朝日新聞が吉田調書を探り出し、インターネットに順次掲載している。しかし、国会事故調にかかわった人たちは、それどころではない資料が国会事故調の収集した資料にはあったという。電事連の会議録や安全規制のルール作りに関する班目氏の発言やさまざま、もろもろだそうだ。
イーベイ創業者ピエール・オミダイア氏が立ち上げたメディアカンパニー「First Look Media」。これまで何度かお伝えしてきましたが、NSAの盗聴活動の実態に迫る「The Intercept」は、丁寧かつ独自ソースをもとに、継続的に公益のために報道を続けています。
保育・子育て支援関係者以外興味の無い内容かと思いますが、備忘録として。今日、実は日本の保育政策の60数年ぶりの大改革となる子ども子育て新制度の公定価格(補助額)仮単価という大きな山が取りまとまりました。ここまでの自分の動きの総括代わりに、雑感を。満足度として50%、政策提言実現度も5割と言ったところ。まず実現できた成果から。
『ネットの闇』はすでに使い古されたフレーズになりました。なぜならネットに闇がるのは当たり前のこととして定着したからです。
オークションの「イーベイ」はグーグルでの順位を大幅に下げ、出版社の「アシェット」はアマゾンから〝締め上げ〟を受け、そしてフェイスブックがメディアに逆上する――。
シリーズ「美味しんぼと“三国鼎立”」最終回です。できましたら、私の立場・背景・考え方に目を通していただけるとありがたいです。最後となる本記事では「エピローグ」と題しまして、「美味しんぼ 福島の真実編」をマンガ作品として評価したいと思います。なお、「引用」は著作権法で認められた正当な行為であるということを申し添えておきます。
3月中旬に4回目のジブチ派遣を無事に終え、本拠地のニューヨークへ戻りましたが、すぐに帰国。慣れない日本語での年度末報告書作成や精算などの作業は、過酷なジブチでの生活よりも、私にとっては大変だったかもしれません。
この数カ月、子育てについて考えてきた。いろんな問題があるのだけど、これまで日本で常識とされてきた考え方や習慣と、子育てが相いれない側面がある気がする。
15年ぶりに大相撲夏場所の満員札止めが合わせて6回になった、とNHKニュースが報じた。東京新聞は5月1日夕刊で、横綱らが子どもを抱っこする、遠藤の"お姫様抱っこ"パネルを設ける、ニコニコ超会議3で「大相撲超会議場所」を開催した、などといった日本相撲協会の人気回復策を報道している。
スマホは便利で良いのですが、スマホには出来ないこともあります。たとえば新聞を広げて(あ、今日はこの記事が一面のトップに来ているな)とか(なぜこの新聞だけあの事件の扱いが小さいのだろう)と感じることは、スマホでは出来ません。スマホは視野狭窄的で、大局観を掴みにくいのです。
租税とは「国家や地方公共団体がその経費をまかなうために、法律に基づき国民から強制的にとりたてる金銭」(学研国語辞典)とされる。歴史的に、租税は大きな争いの原因となってきた。
先日、境治さんが「日本版1周年にあたりハフィントンポストに期待すること」というブログ記事をお書きになっていた。ハフィントンポストで読ませていただき、私も一言と思い、まねをして(!)書いてみようと思う。
表現の自由がなくなった社会など僕はとても耐えきれないほど息苦しくて嫌ですが、表現の自由が完全に許された世界は、声が大きい人に、声の小さく気が優しくいつも遠慮をするような人たちが押しのけられていく世界でもあります。
テレビ広告の市場規模はなぜ縮小傾向になってしまっているのか。その要因は、インターネット広告への広告費のシフトと考えるのが妥当だが、そこで重要なのは「なぜネット広告が選ばれるのか」ということだ。
対談では、小室さんが提案する画期的なワーク・ライフバランスの改善法をじっくり伺いたいと思いますが、ぜひ、この機会に読者の皆様からの質問にも小室さんに答えていただこうと思います。
先日、8月11日を「山の日」とする祝日法改正案が衆議院本会議で可決された。今国会中に成立見込みで、2016年から実施される見通しだ。この記事を読んで、祝日の意義とその数について考えてみた。
有山輝雄東京経済大学教授「情報覇権と帝国日本」。本書は、通信設備と通信社の整備の両面を同格に追います。インフラとコンテンツ、ハードとソフトの両面にわたる輸入、整備、自立、進出の夢。電気通信の普及と帝国主義・覇権主義との深い関わりを描く大著です。
オバマ大統領との首脳会談を受け、安倍総理はTPP(環太平洋経済連携協定)の早期妥結を指示しましたが日米協議は合意に至りませんでした。貿易自由化で既得権を奪われるひとたちが自民党の支持基盤になっているためでしょう。
私事で恐縮だが、最近古くからの友人に相談があるという理由で食事に招待された。面倒臭い話は正直余り好むところではないが、そうかといって無下にも出来ず、結局会って話を聞いて来た。
少し前に読んだMediumの記事が、こころにひっかかっているので簡単に紹介したい。現在、インターネットがメディアのありようを激しく変えている最中だが、かつて自動車産業が勃興したときも同じような状況だった。自動車が作られたはじめたとき、馬車の時代であって、快適な道は少なく、ガソリンスタンドがあるわけでもなく、自動車の未来が来ることは誰の目にも明白だったけれど、それがいつ実現するのかはわからなかった。
そういえば、恋愛相談のたぐいで「自分に合わせてくれそうな相手」「自分を受け入れてくれそうな相手」を探しましょう的な文面を見かけるたびに、何かおかしいというか、違和感を覚えていたけれど、やっと言語化できそうなのでメモっておく。「自分に合わせてくれそうな相手」や「自分を受け入れてくれそうな相手」を探す発想は、探すという点では能動的だ。でも、いざ付き合い始める段になった時に能動的にならなきゃいけないのは、相手のほうであって自分ではない――そこのところは受動的だ。