揺れ動いた彼の行動をどう読むのか。「歴史の大きなうねりに個人の力では抗しきれず、......悲惨な運命をたどったといえるだろう」の次に続く課題は、小山内さんならずとも重い。
 函館の外国人墓地を訪れた人は、ロシア人墓地のほぼ中央に、チャペルのような営造物があるのを記憶していよう。この建築物については、ある時からよくわからないままに過ぎてきていた。
 清水恵さんの「サハリンから日本への亡命者―シュウエツ家を中心に―」は、この営造物が、函館で毛皮・洋酒・砂糖などの取引業を営んでいた、ドミトリー・シュウエツの墓であることを明らかにした。
 もちろん、清水さんの論考の主眼は、サハリンからハルビンを経て函館へ亡命したドミトリー・シュウエツ家の足跡にかかわらせながら、当時のサハリンと日本の状況を明らかにすることで、ドミトリーの孫の妻とその娘さんからの聞き取りと新聞資料や文献などで手堅く考察している。ドミトリーの函館での足跡のひとつ、税関をめぐる事件は、彼の死亡事件とともにスリリングな側面を示しているだけでなく、シュウエツ家はじめスパイ容疑を晴らすために日本軍へ献金した亡命ロシア人と日本社会を考えるうえで示唆的である。シュウエツ家の戦中から敗戦後の足跡を素描したうえで、この家の歴史や白系ロシア人の歴史の探索は、「極東のなかの日本」を側面から照らし出すことにつながる、とする清水さんの結語にあるように、シュウエツ家に伝存されてきた写真や書類などに具体的にふれた論考を期待したい。
 私にとって幼少時に「最も身近な西洋人」は、「私のカラリョフさん」で、父母の仲人村田信一の猟仲間で、菓子を持ってきてくれる大事な人だった。白系ロシア人という言葉を覚えたのもこの頃であった。「白系ロシア人との交流からも豊かな栄養分を吸収していた」から、谷崎潤一郎の文学が大樹のように生い茂った、という中村喜和さんの論考「最も身近な西洋人―谷崎潤一郎の作品に描かれたロシア人―」は、谷崎の「細雪」に至る作品に登場するロシア人の描かれかたなどの紹介を通じて、「白系ロシア人社会の一端を垣間見」て谷崎の作品世界と白系ロシア人との濃密な結びつきを語っている。
 沢田和彦さんの「日本における白系ロシア人の文化的影響」は、白系ロシア人を緩やかに定義して、服装から食物・美容などの「日常生活への影響」や音楽・オペラ・バレエ・社交ダンス・映画・絵画の「芸術面の影響」、ロシア語・ロシア文学・日本文学・哲学・民俗学の「教育、研究面の影響」、野球・レスリング・ラグビー・サンボ・相撲の「スポーツ面の影響」を人物覚え書き風に整理された仕事である。沢田さんがあげた人物はじつに多岐多彩、「私のカラリョフさん」もいて、報告書巻末の「人名索引」ともども基礎作業の重要さを改めて痛感させられた。
 影響を与えた人物の一人、N・ネフスキーを追い続けている桧山真一さんは、「ネフスキーのもうひとりの娘を探して」を執筆されている。桧山さんと私との出会いは、1994年9月にウラジオストクで開催されたシンポジウムに函館日ロ交流史研究会の驥尾に附して参加した際に、宿舎で同室させていただいてからである。夕景になじむレニンスカヤ通りの散策にご一緒し、危うく私が路上売りのアイスクリームを買い占めそうになったのを、流暢な会話でチャラにして下さったことなどが懐かしく思いだされます。論考の「娘探し」に至るスリリングな部分は、桧山さんの歴史上の事実と真実への飽くなき探求心が発露されている。「今後の最大の課題は光子と若子の写真・墓を捜しだすこと」、だそうだが、過日頂戴したお葉書では大願成就とのこと、何よりである。
 私の最初の外国行きが、「ロシアとアジアが交わる街」ウラジオストクでしたから(原輝之『ウラジオストク物語』)、当然といえば当然なのだが、街を歩いて強く印象に残ったのは、多様な民族、とくに中国東北部・朝鮮地域の人たちが当たり前のように存在していたことだった。異国で「当然の存在」となっていくのは、多種多様な事情が絡み合いかつ積み重なってのことだろうが、倉田有佳さんの論考「元山のロシア人難民」を読んで、このことがまず頭に浮かんだ(これぞ誤読)。1910年に朝鮮が日本の植民地にされると、大量の朝鮮人が生きる糧を求めて中国東北地域や沿海州一帯へ移住していった、その生と死のドキュメント『カレイスキー―旧ソ連の高麗人―』(鄭棟柱著・高賛侑訳)の読後感がいまだ強烈に残っているからか。
 1922年秋、半数以上が赤軍戦での傷病兵を含めた陸海軍人であった「ロシア人避難民」が、2週間の間にウラジオストクから元山(現朝鮮民主主義人民共和国)へ定員のほぼ8倍、9000人以上もが艦船等に分乗して避難してきた。倉田さんの論考は、このロシア人たちの9か月間の事情を、当時朝鮮を植民地として支配していた日本の朝鮮総督府内務局がまとめた『露国避難民救護誌』(1924年)に基づいて明らかにする、ひとつの試論である。この『救護誌』と当時のハルビン、ウラジオストク、東京で発行されていた新聞・雑誌などを補足的に用いて、「元山への避難・避難民への救援措置・元山の避難民生活・避難民に対する措置・避難民労働団・避難民の退去」の実情が紹介されている。「避難民の救護に当たった側からの視点」からとはいえ、元山に残った避難民の最も望んだ農業就職希望への扱いや労働能率をめぐる記述などは、日本植民地下の朝鮮支配や現在の日本における外国人・難民のことなどにあれこれと思いをめぐらす手がかりを与えてくれた。
 避難民救護といえば、1923年の関東大震災の救援に横浜に入港した、ソ連船レーニン号が退去を命じられたのを知る人は少なくなった。7年前ウラジオストクを訪ねた際に、「救援船出港地の碑」が在ると知って捜したのだが見つからなかった。その関東大震災で倒壊し、炎上した東京復活大聖堂の復興に大きな力を果たした、セルギイの働きを、「倒壊・復興・建設」の三つの面から緻密に跡づけたのが、長縄光男さんの「日本の府主教セルギイ(チホミーロフ)の栄光」である。長縄さんの謦咳に接したのは、昨年夏に黒河の船上からヴラゴベシチェンスクを望見した、中国東北旅行の折りであった。口髭をたくわえ修業僧のような眼差しでお話する様子を間近にして、逝きし函館の面影を教える「ニコライ堂遺聞 明治初年の函館正教会点描(下)」(「地域史研究 はこだて」26号)の筆者ならではの感を深くした。
 大地震で聖堂の倒壊と炎上に直面したセルギイをして、「苦悩の果てに行き着いた」「何よりも心の復興のために」「ただひたすら前進あるのみ」、と決意させるに至るところの描写は、震災下の「例外状況」からいかにして脱出をはかるかに苦悩した地域のサブリーダーにみられた「心性」とも通底するのではないか。「桜庭さん誤読してはいけないよ。」、髭に手を添えて語る長縄さんの声が響くようだ。私にとって神田聖橋のニコライ堂は、高塀で街路の騒音が遮ぎられた敷地内で、授業をエスケープしてはコーラスの響きを心地よく楽しむ格好の場所でもあった。
 函館日ロ交流史研究会の会員と長縄さんが執筆された論考に限って、私にとってのロシアを導く糸として紹介、いや誤読感めいたことを書いてしまいました。妄言多謝。

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「会報」No.17 2001.6.18

A.T.マンドリク著「ロシア極東の漁業史1927年-1940年」の要約の試み

2012年4月24日 Posted in 会報

A.トリョフスビャツキ

 ご存じのように著者は、ロシア極東の歴史、特に漁業史では有名な研究家であるが、昨2000年に出版されたこの本は函館の歴史研究上でも、大いに参考になると思われるので、以下に概要を翻訳して紹介する。

 1920年代後半にソ連では五ヶ年計画に基づいた社会主義建設が進められていた。その時に共産党中央委員会や人民委員会議の決議によって国営漁業の構造改革も行われていた。ソ連極東に於ける第一次五ヶ年計画(1928・29~1932・33年)草案では中心が置かれたのは漁業分野の発展であった。しかし中央機関(国家計画委員会や最高国民経済会議)のなかには経費がかかり過ぎる遠い地方より革命前から開拓した地方の産業の発展に力を入れた方が合理的だという考え方が強かったので、極東からは資源や半製品だけを海外市場に輸出すれば良いと考えられた。
 第一次五ヶ年計画前の1927年に、ソ連の総漁獲高は革命前の85%しか達成しなかった。全国の魚介類の漁獲高の71.8%は昔から開発した漁区が占めていたが、北極海やロシア太平洋沿岸の新しい極東漁区は27.2%しか占めていなかった。五ヶ年計画では国営漁業企業の急速な成長率とともにロシアや海外の民間漁業家の役割を削減することも予定されていた。国営漁業企業セクターに「ダリゴスルイブトレスト」、カムチャツカ株式会社(アコ会社)、サハリン株式会社(アソ会社)などが属していた。特に期待されたのは海外市場で日本企業と競争できる缶詰分野であった。
 五ヶ年計画では主な輸出地域としてカムチャツカと北サハリンが定められ、そこから魚や蟹缶詰などが輸出された。1929-1932年にカムチャツカから海外市場への水産物の輸出額は2860万ルーブルで、1930-1932年に北サハリンからは4968.6トンの水産物と缶詰の9万8180箱が輸出された。1928年のパリ博覧会に展示された北サハリンの塩鮭はグランプリをとった。極東地域の水産物輸出は外貨、特に日本円の獲得になった。1927-1930年には輸出で1億2090万金ルーブル相当の外貨が得られた。その金でソ連側は日本から蟹工船に改造された船舶、機械、漁網などの漁業資材を買付けた。日本の関係企業として(株)函館製網船具(250万円)、大洋漁網商会(100万円)、(株)日本漁網(75万円)、葉加瀬商店(40万円)などが挙げられている。
 第一次五ヶ年計画末には極東漁区は全国の漁業漁獲高の29.2%、カスピ海漁区は35.2%、黒海・アゾフ海漁区は19.7%、北極海漁区は11.6%、アラル海・バルハシ漁区は4.2%を占めていた。極東漁区は、漁獲高では国内だけでなく、世界的にもかなり目立つようになった。たとえば、1932年にはその漁区の漁獲高は、イギリスの45%、アメリカの33%、日本の約20%に達していた。
 当時、ソ連の極東漁業では、ロシア人労働者と並んで日本人漁夫や労働者が雇用されていた。その人数は1929年に3万475人、1930年には3万8559人であった。日本人の雇用に掛かった経費は1928-1932年に4090万7千円であった。1930年から次第に雇用の規模は減少しはじめる。
 アコ会社が雇用した日本人労働者の数は次第に減少し続けていた。1928年に会社の労働者の34.6%は日本人であったのに対し、1929年に33.2%、1930年に19.5%、1931年に6.2%、1932年に3.3%まで減少した。同じ現象は他のソ連の漁業企業でも見られた。
 第二次五ヶ年計画(1934-1939年)で、ソ連政府はサハリンやカムチャツカの総合的経済発展とともにその地域の輸出力を維持することにした。極東地域では強力な造船施設がなかったことや、中央ロシアから船舶を極東に移動させるため莫大な経費が掛かったため、ソ連側は日本の造船所で1937年までに合わせて800万円の契約で192隻の船舶を建造した。1941年までに極東漁区は全国の漁業漁獲高で二位を占めるようになった。
 1930年代のソ連では一国社会主義論の下で全体主義的国家建設が進められていて、それは協同組合運動に直接的影響を与えた。漁業では今までの小規模なコオペラチブ(協同組合)の替わりに漁業コルホーズ(大規模な協同組合)こそ社会主義建設に相応しいと考えられるようになり、全国的に集団化が行われるようになった。1928年1月に16しかなかった漁業コルホーズの数は7月に147まで増え、1929年1月までに356の漁業コルホーズができた。その漁業コルホーズには、ソ連全体の個人漁業者の60%を占める9万37人を集団化させた。中央ロシアでできた幾つかの漁業コルホーズが極東へコルホーズごと移住させられたこともあった。
 1933年の漁業に於ける集団化率は80.9%、1934年に86.2%、1935年に93.6%を達成した。極東でも1935年の集団化率は90.5%まで増えた。
 1930年代初頭にソ連国家は明らかに個人漁業者の打倒政策を取り、そのため革命前のいわゆる「ブルジョア専門家」の多くはその職を追われ、「妨害活動」の嫌疑をかけられて裁判で有罪とされた。極東でその大規模な粛清の始まりを意味していたのは統合国家政治局OGPUによってでっち上げられた「ダリゴスルイブトレスト妨害事件」であった。逮捕された多くの極東漁業の幹部や個人漁業者は、反革命組織をつくり、日本の三菱や日魯漁業の手先に使われ、ソ連の漁業を妨害し、最終的にソ連から独立した国家を極東で宣言し、それを日本の保護下に置くかのように供述した。逮捕の波は極東全域に広がった。(未完、次号)

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「会報」No.17 2001.6.18

秋の伊豆高原に哈爾濱学院23期生の心を見る

2012年4月24日 Posted in 会報

佐藤一成

 私は以前「会報」に哈爾濱学院の歴史を書いたことがあるが、平成12年はこの学校が現中華人民共和国黒竜江省の哈爾濱の地に創設されてから、ちょうど80周年を迎える年に当たる。また23期生(私もその1人)が昭和47年、第1回同期生会を熱海市の故吉川英治氏の別荘「坐漁荘」(当時旅館として開放)で行ってから、開催地を北の北海道札幌から南下して、九州博多まで、どうやら続いて、今年伊豆の伊東市大室高原のホテルで10月2日同期会を開催、日本を一巡したという記念すべき年である。
 そこで誌面をお借りして、この同期会の模様を紹介したい。吾が23期生は、昭和17年4月入学、同19年9月、4年制の学制を2年半で繰上卒業させられた。当時は大東亜戦争と呼ばれていた米・英他の連合軍を敵として戦っていた戦争は、初戦の勝利の栄光は既に無く、戦況は日々に悪化、遂に昭和20年8月15日、敗戦という運命の日を迎えた。入学当時は100名余りの人数を数えた23期生も卒業時は50名を割っていた。日本では昭和18年の学徒出陣で、文化系大学の学生で徴兵年齢に達していた者は、皆兵役に服することになった。在満大学に学ぶ学生も日本本土と同じ運命に遭遇した。特別甲種幹部候補生、特別操縦見習士官、海軍予備学生等の志願兵、あるいは、現役兵として既に軍務に服していた。
 現在生存している者、55名。(そのうち音信不通5名)今回の集いに参加した者、同期生16名、同伴家族8名、ご遺族の方6名、計30名であった。不参加者の方の大部分は体調不良の故。
 午後、集まって、近況報告と今後の会の持ち方についての意見集約をした。夜、夕食を兼ねての宴会となった。酒が入り、酔う程に、何時しか場所は伊豆の高原から異国の地哈爾濱の地に変わり、70歳半ばを過ぎた老人達の心は若き10代の終わりに遡り、熱き血潮を滾らせ、寮歌を唱う中に青春の想いに浸っていくのであった。その昔と異なるところは、同伴家族、あるいはご遺族の方々の参加であった。共に席を同じにしている夫を見、あるいは亡き夫や、兄を偲びながら、それぞれの青春時代を想って一緒に盛り上がったことであった。
 何か婦人連中の方が元気があって男の方がリードされていたように思ったのは、私だけの思いであったのだろうか。
 当日、私なりに心に残ったことを記してみたい。

第一話 元大使閣下、受付係となること。
 同期生は入学時、各地の俊才が集まったためか、戦後、各方面で活躍した方が多い。当日ホテルの入口で受付係を引き受けて、笑顔で吾々を迎えてくれた2人の友、その1人は誰あろう、秋保光孝君。外務省派遣学生の試験に1年時に合格、戦後外交官試験に合格、東欧、モンゴル等のいくつかの大使を務め、最後はポーランド大使を務めた。ポーランド大使を務める前は、1年数か月、北海道大使を務め、北方領土問題等々に助言をして活躍していたので、北海道人にもなじみ深い人物。当時は横路知事時代であったが、彼は横路知事もそのスタッフも高く評価していたのが印象的であった。
 外国で大使は一国を代表する。閣下という最高の称号で呼ばれる人物である。しかし、学校の同期生会では、上下を脱いで、全く普通の同期生に還り、全国から集まる友人を笑顔で迎え、部屋割り、その他の世話をしている。天下、国家のために喜んで礎になろうとした学院魂の片鱗を見る思いがした。また、時々学友からの日中、日露交流についても、できる限りのアドバイスをしている彼の姿を見て、その学殖と外交経験の豊かさを感じ、またその謙虚さに心打たれるものがあった。

第二話 ロシア学に徹すること。
 前述の秋保君と共に受付を引き受け、遠来の友を世話してくれたもう1人の友。坂本市郎君。彼は戦後、中学校の教員をしながら、主として教育関係のソ連の文献を多数翻訳し、ソ連の教育の研究を手がけ、東大教授の他、戦後の教育改革に多方面に渡って活躍した教育学者、宗像誠也先生に師事。岩波講座『子どもの発達と現代社会』第1巻にも、ソ連の教育に関する一編を執筆している。後、モスクワ大学にも学び、あるいは早くから日ソ親善協会(現日ロ協会)に参加、幅広く日露の交流に努力し、現在は同会理事として活躍している。同期生の中では、1、2を争うロシア語に関するエキスパート。未だに毎年何回かロシアを訪ね、ロシアにおける知己も多い。彼の多くの著書の中で、「ロシア雑学―ことばと文化」(新読書社)は、日本語を教えているロシア人教師にも大変高く評価されている。彼はこの本の内容に続く研究を続けているが、この度も「ABPOPA―オーロラ―極光」と訳している多くの日本人の間違いを指摘、正しい意味を語源から調べて、その結果を解説してくれた。彼もまた、哈爾濱学院の心を受け継いでいる学究の徒である。「ロシア雑学」の続編を期待している。

第三話 偉大なる先輩の1人、杉原千畝に心酔する友のこと。
 今回の集まりの中で、来年度以降の同期生会をどうするかということが話題になった。即ち、今までのように続けるか、それとも毎年同じ場所、例えば東京などで行うかということであるが、来年は自分が主催幹事をやって、皆を世話するから、と手を上げた男がいた。名古屋に住む仲野正君である。場所は未定だが名古屋に近い所にしたいとのこと。そこから参加者全員を岐阜県加茂郡八百津町にある「杉原千畝記念館」に案内して、偉大なる先輩「杉原千畝氏」を偲びたいという。とりあえず来年はそうしようということになった。
 彼については大きな思い出を持っている。昭和22年4月初め、私はイルクーツク地区の日本軍捕虜の引き揚げ部隊にあって、ナホトカ港に到着した。部隊は何日かナホトカに止められていたが、やがて日本に出発した。私は通訳として、ナホトカに残され働くことになった。
 ナホトカの春も過ぎ、そろそろ夏の7月下旬、ナホトカの収容所の外で、「佐藤君でないか」と声を掛けてきた兵隊がいた。仲野正君であった。「君は一人っ子だろう。俺が代わるから、君は帰れよ。」と言ってくれた。「そんなこと出来るのかね。」と言い、しばらく雑談して別れた。この後、私は突然他の引揚部隊に編入され帰国できた。彼に会わずしてナホトカを離れたが、舞鶴港に着いたのは22年の7月28日であった。
 その後日本であった時は、「明治生命」の労組の委員長、次に会った時は「中小企業同友会の全国事務局長」として活躍。その後、日露、日中の交流に努力している。そして今、先輩「杉原千畝」に心酔している。
 この度最も感銘したのは同期生の多くが敬愛して止まなかった大西慶一君の遺書であった。彼は山形県出身で、中学卒業と同時に、南満州鉄道株式会社に採用され、3年目の昭和17年春、満鉄派遣学生として、満州国立大学哈爾濱学院に入学してきた。満鉄秀才5人組の1人で、よく勉強し、よく運動し、多くの友から信頼されていた眉目秀麗な学生であった。だが18年、彼も特別甲種幹部候補生として軍務に服した。20年8月17日。ソ連国境の孫呉の部隊で小隊長として侵攻してきたソ連兵と激烈な戦闘を行い戦死した。
 この度の同期生会に亡き兄の代理として参加してくださった彼の弟君、大西正夫氏の特別のお許しを得て、彼が生家に送った遺言を読ませていただいた。
 祖国のために散っていった、あのころの若人の想いを知ることは、ある意味では混迷という言葉に包まれている今の世に生きる私たちにとって「生きる。」ということは、如何なることかと、改めて考えさせることではないかと想った。合掌。

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今は民間会社が入っているという学院校舎(200.8 撮影)

「会報」No.16 2001.1.20

ニコライが来日の時に便乗した軍艦の名前は?

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 写真史研究家である桑嶋洋一会員の調査にかける熱意はたいへんなものである。いつも「これはどうしてなの、あれはおかしいね」と難題を持ち込まれるが、まともに答えられたためしがない。
 「領事館付司祭ニコライが函館に来るとき、アムール号に乗ってきたというけど本当なの。この船が函館に入った記録はないんだよね」というのもその一つである。
 そもそもアムール号乗船の根拠は明治44年7月6日付け「函館日日新聞」の記事によるものと思われる。記者がニコライ本人の話を掲載したというから信憑性は高い。ただし、記者の聞き違いや、およそ50年前のことを語るニコライの勘違いということだって、ないとは言えない。まず新聞を読んでみる。
 1861年4月にロシアの軍艦アムール号がニコラエフスクに回航してきたので、領事館付司祭名義の自分は直ちにこれに便乗したと確かに書いてある。
 だが、そのまま読んでいくとおもしろいことが書いてある。ニコラエフスクから黒竜江の出口に向かって航行し河口部に至ると、狭い海峡の向こうに、サハリン島のデカストリというところがあるが、この付近で一隻の日本船が座礁していたという。それでニコライの乗船するアムール号はこの船を救助したというのである。
 ニコライがいうには、この船の船長は通訳として函館のロシア領事が派遣してくれた「露国少年」を連れてお礼に来たが、それが初めて見る日本人だったという。また船は函館から貿易に来たもので、船に乗っていた医者とはその後函館でも親しく交際したとも語っている。
 まさに天の助け。これは箱館奉行が計画した「黒竜江出貿易」のことを指していることは間違いない。この「黒竜江出貿易」とは、箱館奉行配下の諸術調所教授武田斐三郎(五稜郭の設計者)を船長にして、貿易のためにニコラエフスクに船を出したという出来事である。船は函館で造られた西洋型船「亀田丸」で、函館港を出発したのは文久元年(1861)4月28日のことであった。この時の日本側資料を見れば、座礁した「亀田丸」を助けてくれたロシア船のことが出てくるに違いない。
 この件に関する主な資料としては、「黒竜江誌」(幕府への報告書)と「黒竜江記事」(武田氏蔵書)があるが、『武田斐三郎伝』の著者白山友正氏によれば、どちらも武田の筆になるものと推測されている。白山氏は両資料を用いてこの出貿易についてもふれているが、それによれば船長武田のほかに総指揮の箱館奉行支配調役水野正太夫を始め数人の役人が乗っていた。またそこには医師として深瀬洋春の名前があった。彼は御雇医師でロシア領事館付きの医師アルブレヒトから西洋医学を学んでいた人である。ニコライとはロシア語で挨拶ぐらいはしたのかも知れない。領事がよこしたという通訳は露人一名とあるだけで、残念ながら氏名は不詳である。
 さて肝心の救助船である。これは直接「黒竜江記事」を引用しよう。この海域は暗礁が多くあちこちで各国の船が座礁したらしいが、武田はロシア軍艦の船長にもらった1857年版の海図によって航海していたという。ところが「...又膠□ノ害ヲ蒙ル実ニ五月六日午後三時ナリ此時潮渇ス算計スルニ子後二時四十五分ノ満潮ヲ得ヘシ...(略)...港長速ニ来テ留泊諸船ヲ指揮シテ斡旋ス夜半後四時船浮フ乃チ火船「アメリカ」号ノ導ク所ト為テ港ニ入ル」。
 救助してくれた船の名前は「アムール号」ではなくて「アメリカ号」だったのである。軍艦「アメリカ号」が函館港に入港したのは、文久元年6月7日と記録がある(文久元酉年七月ヨリ十二月マテ「応接書上留」市立函館図書館蔵)。これは西暦にすると1861年7月14日、露暦にすると1861年7月2日となる。ニコライの到着日7月2日には確証がある。桑嶋氏がモスクワの外交史料館からその証拠を入手されている(『地域史研究はこだて』18号の同氏の論考を参照されたい)。
 以上から、ニコライが函館に着いたのはロシア軍艦「アメリカ号」に便乗してのことだったとしたいが、いかがであろうか。

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亀田丸と同型の「箱館丸」の図

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ロシア軍艦「アメリカ号」(原暉之『ウラジオストク物語』より)

「会報」No.16 2001.1.20

青森公立大学でのロシア語数育

2012年4月24日 Posted in 会報

A.A.トルストグーゾフ

 私は、青森公立大学の開校時からロシア語を教えている。父は、軍医で両親ともロシア人である。父の職業柄、転勤が多く、私はウクライナで生まれた。極東のワニノ港で勤務しウラジオストークへ移ったことから、私は極東国立大学に入学し5年間学んだ。その後、ウラジオストーク・モスクワの科学アカデミーに入り、生涯の半分を極東で生活することになった。
 本日は、日本の生徒の性格と日本の教育について私自身の意見を述べたい。地元の外国人の意見も参考になるかもしれませんね。青森公立大学の学生のロシア語のレベルには満足しているとは言えない。英語の教員も同じ意見をもっている。いかに効率的に教育させることができるか皆様と懇談したい。
 日本の学生の能力が低下していると言われているが、ある新聞の記事で大学の学長さんたちが「その原因のひとつに、文部省のゆとり教育がマイナスとなった。また、受験料目を減らしたことが、一般教養・思考能力の低下につながった。」と言っている。しかるに、ゆとり教育の見直しや受験料目を増やしたら、ロシア語教育には役立たないと思う。英語学習は6年間だが、ロシア語教育はゼロからのスタートなのである。
 日本の教育は量的なものだけを考 えている。例えば、「学力」という言葉の意味は日本では「知識の水準・学識・博学」だが、ロシアでは「勉学するための方法・能力、知識のレベル」である。ロシアの小咄に「入学生と卒業生の違いはと問われ、卒業生は知識を持っているのではなく、データを探す場所を知っている。」というのがある。
 日本の学生の教育に対する努力が足りないと思うのは、学生の勉学への動機・目的が無いからである。青森公立大学の学生に、将来の仕事はと問うと「女優、国家公務員、等々になりたい」と返事が返ってくるが、「マーケッティングの専門家、証券のディーラー」という回答はない。何のために、経営・経済学部に入ったのだろう。
 日本は学歴主義。日本人は自己紹介するとき、○○○会社の○○○地位であると言うが、ロシアでは、○○○専門だから○○○の地位にいると言う。青森公立大学は語学選択制を採っており、英語から逃げた学生がロシア語を選択している傾向がある。また、卒業するためにたくさん単位を取得するが、興味ある科目でなく、比較的楽に単位がとれる科目を選択しているようだ。ロシアでは、まず早くに将来の仕事を決めて科目を選択する。
 日本の教育はお金をたくさん使っている。例えば、青森市の予算はウラジオストークの20倍で、公立大学の図書館には最新の情報が集まっており、パソコンのソフトは山のように、ビデオもたくさんあるが、学生は活用しているとは思われない。私はこのような経費はもったいないと思う。日本は豊かだから、学生は経済のことを余り話題にしない。
 アルバイトについて、日本では学んだ知識と関係ない内容のアルバイトをするが、ロシアでは学んだ知識を生かしたバイトをする。私個人の経験ですが、大学2年時、千島列島の日ソ共同漁業協定区域で検査員の通訳として、サケ・マスの量、網の種類・サイズなどについて、日本人の漁師に聞き取りするのだが、彼らの日本語は全然分からなく、検査員は日本語はゼロなので、だれも助けてくれないから、辞書をポケットに入れ、地獄のようであった。このように、3ヶ月のバイトのおかげで、ある者はモスクワの国立インツーリストに就職したり、漁業公団に勤める者もいた。アルバイトでも全責任を負わされた。
 私の長女は、三年前に来日し現在、高校三年生だが、「日本の学校教育は暗記中心だ」と言っている。ロシア人は間違えてもいいから、考えを伝えようと話をする。日本人は黙っているし選択された話題については話すが、テーマがないと表現はへたなようだ。
 日本人の学生はとても子供っぽい。ここにいるイワン君はネクタイを着用しているが、ロシアの学生では一般的である。規則などはないが、大人としての責任を自覚している。また、こちらの学生は生活の中で、政治・経済に関心がないので、科目の消化は難しい。
 私の造語で「師匠主義」というものがある。日本では、先生の教えに生徒は従順だが、ロシアでは先生と生徒はいっしょに勉強し先生はアドバイスをし、お互い議論をする。それは発言力を育てることになる。講義をしていても、反応がないので理解しているかどうか分からない。動機づけのない勉学では問題解決能力は育たない。また、先生が教えたこと以外には、もっと詳しく勉強しようとはしない。
 ロシアでは、学校に行かなくても試験を受ければ卒業できる。11年生で自分の好みに合う学校を選択できることから、学校間の競争がある。物理専門・化学専門高校があり、自分で特徴ある学校を選ぶことができる。ロシアの学生はそれぞれの専門学校の特徴を見極め、それぞれの優秀者が大学に合格する。学校のランキングの指標も違う。日本は大学の進学率・有名校への進学を基準とするが、ロシアでは専門校を選択することから、ランキングは存在しない。
 日本では、芸能・運動などの大会はあるが、ロシアのように、物理学・化学・地理学・語学などの大会はない。
 日本では最近、教育改革が叫ばれているが、就職制度・入学制度ばかりでなく社会システムを変えない限り、改革は進まないと思う。

