【今週はこれを読め! SF編】神学と妄想との捩れ、逡巡する物語、螺旋状に深化する思索

文=牧眞司

ヴァリス〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫 SF テ 1-25)
『ヴァリス〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫 SF テ 1-25)』
フィリップ・K・ディック
早川書房
1,015円(税込)
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 カルト的支持も一部にあるディック晩年の問題作『ヴァリス』が新訳された。大瀧啓裕の手による旧訳にくらべ、こんかいの山形浩生訳は語り手「ぼく」の言葉づかいがずいぶんくだけており、ところどころにユーモアや皮肉がにじむ。

 たとえば、〔前に精神科医に、治るには二つのことをしなきゃいけないよ、と言われた。ヤクをやめること(やめてなかった)、そして人を助けようとするのをやめること(いまでも人を助けようとしていた)〕といった具合。

 喋り言葉の勢いもよく活かされている。〔これに対してぼくは個人的にこう言いたくてたまらない。ファット、そりゃテメーの話だろ、と〕

 後者の引用で「ぼく」がツッこんでいる相手(ファット)とは、じつは「ぼく自身」だ。『ヴァリス』は自伝的作品だが、"必要不可欠な客観性を得るべく"三人称の主人公ホースラヴァー・ファットが設定されている。しかし、その"客観性"を宣しているのは「ぼく」自身なのだから、あまりアテにならない。

 全篇を通して受けるのは、むしろ逆の印象だ。つまり、主人公ファットの強烈な経験と思惟を表現するため、クッションのように中立的な語り手(ディック)が配置されている。ただし、それは語りの方便にとどまらない。ディックの小説(とくに長篇SF)はたいてい何かが過剰なのだが、この作品では主人公と語り手の二重性があまりに過剰だ。ファットとディックがはっきりと分裂し、別々の観点を持っている。ファット、ディック、実在の友人ケヴィン(K・W・ジーターがモデル)、同じくデヴィッド(こちらはティム・パワーズ)の四人で議論をする場面さえある。しかも何度も繰り返し。この四人は、自らのグループをリピドン協会と標榜する。

 さらにややこしいことに、ファットのなかに別な人格(トマス)が入りこむ。古代ローマが1974年のカリフォルニアに投影され、ふたつの時空連続体にいるふたつの人格が重なりあう。ファット/トマスは古代ギリシャ語で考え、それを書きとめる。その文面はファットの妻によって確認されている。

『ヴァリス』は原書初刊(1981年)がSFレーベルで出版され、日本でもずっとSFとして扱われてきた(邦訳は大瀧訳がサンリオSF文庫→創元推理文庫SFマーク、こんかいの山形訳がハヤカワ文庫SF)。外形的なSFらしさは上述した時空連続体の融合のほか、ファットに神秘的啓示をもたらすピンクの光線や「宇宙は情報でできている」理論などで、いちおう担保されている。これらはSFのアイデアであり、そこにディックなりの神学(あるいは宇宙論)が託されている。だが、描かれているすべてがファットの脳内の出来事だとしたら、まったく意味が変わってくるだろう。派手なばかりのパラノイアにすぎない。

 深遠な神学か? まわりくどい妄想か?

 読者にとっての手がかりは作品に記された言葉だけなので、どちらとも断定できない。そうした決定不能な「表/裏」の構図はディックの十八番で、それ以前の作品では「現実/虚構」「本物/偽物」「オリジナル/シミュラクラ」などが描かれてきた。「神学/妄想」もはそのヴァリエーションとも言える。しかし『ヴァリス』が新鮮なのは、「表/裏」の位相が奇妙に捻れているところだ。

 ファットは狂っている(=妄想)。だが、その狂気ゆえに、宇宙そのものが狂っていると知ることができる(=神学)。

 この捩れがトルクのように、物語をぐるぐると巡らせる。とくに作品の前半部がそうで、(1)ファットの神秘体験、(2)彼の身近な人たちに降りかかる不幸、(3)それらが惹起する神学論議----が、螺旋のごとく繰り返し(いくぶん取りとめなく)語られる。

 作品後半で、それがふいに転調する。きっかけはエリック・ランプトンというロックスターが製作したSF映画『ヴァリス』だ。この映画はファットの神秘体験との符合があまりに多すぎる。ランプトンもピンクの光線による啓示を得たのか?

 リピドン協会の四人(ファット、ディック、ケヴィン、デヴィッド)はランプトンに連絡をつけ、カリフォルニア州ソノマの農場邸宅を訪れる。そこで一行が出会ったのは、救済者ソフィアだった。ソフィアは二歳になるランプトンの娘だが、彼の血は引いていない。ランプトンの妻リンダが産んだが、父親は超越的存在ヴァリスなのだ(と、ランプトンは主張する)。ヴァリスは映画のなかでは古代から存在する人工衛星(巨大活性諜報生命体システム)として可視化されるが、ファットの脳にピンクの光線で啓示をもたらした発信源(ファットはシマウマと呼んでいる)と同一だ。狂った宇宙に理性(ロゴス)をもたらす存在。ソフィアと対面することで、ファットとディックは一体になる。

 しかし、それで大団円にならないのだから、この小説はどこまでも屈折している(だから面白いとも言える)。ソフィアはきわめて聡明なのに、彼女を取り囲む者たち(ランプトン夫妻と音楽家ブレント・ミニ)は狂っている。しかも、その狂気はファットのそれよりも過激だ。じつのところ、映画『ヴァリス』からソフィアの登場までのあいだも「神学/妄想」の捩れは解消されることなく、物語の奥に沈潜していたのである。

 不真面目なぼく(ディックではなく牧)はそこまで読んできて、宇宙を統べる神学もファットが拘泥する妄想も「いいかげんどうでもいいよ」って気分になるのだが、なに心配はいらない。それを相対化するまなざしも、この作品は内在している。とりわけ顕著なのが、リピドン協会のひとりケヴィンの冷笑的な言動だ。彼の持ちネタは、最後の審判の日の質問。大審問官の前に引きだされたら、おれは上着からクルマに轢かれたネコをさっと取りだし、「こいつはどう説明してくれるんだ?」と言ってやる。神様はなぜネコが飛びだすの止めてくれなかったのか。審判の日までには、ネコはフライパン並に硬直しているはずだから、その尻尾を取っ手にして掲げるのだ。このフライパン化したネコの感じが、なんともいい。

(牧眞司)

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