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後列中央がトルストグーゾフ氏

「会報」No.15 2000.6.15

シベリアと本格的交流を! ―北海道の未来のために―

2012年4月24日 Posted in 会報

石原誠

 「赤坂憲雄『東北学へ』(作品社)を読んで感動した。北海道学アイヌモシリ学と考えてもすっきりしない。まして東北学なんて...と思っていたが柳田国男の東北の部分を完璧に批判し見えてきた東北学。...この度の提唱は困難な時代でも、努力と新しい発想で切り抜けられる希望をわたしに与え、又衝撃を受けた」。
 以上は一昨年11月7日付け『図書新聞』より拙文の引用。そして昨年4月には赤坂さんの勤める東北芸術工科大学(山形)の中に東北文化研究センターを設立。『この東北こそ、日本に残された最後の自然―母なる大地―。現代文明の過ちを克服し人間の尊厳を取り戻す戦いの砦』と設立宣言の一部で高らかに述べている。
 大学が全面協力、山形市・山形県も行政側として総力をあげて一肌脱ぐ。また、民間で支える年会費1万円の東北文化友の会も発足10ケ月で900名を越えたという。そして同センター発行(作品社発売2000円)の300頁を越える、『東北学へ』もすばらしい内容で願調に既に2号まで出している。
 北の隣り、サハリン・クリル研究会の『郷土研究紀要』は1990年創刊以来年4回発行を持続。旧ソ連が崩壊し大変な時代の中で立派だ。わが北海道は『北海道地方史研究』に続く『北海道史研究』が40号で終刊してから12年経つが、今後共北海道史の総合誌発行の予定さえなく反省したい。
 昨年『サハリンの歴史』(ヴィソーコフ編)の日本語訳が板橋政樹さん訳により北海道撮影社から刊行。7年前筆者は「今度はサハリン住民の手でステファンを越えるサハリン史を期待したい」(『彷書月刊』l993.12「ステファン著『サハリン』を読む」)と書いたが、その2年後のサハリン住民の労作をこの程ロシア語から全訳した意義ははかりしれず板橋さんに感謝だ。
 月刊『地理』1999.7はカムチャッカを特集。コリャーク語専攻の北大文学部大学院の若い永山ゆかりさんは1994年から3年同地で教鞭をとったらしく、今後共どんどん環オホーツク方面へ住みつく北海道人が増えたらと思う。
 秋月俊幸さんは『日露関係とサハリン島』(1994筑摩書房)、『日本北辺の探検と地図の歴史』(1999北海道大学図書刊行会)の2作を続けて発表。左近毅さんは『シベリアの流刑制度』全2冊(ケナン著1996法政大学出版会)を英語から全訳して発表。早くて年内に同じくケナンの『シベリアのテント生活』全訳も出る予定という。両氏共にすぐれた仕事と思う。
 毎日、サッポロの郊外ツキサップのわずかに残された自然の中を通り仕事場に向かう。何本かの白樺...。ほとんど書物と、わずかな映像でしか見たことのないシベリア。その広大なシベリアの自然を空想する...。人も自然の一部。いつの頃からかわたしの心は日本でなくシベリアヘ。
 北海道は環オホーツクの南に位置。いつの日か北海道とシベリアがダイナミックに連繋する日を夢見る。この地は10年程前までは市町村の中では釧路叢書を出し続けた釧路市がリードしていたと思う。その後低迷している北海道の中で、函館の活躍が目立っていると思う。博物館・図書館・文学館・北方民族資料館・北方歴史資料館・市史編さん室・当研究会...。青函連絡船廃止以降の経済崩壊という情況だからこそ文化的努力をされていると思う。日露(北海道シベリア)交流史、北海道史、サハリン・千島・カムチャッカ・沿海州・東シベリア・旧満州の先住民族史と移住史...。また各民族接触等どれも魅力的な題材かと思う。
 かつて函館人は開拓使のあった札幌方面を奥地と下に見た。あれから130年...。ただ人口と経済力だけでかなり問題のある"札幌"を反省させるためにも今度は別の視点で函館発の全道規模の文化を展開させて欲しいと願う。幸い当研究会会員名簿をながめると、各分野の人々が見事に揃っている。当会の今後に、今まで以上に心から期待したい。

「会報」No.15 2000.6.15

函館とウラジオストク:日露交流の歴史から

2012年4月24日 Posted in 会報

原暉之

 1999年の秋、ロシア極東国立総合大学の開学100周年および函館校の開校5周年を迎える機会に、日本海を挟んで一衣帯水の間柄にあり、1992年からは姉妹都市の提携を結んでいる二つのゲイトウェイ・シティ相互の歴史的な絆を3点について考えてみた。
 第1点は、函館の開港とウラジオストクの開基の関係である。
 江戸幕府が日露和親条約によって函館を開港したとき、ロシアはアムール流域の制圧というピョートル大帝期以来の歴史的課題を達成したところであった。ロシア海軍はアムール河口のニコラエフスクにシベリア小艦隊の主港を置き、そこから、間宮海峡を経由して南部沿海州、東アジア諸国へと向かう外洋航路を開拓するが、この航路に不可欠の寄港地として登場したのが沿海州からほど遠くない北日本の不凍港、函館である。
 1854年に「アムールを開いた」、また1855年に「アムールを敵から守った」、そして1858年に「アムールをロシアに取り戻した」とされる東シベリア総督ムラヴィヨフ将軍は、1859年にロシアと清国、ロシアと日本のあいだの国境規定の明確化を目論んで二つの隣国を訪問したが、このとき彼の艦隊は、ニコラエフスク→函館→ピョートル大帝湾→北直隷湾→函館→江戸湾→函館→ニコラエフスクと移動した。
 この航跡だけ見ても寄港地・函館の重要性は明らかであるが、最初の函館寄港ののち清国へ向かう途上のムラヴィヨフ艦隊は、南部沿海州を形づくる湾や岬、半島や島嶼などに一連の地名を与えた。ウラジオストクという地名の発祥も、函館を補給基地としたムラヴィヨフ艦隊の遠征の所産である。また、ウラジオストクの開基(1860年)ののち同港にもたらされた最初の輸入品は、函館で購入した食料品や干し草であったことが知られている。しかし、1866年にロシア海軍函館病院が廃止される頃を境に、ロシアにとっての函館の存在意義は薄れ、長崎が圧倒的優位に立つようになる。
 第2点は、明治期の地元新聞の相互関係である。『函館新聞』は、創刊の年(1878年)、ウラジオストク道産品見本市について記事を載せているが、1884年になると、ロシア極東の地方紙『ウラジオストク』とのあいだで、双方向の情報伝達をおこなう人物が登場する。
 ウラジオストク道産品見本市というのは、維新後10年の殖産興業の成果を示すとともに、対岸貿易の可能性を探るため黒田清隆長官みずからが陣頭指揮をとった、開拓使主催の見本市であるが、函館との関係で興味深いのは、「函館の代表的な経済人の一人」という洋物商、平田兵五郎がこのときのウラジオストク滞在記録を『函館新聞』に発表していることである(菅原繁昭「もう一つの『浦塩斯徳紀行』」、函館日ロ交流史研究会報・No.10)。双方向の情報伝達をおこなった人物というのは、「三県一局」時代の函館県官吏、小島倉太郎である。20代半ばの小島は、『ウラジオストク』の熱心な読者だった。だが、単にそれだけではない。彼はニコライ・ソログープ編集長に同紙の通信員をつとめることを申し出て、それを条件に毎号の郵送をうけ、みずから執筆した記事を投稿する傍ら、同紙の記事を翻訳して地元の『函館新聞』に提供したのである。
 北海道大学附属図書館は、令孫の小島一夫氏から寄贈をうけた倉太郎の遺品として、1884年から1885年にかけて合計48号分の『ウラジオストク』紙を所蔵している。その1884年42号(10月14日)をみよう。「此内ニ投書アリ、千島紀行」という1面欄外の書き込みに案内されて、6面をみると、この年の夏、根室県令・湯地定基に随行して占守島に行き、同島に居住する千島アイヌを色丹島に移住させる措置の実施に立ち会ったときの見聞記が載っている。1885年34号(8月25日)の1面欄外には「哥爾薩[コルサコフ]港ヨリノ脱監人一件アリ、右本年十一月十一日ノ函館新聞ニ投書ス」という書き込みがある。実際、同日づけ『函館新聞』には「囚人の脱監」と題する無署名記事がみられる。
 第3点は、20世紀の初頭、両都市の学生生徒が相互訪問をしている事実である。
 近隣アジアの外国語、外国事情に通じた専門家の養成を目的に掲げて、1899年に設立された東洋学院は、実学の重視をモットーとした。学生に外国研修を課したのも建学の精神を反映していた。1902年に函館を訪れたアレクセイ・コベリョフという名の東洋学院第一期生について、筆者は別の機会にふれたので(「函館を訪れたウラジオストクの東洋学院生」、函館日ロ交流史研究会報・No.10)、詳しくは述べないが、学院の紀要に掲載された彼の研修レポートは上々の出来で、学長をつとめた日本学者D.ポズネーエフも著書『北日本史およびそのアジア大陸・ロシアとの関係史資料』(横浜、1909年)のなかで引用している。
 函館の学校からウラジオストクを訪れたのは、函館商業学校生「浦潮見学団」、1908年のことであった。『浦潮商工業調査報告』に掲載された生徒たちの感想文を読むと、彼らは短い滞在ながら、隣国ロシアに接することで世界に対する視野を培うキッカケをつかんだことがうかがわれる。1910年の東京外国語学校露語科、1913年、1914年、1915年の小樽高商の例に見られるように、日露戦争後、1917年革命前の日本とロシアは、日本から学生生徒の一部が隣国ロシアへ修学旅行に出かけるような関係にあった。函館商業学校がそうした動きのなかで先駆的な位置を占めていたことはきわめて興味深い。

「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル 基調講演要旨

函館・日ロ交流フォーラムに参加して

2012年4月24日 Posted in 会報

工藤朝彦

 原暉之氏は、ウラジオストークと函館との交流の歴史を大きく三つの時代に分けて説明されましたが、それぞれの時代で顕著な役割を果たした人物に視点を置き、非常に分かり易いものでした。第1の時代を1859年ウラジオストーク開基、第2時代は1883年のウラジオストーク新聞と函館新聞との関係、そして、第3の時代を1890年代の東洋学院の創立と函館商業学校とウラジオストーク研修生による相互訪問というものです。
 第1の時代:極東地域探検に向かうムラビヨフ・アムールスキーは艦隊を率いて、食料の買い付けのため函館に寄港しているが、当時、函館に立ち寄った外国船32隻のうち22隻がロシア船であった。しかしながら、以後、長崎へ外国船が向かうようになったという。ちなみに、1860年6月20日がウラジオストークの開基日となった。また、両市の象徴的な関係として、幕末、函館市で生まれた初のロシア人、ニコライ・マトベーエフは詩人としてウラジオストークで活躍した後、日本へ亡命し死亡している。
 第2の時代:ウラジオストークで開催された商品見本市に函館の商人も参加し、幌内炭・ビール・麦を売り込み評判も良かったが、たくさん売れなかったという話が函館新聞に掲載されている。小島倉太郎という樺太生まれで東京外国語学校でロシア語を学んだ青年がウラジオストーク新聞と函館新聞にお互いの記事を翻訳し寄稿している。原暉之氏は、「双方向の国際交流を20代の若さで行っていたことは特筆すべきである。」と言っておられた。
 第3の時代:1899年に31名の新入生を迎えて開校した東洋学院。創設に当たり、ロシア大蔵省が大きく関わっていた。当時、東清鉄道の建設に尽力した大蔵大臣ウィッテは、語学教育の必要性を説き、理論(文法)以上に、外国人講師招聘や学生を積極的に外国留学させるなどの実学を重んじた。留学生たちはどのような生活を送ったのか記録は残っていないが、引率は無し、留学記録をレポートにまとめ、同胞のために役立てたという。一方、函館商業学校生39名がウラジオストークを訪問している。青森・小樽・札幌・ウラジオストーク・敦賀経由で帰国しており、わずか2日間の滞在であったが、ロシアに接することで国際的視野を広めるまたとない機会であり、日露戦争に先立って、重視すべき出来事であるという。以後、東京外国語学校ロシア語生や小樽高商の学生がウラジオストークを訪問している。
 原暉之氏は、最後に、両市の交流は衰退したこともあったが、函館市の今日的役割はまだ終わっていない。忘れられた過去の一部だが、ソビエト崩壊後、ウラジオストーク開放の翌年に歴史を踏まえて函館市とウラジオストークが姉妹都市になったと括りました。
 私は、人と人との交流が、地位、職業や年齢を問わず、国際交流の歴史を形成していき、大きな役割を果たしてきたという事実を再認識することは、これからの交流の在り方や方針を考える上での基本で大事な姿勢であると思います。
 続いてパネルディスカッション「都市における大学の役割」がおこなわれ、まず、中村喜和氏が「函館とウラジオストークの共通点は、新しい土地にある古い街。北海道の古都は函館、ウラジオストークはウクライナ・フィンランド・ポーランド・ドイツ人など多民族が住むロシア全体の縮図」という非常に興味深く当を得た解説をされました。ゾーヤ・モルグン氏は、1860年代からのウラジオストーク定住の日本人の歴史と東洋学院について述べられましたが、その内容は、誌面の関係で今回は割愛させていただきますが、両方の都市が輝いていた頃は、国際化が華やかであった時であったことを強調されていました。これからもそうであろうし、大学も国際化が必要、特に教育面での国際化が大事であると力説されました。
 私が住む青森には、開学7年を迎える青森公立大学があり、今年創立100年のロシア極東工科大学との学生・教員交流が進められており、ウラジオストークからの留学生が経済学を学び、青森の学生は主に極東工科大学でロシア語を習得しております。また、ハバロフスク教育大学との交流も始まりました。10年前までは、近くて遠い国であったロシア極東の都市と、今、函館や青森などの日本の都市は環日本海地域内で再び隣り街の交流の芽を育てようとしています。
 なるほど歴史は繰り返す!

「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル 

「函館・日ロ交流フォーラム」を聞いて思ったこと

2012年4月24日 Posted in 会報

奧野進

 「函館とウラジオストク 都市の発展と大学の役割」と題されるシンポジウムが開かれるというので、ちょっと足を運んでみた。「国際化」、「地域」、「大学」、「情報化」など、現在、話題となることの多いこれらの言葉と関係の深い、このテーマの中で、どのような議論がなされるのか興味があったからだ。中でも、ロシア極東国立総合大学函館校と公立はこだて未来大学という全国的に見てもユニークだと思われる二つの大学が、今後地域としての函館とどういう関係を築いていくのかは、ぜひとも聞いてみたい内容であった。自分の中でも、この二つの大学はユニークだと感じていながら、当日いただいたパンフレットに実行委員長の五嶋慶太さんが書いているように、ロシア極東大学函館校がどこにあるかも分からないという自己の不明さを感じていたからかもしれない。
 実際に講演やパネルディスカッションを聞いた感想としては、ちょっと物足りないというのが正直な感想だった。もちろん、時間が短かかったこともあるだろうが、これから本題へという段階で終わってしまったように思う。冒頭であげた様々な言葉も交え、理想や一般的な範囲内での課題や方向性は提起されてはいたが、「具体的には?」「現実は?」といった点で疑問が残る。
 今後、未来大学もロシア極東大学函館校もそれぞれの分野で、一方では世界や日本全国を意識しながら、また一方では地域との結びつきを強め、まちに開かれた大学を目指すのだろうが、一市民としての自分とどういう関係になるのか、ぜひとも聞いてみたい。
 インターネットやネットワーク化といっても、その情報が生み出される私たちの生活や活動と、どう関係していて今後どういう方向が考えられるのかは示されなかった。蓄積されている様々な過去の情報ほかに、日々新しい情報が生み出されている。どんな情報があり、どんな意味を持つのか、その情報の内容も含めた、そういった目で地域を見つめてほしい。ごく表面的なことや言葉のイメージに惑わされ、掲げられている多くの理念が表面的なもので終ってしまうのではないかという危機感を感じる。言葉と現実の間に大きな溝があると感じている人も多いのではないだろうか。
 総体としての函館にかかわるような、これらの大学と住民としての個人が直接関係がないという人、地域のことと一住民とでは次元が違うという人もいるかもしれないが、いくら大きなことでも、最終的にはそれぞれの個人が、賛成であれ反対であれ、なんらかの意見が言える、そのための提案を聞いてみたい。今は、両校ともに関心がない人が大多数であろうが、多くの人を引きつける、そういう魅力や将来性はもっている大学であるとも思う。
 現在の状況が劇的に変わることは期待していない。しかし、徐々に変える、その実践の指針だけでも示すような討論があって欲しかった。

「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル

「ビザなし交流」に参加して

2012年4月24日 Posted in 会報

永野弥三雄

 11月14日の交流史研究会では「戦前のエトロフ漁業と現在のエトロフ島の印象」というテーマで報告しましたが、前半の内容は近く刊行される極東大学の『報告集』に掲載予定ですから省略します。また、後半については、時間の都合で、通訳を引き受けられた荒井信雄氏の質問に答える程度で終わりましたので、若干の補足をしたいと思います。
 私は今年(199)の5月22、23日の両日、第8回のビザなし交流に参加してエトロフ島を見聞しました。22日に上陸後、紗那[シャナ]のクリル地区行政府を表敬訪問した時のポドリアン地区長(38歳)の挨拶が印象深くのこっています。若い地区長は「ビザなし交流は8歳。交流の間に新世代が生まれました。それがこの児です。この世代は私たちが持っているコンプレックスや複雑な感情がないのです」と、3歳の娘の手をとりながら私たちに紹介しました。領土問題に対する配慮を示しつつ、解決の方向を暗示したものでしょうか。
 交流団はこの後、芸術学校の展覧会、紗那日本人墓地、ベラビナ湾とルイバキ海岸を見てから、初等中学校で純真そのものの子供たちの大歓迎を受け、一緒にバレーボールの試合もやりました。そしてこの晩は、クンチェンコ・ガリヤさん(新聞社編集、45歳)さん宅でのホームステイでした。夕食の席上、家族の紹介があり、長女のクセーニヤ(18歳)さんは、ハバロフスク大学で社会保障を勉強中とうかがったので、「娘さんは向こうで就職して帰ってこないでしょう」と、質問しますと、母親のクンチェンコさんは「とんでもない。娘も私もエトロフ島が故郷ですから帰ってきます」とのきっぱりした答えに、戦後50数年経過した意味を改めて感じました。
 エトロフ島の経済状態は色々問題はあるものの、南クリル地区の国後や色丹より良好に保たれており、また交流団に参加した風景画家たちからは「まったく無垢な自然。日本にはない風景」との感嘆の声が出ていました。
 ビザなし訪問によるロシア島民との友好親善の強まりは、領土問題は別として望ましいことだというのが私の印象です。

「会報」No.14  2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル 研究会報告概要1

永野弥三雄氏「戦前のエトロフ漁業と現在のエトロフ島の印象」について

2012年4月24日 Posted in 会報

麓慎一

 永野弥三雄氏の択捉漁業に関する報告の紹介と2、3の感想を述べることにしたい。永野氏の報告は、統計資料と地図を配布して行われた。
 まず、統計資料について触れておきたい。昭和36年の『北方地域資源調査書』から以下の8つの統計が利用された。(1)戸口数(昭和13年)[留別・紗那・蘂取]。(2)村別入稼者数(昭和13年)[留別・紗那・蘂取]。(3)択捉島における旧定置・特別漁業権。(4)択捉島における所在地別、漁業権者数及び漁業権数(昭和11年5月)。(5)着業統数(昭和14年から16年平均)。(6)漁業制度別漁獲金額(昭和14年16年平均)。(7)村別魚種別漁獲量(昭和14年から16年平均)。(8)水産加工品の村別生産額(昭和12年)。永野氏は、以上の8つの統計資料を駆使して戦前における択捉漁業の動向を説明された。
 永野氏の報告は、漁業という択捉島の基幹産業を通じてこの島の特質を実証的に説明するものであった。報告の意義は多方面に及ぶのだが、ここでは私が特に興味を持った点について述べることにしたい。第一に、(4)の漁業権者の所在地別についてである。永野氏は昭和11年における択捉島の漁業権者数の総計131人の内、在島外の権者66人について説明された。66人の在島外の権者は、函館漁業者43人・根室漁業者11人・その他12人に分かれている。ここで興味深いのは、函館の漁業者が根室の漁業者を大きく上回っている点である。択捉島は根室の漁業領域と思っていた私には興味深い指摘であった。さらに永野氏は、国後島は択捉島と異なり根室の漁業者が多いことも付け加えていた。
 また、先の択捉島における43人の漁業権者の権利数は922に及ぶ、と指摘した上で、この権利数の約3割が栖原家のものであることも説明された。私は、江戸時代の場所請負商人である栖原家がこの昭和初期においても択捉島において多くの権利を有して漁業活動を継続していたことに驚かされた。栖原家と言えば、江戸時代における屈指の場所請負商人として知られるものの明治以降の活動はほとんど注目されてこなかった。この点でも永野氏の報告は刺激的であった。
 第二に、択捉漁業の中心が鱒漁にあったという点である。この点を永野氏は、(7)の「村別魚種別漁獲量」を中心に解説された。昭和14年から16年の平均値で、魚類合計8,421,770トンの内、鱒が5,039,470トンと約60パーセントを占めている。さらに、鱒漁は権利統数に対する着業統数も53パーセントと高率であった(鮭漁は18パーセント)。永野氏は、このような事実を提示して択捉島における鱒漁の重要性を指摘した。
 第三に、戦前における択捉島の生活についてのエピソードも興味深いものであった。このエピソードを話される際には、択捉島の生活の様子が分る次のような著作が利用された。(1)鹿能辰雄(1910~1981年)『北方風土記 択捉島地名探索行』(1976年11月)。(2)今田正美(1902~1982年)『鮭のむくろ考 北洋漁業人の記録』(1977年7月)。(3)皆川弘(1922~1994年)『択捉島漫筆』(1996年3月)。これらの著書を紹介しつつ択捉島の生活の様子を説明されたのだが、一つだけ紹介することにしよう。戦前期の択捉島には、当時の流行の品物が多く流通していたというのである。それは、択捉島にはカタログ販売が導入されていたからであった。電化製品なども意外と普及していたというのである。商品流通から取り残されていたであろうと想像していた私には、択捉島の印象を一変させるエピソードであった。これは単に商品流通だけの問題だけでなく、当時の択捉島が漁業収入による大きな購買力を有し、北方地域の中では高い生活レベルを有していたことを示しているのである。
 このように、永野氏の報告は多くの示唆に富むものであった。残念ながら氏が「ビザなし交流」で得た現在の択捉島の知見については十分な時間を得ることができなかった。それでも、討論の際にいくつかの印象を述べていただけた。その中で択捉島民のロシア人が若い世代のロシア人が日本に対してタブラ・ラサの状態であり、これから友好的な関係が生まれることを望んでいる、と永野氏に述べたという話しを紹介された。私は日露関係が民間レベルで新たな局面を迎えつつあると強く感じられた。

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エトロフ島

「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル

1875~1903年のサハリンにおける日ロの協力関係

2012年4月24日 Posted in 会報

アナトーリー・マンドリク

 ロシア極東漁業の発展史を考察する場合、サハリン漁業は、日本人とロシア系漁業者が肩を並べて漁業を行っていたという点で、特別の意味を持っている。19世紀後半以降ロシア人の移住が増え、ロシア人と日本人漁業者の接触が始まった。1855年1月(露暦)の日魯通好条約(下田条約)で両国間の修好関係が成立した。条約によってサハリン島は、「境を定めずに」として、日ロ住民の雑居地とされ、サハリン島の日本人漁業がそれまで同様続けられることになった。しかし、その後のサハリン島では、ロシア兵による日本人漁村の襲撃、定置網の破壊、強制移住などの事件が起きた。当時アニワ湾にはすでに多数の日本人漁業者が定住しており、多額の漁獲を揚げていた。
 両国の対立が続く中で、1875年榎本公使とゴルチャコフ外務大臣との間で樺太千島交換条約が調印された。この結果サハリン島は、ロシアに帰属し、千島全島が日本に引渡された。ただサハリンにおける日本人漁業者の既得権が認められ、日本人が引続きサハリン島に居住して漁業に携わることが可能になった。しかも日本人漁業者には免税特権が与えられ、税金は燃料用薪の伐採税、加工上の土地利用税に限られていた。
 交換条約後は、日本人漁業者のサハリン進出が活発になり、特にテルペニア湾では多数の漁区を取得した。このような日本人漁業者の急増に脅威を感じたロシア政府は、1899年12月沿海州における日本人漁業者の活動に対して新たな規則を制定した。それによると漁業者は毎年漁業権の更新が必要になり、ロシア漁業者には、漁区、漁船、漁獲量などで優遇措置がとられたが、日本人には、定住漁村が強制移住の対象となり、閉村が迫られるなど、ロシア当局の日本人漁業者に対する様々な締め出し政策がとられた。
 またこの時期は、セミョーノフ、デンビー、ゾートフ、クラマレンコ、ナデツキー、そのほかロシア系漁業者、あるいは企業がサハリンで本格的に漁業を始めている。これらロシア系漁業者の日本市場における活動について、詳しいことは清水恵さんの論文に譲ることにして、彼らは技術、労働力、生産物の販売面で日本市場に大きく依存していた。1904~1905年の日露戦争は、日本側の漁業生産を困難にしたが、ロシア側も日本市場を喪失して事業の縮小を余儀なくされた。こうした日ロ関係が戦後の日露漁業協約につながっている。
 今日は日露戦争までの時期ということで用意してきたが、日ロ漁業関係史を勉強するなかで、疑問にしてきた問題がある。それは戦争、革命といった両国関係がきわめて複雑で、様々な出来事に満ちていた歴史の中で続いたロシアと日本の漁業分野の協力(ソビエト期でも)、ないしは漁業関係が何らかの肯定的な成果をもたらしていたか、ということである。
 私の結論はいかなる時期でも、肯定的成果につながる協力関係が断ち切られたことはない、ということである。その理由は、第一に中央部、西部からきたロシア系漁業者が、極東海域の漁業開発のノウハウを全く持っていなかったこと、第二はロシア漁業家は、デンビー商会はじめ、水産物の販売は専ら日本市場に依存していたことである。これに近い関係はソビエト政権移行後も続いた。例えばソビエト政権初期の極東漁業では漁具の50パーセントが日本から輸入され、最初のカニ工船4隻は函館ドックで建造されている。当時両国政府の外交関係からは、想像できない活発な協力と交流がおこなわれていたのである。
 最後に今一度1855年の下田条約を想起して、未来永遠の友好を約束した条約の精神で、今後両国の人々、特に漁業者間の協力関係が続くことを期待したい。

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「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル 研究会報告概要2

サハリン島住人と日本人漁業の関係

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 マンドリク氏はロシア極東漁業史の第一人者で、研究所を退職されてからも研究を続けられている。そして1998年には博士号取得という快挙を成し遂げられた。深い敬意を捧げずにはいられない。 
 さて、日本人のロシア領における漁業といえば、かつては「資源の掠奪」といったように否定的、対立的な側面が強調されていたようで、マンドリク氏も、そこから出発したのだろうと思う。しかしその後の研究では、日本人漁業者の参入がロシア側にとって有益な点もあった事実を示され、本報告でも日本との協力関係に重点を置かれた。
 ロシア国内では、ほとんど誰も省みるもののなかった極東の水産資源の価値をロシア人に自覚させ、産業として成長させたのは、確かに日本人であった。
 ところで、土地の住人たち、サハリン島でいえば、アイヌなどの少数民族、人口の大半を占めた流刑民や移民たちと、日本人の漁業との関係はどうだったのか、ということが最近気になっている。
 少数民族は、「資源の収奪」に加え、労働力も収奪されていた。また流刑民や移民は、ごく少数を除いて、水産資源を「富」に換えられた人はいなかったようだし、かといって一時期を除いて、雇用の場でもなかったらしい(J・ステファンによれば、1901年に、漁夫として働いた日本人が7000人以上なのに、ロシア人は、わずかに170人である)。
 彼らと日本人漁業者には、どんな接点があったのか、是非、マンドリク氏のご教示を得たいと思った。

「会報」No.14 2000.1.20  特集 函館・日ロ交流フェスティバル

沿海地方における日本人墓地

2012年4月24日 Posted in 会報

ゾーヤ・モルグン

 第二次世界大戦終了後、半世紀以上が経過した。ロシア人も日本人も含め何百万人もの運命に悲劇が広がり、癒しがたい傷が戦争を思い起こさせる。人間生活という観点からみたソ連領内の収容所における日本人捕虜の暮らしは、日露関係史における悲惨なページである。
 1988年の夏、私は沿海地方の南部にある墓地への旅に参加することができた。若い日本人の亡骸が眠っている場所に行って、彼らの親戚や昔馴染みの友人たちとしばしの交流を行い、その人々がどう思ったのかを感じたかった。
 ロシア平和基金沿海地方支部は沿海地方在郷軍人会とともに、1991年から日本人捕虜の埋葬されている場所を探して、墓地の整備や記念碑あるいは標識の建立を行い、また1992年3月16日付けの沿海地方政府令に基いた遺体発掘作業が、平和基金の定款ならびに1991年4月18日付けの「軍事捕虜収容所にいた人々について」(日露間の合意による調査)に基いて、地方政府や現場自治体の参加のもとに組織的に行われた。
 研究会での報告については『報告集』を参照していただくとして、ここでは、報告でふれられなかった具体的な資料を紹介しておきたい。歴史的資料からは、113の墓地が確認されている。その内60個所が沿海地方の地図に記されている。沿海地方における埋葬者の追悼という本が出版され、6246人の記載がある。死者の数が最も多かったのは1945年~56年とされている。この頃捕虜が駆り出されたのは、沿海州第18経営団で、「沿海炭坑」コンビナート、「極東鉱山」管理局、「沿海森林」管理局、「極東材木」管理局、海軍第7建設部、同第8建設部、「極東漁業管理局」、「クライトープ」、製鉄工場、発電所(ウラジオストク第1水力発電所、「アルテムグレス」)、太平洋艦隊技術部、合板工場管理局(太平洋工場)、農務省(3個所の米作集団農場)、食品工場(砂糖工場、ウスリスク油脂工場)、沿海鉄道、「沿海建設局」、造船工場(極東工場、当時の第202工場)、道路建設局、そして国境警備隊等であった。
 1945年から46年にかけて到来した冬に高い死亡率を示した原因は、「著しい衰弱の基での非常な低温と気候への不適応、不十分な栄養状態と衛生状態、必要な治療施設の欠如であった」。第15収容所長の記録によれば、「労働は、更に捕虜の健康の悪化と弱体化を招いている。殆どの場合作業場までの歩行による移動は規定範囲を超え、捕虜の作業場には暖かい食物は出されず、沸かした湯もなければ、沸かす場所もない」。第9収容所長は、「10人で構成している班の一つでは、短期間に5人が死亡、3人は隔離室に収容、2人は健康」と第15捕虜収容所長に報告している。死亡の主たる原因は肺炎であった。それ故、捕虜たちはペチカやたき火の近くで暖を取った。傍から離れるとひどく冷えた。全ソ連共産党沿海州地区委員会書記ペゴフ名による極東鉱山管理局の第1捕虜収容所における状況に関する調査書によれば、「2016人の日本人のうち、栄養失調が原因で病気または衰弱のため137人が入院し、400人が全く同様の原因で労働から解放されている。最近日本人の死亡が顕著になった。33人が死亡。1月1日から3月16日までに18人死亡した」。
 1946年4月4日、全ソ連共産党沿海州地区委員会事務局は、「収容所における捕虜の待遇について」の決議を採択した。これにより捕虜のための十分な兵舎が建てられ、居住面積が拡張された。各部屋には洗濯場と乾燥室が設けられた。ノルマを達成しまたはそれ以上を達成した捕虜に食料を増量するため、各部屋には毎月2トンまでのじゃがいもと野菜が配給されることとなった。
 この決議があったにもかかわらず、いくつかの収容所では、1946年の夏から秋になっても未だ捕虜にとっては耐え得る安住の状況にはなかった。集団営林場「チェパル」の近くにある第47収容所で多くの死者を出した原因は、生活と労役に耐え得る条件が欠けていたためであった。遠く離れた収容所まで車路がないため、30キロの沼地を、捕虜自らが手渡しで物資を運搬しなければならなかった。その結果栄養状態が悪化し、運搬に従事する者は急速に衰弱し病気になって、その一部は死亡した。
 全ソ連共産党沿海州地区委員会書記ペゴフ名の報告書の中で次のように伝えられている。1946年8月末現在、早くから「極東鉱山」に送られていた3000名の捕虜のうち195名が死亡、衰弱した者及び病気の者520名を朝鮮に搬送、213名が入院中、350名を収容所の劣悪な生活条件を考慮して他の組織に移した。
 第25収容所の状況報告によれば、1946年には次のような状況が典型的だったことが明らかである。「住設備は、今にも壊れそうな穴居。土の床。採光不良。洗濯や干し物ができる場所はない。不満足な労力使用。労働の生産性は40~60パーセント(スーチャン駅から15キロの第3収容所「カザンカ」)。
 こういった条件下では、多くの日本人は故国へ帰る日まで生きられる運命になかったことがわかる。歴史資料に基づいて、6476名の埋葬者名簿が作られた。しかし、多分、実際はこの数字はもっと大きいだろう。沿海地方管轄にいた捕虜のおよそ10分の1は死亡した。
 後年、収容所の生活条件が好転した。目撃者の話では日本人と近隣の居住地の住人たちや、収容所の軍人の家族との間に暖かい人間的な交流が生まれたことが珍しくなかったという。このことについて、私はこの件にかかわった日本人やロシア人から、何度も話を聞いた。
 二つの戦争で亡くなった人々の霊、すなわち日露戦争後日本の捕虜になったロシア人と第二次世界大戦で捕虜になった日本人の霊は、記憶の架け橋であり、私たちみんなに戦争の悲惨な結果を思い起こさせるものである。

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「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル 研究会報告概要3

Z・モルグン報告「日本兵の墓地調査と鎭魂集の発行」を聞いて

2012年4月24日 Posted in 会報

佐藤一成

 私も約2年間、シベリアに抑留された。終戦後から1947年(昭和22)7月下旬までである。シベリアの捕虜としては、一番短い期間であったろう。場所はイルクーツク市郊外で、第6収容所という収容所に入れられ、主力は近くの煉瓦工場で働き、一部はハルビン駅の石炭降ろし、街の水道工事、煉瓦積み、道路補修等の労働に従事した。
 1946年12月下旬、シベリア鉄道沿線でイルクーツクより西方のマリタという処に移動し、森林(いわゆるタイガー)に入り伐採作業をおこなった。直径1メートル以上の大木(主として松類)を2人引きの鋸で切り倒し、一部はベニヤ板の材料に、一部は薪にした。ここで初めて幕舎生活を経験したが、まさに冷凍庫の中の生活であった。
 翌1947年3月末、部隊はナホトカへ。4月初旬、祖国日本へ帰還した。全員無事、死者は1名もなかった。ただし、私は通訳であった為に7月下旬までナホトカに残され、日本兵帰還の手伝いをさせられた。7月27日、舞鶴港に上陸した。船から見た日本の姿の美しさは未だに忘れられない。
 モルグンさんの報告を聞きながら思った。ただ帰りたいの一念で働き続けたのに、その想いかなわずして、異国の丘に埋められた我が戦友の、この世の不条理に対する叫びが、今、地の底から聞こえてくるような想いがあった。
 60万からの日本軍将兵等が捕虜としてソ連に連れ去られ、そのうち死亡した者、将兵等合計6万1217名だという(ソ連「軍事歴史雑誌」1991年第4号 S・I・クズネソフ『シベリアの日本人捕虜たち』<岡田安彦訳>1999年9月刊、集英社)。今回のモルグンさんの調査・報告はその一部であると思われるが、それが一沿海州地方のものであるにせよ、我々日本人にとって感謝しなければならないだろう。
 モルグンさんがこのことに手を染めたのは、幼い頃から近くに居た大人達の中に、昔、日本人の捕虜が居て、ウラジオストクの街の色々な建物を建て、道路を補修したりして、働いてくれたということを聞いたことによるという。しかし、そのことを聞いた人々総てが日本人捕虜の実態解明に手を貸してくれているわけではないと思う。モルグンさんのお仕事が歴史研究であることも関係しているのかも知れないが、彼女の心の中にあるヒューマニズムの強い流れが、国境を越えた調査・研究活動を支えているのだろう。同じように、ロシア平和基金沿海州地方支部理事長ゴーリヤさん、更にこの墓地調査等の仕事に関わって、ロシア全土で草の根的に活動を展開して下さっている皆さんにもいえることであろう。厚く感謝申し上げたい。
 「鎭魂集」を作るにしても先立つものが無い。墓地調査の活動にしても政府からの財政援助を得るのが非常に困難になって来ているという現状の中で、「今日この活動を続けているということは、これは是非やり遂げなければならないという情熱に燃えた個人的努力の賜であると思います。私もこうした活動を成し遂げることを通して、私自身の研究を意味あるものにしていく決意を新たにしております。」と報告を終える際にいわれたモルグンさんの言葉に深い感動を覚えた。

「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル

函館・日ロ交流フェスティバルを終えて

2012年4月24日 Posted in 会報

種田貴司

平成11年1月
 函館校の新年度の事業計画および予算等について打ち合わせ
 校長「新年度は極東大学開学100周年、函館校開校5周年を迎えるので、第2回はこだてロシアまつりの開催に合わせ国際会議を開催したい」
 事務局「国際会議となると同時通訳装置が必要になり、莫大な経費がかかります。函館校が開催するのは困難です」
 校長「ぜひやりたい」
 事務局「ウーン」

平成11月2月
 事務局「校長先生、国際会議を行うとすれば○百万円かかります。学校の予算規模を考えると、まつりに合わせて講演会を開催する程度でいかがでしょうか」
 校長「本学の100周年でもあるので、ウラジオストクからも研究者を呼んでパネルディスカッションくらいのことはやりたい」
 事務局「通訳の要らない日本語の通じる人が来てくれるのであれば、経費もそれほどかからないので、なんとかなるでしょう。日ロ親善協会や日ロ交流史研究会の皆さんとも相談しながらやってみましょう」
 その後、卒業式、入学式など新年度を迎える学校行事、さらには今年4月から新設した社会人のための短期ロシア語集中講座「インテンシブコース」に伴う業務のため、準備作業は停滞。

平成11年7月
 日ロ交流史研究会などとともに内容の検討に入り、「第2回はこだてロシアまつり」、「函館・日ロ交流フォーラム」、「函館日ロ交流史研究会」を合わせて「本学開学100周年・函館校開校5周年記念・函館・日ロ交流フェスティバル」として11月13日、14日に開催する方向で準備作業に入る。

平成11年8月
 札幌国際大学荒井信雄先生を訪問し、パネルディスカッションのコーディネーターを依頼。快諾を得る。

平成11年9月
 函館日ロ親善協会、函館日ロ交流史研究会とともに実行委員会を設立

11月13日
 午後8時 函館校事務室にて
 終わった。やっと終わった。「都市形成と大学の役割」だなんて大上段に振りかぶったフォーラムがやっと終わった。どうなることやら、門外漢の私には不安だらけのフォーラムの開催。
 実行委員会の規約や予算、補助金の申請書をつくったり、旅費計算ならお手のものだけど、函館とロシアとの関わり、高等教育機関と地域との関わりなんて、私はど素人。一応ウラジオストク物語もロシアにおける広瀬武夫も読んだけれど、しょせん付け焼刃。
 フォーラム開催の日は近付けど、どういった内容になるのか皆目見当もつかず、不安がつのる。でもまあなんとかなるさと、気を取り直し、ロシアまつりの準備もしなくては。
 ところで今日のフォーラムで上映したビデオ、これは奥平先生からご指摘のあったとおり、素人の作品。ウラジオストクの歴史や自然を紹介したビデオがなかったため、9月にウラジオストクに行った事務局の畠山さん―本日の司会者です―に撮ってきてもらったものです。案内はモルグン先生にお願いし、画面にときどき出てきた手はモルグン先生の手です。
 中村先生のお話にもあったようにウラジオストクには数多くの観光資源があるので、プロの手によるウラジオ紹介ビデオがあると良いのに。来年はウラジオストク開基140年とのことなので、これを機に作れないものでしょうか。
 さて、今日のフォーラムでどのようなことが話し合われたのか、私にはわかりません。というのもフォーラムの間、夕食会の出席者の変更や座席をどうするかなどでほとんど会場にいなかったからです。明日の交流史研究会、ロシアまつりと合わせて報告書を作成するつもりなので、その時に何度もテープを聴くことになるでしょう。フォーラムでなにが話し合われたか、お知りになりたい方は報告書が出来上がるまで今しばらくお待ちください。最後に、夕食会の席上、出席者の皆さんから来年以降も引き続き、こういった会議開催の希望がありました。今回は初めてのことでしたので、不安でいっぱいでしたが、やってみればなんとかなるさと、楽天的に取り組んでいきたいと思っていますので、交流史研究会の皆様、次回もよろしくお願いいたします。 
(ロシア極東国立総合大学事務局)

「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル 

F.B.デルカーチ氏の講演「函館での一年間」を聞いて

2012年4月24日 Posted in 会報

岸甫一

 デルカーチ氏(写真)の経歴は、1969年、イルクーツク生まれ。子どもの頃から東洋に興味を持ち、高校からは日本に興味を持ちはじめたという。「ソ日交流会」のボランティアで日本語を学び、ロシア国立極東総合大学・日本語学科に入学。ハイレベルの大学で、とくに日本への関心は高いという。1994年に卒業して兵役に就いた後、鳥取県国際課に2年間勤務し、苫小牧と境港を結ぶジャパンエクスポなどに携わり若者と交流する。以上が来函するまでの氏の経歴だが、なみなみならぬ日本への思いがうかがえる。
 さて、エキゾチックなまぼろしを抱いて来てみた問題の函館に話題が移った。デルカーチ氏の話は開口一番"来てみてビックリ、ガッカリ"というショッキングな言葉で始まった。その理由は、"いなか精神が強い"こと、特にエネルギッシュな青年が函館から札幌などへ流出してしまう都会としての魅力の無さだ。
 氏によるとウラジヴォストークでもイルクーツクでもハバロフスクでも、それぞれ市民には、いなかでない都会としての自信があるという。函館の観光センターは「函館の人々のために存在しているのではない。函館はギリシャのパルテノン神殿のように大都会から人々が来る街なのだ。」「函館は田舎でいられるほど小さな街ではない。」「函館は小さな大都会になる必要がある。」という指摘は、この街の国際性・世界性のリバイバルによる活性化(函館市民は案外気づいていない)と受け止めた。幕末・維新期の国際色豊かな開港場から現在は、札幌を頂点として旭川、函館...という横並びの道内の一地方都市にすぎない。このような地域構造は近代北海道(とくに戦後)の体質といっていいほど道民意識をも規定している。デルカーチ氏の提言は、私なりに解釈すれば、これまでのように道内の一地方都市で甘んじる意識の枠組みから解き放たれることを求めたものだと思う。
 私は氏の話を聞くうちに、函館は比喩的に言えば江戸時代の長崎のように規模は小さくとも情報の発信基地になることによって現在の停滞するよどんだ街の空気が蠢き出すのではないかと夢が膨らんだ。少なくともロシアに関する情報は東京・札幌経由ではなく、函館へ行けばロシアのことがリアルタイムで何でも分かる情報のるつぼとなることが条件であろう。
 「函館の若者をどう保つか」という方向に話題は移ったが、氏によると「若者が本当に探しているものは刺激だ」という。「夜景と公園」だけではエネルギッシュな若者は去ってしまう。"「グレイ」がもし函館に残ったとしたら"という刺激的な仮定もすかさず提言された。この話題では、若者のみならず各世代の責任、とくに中年が期待されているという指摘があった。私の日頃の感想から言うと、函館に所在する大学を中心とする高等教育機関を卒業した有為な若者が地元に残らず首都圏や札幌圏に流出するのは、必ずしも若者の責任ではなく、むしろこれまで大企業が集中する大都会に就職させることにレーゾンデートルを求めてきた函館所在の高等教育機関の責任のほうが重いと思う。
 氏は、現在ロシア国立極東総合大学・函館校の自治会担当であり学生に一番近い立場にある。やはり、「勉強がおもしろくない」という青年の無気力・無関心が悩みの種であるが、最近は意欲の高い学生も来ており、学校も忙しくなってきているとのこと。
 最後に、日常生活で困ることはサイズが合わないことだそうだ。日本の大工道具の種類の多さに感動したという。古代からロシアでは斧1本で何でも切り、済ましてしまうという文化の違いも興味深く聞いた。
 以上がデルカーチ氏の講演を聞いて私が思ったことを勝手にまとめました。あくまで私の受け止め方であり、かなり私の意見や主観もにじんでいます。それにしてもロシアに近接する我々、函館に住む人間があまりにもロシアのことを知らなさすぎるのではないでしょうか。これには様々な要因があろうが、近世北方史研究者である菊池勇夫氏の指摘する「19世紀前期に成立した『北門の鎖鑰』論的な見方は、きわめて不幸なことに『敵』ロシア・ソ連のイメージとともに近代日本で増幅されてきた」ことが根底にあるように思われる。私自身は18世紀後半、ラクスマン来航を中心とする時期、つまり国境確定以前の日ロの人間関係のあり方を探ることによって日ロ関係の平和的発展のための今日的ヒントを見つけたい。とにかく、ロシアのあらゆる事をもっと知る必要があるという思いから、現在、ロシア国立極東総合大学・函館校で開かれているロシア語市民講座・入門コースに参加して学んでいるところです。

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「会報」No.13 1999.10.25

故国に帰った白系ロシア人の運命 ―ガリーナ・アセーエヴァさんに出会って―

2012年4月24日 Posted in 会報

小山内道子

 モスクワ滞在中の9月中旬思い立って、約10年ぶりにサンクト・ペテルブルグを訪ねた。「来日ロシア人研究会」で知り合った安井亮平先生のご友人ナターリア・マクシーモヴァさん宅にホームステイさせていただき、目的の調査にもご協力頂いた。ナターリアさんがアファナーシエヴァさんと親しいことをふと思い出して、「もしかして、ヴェーラ・アファナーシエヴァさんにお会いできないでしょうか?」と尋ねると、気軽にすぐお電話して下さって、翌日の午後、お宅に伺うことになった。
 ヴェーラさんとは、有名な画家であり、また長年早稲田大学でロシア文学を講じられたワルワラ・ブブノワさんと最晩年を共に暮らして、みとられた方である。東京生まれで、洗礼の時アファナーシエフ家と親しかったブブノワさんが代母になってくださったご縁だった。(ヴェーラさんについては先頃放映されたNHKテレビの「小野アンナの生涯」で紹介されたが、本稿ではヴェーラさんの物語は割愛する)。
 ヴェーラさんのお宅に着くと4時を回っていた。「こんにちは、いらっしゃい!」ヴェーラさんはロシア人としては小柄で、自然な日本語が響くので、日本人のお宅に伺ったかのような錯角を覚える。
 「こちらはガーリャさん、ズヴェレフさんの娘さん、函館にいた、知ってますか?北海道の方がいらっしゃるというからお呼びしたのよ」とヴェーラさんが、一人の女性を紹介してくれた。
 ズヴェレフさん?ああ、あのズヴェレフさん、スパイ容疑で検挙され、1944年獄中で亡くなった方...とすぐに思い出した。釧路に居た白系ロシア人が投獄された時、同時に獄中に居た函館の人として覚えていた。 「ガーリャさんですか?まあ、ペテルブルグに住んでおられたのですか!」ほんとうに驚きだった。予期せぬ思いがけない出会いだった。60代の半ば過ぎだろうか?髪は真っ白だが、ふくよかで典型的なロシア人女性の感じだった。顔の表情は明るかった。その後賑やかなおしゃべりが延々と続く。
 不確かな部分は電話で確かめたが、その時のメモからガーリャさんの人生をたどってみた。(以下敬称を略し、「ガーリャ」とした。現在の性は、アセーエヴァさん)。
 ズヴェレフ家は1932年頃まで室蘭で暮らしていた。6人の子どものうち上の3人は室蘭生まれ、1933年生まれのガーリャから下が函館で生まれた。
 ガーリャがお母さんに聞いた話では、1歳の頃大火があって家は全焼した。それまではパンやケーキも作って店に出していたが、火災の後は洋服屋と行商をやった(34年の大火の被災者の中にズヴェレフ家6名と出ている資料を清水恵氏が来日ロシア人研究会の会報「異郷」で紹介している)。
 ガーリャは函館で小学校に入学し、2年生まで通った。だから、九九も日本語で覚えているし、国語の教科書や童謡も覚えていると言って、ほんとうに上手にとなえてみせた。その後、姉や兄が通っていた東京の「ルースカヤ・シュコーラ」(ニコライ堂内のプーシキン学校)に転校し、2年後に卒業した(当時4年制)。ここはインテルナート(寄宿学校)で、同級生にベロノゴフ、カターエヴァ、ユーシコヴァ、パンチューヒナなどがいて、とても楽しかったという(これらの名前は私にもお馴染みで、ほとんど釧路に居た家族である)。先生はゾーヤ・アレクサンドロブナ。すごく良い先生で、子どもたちに好かれ、信頼されていた。東京のいろいろな博物館、展覧会、劇場などへも連れていってくれたが、2年目にアブラーモフ氏と結婚したので、子どもたちは皆がっかりしたそうだ(このアブラーモフ夫妻はアファナーシエフ氏の後「ロシア人クラブ」の管理人を継ぎ、生涯を日本ですごしている)。
 卒業後は横浜のセント・モア女学校に入った。兄たち男の子は男子校のセント・ジョージ校に通っていた。1943年セント・モア校が閉校になるというので、既に姉と兄が行っていた大連のギムナジィアに転校した。この学校はロシア人のためのパンシオン(全寮制中学校)で10年制だった。1945年終戦でいったん閉校になったが、翌年ソ連の学校として再開された。この終戦前後の2、3年は食べ物も満足になくてとても辛かったという。
 函館の家とも連絡が取れなくなっていた。お母さんが手を尽くして探してくれて、ようやくお互いの生存を確かめあったが、姉兄と4人で大連に留まり、お母さんは2人の妹・祖父とで終戦の翌年東京に移ったという。
 1949年、学校を卒業して、行政府から孤児の扱いで下の兄と共にウラジオストックの職業訓練校に送られ、2年間通信技師としての教育を受けた。卒業後兄はチュコトへ、ガーリャはユジノ・サハリンスクへ配属され、それぞれ3年間働いた。その後、兄と共にサハリン北部へ行き、オハとマスカリヴォで計17年間も働いた。その間に結婚し、息子が生まれたが、1968年に離婚してレニングラードに移った。レニングラードには1952年結婚のため帰国した姉が住んでいたからである。ここでは電話局で12年働いた。
 1980年、年金を早く貰うため極北で働くことになり、北極海のノヴォシビルスキイ島の"極地センター"でコックとして4年半働く。1985年レニングラードに戻り、年金は出たが、息子が大学に行くことになったので、今度は地下鉄で6年間働いた。今は年金生活で、息子夫婦、孫の4人で暮らしている。姉と下の兄もペテルブルグにいる。姉は脳硬塞のため身体が不自由になっているが、日本語もよく覚えているし、日本のことは何でもよく知っていて、とてもなつかしがっている。
 お母さんたちは、1957年に長兄が住んでいるロストフに帰国した。ガーリャたちはそこでお母さんとようやく14年ぶりに再会し、お父さんの死のことも詳しく聞くことができたのだった。お母さんは1965年癌で亡くなった。
 末の妹はレニングラード大学東洋学部に進学し、日本語を専攻したが、キューバ人と結婚してキューバで暮らしているが、1995年に日本に旅行して、函館にも行き、お父さんのお墓参りをしてきた。
 以上がガーリャさんの波瀾にとんだ人生の航跡だった。暗くなってしまった帰り道、ガーリャさんと腕を組んで歩きながら、「北サハリンや極北は辛かったでしょうねぇ」と聞くと、「それほどでもなかったわよ。私はいつもオプチミストだから」と笑った。「いつか北海道に来て下さいね」に対しては、「残念だけど、たぶん無理でしょうね。飛行機の切符も何もかもすごく高いから」と遠い目になった。確かに普通のロシア人にとって現実は厳しいもになっている。でも、腕に伝わってくるガーリャさんの暖かみを感じながら、いつの日かガーリャさんに60年ぶりの故郷を見せてあげたい、人生の不思議を今一度体験させてあげたいような親しみを覚えた。
 ガーリャさんと別れた後、同行のナターリアさんに「ガーリャさんの人生ってすごく過酷だったのね」と同意を求めると、「国内に居てもみんなそうだったのよ。あの時代の人たちは。うちの祖父も父も戦争、革命、国内戦、スターリン時代、また戦争...とずっとひどい時代だったから...」と冷静な答えが返ってきたのでびっくりしたが、考えると確かにそうなのかも知れない。
 とはいえ、私にとってガーリャさんの出現は日ロ交流史の新たな一つの証言ともいえるエキサイティングで大へん感銘深い出来事だった。

「会報」No.13 1999.10.25

高須治助来函のなぞ

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 今年は、文豪プーシキンの生誕200年にあたり、ロシアでは、記念のシンポジウムが開かれるなどずいぶん賑やかだったようだ。
 ところで、日本で初めてプーシキンの作品が翻訳されたのは『大尉の娘』(但し抄訳)であった。『露国奇聞花心蝶思録』という題名で、明治16年に出版されたが、たしかロシア文学の翻訳としても初めてのはずである。訳者は、高須治助といい、東京外国語学校魯語科を中退した人であった(写真は明治11年の外国語学校時代の高須、「小島倉太郎写真帳」より)。
 この高須が、明治16年2月から1年近く函館に逗留して、2つの仕事をしている。1つは、「函館繁昌記」(原書は漢文体だが、岩波書店の日本近代思想大系『風俗 性』に読み下しが収録されている)という、いわば、函館の風俗案内書の執筆で、もう1つは、明治16年10月4日から12月10日まで、「函館新聞」に「露文和訳 三重比翼の空衣」という題名でフランス小説のロシア語版からの翻訳を掲載した。この時代に、しかも地方新聞に、ロシア語からの翻訳が掲載されているのは、特筆に値するのではないだろうか。
 ところで、N先生から「どうして高須治助は函館に行ったのでしょうか」という質問を受けたのは、もう7年も前のことだったが、今も依然、なぞのままである。
 高須自身は、繁昌記の中で「余有事来航此地、遂留焉」と書いている。いったい、どんな「事」があったのだろうか。岩波前掲書の解説によれば、彼は明治13年魯語科中退後、大蔵省の翻訳課に勤務したが、意に満たない生活を送っていたのだという。しかも、繁昌記の序によれば、文士を志していたという。だとすれば、役人生活から抜け出そうと、旅に出たのではなかったろうか。
 では、なぜ函館だったのか。一つの可能性として、ここに知り合いがいたからという答えはどうだろう。
 東京外国語学校の同窓、小島倉太郎である。小島倉太郎については、秋月俊幸氏の「小島倉太郎少年の魯語学遍歴」(ナウカ社『窓』28号)が詳しいが、明治14年に学校を卒業して、翌年に開拓使函館支庁記録課外事係に採用されていた。
 函館新聞に口を利いたり、何かと面倒をみたのではと思うのであるが、皆様からの情報をお持ちする次第である。

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「会報」No.13 1999.10.25

明治初期におけるロシア型馬橇の導入について

2012年4月24日 Posted in 会報

関秀志

研究の目的
 北海道における生活文化形成史を民具の面から見ると、(1)先住民族アイヌの民具、(2)府県からの移住者・出稼者等がもたらした日本各地の伝統的民具、(3)外国から流入した外来民具、(4)それらが改良され、あるいは北海道で独自に考案された北海道的民具の4種に大別することができる。
 (3)の外来民具の中で注目すべきものに、明治初期に開拓使によってロシアから導入され、その後さまざまな工夫と改良が加えられて、(4)の北海道的民具になったロシア型馬橇がある。
 明治初期における開拓使の欧米技術文化導入政策がアメリカからの移入に重点が置かれていたことは周知のとおりであるが、その中にあってロシアからの馬橇の導入は北海道の民具発達史上極めて重要であるばかりでなく、日露文化交流史の上からも注目されてよいと思われる。
 私の研究は、ロシア型馬橇導入の背景とその経過、開拓使による製作とその後の普及・改良について明らかにしようとしたものである。

導入の背景
 開拓使は開拓政策の一環として道路の建設に力を注いだが、特に冬期の交通・運輸を確保するために、馬橇に注目した。開拓使の最高顧問だったホ-レス・ケプロンも橇による運搬の便利なことを説いている。

導入の経過
 明治7年(1874)開拓使は樺太支庁を通してロシア人から「馬雪車」(馬そり)と「曳馬鉄沓」(蹄鉄)を購入、翌年札幌の工業局器械場で製作を始めたが、台木の先端を曲げる方法がわからず失敗をくりかえす。明治11年8月~10月に黒田開拓長官がウラジオストクを視察した際にロシアから「木製橇」を贈られ、「乗橇」1台を購入した。さらに同年12月彼は樺太のコルサコフに出張し、橇と住宅を視察、ロシア人職工3人を雇って帰る。こうして、ロシア型馬橇の製作事業が軌道に乗った。

ロシア人職工の雇用と職務
 明治11年12月、イワノフ、ハモトフ、ノウパシン(セルメンツオフから変更)の3人とコルサコフで契約。期間は当初1年間だったが、ノウパシンは都合により12月10日まで、他の2人は13年6月まで延長となった。往復の旅費、住宅は支給、月給は50円で、労働時間は日曜・休日以外は毎日8時間である。彼等の職名は木工職・木工教師で、主としてロシア型の車橇製作とペチカ付丸太組家屋の建設指導に従事した。

製作事業と利用
 ロシア型馬橇の製作は明治11年12月から本格化するが、同年8月から開拓使廃止直前の15年1月までの製作台数は439台(荷橇420、乗橇19)である。この事業はその後、工部省札幌工業課、農商務省北海道事業管理局札幌工業事務所に引継がれ、明治19年に北海道庁が設立されると廃止された。
 開拓使・北海道事業管理局は製作した橇を民間に払下げた他、これらの馬橇を利用し、明治12~13年に札幌・小樽間、14~17年に札幌・室蘭間の輸送事業を実施している。

ロシア型馬橇の特色
 ロシア型馬橇の構造的特色を日本在来の橇のそれと比較すると次のとおりである。(1)左右の2本の台木を蒸籠に入れてふかし、その先端を曲げること。この鼻曲げ作業は最も高度な技術を要する。(2)台の上に片方5個、左右10個の束木をたてること。(3)左右の束木および台木の先端にわたす横木として柴木(若木の細い丸太)を用いること。この柴木も蒸籠でふかし、柔らかくして束木や台木に巻き付ける。柴木を巻き乾燥するとよく締まって橇が丈夫になる。このことから、ロシア型馬橇は後に柴巻馬橇と呼ばれた。(4)台木の裏側に鉄板を張り付けて、橇の滑りを良くし、台木の磨耗を防いだこと。(図1参照)

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図1 「露国形橇ノ図」

ロシア型馬橇の改良と普及
 札幌の官営工場での橇製作事業が廃止されると、職工たちが独立して開業し、そこで修業した職人たちが開拓地域の拡大と共に全道各地の市街地に進出した。農耕馬の増加にともない馬橇は増加の一途をたどり、昭和15年頃には12万5000台を超えた。
 ロシア型馬橇の構造と製作技術の伝統を最もよく謳歌したのが札幌型馬橇(柴巻馬橇、図2参照)で、昭和10年代には全道の馬橇の約70%を占め、北海道の代表的な馬橇となった。その分布地域は、次に述べる函館型馬橇の分布地域を除く道内であるが、日露戦後、南樺太が日本領になるとロシア型馬橇のふるさとであるこの地方にも普及した。

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図2 「札幌型馬橇」

 一方、北海道の旧開地である函館地方では早くからわが国の在来型の橇が使われていたが、馬橇の製作は札幌よりおくれ、その構造や製作技術も札幌型とは異なるものが成立した。台木の先端を高く曲げ、束木を立てるのはロシア型の影響を受けているが、台木は薄く、柴木は用いず、金具を多く用いて組立てる、この函館型馬橇(カナ橇、図3参照)は函館の経済圏であった道南の渡島・檜山地方地方や十勝・釧路・根室地方の太平洋沿岸部に分布する。

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図3 「函館型馬橇」

 また、ロシア型馬橇の影響は青森地方にも及んだ。青森型馬橇(図4参照)は一見函館型馬橇に似ているが、台木の先端はふかして曲げるのではなく根元の曲がった木を利用している点に特色がある。台木を曲げる技術は津軽海峡をこえることがなかったのである。

今後の研究課題
 1870~80年代におけるロシア極東地域の馬橇の実態、開拓使が招いた3人のロシア人職工、函館型・青森型馬橇の成立時期の解明が残された課題である。

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図4 「青森型馬橇」

「会報」No.12 1999.5.20

函館訪問の印象

2012年4月24日 Posted in 会報

シビニコフ・アンドレイ

 私の名前はシビニコフ・アンドレイと言います。ロシア共和国ウラジオストークにある極東工科大学の学生です。現在、青森公立大学で交換プログラムにより勉強しております。4ヵ月前に来日しました。
 ロシアでは日本語や日本について学んできましたが、来日して、この国や人々について何も知らないことが分りました。両国は地理的にとても近いのですが、我々は異なる精神文化に属しています。日本で生活しないで、日本人を理解することは出来ないと思います。
 私の旅行は函館市を訪ねることから始まりましたが、この旅行は日本人の友人、工藤朝彦さんからのお誘いでした。工藤さんはロシアに興味があり、工藤さんの函館訪問の目的はロシアを研究するグループの会合に出席することでした。工藤さんは、私に函館を見せたかったのです。
 早朝、私たちの列車は青森を出発しました。前日まで日本を列車で旅したこともなく、初めて日本の地方の自然を見たのであります。私は針葉樹が大好きで、樅の木・松・杉が茂る丘や山の果てしなく続く景色は圧巻でした。
 9時30分に函館駅に到着しましたが、まず驚いたことは、路面電車が走っていることでした。私が育ったウラジオストークでは路面電車はバスと同じように重要です。青森には路面電車がありませんので、ほとんど路面電車のことを忘れかけていました。
 更に、函館にはたくさんの坂があるのではないでしょうか。故郷に実に似ているのです。アメリカ人がウラジオストークにやって来た時のことですが、サンフランシスコに似ていると言っていたものです。今、世界には三つの類似した美しい都市、ウラジオストーク、サンフランシスコそして函館があることを知りました。だから、私のために工藤さんは会合が始まる前に函館に着くことを決めたのです。
 旧函館市公会堂から散策したのですが、最初、その建物はロシア人が建てたものだと思いました。何故なら、実に中世ロシアの豪邸に似ているからです。函館市には伝統的な和風家屋の他に、西洋建築物があることを知りましたが、それは外国人にとって心地がよいものです。
 工藤さんは旧ロシア領事館の建物に案内してくれましたが、美しい所に位置しており古木の陰に立つと昔住んでいたロシア人たちのことが思い浮かばれます。しばしば私は昔の日本のことを想像してみるのですが、それは夢のようなものなのですが、そして今は同じ夢にロシア人のことが浮かぶのです。とても興味深いことです。
 その後、ロシア人墓地を訪ねました。だれにとっても、母国を遠く離れた地で世を去ることは自分で選びたいものなのでしょうか。親戚や友人たちは墓を訪ねることは出来ないであろうし、墓自体が無くなることだってあるからです。しかし、あなたたち日本人の皆様はその墓地を管理してくれています。私はすべてのロシア人を代表して、感謝を申し上げたいと思います。
 さて、函館の散策を続けるうちに、だんだん印象が深まっていくのでした。坂からの景色は美しいものでした。そして天気も快晴で私たちの気分は最高でした。街路を歩きながら、お寺を見ることが出来ました。仏教のことはほとんど知りませんしそのような寺院を見たことがなかったので、精神的触れ合いを感じることは出来ませんでした。ただ言えることは、その建物は私にとって見慣れないものなのですが、素晴らしいということです。
 最後に、ロシア正教会を訪ねました。教会はウラジオストークと函館を鎖で繋げるものでした。ロシア正教会とカソリックやプロテスタント教会がなんと平和的に共存し合っているのだろう!ここには、もはや教会の優位性を主張した中世の欲望はないのです。ここ日本では、それぞれ異教を信ずる人々はそれぞれの流派に従いお祈りをするのですね。
 興奮を隠すことが出来なかった観光を終え、現代風に改装された上品なレストラン「べイ」で食事をしました。私は未だ伝統的な日本食、例えば刺し身などは苦手なのですが、そこの日本風海鮮料理と西洋風肉料理はとても美味しいものです。
 その後、函館日口交流史研究会に参加しました。私は日本語を学び始めて日が浅いため、たくさんのことは理解出来ませんでしたが、講演の概要「日本とロシア、特に極東ロシアの馬橇の起源と類似性」を把握することは出来ました。
 皆さんが、如何にロシアの歴史について詳細に研究され、我が国と日本の交流史を探求されていることに感動いたしました。両国の歴史と文化についての情報交換をロシアと日本の研究者は協力して行なっていただけたらと思います。有益で興味深い情報を自由に交換し合うのです。函館市立博物館館長の菅原繁昭氏がもしウラジオストーク市のアルセニエフ博物館と交流ができるなら有益なものとなるでしょう。
 このようなことを考えながら、北海道函館市を離れたのです。少し疲れましたが、十分満足して。当日はたくさんの重要な情報を得ることができ、それらを脳裏に記憶したのです。 私たちは、再び、海底260メートル下の海底トンネルを列車で通過しました。
 私がかつて見た最も美しい都市として、函館市はこれからいつまでも記憶に残るでしょう。そして今、再度、函館市を防間したいと確信しております。

「会報」No.12 1999.5.20  特別寄稿

東洋を研究する後輩へ送るいくつかのアドバイス

2012年4月24日 Posted in 会報

F.B.デルカーチ(国立極東総合大学函館校)

 「日本人に送りたいメッセージ」といわれて、やっと悟った。実際に、そういうメッセージ等は一切ないということに。それより、日本からロシア人に言いたいことがある... 
   
若き友よ、よく聞け。
  この島国で何を探すか、行く前に考えるがよい。もし「なぜ」とか「何のために」という質問をする癖があれば、それは家に残してこい。もちろん日本語にもその言葉はあるが、日常生活では使われていない。その疑問を持たず、積極的に働いた人が経済の奇跡を起こし、そして国を今の不景気に導いた。ロシアではこの疑問が好きでなかった人も、日本にいる間に必ず浮かんでくる。
 日本人の心の秘密はなんだろうと聞く、お前だけに教えてあげよう。神と悪魔のぶつかった頭の痛みでできたロシア人と違って、日本人の精神はタマゴッチの醤油煮だろう。ロシアの大昔に消えたアニミズムという原始的崇拝が、日本のモダンな社会に生き続けている。
 テレビのCMを見れば、日本人にとって「心」というのは、人間自体よりも、日本茶から子供のパンパースに至るまで、物にあるという感じをどうしても、否めない。
 彼らは「タダシイ」、だから、無駄に腹をたてるな。この国には鏡に映ったおまえがいる。「心ってどこ」と自分自身に聞けば、その昔から育てられた癖以外に、その場所があるものか。愚かな我々人間は、外国に「心」を探し続けるのをあきらめて、実際にただ慣れたものを食べたいだけ。柔軟性をいくらもっていても、結局自分の立場を守る本能が勝つ。それによって、「平和をめぐる戦争」が起こり続ける。人間はありのままの世界を受け入れるまで力が足りず、どうしても相手に条件を言う。ここで、多くの人に「戦争は政治家が始める」といわれるだろう。信じるな。戦争の本当の理由は俗人の無関心にある。
 人と議論するな。日本食を黙って食べて、褒めるとよい。「日本の食べ物はどうですか」と聞く日本人は実際におまえの意見を聞きたいわけではない。儀式第一。人間社会では「挨拶的に」生きれば栄える。孤独に...
 アジアに生まれ育ったおまえは、自分がアジア人といえば、日本ではエキゾチズムに狂った変な外人にしか思われないだろう。ここで、「れんげはスプーン」と、いくら言っても信じる者が多くはない。自分の国の独自性にあまりにこだわる日本人は、おまえの国は違うと当たり前に考え、むしろ似たものがあれば驚くだろう。
 日本文化の色々なものを習おうとした時に、墨絵であっても、武道であっても、それに基本的なコンセプトがなく、従うべき規則しかない。極端に言えば、日本文化には理解することがなく、覚えるだけでよい。しかし、覚えて従えば、理解はある日、一瞬にくる。ここでもっとも大事な要因は時間だ。
 キリスト教文化の基礎の基礎は、「要石」の観念だ。だから、物の内部、本質から入る習慣があって、日本的な「形から入る」という表現さえもない。だって、ロシア語で「分かる」の語源は「入り込む」だが、日本語は「解く」だよ。恐らく、日本が受け入れた外国のものは(中国のものであっても)、形にしか存在していないらしい。
 驚くことにロシア人は、自分自身は「仏教徒」と思う日本人よりも、ものごとの無常をよく感じる。その観念は日本文化の中に入ったが、限定された範囲だけにしかとらえなかった。やっぱり、人はどうしてもきれいな絵しか見たくない。四季の変化に現れる無常ならいいが、全てを滅ぼす宇宙の絶対的な法則は、どうだろう。日本人は、逆に地上に「永遠の命」を手に入れようと努力し続ける感じがする。時々、あきらめの悪い人たちのことがうらやましくなる。しかし、様々な技術の進歩によって、人生を延ばした日本社会の深刻な問題を見ると、経済の荒れているロシアと、どちらの立場がいいのだろう、と思ってしまう。
 現代の人間は夢中で様々なゲームをやっている。「平和を守ろう」と叫ぶ我々は、看板をたてたり、世界に手紙を送ったりしながら、とても満足しているらしい。でも、あちこちで戦争が続き、また起きようとする。「自然を滅ぼすな」という我々は、大事な問題を解決しようと思っている。しかし、自然を滅ぼすのは不可能だとは気づいていない。滅ぼせるのは、我々が生きている具体的な環境だけだ。無限な自然は、人間が消えても、それに気づかないだろう。自己中心的な我々は、ただ自分の小ささを考えればどうだろう。
 そして、一番大事なこと。以上に書かれたナンセンスを早く忘れたほうが、身のためになるということである。

「会報」No.11 1999.4.1

コジェーヴニコワさんの函館訪問 ―雑誌「日本紹介」より―

2012年4月24日 Posted in 会報

円山牧子

 私が定期購読している雑誌「ズナコーミチェシ ヤポーニヤ(日本紹介)」の1998年18号に、おやっと目をひく話がありました。表題に示したような内容だったからです。
 この雑誌は年4回発行されている季刊誌で、ロシア科学アカデミーと日本基金の合意に基づいて創設された現代日本研究センターが発行するものです。内容は、経済、政治、歴史・社会、文化・宗教、散文・回想録・詩歌という5つのテーマに分かれており、テーマごとに2、3の論文が紹介されています。
 著者のコジェーヴニコワさんは、歴史・社会の欄に、高田屋嘉兵衛を中心にした日露関係史を書かれ、函館で、図書館など色々と見学された様子が述べられているのです。
 彼女は東洋学研究所を卒業され、日露文化交流や日本文学を研究されているそうです。本文中にはふれられていませんが、彼女が函館を訪ねたのは1996年8月で、その時わが研究会の会員である高田嘉七氏や桑嶋洋一氏等がお世話されたそうです。そんな縁があったとは全く知りませんでした。原文はロシア語ですが、関係部分を翻訳して事務局に渡してありますので、ご一読ください。

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(高田嘉七氏とコジェーヴニコワさん/岡田弘子さん提供)

「会報」No.11 1999.4.1

投稿者 hakodate_russia : 11:43 | コメント

ウラジヴォストークの印象

2012年4月22日 Posted in 会報

保田孝一

 8月30日から8日間、鈴木旭会長のお供をしてウラジヴォストークへ行って来た。わが日ロ交流史研究会とウラジヴォストークの科学アカデミーや極東総合大学の日本研究者と第6回シンポジウムに参加するためであったが、シンポジウムは30日と31日で終わり、あとは市内観光とウラジヴォストークから200キロ余り離れているナホトカなどを見学させてもらった。
 シンポジウムにおいては、最初に鈴木会長が「1920年代のロシア極東漁業と函館の関係」、ついで長谷川健二さんが「1920、30年代の日ソ漁業関係―ソビエト側を中心として」、私が「ロシア革命前の日露関係」を報告し、その後で一問一答があった。
 鈴木会長も長谷川さんも、函館と極東ロシアを結ぶ漁業協力は、1920年代のネップ政策の下で発展したが、30年代に社会主義的5ヵ年計画の進行と共に縮小して行ったプロセスを論じたものである。ロシア側でこれに関係する報告をしたのはマンドリクさんとガリャモヴァさんで、マンドリクさんは学位論文の一部でもある「極東ロシアの漁業史の外国での研究」、ガリャモヴァさんは「漁撈の分野での日露関係史の史料としてのアムール州の国有財産局の報告」を報告した。これについては会長が言及される予定である。
 小生にとってとりわけ興味があったのは、モルグン女史とブラヤ女史の報告「沿海州地方の領域における日本人捕虜滞在の問題によせて」とセルゲエフさんの報告「ロシアの極東と北海道の開発の比較(軍事的植民の視点)」である。
 モルグンとブラヤ報告は、沿海州における日本人捕虜の墓地調査のためのフィールド・ワークと公文書の調査についての国際平和基金のウラジヴォストークの支部の活動報告でもあった。ヨーロッパ・ロシアでは平和基金が、ロシアで死んだドイツ軍人の墓を調査し、管理していることは知っていたが、沿海州では捕虜収容所の通訳だったポリカロフという人が、1996年に「鎮魂譜、沿海州(極東ロシア)の大地に眠る日本人戦没者の霊々」という本を編集し、数部出版され、戦後、沿海州の領域で死亡し、埋葬された日本人捕虜の名簿が発表されていることを初めて知った。この研究の結果、ここに眠る旧日本軍人の個々人の墓のかなりの部分を特定できるようになり、墓参している遺族もいると聞いた。
 セルゲエフさんの報告は、明治時代に北海道にあった屯田兵制がロシアのコザック軍団制の影響を受けて組織されたという話だ。この説はわが国でも専門家の間で常識になっている。我々が驚いたのは現在、コザック軍団がロシアを防衛する軍団として復活しており、すでに法律で保護され、従来の国境警備隊にかわる場合も起こりうるという話だ。まさか北方領土にコザック軍団を配置することはないであろう。この時私はふと、今年5月末サンクト・ペテルブルグのロシア国立史料館の近くで、祭日のために特設され繁盛していたステパン・ラージンというビールの安売り屋台店を思い出した。ここではステパン・ラージンはロシアの農民運動の指導者というイメージはなくなっていた。
 私は報告した。明治時代には皇室外交が活発で、日ロ両国の王・皇族が相互に訪問し合っていた。最初にロシアを訪問したのは有栖川宮熾仁親王で、その時ペテルブルグ大学に有栖川文庫を贈呈された。これは現在でも大切に保存されている。これを知った三笠宮崇仁殿下は1997年9月ペテルブルグの科学アカデミー図書館に三笠宮文庫を贈った。そして今年9月、ウラジヴォストークの極東総合大学に、もう一つの三笠宮文庫1300冊を贈る(9月14日に贈呈された)。
 実は21年前にペテルブルグに三笠宮文庫を贈った時、私は根回しをして手伝った。今回も根回しのためにウラジヴォストークのシンポジウムに参加し、同席していたモルグン女史とアフォーニンさんにの三笠宮文庫1300冊のリストを渡し、文庫を日ロ両国を結ぶ文化の橋にしてほしいと熱っぽく語りかけた。この時ロシアの一学者は、日本にとって北海道はロシアのシベリアで、北方領土はロシアにとっての極東にあたる。早く問題を解決して日本と平和条約を結びたいといった。
 今回のウラジヴォストーク訪問で私が最も望んだのは、極東ロシア国立史料館(РГИАДВ)と沿海州国立文書館(ГАПК)がどの程度開放されているかを調査することであった。9月4日マンドリクさんの案内で前者を訪問し、最後のロシア皇帝ニコライが明治24年日本で大津事件を体験した後にウラジヴォストークに上陸し、シベリア鉄道の起工式に参加して、その後陸路サンクト・ペテルブルグへ向かったことに関係する史料を請求したところ、2000ページを越える3冊の綴じ込みが出て来た。戦時中トムスクに疎開され、最近ウラジヴォストークに戻って来たものだそうだ。実に保存がよい。読者に対するサービスもペテルブルグのロシア国立史料館(РГИА)と同じく良かった。コピー・サービスもあった。そしてすでに数人の日本人が訪れたという。私も元気でいるうちに、再びここを訪れ、どんな興味ある資料があるか確かめたいと考えている。

「会報」No.10 1998.12.8

アレクサンドル・アレクセーエヴィチ・シガ

2012年4月22日 Posted in 会報

檜山真一

 わが国のロシア語通訳の草分けで、函館とも縁のふかい志賀親朋(1842―1916)が正教徒だったことは、ほとんど知られていない。二本の彼の小伝には、正教徒親朋についての言及はみられない。小伝はいずれもすべて日本語文献にもとづいている。8、9年前、複数のロシア語文献から、私は親朋が正教徒だったことを知った。親朋研究にとり、この事実は重要である。長崎の悟真寺には志賀家の立派な墓所があり、親朋も仏教徒だとばかり思い込んでいた私には、ちょっとした驚きであった。
 問題の文献と記述は次の通りである。

1、L・パシコーヴァ『極東と東洋のフランス人ならびにイギリス人コロニー(世界一周女性飛行家の日記から)』、オデッサ、1886年。
 「地主で、在サンクト=ペテルブルグ日本公使館元書記官の正教を信じる日本人アレクサンドル・アレクセーエヴィチ・シガは、領有地の近くで暮らしている。」

2、フセヴォロド・V・クレストフスキイ「遠方の水域と国々で」―『ロシア報知』サンクト=ペテルブルグ、1886年、第2号。
 「これらの兆候から、V・S・クドリーンはただちに判断した。数年前、在ペテルブルグ日本大使館付書記官だった正教を信じる日本人、アレクサンドル・アレクセーエヴィチ・シガ自身がここで暮らしているにちがいないと。」

3、A・A・チェレフコーヴァ 「日本の思い出から。日本の正式晩餐。仏式葬儀」―『歴史報知』サンクト=ペテルブルグ、1893年、第1号。
 「正教を信じる日本人で、約20年前、在ペテルブルグ日本公使館元書記官アレクサンドル・アレクセーエヴィチ・シガは、目下、ずっとナガサキで暮らしており、ロシア語をかなり上手にあやつり、市内見学や視察の方面でおおいにロシア人の世話をやいている。」

  いずれも日記体の紀行文で、3人のロシア人は、1880年代半ば、長崎で親朋に会って親しく言葉をかわした。彼等の文章から、この頃すでに親朋は正教徒で、洗礼名がアレクサンドル・アレクセーエヴィチということがわかる。
 数年後、親朋の洗礼の時期が明らかになった。V・グザーノフの歴史的スケッチ「チョウ―チョウ―サン―ロシア版実話」(『極東の諸問題』第1・2・3合併号、1992年)のなかに、次のような記述がみられる。

 「数年後、シガはサンクト=ペテルブルグに赴いた。そこで彼は日本大使館付書記官として勤務し、同地で正教を受け入れて、アレクサンドル・アレクセーエヴィチとなり、姓だけは元のシガを残した。」

 1867年と1874年の2度、職務で親朋はロシアに渡っている。親朋が在ペテルブルグ日本公使館付外務3等書記官となるのは1874年(明治7)のことで、このとき、正教の洗礼をうけたのである。3人のロシア人が長崎で親朋に会ったのは、彼が正教徒になって10年余り後のことであった。
 中村健之介氏の教示で、親朋洗礼時のことが具体的に明らかになった。大正5年10月の『正教時報』の親朋の訃報記事「亞歴山志賀親朋翁の永眠」に、次のようにある。

  「露国在勤中露都にてアレキセイ親王を代父にオリガタウィドヮ夫人を代母として聖アレキサンドルの聖名を以て洗礼を受け(以下略)」

 親朋の洗礼名の父称は、アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公(アレクサンドル2世の第4子、ロシア最後の皇帝ニコライ2世の叔父)の名前に由来していたのである。親朋とアレクセイ親王との初対面は1872年(明治5)のことで、来日したアレクセイ親王と明治天皇や有栖川幟仁親王との間に立って、親朋は通訳をつとめた。
 親朋の正教入信の動機、父子の確執などの解明は今後の課題である。父親憲は息子がロシア語を学ぶことを嫌い、函館のロシア領事館付の通訳となることに最後まで反対したといわれる。親朋が正教徒になって3年後、親憲は亡くなった。

「会報」No.10 1998.12.8

はこだて・ロシアの架け橋

2012年4月22日 Posted in 会報

山名康恵

 幼い頃、ピアノがほしくて始めたピアノのお稽古。それが、私とロシアをつなぐ序曲であったことは、両親でさえも予想しえなかったことだろう。
 父の転勤でピアノ講師が変わり、レッスンも新たに、ソルフェージュを始めることになった。ピアノ演奏は、演奏する曲目が増えてくるので、幼な心にも自分は音大に行ってピアノ講師になると思い、嫌いな練習も徐々に好きな時間の過ごし方へ変わっていった。けれども、新たな声楽は、いくらやっても楽しくなかった。そんな私を知ってかしらずか先生は私に部活で合唱部に入門するようにアドバイスしてくれ、私は合唱を通じてハーモニーの良さを知っていった。
 かつて先生が参加していた旭川市民合唱団は、海外へ演奏旅行の経験があり、写真などを見せてもらったことがあった。その合唱団が再び海外での演奏旅行の計画があり、私にオーデションをうけるよう勧めてくれた。母親は、この子はまだ小さいからと、迷っていた。家族のなかで初めて海外へいく。しかも私にとって家族と離れることは、修学旅行のせいぜい1、2日ぐらいのものしか今までなかったのだ。けれども、私の心の中では海外旅行も修学旅行も何も違いがなく、よその土地へ行ける喜びに満ちていた。そんな初めての海外が、幸運にも今のロシアである旧ソ連であった。
 世界一国土が広く、「走れトロイカ」や「一週間」などの民謡しか、知っているといえばそれしかなかった。モスクワとレニングラードで過ごした約一週間、リハーサルの毎日と演奏会、そして演奏会後のパーティーと、子供にはとてもハードな日程だったが、移動中のバスの窓越しに見る町並みは、夢見るように美しかった。広い道、石造りの建物、そしてその全てが私には芸術に感じられた。
 演奏会では、鳴り止まない拍手に包まれ、一人一人にカーネーションをもらい、歌で交流する音楽の時の流れのようなものを感じた。ただ、私がやり残したこと、それはロシアの人々との会話。合唱団の少年少女たちとただアドレスの交換をするぐらいと、旅行前に覚えさせられた挨拶しか話すことができなかったこと。どうしても彼らと話すことができずにさみしかった。
 なぜそう思うのか訳がある。合唱団には団長が、演奏会には司会者がいる。彼らのとなりには、必ず通訳さんが立っている。私たちの公演に随行してくれた通訳さんの流暢な日本語にも驚いたが、彼女から発せられるロシア語は言葉というよりも音楽のメロディーに近く、初めて耳にしたロシア語にすぐに興味を抱いてしまった。ロシアの合唱団の団員も同じように話し合っているのを見て、彼らが使っている言葉で歌ったり買い物をしたり、彼らと同じようにお互いが理解し合えるよう、いつかロシア語を学んで再びこの地を訪れようと思った。
 それからの日々、一人でもこの芸術性豊かな町を歩ける語学力を付けようと秘そかに想いはせていた。そんな日々を送り続けていた高校三年の秋、ニュースで、函館市にロシア極東国立総合大学函館校の開校の話題が取り上げられていた。開校は来春、ちょうど卒業と同時期。とても迷った。すでに受験校は決まっていたし、親との話し合いが続いた。ロシア語を自分の一生の時間の今、この時期にやりたいと主張する私に対して、安心して4年間を過ごせ、就職が自ずと決まってくれるような進学を希望する両親。私のことを気遣い心配してくれるのは、親友も同じであった。
 しかし、私の考えは変わることがなかった。人と違った道へ進む怖さよりも、幼いときに自分自身で感じたあの気持ちのチャンスが今めぐって来たのだと。行ったことがないから分からないと、私の函館行きに共感してくれそうにない両親にさえ、「親が大学へ行くわけではない、私が決める。」と言い張った。
 大学4年間で培った時間は、そんな両親をも変えた。
 演奏交流で知り合ったロシアの子供たちをホームステイさせてくれ、その時に手伝いのため帰省した私を見て、私がロシア語で楽しそうに話しているのを見て、うらやましがっていた。
 ここ函館で、私の幼い頃からの夢は、雨上がりの虹のように輝かしくのびていった。大学でも様々な人に出会い、刺激にもなり、ロシアを共有できる仲間にも恵まれ、本当の自分らしさを養ってもらえたように思える。
 学生時代から今にいたるまでお世話になった方々へ感謝しつつ、これからもロシアとの交流に力をそそいでいきたいと思います。

「会報」No.10 1998.12.8

函館を訪れたウラジオストクの東洋学院生

2012年4月22日 Posted in 会報

原暉之

 ロシア極東国立総合大学は来年(1999年)、創立100年を迎える。総合大学に成長する前の前身校、東洋学院が要港ウラジオストクの地に誕生したのは1899年のことである。以来1世紀のあいだ、ロシア極東随一の高等教育機関は苦難と栄光の歴史を刻んできた。
 以下で述べようとするのは、草創期の東洋学院の一側面である。その第一期生が研修のため函館を訪問した経緯を少しだけ掘り下げてみたい。
 近隣アジアの外国語、外国事情に通じた専門家の養成を目的に掲げ、ロシア政府大蔵省の主導下に設立された東洋学院は、実学の重視をモットーとした。19世紀の末、中東鉄道(シベリア鉄道が中国東北を横断する短絡線)の敷設構想を推進していた大蔵省にとって、外国語を実地に使いこなせる人材の育成は緊急の課題だったのである。学生に外国研修を課したのも建学の精神を反映していた。
 東洋学院は4年制で、学生・聴講生は2年次への進学時に4つのコース((1)中国語・日本語、(2)中国語・朝鮮語、(3)中国語・モンゴル語、(4)中国語・満州語)のどれかに振り分けられた。中国語は全学の教育に特別の位置を占め、全学年・全コースに共通する必修科目であった。これに加えて、コース別に2学年から日本語や朝鮮語などの専攻外国語が必修となる。
 東洋学院の開校式は新入生31人を迎えて1899年10月21日に挙行された。日本語の授業がはじまるのは彼ら第一期生が2年次に進級した1900~1901学年度からである.日本語の担当は、ペテルブルク大学東洋学部で研鑽を積んだエヴゲニー・スパリヴィン教授と彼が日本留学中にスカウトした前田清次講師の二人であった。一般に東洋学院の語学教育は教授の担当する理論編と外国人講師による実用編からなり、例えば中国語・日本語コースにおける日本語の時間数(理論編プラス実用編)は週当たり2年生で6プラス4時間、3年生で3プラス3時間、4年生で4プラス4時間が課せられた。かなりインテンシブな内容といえよう。
 当初31人をかぞえた第一期生のうち、2年次に進級できたのは全体で18人、うち中国語・日本語コースは6人であった。2年次からの日本語授業がハードだったためか、3年次への進級時にはこのコースで3人が落第した。パーヴェル・ヴァスケヴィチとアレクセイ・コベリョフは無事に1900~1901学年度の単位を修得して3年次に進級したうちの二人である(他の一人は聴講生)。
 1901~1902学年度の成績は1902年5月1日の教授会で判定された。同日の教授会記録によれば、6科目合計30点満点で、21点のヴァスケヴィチは合格、18点のコベリョフは不合格と判定された。進級できなければ落第である。ただしこの場合、不合格者については夏期休暇中に予定される外国研修で好成績を挙げた場合に限って留年できるよう当局に申請する、との留保がつけられた。
 1902年といえば、日本の逓信省が大阪の海運業者、大家七平に命じて交通丸、凱旋丸という2隻の汽船を日本海の甲乙2航路に就航させたことによって日露間の海運アクセスが格段に改善された年であった。ヴァスケヴィチは交通丸で敦賀に渡り、新潟まで足をのばした。コベリョフの派遣先は函館であった。
 帰国後、コベリョフは2本の報告書を提出し、留年を確保した。一方、ヴァスケヴィチはその報告書が優れているとして金メダルを授与されている。
 1903年5月にはヴァスケヴィチを含む第一期生9人の卒業が認定された。1年遅れたコベリョフは本来なら1904年5月に卒業できるはずだったが、日露戦争が勃発したため、卒業は延期となった。開戦と同時に東洋学院は卒業生だけでなく、在校生も高学年生から順次、満州の戦場に教え子を送り出したのである。彼らが担った役割は軍事通訳であり、ヴァスケヴィチもコベリョフも例外ではない。
 その後、卒業試験未実施のまま従軍中の4年生について、同年10月20日の教授会は「みなし」の相対評価で成績をつけ、その上申をうけた国民教育省は翌1905年4月2日づけで彼らの卒業を認定した。コベリョフは「及第」、のちにペテルブルク大学東洋学部で日本語を講ずることになる第2期生ゲンナジー・ドーリャは「優秀」の成績であった。このときの記録から、コベリョフがハリコフ神学校の出身者だったことが知られる。
 コベリョフの卒業後の軌跡は不明である。残されている関係資料は、東洋学院の紀要に掲載された2本の報告書だけである。
 まず「1899年の北海道」は『北海道庁第14回拓殖年報』1901年版を翻訳したもので、コベリョフは序文において、「M・M・ゲデンシュトローム在函館副領事の好意により」同書を入手し、「翻訳にあたっては在函館副領事館付き通訳の笠原氏が多大なる協力を払ってくれた」と謝辞を述べている。
 いまひとつの「函館市および1901年の同市における商工業活動の概要」と題する報告書は8章からなり、函館市の沿革、市と周辺部の現況、人口、工業、漁業、物価、通商、対露貿易を手際よくまとめている。
 東洋学院生の分厚い報告書の行間からうかがえるのは、隣国を真摯に理解しようとする学生たちの熱い眼差しである。日露戦争後には、たとえば函館商業学校にみられるように、日本の学校も日本海の対岸を目的地にして修学流行などを組織するようになる。隣国に対する興味津々の眼差しは彼らにも共通していた。
 ただ東洋学院の場合、研修に出る学生は教師に引率されず、団体を組まず、単身の旅行を経験するなかで、教室で習得した外国語に磨きをかけ、外国の暮らしを肌で知り、情報を詳しく記録して同国人のために役立てた点が際だっていた。
 東洋学院は発足の直後から激動のなかにあった。日露戦争の過程でザバイカル州ヴェルフネウジンスク(現ウランウデ)への疎開を余儀なくされた東洋学院は、第一次ロシア革命のさなか、教授会と学生自治会の対立から、一時すべての教育活動を停止する事態に陥った。
 1920年に東洋学院は極東国立総合大学に改組されるが、大学への改組はソビエト政府によって実施されたのではない(沿海州にソビエト政府の威令が及ぶようになるのは1922年11月からである)。このことは不吉な前兆を刻印づけるものであった。スターリンの「大テロル」が頂点に達した1937年には、極東大学の東洋学関係者が一斉に逮捕され、日ソ関係が極度に悪化した1939年には、大学そのものが閉鎖された(ソ連共産党の対日政策責任者として知られたイワン・コワレンコは、閉校される直前の卒業生である)。十数年の中断をはさんで、極東大学が再興されるのは1956年、日ソ共同宣言が調印される年のことである。
 こうしてみると、極東大学100年の歩みは、悲劇の連続でもあった20世紀ロシア史を映し出し、激動を繰り返した日露関係史を映し出してもいる。
 いずれにせよ、この世紀の初頭に東洋学院生の一人が研修旅行で訪れた函館は、現在ウラジオストクと姉妹提携を結んでおり、しかも極東大学が海外に置いているただ一つの分校の所在地でもある。過去だけでなく現在においても類まれな絆によって対岸の港町と結びついている函館市とその市民にとって、極東大学創立100周年の節目は、おそらく意義深い年となるだろう。

「会報」No.10 1998.12.8

もう一つの「浦鹽斯徳紀行」

2012年4月22日 Posted in 会報

菅原繁昭

 このたび私たちの研究会の会員でもある原暉之先生が「ウラジオストク物語」を上梓された。函館を含む日本各地とウラジオストクとの関連にも目配りをされるなど、都市と人を基軸とした日口関係史としても秀逸なものである。
 ところで本文(96頁)の「黒田ミッション」の項で明治11年の黒田開拓使長官一行によるウラジオストク訪問に言及している。そのなかで函館の商人たちも加わり、黒田らに先発して開拓使の函館丸でウラジオストクに向かったとある。渡辺熊四郎がその一員であることは知っていたが、ほかに誰がいたのかと思い、出発間際の「函館新聞」を開いてみると渡辺のほかに平田兵五郎(後の文右衛門)、井上喜三郎、武富龍太郎、吉崎清七、榎森伊右衛門、そして渡辺の手代で「魯語に通ぜし」松井永吉らの名があげられていた(明治11.8.20付け)。
 その動向は村尾元長(函館支庁)と鈴木大亮(札幌本庁)の2人の開拓使官吏によって詳細に記録されており、特に鈴木の著作は明治12年12月に「浦鹽斯徳紀行」として開拓使が発行している(村尾のものは未公刊)。帰国後の函館商人の動きを知ろうと、さらに「函館新聞」をめくっていくと、もう一つの「浦鹽斯徳紀行」に出くわした。それは函館新聞の「社中」の一員でもある平田兵五郎が9月18日から11月2日にかけて同紙に連載したものであり、帰国して間もない時期に発表されたホットな情報であった。これによって函館の人々はウラジオストクという街をおぼろげながらでも理解することになったのではなかろうか。また民間人のウラジオストク・レポートとしても早いほうに属するであろう。
 平田は渡辺とともにいわゆる「洋物商」として函館の代表的な経済人の一人であり、また輸入商品を扱っていることから開拓使が意図した経済ミッションを担う一員として適任者であったろう。
 さてこの紀行の中身を少し覗いてみよう。8月21日、函館を発した函館丸は小樽を経由して27日午後4時にウラジオストク港に到着した。平田たちは上陸後、2年前に開設された日本の「貿易事務館」に宿泊した。翌日、同地に在留している長崎出身の有田猪之助らに宿舎の斡旋を依頼している。一般の旅館の不足や外国人向けのホテルが高価なため、彼らで一軒家を借り、自炊することにしたものである(「渡辺孝平伝」)。紹介されたのは貿易事務館に隣接した空き家、その所有者はデンビーであった。家賃は40ルーブル(当時の日本円で20円)。
 平田は深い入り江を持つウラジオストクの港湾に注目して「兵備には最も要害なる良港」と、その特質を的確に言い当て、6、7年前には「二、三十戸」であったものが現今「二千二、三百戸」と増加しており、さらに「昌隆の地に至る」であろうと述べている。
 また、この当時「東邦沿海諾港の長」(軍務知事)であった「ケフェルツマン」(エルドマン)の人物評にも触れている。彼が赴任する前は無秩序に近い状態が、その任につくと「海陸軍の暴兵を縛し、奸吏を廃し、易に平民中人望あり方正なる者を挙て士官となす」などの改革を施し改善したという。こうした政治的な局面に関心をよせる平田自身とこの種の情報が誰によって(貿易事務官か?)もたらされたのか興味深い。
 このほかに彼は商業事情のことも丹念に記述している。通関手続きや経費、現地で貿易業をする場合の営業税等の諸費、有力外国商人の動向、通貨事情、昆布、煎海鼠などの生産・輸出(この種の海産物関連は函館との競合関係を内包する故に関心も強かったであろう)に関すること。また同地の漁業の景況、物価、そして北海道産の有力商品である石炭の需要事情等と、さすが経済人の確かな目をもった実務的な報告といえる。わずか8日間の滞在記録ではあるが、鈴木らの報告にも遜色ない内容のものといえるだろう。

「会報」No.10 1998.12.8

国際交流雑感

2012年4月22日 Posted in 会報

阿部義人

 私が初めて海外旅行を経験したのは、1991年10月の「ウラジオストク市民交流団」でした。初めて観るロシア・軍港都市ウラジオストクの街並みは函館と類似点が多く、歴史を感じさせるものでした。丁度、「グラスノスチ」が叫ばれ、新たな国創りの胎動が始まりつつありました。この訪問を通して、当選1期目の議員が中心になり、函館市への通訳招聘を実現することができましたし、1995年には私が関わっている社会人のバレーボールチームの交流派遣を実現することができました。その翌年には、ウラジオストク市からバレーボールチームが来函し、選手同士の交流は時間を忘れて深夜に及び、官製の交流とはひと味違った交流が繰り広げられました。
 2度目は、1992年7月に当時の社会党青年議員団会議の一員として、自治体議員の交流の糸口を見出すことを目的としてのソウル市の訪問でした。韓国国内の日本に対する感情も、現在とは大きく違い、相当厳しいものがありましたが、率直に過去の悲しい行為を反省し謝罪するところから話がはじまり、自治体首長・議員の選挙制度や報酬の話に多くの時間を費やしました。(当時ソウル市以外は任命制であり、地方選挙実施が大統領選挙の公約でした。)余談ですが、当時野にあった金大中氏の主宰する民主党にも立ち寄り韓国の改革に向けた息吹を感じることができました。
 3度目は、1995年に北海道平和運動センター主催の友好訪中団への参加でした。この訪中では2日目に交通事故が発生し、団員2名が不幸にも死亡し、事故処理で数日間上海市に滞在することとなり、素早い事故処理と中国国内の人脈を垣間見ることができました。そして、その翌年には遺族と共に現地で1周忌を営むとともに、前年訪問すべき都市を訪問することができました。特に南京では、「虐殺記念館」(現地では「屠殺記念館」)を訪れることができ、日本の忌まわしい過去に接し、胸の痛む思いをしました。
 5度目は、昨年、函館市の姉妹都市であるオーストラリアのレークマコーリー市をスポーツ交流団の一員として訪問しました。250名を越える老若男女の一団による訪問は、手作りの歓迎パーティや種目別の交流とすべてアットホームな雰囲気で心温まるものでした。
 6度目は、今年8月、北海道日中青少年交流協会の第9次訪中団の一員として青島・西安・桂林を訪問することができました。特に今年は、これまでの交流の集大成として、日中双方が浄財を集め、青島青少年活動営地(日本の国立青年の家に該当する)の敷地内に友好公園を建設することができました。また、今後は相互派遣により交流活動の発展を目指すことも確認できました。来年は、青島市から30名の青少年・指導者が函館港祭り開催期間中に来函することとなりました。
 このような私の経験ですが、議会でも何度か国際交流の必要性を訴えてきました。それは、国レベルの外交関係と違って、自治体の特色を生かして様々な交流活動を繰り広げることによって、人的な繋がりが広がり、経済面でのチャンスも生まれることもあると考えるからです。特に、自国以外の文化や歴史に接することは、未来を担う子どもたちにとっても重要な教育の一環と思います。
 こうした角度から考えれば、国際交流にはそれぞれドラマとシナリオが必要と思います。
 函館市はカナダのハリファックス市、オーストラリアのレークマコーリー市、ロシアのウラジオストク市・ユジノサハリンスク市と姉妹都市提携をしていますが、どの分野での交流を主体にするのか明確でありません。つまり、ドラマもシナリオもないと言わざるを得ません。また、交流の主体を担うのは官製ではなく自発的な市民の手によることも必要です。それを行政がサポートするという体制ができてはじめて交流の端緒につけるのではないでしょうか。
 ロシアとの関係では、経済面でのサハリンⅡ関連が注目を集めていますが、これも国際線を有効に活用した多方面にわたるユジノサハリンスク市との交流が活発化してこそ実現できるものと思います。一方、ウラジオストク市との交流は、航空路開設をめざす姉妹都市提携から大きく環境が変化してきています。
 日ロ交流史研究会による極東歴史研究所との研究交流活動は、ウラジオストク市との交流を実質的に担っているものと思いますし、ロシア極東大学函館校を交えた研究活動は、将来の交流活動のあり方として貴重なものと思います。継続は力なり。そのためにも研究交流のあり方は会員の関心に応えることが大切でしょう。私も微力ながら一会員として努力していきたいと考えています。

「会報」No.10 1998.12.8

研究会の活動を顧みて

2012年4月22日 Posted in 会報

鈴木旭

 私たちの研究会は、1993年3月の発足以来今年で6年目になります。研究会発足の動機は、函館とロシア極東地方の交流の歴史を発掘するため、ウラジヴォストーク市の歴史学研究所と交流を続けることでしたが、これまで函館市とウラジヴォストーク市で毎年交互にシンポジウムを開催し、今年で6年目(ウラジヴォストーク市)になりました。これまでのシンポジウムの内容を振り返ると、配布した報告書でご承知と思いますが(一部未刊行)、各年度の報告者とテーマは次のとおりです。

1993年9月(函館)
■ロシア側:Z.F.モルグン「函館ロシア領事館報告について」、A.T.マンドリク「1880-1940年代の極東における日ロ漁業家の経済関係」、B.M.アフォーニン「日ロ関係の発展における人的交流の役割」。
■日本側:中村喜和「函館のロシア人旧教徒の生活」。

1994年9月(ウラジヴォストーク)
■日本側:鈴木旭「1907年の日露漁業協約と両国の漁業関係」、永野弥三雄「19世紀後半におけるサハリンの漁業経営について」、榎森進「江戸時代末期におけるサハリンを巡る日ロ関係」、桜庭宏「覚書 日露戦争前後における地域新聞のロシア観」、清水恵「19世紀後半から20世紀初頭の函館のロシア語学習事情」、檜山真一「日露戦中前後の日本におけるエヴゲーニイ・スパリヴィン」、沢田和彦「プロニスワフ・ピウスツキと日本」、秋月俊幸「日本人捕虜五郎治のシベリア遍歴」。
■ロシア側:S.N.イリイン「極東ロシアにおける日本語の教授」、V・V・ソーニン「北サハリンにおける日本の行政機関とその法律草案(1920-1925)」、V.Vコジェブニコフ「日口関係の形成における北海道の役割」、A.T.マンドリク「19世紀半ばから20世紀初頭の日ロ漁業関係史」、L.Ⅰ.ガリャモーバ「ロシア極東の労働市場における日本人労働者」。

1995年10月(函館)
■ロシア側:A.T.マンドリク「1920-30代のロシア太平洋地域における漁業への日本企業の投資」、V.V.コジェブニコフ「露日国境決定の歴史」、Z.F.モルグン「ウラジヴォストークの日本企業の歴史」、L.L.ラーリナ「極東ロシア人の日本人観」、B.M.アフォーニン「ロ日通商関係の現況」。
■日本側:秋月俊幸「日露関係と蝦夷地」、小山内道子「白系ロシア人の系譜と釧路における足跡」、永野弥三雄「日ロ雑居・ロシア領・日本領の各時期におけるサハリン島漁業事情」、ロシア極東大学函館校A.トリョフスビャツキイ「ロシア史や日ロ関係史を教える際の幾つかの問題」。

1998年6月(ウラジヴォストーク)
 この年は、歴史学研究所開設25周年、アカデミー会員A.I.クルシャノフ(研究所創設者)生誕75周年記念国際会議に招待され、日本側から鈴木旭、榎森進、沢田和彦、玉井哲雄、長谷川健二の5人が参加し、鈴木、榎森、沢田が報告した(内容略)。会議の報告は「世界史の文脈の中のロシア極東」(露文)として出版。

1997年11月(函館)
北大スラブ研究センターとの共催で、交流史研究会と市民交流セミナーを開催。
■研究会:A.T.マンドリク「ソ日・ロ日漁業関係と函館」、L.L.ラーリナ「ロシア極東南部の日本人観」、V.V.コジェブニコフ「ウラジヴォストークと函館市の関係」の報告。
■市民交流セミナー:(1)「サハリン大陸棚開発に伴う後方支援基地と函館」輪島幸雄(会員)、村上隆(北大)、今井孝司(函館市)、宮本勝治(大阪府立大)。(2)「函館とサハリンの交流」ではM.ヴィソーコフ(サハリン州近現代史史料センター)、秋月俊幸(北大OB)、原暉之(北大)。1998年8~9月(ウラジヴオストーク)(略―保田先生の報告参照)。

 このように、これまでのシンポジウムでは、新たな歴史的事実や問題が取り上げられ、両国間の歴史について、一定の共通認識をもつことができるようになりました。しかし、従来の交流事業では、双方の受け入れ体制や予算面の制約で、会員の皆さんの期待に十分応えられないことも事実であり、研究会の事業(会誌の発行、研究会の開催など)や会の在り方について、改めて考えてみなければなりません。
 また予算面でも、当初、函館におけるシンポジウムの開催には北方圏交流基金、函館市の助成金、及びその他機関団体の寄付金等で賄ってきました。ところが最近ではこのような形の資金調達は困難であり、予算面からも事業の再検討が必要になっています。
 因みに、これまでのシンポジウムの開催経費は、シンポジウム参加者は招待国までの交通費(例えば日本側は函館~ウラジヴォストーク間、ロシア側はウラジヴォストーク~新潟間)を負担。入国後の滞在費とシンポジウムの開催費用は招待側が負担してきました。函館で開催する場合、会の負担は、招待者の新潟から函館までの交通費と滞在費、及びシンポジウムの開催費用(会場費、印刷費等)であり、上記の財源でカバーしてきました。
 来年のシンポジウムは、函館が予定されますが、具体的な計画は立っていません。ただ来年は極東大学函館校のイリイン校長から、ロシア極東国立総合大学百年祭の行事の一つとして、共同シンポジウムの実施が提案されています(会報9号)。
 ともあれ、研究会の存り方や今後の運営について、会員の皆さんのご意見を頂ければ幸いです。

「会報」No.10 1998.12.8

津軽海峡を封鎖した異国船

2012年4月22日 Posted in 会報

秋月俊幸

 これは、文化4年(1807)5月に津軽海峡を西から東へ通過した或るアメリカ船の話である。この船は3本マストの1万石積(5、6千石積ともいう)ほどにも見える大船で、海峡の両岸を観察しつつ1週間もかけてゆっくりと航行したという。5月19日に箱館の沖合に接近したときは、帆桁の上に5~6人が登って各自が望遠鏡で町の様子を窺っているのが目撃された。
 そのころ箱館には、前年秋のロシア船のカラフト襲撃や同年春のエトロフ島事件の情報が届いたばかりで町中が大騒ぎになっていたので、この船がロシア船と考えられたのはごく自然なことであった。当時この地には幕府の箱館奉行所がおかれ、南部、津軽両藩の藩兵700人余が駐屯していたが、彼らは奉行羽太正養の命で直ちに陣地の構築にとりかかり、夜中はかがり火を明々と焚いて厳重な警戒態勢がしかれたという。老幼者や婦女子は箱館山の山中に避難させられたが、市中の壮年者たちは防衛に駆り出され、街中が未曽有の緊張に包まれたのである。
 10年前の寛政9年(1797)、ブロートンの指揮するイギリスの探検船が、異国船としては初めて津軽海峡を通過したときにも松前では大騒ぎとなり、ブロートンによれば、松前市中には武装した騎馬武者が走り回り、軍勢が配置されて旗、指物がひるがえり、ものものしい警戒が見られたという。そのとき幕府は津軽藩に箱館の防衛を命じるとともに蝦夷地に大調査隊を派遣し、そのことが結果的には幕府の第1次蝦夷地直轄を招いたのであった。しかしこのたびは、ロシア船の北辺襲撃の情報と時を同じくしていので、騒ぎもいっそう深刻にならざるを得なかったのである。ただこの船はなんら害を与えることなく、まもなく汐首崎から恵山岬の方へ走り去ったことが確認されたが、同じ頃津軽領の権現崎や南部領大間崎沖でも異国船が目撃されたので、なお暫くは津軽海峡の交通が途絶したのであった。
 その後北辺ではロシア船による再度のカラフト漁場の襲撃や、利尻島付近における日本船4隻の拿捕焼却の報が相次いだので、蝦夷地周辺を数十隻のロシア船が包囲したという噂が広まった。その結果噂が噂を呼んで情報の乏しい本土では、松前藩の前藩主道広がロシア側に寝返って蝦夷地がロシア人に占領され、箱館奉行羽太もロシア人の捕虜になったというデマさえ流布したほどであった。このようにしてアメリカ船の津軽海峡への出現は、「文化丁卯の変」として知られるロシア船の日本北辺襲撃事件についての同時代の情報に大きな影響を与えたのである。
 ところで、このアメリカ船はボストンを母港とするエクリプス号という船で、船長のジョゼフ・オケインは以前からアメリカの北西岸のロシア植民地に食料や日用品を供給し、毛皮を入手していた。彼は1806年8月に露米会社の本拠地シトカ島(現在のバラノフ島)を訪れたとき、有名な総支配人バラノフにある提案をしたという。 それは露米会社の毛皮を広東へ運んで中国商品と交易するとともに、彼がハワイで見かけた日本の漂流民を伴って長崎に赴き、ロシアのために日本の開港を交渉するというものであった。それまでの交際でオケインを信用していたバラノフはこれに同意し、多数のらっこ皮、てん皮、ビーバー皮をオケインに依託し、二人の露米会社員を同行させたという。
 このような企ては文化元年に来日したロシア使節レザーノフの目的と類似しており、バラノフは前年視察のために同地を訪れたレザーノフから長崎における不成功を直接に聞いていた筈なのに、同様な計画をアメリカ人に依頼したのは不思議である。それどころかレザーノフはこのシトカ島において日本北辺襲撃のためにアヴォシ号を建造させ、またアメリカ船長ドゥ・ウルフからユノナ号を購入して、前月の7月末にこの2隻を率いて出帆したばかりであった。レザーノフは、自分の日本襲撃の意図をバラノフにも隠していたのであろうか。
 広東におけるオケインの毛皮取引は失敗で、予定の価格の半額にも売れなかったという。彼が長崎に入港したのは文化4年(1807)4月27日のことで、広東でこの船に雇われたイギリス人水夫キャンベルによれば、エクリプス号はロシアの旗を掲げていたが、オランダ商館員の抗議でアメリカ国旗に代えたという。それゆえオケインは長崎奉行所役人の取調べに際してはアメリカ船として申告し、寄港の理由も薪水、食料の不足を口実にし、それらの品を得て5月2日に出帆したのである。彼がハワイから日本漂流民を同行しなかった理由については、彼らがすでに外国船によって中国に運ばれていたことを記した文献を見たように思うが、今回は確認できなかった。
 以上のようにこの船は津軽海峡ではロシア船と考えられていたが、それより前に長崎に立ち寄っていたので、やがてアメリカ船であったことが明らかになり、江戸時代に編纂された『通航一覧』のなかでもその記録は「北亜墨利加部」に入れられている。これに対し天保2年(1831)2月に東蝦夷地ウラヤコタンに到来して松前藩の勤番士たちと鉄砲をもって交戦したタスマニヤのホバートを母港とするイギリス捕鯨船の場合は、『通航一覧続輯』の編者たちの先入見によって、その船を「魯西亜国部」に収める誤りを避けることができなかったのである。

「会報」No.9 1998.8.11

[北海道新聞連載ゴシケーヴィチ領事報告書記事について]

2012年4月22日 Posted in 会報

・北海道新聞モスクワ支局の伊藤一哉記者が、モスクワのロシア帝国外交史料館で、初代駐日ロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチの自筆報告書を入手しました。内容は、ゴシケーヴィチ領事が1858年から1865年までにロシア外務省に送った報告書28点のほか、外務省がゴシケーヴィチ領事にあてた指令書3点、ロシアが日本政府に送った公文書の控え3点、当時の函館の地図が2点などです。(=同紙7月26日朝刊)
 これに続いて連載が組まれ、7月27日から8月3日まで計7回にわたり、夕刊紙面に記事が掲載されました。以下に、その見出しを紹介しましょう。

(1)「ヨルカ祭 奉行所役人らダンスに興味」(7/27)
(2)「絶景 苦心の末 領事館建設」(7/28)
(3)「商売熱心 医療、造船技術を提供」(7/29)
(4)「将軍と天皇 権力構造解明に腐心」(7/30)
(5)「攘夷 事件相次ぎ募る不信」(7/31)
(6)「対馬事件 乱れる指揮 漂う不満」(8/1)
(7)「限界 努力報われずに帰国」(8/3)

 最終回には、ゴシケーヴィチの後任領事が、前任者の業績をほとんど否定する報告書を送っていたということが記されています。またゴシケーヴィチ自身も函館での活動に限界を感じ、最後は辞任願いを提出して帰国したのでした。

 新聞には史料のほんの一部しか引用されていませんが、今後この史料が活用できるようになり、日ロ関係史の研究が進むことを期待したいと思います。

「会報」No.9 1998.8.11 ニュース・News・Новость

函館こそがロシアセンターの設立に相応しい

2012年4月22日 Posted in 会報

ロシア極東国立総合大学函館校  校長 S・イリイン

 S・イリイン氏は、ロシア極東国立総合大学の東洋学部部長、東洋大学学長を務められて、昨年(1997)11月から函館校の校長として赴任されました。この間に、1994年9月のウラジオストクに於ける函館日ロ交流史研究会とウラジオストクのロシア科学アカデミー極東諸民族歴史・考古・民族学研究所とのシンポジウムで御報告され、1996年には当研究会の鈴木会長が東洋大学を訪問した折りに交わした、大学との研究交流を進める「覚書」にサインされるなど、私たちの研究会と深い関係にあります。函館においでになってからは、学校の運営のみならず日ロ交流と理解のために、文字通り東奔西走の日々を過ごされているようです。
 7月17日の談話会では、函館校の世界的な位置とその役割、「平和条約」の締結へ向けての「プラン」への参画、極東地域の日ロ住民の相互認識の違い、函館校と当研究会との共同事業の提案など、具体的かつ多岐にわたるお話をして下さいましたが、その要旨は次のようなことでした(文責事務局)。
     
函館校の位置と役割
 ロシアの大学で外国に分校を開設している唯一が函館校である。このことはあまりよく知られていないが、今後大きな意味をもつだろう。また函館には旧領事館、ハリストス正教会、ロシア人墓地などロ日交流の歴史につながる「名所・旧跡」があり、学校はその地にある。現在卒業生は少ないが、これが5年、10年と経過するなかでロシアについての専門家が確実に増えて、函館・北海道・日本・ロシアのために働くことになる。函館校がロ日相互の交流と改善に大きな役割を担うであろう。その方向を別な側面から推進する手立てとして、来年(1991)1月から経団連の支援をえて、企業のロシアに関わる第一線の担当者研修を実施することを予定している。

ロシアセンターの設立
 函館校には、夜間に実施している市民向けのロシア語学習の「場」がある。ロ日間の平和条約締結へ向けてのプランの一つに、ロシアセンターの設立が考慮されている。ロシアにはウラジオストクなど4地域に日本センターがあるが、相互交流と情報の流れの双方向性を担保するために日本にロシアセンターを開設することが必要である、と提案し、その実現に好ましい感触をえている。函館校としては、これまでのロシア語学習などの実績のうえに、図書資料室・博物室や経済・産業見本展示室などを備えた、ロシア極東地域の総合情報センターとしての「ロシアセンター」を日本で最初に函館に設立したい、と念願している。

「沿海地方」の住民意識
 ロシアでは日本が「北方領土問題」として提起することは「日本の領土要求」と称されている。調査時点は1年半前だが、この問題に関する住民の世論調査の一端を紹介しておく。
 *これまでの外交交渉等の経過は意義をもたない(32%・中等教育程度・30~49歳・主婦と軍人・日本人の特性―狡さ)*共同開発・共同利用(16%・高等教育程度・20~40歳・日本人の特性―勤勉)*50年以上居住した、今後も住み続ける(17%・義務教育程度・年金生活者・都市労働者・日本人の特性―狡さ)*共同所有・共同管理(10%・高学歴者・日本人の特性―勤勉)*返還する(5%・20歳以下・40~60歳のインテリ)
 このような住民意識を考慮に入れながら平和条約の締結に踏み出すロシア政府は、さらにロシア国内全体の世論動向との関わりで「日本の領土要求」問題に対処していかなければならないのが現実である。
 「エリツィン・橋本プラン」に象徴されるように、ロ日関係は改善し始めている。東南アジアの財政危機、特に韓国のそれの影響は、ウラジオストクの街から韓国製品が大幅に減少し、ソウル・プサンからの航空観光便も空席が半分程度といった現象をもたらしている。ロシアのビジネスマンに、「信頼できる国・日本」という考えが、浸透し始めている。ロシア経済も従来よりも安定化傾向にあるし、平和条約の締結から「北方領土」の解決に至る道筋は早晩つけられるであろう。
 教育者としての私は、さまざまの「真実」を教えることが大事だと考えている。ロシアセンターの設立は、この点からも意義あることだ。

共同事業の計画を進めよう
 1999年はロシア極東国立総合大学設立百年にあたる。ロシアの東洋学で最古かつ最高の大学の百年を記念して、ウラジオストクでは多彩な記念事業が計画されている。函館校としても記念事業を考慮しているが、函館校開設5周年という節目の年でもあるので、相応しい内容の記念事業を実施したいと考えている。
 そこで提案したいのが、函館日ロ交流史研究会と函館校とが共催して「シンポジウムと研究会」を開催することである。早めに開催へ向けての準備会を結成して、テーマの設定、報告者の人選、そしてこれが最大の難問だが、ロシアから来函する報告者の宿泊は私や函館校の教師宅にホームステイさせるなどして経費の捻出などを検討していけたら、と思っているがいかがであろうか。

[補足]新聞報道によれば、7月下旬にウラジオストクを訪問した函館市の一行は、帰国後に「クリスノフ沿海地方行政府高等教育科学青年政策局長らが、極東大学函館校をロシアに関する情報発信拠点として機能整備する意向を表明した」とコメントした。
 談話会でイリイン氏がふれたロシアセンター構想が、前向きに検討されているのは喜ばしいことである。
 ぜひ、実現してほしい。

「会報」No.9 1998.8.1 談話会から

今日の醜女は明日は美女か ―米原万里の著作を読んで―

2012年4月22日 Posted in 会報

白畑耕作

 通訳...異なった国語を話す人や言語の不自由な人などの間にたって訳して、互いの意思を通じるようにすること。また、その人。通弁、通事(日本国語大辞典・小学館)。
  通事...通訳のことをさし、訳語 (おさ)ともいう。『日本書紀』推古天皇十五年七月条に「大礼小野臣妹子遣於大唐、以鞍作福利為通事」とあるのを初見とする。―略―
 中世の通事は、遣唐船や朝鮮に渡航した国王使船に座乗し、外国船の通訳を行うとともに外交折衝の事務を担当した。―略―幕府から給禄をうけ、海外の使節が渡来したときには応接の役にあたった。豊かな教養の持ち主が多く、単なる通訳業務に終始せず、外交折衝で重要な役割を演じたことが少なくない。また、文化人として一般の尊敬を集めていた(国史大辞典・吉川弘文館)。
 これを見ると、昔から通訳というのはそれ相当の知識と人格と豊かな人間性を持ち合わせた人間で、外つ国の人々と、言葉を通じ、互いの文化や経済は勿論のこと外交折衝までもその肩に掛かっていた。今日でもその働きは変わってはいないし、これまで以上に幅広い分野の世界で活躍しているのだろうと思う。
 「Oさんの陰嚢の鞘膜腔を触診した結果、腫瘍らしいシコリが確認されましたので、さらに綿密な検査を要します。」と伝えているのだが、その文が相手に伝わらない。それが何度も聞き返されるうちに、ある女性通訳者は、意を決して大使館中に響きわたる声で「えーとですね、Oさんのキン○○のしわをですねえ......」と怒鳴っていたのであった。そして、今までの苦労が嘘のようにスンナリと通じてしまった。―中略―相手に合わせて適切な訳語を用いなかった私が悪かったのである、と。
 このような例文が随所に出てくるこの本は、95年第46回読売文学賞・随筆紀行賞を受賞した『不実な美女か貞淑な醜女』という通訳論集(?) ある。著者は米原万里といい、ロシア語会議通訳者で、エッセイストでもある。履歴をみると、80年設立のロシア語通訳協会初代事務局長を務め、95年~97年会長。92年、報道の速報性に貢献したとして日本女性放送者懇談会SJ賞を受賞している。昨年には『魔女の1ダース』で講談社エッセイ賞を受賞している。今年の2月には『ロシアは今日も荒れ模様』という随筆を出版している。
 『ロシアは今日も・・・・』の帯には「驚天動地が日常茶飯事、途方もなく過激で、底なしにズボラな人々の棲む国をまるはだかにする、爆笑エッセイ」とあるが、そんな文句とは裏腹に、確かに異文化の異なる接点を緊張と喜劇の繰り返しの中からユーモラスに紹介し、読者を独特の世界に引き込んでしまうが、色々な話題とエピソードを紹介しながら現在日本の抱えている問題を政治から教育に至るまで冷静に捉えている。
 同時通訳者の苦労などは私などは多分そうだろうなと思う程度であるが、『不実な...』を読むと、例えば原子力の会議では「原子力に関する入門書を読み...会議のテーマ関連の論文を辞書や原子力辞典、参考書首っ引きでなんとか読み...顧客の説明を受け、その会議で出てきそうな専門用語を必死で覚え、それでも会議前夜から心配でろくに眠れず...」また「近視矯正手術を受けに訪ソする患者さんに付き添って検査と手術の現場に立ち会ったこともある...眼球の構造と各部品の名称を必死で丸暗記したものだ。」ついには、裏千家の家元に同行して「モスクワ大茶会で・わび・さび・一期一会」の概念を伝える仕事、等々。筆者は、これは、ごくごく平均的な通訳者の人生なのであるとあっさり述べてはいるが、単に努力だけではない何かを持ち合わせているとしか思えない。
 解説者が述べているが、エリツィン大統領とのエピソードなどを読むと、努力、大胆さ、繊細さ、諸々の人間的要素と素養を兼ね備えた人だと感じざるを得ない。あの大江健三郎氏は「言葉の戦い、また和解の物語」と。井上ひさし氏は「言語そのものの本質にぐいぐい迫っていく研究」と称賛されているという。
 『ロシアは今日も...』ではロストロポービッチ、ゴルバチョフ、エリツィンとの実体験を通してロシアという国をわかりやすく紹介し、下手な解説者や解説書は足元にもおよばないなと思う。
 筆者は通訳とは一種の必要悪のようなものではないか、という。
 「陛下の通訳をした、大統領の通訳をした、首相の...」とやたら威張ったり、自慢して回る人がいるが...どんなえらい人、どんな有名人を通訳したからって、通訳自身がエライわけではない。逆にどんな極悪人、破廉恥漢、下らないヤツの通訳をしたからって、通訳自身が極悪人、破廉恥漢、下劣とは限らないのだもの―まさにあたりまえのことではあるが、しかし現実には通訳者に限らず老いも若きも、男も女も随分最近の日本人には多いパターンではなかろうか。浅ましいこととは思うが。
 また、通訳する上でてこずるのは外国語から日本語への転換よりも、日本語から日本語への翻訳であるという。「...たしかに言葉は過去の世界観、人間観を濃淡の差はあれ引きずっているもので、差別観が染み着いた言葉を意識的、無意識的に使い続けることによって、差別観を拡大再生産し、差別される側の心を傷つけ続けることに、なんとか終止符を打ちたいという心情は痛いほどよく分かる。しかし...差別の現状と差別意識を克服しないまま、単に臭いものに蓋をする式の姑息な言い換えにうつつをぬかしているとしか思えない場合が多い」と。このままでは使いたい日本語を自由に使うことができなくなるのでは、なかろうか。特に日本の文化を伝える芸能や過去の歴史を的確に伝えなければならない分野の中にその影響が大きいと思われる。日本の文化の低俗化に拍車をかけている気がしないでもない。言語の専門家である著者が危惧するのは当然のことである。「言葉は、民族と文化の担い手なのである。その民族が、その民族であるところの個性的基盤=アイデンティティの拠り所なのである。だからこそそれぞれの国民が等しく自分の母語で自由に発言をする機会を与えることが大切になってくるのだ。」と述べているが、自分の国の言葉を大切にしない人々のいる国が栄え発展するはずがないのである。
 現在のロシアと日本の関係を知るのには極めてわかりやすい著作である。単に通訳の苦労話だけではく、通訳の相手を観察することによってそれぞれの国の現状や人間が的確に把握されている。
 日本各地を講演して、日本人聴衆に「エリツィンは本気で領土返還を考えている」と思わせて、帰国後半年ほどして、千島列島に遊説し「日本には絶対に一平方センチたりとも引き渡さない。」と発言してしまう大統領。しかしその大統領でさえ、日本人記者には冷たくても、米原さんには絶対の信頼をおいているという。解説者は「将来エリツィンが北方領土返還を決断するとしたら、米原さんとの交遊が脳裏にないとは言い切れない。」と。
 日ロのこれからの交流には、米原氏のような考え方や視点を持った人たちの働きが大切なのだろうなと思う。そして現在の日ロの関係を理解するには極めて適切な資料ではなかろうかと思った。

「会報」No.8 1998.6.22 読後感想

渡り鳥の日ロ交流

2012年4月22日 Posted in 会報

佐藤理夫

極東鳥類研究会について
 1982年、日本の鳥類研究者とロシア極東の研究者との交流を目的として、極東鳥類研究会が発足した。この研究会は研究者の交流を主目的とし当初は、研究者の自己紹介を主体としたニュースレターの発行と、極東や日本で発表された論文を翻訳し、会員に配布する形態をとっている。現在は、後者が主である。
 ここでは、極東鳥類研究会で配布された論文を参考にしながら、日ロの研究交流について話をすすめる。

鳥類研究を通した交流
 研究会で発行した論文は、いままでにカムチャツカ半島、アムール川流域、ウスリー地方、サハリン、西千島でのものが出版されている。極東地域での鳥類研究の歴史は、カムチャツカ半島で古く200年ほど前に始まる。比較的新しいのはサハリンとウスリー地方で、サハリンが150年ほど前に、ウスリー地方では100年ほど前に始められている。このうち、日本と関係が深いのはサハリンである。
 サハリンでの研究の歴史は3期に分けることができる。第1期は、鳥学の草創期で19世紀中頃から20世紀の30年代までで、目録作製鳥相の構成を明らかにするのが、中心であった。このとき、鳥相を調べたのはSchrenck(1859-1860)とNikol'sky (1889)であった。日本人の鳥学者がサハリンで鳥学の発展に寄与することになるのは、日露戦争後の1905年に南サハリンが日本領となってからである。
 20世紀前半鳥類研究に貢献したのはスウェーデンの鳥学者であり、日本の鳥学者たち(飯島魁、山階芳麿、籾山[もみやま]徳太郎など)や採集家(折居彪[あや]二郎な ど)であった。ただし、日本人の調査は南サハリンでの調査が中心であった。
  1930年代から生態を主体とした研究が行われて、この時期の研究に基づき、山階芳麿、清棲幸保、黒田長礼らが、現在大図鑑と称される鳥類図鑑を発表している。
 第2期は1940年代から1960年代である。この当時は鳥相研究、分布や生態研究が主流で、調査の中心はソ連科学アカデミーサハリン支部の研究者であった。
 第3期は、1970年始めから詳しい組織的な生態・鳥相調査が行われるようになった。さらに、1973年日ソ(現日ロ)、1976年米ソ(現米ロ)の渡り鳥等保護条約、また、湿原保護に関するラムサール条約(1972年)との関連で、現在に続く重要な課題である(現在ではその課題の重要性はさらに増大している)。

付表 サハリンと周辺地域の生息数と鳥相類似性

地域
生息種数
繁殖種数
共通種数
サハリンとの
鳥相類似性
北サハリンとの
鳥相類似性
南サハリンとの
鳥相類似性
サハリン
355
189
北サハリン
150
143
南サハリン
140
北海道
341
160
130
74.4
84.6
本州
96
50.0
ウスリー地方
440
266
158
69.4
アムール川流域
275
207
149
75.2
81.8
カムチャツカ半島
230
180
104
59.5
南千島
248
※鳥相類似性は(2a/(A+B))×100%で計算する。Aはある地域の種数、Bはもう一方の地域の種数、aは共通種の数(この場合は繁殖する種)
「サハリンの鳥類」(ネチャエフ 1991)より作成

渡り鳥の交流
 鳥類自身の交流としては、主に渡り鳥があげられる。特に、それらは日本とシベリア・極東地方をそれぞれ越冬地と繁殖地として行き来している鳥類であり、日本を通り越して南アジアや東南アジアを越冬地とする鳥類である。その多くを占めるのはスズメの大きさを平均として、大きくてもムクドリくらいの小鳥類である。
 ところで、渡り鳥といっても、例えば、ある地域において春に南方から繁殖のために渡ってくる鳥のことを夏鳥、冬に北方から越冬のために渡ってくるのを冬鳥、繁殖地や越冬地に渡る時だけ立ち寄る渡り鳥を旅鳥、また、本来の渡りのコースではないため、普段は見ることができない種類が、何らかの原因で姿を見せる鳥のことを迷鳥という。ちなみに一年中同じ地域で生息している鳥のことを留鳥というが、最近は、これらの鳥も、全部ではないにしても、個体や個体群レベルで渡りをしているのではないかと考えられている。どちらにしても、これらの渡り鳥たちが、日ロ交流の架け橋となっているのである。
 現在、日ロで研究交流の対象になっている鳥類は、ナベヅルやマナヅルなどのツル類、コハクチョウやオオハクチョウのハクチョウ類、マガンやヒシクイなどのガン類、そしてオオワシとオジロワシの海ワシ類があげられる。このうち、北海道に関連深いのは、海ワシ類、ハクチョウ類、ガン類である。
 海ワシ類のうちオオワシはソ連の固有種で、限られた分布域、低い繁殖成功率、特殊な食性、厳しい北部の越冬条件のため、ソ連のレッドデータブックにあげられており、多くの自然・人為要因の影響を強く受ている。
 クロノツキー自然保護区の研究員であるE.G.Lobkovが1970年から主要な分布域であるカムチャツカでオオワシを研究し始めた。日本においても、1980年から道東を中心に集まったオオワシ・オジロワシ合同調査グループが、日本に越冬する海ワシ類の生息調査を始めた。そして、1984年に日ソ共同のオオワシ一斉調査を実現するために、旧ソ連側の代表者と日本側の代表者がハバロフスクで話し合い、1985年から日ソ共同で調査を開始した。これを出発点に、極東地方で繁殖し、北海道で越冬するオオワシ・オジロワシの周年の生態が徐々に明らかになってきた。特に1996年に行われた、八雲町での発信器装着による追跡調査は、海ワシ類が、根室地方からサハリンを北上してカムチャツカ半島で繁殖し、さらにその個体は、北上時と同じコースを通らず、半島をそのまま南下し、千島を経由して北海道に入り八雲に戻ってくることが分かった。

おわりに
 今までの共同調査は、大型の鳥類が主体である。しかし、すでに述べたとおり、「多くの渡り鳥は小鳥類である」こと、また、昨今の鳥類の減少が危惧されていることから、日ロを行き来する渡り鳥の全体像を詳細に把握するため、早急に小鳥類の渡りについての共同調査を本腰を入れて行うことを切に望む。

「会報」No.8 1998.6.22

恋の町函館 ―シンポジウム参加記の一節から―

2012年4月22日 Posted in 会報

V.V.コジェブニコフ

11月6日
 今日、函館日ロ交流史研究会主催のシンポジウムに行く。初めて函館に行ったのは2年前だった。もう2年、私はこの懐かしい町を何回も思い出している。沢山の日本の都市を訪問したが函館はちょっと特別なのだ。私の部屋にある日本の景色は、函館の夜景の写真が一枚だけだ。
 明日、もう一回この「町」を散歩できるとは信じられない。また楽しいのは日本の友達との面会だ。鈴木先生、清水様、桜庭様、永野様、菅原様、長谷部様、極東国立大学の友達も函館にいる。
 我代表団は歴史研究所の3人だ。僕のほかラリナ氏とマンドリク氏。ウラジオから飛んで出て1.5 時間のあとタクシーで新潟駅まで行く。お祖母さんのダーチャまでは2時間かかるから、日本は著しく近い。もう2時間後、東京の銀座キャピタルホテルに泊まった。
 東京の夜は最高だ。マンドリク氏に銀座と皇居を案内。その後、てんぷら。マンドリク氏をホテルまで見送って、もうすこし散歩して鮪刺を食べた。

11月7日
 ロシアでは「船からパーティーへ」という諺がある。意味は旅行(仕事)の後すぐ楽しい雰囲気に入ることだ。朝早くタクシーでモノレール駅へ。モノレールで羽田空港、そして飛行機と乗り継いで函館まで。いそがしくホテルのチェックインをして結局、シンポジウムホールに入り込んだ。間に合った!
 シンポジウムの会場は五島軒だった。ここに知人が大勢いた。函館の知り合いの人々のほかに、札幌から来た皆川先生、原先生、村上先生、秋月先生、荒井さんとの面会が楽しかった。でも、これだけじゃない!大阪から藤本先生、宮本先生が来たのだ!サハリンからヴィソーコフ氏も参加する。立派な仲間たちだね。
 シンポジウムの担当者は面白いシンポジウムを準備した(二日間の会議の報告書が「会報」6号 1998.1.8に発表された)
 会議の後は懇親会だった。シンポジウムには学術の成果とともに、人間関係がとても重要なのだと思う。このような懇親会は人間関係を固めるために必要だ。パーティーが終わってから函館山に登った(タクシーで)。眺めも最高。
 上は風が強かったから暖まらなければならない。みんなで居酒屋に入って暖まった。不思議なのはウィスキーとお湯。僕は普通のウィスキーで暖まった。

11月8日
 国際ホテルは便利で、快適なのだ。美味しい朝飯。日本はどこでも料理がうまい。7時半から10時まで市内を歩け歩け。10時から市民交流セミナー。セミナー終了後、函館日ロ交流史研究会員とロシアの研究者の談話会。

11月9日
 7時半から10時まで市内を歩け歩け。高田屋嘉兵衛像の前でCさんと落ち会い、博物館本館と図書館を訪問。途中極東大のアナトーリイ・トリョフスビャツキ氏と函館八幡宮に入る。境内の蛙像を見て、有名な俳句を思い出した。

11月10日
 7時半から10時まで市内歩け歩け。ラリナ氏とマンドリク氏は自由行動だが、僕は忙しい。昼までにヴィソーコフ氏を見送ると、その後で、極東国立総合大学函館校の訪問などだ、すごいね。

11月11日
 7時半から10時まで市内歩け歩け。10時半に火山の恵山と温泉に出発。日本に何回も来たにもかかわらず温泉はまだ。恵山までの海岸道はすばらしかった。
 頂上には桜庭さんと二人で、噴煙のところまで登って、もう少し歩いて、展望台から下にある北海道を見た。頭に手拭のスカーフを被っている桜庭さんは、カリブの海賊に似て強そうなので、僕は何も恐れずに、安心していた。
 その後温泉だ。これは恵風ホテルだった。残念だがラリナ氏とマンドリク氏はお風呂に入らなかった。でも僕は、日本人の友達と一緒に入った!印象は言葉で説明せず。三つのバスをわたって、最後の露天風呂に残って楽しんだ。不思議なのは男性のお風呂に父と一緒に来た女の子だった。温泉の後のビールは最高だ。
 夜は送別会だった。別れはいつも悲しいのだ。この送別会は愉快なのだったが、悲しみもあった。函館のシンポジウムの家庭的な雰囲気は、まことに楽しい。皆様の顔を見て、いつもう一回、皆で集まれるかと思った。

11月12日
 7時から8時まで最後の市内歩け歩け。9に空港へ出発。途中で函館に戻りたかった。

 P.S 4か月後のいまも戻りたいです。私はよく函館を思い出しています。私が好きな日本に、恋の町函館があるのは素晴らしいです。

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「会報」No.7 1998.4.16 From Russia

幕末・維新期の日本史研究と極東状勢について

2012年4月22日 Posted in 会報

麓慎一

 幕末・維新期の日本を研究する場合、「外圧」の問題は極めて大きな課題である。この幕末・維新期の「外圧」は、従来の研究では、主にイギリスによる日本の「植民地化」の危機の問題として、捉えられてきた。確かにイギリスの対日政策が、幕末・維新期の「外圧」の重要な部分を占めていることを否定することはできない。
 しかし、19世紀の世界史的対立はイギリスとロシアの対立である点を否定する人はいないであろう。とすれば、これまでのイギリス中心の「外圧」に対する理解は、いささか問題を含んでいるのではないだろうか。そのような視角から、幕末・維新期のロシア問題、特に極東の状況をながめてみると、実に多くの事件や紛争が起っていることが分かる。「外圧」再考のためにこの点を二、三紹介することにしたい。
 たとえば、幕末期では、ニコラエフスクの問題がある。ニコラエフスクは、幕末期に都市化が進み、アメリカ人なども居住する国際都市となっていた。当時、箱館奉行もこの動向に注目し、幕吏を派遣するなどして情報を集めている。また、このような状況下で発生したクリミヤ戦争は、極東に英露対立を持ち込み、箱館が軍事補給基地として重要な役割を持つようになるのである。クリミヤ戦争以後、英露対立の構造は極東の動向を考える上で最も大きな要因の一つとなる。
 たとえば、第二次アヘン戦争が発生した時にも、幕府はイギリスが対馬を戦争の負傷兵のために利用するのではないかと恐れるのであるが、それはすなわち、英露対立がこの島に持ち込まれることを危惧したのである。周知のように、ポサドニック号事件(ロシアの対馬占拠事件) は、幕府の危惧を現実のものとした事件である。また,ロシアがアメリカに売却したアラスカの問題も、アメリカの極東進出を容易にした、という点で忘れることのできない問題である。
 一方、維新期では、先のニコラエフスクからウラジオストックにロシアの軍事拠点が移されることに注目しなければならない。この問題は、当時の日本の新聞にも紹介されている。軍事基地がウラジオストックに移される意味も日本側は十分に理解していたのである。そして、政府は実際にこの動向を調査しているのである。このような状況で起こったのが、普仏戦争である。この戦争によって、ロシアがヨーロッパにおける対立から解き放たれ、極東における勢力を一挙に拡大するのではないか、という懸念が維新政府を脅かすのである。そして、その拡大の方向は、樺太であり朝鮮なのである。これが、幕末以来の征韓論者たちに、征韓断行論を促す国際的背景となるのである。
 このように、幕末・維新期における極東の国際状勢の変化には、ロシア問題が常に関係しているのである。これまでの日本史研究では、このようなロシアの問題が「外圧」として組み込まれていないのであるが、この分野の研究は、おそらく幕末・維新期の研究において未解決であった問題に解答を与えてくれるであろう。
 最後に、この問題に関する史料を一つ紹介して、小稿を閉じることにしよう。その史料とは、明治三年五月に当時兵部大輔であった前原一誠が「大に海軍を創立すべきの議」として提出した建議である。
 (1)彼(ロシア―麓)曾て土耳其を取て地中海に突出し亜欧二洲を中断せんとする、英仏力を合て之に抗するを以て果さず、(2)近年黒龍江に沿ひ満州の地を取て我が北海道及朝鮮と境を接し、連ねて皇国支那朝鮮の北境に圧迫す、(3)今若海に突出して良港を得海事を整備するときは其大欲終に制止すべからず
 この史料には、兵部大輔前原一誠が海軍を創立しなければならない、と考えた国際状勢がよく示されている。傍線(1)ではクリミヤ戦争の状況が記され、これを受けて傍線(2)にあるように、幕末以来のロシアの南下と北海道と朝鮮の危機が問題となっている。その上で、傍線(3)のように、ロシアがもし「良港」を得たらロシアの南下は止めることができない、というのである。「良港」すなわち、この状況下では、ウラジオストックの軍港化を指しているのである。
 このように、海軍の創立、という面でもロシア問題がその動因の一つになっていることを強調したいのである。極東状勢を視野に入れることで、従来のイギリスの「植民地化」という「外圧」を問い直すことができるであろう。

「会報」No.7 1998.4.16

ロシアとの経済交流を通じて

2012年4月22日 Posted in 会報

円山牧子

 5年間、函館市商工観光部でロシアとの経済交流に携わって感じたのは、ロシア人と何か事業をやろうと思ったら、それが文化交流であれ、経済交流であれ、事業のイニシアチブは日本人がとらなければいけないということです。それが事業を成功させる秘訣だと思いました。
 例えば、市内のある組合さんは、ユジノサハリンスクにカメラの現像機械を無償で提供し、ペーパーや薬品などをロシア人に買ってもらおうと考えました。しかし、ロシアとの取引の経験がなかったため、この組合さんは、姉妹都市交流をはじめ、サハリン大陸棚開発の後方支援基地化などによるロシア極東地域との経済交流を標榜している市に協力を依頼してきたのです。
 私達としては、もちろん全面的に協力するということになったのですが、実はこれが、その後1年半にわたる私の仕事の9割を占めることになろうとは、この時は考えるはずもありませんでした。とにかく、今から振り返ると、実に驚くべきことなのですが、貿易担当の私をはじめ、ロシア交流の先進地と言われるこの北海道に、実践向けのノウハウを提供できるアドバイス機関がほとんどないという事実です。
 ある日のこと、実際にペーパーや薬品を買ってカメラ店を始めたニーナさんから、ファックスが届きました。ちなみにニーナさんはこれまで外国と取引した経験のない人ですが、店に度量衡規格委員会の人が来て、「法律第127号によってロシアに輸入される全ての商品には品質証明が必要である。品質証明は輸出者が用意するものであるから、すぐ日本人に用意させなさい。守らなければお宅の店は罰金だよ」と言われましたと。つきましては次回から注意するように、とこうです。
 ところが法律書を手にいれて見ると、品質証明の「ひ」の字もなく、輸出者への義務も明記されていません。さては、違う法律で定めがあるのかなと思い、手あたり次第調べまくるのですが、らちがあかず、あちこちに相談すると、「知り合いのAさんが輸出した時はいらなかった」とか「昔は必要だったけどねェ。今はどうかな」というレベルで、結局わからずじまいです。
 とりあえず法律のコピーをニーナさんに渡し、「ロシアの役人の言っていることは納得できません。根拠法令をきちんと示さない限り命令には従えませんから、その法律を相手に見せてもう一回相談してきてください」と言うと、1週間くらいしてニーナさんから連絡があり、「確かにここには明記されていないから、どちらが証明をとるかは双方の話し合いによって決めてもいいです。商品についても全部はいりませんが、薬品だけは必要だからと言われました」と言うのです。ロシアの役人は自分が管轄している法律ですら、厳密に運用するという責任感がなく、日本人に指摘されるとすぐ撤回するというプライドのなさは、驚くべきことです。
 私が今回の事業を通じて経験したトラブルは大きく分けると2種類あって、ひとつはロシア人パートナーの性質に起因するものと、もうひとつはパートナーの背後にロシアの役人がいて、パートナー自身もトラブルに巻き込まれている場合です。特に後者の場合、パートナーと一緒になって役人と闘わなければならないのですが、一番有効な手立てだと私が考える法律を武器にするということが、そのノウハウが蓄積されていない北海道ではとても難しいのです。ロシアビジネスの最前線では、これまで、個々の業者が、それこそ人脈や金脈(?)を利用して、この闘いに勇敢にいどんできたのでしょうが、それが逆にロシアビジネスに一種独特なスタイルを強要し、結果的に閉ざされた深淵に追いやることになった印象は否めません。
 これからは、ロシア人よりもロシアの事情、特に法律に詳しい人材が育成され、北海道企業のためにロシアの役人と交渉してくれるような専門家集団を育てていくことが必要だと思いました、そしてそれはロシア交流を積極的に進める行政の課題であると痛感しました。

「会報」No.7 1998.4.16

青森のロシア人 ―ロシア革命~第二次世界大戦~ペレストロイカ

2012年4月22日 Posted in 会報

工藤朝彦

 1992年6月上旬、朝日新聞青森支局宛ての手紙の翻訳を依頼された。差出人はウラル地方スベルドルフスク市(現在のエカテリンブルク)在住のロシア人女性であった。女性の名前は、エリキーナ・イリーナ・ダニローブナといい、1942年2月15日に青森に生まれ、ロシア正教会で洗礼を受けた。父は、ロシア人で名はカザンツェフ・ダニイル・スティパノビッチで1894年生まれ、母は日本人でウメハラ・ヨーコといい、函館市の近くで1914年に生まれ、1935年にロシア正教徒となった。彼女にはクラビージャという姉とコンスタンチンという兄がいた。母は、1943年8月18日に亡くなり、一年後、父に連れられ中国のハルビンヘ渡った。1955年、ソ連に移るとともに姉妹は孤児院に預けられた。初等学校卒業後、身分証明書を交付されたが、国籍欄・出生地欄には斜線(不明)が引かれていた。
 教会の記録や戸籍が日本に残っているのではないか。彼女のこれまでの人生は無国籍、姉も同様である。姉のためにも、どうしても、出生の記録を手に入れたい、というものであった。
 早速、函館と盛岡のハリストス正教会に洗礼の記録について照会するとともに、青森市の梅原姓の戸籍を調べたが、ウメハラ・ヨーコの名前は見当たらなかった。しかし、偶然にもカザンツェフを知る伊藤さんという78歳の男性に出会うことができた。伊藤さんの思い出によれば、昭和初期に、当時青森駅前で洋服店を営んでいたべリコフというロシア人が、昭和13年にカザンツェフ夫婦を函館から従業員として招いた。カザンツェフの妻はもの静かな日本人でロシア人との結婚ということから、引け目を感じていたらしい。
 伊藤さんの証言を頼りに、カザンツェフー家をよく知っている複数の老人に会うこともでき、また、函館市に照会したり、北海道新聞社で記事として扱ってもらったが、出生の記録を捜し出すには至らなかった。
 しばらくたってから、私が勤務する役所で保管している戦前からの資料を探していたところ、「ウメハラ・ヨーコ」の死亡届を発見できて、「ウメハラ・ヨーコ」は実は「梅原ヤエ」で、北海道静内町に戸籍があり、兄一人だけが、北梅道奈井江町に住んでいることが分かった。
 また、函館ハリストス正教会の松平神父からは、「梅原ヤエ」と長女の「クラビージャ」の記録を発見できたという連絡を受けた。
 ある時、私が調査していることをロシア大使館から聞いたというロシア人のシュウエツさんから電話をいただいた。13歳まで函館に住み、父がカザンツェフと仲がよかったとのこと。
 期待していなかったが、まもなく盛岡ハリストス正教全からイライダ(イリーナの愛称)さんと兄のコンスタンチンの洗礼証明書が送られてきたのであった。
 8月末、イライダさんから感謝の手紙が届き、イライダさんと叔父・従兄弟たちの文通も始まった。
 青森を去ってから、カザンツェフは通訳として徴用され極東へ向かった。長男のコンスタンチンは天然痘で亡くなり、イライダは孤児院へ入り、重い病気を患っていた姉のクラビージャは修道院の付属病院で長い療養生活をすることになった。
 1954年から1960年にかけ、すべてのロシア人はハルビンから出ることになった。父カザンツェフは、自分の生まれ故郷ペルミヘ向かった。姉妹はハルビン時代の孤児院で世話になったスベルドロフスク市に住むロシア人に引き取られた。父に対し憎しみを抱いたこともあった姉妹は、若い妻を失い、息子まで亡くした人の心痛たるやいかなるものかを理解するようになった。70歳になったカザンツェフは、1964年、新しい妻をつれて彼女たちの所にやってきて、7年間一緒に生活を共にした後、亡くなった。その間、娘たちの身分証明書の出生地等回復のため努力を重ねたという。1987年のペレストロイカにより、イライダさんは書類探しを再開し、ロシア外務省に手紙を書いた。また、エリツィンが故郷のスベルドロフスクを遊説で訪れた際、嘆願書をこっそり背広のポケットに入れたという。
 ある時、ウラルマーシの工場従業員であるコマロフと話す機会があって、彼が東京でロシア語を学ぶ日本人女学生と文通している縁で、彼女と手紙で知り合い、朝日新聞の支局や函館のハリストス正教会に問い合わせるようアドバイスを受けたという。カザンツェフは、「当時、青森には、裁縫業の主人べリコフとその妻ニーナ、パナチョフ一家、フドゥーシキン一家などが住んでおり、北海道から青森へ移住したらしい。彼等はもともと、ロシア革命後の白系ロシア人であった」と言っていたという。
 私は、かの有名な野球投手ビクトル・スタルヒンは父母ともにウラル地方のペルミから革命を逃れ、北海道の旭川市に住むようになったことを思い出し、カザンツェフと同郷であることから、ひょっとしたらお互いに顔見知りの仲ではなかったかと想像をしてみた。
 パナチョフ一家の兄妹のことについて少し述べたいと思う。実はイライダさんから最初の手紙が来た1か月前の1992年5月、青森からの旅行者との思わぬ対面から、サハリン州ユジノサハリンスク市に兄のワレンチンが在住していることと、妹のエカテリーナも、ロストフ市に住んでいることが分かった。二人は盛岡に生まれ、昭和12年頃家族とともに青森に移住し、太郎・花子と呼ばれていたが、太平洋戦争の激化の中、亡命白系ロシア人という理由で、家族と日本を離れることを余儀なくされた。
 兄妹は小学校の旧友たち等の尽力で、それぞれ1992年と1993年に青森を訪問することができた。ワレンチンの青森訪問の翌年、1993年2月10日に兄妹の母が亡くなり、母が去ったすぐ後、母の妹であり当時青森で両親とともに、パンを売っていたターシャ・フドゥーシキンも75歳で2月20日に世を去った。
 また、シュウエツさんとお会いして、べリコフとパナチョフ一家が函館湯川に住んでいたことや、べリコフの妻ニーナが横浜に健在でいることを話してくれた。
 1995年8月9日、イライダと姉のクラビージャは、従兄弟18人の支援により、51年ぶりに故郷の青森を訪れることができた。北海道に眠る母親の墓参りもした。この年は、終戦から半世紀に当たる年でもあった。しかし、翌年5月、イライダは胃癌で亡くなったのである。悲しい出来事ではあったが、せめて一年前に、祖国を訪問できたことは、イライダさん本人にとり幸福ではなかっただろうか。
 このように、一通の手紙が青森に届いたことと、サハリンでの出会いが、戦後50年近く経て、ほぼ同時期に起こったことは、単なる偶然とは言い難い。現在も、エカテリンブルクの姉のクラビージャさんはロストフのエカテリーナさんとユジノサハリンスクのワレンチンさん兄妹と文通を続けている。

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後列左端がカザンチェフ夫妻

「会報」No.6 1998.1.8

私とロシア

2012年4月22日 Posted in 会報

本間孝太郎

 私は現在日本輸出入銀行で極東ロシア向け融資を担当しております。勤めは東京ですが、函館生まれの函館育ち、日本人である前に函館人であると自負している者です。とは言っても、高校卒業以来現在に至るまで十年以上も首都圏暮らしをしており、函館へは年に数回休暇や正月に帰る程度ですから、大人の目で世間を見られるようになってからは、函館の様子をつぶさには見ていないため、現在の函館の状況をよく分かっていないというのもまた事実です。
 函館日口交流史研究会と知り合ったきっかけは、函館大学の永野先生の御紹介で、同研究会のミッションが今年8月中旬にユジノサハリンスクを訪れるに際し、5月末にユジノサハリンスクヘ出張したときの体験なり街の様子を話して欲しいとの御依頼があって、市役所内の市史編さん室を訪問したことでした。私の母は函館で会社を経営しており、私は長男で事実上の後継者にされていて、将来的には函館に戻ることになるため、今のうちから出来るだけ様々な人達との人脈を築いておくという意図もあり、引き受けさせてもらいました。
 今般、11月7、8日に行われた函館日口交流史研究会主催の研究会と市民セミナーの感想文寄稿を仰せつかりましたが、函館の現状に疎い私にとっては今回のセミナーはその具体的な内容よりも自分自身と函館及びロシアとの関わりを改めて考える機会となりましたので、その辺のことを書いてみたいと思います。
 これまでの私のロシアに対する思いは、ひとえに憎悪と憧れのアンビバレンスでした。私は1966年生まれで、その4年前にはキューバ危機が起こり、70年代にデタントは在ったものの正に冷戦の真っ只中で子ども時代を過ごしました。子どもに冷戦の真の意味は分からなくとも1976年9月、小学校のグランドで体育の授業を受けていたその真上を強烈な炸裂音と共にミグ25が降下していくのを目の当たりにするとやはり何となくソ連は不可解な不気味な存在だったのだと思います。
 中学生、高校生と物心が付いてくると、ソ連共産主義(実はこの実体はよく分かっていなかった)に対する憎しみは頂点に達し、深夜、ラジオのダイアルをひねっているうちにソ連極東放送の反米プロパガンダ放送が入ったりすると義憤に駆られたものでした。これは特に私の亡き父親の影響が強かったのですが、社会人となり、多少は会社経営の難しさも分かってきた今にして思えば、一経営者として先代より営々と築かれた資産を引き継ぎ、それなりの苦労もして維持経営してきたものを、「革命」などというクーデターで勝手に取り上げられ、「みんなのもの」にされてしまうという思想など到底許されるものではなかったのだろうし、現在の私も同感です。
 その一方で、父がロシア民謡のファンであったことから、私の家にはペーター・ラガーというドイツ人バスの歌うロシア民謡のレコードがあり、小さい時からボルガの舟歌、ステンカ・ラージン、ポーリュシュカ・ポーリェといったロシア民謡に親しむと同時に、ジャケットの歌詞のロシア文字を眺めつつ一体この文字は人が読めるものなのか、特にшは燭台のようだし、бもワーグナーチューパのようで、どう発音するのか想像を働かせつつレコードを聴きながら一所懸命文字を迫った記憶があります。その後やはり家にあったレコードで、ショスタコービッチの『森の家』をはじめ、チャイコフスキー等々のロシア音楽に触れていくにれ、ロシアの芸術に対する尊敬の念が深まっていったわけです。
 この二つの感情の対立がロシア語習得の欲求となり、大学の第2外国語は、迷わずロシア語を選択しました。因に父は息子がロシア語をやると「赤化」すると思ったのか、猛烈に反対しました。
 冷戦が終結し、共産主義が崩壊した現在、このアンビバレンスの解消は当然のことですが、自分でも不思議なのは、現在のロシアに対し憎悪の念が全く残っていないことです。つまりその憎悪とは社会主義、共産主義即ちソ連に対する憎悪であってロシアに対するものではなかった。そしてロシアに対しては常に憧れしかなかったわけです。そして今感じるのはソ連に対する憎悪も冷戦によって「作られた憎悪」であったということと、旧ユーゴ諸国を始めとし、世界各地の紛争は冷戦に関わらずいかにこの「作られた憎悪」によるものが多いことかということです。
 今回のセミナーでロシア人ゲストの美しいロシア語の音を聴きながらこのようなことを考えつつ感じたのは、函館にはハリストス正教会がある、旧ロシア領事館もある、ロシアは日本の隣国で、函館は昔からロシアとの交流は盛んだったという、函館に住んでいる時は当たり前すぎて意識されなかった歴史、あるいはこれまで冷戦の陰に隠れてしまっていた歴史を再認識し、これから普通の交流をしていかなければならないし、それが我々の世代の使命なのだろうということでした。

「会報」No.6 1998.1.8

函館・ロシア極東交流研究会と市民セミナーに参加して

2012年4月22日 Posted in 会報

永野弥三雄

 クラスノヤルスクで行われた日口首脳会談より数日後の11月7日、8日に函館で開催された表記のセミナーに参加した感想を述べます。
 まず、報告者・パネラー等の紹介につきましては、紙幅の都合で割愛せざるをえません。なお清水恵さんが退引ならない事情で参加されませんでしたが、報告書には紙上参加の予定と聞いています。
 研究者相互のコミニュケーションは、荒井信雄氏の熱気あふれるばかりの名通訳で何の支障もありませんでした。
 さて、この研究会・セミナーの目的は「ロシア極東と函館の歴史」といった限られた問題設定を一歩踏み出して、「函館はどうしたらロシア極東との交流拠点となり得るか」(鈴木会長の開会の言葉)ということでしたから、各発言者の豊富な内容を大きく歴史と現状および課題と提案に分類して、強く印象に残ったことをロシア研究者の報告を中心にして紹介します。
 Ⅰ歴史:A・T・マンドリク氏は、「ソ日・ロ日漁業関係と函館」がテーマで、19世紀後半から20世紀の30年代にかけての両国による北洋漁業発展を概観しました。そのなかで、日魯漁業(株)がソ連に対して多額の権利料を支払っていたこと、またソ連最初の蟹工船「カムチャツカ号」が函館の日魯造船所で昼夜兼行で改造されたことをあげ、「函館というまちは両国間にある肯定的な側面を積極的に果したし、こうした過去における経験から今後、相互にとって互恵的関係を発展させ得るだろうが、すでに研究者の交流はそのあらわれである」と結びました。これに対し鈴木旭会長は、「露領漁業は対立と協調の関係であったし、現在の日口関係はうまくいっていないが、今後協力関係存立の根拠を見出していこう」とコメントしました。
 V・V・コジェブニコフ氏は「ウラジオストク市と函館市の関係」と題して、「ロシアは日本の裏口からやってきたので、函館とは裏口同士のつきあいだ」と話はじめ、エリートが公式に会う会談ではなく、今日の会合のような庶民同士のつきあいの方が貢献が大きいとし、また日口両国間の差異が大きいというが、精神文化の面では共通性があると指摘しました。そして、ウラジオストクと函館の二都市の成立と発展について12の共通点をあげ、「両都市の交流の規模を私達の希望する程度まであげたい」と結びました。
 原暉之氏のコメントでは、さらに両都市の共通点があげられ、15点まで数えられる頃には、なごやかな雰囲気が会場にあふれた次第です。
 2日目の原暉之氏の報告は、明治期に「ウラジオストク新聞」の通信員として活躍した小島倉太郎が日ロ両国間の架け橋の役割を果したことを明らかにしました。
 Ⅱ現状と課題および提案:1日目のL・L・ラーリナさんは、「ロシア極東南部の日本人観」がテーマでした。今年の7月、8月に「沿海州」で、10月にはウラジオストクで行われた世論調査(811票回収)の結果を詳細に説明しました。これは2年前の交流史シンポジウムの際の報告に続くものですが、この2年間の日本人に対するイメージには殆ど変化がないそうです。最も親しみある国はアメリカと日本です。ロシア人からみた日本人像は勤勉(66%)、礼儀(52%)、責任感(36%)が多くすべての年齢層、職業層に共通とのことです。そして、日本に対する関心は強まる傾向だが、日本の情報は限られているから、これが十分に満たされていないと言います。
 ラーリナさんの報告に対して藤本和貴夫氏は、総理府調査によるロシアに対する親近感の近年の数字の変化をあげて、これを北海道、日本海側でみたらどう変るかなどの問題を提起しました。
 2日目の宮本勝浩氏は、ロシア極東貿易における各国別の状況を説明し、日本は腰が引けて減少していることを明らかにしました。ロシアは大国だから少々の外資では影響はでないが、投資の乗数効果は2倍以上だろうと推定します。函館はサハリンとアジアとの通過点として緊密な関係を結び、かつての大阪のように繁栄してほしいと結びました。
 続いて今井孝司氏は、函館とロシアとの現在のかかわりには、姉妹都市、定期航空路、極東国立大学、領事館分館のあることをあげ、サハリン石油開発後方支援基地を目指して市が活動していることを明らかにしました。
 ところで、村上隆氏は肯定的に話をしたいし、水をさすつもりはないがと前置きした上で、サハリン大陸棚の開発を地域レベルでみた場合、参加できる程度はどうなのかを地図と数字を掲げて説明しました。後方支援基地となるためには、人と物の動きで考慮すべき点は7点((1)雇用の主体はロシア人(2)賃金、物価の低コスト(3)輸送の利便性(4)外国人技術者の休息の場所(5)税関機能(6)修理基地機能(7)ロシアの資金不足)あると指摘しました。そして函館が観光、保養基地として期待できることを示しました。
 次に輪島幸雄氏は相手側の論理で状況判断することの必要を説き、稚内、新潟、富山などにくらべて、函館は情報収集、経済交流の面で立ち遅れていることを指摘し、函館には施設が必要だと強調しました。
 2日目にサハリン近現代史料センター所長のM・C・ヴィソーコフ氏は、二つの提案をしました。第1は歴史の共同研究です。これまでのロシアの歴史研究は多くの矛盾を含んでいたが、漸く誠実に調査、研究しようという空気が生まれ、国内の文書館や図書館の閲覧は自由となり、海外の研究者との交流が盛んとなった。そして、サハリン、クリル諸島と北海道の歴史には共通点があるから、共同研究、共同執筆しようと提案しました。         
 第2は領土問題解決の方法についての研究提案です。領土問題の解決に関する7つのシナリオを提示しましたが、解決に至るシナリオは次の3つです。(1)ロシアの構成主体が変り、シベリアがウラルから離脱した場合。(2)ロシアの経済改革が成功して、民主主義体制が確立した場合。(3)日本の経済が破綻し、アメリカとの安保が崩壊してユーラシア同盟ができた場合。
 一方で解決できないシナリオは、(1)ロシア経済は危機から脱出したが長期停滞の場合(2)経済政策の失敗でロシアが深刻な経済危機の場合(3)ロシアに内戦が勃発した場合(4)日本の政治、経済に長期的に混乱が生じた場合、としています。そして、この領土問題の解決方法についても両国の研究者で考えてみたいと提案がありました。
 秋月俊幸氏はこれを受けて、歴史の共同研究は是非やりたいとした上で、ロシアの歴史学が現在大きく変ってきていることを歴史的に説明しました。しかし第2の提案の領土問題解決方法の研究は難しく、タッチしたくないと言明しました。
 最後に佐藤経明氏の総括は、ロシア経済は危機を脱出したが長期的停滞が続くと思う。サハリン開発における極東ロシアと函館との提携は距離もあり容易ではないだろう。函館のもつ過去の栄光と財産は、このことには役立たないのではないかとして、函館のなすべきことは、サハリン、クリル、ロシアの正しい歴史を共同でつくることではないかと締めくくりました。
 以上のように2日間にわたる研究会とセミナーは皆川修吾氏の司会により充実した内容をもって終了した次第です(報告者等の発言についての文責は筆者)。

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「会報」No.6 1998.1.8

「ロシアで実際に仕事ができる」と田中は最初の利権企業を設立した

2012年4月22日 Posted in 会報

ユーリ・オシポフ(ウラジオストク)

 有名なロシアの旅行家、歴史家、人類学者、愛書家、大いなる通人でウスリー地方の研究家ミハイル・イワノヴィチ・ヴェニューコフは多くの旅をした。1868年には世界一周航海をし、1869~1871年には日本と中国にいた。
 その仕事で最も重要なものは、当時の日本の詳細な歴史「日本概説」[Ocherki Yaponii](1868年)と「日本列島概要」[Obozrenie yaponskogo arkhipelaga]二巻(1871年)である。
 「日本列島概要」という重要作品のユニークな点はヴェニューコフがロシアの歴史家として初めて、16~19世紀に出版されたこの問題に関する内外文献をまとめて分析した点、日本の地理について記述した点、最も重要な都市、産業構成、農業について叙述した点、国家組織と国家管理を研究した点にある。
 特に読者にとって興味深いのは、「日本人の家庭と社会」という章にある、日本の通史と豊富な付録である。
 この出版物の緒言で、ヴェニューコフは次のように語った。「何世紀も霧の帳で覆われていた東アジア地方の上を朝やけが登っていった。幾多の優秀な種族が、これまで国の事情や諸規律によって、長く残りの世界から隔離されていたが、先行者の厳かな行進に加わった。新しい強壮な力と、赤々と燃える若い情熱をもって、彼らは前にいた者に追いつこうと志した。......何世紀にもわたる停滞から外圧によって目覚めさせられた社会的意識は、歴史的進歩の動因である。」
 ヴェニューコフが日本の諸都市を訪れていた時、彼は函館で食堂を経営していた某アレクセーエフと知り合った。1869年から1870年の日本で唯一のロシア人商人だった。日本は実際、ロシア人を知らなかった。
 しかし1871年1月1日に江戸と横浜に総領事をもってロシア代表部を設置した。
 それ以降のロ日関係をみると、20世紀初頭には二つの戦争―日露戦争と国内戦争の難事を越えていった。軍事的軋轢、利害の対立、社会機構の相違にも係わらず、善隣関係、経済協力志向が勝った。国内戦争終結後ほどなく、1925年1月20日に北京で日ソ両国間の外交関係樹立についての条約が締結された。経済分野における本条約の重要点は、日本の利権企業への極東地方の石油、石炭、金の採掘が許与されたことである。
 この関係で興味深い資料があるのだが、我々がハバロフスク地方国立史料館で見付けたもので、その核心は次のようなものである。1925年2月25日に、極東利権委員会に田中与太郎という日本人が願書をもってきた。それには「私はロシアに20年間住み、ロシア人をよく理解し、ソ連の現状も知っており、思い切ってここにきたのは、オホーツク・カムチャツカ地方の金の調査と採掘について交渉し協定を結ぶためである。私にはほぼ20万ルーブルの資本があり、これを用いるつもりだが、今年の6月から仕事に着手し、9月には日本に行き、日本の人々にソ連で実際に仕事ができることを伝えて説得し、彼らも引き入れてより堅実な株式会社を設立するためである」と書いてあった。
 田中与太郎は、彼のいうところによれば「相互の平安と繁栄」に基づき、もっぱら二つの民族を親密にするという目的によって動いていた。そのため彼は日本の農家から少しずつの負担金を出してもらい、組合を作ることにして、さらにロシア人を仲間に入れて大きな資本を創り出すことを決めた。
 極東に試験的に会社を設立してみようと、田中与太郎は、30万ルーブルを供出した。リヂンスキー鉱山はそれほど豊かではないが、賃貸条件や税金条件、それに利権業務における外国労働者の利用は50%(最初の二年)、以降、利権の有効期限まで25%という条件について協定を締結した。
 1929年10月1日現在、極東地方で活動している10件の日本の利権企業のうち、創立者の名前にちなむ「田中与太郎」金採掘にかかる利権は第一号となり、1925年9月25日にオホーツク・カムチャツカ地区に作られた。そのあとにサハリンの石油と石炭開発に関する二つの日本の利権企業「北樺太石油(株)」と「坂井組合」が続き、四番目は1928年に設立されたカムチャツカ方面での漁獲に関するものであった。
 このように、田中与太郎は日本の企業家のなかで、ロシア極更に利権企業を組織した最初の人であった。

「会報」No.5 1997.10.6 From Russia

亡命ロシア人作家バイコフと大連の小学校教師宗像英雄の交流の軌跡

2012年4月22日 Posted in 会報

清水恵

 1996年の秋頃、会員の佐藤一成氏からお電話をいただいた。このたび極東大学函館校の図書室に元小学校長宗像英雄氏の遺品である図書が収蔵されたとの由。その話の終わりに「バイコフの奥さんの手紙がご遺族のところにあるそうですよ」、と聞き捨てならないことをおっしゃられた。こうして思いがけず、バイコフと宗像英雄に交流があったことを知ったのである。
 バイコフは1957年にオーストラリアに移住するまで、人生の大半をハルビンで過ごした。最初は、ロシア帝国の軍人として、後半は亡命ロシア人としてだった。
 川村湊の表現を借りれば、「すでに六十八歳だったバイコフを、樹海の中から連れ出し、満州文学の世界に登場させたのは、長谷川濬」なのであった。バイコフはロシア語で作品を発表していたが、初めて彼の作品『偉大なる王』を邦訳したのが、長谷川濬なのである。このような形容は不本意だろうが、海太郎(林不忘)の弟で四郎の兄である。
 菊池寛などにも認められバイコフは一躍、時の人となった。そして本人の意向はどうあれ、「五族協和」を体現するシンボルとして、政治的なものと無縁ではいられなかった。
 その中にあって、当時大連の小学学校教師だった宗像英雄とその生徒とは、真に純粋な友情で結ばれていたといえるだろう。バイコフの作品に感動した小学生たちが、絵を描いて作家に贈ったことが発端で、それから四年間、書簡がやりとりされたのである。
 宗像が約50枚ほどのトラの絵を持参して、初めてハルビンのバイコフ邸を訪ねたのは1938年の3月6日のことであった。宗像がこの初対面の印象を綴った訪問記が残っている。雑誌にでも掲載する予定だったのだろうか。末公表のようなので、いつか紹介できればと思う。
 宗像とバイコフがどれぐらい親密であったか、残された遺品だけでは判断がつきかねる。しかしバイコフは原書を贈って翻訳を依頼したし、満州の自然を愛する者同士という共感もあり(宗像は植物研究者でもあった)、かなり心は通じ合っていたのではないかと推察される。
 しかし、二人の出会った時代は最悪だった。戦争が終結をむかえようとする頃に宗像は現地で召集をうけた。それでも幸運にも生きぬいて、1947年に函館に戻った。一方バイコフは、これまでの親日家ぶりから、誰の救援もなく、ハルビンの厳しい世間に、立ちむかわざるを得なくなった。
 1958年バイコフが移住先のオーストラリアで亡くなったことが報道された。宗像は彼を忘れてはいなかった。夫人に手紙を出して、あの原書を翻訳して日本で出版しようとしたのである。上脇進の翻訳だが、その際植物名の翻訳は宗像が尽力した。この本は岩波書店から『私たちの友だち』として出版された。
 宗像の自宅の机の上には、ずっとバイコフの写真が飾られていたという。生前にお会いできなかったのが本当に悔やまれる。

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「会報」No.5 1997.10.6

サハリン紀行と日ロミニ・シンポジュウム参加記

2012年4月22日 Posted in 会報

田島佳也

 8月12日、4泊5日のサハリン紀行に函館から出発した。5人の函館日口交流史研究会のメンバーに同行した調査研究である。
 目的は日本統治時代の史料と景観調査、日ロの史的関係についてサハリン学術研究機関との共同研究の可能性を探ることにあるが、幕末アニワ湾でアイヌを使って漁業経営をした紀州商人を以前に研究したことのある私自身にとってはとりわけ前者の調査に関心があった。しかもサハリン郷土史博物館にはその当時の史料があるらしいと聞いたので、接写カメラなどを用意して参加した。
 午前11時45分函館出発。かなり古いアエロフロートのプロペラ機に搭乗し、厚い雲海のなかユジノサハリンスク(人口18万人)に16時(日本時間14時)に着いた。出迎えのユジノサハリンスク教育大学のリム・ソフィヤ先生と十数年ぶりの再会である。早速、サンタ・リゾートホテルに向かい、それから晩餐をサハリンスカヤ通りのレストラン・スラヴャンカで堪能する。
 翌朝、サハリン州近現代史料センター長のヴィソーコフ氏を訪ねる。1925~91年(ソ連崩壊)までセンターはサハリン州共産党執行委員会の近現代資料所蔵館であった。このセンターを含め、建物は一般に補修が行き届いておらず、とくに水洗トイレの故障が目立った。
 さてヴィソーコフ氏の話では、歴史中心のサハリン・クリル研究会が年4回開かれ、この地域対象の教科書作成も手掛けているという。だが、統治の歴史的経緯から仏・独・英・露・日語の文献が混在し、それが研究の進展を阻んでいると指摘され、日口共同研究の必要性が力説された。
 午後は25万点の文書を所蔵する国立サハリン州文書館へ。数日後に定年を迎える館長のデュダレッフ女史の歓迎を受けた。文書館には1945年までの樺太庁時代の資料約千点、樺太警察関係資料(1907~45年)218点、ほかに反政府学生運動資料、外国人スパイ容疑についての資料などがある。書庫では昭和13年(1938)の逓信省電信授受簿・鉄道省の鉄道関係資料などをみ、閲覧室では樺太庁による市町村・産業・日露戦争戦死者についての調査記録、王子製紙落合工場の写真帖などを閲覧した。
 13日は小樽と釧路の姉妹都市、西海岸のホルムスク(旧真岡、人口5万人)を巡見。ユジノサハリンスクから車で約2時間。廃墟の旧王子製紙工場を遠望した。同行の桜庭氏の父上の形見という写生画に描かれた工場の姿を今に伝え、我々を感無量にさせた。
 工場をあとに海岸沿いの道をプラウダ(旧広地)方面へさらに南下、チュソフカ川の河口あたりにアイヌコタンの跡らしき所を発見した。暫し近世のコタンに思いを馳せるが、はるか海上に建つ油田探査機がそれを妨げた。また南下。人気のない漁家が一頻り続くガタガタ道を途中から引き返し、夕方ユジノサハリンスク駅近くの自由市場に着いた。思っよりも品物が豊富である。注意を受けながらも、市場ではリュックの背から携帯カメラが抜き取られ、手痛い経験をした。
 14日の午前中は州立サハリン郷土史博物館(旧樺太庁博物館)を訪ねた。19世紀のアニワ湾漁業関係の写真を見たかったが果たせず、樺太神社跡地を見学した。本殿跡には旧ソ連共産党幹部の宿泊ホテルが建っていた(現在未使用)。また、トイレに利用されている廃墟のコンクリート製校倉造り宝物殿をみて、こうした利用法もあるのかと感心した。
 4時頃からサハリン州近現代史料センターでミニ・シンポ。参加者は日本側出席者が6人、ロシア側が8人。ソフィヤ先生の通訳のもと、榎森進氏が「アイヌ民族の過去と現在」と題して報告した。報告ではおもに19世紀末から明治までのアイヌ民族問題に絞り、生活空間の変遷や松前藩支配下の存在形態、明治政府によるアイヌ政策の特徴を時系列的に述べ、時代的特徴点と相違点を指摘した。
 それから1889年に成立した「北海道旧土人保護法」が、主権在民と基本的人権が認められた第二次世界大戦後も廃止されず、今日までアイヌ差別を温存し続けたこと、70年以降世界の先住民族の発言・主張が高揚するなかで先住権を認めない日本政府の立場や北海道ウタリ協会を中心に先住権や民族議席、民族自立化基金を盛り込んだアイヌ新法成立への運動が高まったこと、97年5月に「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(アイヌ文化振興法)の制定をみた経過説明をした。
 最後に、この法律が民族差別と先住権に一切触れていない点で不十分なものの、アイヌ民族の置かれた歴史的経緯から判断して一定の成果であると、氏は評価し、アイヌ民族が新たな転機に直面している現状を訴えて報告を終えた。
 その後、もっぱら榎森氏がロシア側出席者の質問に答える形で進行した。質疑の内容をここでふれる余裕がないが、ロシア側研究者のアイヌ民族を含む少数民族に対する関心がどのあたりにあるか、を図らずも露呈する形になったといえる。と同時に、この問題に対する日口研究者の交流が如何に必要かを再認職させられた。内容の深化は11月に函館で行われるシンポジウムに期すことにして閉会した。
 翌日に帰国。定刻通り10時40分に離陸し、12時30分曇り空に覆われた函館空港に無事着陸。一時的に視界の開けた札幌上空で無機質な大都会を垣間見たが、何故かそこに人間の蠢きのようなものを感じた。日本とは、日本人とは、と改めて考えさせられたサハリン紀行は終わった。

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「会報」No.5 1997.10.6

満州国立大学哈爾濱学院史抄 ―哈爾濱学院史(同学院同窓会刊)より―

2012年4月22日 Posted in 会報

佐藤一成

○終焉
 昭和20年(1945)8月16日、敗戦の翌日校旗焼却式が南寮でおこなわれた。大正9年(1920)日露協会学校設立に当たり、時の日露協会名誉総裁閑院宮殿下から奉戴した校旗に渋谷三郎院長が点火、『桜と桂の紋章』はめらめらと燃えて灰となった。前日来、学生の多くは馬家溝(マジャコウ)十字街の政府代用官舎などの警備についていたので、立ち会った学生は、わずか5、6人という淋しさであった。敗戦そして廃校。悲しくもつらい風景であった。満州国立大学吟爾濱学院はこの日、8月16日をもって日露協会学校創立来25年の幕を閉じた。8月21日、渋谷院長夫妻と次男自決。追って学監白井長助夫妻と家族6人が自決された。拳銃による自決であった。
 そして多くの学院生(軍人・軍属・学生[在校生238名]等)がシベリアに送られた。彼等は学院で学んだロシア語をもって、多くの抑留された軍人他日本人を救うことになった。

○創設
 日露協会学校―哈爾濱学院―満州国立大学哈爾濱学院、この3つの校名は1つの学校の名称である。何故このような3つの名称を持ったのであろうか。それは背景に流れる歴史の変化にあった。
 今簡単にこの歴史の流れを見よう。日露戦争後、日本はロシアとの協商関係樹立を考え、そのため日露両国間に働く人材を必要としていた。そのような情勢の中に明治35年(1902)7月日露協会が成立した。会頭に榎本武揚、寺内正毅など輝かしい名士を据えた。同会の目的は『日露両国民の意志を疎通し、其他通商貿易の発達を計る目的を以って発企され...以下略』とある(東京経済雑誌、第1142号、明治35年7月26日)。
 そして元満鉄総裁後藤新平が第3代会頭になった時、東京外語卒の井田孝平が後藤の率いる日露協会の支持を得て開校にこぎつけた。場所は現在の中華人民共和国黒龍江省哈爾濱市であった。学校名は、『日露協会学校』といい、ロシア語では、ИНСТИТУТ ЯПОНО-РУССКОГО ОБШЕСТВА(インスチトウート イポーナ ルースカボ アブシェーストヴァ)であった。経営は外務省管下の法人『日露協会』で、学制は日本文部省令で、高等商業学校の性格を持っていた。創設の経費は日本政府が25万円、満鉄が5万円を出している。校舎用地は東支鉄道より4,000坪の分譲を受け、建築は建坪7,000坪の第一期工事が開始された。
 創設から13年間が、『日露協会学校』、昭和7年(1932)4月より15年3月まで8年間が『哈爾濱学院』爾後廃校まで『満州国立哈爾濱学院』であった。
 学制は前述の通り昭和15年まで日本の学制による専門学校。その後満州国教育令(文教部)による4年制国立大学となり、満州国所管となった。

○内容
 教科内容は、時勢の変転により、多少の変化はあったが、ロシア語が基軸で、これに露、ソ、満、蒙の文化・経済関係の諸学が按配加味された。初・中期の学科は倫理、露語、国漢文、経済、財政、法律、商業、商品、貿易、簿記、実習、地歴、体技、軍事教練。第二外国語に英、仏、中、蒙が選択された。露語は最重点科目で、露文和訳、和文露訳、文法、会話などであった。他にロシア文化・経済の語学科は露語により教習され、1週10時間から15時間がこれに当てられた。実習とは満蒙中、或は極東ソ連領への研究旅行で、夏季一斉に各地に調査、実践の旅行を実施した。
 校齢25年。卒業生1412名。1年平均約60名弱の卒業生であった。20年の廃校時は在校生総数285名。末期は異常に急激な膨張をとげていた。
 学校は官費であった。学生の大部分は都道府県派遣の公費生で、その他満鉄等から準公費生で、若干の私費生が居た。例えば昭和2年の在学生を見ると公費生97名、準公費生13名、私費生7名であった。学生の大部分は中等学校におけるトップクラスであった。尚、満州国立大学になってからと思うが、満蒙系の学生も若干入学した、何れも優秀であったという。又、後期にあっては簿記等の商業科目の代わりに国家論、大東亜経済論等が講ぜられるようになった。後期は私費生が増加した。

○補記 極東大学と......
 大正9年(1920)臨時極東政府がウラジオストクに樹立され、東洋学院は極東大学となった。最近判明したところによると、同11年に極東でソヴィエト政権が樹立された時、極東大学の教授・学生等多くが中国へ亡命、パトスターヴィン学長もその中にいた。昭和5年よりその学長令嬢のパトスターヴィナは哈爾濱学院講師となり廃校まで講義をする。戦後は日本に来て、上智大学の講師としてロシア語を教えた。筆者も会話の授業を受けたが、恩師であり、懐かしさが残る。
 今函館にロシア極東国立総合大学函館校が創設されている。ご縁があって私は函館校の創設に関わった。もし平和な時代が続いていたら、哈爾濱学院と極東大学の関係が色々な形であったのではないかと深い感慨を持って見ている。
 私(23期)が在学していた時の院長で廃校の時に自決された渋谷三郎先生[二・二六事件当時麻布第三連隊長]、院長を追うように自決された学監白井長助先生など、私達最期の学院生に大きな影響を与えた先生方についても、何時か機を得て記したいと思っている。

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「会報」No.4 1997.7.10

北のシルクロード ―佐々木史郎著『北方から来た交易民』(NHKブックス)の紹介を兼ねて―

2012年4月22日 Posted in 会報

榎森進

 "北のシルクロード"という言葉は、未だ歴史用語としては必ずしも定着してはいないが、ここでは、主として江戸時代に、いわゆる「山丹交易」によって、中国産の絹織物が長崎経由ではなく、松前藩や蝦夷地幕領期の幕府を介して日本社会にもたらされていたことから、この北からの絹織物の交易の道を、中国と西方の諸地域を結んだ本来の"シルクロード"にあやかって、こう称することにした。
 ところで、この"北のシルクロード"に関わる「山丹交易」に関する研究は、近年とみに盛んになってきている。その主要な特徴点を挙げると次のとおりである。(1).近世の「鎖国」に対する理解のしかたが、近年大きく変わり、対外関係の窓口は長崎のみであった、という従来の「鎖国」観に代わって、当時の対外関係の窓口は、長崎の他に薩摩藩―琉球、対馬藩―朝鮮、松前藩―蝦夷地(アイヌ民族)という三つがあり、しかもこうした「四つの窓口」を介した対外関係のあり方は、相手の異国・異民族との対等な関係ではなく、中華思想を軸にした"華夷秩序"を基にして編成されていた、と解されるようになったこと。(2).こうした「鎖国」に対する新たな理解を背景として、北の窓口である「松前口」のあり方の一つとしての「山丹交易」への関心が高まったこと。(3).日本と中国・ロシアとの学術交流が進展するなかで、「山丹交易」の実態解明が急速に進展し、中国の研究者も北の「絲綢之路(シルクロード)」に関する研究をし始めたこと。以上の諸点がそれである。
 本書は、サブタイトルに「絹と毛皮とサンタン人」とあるところからも分かるように、文化人類字を専門とする著者が、これまでの著者のアムール河下流域の先住少数民族に関するフィールドワークを軸にした研究成果を基にしつつも、「山丹交易」に関する従来の民族学・歴史学の研究成果を積極的に吸収しながら、近世の日本社会側から「サンタン人」と称された人々の社会や彼等の実態に迫ろうとしているところに本書の大きな特徴がある。
 スペースが限られているので、本書を読んで私が最も興味を持った問題を一つのみ挙げると、かの有名なサハリン・アイヌの「サンタン人」との交易における"負債"の問題について、このアイヌの負債の本質は、当時「サンタン人」が他民族と交易する時には、商品の前渡し方式をとっていたところにある、と指摘しているところである。従来この問題については、狡猾で奸智に富んだ「サンタン人」が無知蒙昧なアイヌを騙して交易していたために生じたものと説明され、しかも文化年間、松前奉行配下の松田傳十郎がアイヌの負債を肩代わりして「サンタン人」に支払い、アイヌの窮状を救った、という点のみが強調されてきただけに、この著者の指摘は重要である。先住民族自身の立場に立ってものを見る視点の大切さを我々に示してくれた指摘であるからである。
 「山丹交易」は、ロシアが沿海地方やサハリンに進出してくる以前にあっては、中国―アムール河下流域の先住民族―サハリンのアイヌ民族―日本、という関係を軸にして発展したが、1858年の愛琿条約と1860年の北京条約を中心にした前近代の北方世界のあり方を知るうえでも貴重な文献である。

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「会報」No.4 1997.7.10

函館とロシア極東 ―原暉之氏の連載を読んで―

2012年4月22日 Posted in 会報

清水恵

 『しゃりばり』(北海道開発問題研究調査会発行)という月刊誌に、原氏が"「道」のロシア史 ウラジオストク物語"を連載中である。1995年10月(No.164)から始まり、すでに現在では22回を数えている。毎回充実した内容で、写真も興味深いものが多く、いつも色々な発見をさせられている。
 函館についてもしばしば言及されているが、ロシア極東という枠組みからこの町を見るのも、刺激的であった。ウラジオストクの開基(1860年)と函館の開港は同時代であり、二つの港湾都市が否応なく時代の波にさらされていくのがわかる。ここでは函館に引き付けて、二、三のエピソードを紹介したい。
 ウラジオストクが開かれ、最初にもたらされた輸入品は、函館で購入された物資であった。1860年秋、軍艦グリーデン号が食料品と家畜などを輸送したのである(No.168)。ロシアにとって函館は、極東経営のため、自国艦隊にとって不可欠な中継地であり、原氏も指摘しているように、領事館がここに開かれたのもこれをぬきには考えられない。
 さて、1878年、北海道では函館で初めて新聞が出たが、事実上ロシア極東最初の新聞は、5年後の1883年にウラジオストクで発刊された。その紙名も「ウラジオストク」というが、この新聞に函館在住の通信員が記事を送っていた(No.173)。小島倉太郎という函館県(開拓使廃止後に一時期「県」となる)の官吏で、ロシア語の専門家であった。彼は日本の話題を送る一方、「函館新聞」に「ウラジオストク」からの翻訳記事をのせ、情報の交換が行われていたのである。
 No.173とNo.175にはコレラの話題がある。上水道整備や衛生問題など近代都市として歩み始めたウラジオストクの悩みが、函館とだぶっているようでおもしろかった。1886年のコレラ流行で、函館では患者1,022名、死者846名の犠牲を出し、当時衛生局にいた後藤新平が来函、飲料水と衛生の問題を説いた。コレラの猛威に水道建設の機運も盛り上がり、1889年に完成した。
 一方、井戸水に頼っていたウラジオストクでも、1884年に上水道の改善問題が緊急課題として新聞に掲載された。しかし当局は出稼ぎアジア系住民の不衛生な居住地がコレラの感染源であるとし、衛生環境の抜本的対策に着手せず、彼らを移住させることで当面の解決を計ったのであった。
 病院はどうか。ロシア病院やその医師の功績により、函館には早くから西洋医学が根付いていた。1883年には従来の函館病院のほかに、貧しい市民の治療と娼妓の黴毒治療のために公立病院が作られた。それに比べウラジオストクは1890年当時、陸海軍の病院と公立黴毒病院があるのみで、一般市民用の病院はなかったという。両都市に公立黴毒病院があるのも、開港場の現実であろう。
 ウラジオストクの自国居留民を心配した日本政府は、独自に日本人医師を駐在させることをロシア政府に申請、1891年に実現した。ちなみに明治31(1898)年7月5日の「北海道毎日新聞」には、江差病院長の華岡清洋がその技術の優秀さをかわれウラジオストク在留日本人に招へいされて渡航したと記されている。

「会報」No.4 1997.7.10

リュシコフ大将亡命事件

2012年4月22日 Posted in 会報

A.トリョフスビャツキ

 第二次世界大戦直前、ソ連と日本の間に起こった多数の出来事の中で、満州国経由で日本に亡命したリュシコフ大将の事件(1938年)は特別な地位を占めると言えるであろう。ソ連内務人民委員部G.P.U.極東長官であったリュシコフ大将が日本に保護を要請したことや、リュシコフが語ったソ連国内の状況について、日本のマスコミは大々的に伝えていたが、ソ連国内ではこの事件について最近まで一切知らされていなかった。
 スターリンが1930年代に引き起こしたテロルは、ソビエト・エリートの代表者が西側に逃亡したり、出張中帰国せずに西側に残ってしまった主な原因である。「リュシコフ事件」もこのコンテキストの中で見直すべきものだと思う。一連の逃亡事件の中で、逃亡先を日本に選んだのは、この事件だけである。
 リュシコフの証言や手記によると、逃亡先は地理的条件から選ばれたのであった。彼はソ連国内の事情や赤軍幹部、政治的指導部、一般市民を犠牲にする粛正について、貴重な証言をした。越境逃亡の動機について、彼は第一に、粛正の波から自分の身を守りたいこと、第二に、ソビエトやほかの人民を犠牲にしたスターリンの独裁と戦うためであるとした。
 ここで指摘しなければならないのは、リュシコフはソ連の弾圧機関(内務人民委員部G.P.U.)において重要な地位(極東地域では最高責任者)を占め、1937年の後半から1938年の前半の極東地域での大量テロルの責任者の一人であったことである。そしてこの男の手に、ソ連極東政策のすべての鍵が握られていた。リュシコフの手記や証言は1938年8月号の「外事月報」に載っているが、これが一部か、全部かははっきり分からない。
 しかし、これだけでも、リュシコフが、ソ連情報機関の日本や周辺諸国における活動の原則、やり方について詳しく語ったことが明らかになった(具体的な名前などについて触れてはいなかったが)。
 興味深いことに、リュシコフは極東地域におけるソ連指導部の軍備についてを証言している。ソ連と国境を接する満州国での関東軍の軍備について、ソ連(ロシア)のマスコミや著作物によって、多くが語られてきた。最近までソ連は日本の侵略に対し、適当な措置を取ろうとしている被害者として描かれていた(ハサン湖、ノモンハン事件)のも現実である。
 おもしろい逆説だが今、ロシアのマスコミ関係者、学界の一部もスターリンのソ連は1930年代に隣国(フィンランド、バルト三国、ポーランド、ルーマニア)に対して侵略者であったと認めているが、極東においてはスターリンの外交は正しかった(北方領土を含めて)と強調している。
 リュシコフが手記で指摘したように、スターリンの冒険的な政策は、ソ日関係に直接的な影響を与えて、最終的な目標として、当時日本の侵略の対象となった弱体化しつつある中国を自分の影響下に置くことにあった。公開裁判でしきりにドイツのファシズムや日本の帝国主義にふれたのは、自己の戦争準備や、ドイツのファシズムや日本の帝国主義のスパイとされた元の同僚たちに対しての弾圧を正当化する目的であった。リュシコフはこのような裁判はスターリンによってでっちあげられた、と世界にアピールした。
 1938年以降のリュシコフの運命は、今のところわかっていない。沿海地方の地域学者Ⅴ.K.ドンスコイが指摘したように(『ロシアと太平洋地域』、1996、1号)、1945年8月に日本軍司令部の命令に従って暗殺されたのかもしれない。リュシコフはソ連から逃亡したのではなく、特別の任務をもって派遣されたという意見もあるという。日本の指導部はリュシコフの証言をどのように受け止めたのか、それは対ソ連政策にどのような影響を与えたのか、という問題もこれから詳しく検討する必要がある。
 いずれにしろ、リュシコフの日本滞在関係資料の探究が必要である。ノモンハン事件や第二次世界大戦直前のソ日関係の中でまだ不明な部分が明らかになるかも知れない。

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「会報」No.3 1997.5.6

市立函館図書館における貴重な発見

2012年4月22日 Posted in 会報

A.T.マンドリク

 函館日ロ交流史研究会の鈴木さんと清水さんが、函館図書館で歴史資料を調べていて、「週間函館新聞」という珍しい新聞を見つけ出した。
 その第1号は1928年9月に発行され、この新聞の刊行によって「ソビエト・ロシアと函館の間の外国貿易の発展に寄与したい」と書いてあった。情報紙でありいわば「ダイジェスト」である。ロシアではこの種の刊行物はさがせなかった。
 1928年は日ソ関係にとって特別な年であった。1月23日、日本とソ連の間で8年の期限で漁業条約が締結された。これを根拠に日本は正式にソビエト領海で漁業を行う権利や、水産資源の捕獲・採取に関する権利を得たのである。この年、ソビエトの漁業組織は、その立場を強化すること、特に国営とコーペラチブ企業を強化することが定められた。
 そしてこの年に、日本語版とロシア語版の「週間函館新聞」の刊行も始まったのである。新聞の編集人は日ソ両国の各々の漁業事情を、両国の漁業組織や企業に紹介することを使命と考えていた。ここでは、この新聞には、日ソ漁業関係、両国の漁業発展がどのように取り上げられたかを分析したい。
 新聞は第一に、太平洋北部における漁業問題に関する日ソの公式文書の承認についてと、モスクワ、ハバロフスク、東京、函館への日ソの官僚の出張についてを掲載した。そして1928年、ソビエト代表団は、漁業条約実現の条件の履行、(1)漁場での労働者の使役、(2)漁区競売、(3)利権にもとづくソビエト領港内での日本の企業の参加、(4)外国貿易拡大についての朝鮮銀行などとの提携、同じくソビエトの漁業機関の発展にかかる前述の銀行の公債の引受について日本に交渉をもちかけたと伝えた。
 新聞はかなり詳細にこの交渉の模様を伝えた。日本人漁業者はすでに借りていた漁区の権利の保持、1928年の条約にもとづく新しくより収益のあがる漁区の人手のために闘ったのであるが、積極的に彼らを支えたのは組合であった。また、新聞はソ連の政策(太平洋北部の水産資源の獲得に、日本の企業が参加することを規制すること、ソビエト国営漁業機関の役割の強化、特にカムチャツカにおける)に反論した。
 新聞は、ソ連の漁獲制限や借区料金の値上げ、新しい漁業法規に関しての日本の漁業者の抗議を詳細に掲載した。漁業会社は、日本政府は外交手段によって自国の漁業者の権利を擁護しなければならないと主張した。
 また新聞は当然ながら、ソ連の初めての蟹工船についても報道した。
 それから、この新聞によって、特に詳しく知ることができるのは、漁業条約によってソビエト極東での活動を積極的に拡大した日魯漁業(株)の動きである。この時点から様々な漁業会社が日魯の傘下に合同していくプロセスが始まった。まさに日魯ははじめて本格的に、カニ・魚缶詰生産を展開させるようになった。日魯は9隻の冷凍船を購入した。新聞は日魯はさかなを冷凍するということで、漁業の近代化をはかったと伝えた。そして樺太で、初めて2,000尾のニシンが冷凍された。そして会社は広く国外市場への缶詰輸出を行っ た。
 日魯にならって、三井は鮭缶詰をアメリカに輸出し、デンビー商会はハンブルグとアントワープに輸出した。ソビエト極東水域では、林兼、八木漁業、小川合名が事業の確立に奮闘していた。
 研究者にとって興味深いことは、新聞に掲載された統計情報である。日ソの缶詰生産、外国市場でのその販売、ソ連領海での日本漁業者による水産物の漁獲量についての資料がある。新聞の資料によって、1920年代、香港は大きな国外市場となり、そこで日本企業が販売した産物の総額は、60万円から70万円に達したことが知られる。
 ほぼどの号でも、函館におけるその週の水産物の市場価格、営業倉庫の水産物の在庫、外貨レートなどが掲載された。
 この「週間函館新聞」は長くは続かず、最後の60号が出されたのは、1929年3月1日であった。

「会報」No.3 1997.5.6 From Russia

私とロシア ―一地方政治家の視座―

2012年4月22日 Posted in 会報

輪島幸雄

 私のロシアヘの想い、アプローチは3段階に分けられるように思う。
 ロシア(勿論、当時は社会主義国の盟主、ソ連といわれていたが)への最初の関心を抱いたのは中学校1年の時だった。トルストイの「復活」を読んだ後の印象からである。その後、社会科に興味を持ち、その関連で読んだ資料から、第二次世界大戦時、ナチの猛攻下のもとでも、レニングラード(現サンクトペテルブルク)市民がエルミタージュ美術館の収蔵作品を戦禍から搬出するため最大限の努力を払ったことを知って、その度合が一層高まったのである。
 従って、その後はいつの日か、「広大なシベリア平原を横断し、ウラル山脈を越え、ヴォルガ・ドン河を渡り、モスクワを経てエルミタージュ美術館のあるレニングラードにたどりつきたい」との願望を抱くに至っていた。
 いわば、この時期が第1段階だったと思っている。
 第2段階は、1984年の最初の訪ロ以来、10回程のほぼ前半の時代である。
 ポイントは、86年7月28日、ゴルバチョフ・ドクトリンを受けて外国人第1号のウラジオストク入りのチャンスを生かし、函館-ウラジオ両市の交流に着眼したことだ。
 その後、この構想推進の母体として函館日ロ親善協会を誕生させ、90年6月にウラジオ・ミッションを新潟に先きがけて派遣することに成功し、91年1月には、3度目のウラジオ訪問で大規模な市民訪問団の受け入れを要請して実現させた。このレールに乗って翌92年夏、函館・ウラジオ両市の妨妹提携が実ったのである。
 また、航空路開設等の懸案事項についても、92年8月イルクーツクで開催された第5回日ロ極東・北海道交流会議において、ロシア極東と北海道を結ぶ直行便の開設を両政府に働きかけようと提案し採択されている。
 こうした横路自治体外交をサポートする動きのなかから、同年11月開催された日ロ2国間航空協議によって、函館-ユジノサハリンスク間の航空路開設が決まったのである。
 ところが、ウラジオヘのアプローチが市・経済界による発想とリーダーシップによるものでなかっただけに、対ユジノ線開設も「地元は無関心・戸惑い」と報道される始末だった。
 従って、このルートの開設がサハリン石油・天然ガス開発関連の後方支援基地誘致等にプラスになるとして歓迎したのは横路知事と私ぐらいだったのではないかと思われる。(95年選挙でも、このテーマを公約として掲げた候補者は私以外なかったことでも明白だからだ)。
 尚、93年の当初予算で対ロシア貿易等の発展を目指し、地域間競争に打ち勝つための施策として貿易振興資金の創設を提案し成立させている。
 第3段楷は、中国東北3省と北朝鮮に視野を広げ、現在、取り組みの最中ということである。
 ウラジオから図們江、清津に至るゴールデン・デルタ地帯の持つ魅力は、このエリアが世界的に残されたニュー・フロンティアであるとの評価から、21世紀の世界の食糧基地・三江平原の開発に対する世界銀行の借款、図們江開発構想に対する国際開発機関のアプローチと関連国際会議の開催、琿春-ザルビノ港間鉄道敷設など、一部のプロジェクトが動き出す状況にあるからである。
 こうしたゴールデン・デルタ地帯の持つ一大ポテンシャルに対する関心と共に、90年4月、函館港のソ連貨物船応接室で聞いたポリメル海運大臣のコメントによって、函館港の持つ地理的有利さに対する再認識と、為政者たるもののヴィジョンの遠大さに感服させられたことである。
 ポリメル大臣は言った。「いま、わが国は経済混乱期にある。が、やがて資源大国であるわが国は貿易相手を太平洋に求めるだろう。その際、われわれに最も魅力ある港は函館港である。それをこの目で確かめるために今朝函館港に入港したのである」と。
 こんな経緯のなかで、この夏、今度は中国側から図們江と琿春開発の状況を視察のため北東アジア経済調査断団に参加したところである。

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「会報」No.2 1996.11.30

ウラジオストクの都市と建物

2012年4月22日 Posted in 会報

玉井哲雄

 ウラジオストクのロシア科学アカデミー極東支部極東諸民族歴史・考古・民族学研究所で開かれた国際会議(内容は会報1号の沢田和彦さんの報告を御覧ください)に、函館日ロ交流史研究会のグループの一員として参加し、念願であったウラジオストクの町を実際に歩いて見ることができました。函館との比較という観点からウラジオストクの都市と建物について見たこと、そして考えたことの一端を簡単に報告させていただきます。
 ウラジオストクは都市としてはかなり大きいのですが、函館西部地区と雰囲気はよく似ているなというのが第一印象です。山が迫った場所にある港湾都市で坂が多いという共通点はよくいわれていますが、広い街路が整然と通されて路面電車が通り、公園のような空地が多くて広々としているという点も忘れてはならないと思いました。これは城下町に代表される日本の都市や、中世以来のヨーロッパの諸都市とは異なった、近代的な開発ないし計画によってできあがった都市としての共通性を示していることになります。
 建物を見ますと、スヴェトランスカヤ通りを中心とする表通りには、どっしりとした煉瓦造で3階以上の建物が並んでいて壮観であり、建築様式としても多彩であることに驚かされました。例えば、中央郵便局は本格的な西洋古典様式で建てられているのに対して、グム百貨店の外観は西洋古典様式を基調としているものの、内部に入るとロシアのビザンチン様式を基礎に、19世紀末に西欧で流行ったアールヌ-ボー様式の飾りが施されているという具合です。これらの多くは革命前の20世紀初め頃に建てられたものですが、革命後の建物にも実に様々な様式があることもわかりました。函館では1921(大正10)年の大火後に建てられた3階建てが連なる銀座街に、西洋古典様式の一つであるバロック様式とみられる装飾がありますが、ウラジオストクに比べればはるかに簡素です。ただ、20世紀に西欧から離れた地に開発された二つの都市の建物に、どのような意味でわざわざ西欧の様式が用いられたのかという問題は比較検討してみる価値がありそうです。
 また表通りから一歩裏手にまわると、かなり古そうな木造建物もかなり残っています。これらは函館の木造建物ともよく似通った雰囲気であり、その様式がウラジオストクという地域独自のものなのか、広くロシアの民俗建物の系譜の中で理解できる様式なのか、函館に特徴的な和洋折衷様式の成り立ちとの比較からも興味深い問題であると思いました。
 ほぼ同時期に、ヨーロッパからみて辺境である場所に建設された港湾都市であるウラジオストクと函館ですが、その建物、そしてその都市景観を丁寧に比較・分析する事によって、二つの都市の特質をよりあきらかにできる手がかりは十分に得られそうな気がしました。次の機会にはもっとじっくりと時間をかけて見たいと考えています。

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「会報」No.2 1996.11.30

発刊の言葉

2012年4月18日 Posted in 会報

函館日口交流史研究会 会長 鈴木旭

 研究会が発足して4年目になりました。これまではシンポジウムや定例研究会の開催が精一杯で、会誌の発行にまで手が回らなかったのが実情です。会員の皆様には当会の活動について、必ずしも充分にお伝えできなかったのではと思います。今年度からは事務局体制も強化され、定期的に「会報」をお届けできることになりました。  先日ウラジヴォストークを訪ねた際に副所長のアフォーニン氏らに、これまでのシンポジウムに止まらず、具体的成果を生み出せる協力関係についてこちらの考え方を伝えました。例えば、「北洋漁業を中心にした日口漁業関係史」や「函館とサハリンの人的・経済的交流の歴史」といったテーマに絞った共同研究、共同出版の実施などについてです。  この申し入れに対して、ラーリン所長から今後の研究交流の具体案として、(1)「ロ日漁業関係史」あるいは「ロ日の政治、経済、文化的諸相について」の共同著作の企画。(2)サハリン関係の歴史では、ヴラジヴォストークの国立極東歴史文書館所蔵史料の利用。(3)両国の国内事情を紹介する公開講座の開設などが提案されています。  経済的な基盤の脆弱な私たちの研究会にとって、このような提案は大変な重荷でありますが、皆さんの知恵を借りながら交流の絆を維持したいと考えています。会報に会の運営についてのご意見をお寄せ下さい。

「会報」No.1 1996.8.21

日口交渉秘話より 追跡!『ディアナ号』の艦載砲

2012年4月18日 Posted in 会報
桑嶋洋一

 遊就館(靖国神社境内 東京)前に、1挺の古砲が展示されている。同館の説明(1995年)によれば、1854年開港を求め来日したロシアのプチャーチン提督の乗艦ディアナ号の艦載砲で、幕末の日ロ交渉の記念物とされている。
 開国交渉は1854年伊豆下田で行われたが、12月23日畿内東海諸国地震に見舞われ、下田は壊滅状態となりディアナ号も損傷を受けた。結果的にディアナ号は沈没し、代船が隣村戸田で造船され、プチャーチンは新造船を「戸田号」と名付け、ディアナ搭載砲8挺を搭載し残りの52挺を下田に預けて帰国した。1856年11月8日開国交渉批准交換が下田で行われたが、ロシア政府は下田・戸田両村民が震災で大被害を受けたにも関わらず献身的にロシアを援助してくれたお礼として、日本に52挺のデイアナ砲を寄贈した。
 一方箱館奉行は、北方警備の拠点として五稜郭と弁天岬台場を完成させたが、配備する砲が無くディアナの30斤砲24挺を幕府に要求した。しかし、日本が寄贈を受けた30斤砲は18挺だったため別性能砲が追加されたらしい。また榎本艦隊の回天丸は、幾挺かを江戸で搭載し箱館海戦で弁天岬台場付近に沈没した。戦後、沈没海域から回天丸砲として4挺が引き揚げられ、1910年函館区から2挺が遊就館に寄贈された。その1挺が現存砲である。
 現存砲にはイギリス女王のマークが鋳刻され、ディアナ砲では無い事が分かった。ディアナ砲には帝政ロシアのマークが鋳刻されていたからだ。現存砲はイギリス女王の旗艦の艦載砲で、同艦はイギリスから幕府に献上され、箱館戦争の時蟠龍号と名を変え榎本軍に参加し回天丸の近くに沈んだ。両艦の大砲は海底に散乱し、回天砲を引き揚げた時蟠龍砲が混じったと推測される。また、榎本軍は10挺を函館から室蘭に移設したと言われているが、確認出来たすべてのディアナ砲は太平洋戦時中に金属回収で消滅した。
 いま認識されている「北方領土」の境界は、ディアナ号来日で決められた。日本に寄贈された52抵の砲は、「今より後両国末永く真実懇にして...人命は勿論什物に於ても損害なかるべし」と両国が確認した、日露通好条約第一条を支える証明品である。(了)

 「会報」No.1 1996.8.21 研究会報告

極東諸民族歴史・考古・民族学研究所の国際会議に参加して

2012年4月18日 Posted in 会報

沢田和彦(埼玉大学)

 1996年6月18日から20日までウラヂヴォストークのロシア科学アカデミー極東支部極東民族歴史・考古・民族学研究所で、研究所の創立25周年と創設者クルシャーノフ氏の生誕75周年を記念する国際学術会議「世界史のコンテキストにおけるロシア極東:過去から未来へ」が開催された。この会議は、第4回目の「函館・ロシア極東交流史シンポジウム」をも兼ねるものである。当日の登録者数は160名(但し重複あり)。ロシア国内ではウラヂヴォストークの研究者が大半を占めたが、これ以外にウスリースク、ハバロフスク、ブラゴヴェシチェンスク、マガダンからも参加者があった。外国からは日本、中国、アメリカ、イギリス、オーストラリアの5カ国から25名が参加した。函館日口交流史研究会のグループは、鈴木旭、榎森進、玉井哲雄、長谷川健二の各氏と筆者の5名である。
 会議初日の午前の部は国内外の来賓の挨拶が続き、鈴木氏が我が研究会を代表してスピーチをされた。次いで2本の講演があった。午後の部は全体会議で、5本の報告が行われた。二日日は、国際関係、歴史、文化、民族・考古学の4セクションに分けて分科会方式で進められた。報告数は73本、使用言語はロシア語である。鈴木氏が「第二次大戦前の日本とロシア・ソ連邦の漁業関係」、榎森氏は「アイヌ民族の過去と現在」、筆者は「B・ピウスツキと東京音楽学校の女流音楽家との交際」というテーマで報告をした。本会議で気づいたことは、まず宗教の再評価、ロシア極東の歴史の見直しと歴史の空白地帯を埋めようとする強い意欲が感じられたこと、そしてロシア人の亡令に関わるテーマが目立ったことである。
 二日日の夜はゴーリキイ劇場で食事とコンサートを楽しむ。食事、ショー、ともに豪華な内容だった。三日目は閉会式、次いで海浜墓地にあるクルシャーノフ氏の墓に詣でた。宿泊場所は、空港から市の中心部のほぼ真ん中に位置するサナトリウム「庭園町(サード・ゴーロド)」だった。このサナトリウムはアムール湾の北東端に面し、環境の良さと海底の泥を体に塗る療法で有名である。中心部まで26キロ、毎日バスで片道小一時間は面倒に思えたが、白夜の時期の広大な園内の散策は、草木の緑が鮮やかで心を和ませてくれた。

「会報」No.1 1996.8.21 国際会議報告